二巡目の道(2012-1-5)
(2012−1−9記述)

−道引大師にて−
宮崎建樹さんが亡くなられた事情

 
道引大師

■2012年1月5日、前日の雪が残る歯長峠を滑りながら下りて、肱川に沿って歩く。おなかが減ってきたので道引大師(どういんだいし)でパンをかじりながら休憩した。下川(しとうがわ)部落に古くから草庵霊場として祀られているが、その創建、由来は詳らかでない。遍路にとっては道案内であるが、地元の人々の間では、願いをかけると、色々導き助けてくれる霊験ありと尊信を集めていると「へんろみち保存協力会編:解説編」にある。
 堂内をお参りさせていただくと、下の写真の新聞切り抜きである。それは亡くなられた宮崎建樹さんの追悼記事であった。
以下に引用する。
 
残念ながら掲載紙と日付は不明。

…四国霊場八十八カ所の遍路道。歩いて巡る「歩き遍路」が今ほど多くなかった約30年前から、2千本以上といわれる道しるべをほとんど一人で設置してきた。次男の世紀さん(41)によると、宮崎さんが始めて遍路道を歩いたのは1979年。肝臓の病気を患ったのがきっかけ。当時の道は雑草が伸び放題、歩き遍路用の地図はなく、標識も少なかった。「迷う人がないように」と松山市で寝具店を営む傍ら活動を始め、やがて「遍路道保存協力会」を立ち上げた。 会員は宮崎さん一人。ボランティアを集め、雑草除去や昔の遍路コースの調査と復元にも取り組んだ。道しるべは木のくいにペンキを塗っていたが、老朽化が早く、園芸用の鉄の棒にプレートをつけるようになった。
 90年には歩き遍路用の地図を始めて掲載したガイドブックを出版。麦わら帽子をかぶり、ロードメジャーで距離を測りながら実際に歩いて作った地図は、霊場間の道のりや宿泊施設の位置が丁寧に記されている。評判を呼び、版を重ねた今ではお遍路さんの「必携品」となっている。四国八十八カ所霊場会本部事務所の淵川法仁さん(56)は「細かく設置された道しるべのおかげで安心して歩けるようになった」と活動をたたえる。
 昨年11月8日、軽ワゴン車で出かけたまま行方不明に。山道で足を滑らせたとみられ、約1カ月後、松山市内の山中で遺体が見つかった。老朽化した道しるの更新、ガイドブックの改訂、やるべきことがまだまだあった。以上といわれる道しるべをほとんど一人継ぎ、協力会は有志が存続させる。生前の口癖は「自分は黒子だから」。宮崎さんがこつこつと設置した道しるべを頼りに、今日もまたお遍路さんが歩いていく。11月17日死去、75歳。…


■この記事が道引大師に奉納されているのは、宮崎さんがわれわれ遍路の導きの人であったという思いではなかったかと推察する。平成の真念と呼ぶべき宮崎さんであるが、これを批判する声は少なからずあった。特に同じように四国遍路を研究したり復興に努力した人々にとってスター宮崎さんの存在は気に入らないようだ。
「あの地図はダメですよ。間違えだらけ。」とか「地図で金儲けをして」という言葉を遍路の道で聞いた。旧遍路道の考証の誤りを指摘する声もあった。このような細部での批判はルサンチマンに過ぎない。
 宮崎さんが亡くなられているのは知っていたが、今回衝撃を受けたのは記事の「…
昨年(2010年)11月8日、軽ワゴン車で出かけたまま行方不明に。山道で足を滑らせたとみられ、約1カ月後、松山市内の山中で遺体が見つかった。」 執念と言うべき壮絶な死に、心よりの感謝と冥福を祈るばかりだ。
 




       
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