もう乗ることのできない廃線区
【廃線紀行】
(2004-2-3より)


一般の建築物が取り壊されれば跡形もなくなる。そこに何があったかは忘れ去られる。
ところが、鉄道は細長くのびている。辺鄙な地域へと分け入っている。だから廃線跡が消滅することはまずない。
かくして廃線跡の探訪は、史跡めぐりと考古学とを合わせたような世界になる。
それは、消滅した鉄道を回顧する次元をこえて、現存の鉄道に乗るのと廃線跡をたどるのと、
どっちがおもしろいかという境地に達する。
(宮脇俊三さん定義)


■上の写真は1989年5月1日に撮影した。その前日に廃線になったばかりの天北線のレールには、立ち入り禁止の障害物が取付けられていた。レール上に小さく見える黒いものは、そのレール上を北に向かって歩く若者の後姿である。多分前日には最後の天北線に乗車し、さらに廃線跡を自らの足で確かめようということなのであろうか。わたしにはそこまでの熱意はない。

■一昨日(2004-2-1)横浜のみなとみらい21線が開業したが、その前々日に東横線の横浜/桜木町間が廃線となった。とくに途中駅である高島町駅が閉鎖となることは、首都圏では珍しい話である。今日、この廃線区と平行して走る京浜東北線に乗車した。たった数日で東横線のレールは茶色に錆びていた。

レールをはがされた羽幌線の路床(1989-4-30)  廃線翌日の天北線浅芽野駅(1989-5-1)


私の廃線紀行
    ■日中線・廃線跡<1998年> (2004-2-21)
奥羽本線も廃線?<1992年> (2004-3-27)
猪谷駅の神岡線レール跡<2008年> (2009-1-2)



■一体どれだけが廃線になってしまったのか調べてみた。宮脇俊三が実際に乗車していた年代、1980年に発行された「チャレンジ20,000km」のチェックボード242線区を基準とする。下の数字は厳密な営業キロ数ではなく、「チャレンジ20,000km」の数字からの引算である。数回検算を行ったので、間違えは少ないとは思うが、あくまで個人的関心に基づくキロ数であるので、公的に認知された値ではない。第3セクターによって経営が引き継がれた線区は廃線には含めない。
 下の朝日新聞切り抜き(1981-3-1)では昭和60年までに78線、約3100kmの廃止が決定されたが、なんとか1000km強度が第3セクタとして生き残ったことになる。

線区数 合計距離数 線区名
1980-3-15時点 242線区 20743.8km
全区間廃線区 47線区 1907.0km
支線廃線区 5支線 相模線(寒川−西寒川),福知山線(塚口−尼崎港),函館本線(砂川−上砂川),
播但線(姫路−飾磨港),美祢線(南大嶺−大嶺)
部分廃線区 5線区 七尾線(穴水−輪島),越後線(東三条−越後長沢),信越線(横川−軽井沢)
博多−姪浜(筑肥線),可部線(可部−三段峡)





【宮脇俊三的生き方】