空海・最澄 年表
「顕」「密」並び立たず
(2005-5-14作成)
空海:大阪・金剛寺蔵 最澄:兵庫・一乗寺蔵
西暦  年齢 日付 空 海 最 澄
767
  

漢系渡来氏族である三津氏を父として近江(現在の坂本あたり)で生まれる。幼名は三津首広野。帰化人という自覚をもっていたものと思われる。
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770 (光仁天皇即位)仏教の粛清を行い、山林修行を公認する。
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774 6月15日 讃岐国多度郡屏風が浦(現在の海岸寺、75番善通寺)で、佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)と安刀(あと)氏出身の母の三男として出生。幼名は真魚(まお)   
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780        14歳で出家。
781        (桓武天皇即位)中国皇帝的な事業と統治を行う。
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784 11          
785 12        東大寺で具足戒を受ける。
奈良仏教と決別し、比叡山に登り、山林修行のなかで「天台」の思想を構築していく。
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789 16     このころから母方の伯父である大学者・阿刀大足(あとおおたり)に師事。
(伝承)71番弥谷寺の獅子窟で学問に励む。
  
790 17          
791 18       宮廷から「修行入位」という僧位を授けられる。
792 19    大足に伴われて上京(長岡京)、大学に入学。   
793 20    このころある沙門から「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)を授かる。
阿国大滝岳(現在の
21番大龍寺の舎心ケ岳)、土州室戸岬(現在の御蔵洞)に勤念。谷響きを惜しまず、明星来影す。
(伝承)和泉国槙尾山寺で沙弥戒を受ける。
  
794 21       桓武天皇による平安遷都が行われ、奈良仏教に批判的な最澄が、宮廷に重んじられる。
このころ、国家的権威のある「内供奉十禅師」の一人とされる。
795 22          
796 23          
797 24 4月9日 (伝承)東大寺の戒壇院で具足戒を受ける。   
12月1日 思想劇「三教指帰」(さんごうしいき)完成。道・儒と仏教を比較し、仏教の優位、すなわち自身(仮名乞児)が官を捨て仏門へ入ることの正当性を主張。これに匹敵するのはゲーテの教養小説「ウイルヘルム・マイスター」であるとされる。
798 25    (伝承)大和国久米寺東党の下で「大日経」を感得。   
799 26    空白の時期   
800 27    空白の時期   
801 28    空白の時期   
802 29    空白の時期 高尾山寺で天台著作(法華玄義、法華文句など)を講義し、和気氏の支援を受けるようになり、桓武天皇の知るところになる。
803 30    空白の時期   
804 31    (続日本後記)31才で得度。   
5月12日 この日、4船団で難波の港を出帆して入唐の旅に上る。
第1船…「遣唐大使」藤原葛野麻呂(かどのまろ)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、空海(留学生)
第2船…「判官」菅原清公、伝教大師最澄(還学生)
7月6日 肥前国田ノ浦(現・平戸)を出帆。 第2船は明州の寧波府に着き、最澄は弟子の義真を伴い天台山に登る。
第3船と第4船は行方不明。 
8月10日 中国大陸福州赤岸鎮(せきがんちん)の南に漂着。
12月23日 唐の都長安に東門(春明門)より入る。
805 32 2月10日 遣唐大使らは長安・宣陽坊を発って帰国の途につく。 最澄帰国。5月19日に出帆した船は6月5日に対馬に着く。
   空海は逸勢とともに西明寺に残る。青竜寺の恵果の名声を聞き、訪ねる。
6月13日 恵果より学法灌頂壇で胎蔵の灌頂を受ける。
7月 恵果より金剛界の五部灌頂を受ける。投華得仏では大日如来に落花した。恵果は空海に遍照金剛の名を授けた。
8月10日 恵果より阿闍梨位の伝法灌頂を受ける。わずか2ケ月で密教の大法をことごとく授かる。
12月15日 青竜寺の東塔院で恵果が入滅。
806 33 1月 門下を代表して恩師恵果の碑文を撰した。「「…弟子空海、故郷を顧みれば東海の東。行李を想えば難が中の難なり。波濤万々たり、雲山幾千ぞ。来ること我が力にあらず、帰らんこと我が志にあらず…」 最澄は正月3日に「年分度者」(得度を許される一定数の者)の新しい割当を申請する。律、華厳、三論、法相などの従来10人に、天台法華宗2人の追加をもとめたもので、これの許可によって、天台宗は公認されることになる。
   大詩人・馬総は空海に対して「何ぞなんじ万里より来たれる。その才を衒うにあらざるべけんや。学を増して玄機を助けよ。土人、なんじが如きなるもの稀なり。」という詩を贈る。
3月 20年滞在の約束にもかかわらず、長安を離れ、帰国の途につく。
4月20日 浙江省に到着、ここで4ケ月滞在。
8月 遣唐副使・高階真人遠成の船で逸勢と共に寧波から帰路につく。
12月13日 高階真人遠成は入京し復命。なぜか空海は大宰府に留めおかれる。
807 33          
808 34          
809 35    嵯峨天皇が24歳で即位し、重んじられるようになる。   
2月3日 空海が最澄に刺(し)を投ずる。(刺ってなに?)
8月24日 最澄は弟子の経珍を使いに空海が請来した密教経典12部を借覧。特に「大日経」に関心。
10月4日 「世説」8巻のうちの秀文を屏風にして嵯峨天皇に献上。   
810 36    「東大寺要録」によれば、この年から813年まで東大寺の別当職に任じられる。
9月に薬子の乱。皇太子である高丘親王は廃され、出家して空海の弟子となる。後年、インドに渡海しようとして、途中の羅越国で亡くなる。(参照)渋沢龍彦:高丘親王航海記
  
811 37 11月9日 乙訓寺の別当に任じられる。   
812 38 9月11日 空海から最澄へ書状「風信帖」。…風信雲書、天より翔臨す。…
11月15日 空海による高尾山寺の金剛界灌頂。最澄は進んで受者となる。(空海自書:「灌頂歴名」)
12月14日 空海による高尾山寺の胎蔵灌頂。最澄以下145名が受者となる。
813 39    最澄は空海に阿闍梨灌頂を伝授するように願ったが、なお3年の実修を要すといって拒否される。
814 40    最澄の「法華一乗」と「真言一乗」は同じ大乗仏教であり、何ら相違ないという立場と、空海の顕教と密教とは次元が異なるという思想により、双方は離別していく。
815 41          
816 42 6月19日 修禅の道場建立のため高野山の下賜を願い出る。   
817 43       この頃から法相宗の会津の徳一と法論を戦わせ、そのなかで諸法実相という天台の思想を確立していく。
818 44    満濃池決壊。築池使の路浜継は3年がかりで修復を図ったが成功しなかった。   
819 45          
820 46          
821 47 4月 満濃池修築別当に任じられ、6月からの3ケ月で完成させる。   
822 48        56歳で死去。
823 49 1月19日 嵯峨天皇より東寺(教王護国寺)を受預される。
現在も講堂に空海独創の立体曼荼羅(五仏、五菩薩、五大明王、六天)を残す。 
比叡山寺が延暦寺と改名する。
824 50                                          
825 51       
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828 54 12月15日 綜藝種智院を開設。教育理想を記した「綜藝種智院式じょ序」を表す。
829 55      
830 56    人間精神の弁証法的な発展過程を克明に説いた「十住心論」を著す。
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832 58    高野山で万燈会を開き、願文「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きん…」を残す。
833 59      
834 60      
835 61 3月21日 高野山に死す。
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風信帖


<参考資料>
空海の風景(上)(下):司馬遼太郎,中公文庫,1978年初版(2005年改版22刷)
最澄と空海:立川武蔵,講談社選書メチエ(1600円),1998年初刷
空海:宮坂宥勝,ちくま学芸文庫(1100円),2003年初刷(初出:1984年)
空海の道:永坂嘉光・静慈園,新潮社(1300円),2004年初刷
 


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