聖母は主を左右どちらに抱いたか   2005-5-29 




ダビンチの「聖母子」(右側に抱かれた事例)

■左利き俗説本の典型がスタンリー・コレンの「THE LEFT-HANDER SYNDROME」である。コレンもまずかったが、これを{「左利きは危険がいっぱい」とセンセーショナルに売った文芸春秋も尊敬できない。発行されてからすでに10年を経て、あまり話題になることはない。この本の最大の欠陥は、論拠としているデータの出所を明示していないことである。それは先行する書籍の引き写しが主要な理由であるが、今回はにデータの恣意性について指摘したい。

■まず、コレン本のP.83を引用する。
「…もう一つ、やはり私が奇抜な部類に入れた理論は、1884年に初めて化学雑誌「マインド」に掲載されたもので、これを利き手の子守り理論とでも名づけることにしよう。論文にはこうある。「子守りが右腕に子供を抱くのは、子供の右腕を自由に動かせるようにするためだ。子供の右側を抱き締めると血圧が正常に保たれなくなる。」こうした行動から当然考えられる結果が右手利きである。ところが、この理論にもいくつかの難点がある。母親がどちら側で子供を抱くかについて実際に100の例を観察してみると、母親の73%が子供を左側に抱え、利き手である右手で何でも自由にこなせるようにしていることがわかった。さらに私は、マドンナとキリストを描いた肖像画111点を調べてみた。画家たちは、おそらく実際の親子をモデルにしたり、子供を抱く生身の人間の記憶を頼りに絵を描いているだろうから、子供が母親のどちら側に描かれているかを見れば、ごく一般的な子供の抱き方がわかるのではないかと思ったのである。すると、左側に抱いている例が76作品、すなわち全作品の68%に達していた。…」

■ここでは、コレンが聖母子像の68%が左側に抱いていたというデータについて追試する。私の手元の美術館ガイドブックや画集をしらみつぶしに調べた。コレンの111点以上はリストアップしたいものだ。そもそもは、フランクフルトのシュテーデル美術館のガイドブックをながめていたら、何か右手に幼子イエスを抱くシーンの方が多そうに感じたことに、この瑣末にこだわった私の調査が始まる。

(注)この場合の左右は即体的に定義される。また左側とするものは、マリアの体の中心線よりもイエスが左側に位置するもの、イエスの頭部がマリアの左側、体が右側に伸びているものとする。右側とはその逆である。左右はっきりしないものは中央とした。

■下の私のリストには116作品がある。左側55点、右側46点、中央14点という結果で、全作品の45%が左側となり、コレンの結果とは大きく異なる。これは母数が小さいことによるもので、コレンはわずか111点のデータから、自説を導くという誤りを犯している。聖母子は、1300年頃から1600年頃に集中的に描かれるが、コレン自身がこれらの絵画を見てデータを整理したとすれば、初期のテンペラやフレスコで描かれたイタリア絵画に左側画像が多いことに気がついたはずである。(ウフィッツィ、バチカン、シエナの絵画を参照) それがフランドル、ルネッサンス、北方ドイツになるにしたがって、その表現が自由になっていくように見える。宗教画は一般にその表現に様式性が強いので、コレンが主張するように「画家たちは、おそらく実際の親子をモデルにしたり、子供を抱く生身の人間の記憶を頼りに絵を描いているだろう」といえない。多くの聖母子画は、イエスをたとえば東方三博士のような相手側に見せるようにポーズを取っている。一般に子守りが子供を抱くのとは別の状況なのだ。こんなことも、自分が絵を見て整理すれば、分かることだ。
 コレンは、聖母子画像から一般の母親が子供を抱く方向を推定できるという着想を気に入ったに違いない。それで、ちょこちょこっとした調査で、結論を出すという学術的に意義のないことをしてしまったと思う。
 いうまでもなく、私の調べた範囲も広くはない。よって、タイトルの「聖母は主をどちら側に抱いたか」の結論は得られていない。もっと絵画に詳しい方が調べれば、おもしろい推論が得られるかもしれない。ともかく、下表を作るのに3日がかりだったが、たくさんの聖母子画像を見ることができて実におもしろかった。

(注)今回、コレンが何を下敷きにしたか調べてみた。1980年に原著が発行されたJ・ヘロンの「左きき学:西村書店」に、それと推定される文章を発見した。以下に同書のP.39から引用する。
 …1880年代から、子供が母や乳母にどのように抱かれるかを問題にする文献が現れはじめた。ホールとハートウェル(1884)は子の抱き方とその影響について、「乳母は右腕で子を抱くので、子の右腕が自由に動けるようになる。また乳母は子を右胸に押しつけるので、子の血圧の平衡が乱される」とのべた。…こうした習慣が毎世代繰り返されて、右利きが通例になる。…のちにシリル・バートは100例を観察し、27例では子が右腕で、73例では左手でだかれているのを知ってこの考えを支持した(バート、1937)。バートは聖母マリアがその一人子を左に抱く像が多いことをも報じた。(注:近年、ウールブロック(1973)は聖母マリアの絵や彫像、1100点を調べね596でキリストが聖母の左、425で右に抱かれ、89では中央にあることを発見した。

 以上のヘロンの先行文献を知って唖然とする。コレンには、この部分に関してまったくのオリジナリテイはない。むしろ少ないデータで読者を幻惑した咎は少なくない。そして、ちよっとうれしかったのは、ウールブロックの調査結果と私の調査結果がかなり近似していたことである。


作者 タイトル 位置
シュテーデル
美術館

(フランクフルト)
2/10
アルトドルファー Anbetung der Konige 中央
Robert Campin Madonna mit Kind 右側
ワイデン Medici-Madonna 右側
バン アイク Lucca Madonna 右側
Petrus Christus Madonna mit Kind … 右側
Hugo van der Goes Marientriptychon 左側
フラ・アンジェリコ Thronende Madonna im Kreise von Engeln 左側
ベッリーニ Madonna mit Kind und den Heiligen … 右側
ペルジーノ Madonna mit Kind und … 右側
Moretto da Brescia ThronendeMadonna mit Kind und … 右側
ウイーン美術史
博物館

6/7
Joos van Cleve Virgin and Child 左側
デューラー The Virgin and Child with a sliced pear 右側
バン アイク Madonna and Child ,St.Rosalie … 左側
ティツィアーノ Gypsy Madonna 左側
Lorenzo Lotto Madonna and Child with … 左側
Jacopo Bassano Adoration of the Three Kings 左側
Antonio Rossellino Madonna and Child 左側
ウンターリンデン
美術館
(コルマール)
3/8
不詳 Virgin and Child 左側
不詳 Niedermorschwihr Virgin and Child 中央
不詳 Virgin and Child 左側
不詳 The Martyrdom of the Catherine 右側
Martin Schongauer Virgin and Child holding an apple 左側
不詳 The Adoration of the Magi 右側
Martin Schongauer The Adoration of the Magi 右側
グリューネバルト イーゼンハイム祭壇画 右側
アルテ
ピナコティーク

(ミュンヘン)
8/17
ワイデン Columba-alter 右側
Deiric Bouts Flugelalter 中央
メムリング Die Sieben Freuden Mariae 右側
Gerard David Anbetung der Konige 中央
Lucas van Leyden Marie mit dem kind. … 右側
不詳 Kolnisch 左側
Martin Schongauer Heillige Famillie 左側
アルトドルファー Geburt Mariae 中央
Masolino da Panicale Maria mit Kinde 左側
ダビンチ Maria mit dem Kinde 右側
ギルランダイヨ Maria mit Kinde,den hll. Dominikus … 左側
Cima da Conegliano Maria mit dem Kinde und … 左側
Lorenzo Lotto Die Mystische Vermahlung der … 左側
ラファエロ Die Madonna della Tenda 左側
Jacopo Palma il Vecchio Maria mit dem Kinde und den hll.Rochus … 左側
Tizian Maria mit dem Kinde in einer … 右側
バザーリ Die Heilige Familie mit dem … 右側
プラド美術館
(マドリッド)

7/19
エルグレコ The Holy Family 左側
エルグレコ The Adoration of the Shepherds 右側
Luis de Morales The Virgin and Child 右側
Nicolas Frances Retable of the Life of the Virgin 右側
不詳 The Virgin of the Catholic Kings 左側
Christus Virgin and Child 中央
ダビッド Virgin and Child 左側
Mabuse The Virgin and Child 右側
Mabuse The Virgin of Louvain 右側
Orley Virgin and Child 右側
メムリング The Adoration of the Kings 右側
ルーベンス The Holy Family with St. Anne  右側
D. Seghers Garland … 右側
ワイデン Virgin and Child 右側
Giorgoine The Virgin and Child between St.Anthony 左側
コレッジョ Madonna and Child 左側
Procaccini The Holy Family 左側
ラファエロ Madonna with arose 左側
Sassoferrato Madonna and Child 右側
ウフィッツィ
美術館

(フィレンツェ)
14/30
ボニンセーニャ マエスタ 左側
ジオット バ゛ティアのポリプテック 左側
ジオット マエスタ 左側
チマブーエ サンタ・トリニタのマエスタ 左側
ベルナルド・ダディ サン・パンクラツィオのポリプティック 左側
ロレンツォ・モナコ 東方三博士の礼拝 左側
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ 東方三博士の礼拝 左側
マザッチョ 聖アンナ・メッテルツァ 左側
ドメニコ・ベネツィアーノ サンタ・ルチア・ディ・マニョリの祭壇画 右側
フィリッポ・リッピ ノヴァツィアート祭壇画 右側
フィリッポ・リッピ 東方三博士の礼拝 右側
フィリッポ・リッピ 聖母子と聖人たち 右側
ボッティチェッリ マニフィカトの聖母 中央
ボッティチェッリ ザクロの聖母 左側
ボッティチェッリ 東方三博士の礼拝 中央
ボッティチェッリ サンタンブロージュの祭壇画 左側
ギルランダイオ 玉座の聖母と天使と聖人たち 左側
ダヴィンチ 東方三博士の礼拝 左側
デューラー 東方三博士の礼拝 中央
マンティーニャ 岩場の聖母 左側
マンティーニャ 東方三博士の礼拝 中央
マンティーニャ 割礼 右側
ミケランジェロ トンド・ドーニ 右側
アンドレア・デル・サルト ハルピュイアの聖母 右側
ロッソ・フィオレンティーノ スペダリンゴの聖母 右側
パルミジャニーノ サン・ザッカリアの聖母 中央
パルミジャニーノ 長い首の聖母 左側
ヴェロネーゼ 聖家族と聖カタリナと… 右側
サッセッタ 雪の聖母の祭壇画 右側
カスターニョ パッツィ家の聖母 右側
ヴァチカン
美術館
4/5
フラ・アンジェリコ 聖母子と聖ドメニコ 左側
アンジェリコ派 玉座の聖母 左側
ペルジーノ 聖母子と4人の聖人 左側
ウンブリア派 聖母子と聖ヨハネ 右側
ラファエロ フォリーニョの聖母 左側
ピナコティーカ
(シエナ)

7/11
ブオニンセンニャ フランシスコ修道会の聖マリア 左側
ロレンツェッティ 小さなマエスタ 左側
フレディ 占師の崇拝 中央
ロレンツェッティ 聖ドロテアのポリプティック 左側
ジョヴァンニ・デ・パオロ エジブト逃亡 左側
ロレンツェッティ 王座の聖母マリア 左側
マッテオ・ジョヴァンニ 幼子イエスと聖母マリア 右側
ミケリーノ・ダ・ベソッツォ 聖カテリーナ・ダレッサンドリアの精神的婚礼 左側
バルトロメオ・ランディ 幼児イエスと聖母マリア 右側
テッディオ・バルトロ 占師の崇拝 中央
グイード・ダ・シエナ 幼子イエスと聖母マリアと二人の天使 左側
ルーブル
美術館

1/3
チマブーエ 6人の天使に囲まれる荘厳の聖母子 左側
カレッジオ 聖カタリナの神秘的結婚 中央
ヴァン アイク 宰相ロランの聖母 中央
デトロイト美術館 聖ルーシー伝 バラ園の聖母子 右側
ボイマンス美術館 ヘールトーテン・トート・シント・ヤンス 聖母子 右側
ワシントン・ナショナル・ギャラリー スホーレル エジプト逃避途中の休息 右側
アントワープ王立美術館 フーケ ムランの祭壇画 左側
サン・ソーヴール大聖堂 ニコラ・フロマン 燃える柴 左側
ナポリ・カポディモンテ美術館 ジャン・ブールディション 3翼祭壇画 左側


【左右の理屈】