左利きが構造主義を読むと…           2002-8-23


■素人が分かりもしないのに難しいことを書くなと、お叱りを受けそうだが、実は結構本気なのである。「左利き問題」を解決する方法論として構造主義的方法論が有効ではないかと直感的に感じてしまったのだ。もちろん自分ではできないけれど、誰かにやって欲しい、そう思って書き始めます。

■そもそも私の中で「左利き」と「構造主義」はまったくつながりはなかった。それがあるとき(数ヶ月前)ネットのメーリングリストで、全人口に対する「左利き」比率が話題になった時に、突然つながった。これは大発見だと、かなり興奮した訳である。レヴィ・ストロースが文化人類学の方法にソシュールの構造を持ち込んで提示したのと同じように、「左利き」を「関係」によって分類し、その「構造」を明らかにし、それに含まれる操作可能関数を制御することによって「左利き」であることが社会の中で好ましい状態にしようというアイデアである。

■ある人は左利きの比率は約10%だと言った。別の人はある根拠をもとに15%と主張した。さらに、色々な比率数字が飛び出す。そんな中で、以前読んだ「構造主義的方法論入門」(高田明典:夏目書房)の記述を思い出した。そこでは、白と黒と灰色の区別について書いてある。人は誰でも白と黒は区別できると思っている。そしてその区別は、他の人が行うのと同一だと思っている。しかし、人が白と黒だと思っているのは、以下の図のような連続的な変化量である。その何処かに線を引いて、白と黒(あるいは灰色を入れてもいいが)を区別する。どこに線を引くかは各人の経験や価値観に依存するだけで、どれが正しいと言うことはできない。
 今、左利きの比率は何%なのか?という議論は、この白黒チャートに分割線を引く作業と同じであり、どれが正しいかは確定できる問題ではないと思った訳である。

■例えば、左右の利きには、利き手、利き足、利き耳、利き目等がある。それらの左右偏りを厳密に計測して、それぞれに重み付けして、偏りを指数化するやり方を取る人がいる。別に「各人の複数の習慣行動の左右偏り」をヒアリングするやり方もある。私だったら「あなたは左利きか?」という質問をして「YES」と答えた人は左利きだと思う。
 このようにして得られた、あるいは得られるであろう数字が、バラツクのは当たり前である。だから、全人口に対する「左利き」の真実の(正確な)比率を求める努力は徒労なのである。

■上記の本で高田は次のように説明している。<構造主義の最も基本的な認識は何かといわれると、それは「反実体論」です。すべては「記号」であって、実体を考えることは妥当ではない、これを最初に強力に推し進めたのがソシュール。…これは言語を使って物事を考える以上「実在や実体」は問題にできないという意味です。構造主義の対象は、ソシュールが指摘したように「関係」です。関係こそが「構造」であり、関係をもとにして様々な事物の分類が行われます。「男性」という概念は、「男性」という実体そのものを指し示しているわけではなく、「女性ではない」「女性の対立概念」としての意味を持つものです。つまり「関係」が存在しなければ「分類」は存在しない。ある一つの分野における「関係」の集合を「構造」と呼ぶので、構造主義は専ら「概念と概念の間の関係」を扱うのだといっても過言ではありません。

■それでは「左利き」とは何か? 言語はそれを生み出した社会や文化の痕跡を残していると言われる。日本語の「左利き」と英語の「southpaw」は、比較言語学上では同じことを意味していないのだろう。「左利き」という言葉は、字義的な意味以上のものを媒介しているように思える。しかし構造主義の立場では、ものそれ自体に関心を持たない。ものそれ自体はない、あるのは「関係」であるという。ということで、関係からアプローチするとしたら、人は自らの対称器官のうち、いずれか一方の機能が高い、あるいは偏重して利用することがあり、これを「右利き」「左利き」と呼んでいるので、これから「左利き」はないが、「左利きと右利きの関係」はあると言えば、少し構造主義らしいか。

■ここで、具体的な事例を考える。人が一般的な場面(左利き/右利きが話題に含まれていない)で自らを紹介する場面とする。そのとき、左利きが「私は左利きです」と名乗ることは、それだけでその人の特質の一部を説明していると了解されるが、同じ場面で右利きの人が「私は右利きです」と説明することはない。それは何も説明したことにならないからである。
 これから、「左利き」と「右利き」は対立概念ではないと考えざるを得ない。右利きの人は自分が右利きであることを自覚していない。すなわち「左利き」とは、上位の概念であって、それに従属して「右利き」という概念が付随する。左利きがいなければ「右利き」という言葉は必要ない。

■ここから一つの構造が見えてくる。「左利き」とは利き側を意識している人々で、「右利き」とは利き側を意識していない人々。これで、とりあえず一つの分類形式が思いついた。そして(形式0の質問)「左利きが左利きであることを意識するのは何故か?」を(形式1の質問)「左利きが左利きであることを意識しないようにするにはどうしたらよいか?」という制御可能な形式にできることになったのかな? さらにこんな分類はダメか。「左利き」とは見られる人々で、「右利き」とは見られない人々。「左利き」とは「違う」人々で、「右利き」は「違わない」人々。………うーん、

■そこで気が付いたは「左利き」「右利き」の構造は「女性」「男性」の関係と共通構造ではないかということ。「女性」は女性であることを意識し、見られ、男と違うとされる。ということは、「左利き」が問題であるとすれば、その解決は共通な構造である「女性」問題(フェミニズム)での方法が利用できることになる。
 私の辞書によれば、男と女には少なくとも三つのカテゴリーがある。性染色体の組み合わせで決まる生物学的セックスとしての性、外性器の形態で決まる社会的な性、性格や心理などて決まるジェンダーとしての性。これらの三つの性は究極的には互いに独立である。このアナロジーから左利きを分類すると、利き手にも三つのカテゴリーが作れる。
 1)染色体の組み合わせで決まる生物学的利き手
 2)手を使う外観から決まる社会的な利き手
 3)性格や心理などで決まるジェンダー的利き手
的確なアナロジーにはならなかったけれど、左利きというものを一面的に見ないためのヒントにはなりそう。ところで、ここで気が付く重大な構造がある。左利きの女性は「左利き」と「女性」という二重構造に組み込まれていて、男性の左利きの置かれている立場とはまったく違うということ。左利き女性の問題の方が、左利き男性の問題より、それが問題になるとしたらより深刻になる可能性があるということ。このあたりに、デリカシーの欠ける発言が、誰かを傷つけているかもしれない。
…………
ここまで書くのに3日、それから既に1週間ほど文章を進めることができなくなった。よって竜頭蛇尾だが、ここでやめるしかない。

■以上、たった1冊だけ読んだ入門書(どうも正統的な本ではなさそうだし…)、しかもかなりバイアスの掛かった読解をした結果を、何とか「左利き」問題に適用しようと苦戦したものの、手におえなくなった。このようなことがただの雑読のサラリーマンにできようはずがない。もっと若かったら…と残念である。
夭折のロベール・エルツは1909年に「右手の優越」を書いて、利き手についての文化人類学的アプローチを最も古典的文献として残している。レヴィ・ストロースが「悲しき熱帯」を書いたのは1955年、エルツが普通に生きていても、ストロースの方法論を手にして、「左利き」の構造を明らかにすることはできなかった。学生で「左利き」をテーマとして論文を書く人は少なくない。社会科学的に「左利き」をとらえるには、「構造主義的方法論」がおもしろそうだ。どなたか柔軟な脳を持った方に、アプローチしてもらいたい方法論だと思う次第。やっていただければ、エルツ以来の快挙となること請け合いなのです。



【左右の理屈】