紙幣肖像の右往左往                        2005-12-25 




中国「人民元」20と2角の関係

■植村峻:「お札の文化史」,NTT出版,(3200円)は、印刷に深くかかわった著者によるものであるので、なかなか興味深い記述が多い。そのなかに以下のように、紙幣の肖像に関する文章を見つけた。

■……日本のお札を眺めていて気がつくのは、どういうわけか必ず肖像が右に描かれ、左を向いていることである。日本においてお札の肖像が本格的に大きく描かれるようになったのは、明治14年発行の改造紙幣『神功皇后札』からであるが、それ以降は原則として右配置、左向きである。……神功皇后札の後に明治十八年から発行された日本銀行党換銀券『大黒札』 の場合も、大黒天が右配置であるが、19年発行の五円券だけは裏面中央に大黒天が描かれていて、その顔は左を向いている。また明治21年以降発行された改造発換銀券は、いずれもお雇い外国人彫刻家エドアルド・キヨッソーネがデザインし彫刻したものであるが、いずれも右配置、左向きである。このときから肖像配置のレイアウトの原則が定着したのであろうか。……その後のお札は原則としてキヨッソーネの肖像を忠実に再現しているため、おおむね右配置、左向きである。……

■……お札の肖像に使われる昔の人物には写真はなく、デザイナーがどう考えるかにかかってくる。日本人は一般に人物を描く場合には右に配置し、左の方向を向いたデザインを好む傾向があるらしく、手もとの図録や写真集を眺めても、この原則が生きているようである。お札をデザインするのに際しては、特にどちらでもよいのであろうが、感覚的に右配置が描きやすいようである。戦前から戦後まで日本のお札の肖像彫刻を手がけてきた加藤倉吉彫刻課長が残したお札のデザインスケッチ集を見ても、圧倒的に右位置が多く、このほうが日本人にはなんとなくなじみやすいようである。


■西洋図像表現には、向かって右側優位であることを、以下に書いた。
「命を吹き込まれた左手人差し指」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/ir-ninshiki/lr-adam.htm
 このような図像の左右問題では「(増補)美術における右と左」(中森・他:中央大学出版部,1992)に当たる必要がある。同書は左右表現を西欧と日本の文化的差異としてとらえる試みである。

……美術における右と左の問題は、西洋、ことにキリスト教美術に関する限り、「神の御手」によって、右、左の価値観が固定していて、それが造形されるときには、比較的に明確な形をとる。しかし、それが東洋になると、きわめて複雑となってくる。東洋美術の根底には仏教思想が一貫して流れてはいるものの、中国古代思想や儒教などに影響され、左右の優劣関係がたえず一定しない……。

■西洋の肖像表現について、次のような記述がある。(p.45)
……不思議なことにそれらがかならずといってよいくらいにその左横顔を見せている点である。右利きの画家であれば、斜線を引くに右上→左下がより容易なことは見当がつくが、それが当時の流行としか考えられない。もっともこうしたプロフィル描写は平面的・装飾的であって、《モナ・リザ》にも見るようにしだいに斜めの向きをとり立体的・現実的へと変化して行く。(管理人注:モナリザも若干右向きで左横顔を見せている。)
 古代ギリシアのコインやメダルに肖像が印刻されるのは紀元前五世紀頃からであるが、そのプロフィルの向きを問題にするなら、現存例では右向きの方がはるかに多い。そして、これもあえて推論するなら、右手利きの作家が下絵を描けば(原画は向かって左向きになるので)、その陰刻は反転するから(向かって)右向きとなる、いえるかもしれない。

■中国・日本の肖像表現については、次のような記述がある。(p.195)
……右利きの画家が、面貌を描写するとき、向かって右向きの顔を描くことは、逆の勝手となり描きにくかったはずである。しかし天下の名手であれば、あえて逆の勝手に血傭船して名画をものにすることもありえたのである。
……現存する日本の肖像画のなかで、その芸術性において世界的に高い評価をえているものに神護寺蔵「源頼朝」、「平重盛」、「藤原光能」の三画像がある。それらの制作年代については若干の問題があるが、いちおう寺伝すなわち「神護寺略記」によれば、文治四年(1188)に建立された仙洞院御所に、「後白河法皇像」を中心に、前記頼朝、重盛、光能の三人のほかに「右衛門督平業房像」を加えた五幅が制作安置されたことがわかる。その場合、中央に後白河法皇、左側に平重盛と藤原光能、右側に源頼朝と平業房が並んでいたものと解されるのである。この場合は、幸いにして作品と記録の両方が現存しているところから、制作当初の画像のあり方、そして用いられ方が明確に知られる典型的な作例である。したがって、像主の顔の向きも当然中央に向けられていなければならず、左右の問題をおのずから解決している。

■同書の考えをまとめると、肖像表現では西欧は、「向かって左向き」(本人は右を向いて左横顔を見せる状態)に描かれることが多いが、中国・日本では、いずれの優位性も明確ではないということになる。よって紙幣の専門家である植村さんの「日本人は人物を向かって右側配置するのが好き」という主張は支持されていない。自然に考えれば、お雇い外国人の西欧表現が、そのまま受容されたとということになると思う。植村さんの本も、世界の紙幣では、全般的には「右配置、左向き」配置が多いと書いてある。その中には旧ソ連では、その主義主張から(?)、「左配置」になっているなどいうちよっとしたユーモアも含まれる。
 そこで、以下のように各国紙幣表面の肖像の向きについて少し調べてみた。リストは人口の多い順とした。主に参考にさせていただいたのは以下のサイト。ありがとうございます。見ていて飽きない素晴らしいサイト。
http://banknotes.visithp.jp/(世界の紙幣紹介)
 同サイトの厖大な収集画像を参考にさせていただいたが、それでも、各国の全紙幣を網羅している訳ではないので、それを瞥見するだけで、特定の見解を述べるのは危険だが、以下は思いつくまま。

■まず中国の紙幣であるが、高額紙幣は右配置、低額紙幣は左配置になっている。それを並べると、一番上の写真のようになる。優位で高い位置である右に「毛沢東」が位置し、それに向かい合うに人民(?)が位置している。それぞれの、慈愛に満ちた下向きの視線と、尊敬で仰ぎ見る視線は一致する。肖像の配置について、複数の紙幣の関係で見るという視点を発見したかもしれない?。しかし1〜5圓の画像を見ていくと、そう単純に決めきれなくなってしまった。

■共産主義は左翼だから肖像も左配置されるという植村説は、今でも共産体制を維持する中国と北朝鮮での反例から、認められない。しかし、なぜか旧ソ連の周辺国に左配置が多いというのも事実である。

■全般的に見て、群像や複数人物が登場する紙幣の額面は低い傾向がある。しかも右配置であることは少ない。その複数というのは、民衆表現であることが多く、民衆は高額面を飾るにふさわしくないのだろうか。

■アメリカのように、肖像を中央に描くのは、きわめて少数派であった。

■イスラム圏は偶像崇拝を禁ずる文化の影響か、図柄に人物を用いないことが多い。

■アフリカになると、南アフリカのように人物より動物が主役になる。

■たぶん世界で一番、紙幣に描かれている人物はエリザベス二世であろうか。一応彼女は左利きであったことを付記して、この結局結論のない文章を終わることにしよう。

国名 額面(発行年) 肖像 (対面的)
配置と顔の向き
中国 10〜100圓 毛沢東 右配置・左向き 同一額面に他図像あり。
インド 20〜100ルピー ガンジー 右配置・左向き
アメリカ 1ドル ワシントン 中央・右向き
2ドル ジェファーソン 中央・右向き
5ドル リンカーン 中央・右向き 新ドルが発行されているが、同一人物の大画像が使用されている。
10ドル ハミルトン 中央・左向き
20ドル ジャクソン 中央・右向き
100ドル フランクリン 中央・右向き
インドネシア 10万ルピア(1999) スカルノ大統領
ハッタ首相
左配置・右向き
中央右より・左向き
5万ルピア(1999) 国歌の作曲者 中央右より・左向き
5万ルピア(1993) スハルト大統領 左配置・右向き
2万ルピア(1998) デワンタラ(教育者) 中央右より・左向き
1万ルピア(1998) 革命女傑 中央右より・左向き
1万ルピア(1992) スリ・スルタン・ハメンクブォノ9世 左配置・右向き
5千ルピア(2001) 宗教活動家 中央・左向き
千ルピア(2000) 反植民地運動家 中央・左向き
ブラジル 1〜20レアル 右配置・左向き 2000年発行の10レアル記念紙幣を除く。 
50〜50万クルゼイロ 不特定 右配置・左向き
パキスタン 5ルピー・10ルピー ムハンマド・アリ・ジンナー 右配置・右向き 偶像崇拝を禁ずるイスラム国であり、低額には肖像はない。
ロシア 10〜10万ルーブル 肖像なし なし 共通の価値観としての人物がいないのか。ドフトエフスキーにすればよいのに。
旧ソ連 100〜1000ルーブル(1991) レーニン 左配置・右向き
バングラディシュ 10タカ(2種) ラーマン大統領 右配置・前向き
左配置・右向き
他の1〜100タカは肖像なし。
ナイジェリア 1〜500ナイラ 各種 左配置・右向きが多い
日本 千〜万円 各種 右配置・左向き
メキシコ 5〜50ペソ 各種 右配置・左向き
2000ペソ(1989) シエラ(詩人) 左配置・右向き
ベトナム 50〜10万ドン ホーチミン 右配置・前向き
フィリピン 1〜50ペソ 各種 左配置・前向き・右向き 古い5ペソは左右二人。
ドイツ 5・20マルク 各種 右配置・左向き ユーロ化前。
エチオピア 1〜10ブル 各種 右配置・前向き・左向き
エジプト 5ピアストル ネフェルティティ 右配置・左向き 他紙幣には肖像なし。
トルコ 千〜25万(旧)リラ ケマル・アタチュルク 右配置・前向き・左向き
1〜20(新)リラ(2005) ケマル・アタチュルク 右配置・前向き 10リラのみ左配置。
イラン 50リアル パーレビ国王 右配置・左向き 500リアルは西のメッカに向かって祈る群像であり、右配置・左向きである。
100〜2万リアル ホメイニ師 右配置・前向き・左向き
タイ 20〜100バーツ ラマ9世 右配置・左向き
フランス 10フラン ベルリオーズ 右配置・左向き ユーロ化前。
20フラン ドビッシー 右配置・左向き
50フラン サンテクジュベリ 右配置・左向き
100フラン セザンヌ 右配置・左向き
500フラン キュリー夫妻 右配置・左向き
イギリス ポンド エリザベス2世  右配置・左向き
イタリア 1000リラ マルコポーロ 右配置・左向き ユーロ化前。
1000リラ モンテッソリ 右配置・左向き
2千リラ マルコーニ 右配置・左向き
5千リラ ベッリーニ 右配置・左向き
1万リラ ボルタ 右配置・右向き
10万リラ カラバッジョ 右配置・左向き
コンゴ 500フラン 不明 右配置・左向き
ミャンマー 1〜75チャット アウン・サン将軍 左配置・前向き・右向き
韓国 千〜1万ウォン 各種 右配置・左向き
以上、人口上位25ケ国の紙幣
以下、左配置肖像紙幣がある国などの例
北朝鮮 千ウォン(2002)
100ウォン(1978)
金日成  右配置・左向き 他は群像が多く、それらも右配置が多い。
モンゴル 1〜5千トゥグルク チンギスハン
スフバートル
左配置・右向き 1トゥグルクだけは右配置のスフバートル。
東ドイツ 100マルク マルクス 右配置・左向き
50マルク エンゲルス 右配置・左向き
20マルク ゲーテ 右配置・左向き
10マルク クララ・ツェトキン 右配置・左向き
5マルク カール・ミュンツァー 右配置・左向き
ベルギー 20〜500フラン 各種 左配置・右向き マグリット、アンソールなど
ギリシャ 20〜5000ドラクマ 各種 左配置・右向き 1000ドラクマだけは右派位置のアポロン像。
フィンランド 10・20マルカ 各種 左配置・右向き
ブルガリア 1レフ〜1000レヴァ 各種 左配置・右向き 体制変革後も配置は変わらなかった。



【左右の理屈】