西へ向かう道:KODO熊野古道
伊勢路・中辺路・紀伊路の歩き方

(2020-1-27 記録開始) 深津邦夫

■日本橋から北に向かう道を歩きながら、次は逆に西に向かって歩こうと考えた。東京近郊をちびちび歩くのもつまらないので、先に伊勢から大阪方面を歩いてから、いずれ東京と伊勢を歩きつなげようと考えた。下の図は峠の標高と累積距離を示す概念図である。カシミールとgoogle-mapから調べたもので、あくまでも概略値である。





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ノベ日数 ルート 実行日付 距 離
1日目 第1行 ■伊勢市駅→栃原「岡島屋」
スタート:伊勢市から「女鬼峠」越え
19-11-2 区間22.7km→計22.7km
2日目 ■栃原「岡島屋」→伊勢柏崎「紀勢荘」
「バカ曲がり」から「三瀬坂峠」へ
19-11-3 区間29.4km→計52.1km
3日目 ■伊勢柏崎「紀勢荘」→紀伊長島駅
「ツヅラト峠」越え
19-11-4 区間17.0km→計69.1km
4日目 第2行 ■紀伊長島駅→道瀬「民宿ゆたか」
「一石峠」から古里海岸へ
19-11-22 区間7.6km→計76.7km
5日目 ■道瀬「民宿ゆたか」→尾鷲市
「三浦峠」「始神峠」から「馬越峠」へ
19-11-23 区間20.1km→計96.8km
6日目 ■尾鷲から三木里駅
最難路「八鬼山峠」越え」
19-11-24 区間12.1km→計108.9km
7日目 ■三木里駅から二木島駅
猪垣に沿って「三木峠」・「甫母峠」へ
19-11-25 区間11.7km→計120.6km
8日目 第3行 ■二木島駅から大泊駅
二木島峠から「鬼ケ城」へ
20-1-10 区間11.2km→計131.8km
9日目 ■大泊から風伝トンネル
熊野市から「風伝峠」へ
20-1-11 区間20.0km→計151.8km
10日目 ■「通り峠」から宮井大橋
「通り峠」から千枚田を下る
20-1-12 区間20.7km→計172.5km
11日目 ■宮井大橋から熊野本宮大社
宮井大橋から聖地「大斎原」へ
20-1-13 区間10.6km→計183.1km
12日目 第4行 ■本宮大社から道湯川橋
中辺路逆コースをスタート
20-2-08 区間16.5km→計199.6km
13日目 ■道湯川橋から高原
牛馬童子に会って霧の里「高原」へ
20-2-09 区間18.2km→計217.8km
14日目 ■高原から紀伊田辺駅
剣ノ山を下って「北郡越」へ
20-2-10 区間25.8km→計243.6km
15日目 第5行 (計画)前日 羽田(8:45発)→ANA3821→関空(10:05着)・(10:49発)→白根野(11:01着)・(11:09発)→和歌山(11:39着)・(11:50発)→御坊(12:54着)・(13:24発)→紀伊田辺(14:06着)→レンタカー→【霧の里高原】泊
田辺駅→南部駅11.9km+南部駅→切目駅12.1km
切目(16:48発)→南部(16:59着)→【紀州路みなべ】泊
21-4-2
(金)
16日目 切目駅→塩屋王子12.4km+塩屋王子→紀伊内原駅12.1km
紀伊内原(17:20発)→御坊(17:24着)→【駅前ホテル】泊
21-4-3
(土)
17日目 紀伊内原駅→湯浅駅16.9km+湯浅駅→紀伊宮原駅7.0km 21-4-4
(日)
18日目 紀伊宮原駅→海南駅14.4km+海南駅→和歌山駅11.0km
(計画)和歌山(18:24発)→白根野(18::49着)・(18:54発)→関空(19:04着)・(21:10発)→ANA100→羽田(22:30着)
21-4-5
(月)

■以下の文章は三木里駅の先の「三木峠」の入口に書かれていた説明文である。概要説明としてまとまっているので、引用させていただいた。

【熊野参詣道伊勢路】
 平安時代の後期(十二世紀)には、既に開かれていた熊野ヘ至る道は「紀伊路」と「伊勢路」の二大ルートがあった、伊勢から熊野をめざす三重県側の熊野産経道「伊勢路」は.熊野詣や西国三十三ヵ所巡礼に代表される庶民の「信仰の道」として発達した。江戸時代に入り、元和五年(1619)徳川御三家として、徳川頼宣が初代紀州稽主になると、藩政の諸政策を進め、寛永十二年(1635)に和歌山から新宮までの紀伊路に、田丸(三重県玉城町)までの伊勢路を延長編入し、一貫した「熊野街道」として大いに整備した。
 三重県側の伊勢路は、伊勢から熊野三山【熊野速玉大社・熊野那智大社・熊野本宮大社】ヘ向かうときは、八鬼山越えの「熊野道」とか「巡礼道」などと呼び、逆に、同じ道を伊勢に向かうときは「伊勢道」と呼んだ。この道は、伊勢参宮を終えて西国三十三カ所第一番札所・那智山青岸渡寺ヘ向かう巡礼者が、最盛期には、年間数万人通行した。道中には急峻な峠超えの連続と渡河の難所が待ち受け、行き倒れたり水難で命を落とす者も多く「広大慈悲の道」-は、また「非情の道」にもなった。
 明治になって、熊野街道の路線変更や新道の開通、昭和に入り、鉄道や新国道の開通などで、江戸期以前の熊野街道の峠道は次第に荒廃した。



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