サンティアゴにたどり着けなかった事情
(マドリッド事件)


(2007-2-4)

■サンティアゴ巡礼には役に立たない情報であるが、私が2001年冬に実行した「スコットランドのインバネスから」の旅の記録の内、マドリッドで起きた事件についてアップする。以下の文章は、その旅の最中に書いたものそのままである。本来は、鉄道でサンテイアゴ・デ・コンポステーラに行けたはずが、真昼のマドリッドのプラド美術館の近く、衆人環視のなか暴漢に襲われ、旅行を断念した経緯を記録した。この事件のために、単独海外旅行恐怖症、特にスペインに行くなどということは考えることもできなくなってしまったが、何年かかかって、ようやく恐怖心が減少してきて、この文章を読み返すことができるまでに回復した。
 ともかく、この事件を克服しないと、カミノを歩くことなど不可能だ。

帰国だけにしか使うことができない「パスポート」
■事件当日■2001年12月31日(月)
■ともかく、動きが取れない。ホテルで、パスポートの発給を待つしかない。事故に会ってから、まだ3時間。電話をかけまくって、やるべき処置を全部やって、これから、退屈な1週間を送らなければならない。帰国は2日遅れるな。家に電話しても、心配させるだけだから、帰国予定日に電話することにしよう。まず事故の経過を記録しておく。
 昨夜、フランス・スペイン国境のイルン駅から寝台でマドリッド・シャマルティン駅に7:45到着。予定では、昼間セゴビアに遠足して、22:30発のサンティアゴ・デ・コンポステーラ行きの寝台に乗る。早速、駅の発券窓口に並び、申し込むと「本日運休」とのこと。どうも、今日は大晦日のために運休であると言う。しかたなくマドリッドで一泊して、1月1日出発することにした。この列車に乗れていれば、以下の情けない話しはなかったろう……。

■午前12:10頃、地下鉄のアトーチャ駅を出て、人通りの多いレイチェロ公園に沿ってプラド美術館に向かう歩道を一人で歩いていると、暴漢に腕で首を絞め上げられ、そのまま体を持ち上げられた。振り向くと、さらに2人も仲間のようだ。まずいと思い、ポケットの現金を渡そうと手をポケットに入れようとしたところまで記憶がある。後は気を失ってしまったようだ。気がつくと、仰向けに歩道に倒れていて、周りから10数人の歩行者に取り巻かれている。皆が、ワーワーいっているが、スペイン語だから、分からない。ポリス・オフィスは何処だといいっても、皆くびをかしげて、またワーワー言っている。

■午前12:40頃、RENFEのアトーチャ駅に行けば、警察があるだろうと、一人で歩いて、駅に行く。だれも、自分が今しがた暴漢に襲われてたとは思うまい。ドキドキしながら、出来るだけ普通に歩く。喉がからからになっている。駅の係員の何人かの人に聞いて、ようやく広い駅の隅にある交番みたいなところを発見。おまわりさんは全員、私服なので、本当に警官かと疑ってしまう。ともかく、片言で事情を説明。しょうがないなという感じで、特に同情の意を示すことなく、事故証明書に必要事項を記述するように言われる。
 奪われたのはシャツの内側に首から吊ってお腹に隠していた旅行用貴重品袋。これをなくしたらお手上げだ。
    1)パスポート
    2)航空券
    3)トラベラーズ・チェック(500ドル分)
    4)銀行カード
    5)クレジットカード(Aカード)
次はカメラバッグ。せっかく撮影した10本近くのフィルムが戻らない。本当に、これは金で解決できない。残念でならない。
    6)キャノンEOS10(35〜135mmズーム付き)
    7)コンタックスG1(ビオゴン28mm付き)
    8)キャノンオートボーイプリズマ
   10)スペインガイドブック

■残ったのは、分散して持っていた、ズボンの左ポケットのスペインペセタ。右ポケットにいれていたスペインペセタ。靴下の中に入れていた円。さらに最後に命綱として左足のすねに巻いていた隠し袋のクレジットカード(Bカード)とパスポートのコピーと円。
今、数えてみると、
    36,000ペセタ(2万円弱か?)
    32,000円
    20ポンド
    地下鉄の10回回数券(あと7回乗れる)
    ユーレール・パス
しかない。B−カードだけが頼りだ。警察は、淡々と事務処理をする。パスポートの番号を書くために、すねの隠し袋をだすと、おまえはクレバーだと、誉めていただく。何が誉める話しか。警察では30分ほどで、書類ができておしまい。犯人を逮捕しようという意志はまったくない。あれはアラブ人の犯罪であって、スペインが悪い訳ではないという感じか。

■午後1時40分、 地下鉄アトーチャからグランビアまで乗って、ホテル(AROSA)にに帰ってくる。事情を説明し、宿泊の延長をお願いする。サンティアゴ・デ・コンポステーラはもちろん、ヨーロっッパ最南端駅、アルヘシラスに行くことも全て中止。謹慎処分を食らった感じだ。
 午後1時50分 各方面に電話連絡。いつも、旅行の前にしおりを作るのだが、旅行の日程(主として鉄道の乗換え)や、そういう連絡先や、クーポンやチケットのコピーを綴じこんでおくのだけれど、今日はたまたまデイパックにいれていたので、助かった。
この資料が残ったために連絡は容易だ。まずAカードの日本のコールセンターに連絡(日本時間で夜10時くらい)、してカードを使用停止にする。さらにここで銀行の電話番号を教えてもらって、銀行カードも使用停止にする。次は保険会社(AIU)。これはパリのコールセンターで電話代も相手先負担。事情を説明し、事故として登録してもらう。もし体の具合が悪くなったらということで、マドリッドの契約病院(24時間対応)を教えてくれる。親切だが、現物は簿価ですから、高級カメラでも購入から年月が経っていると、それなりの評価になるなどと、現在のこちらの心境からは、どうでもいいことを説明する。ともかく、今はパスポートが欲しい。

■午後2時30分、日本大使館に電話するが、留守番電話になっている。12/29〜1/3まで6日間の正月休みとのこと。休みはあるとは思ったが、休みは日本式なのだな。しかも、土日も休みだから、1/4の金曜日にパスポートの再発行を申請しても、受給は翌週になってしまう。1/7(月)から出社予定だというのに。これから、すくなくとも3日半は、何の手も打つことができず、打ちひしがれた気持ちで、退屈な日を、また金もない日々を、何より恐怖感が強く、町に出られない中、どう過ごすかが、課題。 ということで、持参のパソコンで、これからの惨めな日々を記録でもして、時間つぶしをしようと思う。
 何といっても、これで海外一人旅が禁止されることは必至。これが一番こまった。ほとぼりが冷めるには時間がかかりそうだし、ほとぼりが冷めても、これからは団体旅行だけしか行かせてもらえないな。夢のまた夢のサンチャゴ巡礼徒歩の旅も、本当に夢になってしまった。四国のお遍路さんでもして、再起を図ろうか。なんとか、とぼけたことを書いて、明るく振る舞っているけれど、内心は惨澹たるもの。

■午後7時頃、勇気を出して、ホテルの周りを調査。ガイドブックを取られたので、表通りの徒歩圏で、安全そうなところだけだ。ここはグラン・ビアといって銀座と新宿が一緒になったような通りで、夜は決して安全ではなさそう。ただ今となっては、取られるものは持っていないし、身の安全と、打ち出の小槌であるBカードを守ること。ATMでキャッサシングすれば、50万円は下ろせるのだが、もし運悪く、ATMでカード詰まりでもおこされたことには、最後のカードまで失うことになる。基本は、今ある現金だけで生き抜くことだ。マグドナルドのセット商品は657ペセタ。三越を見つけたが、ロンドンみたいに日本食はやっていないみたい。ホテルのとなりは本屋。これは時間つぶしになるかな。画集と写真集を明日、立ち読みしよう。

■事件翌日■2002年1月1日(火)
■明け方4時頃、目を覚ましたので、日本に電話を掛ける。今年の正月は、妻と長女は実家。長男はスキー。だから実家の方に電話する。のんきな声が返ってくる。取りあえず、新年あけましておめでとうだ。娘はエルメスのバングル(それは何だ)を買ってこいという。いずれにせよ、現在の自分の置かれている事態を説明する訳にはいかない。今日は読書三昧といくしかない。
もって来た文庫本は
  ・渋澤龍彦:ヨーロッパの乳房,河出文庫 (昨日までに読んでしまった)
  ・ロベール・エルツ:右手の優越,ちくま学芸文庫(同上)
  ・田中克彦:チョムスキー,岩波現代文庫
  ・アインシュタイン:相対性理論,岩波文庫
である。しかし一日中ホテルの部屋にいるという訳にもいかない。明るくなってから、外に出るとして、10時出発で15時帰着。この5時間をどうすごすか。やはり、電車に乗っているのが一番安全。何より、貴重なユーレールパスが残っている。これを使って、近場の往復をしよう。セゴビアは片道2時間。トレドは片道1時間半。しかしガイドブックがないので、記憶だけで街歩きというのはつらい。とくにトレドはRENFE駅から、崖の上の街まで上りの徒歩あ3Kmぐらいありそう。セゴビアの駅も町外れだけれど、こっちの方が近かったような記憶がある。今日はまずセゴビアにいって、ローマ人の作った巨大な水道橋を見に行こう。
  【地下鉄 Gran Via---Tribinal---Chamartin 】
  【Madrid Chamartin(10:16)----Segovia(12:04)】

■<さあ傷心旅行のスタートだ>

 傷心旅行であると同時に、小心旅行だな。だって、ビニールの袋(バージン航空がくれた。捨てなくてよかった。)に、トーマスクックの時刻表、手帳、ミネラルウオータ、バナナ(朝食で残した)をぶら下げ、現金は最小限に5000ペセタをズボンの2つのポケットに、予備の10000ペセタを靴下の内側に隠した。だからパソコンはホテルに置いてきたので、電車の中ではメモを取り、これを夜再現している。そもそも、事件にあった翌日、ノコノコ出かけるのは、無防備すぎる、そんなんだから事件に遭うのだと言われそうだ。自分としては、臆病なほど慎重なつもりで、いつも旅行時は脱出用の8mのロープ、エマージェンシー・ブランケットまでもってきているのだ。その臆病さによって、現金とカードを守ったつもりなのだ。しかし、今となるとパスポートを奪われてしまっては、それでもまだまだ不十分であったと反省している。車窓感を書こうしていたのだが、どうしても話しがそっちにいってとしまう。日本から切り離されてしまったという孤立感、考えがどうどうめぐりする。

■<10年ぶりのスペインの景色>
 スペインはちょうど10年前、駆け足で旅行した。その時も夜行を多用したのでバルセロナからマドリッドまでだけが、昼間の列車だった。久々にスペインの景色を車窓に見る。電車は2階建ての最新車両で、郊外通勤電車という感じ。10分も市街を走ると、町外れの丘陵が始まるが、そこは丘の上には最新の高層アパート、谷はスラムというスペインの現代を象徴するような景観であった。自分を襲った若者たちも、このようなスラムに生まれたのだろうか。しばらく原野を走ると郊外住宅地があって、フランスのカルフールがこんなところまで進出している。電車は上りにかかり、みるみるうちにガスが沸いてきて、雨になってきた。山間を谷川に沿ったり、高速道路に沿って走る。その内、また下りになって、天候が回復してくる。2時間弱でセゴビアについた。晴れだ。

■<セゴビア探訪>
 巨大なローマ水道橋だから、すぐ見つかるかとは思っていなかった。たまたま、日本人の家族連れも下りたので、ついていこうと思ったら、さっさとタクシーに乗ってしまった。ヨーロッパの観光地はどこも、案内所が完備している。地球の歩き方などを読むと、まずインフォに行って情報を集めなさいと書いてあるが、これは無理だ。インフォは町の中心地にあることが多く、インフォにたどりつけたとすれば、その時は地理情報は大体頭に入っているからだ。駅の外れに地図が掲示してあり、このおかげで2kmほど歩いて、水道橋に着いた。町なかに忽然と空を二つに切り取るように、長大な石造2層アーチが姿を表わす。セゴビアの町は丘の上だから、そこに山から水を引くには、一旦谷を越えなければならない。その谷全体にローマ人は橋を架けたのだ。現在は長さ500m分ぐらいが残っていて、最大高さは40m程度か。フランスのポン・デュ・ガールが有名で、行ってみたいと思っていたが、それに劣らないすばらしい景観である。日本ではアーチ構造建造物は生まれなかったが、ローマ人がアーチを発明し(?)、それをドームに拡張して、ついに巨大なカテドラルを建築することができるようになる、その基本技術がここにはある。現在のトラス構造がいかにも安直に感じられる力学的に均整の取れた、見飽きないすばらしい構造。
町をあるくと、最初に古いロマネスク教会を見つける。これは3日前に行ったモワサックで見たものと同じ系統だが、ずっと稚拙。町の中央にはカテドラルが、あって、実はこれがすごかった。と言うか、スペインのカテドラルを初めて見たので、スペインではこれが常識なのかもしれない。ゴシックの側廊、身廊が、たくさんのアルコーブに区切られ、その半円形のアルコーブ(窪み)に、それぞれテーマごとに絵画や、彫刻が飾ってある。磔刑図が多い。ご丁寧に絵画の上に実際の十字架を取り付け、そこのイエスの
写実的な彫刻を磔り付けにしているものもある。王の像と思われるものも多い。

【Segovia-------Madrid Chamartin】
14:55 16:50

セゴビア駅で帰りの電車を待っていると、窓口は閉まっているし、出発表示も出ないし、乗ろうとして待っているのが自分と、韓国の若者の2人だけ。15分前ぐらいに、これはおかしい、もしや1/1の祭日運休ではないかと心配しだす。ところが、ホームにはグアダラハラ行きの電車が止まっている。5分くらい前になって、現地の人が数人これに乗り込んだ。たまたまいたプロセグアの警備員に聞くと、これはマドリッド経由グアダラハラ行きだという。くだの韓国人は、さらに遅れて、発車直前に飛び乗ってきた。帰りは2階建てでなかった。テレフンケン製車両だ。ちなみに地下鉄の駆動系はAEG製。

<今日の小遣い帳>
残金 33,500ペセタ

■事件後2日目■2002年1月2日(水)
■今日は、なんとかBカードで現金を下ろそうということで、お出かけは中止。まず町で写真屋を探して、パスポート再発行用の写真を撮ってもらう。じいさん2人でやっている、設備はちゃんとした写場である。マミヤ670(旧モデル)でとってもらった。英語がまったく通じなかったので、しかも明日夕方5時仕上がりだという。間違いなく出来てくるか、まあ五分五分だろう。次にBカードのマドリッド事務所を探すために、それに大使館の位置確認も必要だから、地図を2種購入。このとき、ついにサンチャゴ巡礼の英語版ガイドブックをついに発見。写真も多く、地図も充実しているので、まさにこんな本が欲しかったのだ。

■東京のBカードに電話で聞いたマドリッド事務所は、運よくホテルから徒歩で行けるところだった。東京によれば窓口でキャッシングをしてくれるとのこと。ところが、拒絶され、銀行のATMに行けという。町のATMは外壁型で、とてもこわくて使えない。だからわざわざ事務所まできたのに。いろいろ歩いてロビーにATMを置いてあるダイナース指定銀行でトライ。ところが受け付けてくれない。東京に確認するとシティーバンクなら大丈夫と言う。また出かけて、トライ。でも駄目。こんなことで、ホテルと町を行ったり来たりで、時間がつぶれ15:00ホテルに戻って、今ビールを飲みながら、パソコンを打っている。

■でも今日の収穫はサンチャゴ巡礼の資料をついに見つけたこと。ルートはカミノ・デ・フランス(フランス人の道)が中心だから、AZT氏が欲しがっている情報。よろこばれるだろうが、2冊買う購買力は今ない。それに、もう一つ渋澤龍彦が「ヨーロッパの乳房」で書いている、彼の旅でもっともバロックなものとして9ケ所上げている中で、マドリッド近郊にある「…マドリッドからエル・エスコリアルを通って、少し奥へ入った山中にあるサンタクルス・デル・バーレ・デ・ロス・カイドス(戦没者の谷)これは岩山をくり抜いた洞窟の教会で、ガガたる岩山の上に青銅製の巨大な十字架(高さ125メートル)と、巨大な彫刻群(巨人と牝牛、獅子、鷲)がそそり立っている。今世紀に入ってからの建造物である。」という代物。日本のガイドブックにその記述を見ないが、それと思しき写真を英語版のガイドブックでついに見つけた。まさにエル・エスコリアルの裏山にある感じで、エル・エスコリアルにいければ、たどり着けそう。明後日、パスポートの再発行手続きが順調にいったら、土日に出かけてみたいな。

■<ユーロ狂騒曲>日本人旅行者が、手のひらにコインをいっぱい載せて、店員に必要金額分のコインを受け取ってもらう光景は、よく見る。そんなことをするのは日本人だけだという人がいるが、ユーロが出た昨日以来、何人ものスペイン人が同じことをしている。マグドナルドはユーロ表示一本、ケンタッキーはユーロ・ペセタ併用表示。どっちもペセタは使え、レジもペセタを出すとペセタ表示に変わる。ところがマックはペセタを出してペセタでお釣をくれたが、ケンタッキーはペセタを渡して、ユーロでお釣をくれた。ケンタッキーでは、みな古いペセタコインを使い切ろうというので、小額のコインを大量に出す人もいたり、面白い。いまのところ、ユーロ発行はお祭りで、特に問題は起きていないようだ。町ではユーロをみせびらかす人、子供にユーロコインを上げたりと楽しんでいる。今日の銀行の両替窓口は長蛇の列。CNNもこればっかり、繰り返し放映している。ただ、ペセタとユーロの為替相場というのは、当たり前だけどまだ生きている。だけど、これは売り買いで、売りが多ければ下がるが、これからユーロを売って、ペセタを買う人がいるとも思えず、基本的にはペセタは今、猛烈に売られている訳だから、(これは他の11ケ国も同じ)ペセタは下がってしかるべき。でもそうでもなさそう。どういうメカニズムになっているのだろう。

<今日の小遣い帳>
残金 27,100ペセタ
15000ペセタを残せば、空港までタクシーに余裕を持って乗れる。ということはこれから4日を1日3000ペセタで暮らさなければならない。さらに日本円30000円とBカードが押さえにある。

■事件後3日目■2002年1月3日(木)
■(6:00)<早朝の一仕事>
 今日は朝5時に目をさました。昨日はBカードでついに、現金を手にすることができなかったので、Aカード(これは奪われた方)でトライする。まず、東京のAカードに電話する。電話するとコレクトコールの番号を教えてくれるので、それで掛け直す。現地の銀行に送金するサービス(2日くらいかかる)、緊急カードを再発行するサービス(3〜4日かかる)があるとのこと。1000ドルの送金を申し込む。二三、電話のやり取りを行い、向うで、送金先として、ホテルもよりの銀行支店を探して、また連絡するとのこと。2〜3時間待機するよう指示。今日は、マドリッドを脱出してトレドへ行こうと思っていたが、中止するしかないかな。残っていたインスタント味噌汁(これを食べたら、ついに残り1回分)を、すする。こんなものでも、十分おいしい。ほっとする。あと残ってるのは、おしるこ1杯、緑茶ティーバック5ケだけ。うめぼしも、せんべいも残ってない。もともと、洋食はにがて(たまにおいしいものを食べる場合は別だけれど)なので、ホテルの朝食にそろそろうんざり、コーンフレークとバナナとリンゴだけはまだ、のどを通る。何故、ヨーロッパの食い物はみなパサパサしているのだろう。ミネラル・ウオータで流し込むしくみだろうか。ヨーロッパ人の喉は乾燥になれているのだろう。

■<マドリッドの住所付与方法>
昨日、探したBカードのマドリッド事務所の住所はALCARA 21,planta7であると東京が教えてくれた。地図の索引コードで調べると、ALCARAが見つかる。グランビア通りと交差する通りだ。ヨーロッパの地番は、大通りの名、それに交差する通りの名で、ポイントを指定し、後は、大通り側からその通りに沿って若い番号順に番地が付与されることが多い。ただしALCARA通りは長大なので、それにも番号を付け、それに交差するplanta通りを見つければいいと考えた。小一時間、2つの地図を細かく見ていったが、ついに分からずギブアップ。ホテルのフロントに地図を持っていって教えてもらう。もっと、ずっと簡単だった。ALCARA通りは、プエタ・デル・ソルの広場から始まるので、そこから1番地が左側、2番地が右側と付与される。すなわち、ソルの広場からALCARA通りの左歩道を歩いていけば、100メートル以内。ではplanta7は何かというと、通りではなく7階という意味だった。マドリッドはあまり高いビルがないので、これは探しやすい。これで大使館の場所も特定できる。
 2時間半後、Aカードより、折り返しの電話。明日1月4日の営業開始時間には、送金しておくとのこと。昨日いったBカードの住所と近い。ちゃんとホテルの近くを指定してくれている。たいしたものだ。
Banco Bilbao Vizcaya

■【Madrid Chamartin------Toledo 】99KM
      10:14         11:30
 ということで、結局トレド行きの電車に乗る。今日のマドリッドは結構強い雨が降っている。郊外にでれば、晴れるだろうという予測。一昨日のセゴビアはマドリッドの北方、今日のトレドは南方に当たる。トレドはどうしても行きたい街という訳ではないが、エル・グレコの町である。エル・グレコの絵なら腐るほどプラド美術館にあるけれど、事件後とあって、プラドに行くのは避けている。それなら、ちょっとトレドにエル・グレコを見に行こうか。
 この旅行で初めて隣に人が座った。さすがトレドは観光地だ。検札時に自分がユーレール・パスを出すと、その隣のおじさんもユーレール・パスを出す。思わず、顔を見合わせて、話しだす。カナダ人であるが、出身はザグレブ(クロアチア)、奥さんがマドリッド出身で、今日はマドリッドの親戚の案内でトレド観光とのこと。会社を定年して、奥さんとともにユーレール・パスで、最初は自分のふるさとザグレブに行って、鉄道でマドリッドまで来たとのこと。最後はカナリア諸島にこいく。いい旅行だ。こういう事件を起すと、自分の定年旅行に妻が同行を同意するか疑わしい。信用は元々ないが、ゼロがマイナスになったな。

■<予想通りのトレド>
 トレドは晴れだった。トレドというと、川の曲流の内側にある丘の町。写真もよく見るし、何よりグレコの鳥瞰図が有名。だから想像がついてしまうのだが、迷路のような石畳の坂道、無数の土産屋、教会の鐘の音。まったく予想通りだ。こういうのは実につまらない。とは言え、たった3時間の滞在でそういうことをいうのは不遜というものだろう。でもグレコはよかったな。壁画の前の床は、誰かの墓になっている。誰。日本語ガイドブックがないのは、こういうとき困る。土産屋は触手をそそるものが多いが我慢。エル・グレコの絵画館はたった2枚の絵しか展示していない。

【Toledo-------Madrid Atocha 】
  14:25        15:35
 帰りの電車は、一人で車窓を堪能。おとといのセゴビア行きとは違って、平坦な土地を走る。多くは耕地(たぶん小麦)。雨上がりの虹がきれいにかかっている。明日はようやく日本大使館が開く。いったい、いつ日本に帰れることやら、帰りたくないのか。どうにでもしてくれ。

<今日の小遣い帳>
残金 26,400ペセタ
■事件後4日目■2002年1月4日(金)
<アンバシャダ・ジャポンに出陣だ>
EMBAJADA JAPON(SERRANO 109)という紙を見せて、タクシーに乗る。分かっているという顔をしながら、適当に走る。こちらは、マドリッド地図を研究しているから、リュパブリカ・アルヘンチーナ広場からセラーノ通りに入って、500mくらいの右側にあるという当たりをつけているので、タクシーがいいかげんに走るので、気になる。なまじ地理が分からない方がタクシーには安心して(騙されて)乗っていられる。大使館には、事前に電話したが、正月休みで留守電に録音されている情報がたよりだ。それによると本日朝9時半に窓口をオープン。旅券は1日後、遅くとも2日後に受け取れるとのこと。今日は金曜日だから、早くても来週の月曜日でないと、受け取れないというのが、自分の事前の判断。同様な被害を受けた人は少なくないと予想され、早めにいった方がよいだろうと、ホテルからタクシーで大使館に行く。オープン5分前に到着。そこには、既に3人の方々が待っていた。彼らと少し話しをすると事情が違う。まず即日受給してもらえるという。どうも、彼らは、留守電が指定していた、怪我等の緊急の場合に、掛けるように指示されている電話番号に怪我もしてないのに連絡しているのだ。こちらは、ノンキなもので、まず午前中に仕事をすましたら、午後はどうやって時間を過ごそうかと考えていた。どうも他の人は、何もかも奪われていて、そのためにどうにもならず、ありとあらゆるところに電話を掛けまくって、結果として自分より、詳細な情報を得ていたようである。

<被害自慢>
 10時頃には、領事部には10人くらいの人があふれた。12/29〜1/3までの被害者はもっと多いだろう。しかし、話しをしたくだんの3人は、みな似たりよったりの手口で被害に遭っているようである。一人旅の若者は、夜9時プラド美術館の閉館時に正門を出たところを、自分と同じように後ろから首を絞められて、全てを奪われたとのこと。のどの部分が腫れている。中年の一人旅の男性はグランビアで夜間に襲われている。中年の婦人は2人旅だが、2人まとめて襲われ、もう一人の方はケガをしていて、今日はきていない。昼間に衆人環視の中で襲われるという自分のようなケースは少ないようだ。事務官も大胆ですなと言う。みな、自慢している訳ではないが、そう感じられるのが、面白い。アトーチャ駅からプラド美術館までの道にたむろしている外国系の若者の多くは、これを生業としているようである。アラブ、アフリカ系が多いというが、こういう決め付け方自体は人種的偏見になる。ようするに、スペイン人自体は、そんなことをしない。悪いのは移民だという責任回避である。警察も自国民が外国人を襲っているという自覚はない。まあ、一言で言えば、かれらは狩人だな。その狩人に目を付けられた、群れの中で最も低リスクで成果の上げられる弱くて価値ある対象が自分であったということだ。
 こちらにとっては、非常に損害は大きいが、狩人側が得た実質的な利益はこちらが被った損害の数分の一以下ではないか。カードもトラベラーズチェックも使えないし、カメラは高くは売れないし(本当は高いのだぞ)、まあパスポートがどう密売されるかだ。

<これは忙しくなった>
 今日、発給してもらえば、予定通りの日に帰れる。しかし、その為には、帰国便を確定しなければならないとのこと。こちらは、逆に旅券が手に入らないと、帰国日を確定できないと思って、航空会社とは連絡を取っていなかった。ようするに、帰国は遅れるので、FIXの帰国便はパーになって、正規料金を別に支払って帰国しようとしていたのだ。ところが、予定通り帰国できるとなると、話しが変わってきた。大使館では、指定の書類を4枚書く。本人である証拠はないのだが、全てパスポートのコピーで話しは済んだ。どうみても日本人としか見えないしな。運転免許証があれば確実なようだ。被害状況の詳細説明の部分は、例として書かれている表現と、まったく同じだった。「…背後から羽交い締めにされ、バッグを強奪された…」が例文。自分の場合は、事前連絡していなかった為、別室に案内され、窓口係ではなく、少し上の立場の方が親切に対応してくれた。その方が、日本のHISや、マドリッドのHISの電話のダイヤルをしていただき、話しは自分をするというやり取りの結果、ともかく今日の4時前に帰国便が確定し、その券を大使館に持参できれば、本日発給いただくこととなった。それまで6時間しかない。
ちなみに大使館が5時で閉める。

■<4時までに帰国便を確定する>
 連絡のやり取りはホテルが便利なので、急いでホテルに戻る。HISは川崎とマドリッドと連絡を取り合って、手を尽くしている。日本のHISは既に夜。日本の航空会社事務所も閉まってしまって対応が難しいようだ。そこで、予定便を確保していただく方法は厳しいと判断し、こちらから、別便を別途購入することを提案。これで一気に話しが簡単になった。これならマドリッドの事務所だけで対応できる。フランクフルト経由のルフトハンザの空席見つけていただく。600ユーロ弱である。正規料金で帰ることを思えば、非常に安い。これで、帰れる。ホテルからグランビア通りを慎重に歩いて、HISにチケットを受け取りにいく。
 HISのマドリッド事務所は、スペイン広場に面した高層ビルの22階にあって、ひさびさに晴れ上がったマドリットの市街の景色がすばらしかった。市街の先の緑の森が広がり、さらにその先は、原野だ。係りの日本女性もとても親切に対応してくれた。

<帰国証明書を拝領>
 昨日、Aカードにご手数をかけてお願いした1000ドルの現金送金は、時間を見て2回、銀行にいったのだが、ユーロ発行の混雑もあって、これに時間を掛けては大使館が閉まってしまうと判断。Aカードに電話をして、送金の受け取り不能を連絡。そして大使館がひる休みが終わって午後の部が開く3時30分ジャストに再び訪問。厳しい入口チェックも、朝一度来て顔を覚えていただいたらしく、朝よりは簡単。午後は若いお嬢さんが2人来ただけ。話しはせず。25ユーロの手数料を支払って、帰国証明書(帰国のための渡航書という名前)をいただく。有効期間は1/9まで。しかも経由地もフランクフルトに固定されている。ともかく、大使館のみなさん、ありがとうございました。こうやって在外公館の事務官は日夜、日本人の保護のために、些末なことも含めて、ご苦労いただいているのだ。ガンバレ、大使館。大使館に入って、そこに石灯籠(くだらないがマドリッドの守護聖人はイシドーロだな)を見出すだれで、どれだけほっとすることか。帰国証明書代は25ユーロだった。

■結局、おととい撮影した証明写真は、昨日は出来あがっていなかった。半分予定とおり。別の若い女性が客が猛烈に抗議しているので、店員はそちらへの対応で辟易。こちらもうんざりして帰る。大使館の近くで、朝撮り直しだ。これはその場でもらえた。
それにしても、大使館の往復で乗ったタクシー料金の違うこと。運ちゃんによって倍以上違う。だいたい、たちの悪いのが、妙に馴れ馴れしいじいさん。朝、ホテルのベルマンと話しこんでいたので、信用したのだが、遠回りした結果900ペセタになった上、5000ペセタ紙幣を渡すと、釣りを3300ペセタしかよこさない。それで、彼が唯一知っている英語「ノー・プロブレム」で済んでしまう。一番、まじめなのは、600ペセタ程度で、小銭まで含めて釣りをくれる人。こういう人にはきちんとチップをお渡しする。
 もう一人は猛烈な遠回りをする。こちらは一応ルートが分かっているので、どんどん違う方向に行くので、気が気ではないが、文句を言う訳には行かない。3倍くらいの距離で到着。

<今日の小遣い帳>
残金 12000円
21900ペセタ
120ユーロ
20ポンド

■事件後5日目■2002年1月5日(土)
<最後の日の過ごし方>
帰国の準備は整った。まだ、行ってみたいところはないではないが、今日は自重する。CNNによれば、ギリシャやトルコが大雪だという。こちらは曇りだ。ともかく明日まで、旅券代わりの帰国証明書、ルフトハンザの航空券、Bカード、この3点セットは絶対なくせない。そうなると異常に慎重になる。ホテルの自室の貴重品ボックスは、うまく鍵がかからない。外に身につけて出かけるのもいやだ。部屋のバックパックにしまっておけば、安心。部屋に入るのは、もう顔なじみになったルームキーパのおばちゃんと、ミニバー係のヒゲのおじさんの二人だけだから。しかし、部屋の掃除のときは、部屋を開けっ放しにする。その時、何が起こるかわからない。ということで、朝食後、部屋の掃除をしてもらう間、ホテルのロビーに3点セットを身に付けて、今こうしてパソコンを叩いたり、本を読んだりして午前中を過ごす。レストランの係りのおばちゃんやおじょうさんが、パソコン(東芝のリブレット)を珍しがって、ちょっかいかけにくる。

<サンチャゴ・デ・コンポステラに行けなかった意味>
 結局、この旅では、スタートのイギリスで寝台が満員で、予定の列車に乗れず、さらにクリスマス前後の運休に悩まされて、計画を縮小。後半は、サンチャゴへ行く夜行が正月運休で、やむなくマドリッドに一泊して、翌日出発しようとしていたその昼間、貴重品を奪われ、そのままマドリッドに沈没してはや6日。不思議なほど、撮影した10本のフィルムがないこと、行けなかった、サンチャゴ、ヨーロッパ最南端駅アルヘシラスに対する思いは強くない。要するに不要不急。意味は自分にとってのみあり、だから、行こう、行くまいと自分には、いかようにも合理化できるのである。人は基本的に楽に生きる方向に進化している。すなわち、事実を容認して、それがよいことだと感じることのほうが適応的なのだ。これを自己欺瞞の進化と呼ぶ場合もある。

<中古カメラ屋発見>
 ホテルの近くの写真屋を覗く。毎日、通っていたののに、身を守るのに精一杯で、ウインドーを覗く余裕がなかった。ふつうの新品カメラ屋と思っていたら、そのウインドーの一角に、中古カメラを展示している。小発見。高級品はないが、ツァイス系のスプリングカメラや、その系統の中級品が数は少ないが飾ってある。さらに店に入ると、ガラクタのようなカメラが非売品ということで飾っている。ライカがVa(ボディーのみ)で、67000ペセタ。高くはないが、高輪のマックの無保証の程度の悪いものの方が安いレベル。これはとりあえず、マドリッドにも中古カメラ屋があるという事実を発見したことで納得。これで、ザルツブルグ、パリ、ロンドンに続いて4ケ所目の発見だ。帰国したら、自分のホームページで報告できる。

<ホテルのとなりが本屋でよかった>
 この本屋さんには、お世話になったな。壁面に文学者や画家の肖像や経歴が表示してあって、なかなか文学的な雰囲気のお店。4階建てで、フロア毎にジャンル分けされている。たとえば文学のスペインの代表はセルバンテスとロルカ。美術ではヒエロニモス・ボッシュ(スペインではエル・ボスコと呼ばれる)がダビンチの肖像の隣にならべられているのが、さすが「悦楽の園」の持ち主の国だ。老子はいたが日本人の肖像はなかった。フランスのジャポニズムは、スペインには伝染していない。日本関係の本は見つからなかった。スペイン人は本好き。本屋はいつもすごく混んでいて、みな沢山買う。本はペーパーバックスではなく、立派な装丁のハードカバー本が主で、美術書などは、日本の半値以下で、欲しいものが一杯。二人の若者がカラバッショの豪華本を見ながら、いろいろ議論している。日本に見られる一過性で安直な、話題を追ったお手軽本はない。でも、あまりにも重くなるので我慢。

■スペイン脱出■2002年1月6日(日)
■フライト・スケジュール
 <ルフトハンザ 2581>
      (SPAINAIR-JK125による代行運行)
      マドリッド(バラジャス)ターミナル1   9:50発
      フランクフルト ターミナル1       12:35着
<ルフトハンザ 0710>
      フランクフルト ターミナル1        1:20発
      東京(成田) ターミナル2         8:30着(翌日)
 ともかく、早めに確実に空港に行こうということで、ホテルのシャトルバスを昨日頼んでおいた。6:15の約束に対して、5分以上早く迎えにきた。珍しい。その前のチェックアウト時に支払った金額は書かないで置こう。電話代と、ミニバー代がすごい。伝票が3枚も打ち出された。

■<成田までのチケットが発行された>
 マドリッドのバラジャス空港には6:50分に着いた。10年前に来たはずだが、何の記憶もない。定刻3時間前だ。まずビールで腹ごしらえする。ともかく、こっちはビールがジュースより安い。スペインはサン・ミゲールかMahouだ。ホテルのミニバーでMahouを12本飲んだことになっている。要するに1日2本、6日間、グランビアのHotel Arosaにお世話になったことになるな。ルフトハンザで帰国することになったが、フランクフルトまではSpanairの代行運行。成田までの通しのチケットを作ってもらう。ともかく通路側を確保するために、早めめにきたのだが、その目的は果たした。カウンターの女性は、特製の「帰国のための渡航証書」を見て、ニコリと笑う。そこで「自分のパスポートはスペインにプレゼントしてやったのだ」と言ってあげる。

■マドリッドの空港係員は「帰国のための渡航証書」は見慣れていると思われる。ところが、フランクフルトのトランシットでは、窓口の若い係員が、この見慣れない紙切れを見て悩んでいる。少し手間取る。また成田で入国審査の列に並んで、ようやく窓口にたどり着いたら、別室に行けと言われてしまった。そこには、書類上問題のありそうな外国人が何人かがいた。私が「帰国のための渡航証書」を提出すると、なにやらパソコンでチェックする。私がこの便で成田到着することが、マドリッドの大使館から報告が入っているらしく、あっさり入国できた次第。






サンチャゴ巡礼