「市ヶ谷台」探訪                              2008-7-20 


2008-7-1(火)散歩会

■7月1日は会社の創立記念日で半ドン、ということで、その午後を利用して今までも近場の探訪を行っていた。今回は、以前から行きたいと思いながら、平日でなければできない、現防衛省の見学を申し込んだ。会員諸兄はそれぞれの歴史観を持っているはずだが、あえて「防衛省」→「千鳥ケ淵墓苑」→「靖国神社」→「九段下」→「神楽坂」とした。兵さんは九段高校出身だし、PinbokeはT理科大の九段校舎で非常勤講師をしているという土地カンによるコース設定である。たまたまこの日はPinbokeの講義のある日で、午前中に九段で講義してから、待ち合わせ場所の防衛省正門に徒歩で向かった。
■防衛省の見学コースは、国の防衛活動に関する一般の理解を得るために設けられたのだろうが、そこは国家の枢要な機密地域である。申し込みや本人確認を厳しくやるのは当たり前だろう。全般として、非常に親切かつ説明も丁寧で、日本の現代史を客観的に知る(思想でなく、事物から各人が歴史を感じ取る)という意味で、有意義な見学であった。
 申し込みは以下から
市ヶ谷台ツアーのご案内 http://www.mod.go.jp/j/events/ichigaya/tour/

■今回の写真は兵さんのSONY αによる。(モノクロはPinbokeによる)

■上の写真(左)は、昭和12年旧陸軍士官学校本部として建築され、戦時中は大本営陸軍部や参謀本部が置かれ、戦後は昭和21年5月に極東国際軍事裁判の法廷として利用され、その後は米極東軍事司令部として使用され、返還後は陸上自衛隊等が使用していたという歴史的建造物(一号館)である。現在は「市ヶ谷記念館」として防衛省大臣官房広報課記念館係によって管理運営されている。
 下右に引用したのは、三島由紀夫がこの建物のバルコニーから演説している写真(共同より引用)である。戦後昭和史の中でも最も衝撃的な事件の一つであったろう。

■よく見ると、細部が異なる。市ヶ谷記念館として復元するときに、思い切った縮小工事を行っている。旧一号館の巨大な構造の正面玄関部分と大講堂とご便殿をうまい具合に接合した。全体は3階建だったのが、2階建になり、塔部も半分ほどの高さになっている。よって外観はミニュチアだが、講堂や居室は、往時そのままに復元されている。東京のような狭隘な土地に歴史的建造物を残す方法としては、現実的な方法だろう。安藤忠雄氏の表参道ヒルズも、その一番ハジに、旧同潤会アパートがへばり付くように保存されている。無くしてしまうより、はるかに良い。
■昭和45年11月25日、三島と盾の会メンバ4人は、面会中の陸上自衛隊東部方面益田総監を、その総監室で人質に取って籠城する。それがバルコニー後方の部屋であり、旧陸軍大臣室でもある。その時三島は名刀関の孫六を持参していて、突入した幕僚らに刀を振るったとされ、その刀キズがとびらに残っている。左の写真がそれだが、刀の背の部分が当たったものであろう。その後、上の写真のように自衛隊員に対して決起の檄演説を行ったのち、自決する。

■安田講堂事件は前年1月であった。70年安保の学生運動は敗北疲弊の中からセクトの鬱屈した内部紛争に姿を変え、一般学生は教室に戻っていった。私は工学部4年の研究室でその三島のニュース第一報をラジオで聞いた。

■下の大講堂はその正面に天皇が臨席して、諸式典を行った場所であり、現在は戦前・戦中の軍関連資料が展示されている。この講堂は極東軍事裁判の判廷となったことで有名である。写真の左側に裁判官が座り、右側に被告側が座った。
<右写真引用>http://image.blog.livedoor.jp/tmatsu0405/imgs/a/3/a346d359.jpg

■今回の見学で我々カメラ愛好家の関心を一番呼んだのは、御便殿の間に掲示されていた大きな写真だ。撮影時期や場所をメモし忘れたが、昭和天皇が観閲しての大演習での記念撮影である。前列中央に天皇を囲み、数千人の将兵が写っている。後列の人物の顔が識別できる程解像度が高いことと、強いアオリを利かせて、全体を台形から矩形状に戻しているのが特徴である。当時のガラス乾板の感度は不明であるが、よほど絞らないと、ピントが出ないし、それにしても見事なピントだ。聞けば、プリントと同一サイズの特別乾板で組立暗箱撮影したとのこと。巨大な密着プリントであった。右は我々世代でも判別可能な山本五十六(当時の肩書は分らない)の写っているいる部分を拡大した。







 
市ヶ谷駅「釣り堀とホーム」
Pinboke 新購入のRocoh GR1sによる



【かめさん会】