ロマネスク教会の美しさ


(2014-6-4記述)


サン・ファン・デ・オルテガ:身廊列柱の柱頭

■巡礼していると、サンティアゴ巡礼道は日本で、そんなに多く知られているのかとか、なぜ非キリスト教徒である日本人が、この道を歩くのかという疑問を持つ西欧人は多く、たまに尋ねられる。実は日本人以上に韓国の人々が歩いているのだが、韓国はキリスト教徒が多いということで、納得されているようである。
 これは「なぜ山に登るのか」以上に難しい質問であり、「なぜ歩くか考えるために歩く」と答えることもあるが、これでは余計に首を傾げられる。本音としては、別に煙に巻いている訳ではなく、本当に、歩いているときは、頭の中にいろいろな想念が浮かんでは消えしていて、「なぜ、こんなに苦しくて単調なことを、好んでするのか」と自問自答していることは多い。
 そこで、「サンテイアゴ巡礼の道はユネスコ文化遺産に登録されて以来、日本でも関心が高まっている。日本にも四国に88ケ所の寺をめぐる1200kmの巡礼道があり、これを歩く人は多く、同様にサンティアゴ巡礼路にも親近感を持っている。私個人としては、ヨーロッパ美術、特にロマネスク美術に関心があり、巡礼道にあるロマネスク聖堂を訪ね歩くことを楽しみにしている。」と、これをつたなく返事することもある。

■ここで意外なことに、日本語でロマネスク(英語でromanesque)が相手に通じないことである。これはフランス語ではromanになって、ローマ風というニュアンスに変わってしまって、本来ヨーロッパが初めてその独創性を発揮したロマネスクという概念が伝わらないからであろうか。ちなみにスペイン語ではromanicoらしい。しかし、日本のロマネスク美術研究はヨーロッパから伝わったはずなので、何か適切な言い方があるはずだ。そもそもローマ風であることが「小説そのもの」や「浪漫的なこと」にまで、言葉として変質しているので、他言語での議論は難しすぎる。
 結局、「この男は教会建築を見るのが好きなようだ」程度に伝わることになる。私はロマネスク聖堂は好きだが、ゴシックにはそれほど心奪われない。それを他言語で説明することは不可能である。

■たとえば巡礼道を歩いて来てレオンの町に入る。町の中心、観光客でにぎわう広場に面して聳え立つカテドラルはバシリカの飛び梁が左右の2つの高い塔がはさんでしまって、ゴシック的形態で最も美しいと思う飛び梁が隠れてしまっている。これでも世界遺産であるブルゴスのカテドラルのバロック的過剰よりはずっといいのだが、このにぎわいを早々に避けて、細い曲がりくねった道を行くと、また小さい広場があって、ここにロマネスク様式の聖イシドーロ教会がある。こちらは人も少なく、カテドラルで感じたような疎外感はなく、優しく巡礼を迎えてくれる。扉口で物乞いに数十セントを渡して、中に入る。身廊のベンチに腰掛けると、外部の喧騒はまったく届かない静かで薄暗い空間に徐々に眼と耳が慣れてくる。内部は、カテドラルの方のような大空間をゴチャゴチャと飾り立てる過剰な造形が少なく、ひっそりとして、一人の人間の想像力の限界内にあって、一対一で対象と向き合える。この慎ましい様式はロマネスクまでで、ゴシック以降になると教会の更なる権威化によって、我々を対象に近づきがたくしてしまい、その権威は実は猛烈に人間的で醜悪・俗悪なものに落ちていく場合すらある。これがゴシック以降に共感できないことが多い理由のひとつだ。

ブルゴス大聖堂 レオン大聖堂 レオン 聖イシドーロ教会

■なぜロマネスク美術が好きなのか書いてみたい。教会建築は<素朴でローマ風なロマネスク>→<粗野でゴート人風なゴシック>→<歪んだ黒真珠のように奇矯なバロック>と進歩というか変質していった。いずれも、その登場の頃の否定的な受け止められ方が語源となっているが、現在は、便宜的に様式の時代区分をするために使われているだけで、当事者が、その様式区分を意識して設計した訳ではない。11世紀頃から、ロマネスク様式の教会建築ラッシュが始まって、それ以前の教会建築はほとんど残っていない。ローマのバシリカ建築(長堂:長方形プラン)」の小さな石積み建築から始まって、その空間をいかに広くするか、いかに高くするかに知恵を絞った。ロマネスクの時代には、まだ技術が未熟であったため、建物を大きくしようとするほど、壁の厚さが厚くなって、おのずと規模に限界があった。本来、教会内部は天上的空間でなければならないのに、初期の頃は、低い屋根に圧迫されるような、薄暗い空間であっただろう。まず人が出入りする入口の開口を作るのだけでも一苦労。ローマの頃からアーチ構造は知られていたので、上部の荷重を分散するアーチで開口の崩壊を防いだ。それでは、厚壁にトンネルを作ったようなもので、穴蔵に入っていく感じである。(下図A) そこで入口手前側を徐々に広げるように、上方からの石材荷重を支えるアーチも少しずつ大きくすると、正面からは広々と見えるようになる。(下図B) さらに、段がついて無骨な各角を円柱にすることで、よりすっきりと美しくなる。(下図C)
 入口扉を長方形にすると、上のアーチとの間にすき間ができてしまう。これを埋めるのが半円形の石板で、ティンパヌム(タンパン)と呼ばれる。このティンパヌムに聖書の世界を彫刻で描き、左右の丸柱に人像を彫刻すると、ロマネスク美術を最も特徴付ける教会の「扉口」としての造形がほぼ完成する。

■ロマネスク美術の第二の特徴は「列柱と柱頭彫刻」であるが、これも力学的必然から生まれたものだ。高い壁を作るために、単純に石材を積み上げると、その自重でますます下部を強化しなければならなくなり、結局ピラミッドのようになってしまうだろう。そこでアーチが考えられた。セゴビアの多重アーチ水道橋はその良い事例を現代にまで残している。たとえば(下図a)のようなアーチを持つ壁は、アーチ下点で、下向きの圧縮力と、アーチが開こうとする横方向の力を受けるので、ある程度の幅が必要である。しかし、アーチを支える柱部だけで考えると、ここでは圧縮力しか受けない。組み石ではなく、1本の円柱にしてしまうと、かなり細い柱でも圧縮荷重に耐えられる。これが(下図b)で、壁面の開口を単純なアーチをより広げることができ、広々とした開放的な空間を生み出すことができた。このアーチ下部を支え円柱と結合するのが逆台形の断面を持つ「柱頭」である。これだけではさびしいので、これに彫刻を施したのが「柱頭彫刻」である。修道院の中庭回廊(クロイスター)は、間隔に並んだ列柱と、この柱頭彫刻によって、非日常的で終わりなき瞑想空間を作っている。
 正面扉口は、その教会外観にとって最も重要な造形であるから、その時々の発注者側の意向に強く左右されるだろう。よって宗教的形式の踏襲や、教義との一致、権威者への迎合など制約が多い。それに対して、柱頭は数も多いし、小さく地味なので、職人の自由裁量に任される比率が高いのではないか、もちろん聖書の世界の描写が多いが、その中でも庶民の生活や、一般人の普通の喜怒哀楽が表現されていたりする。個人的には、最近は扉口よりも柱頭に美しい彫刻を見つけたときのほうが楽しい。

■ロマネスク芸術に対する批判というか、相手にせずという姿勢は、中世を神学的暗黒と見て、ルネッサンスをその解放者とする、一面的なものの見方による。確かに、ロマネスク芸術は宗教芸術に限定され、表現方法や対象は限定されていて、何よりルネッサンスの巨匠の偉大な力量に比べると、芸術と呼ぶより職人仕事と呼ぶべきであろう。たぶん稚拙という言葉が適切だろう。しかし日本におけるロマネスク美術の初期の紹介者は以下のように主張している。

「大系世界の美術」(学習研究社:1972)11 ロマネスク美術(柳宗玄)別冊は堀米庸三が寄稿している。堀米は「革新の12世紀」の著者であり、従来の通説としての「暗黒の中世」に対して、生気あるヨーロッパ中世の文化と生活を描き、そのイメージを覆した。文中で堀米は「西洋史の暗い谷間」という逆説的な表現を使い、単にルネッサンス前史として、中世にも一応「文化」があったということではなく、ギリシャ・ローマの古典文化を、キリスト教受容のなかで新たに克服するための「文化創造」行為だとして、より積極的意義を認めている。柳宗玄も「中世宗教芸術の本質はつねに、「見えざるもの」との内的コミュニケーションをいかにして形体の上に表現するかにあった。ギリシャ彫刻の場合のように、「見えざるもの」を人間的形姿の理想化をとおして表現するものとは根本的に異なる。」と言う。「ロマネスク芸術はかつて因習的、類型的、非個性的と、その価値を貶めるすべての形容詞をもって修飾されてきた。しかし、この芸術はヨーロッパが最初にその自覚に達し、ヨーロッパ史全体を通じて最も創造的であった時代の12世紀に生まれた芸術である」と書いている。

■しかしながら、その後の経済的繁栄や、技術革新によって、特に都市の教会や大聖堂は、改築されたり、増築されていき、多くロマネスク時代の特徴は、見えにくくなっている。サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂が、その最たる例だろう。スペイン・バロックの過剰な装飾性と巨大さによって、眼が奪われはするが、その外観は決して統一感があるものではない。しかしロマネスク様式の扉口は、その内部にしっかり残っているのだが…。
 結局、ロマネスク時代の形態をそのまま残すのは、中世都市の繁栄から取り残された田舎の村や町の小さな教会堂である。それらは、現在の巡礼道の村々にそのまま残されている。なぜ、ロマネスク教会が、サンテイアゴ巡礼の道に沿って残っているのだろうか。逆にロマネスク様式と呼ぶ芸術は、むしろ巡礼の道を介して、情報や技術が伝達された「巡礼路様式」であるとする考え方もある。(旅の比較文明学:吉沢五郎,世界思想社,(2007) )

■上記の「大系世界の美術11」を読み返していたら、次のような文章にぶつかった。
…多少でも時間をかけてヨーロッパを旅行した多くの人々は、ヨーロッパで最初に食傷するのはバロック、次にゴシック、そしてロマネスクに至って心の安らぎを覚えると述懐するのがつねである。(堀米)
 これは、実感としてまったく同意する。さらに本文中には、
…クリュニュー修道院の廃墟が残るブルゴーニュのソーヌ・エ・ロワール県内でも、100キロ平方足らずの土地に見出されるロマネスク聖堂の数はなお二百数十におよぶのである。…これと同様のロマネスク建築の密度をもつ地域は、ヨーロッパ各地になお少なくない。たとえばカタルーニャ(東北スペイン)からルシヨン(東ピレネー)地域にかけての一帯は、ほとんど村から村へとロマネスク教会が続いている。西南フランスのポワトゥからサントンジュ地方にかけても、ロマネスク聖堂はいたるところに現存している。しかも、田舎の小さい聖堂は決して末梢的な存在なのではない。…名も知られぬほどの寒村の小聖堂やその装飾までが、いかにもロマネスク的な感覚にみちあふれているのである。傑作はしばしば、人影もまばらな寒村に見いだされる。しかもなお、数多くの隠されているに違いない。そして眼のある者の温かい心によって拾い上げられるのを待っているのだ。

■この40年前の柳の予言は、少なくとも「フランス人の道」では、池田宗弘さんの1983年の旅によって発見され、1990年「巡礼の道絵巻 ロマネスク彫刻紀行」として日本人の知るところとなった。そして、私を含めた少なくない巡礼が、この本を携えて、巡礼道を歩いている。


サンティアゴ巡礼