現代サンティアゴ巡礼の観光化


(2008-9-5)


ERMITA DE SAN MIGUEL (聖ミゲル教会の廃墟) ビジャトゥエルタ村近傍
■本年の夏、カミノ・デ・フランスを少し歩いた。長年にわたって夢見た巡礼道は、予想通りとは言え、少しイメージが違った。多くの巡礼は、途中の聖堂や古跡に見向きもしないで、ひたすら前(コンポステーラ)を目指す。私が5日間かけて歩いた道をたった一日で走破したという自転車組に出会った。かれらは、7日間でコンポステーラに到着の予定という。現在の巡礼の大半はスポーツとしての巡礼のように思われる。歩きの巡礼も同じだ。みな、颯爽として私を追い抜いていく。黄色の矢印を頼りにして歩いていくと、実は少なくない聖堂・古跡をまったくスキップしてしまう。プエンテ・ラ・レイナ近郊の古びた小さな宝石のよう「エウナテ教会」に立ち寄るには、たった数km回り道するだけだが、それをする人はほとんどいない。(注:アラゴンの道を来るひとは自動的に立ち寄れるが) エステージャからアジェギに向かう自動車道路のそばには、「ロカマドール教会」があるが、歩き巡礼道から外れている。現代の巡礼において宗教的色彩が薄まっているのは知られている。丘を越え、街を過ぎる徒歩旅行によって、自分の体力と精神力を試みる。巡礼というより、徒歩観光旅行者である。

■近代観光の始祖であるトーマス・クックは「観光(ツーリズム)とは、良く知っているものの発見だということである。これに対し、旅行(トラベル)とはよく知られていないものの発見であり、探検とは知られていないものの発見である。」と定義している。「良く知られた事項は、何であれ−人でも物でも、難破船でも滝でも、山でも都市でも−観光魅力になり得るということである。そして知名度とは、ある程度まで広告によって作り出されるものである。」 まさに、現代サンティアゴ巡礼路は、この広告によって観光開発されて、「野道を歩くこと」が観光ということになった。かつて村から村へとつながっていた巡礼道ではなく、これらをショートカットして、山を越え、丘を越える道が新たに作られている。そこには正規のホタテ貝道標が設置されているが、この道が中世から使われてきたという根拠がないものが含まれているようだ。ともかく自動車道路を避けて、野道を行くのが巡礼道だという気分になっているのは四国遍路と似ている。そして結果的に多くの聖堂・古跡を見落とすことになる。私のサンテイアゴ巡礼への関心は、ロマネスク美術への関心から始まったので、以上のような気分を持つのだが、「何のために歩くか」は、各人各様であるから、批判している訳ではない。単に自分自身が感じる違和感に過ぎない。かく言う私はいまだに「何のために歩くか」という問いに対する答えを持っていない。

■そもそも、サンティアゴ巡礼の発端も、まさに「広告」によるものである。「広告」のネタは聖遺物であった。
今我々が歩いている道は、高々30年程前から整備されたに過ぎない長く忘れられた道である。しかもその存在は2度も忘れられた。中世盛期には年間50万人が歩いたとされるが、その巡礼道の聖堂の多くが、ロマネスクの段階に留まっているということは、その後のゴチック、バロック時代には、すでにその宗教的エネルギーは衰微していたといえる。

■ヤコブがエルサレムで打ち首の殉教をしたのはAD44年7月25日であるとされる。ヤコブはその前にイスパニアへの布教を試みていて、処刑された遺骸を守って弟子たちが船で再びイリア・フラビアに到達し、その近くにヤコブを埋葬したという物語が作られる。その墓の位置は800年もの間忘れられていた。818年頃(諸説あり814年頃ともいわれる)ガリシア地方の隠修士ペラーヨ(ペラギヌス)が天使から明るい星の下にヤコブの墓があるという啓示を受け、それを聞いたイリア・フラビア(現在のエル・パドロン)司教テオドロミロが、大理石で覆われたヤコブの墓を見出したとされる。この噂は当地のアストゥリア王アルフォンソ2世に伝えられ、王によって、そこに小さな教会が建立され、現在の壮大なカテドラルの原型となる。
 当時の世界地図は、すでに精密なプトレマイオス地図は忘れられ、エルサレムを中心とするTO図で表される円盤状の世界観であったから、イリア・フラビアはまさに、地の果てである。しかもアフリカと接し、イベリア半島の多くがムーア人支配にあり、従来のキリスト教会は、イスラム支配の中で、生き残りのための習合が行われ、カトリック教義との乖離が起こっている。そのような中でカトリック正統による国土回復(レコンキスタ)が試みられ始めた。ムーア人に支配される地の果ては、実はカトリック正統の聖地なのであるとという「広告」が、こうして作られ、カトリック世界から領土拡張の軍が「西の十字軍」として進み、それとともに巡礼が歩んだ。

■いくつかの翻訳書をめくったが、中世勢時における巡礼者の数は記述していない。すなわちそのような数字の記録は残っていないと考えるべきだが、12世紀のサンティアゴ巡礼のピークには年間数十万(20万とか50万とか)の巡礼が訪れたとするガイド本は多い。しかしこの巡礼道は単純に宗教的巡礼者だけでなく、イスパニアとフランスを結ぶ交易路としても機能しており、交易や商業の発達に従ってか商工業者の移動も頻繁になったであろうから、人数には、これらの人数も含まれているのだろう。
 14世紀から15世紀になると教会の分裂や疫病・戦乱の発生などによる社会安定性の低下によって、キリスト教信仰に神秘的・民間信仰的要素が習合していわゆるマリア信仰熱が高まる。現在も村々の聖堂の多くには聖母子像が奉られ、純然たるヤコブ信仰だけでない母性依存と現世救済的な巡礼となっていく。さらに16世紀に入って、宗教改革運動が影響力を強めるとプロテスタントの聖書回帰によって、聖人崇拝や巡礼による贖罪も否定され、サンティアゴ巡礼も下火となっていく。

■アルマーダ壊滅によるスペイン国内の混乱のなかの1589年、サンティアゴ教会は、聖遺物略奪を恐れて、ヤコブの遺骸を隠匿するが、またまたその隠し場所が忘れられる。(またはイギリスの侵攻を恐れて、1700〜1720年の間に、隠されたという別の記述もある。:イーブ・ボティノー) それ程までもヤコブ信仰は衰微し、巡礼者も減少していった。19世紀になって枢機卿パイヤ・イ・リコは聖遺物の探索に情熱を燃やし、1879年1月27日、コンポステーラ教会の主祭壇と、後陣を塞いでいる壁の背後の空間からヤコブの遺骸を発見する。こうしてヤコブは2度忘れられ、2度発見される。しかし今度は、これによって劇的に巡礼が増加することはなかった。

■さらに不幸なことに、サイテイアゴ教会はフランコ体制のもとで、それを支える宗教的基盤として政治利用された。聖年である1954年、新任のサンティアゴ大司教パラシオスは、フランコの同意を得て巡礼復活を目論むが、フランコ体制への反発もあって、巡礼は低調なままであった。巡礼が復活するためには、新たな結びつきが必要であった。それが「観光」である。学者や有志が巡礼道の復興を試み、地図やガイド本が作られた。その従来のヨーロッパ文化の持つ壮麗なイメージと異なる、素朴だが味わい深いロマネスク様式に関心を持つ人々が歩き始め、その体験を語り始めた。1987年パウロ・コエーリョの「星の巡礼(原題:魔法使いの日記)」に発表され、この巡礼路にスピリチュアルな要素を持ち込んだ。ついに1993年ユネスコの世界遺産にフランス人の道が登録されることで、一般にも知られるようになり、巡礼の観光化が決定付けられる。
 それでも、サン・ジャン・ピエ・ド・ポーの巡礼事務所にマダム・ダブリルが居て、巡礼者を試問している頃までは、気楽な気持ちでは、巡礼手帳はもらえなかった。それが近年では、世界中から各国語をしゃべるボランティアを置いて、誰でも巡礼手帳が貰えるようになったこと、巡礼ルートの各町々が、道や宿泊施設を整備することで、ついにまったく地図なしで歩くことができるほどの「観光」遍路ルートとして完成したのである。

■パンプローナの手前、ビジャバに懸かる六つのアーチを持つ中世の石橋の上で出会ったサラゴーサから来たという女子大生は、「スペインにあるものは古いものだけ。これを使って生活するしか方法がない。」というようなことを言った。確かに巡礼路は「観光」で、そこそこ潤っている。
 おかげで、自分のような言葉もままならない定年退職者であっても、一人で巡礼ができるようになった訳である。





サンチャゴ巡礼