ヨーロッパ激動の100年(1851年〜1950年) |
英米仏・全般 | ドイツ | ロシア | |
1851年 | |||
1852年 | |||
1853年 | ■<53年〜56年>クリミヤ戦争(00) ■浦賀にペリー来航(00) |
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1854年 | |||
1855年 | |||
1856年 | ■<56年〜60年>アロー号事件をきっかけに第二次アヘン戦争(00) | ||
1857年 | |||
1858年 | ■ | ||
1859年 | |||
1860年 | |||
1861年 | ■<3月>ヴィットリオ・エマヌエレ2世によってヴェネツィアと教皇領を除いてイタリアが統一され、イタリア王国が成立。(00) ■<61年〜65年>南北戦争(00) |
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1862年 | |||
1863年 | |||
1864年 | ■<64年〜76年>第1インターナショナル(00) ■ジュネーブ条約でアンリ・デュナンが提唱する万国赤十字同盟が設立。(00) |
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1865年 | |||
1866年 | |||
1867年 | |||
1868年 | |||
1869年 | |||
1870年 | ■<70年〜71年>普仏戦争 スペイン王位継承問題をきっかけにナポレオン3世がプロイセンに宣戦布告。(00) ■セダン要塞でナポレオン3世が捕虜となり、フランス第二帝政は崩壊。 |
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1871年 | ■<1月>ビスマルクはヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の戴冠式を行う。(00) <3月>パリ・コミューン結成。(00) ■<5月>フランクフルト講和条約で普仏戦争の講和。アルザス・ロレーヌをドイツに割譲。(00) |
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1872年 | |||
1873年 | |||
1874年 | |||
1875年 | |||
1876年 | |||
1877年 | ■<77年〜78年>露土戦争 | ||
1878年 | |||
1879年 | |||
1880年 | |||
1881年 | |||
1882年 | |||
1883年 | |||
1884年 | |||
1885年 | |||
1886年 | |||
1887年 | |||
1888年 | |||
1889年 | ■<89年〜1914年>第2インターナショナル(00) | (H1)4/20税関吏アロイス・ヒトラーの子としてアドルフがブラウナウ・アム・インにて誕生。 | |
1890年 | |||
1891年 | |||
1892年 | |||
1893年 | |||
1894年 | ■<94年〜95年>日清戦争(00) | ||
1895年 | |||
1896年 | |||
1897年 | |||
1898年 | |||
1899年 | ■ニコライ二世の提唱で第1回ハーグ国際平和会議を開催。陸戦条規として毒ガスの使用を禁止した。(04) ■<10/9>ボーア戦争勃発。(05) |
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1900年 | |||
1901年 | |||
1902年 | |||
1903年 | |||
1904年 | ■<04年〜05年>日露戦争(00) | ||
1905年 | |||
1906年 | |||
1907年 | ■第2回ハーグ国際平和会議を開催。(04) | (H1)AH、ウイーン美術学校受験のためウイーンに上京。 | |
1908年 | |||
1909年 | |||
1910年 | |||
1911年 | ■第一次バルカン戦争。オスマン帝国のバルカンからの撤退。(04) | ||
1912年 | |||
1913年 | ■第二次バルカン戦争。大セルビア主義の拡大。(04) | (H1)<5/24>AHミュンヘンのシュライスハイム街34番地「ポップ洋服店」に間借り。 ■爆薬原料の窒素をハーバーとブッシュの「窒素空中固定法」で国内生産可能とする。(04) |
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1914年 | ■<6/28>19歳のガブリエル・ブリンチブがサラエボ駅頭にて墺皇太子フェルジナンドを暗殺。 ■<7/28>フランツ・ヨーゼフ皇帝が開戦勅書、セルビアとの交戦開始。7/30にはロシアが総動員令、8/1にはドイツも総動員令でロシアに宣戦、第一次世界大戦勃発(04) ■年末までに西部戦線での死傷者はフランス85万人、ドイツ68万人に及んだ。(04) |
■<8/>ドイツ(参謀総長モルトケ)はシェリーフェン計画でベルギー進出による電撃戦勝利をもくろむが、マルヌの戦いでの後退によって膠着、長大な西部戦線での陣地戦となる。(04) ■<8/>東部戦線はヒンデンブルグ−..ルーデンドルフ体制で、「タンネンベルグの戦い」等でロシアの進撃を食い止める。(04) ■<>AHババリア第16予備歩兵連隊に入隊。 |
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1915年 | ■<4/25>悲劇ガルポリ上陸作戦(ANZAC day)トルコの指揮者はケマル・パシャ、連合国の指揮者はチャーチル(04) ■<春>ロシア戦で敗退の続くトルコが域内のアルメニア人を虐待・排除。 |
■<4/22>イープルでドイツ軍は初めて150トンの塩素ガス攻撃。これ以降、双方の毒ガス攻撃は終戦まで続く。 | ■東部戦線でのドイツ軍の攻勢によって、8月にはワルシャワが攻略され、ロシア側の「大退却」、捕虜は100万人に及ぶ。(04) ■<8月>ニコライ2世「全軍総司令官」として前線大本営に着任。(04) |
1916年 | ■<6月>ヴェルダンの北方ソンムで英軍主体の集中進撃を試み、ドイツの縦深陣地によって双方絶大なる損害をこうむる。(04) |
■<2/21>参謀総長ファルケンフアインの「審判」作戦でヴェルダンへの集中攻撃を開始、フランス(ペタン司令官)も頑強に抵抗、両軍大量消耗。(04) | ■<6〜8月>東部戦線広域でのブルシーロフ攻勢。(04) |
1917年 | ■<4/6>アメリカがドイツに宣戦布告。(04) | ■<2/1>無制限潜水艦作戦を発動。 (04) | ■<2/23>2月革命勃発。ニコライ二世退位し、ロマノフ朝の断絶。 ■<10月>10月革命。ケレンスキー内閣が倒れ、ボルシェヴィキが権力を握る。 |
1918年 | ■<5月〜>全世界的なスペイン風邪の流行。戦線での戦死者数に匹敵する規模。(05) ■<11/11>第一次世界大戦休戦調印。(04) |
■<11/3>休戦調印。キール軍港水兵反乱発生。AHは伍長として終戦を迎える。 ■<11/9>ドイツ帝国崩壊。ワイマール共和国体制発足。 |
■<3/3>ブレスト=リトフスク条約でドイツと単独講和。 |
1919年 | ■)6/28ヴェルサイユ条約調印 (仏首相クレマンソー主導) (01) |
■<8/14>ワイマール憲法発布。 ■<9/12>AHドイツ労働者党に入党 |
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1920年 | ■<2/11>ドイツ労働党は「国家社会主義労働者党」(NSDAP)に改名。(H1) | ||
1921年 | ■<8/3>NSDAPに「体育スポーツ局」が設立、後日「SA」(シュトルム・アブタイルング:ナチス突撃隊)と改称。(H1) | ||
1922年 | |||
1923年 | ■<1/11>仏軍ルール地方を占領。(H1) | ■<11/8>「ビュルガーブロイケラー」でミュンヘン蜂起→失敗。(H1) ■<11/11>AHランズベルグ要塞監獄に収監。(H1) ■<11/15>狂乱のインフレの中で一兆分の一に切り下げたレンテンマルク発行。(H1) |
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1924年 | ■<4/1>AH要塞監獄でマイン・カンプを執筆開始。(H1) ■<9/1>ドーズ計画開始。金本位制へ移行。(H1) |
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1925年 | ■<10/16>ロカルノ条約調印。ヨーロッパ大陸の国境を確定し、独仏不可侵を約す。 | ■<4/26>ヒンデンブルグ元帥が大統領就任。 ■<7/18>マイン・カンプ発行。 |
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1926年 | ■<>SAの部門としてヒトラー・ユーゲントが結成。(02) | ||
1927年 | |||
1928年 | ■<9月>フレミングがブドウ球菌培地にアオカビによる阻止円を偶然に 発見、その後のペニシリンの発見に至る。(05) | ||
1929年 | ■<6/7>ヴェルサイユ条約でドイツの一方的戦争責任を規定した第231条は廃棄せず、1988年までの賠償期間を定めたヤング案が合意。 ■<10/24>ブラック・マンデー。 |
■<9/>エバ・ブラウン(17歳)がハインリッヒ・ホフマン美術写真商会に就職。 ■<12/8>ヤング案反対を訴えるナチス党がバイエルン州地方選挙で躍進。(H1) |
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1930年 | ■<9/14>総選挙でナチス党は107議席を獲得し第2党に。第1党は143議席の社会民主党。(H1) | ||
1931年 | |||
1932年 | |||
1933年 | ■<2/28>AH緊急命令「第3帝国への潜在的な反対者を強制収容所に拘禁する」が発せられる。(01) | ||
1934年 | |||
1935年 | |||
1936年 | ■<7/17>フランコ将軍の反乱という形でスペイン内戦が勃発。 | ■<6/17>初代SS隊指導者であったヒムラーが国家警察長官を兼務するようになり、10/1以降、すべての政治警察は秘密国家警察(ゲシュタポ)に統合される。(02) | |
1937年 | ■<4/26>ドイツのハインケル51爆撃機によるゲルニカ爆撃。都市の市民を対象にした無差別攻撃の最初の例となる。 | ||
1938年 | ■<11/10>「クリスタル・ナハト」ドイツ各地でユダヤ人商店やシナゴーグを襲撃破壊される官製暴動。(03) | ||
1939年 | ■<10/中>杉原千畝が領事としてカウナスに着任。(03) | ||
1940年 | ■<5/1>ルドルフ・ヘスがアウシュヴイッツ収容所長として着任。(01) ■<7/31>杉原千畝「キュラソービザ」等に対して日本通過ビザの発給開始。9/1カウナス退去まで。(03) ■<8/>モーリンゲン(ケッチンゲン近く)に「少年保護収容所」が開設、反抗少年を強制収容。(02) |
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1941年 | ■<2/12>感染症の患者にオックスフォード製のペニシリンが初投与されて効果が実証される。(05) | ■<12/6>AH特別命令「夜と霧」(Nacht und Nebel)が発せられる。(01) |
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1942年 | |||
1943年 | ■<8/9>「共同体異分子法」が内務省案が準備される。(02) | ||
1944年 | ■<7/20>「クライザウの会」(フォン・モルトケ伯)によるヒトラー暗殺未遂事件。(02) ■<11/10>エーレンフェルト事件(エーデルヴァイス海賊団による抵抗運動)がケルンのエーレンフェルト駅近くで公開絞首刑に処せられた。(現バルトロメウス・シンク通り)(02) |
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1945年 | |||
1946年 | |||
1947年 | |||
1948年 | |||
1949年 | |||
1950年 | |||
【引用文献】 |