巡礼考 (1)…道に還る


(2014-7-30記述)


<引用元>サリアの観光案内所のポスタを撮影した

■今日も歩きながらぼんやり考える。そしてふと言葉の断片が浮かび上がり、それを記憶する。「一人にさえ、なれれば寂しくない、巡礼の道」とか…。宿に入って、それらの言葉をメモしようとすると、ほとんど記憶していないことに気付く。そこで「今日の道は良かった。空よ、雲よ、風よ、」とか、山頭火みたいにつぶやいておしまいにする。そして翌朝になると、満々たる歩く意欲が湧いて来て歩き始め、またぼんやりと歩きながら考えようかと思う。炎天下に出てくる思いは、この登りはいつ終わるだろうか、もう水が少ないので我慢するか、そろそろ村が見えてもいいが、さて今夜は宿に泊まれるだろうか。こんなつまらないことを考えたくないと、昼にビールを余計に飲むと、午後は酩酊歩行となる。眠気がさしてくるので、そんなときは路傍の大きな木が作る日陰の草原に寝転がり、「寝ながらぼんやり考える」実に気持ちよい。木漏れ日が風に揺れて幻影が見えたような気がするが、もう本当に寝入ってしまい、目を覚ましたときに記憶はない。
 手が第二の脳である以上に、足も第二の脳だ。歩いていると、目だけでなく全身の神経が刺激を受ける。歩きつかれて疲労が溜まり惰性のように歩いているとき、色々な想念が浮かぶ。昨日も同じことを考えていたな。サンティアゴ巡礼の道は一直線に西に向かうが、自分の堂々巡り的想念は循環的で出口がない。こんなことを毎日繰り返すのが私の巡礼である。

■「旅の比較文明学」(世界思想社(2007))で吉澤五郎は次のように巡礼を定義している。「…日常的な現実の「構造」に付随する人間性の分化と差別の体系が、目的地の高次な「聖なるもの」との接触によって変容し、人間本来の個性にあふれた全体性と平等性を回復する。…(巡礼とは)俗なるものが聖なるものとかかわる「交歓の儀礼」を中心とした、聖化の総合的な行為である。この巡礼体験を通して、特別の恩寵にあずかり、祈願の成就と心身の蘇りが期待される。通常、巡礼行程は、禁欲生活を旨とする往路と復路からなるが、実際はその聞に質的な差異が存在する。まず往路は、聖なるものへの接近として修行にいそしみ、精神的な高揚がつきそう「苦難の道行き」である。他方、復路はその成就による満足感がみなぎる「蘇生の道行き」である。時として、心を許す慰安の旅に移行することも多い。…

■本来サンティアゴ巡礼はカトリック信仰の世界で位置付けられた宗教行動であり、信仰を持たなかったり、他の宗派や、別の宗教を信ずる者は、その恩寵に与かる立場にはない。宗教改革では、個人と神との直接的関係を意義あるものと考えるから教会制度として聖職者の介在する免罪、巡礼による贖猶は偽制であるとして認めない。よって同じクリスティアンであっても、プロテスタントは巡礼を行わない。
 実際サンテイアゴ巡礼道で出会う人の教会での挙動を観察する限り、基本的な動作は身に付けており、自分のようにまともに十字を切ることもできない者は少ない。にも関わらず、教会からは疎外されるにせよ、少なくとも「道」は私を拒まない。
 「現代において」巡礼という行為は、あらかじめ定められた枠組みのなかで、既に確立したルートを逸脱することなく、他人の協力や庇護によって一定の安全を担保されて目的の聖地に辿り着き、また帰ってくるという観光行動である。現代においては「聖地」が宗教的要素から成り立っている必要もない。広告によって話題になれば、何処でも聖地になる。そんな中で、サンティアゴもご他聞にもれず、聖遺物の宣伝効果で、千年以上も人々を、その道に引きつけてきた。すでに、そのヤコブ伝承が偽書に基づく等の議論は棚上げされ、さらに脚色された伝承とそれに基づく多くの奇跡譚の方が広く流布し、ついには世界遺産ということになって、寛容にも宗教の如何を問わず巡礼という名の観光客として受け入れるようになっている。

■若者に対して、「部屋にこもってゲームばかりしていないで、外に出よ。いっそ巡礼にでて、やり直せ」などと言う人もいる。一部の企業でまたやっているような精神教育も同じような発想だ。しかし私にとって巡礼というのは、コンピュータ画面の中のロール・プレイイング・ゲームとほとんど同じだ。最初は何の能力や知識のないか弱い人間として冒険の旅にでて、出会う障害から力や武器を得て、仲間を増やしながら旅を進め、最終的には目的を達成することによって、人格的・能力的にスケールアップした人間に生まれ変わる。巡礼行も、まさに巡礼者という「配役」を自らに与えたゲーム・プレイヤーだと思う。命がけでもなんでもなく、具合が悪ければ、バスに乗っても、トランスポート・サービスを利用しても良いし、最後はコンピュータの電源をきるように巡礼をやめればリセットだ。
 あたかもサンティアゴ巡礼が壮大で特別な行為であると考え、それを歩き通した自らに自己陶酔する姿は滑稽ですらあり、どちらも現実の社会生活では得られない満足を得ることができるにせよ、あくまでも代償的満足であって、振り返って容認できない自らの過去を打ち消したり、漠然たる不安の中にある未来に対してのモラトリアム行動をしているに過ぎないという第三者からの論難に対して、自分は反論を持たないだろう。しかし、それでも私の「巡礼の旅」への衝動は押さえがたい。何故か?

■「人はなぜ生きるか?」は無理にせよ、せめて「人はなぜ歩くか?」の答えはないか。人それぞれであるなら、せめて「自分はなぜ歩くのか?」への答えを見出したい。歩くという誰でも出来る最も簡単な行動であるが、かつて人は生きるために歩き出した。生命を維持するためには歩かなければならなかった。しかし現代では生存のために歩く必要はない。この目の前に続く道の先にあるものをこの目で見たい、そのためには自分の足で前に進むしかないが、生きるために必要があるかと言えば必要ない。
 専門家の巡礼論の多くは、自らは巡礼をしたわけではないがという断り書きから始まる。もちろん巡礼道を歩いている場合もあるが、それは調査であって巡礼行動ではないので、巡礼を客観的に見て、歴史を踏まえた論述となる。一方歩くだけしかできない巡礼は、語るべき言葉を持たない。しかし巡礼を無知な庶民の盲目的熱中としてかたずけられているような気がしないでもない。

■最近しばしば製作される「サンティアゴ巡礼もの」テレビ番組を見ると、その作り方は、見る前から分かっているような「心の病の克服、家庭関係の修復、社会環境への復帰」などを強調するものであるが、大半の巡礼は余暇の徒歩旅行者である。
 説明不能になって、うっかり「癒し」などという安直な表意を使ってしまうのが腹立たしい。一番嫌いな言葉こそ「癒し」だからだ。「癒し」は「賤しい」に通じる。自らの思考停止によって他に依存する自分を甘やかすことを「賤しい」というのだ。
 また道に還って考えよう。家に還るのではなく「道に還る」。巡礼とは道の中にのみあり、その道に自らを置くことで、続きを考えることができそうだ。サンティアゴ巡礼路は上掲の写真のように、ヨーロッパ全土を網の目のように覆っている。残された時間は多い訳ではないが、受け入れてくれる「道」はいくらでもある。




サンティアゴ巡礼