左側通行と右側通行                                                                2005-6-5 




広重 「東海道五十三次」 京都三条大橋(部分)
画面をルーペで見る限り「右側通行」のように見える

時代 歩行者 自動車 鉄道 備考
日本 江戸時代 A説《右側通行》
武士は左側に刀を差しているので、前方から来た武士に抜き打ちに切られないようにするために、右側通行が守られていたようであるとされる。
B説《左側通行》
武士は左側に刀を差しているので、右側通行をすると刀の鞘と鞘がぶつかりやすいとされる。
規定なし 規定なし 俗説の又引きにも困ったものだ。今まではB説を信奉していたのだが……
明治時代 《左側通行》
明治14年警視庁通達
戦後 《左側通行》
昭和22年道路交通取締法
《右側通行》
昭和24年道路交通取締法改正
(QHQの対面交通化への指導)
《左側通行》
昭和22年道路交通取締法
《左側通行》
昭和24年道路交通取締法改正
(QHQの対面交通化への指導
昭和24年の道路交通取締法の改正時、鉄道駅構内の歩行者は「左側通行」の例外が認められ現在にいたる。
沖縄返還時 第2次世界大戦後アメリカの占領中は右側運転であった。しかし1978年7月、左側運転の日本に復帰直後、左側に変更した。8時間の交通禁止が7月29日午後10時から始まった。この間に技能者たちは交通標識や信号機やバス停の変更を行った。必要な場合に備え日本本土から2500人の応援警察官が派遣され、何百台の救急車が戦略地点に配置された。かくして午前6時サイレンが鳴った。それがすべての交通に−−街路と道路の左側で−−移動を開始する合図であった。この切換えの総費用は8000万米ドルと見積もられている。
 (「人と車」ホッパーより)
現代

《右側通行》
道路交通法第10条@歩行者は、歩道又は歩行者の通行に十分な幅員を有する路側帯(次項及び次条において『歩道等』という。)と車道の区別のない道路においては、道路の右側帯によって通行しなければならない。ただし、道路の右側帯を通行することが危険であるときその他やむを得ないときは、道路の左側帯に寄って通行することができる。

《左側通行》
道路交通法第17条C車両は、道路(歩道等と車道の区別のある道路においては、車道。以下第9節までにおいて同じ。)の中央(軌道が道路の側端に寄つて設けられている場合においては当該道路の軌道敷を除いた部分の中央とし、道路標識等による中央線が設けられているときはその中央線の設けられた道路の部分を中央とする。以下同じ。)から左の部分(以下「左側部分」という。)を通行しなければならない。
《左側通行》

■たまたま先々週、ヨーロッパ出張した。成田からいきなりスエーデンの田舎町に来て、相変わらず、道路を横断するとき、車が右側から来るか、左側から来るか戸惑っている自分を見つける。スエーデンはイギリス式の自動車の「左側通行」から戦後ある時期に「右側通行」に切り替えたことで知られる。帰ったら、この「右側通行」/「左側通行」問題について書いて見ようと思い立った訳である。そこで、帰国して、「スエーデン、左側通行、右側通行」で検索をかけてみた。

…ストックホルムでは 地下鉄・国鉄=左側、路面電車=右側 なので地下鉄と路面電車の接続駅では路面電車が立体交差で一ひねりしてある。…
 …スエーデンは右側通行→左側通行→右側通行と変わった珍しい例。…

などと、なかなか興味深い情報が得られたが、その出典や、信憑性ははっきりしない。インターネットは便利なのだが、ここらあたりが、一番の問題だ。スエーデンだけでなく、日本や米国式、英国式の交通ルールの話しなど、概して伝聞のまた伝聞と言うか、そのまた伝聞としてコピー アンド ペーストされて、あちらでもこちらでも、物知り顔に語られる。もっときちんと教えてくださいと、お願いしたいところである。少しイライラしてしまって、分かる範囲で整理しようと思った次第。

■手元の本で、「左側通行、右側通行」の記述の最も古いものは、マイケル・バーズリー「左ききの本」TBS出版会(1973年)である。まず、これを引用させていただこうと思ったが、今回ウェブで知った「左‐右:なぜ運転ルールは違うか」R.H.HOPPER著」(人と車:1983年2月)から得られる情報を合わせると、かなり確度の高い情報となるように思う。

マイケル・バーズリー「左ききの本」(1973年) HOPPER「左‐右:なぜ運転ルールは違うか」(1983年)
人間の右利き的
行動様式
人《左側通行》
徒歩または乗馬で、左手に防御用盾を持たないで道路や小路を進む人間は、前方から未知の人間が近づくのを見たとき、左側に身を寄せたようである。これは防御的態度であって、必要になったら、双方ともその右手で剣を抜き槍を構えることができたためであった。
ヨーロッパの
歩行ルール
(法王勅令)
人《左側通行》
スタディーはなぜ道路の左側通行規則ができたかについては次のように述べている−−「昔のある教皇が、ヨーロッパ大陸を通じて道路を使用するものは、身の安全のため、すべて左側を通行すべしという命を出された。さもないと、馬に乗った人や追いはぎの「ムチを握る右手」との関係が問題になるからである。 法王ボニファチウス8世は、西暦1300年の最初の特赦の年を布告するに際し、゛すべての道はローマに通ず゛と宣言し、ローマへの巡礼に道路の左側を通行するように指令した。
フランスの
歩行ルール
(フランス革命の影響)
人《右側通行》
ロベスピエールと彼に従う無心論者たちは、左側通行規則はキリスト教の定めたものだから廃止すべきであると考えた。 反カソリックのロベスピエールや彼のジャコバン党員たちは古来の法王の左側通行指令に憤慨し、パリ市民に右側運転(ママ)を普及させた。
注)運転は翻訳ミスと思われる。 
ナポレオン戦法
の影響
人・車《右側通行》
第二の説はナポレオンと戦闘のきまりに関連するものである。リチャード一世(豪胆王)が定めて以来、指揮官は隊の左の側面の兵士を第一に攻撃に当たらせることが伝統になっていた。つまり戦闘行動をするため隊を旋回させる前に道路を行進しているとすると、左側に沿って進んでいなければならないことになる。ナポレオンは独創的な男だったので、この戦法を逆にし右側面から攻撃して多くの素晴らしい勝利をものにすることができた。この戦法を効果的にするため、ナポレオンは兵士と車両が道路の右側沿いに進むように命令したという。
注)理解に苦しむ説明である。
…ナポレオンに征服されなかった、イギリス、スエーデンおよびボヘミアでは、最近まで左側通行となっていた。
注)現在はスエーデンとボヘミア(チェコ、スロヴァキア)は右側通行に切り替えた。
ナポレオン1世は、彼の軍隊の交通に、その厖大な補給用車両ともども、右側通行を命じた。そして市民も軍隊のそれに倣った。ナポレオンの征服した多くの国々で、右側通行がルールになりそして現在もそうである。
イギリスの馬車
は御者が右側

車《左側通行》
自動車協会およびロンドン王立自動車クラブは各方面から意見を受け取った。ある見解は、数頭立ての馬車の場合御者たちは常に右側に坐っていたから、彼らはムチを自由に−−かならずしも他のムチを振る人に当たらないように−−使うことができたであろうというものであった。
彼らが他の車輌と出会った時は左側に寄せて二車間のゆとりを十分にとるようにするのが自然であった。
 スコットランドでは1772年に交通法が制定されて左側通行となった。イングランドでも1835年道路交通法では、
左側通行を守らない者には罰金刑を課すことが定められた。
18世紀19世紀のイギリスの荷馬車は、コニストゥガ(注:西部劇の幌馬車の元祖)より小さく正面に御者席があった。御者は、後方の荷物に妨げられることなくその右手で長い鞭が使えるようにも御者席の右側に座った。対向してくる荷馬車と行き違う際、御者は道路の左側に寄る傾向があった。…こうして中世の左側通行の方針が近代のイギリスに持ち越された。
アメリカの馬車
(フランスの馬車)
は御者が左側

車《右側通行》
フランス革命説やナポレオン説に対して第三の説があり、これは位置に関するものである。御者は一連の馬の後後方の馬にまたがって、彼らを最も御しやすい場所を占めるのが慣例であった。ということは、通行する時は安全のために四輪大型馬車または四輪の荷馬車は右側に寄って走らなければならなかった。このやり方はアメリカで行われたらしい。…大ほろ馬車、つまり、ペンシルウァニア州のコネストウガ渓谷から近くの町へ小麦を運搬するために使った、船のような四輪大型荷馬車にも、後列左の馬に御者がおり、そのため他の荷馬車とすれちがう時は右側に寄せて走った。 なぜ多くの国々は最近イギリスに影響されず右側通行と定めているのか。その理由は18世紀末にさかのぼり、2頭ずつつないだ6頭または8頭立ての大型荷馬車の出現によるのである。これら荷馬車のなかに、アメリカ東部のコニストゥガ・ワゴン−−大型幌馬車の先触れ−−があった。コニストゥガ・ワゴンは、最初ペンシルバニアのコニストゥガ渓谷から近傍の都市に小麦を運搬するのに使われ、御者席がなかった。御者は鞭を右手に持ち、左側最後尾の馬に乗って馬車を操縦した。
反対方向に行く2台の荷馬車が…、双方の御者の自然な傾向はそれぞれの車輌を右側に寄せることであった。このようにすることによって、御者はその左側を見とおして車軸のこしきや車輪がぶつかるのを避けることができた。
1792年ペンシルバニア幹線道路の右側通行が州議会で制定された。州内すべての道路で右側通行を命じた最初の州法が1804年ニューヨーク州で通過した。

■大体のことは分かったが、人の通行形態、乗馬の通行形態と車(馬車→自動車)の通行形態における論理の混乱があるように感じられ、少し釈然としない。とくに人と車の対面交通が始まった経緯が分からない。
 しかし、この文章を書き始めるきっかけとなったスエーデンの事例については、ホッパーの論文によってはっきりした。
…スエーデンは右側通行→左側通行→右側通行と変わった珍しい例。…
ではなく
…スエーデンは左側通行→右側通行→左側通行→右側通行と変わった珍しい例。…
であった。以下に引用する。

■スエーデン人は、ナポレオンに征服されずに左側運転をヨーロッパ大陸最後の人々である。彼等は1527年ルーテル教会派になったけれども、1300年のボニフアチウス8世の布告に従い続けたのである。その例外は右側運転になったカール12世統治下の16年間である。1734年王が他界すると、左側に復帰した。1967年、彼等は右側に切り換えた。子の変更に援用された一つの理由は、サーブやボルボの自動車輸出大市場のほとんとすべてが左ハンドル車を要求するのに、国内市場のため若干の右ハンドル車を製造し続けるのは引き合わないということである。


レコードジャケットに見つけた馬車の「左側通行」の画像
(ドイツ・オーストリーの絵画と思われる:なぜ「右側通行」で書かなかったのか)


【引用情報】
右側通行への疑問 http://www.amy.hi-ho.ne.jp/makj/sub2_3.html
「左ききの本」マイケル・バーズリー著・TBS出版会(1973年)
「左‐右:なぜ運転ルールは違うか」R.H.HOPPER著・今竹義一訳(「人と車」1983年2月号)




<2011-2-12追記>
 身辺整理で1968年学生時代に購入した本(中央公論社:世界の歴史 3 中世ヨーロッパ,堀米庸三)を捨てようとして、以下の文章を発見した。バーズリーの記述より早い。本は捨てるので、該当部分は引用して残すこととした。

右側通行か左側通行か
 ところで、中世の旅行者は道のどちら側を歩いていたのだろうか。右側通行か左側通行かの問題は、今日のわが国でもそれぞれの側から是非がしきりに論ぜられているが、中世の人々にとっては、今日の交通政策とはまた違った意味でこのことが大きな関心事となっていた。彼らは道中でいつ盗賊や敵に出くわすかわからない。だから貴族は当然ながら、商人その他の旅人も、武装し、刀とか槍とかを持って族行した。
 前からやってくる者に不意に襲われた場合、道のどちら側にいた方が有利か。武器は右手に持つ関係上、敵を自分の右側に回した方が好都合である。道のの両わきや自分の背後から攻撃される場合は、もちろん敵が右からくるか左からくるかはわからないわけであるから、少なくとも前方の相手を警戒しつつ歩く態度として、左側通行がこの当時の交通の原則であった。

 これに対して右側通行はいつからどこで始まったか。それは通行人が武器として火器、つまり、銃を持つようになったときから、また持たねばならなかったところにおいてである。銃は銃身を左の小わきに抱えて携行するから、とっさの場合に身を左にひねれるような歩き方をした方がよいわけだ。つまり道路の右側を歩いて、前方からの敵を左に迎え撃つということである。ただし、ヨーロッパ諸国では、大体火器が発達し普及するころ、つまり近世には、すでに国家の統一が一応なしとげられ、国王による治安維持もよく行なわれるようになっていたから、旅人ほもはや武器を携える必要はなかったし、また国王は国内の平和を保つために、武器携行を禁ずる瘍合が多かった。したがって刀や槍の時代が終わったとしても、このために左側通行かち右側通行に変わってしまったわけではなく、イギリスでは現在でも左側通行を守っている。

 これに反し、イギリス植民地時代のアメリカでは、いつなんどきインディアンその他の敵に遭遇するかわからなかったから、ニューーイングランドの農民やヴァージニアのプランター、それに辺境開拓者などは、つねに銃をもち右側通行を厳守した。これがアメリカでの右側通行のはじまりである。

 わが国では江戸の刀剣の時代から明治の統一国家に進んだのであるから、旅行者が銃を持って歩く時代は一般にはなかったわけである。だから現在の交通政策上の諸問題はともかくとして、少なくとも歴史的には、戦後とり入れられたアメリカ式より戦前の左側通行の方が正しいということになろう。







【左右の理屈】