語彙の森DICTIONARY out of focus
123 更新日 2017-8-31 計96語
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7つの秘跡、12世紀のイスラム学者、1933年、13世紀のビスマルク、1812年の彗星、五妙欲、五取蘊、100年戦争の終結、一種の誤謬、20世紀のアールワール、十字軍(第2次〜第8次 )、1101年の十字軍、七という数字の象徴、1889年、五蘊(うん)説、4世代論、

一種の誤謬(488)
 ニーチェは、『権力への意志』のうちで、次のように言っている。
「理性とそのカテゴリーを信頼するということは、それらが生にとって有益だということを示しているにすぎない。」
「真理とは、それなくしては特定の種類の生物が生きることができないような一種の誤謬である。」

一元論協会(353)
 アーリア人の神話は強力だ。19世紀に大きな影響を及ぼしたアルチュール・ゴビノーのエッセー、『人種の不平等』によれば、アーリア人は大昔に故国を離れてヨーロッパに移り住んだ優秀な種族である。神話では、「この地球上で人類がなしとげた偉大なこと、実り多いこと、高貴なことは、すべて偉大なアーリア民族に由来するもの」であり、それにはエジプト、ローマ、中国、ペルーなどの古代文明も含まれる。社会ダーウィン主義は、それぞれの人種は平等ではないという考え方を、ある人種は他の人種よりも生存に適しているという生物学的仮説に変換するのに一役買った。ドイツの発生学者へッケルとその一元論協会は、全世界にむかって、とりわけドイツにむかって、「諸民族の全歴史は自然淘汰によって説明することができる」と説いた。ヒトラーとそのゆがんだ理論は、この似非科学を政策に変え、人種の純化と適者生存という名のもとに、すべての人種を破滅させようとしたのだ。

一次言語(164)ノイマン
 いわゆる言語は歴史の産物であって絶対の必然性などなかったように、論理学や数学も 歴史の産物、たまたまできた表現と見るのが正しい。これらは二次言語だ。脳の中枢神経 には根源の一次言語があるはずだ。

一族の母(365)
 一族の母になるには、いくつかの資格が必要だ。まずは、娘を産む必要がある。これはわかりきったことだろう。われわれが扱っている遺伝子ミトコンドリアDNAは、母親から子どもへと受け継がれるのだから。息子しか産まなかった女性は、一族の母にはなりえない。彼女の子どもたちは、母親から受け継いだミトコンドリアDNAを次世代に受けわたすことができないのだ。第二のルールは、娘がふたり以上いなければならないということだ。…一族のなかでこの二十一世紀に生きる母系子孫を持つ女性は、ふたりだけしかいなくなる。さらにさかのぽると、そのふたりの女性の系列がひとりの女性のところでひとつになる。これがほんものの一族の母である。その位置につくには、彼女にはひとりではなく、ふたりの娘がいなければならないのだ。

1ダーウィン(207)p.142
 1949年にホールデインは、進化の速度は動物か植物かにかかわらず、また現生の生物か化石生物かにかかわらず、統一した単位で表わすべきだと提唱した。この単位がダーウィンであり、1ダーウィンは、100万年に1パーセントの変化とした。ダーウィン以来、進化の速度はきわめて遅く、この変化を実証するのは困難であると考えられてきた。……グラント夫妻によるフィンチの研究は、特に1977年の旱魃によってたった一年で劇的な進化が起こることを実証したように、生物を近くで見れば見るほど、進化的変化は速く著しいが、時間的に遠く離れれば離れるほど、変化は目につかなくなる。
 
一人の死(40)
 一人が死ぬということは、全員が少しづつ死ぬことだ。ものを見ることも経験も一体と なって行う部族にとって、一対の目が闇の中へと消え去るのは、細密に織り上げられたタ ペストリーから一本の糸がほどけ全体が損なわれてしまうのと同じことだった。

1ドル紙幣(9)
 1ドル紙幣の裏のピラミッド図は奇妙である。ピラミッドの頂点に目が描かれていて、 いかにも秘教的イメージを感じさせる。表の人物像がジョージ・ワシントンであって、彼 がアメリカにおけるフリーメーソンの代表的存在であることが分かるとこの「万物を見通 す目」が描かれている意味が分かる。

二眼レフ(192)  
 必然的にカメラマンは頭を低くしてモデルに臨む訳で、二者の間に控えめな穏やかな関 係が生まれやすい。ローライコードのシュナイダー社製クセナーは、プラナーのこってり としたゴージャスな写りに対していぶし銀の描写力を持っている。

2極管(123)  
 1904年キャベンデッシュ研究所フレミングが発明。それ以前にエジソンはエジソン 効果として知られる2極管構造での整流効果を発見していたが、発電と送電の文脈でこの 現象をみていたので、通信における検波でこれを利用するという発想にいたらなかった。

 ■2群ズーム(69)
 ヨンサンハチロクと呼ばれるニッコールの3群ズームを凌駕したのがキャノンの2群式 35〜70mm。前玉でフォーカシング、次がズーミングをするバリエータ、次がバリエ ータで生じるピント移動を補正するコンペンセータ、後玉は結像ようのリレーレンズとい うのが、基本的4群ズーム。これを2群で実現し、しかも解放で中央224本。平均14 8本というシャープさを誇った。

 ■二酸化炭素(67) 
 火星や金星の大気の90%以上は二酸化炭素である。地球表面には当初なかった酸素が ストロマトライト生物によって生み出され、逆に原始大気に現在の20万倍も含有されて いた二酸化炭素が減少して0.003%となったことが、地球の生物の進化を促し結果と して人類文明を生み出した。この二酸化炭素はどこにいったのか。珊瑚である。珊瑚がこ れを吸収して石灰岩として固着した。

 ■二重螺旋(72)
 1953年にケンブリッジ大学のワトソンとクリックによって解明されたDNAの構造 。シャルガフがDNAの塩基にA=T、G=Cの関係があることを示し、ウイルキンスが X線回折でラセン構造を示唆したことが、彼らの業績の基礎となった。

二つの塔(271)指輪物語
 ゴンドールの首都はオスギリアス、星々の城の意味である。オスギリアスの都の中を大河が流れていた。そしてまたかれらは、東の方、影の山の肩に、ミナス・イシル、すなわち「月の出の塔」を建てた。また、西の方には、白の山脈の麓に、ミナス・アノル、すなわち「日の没りの塔」を建てた。…かくて、あるとき、悪しきものたちが現れ来たって、ミナス・イシルを奪い、そこに住まって、それを恐怖のすみかに変えた。ためにこの場所は、ミナス・モルゴル、すなわち「呪魔の塔」と呼ばれるにいたった。それに従って、ミナス・アノルも新たにミナス・ティリス、すなわち「守護の塔」と名づけられた。

 ■二つの目(148)  
 石田禮助が運転手二人乗務制の廃止に当たって国会での答弁。「四つになったり、六つ になったりしたら、他力本願でろくなことはありゃせん。目の数じゃない。目のうしろに ついている精神だ。それが活躍しているかぎり目は一つでいいんだが、神様が二つつけて くれたから二つにしたんだ。」

三階菱(168)  
 土佐藩士岩崎弥太郎は廃藩置県の後、土佐藩の二隻の汽船を外国商館への個人的信用に よって手に入れ、これを原点に海運事業を発展させていった。三階菱は岩崎家の家紋であ る。これが三菱のマークとなる。

 ■3極管(123)  
 1906年にド・フォレストが発明したオーディオンがそれだという説が一般化してい る。しかしオーディオンは検波器として構想されており、3極管の増幅作用に気づき、こ れをGEに持ちこんだのは無名のロウェンシュタイン。

三元触媒(245)
 還元を担当するロジウムを触媒としてHCとCOがNOXから酸素を奪い無害な窒素に変える。同時にNOXから奪った酸素で酸化触媒である白金とパラジウムによってHCとCOを無害なH2OとCO2に変える。このように3つの有害物質の間で酸素をやりとりをすることで無害化する方法。ただしこの方法は理論空燃比近傍でしか有効でないので、酸素センサーで排気ガス中の酸素濃度を検出し、空燃比を一定になるように細かな制御が必要である。

3時間(341)
 西暦30年の春、エルサレム城外の岩だらけの丘で、一人の男が処刑された。男は十字架に両手、両足を釘づけにされ、三時間の苦しみの後、息たえた。その死を遠くから見守ったのは彼の母親や何人かの女性たちだけで、生前、この男が生活を共にし、おのが信念を吹きこもうとした友や弟子たちはすべて彼を見棄て逃亡していた。…この臨終の有様を伝え聞いた弟子たちは、はじめておのれの卑怯さ、弱さに号泣した。

三大韓国寺刹(177)  
 仏舎利を泰安して仏宝の寺と呼ばれる通度寺(トンドサ)。「八万大蔵経」の版木を収 蔵して法宝の寺と呼ばれる海印寺(ヘンインサ)。そして僧侶の修行道場とての歴史を持 つ僧宝の寺である松広寺(ソングアンサ)。この三つが仏・法・僧の三法を象徴する。

三頭内閣(419)
 ツァールスコエ・セローではラスプーチン、ヴィルボア、そして皇后=首相からなる新たな「三頭内閣」が、活発に活動していたのである。かつてフランス王権を崩壊させた革命の前夜、王妃マリー・アントワネットは一種のエネルギーの塊と化し、はりきって国家経営に乗り出したものだ。しかし当時オーストリアとの戦争が行われており、オーストリア皇后の娘であった彼女は「オーストリア女」とか女スパイとか呼ばれたのであった。
 ロシア革命の直前の年、アリクスもまったく同様におそるべきエネルギーに身を焦がし、同じく大臣たちを操縦しようとしていた。しかしドイツとの戦争が行われており、ドイツのヘッセン公の娘であるアリクスは「ドイツ女」とか女スパイとか呼ばれていた。


 ■三昧(20)  
 サンスクリットのサマルディ(瞑想)を語源とする。

三割値下げ(317)
 松下幸之助氏は「三割値下げするのはむずかしいやろな。半値にすることを考えてみたらどうや。半値となれば、根本から考え直さなければならないから楽やで」
 「ゼロをひとつとってみろ」「一万円でやってみろろ」大野耐一氏がよく口にしていた。
井深大氏も開発担当者に「10分の一」とよく言っていたという。ある製品ができると「さらに十分の一」と言う。


四元素(425)
 エンペドクレスの四元素(土、水、空気、火)はオリュンポスの神々の名前を持っていた。これらの元素は愛(アフロディア)の力によって結合し、あらゆる事物つまり太陽、地球、樹木そして「長寿をたもつ神々」さえも生み出した。原子論者が彼らの先人とほとんど同じぐらいに自然を神格化したとき、彼らは自然哲学者の宗教的伝統のうちにいぜんとしてとどまっていた。

四国八十八カ所(319)
弘法太師空海は774年讃岐国(現75番善通寺誕生院)に生まれた。出家し、名を無空と改め、山岳修行者に身を投じた。空海の死後、高弟真済が、師の修行のゆかりの地を遍歴したのが、四国巡拝の始まりとされる。室町期に入ると一般庶民も参加するようになり、八十八カ所の霊場が固定したのは室町末期から江戸初期にかけてであろう。…その道程360余里(約1440キロ)歩いて40日から60日ほどの日数をともなう長路の旅である。巡拝するごとに、発心、修行、菩提、涅槃と一国ずつ名称がつけられ、信心の度合をはかる関所が設けられている。

 ■四住期(177)  
 インド人の人生観。学生期、家住期を経て、俗世に半分、森に入って瞑想の生活を送る 林住期、最後に人生のしめくくりとして世俗で得たものを全てのものを捨て、水瓶と杖と 布一枚を持って巡礼行脚して果てる遊行期のライフ・サイクル。

 ■四諦(177)  
 シャカは苦行の無意味に気付き、極端な快楽にも、極端な苦行にも偏しない「中道」を 悟る。そして「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」を説く。「苦諦」は苦に関する真理であ り、「集諦」は苦の原因についての真理、「滅諦」は欲望のなくなった状態が苦滅の理想 の境地であるという真理、最後の「道諦」は苦滅にいたる八つの正しい修行の真理であり これが四諦八正道である。

四次元サイコロ(244)
 2次元面は1次元をスイープした軌跡である。3次元物体は2次元面をスイープした軌跡である。ということは「4次元の何物かは3次元物体をどちらかの方向へスイープした軌跡である」と言うことができる。同様に3次元物体の表面は「スイープ前後の2面と、スイープした4辺が作る4面の計6面からなる」ということの拡張で「4次元の表面とはスイープ前後の2立方体と、スイープした6平面がスイープした立方体の8面からなる」と言える。これを描いたのが4次元サイコロで、4次元の物を描くことはできないが、その展開図としては表すことができる。

 ■四つの音(236)
 例の運命が扉を叩く四つの音がかれの魂を捕らえると、彼は数年間もその虜になり、「運命交響曲」「ヴァイオリン交響曲」「第四ピアノ協奏曲」「熱情ソナタ」「ヴァルトシュタイン・ソナタ」と飽くことなく「四つの音」を追い続ける。

4世代論(438)イブン・ハルドゥーン
 王朝の寿命は3世代で、この世代を経るうちにその王朝は老衰し、弱り切ってしまう。したがって祖先の威光が完全に崩れるのは、第4世代になってからである。栄誉と威光が四つの世代に限られることはすでに述べた通りであるが、われわれはさきに確立した諸前提にもとづいて、明確な議論をもって証明してきた。
…3世代の期間が、120年であることはすでに述べた通りで、一般に王朝は、たまたま誰も王朝を攻撃する者が現われない場合を除いては、多少の長短があってもそれ以上存続することはない。老衰の兆候が眼に見えてはっきりすれば、その王朝の権力を求める者がなくなる。もしあったとしても、その者をはね除けるほどの者は出てこないであろう。しかるべき時が来れば、王朝の終焉は一刻も延ばされることはないし、また早まることもないのである。このようにして王朝の寿命も個人の寿命と同じで、生長し、停滞の年齢を経て退化の年齢に向かう。


五蘊(うん)説(443)
 仏教に古くからある存在分類法は五蘊説である。五蘊の蘊はサンスクリットでスカンダといい、原意は集合あるいは集合体であるが、仏教では存在の構成要素の意味に用いる。五蘊とはつぎの五つの権成要素をいう。
(1)色(2)受(3)想(4)行(5)識
【色】(ルーパ〉とは物質をいう。色とは、肉体を形成する「五つの感覚器官」 (五根〉をさしたが、のちに広く自然界にも自が向けられ、加えて感党器官の対象となる「五つの認識対象」(五境)をも意味するようになり…。このように感党器官とその認識対象というように、物質がわれわれの認識領域の枠内でとらえられている点に仏教の物質観の特徴がある。
【受】(ヴェーダナー〉とは、苫しい、楽しい、苦しくもなく楽しくもない、という三つの感受作用をいう。
【想】(サンジュナー)とは、対象が何であるかを認知する知覚作用をいう。
【行】(サンスカーラ〉とは、元来は潜在的な印象あるいは潜在的な創造力を意味する語であり、仏教では、行為を生みだす意志作用をさす。
【識】〈ヴィジュニャーナ〉とは広く感覚・知覚・思考作用を総称したもので、認識作用一般をいう。
現代的表現でいえば、右の五つのうち、色は物質に、受から識までは心にそれぞれ相当する。

五取蘊(511)
 ゴータマ・ブッダはあらゆる現象を要素的に五つに分けてとらえた。これを「五つの集まり」すなわち五蘊という。これには身・心よりなる個人存在を五蘊とよぶ場合と、物質と精神よりなるわれわれの内外の環境のすべてを五蘊とよぶ場合と二つある。「五つの集まり」 とは、いろ・かたちあるもの(色〉、苦楽などの感受作用(受〉、表象作用ないし表現・概念(想〉、意志作用など心の形成作用、識別作用をいう。五蘊に執着しているのを五取蘊といい、それは苦であると説かれる。

5倍箔(NHK 2002-11-12)
 終戦直後に金閣が放火によって焼失したとき、再建を担当した箔押し職人は当時一般的に用いられていた1μ厚さの金箔を貼ったが、これが失敗だった。下地の黒漆が太陽の紫外線で劣化して、薄い金箔を透過して、表面を黒化させて、30年後には、金閣ではなく、黒閣だと罵倒されるような状況となった。昭和58年頃、再度、金箔を貼り直すことになったとき、表具職人矢口は今度こそ600年持つ箔を貼ることを決意する。紫外線を透過しない5μ厚さの5倍箔を考案し、これを付着させるための粘度の高い浄法寺漆を探し出す。この漆黒の漆を磨き上げた金箔を貼る前の金閣の美しさは想像力の中にしかない。黒く光る金閣!!

五妙欲(511)
 修行者たちよ、これらが五種の欲望の対象(五妙欲)である。五種とはなにか。眼によって識別され、欲求され、愛され、好まれ、愛でられ、欲望をともない、貪心をかきたてるいろ・かたちあるもの(色)。耳によって識別され……貪心をかきたてる音声、鼻によって識別され……貪心をかきたてる香り、舌によって識別され……貪欲貧心をかきたてる味、身体によって識別され、欲求され、愛され、好まれ、愛でられ、欲望をともない、貪心をかきたてる触れられるべきものである。修行者たちよ、これらが五種の欲望の対象である。(無眼耳鼻舌身意)

六波羅密多(381)
 かかる実践的認識を智慧の完成(六波羅密多)と称し、与える(布施)・いましめをまもる(持戒)・たえしのぶ(忍辱)・つとめはげむ(忍辱)・静かに瞑想する(禅定)という五つの完成と併せて〈六つの完成〉(六度、六波羅蜜多)と称する。

六盤山(288)
 チンギスハン崩御の地。甘粛省隆徳県。

七つの大罪(232)
 ヨハネの黙示録の21章の言葉。「されど臆するもの、信ぜぬもの、憎むべきもの、ひとを殺すもの、淫行のもの、咒術をなすもの、偶像を拝する者及び凡て偽る者は、火と硫黄との燃ゆる池にて其の報いを受くべし、これ第二の死なり。」ここから中世の説教話としていくつかの語彙のバリエーションに変形していく。…ボスの絵では「憤怒、自惚、淫欲、怠惰、貪食、貪欲、嫉妬」となる。…スベインのフィリーペ二世は、この絵を愛し、エスコリアルで毎日眺め自戒したと言われる。

七つの秘跡(437)
 マルチン・ルターの神学は、好余曲折はあったがカトリックの七つの秘跡のうち、洗礼と聖体(聖餐)しかみとめないものとなる。…病床で、臨終にそなえる告解の秘跡をうけ、生前最後の聖体拝領の秘跡をうける。おそらく終油〈臨終の病者がつける塗油)の秘跡もうける。このことは、イニゴ本人はもとよりのこと、周囲の人々も総てイニゴの死はまぢかく、しかもまちがいないと覚悟していることを示す。勇者ロヨラのイニゴ・ロペツは既に生の世界から死の世界にうつる総ての準備を完了したわけである。…(ロヨラは)カトリック教会が古くから伝承してきている七つの秘跡、洗礼、竪信、聖体、告解、終油、叙品、結婚−−のうち叙品と結婚の秘跡をのぞいてすべての秘跡にあずかっていることである。…臨終に際しての告解・聖体・終油の秘蹟秘跡をうけて後、なお、生きながらえる(イグナティウス・デ・ロヨラは実に35年も生きながらえる)のはまことに異例なことである。

7つの秘跡(560)
 この12世紀のころ、秘蹟の数を7つに定めました。まず生まれたときの洗礼があります、それから信抑を固める堅振礼であるとか、正餐礼、それから長じまして婚姻の儀式もそうですし、人が死ぬときに目とか耳とか口とか、ないしは額に油を塗る終油の儀式、それからむ告解、懺悔ですが、だいたい人の一生に生まれてから死ぬまで六つの大きな宗教儀式がありまして、これを通して神の恩寵が人に至るわけであります。あと一つは聖職者叙任いうことで、聖職者になるための儀式があります。

七という数字の象徴(462)
 数字象徴学からすれば、黙示録は七という数字に関して、新約の中心的存在である。そもそも黙示録はイエスが使徒ヨハネに伝えた啓示を小アジアの七つの教会のために書下したものである。ボゴミル派教会に関して、ボルストが先例といったのはこのことを指している。黙示録ではそのほか燭台、星、霊、灯火、封印、喇叭(ラッパ)、天使、獣の頭、禍などすべて七となっている。なおパウリキアヌス派もこの数字象徴を知っていた。

7日間(6)  
1日目…混沌の地に光と闇を分け、昼と夜を作る。  
2日目…空を作る。  3日目…陸と海を作り、陸に草木を生えさせる。  
4日目…太陽と月と星を作る  
5日目…水に棲む生物、空を飛ぶ鳥を作る。  
6日目…地を這う獣、家畜、最後に自らにかたどって男と女を作る。  
7日目…安息日。
その後、アダムの肋骨からイブを作ったと書くから、6日目の作業と矛盾している。


8人の裏切り者(194)  
 トランジスターを発明したベル研のショックレーはスピンオフして1955年ショック レー半導体研究所を設立する。優秀な若手研究者を集めたが、2年後、その中の8人が退 社してフェアチャイルド氏の資金援助でフェアチャイルド社を設立。ショックレーから裏 切り者の8人と呼ばれた。のちにインテルを設立するノイスとムーアもその中に入た。

 ■ 八仙過海(36)
 日本では七福神となる船上の八仙人。船に乗らずに海を渡る知恵比べを、それぞれの人 が得意技を発揮することのたとえとした。1人が舳先で船を操っていたため、日本人が勝 手に残りの七人を福の神にしてしまったという俗説がある。

9世紀最大の科学者(348)
 アメリカの世界的科学史家サートンは、満濃池の築堤と綜芸種智院の開設のゆえをもって、人類の科学文化史上で9世紀における最大の科学者の一人に、空海をあげている。

九相詩絵巻(195)  
 仏教の生死感を死体の腐乱と骨の散乱までの九相で表した。仏教におけるメメント・モ リ的思想。

 ■十界(147)  
 天台智顕の世界観。地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天、ここまでの六道は迷いの世 界。その上に声聞(釈迦の教えによってさとりに至った人)、縁覚(自らさとった人)、 菩薩、仏の四つの世界がある。

 ■十戒(6)
 1, 唯一神。2,偶像禁。3,禁神の名。4,安息日。5,父母。6,禁殺。7,禁姦淫 。8,禁盗。9,禁偽証。10,隣人の所有物をむさぼるな。

十字架(341)
 十字架刑は元来ユダヤ人たちの処刑方法ではなく、ローマの刑罰方法である。普通、ユダヤ人とその衆議会が宗教的異端者に加える死刑方法は石打ちの刑であって十字架刑ではない。だから「十字架につけよ」というこの時の衆議会議員と群衆の答えは、我々として見のがすわけにはいかない。これはイエスを異端者としてではなく、政治犯として処刑せよという要求である。

十字軍(第2次)(470)
 エデッサの陥落によって危機感を強めたイェルサレム女王のメリゼンダが、新たな十字軍の派遣を求めたのは、法王エウゲニウスに対してであった。法王になったばかりであったエウゲニウスは、ただちにそれをベルナールに伝える。こうして、ローマ法王からすべてを一任されたベルナールが先頭に立っての、第二次十字軍への動きが始まるのである。…フランス東部に広がるブルゴーニュ地方の小さな町ヴェズレーが、晴れの舞台になった。1146年3月1目、この町の主教会の正面を背にして立つ修道士ベルナールの、広場を埋める群衆に向つての火を噴く説教が始まった。
  ・フランス国王ルイ7世  王妃アクィテーヌのエレオノール
  ・ドイツ皇帝コンラッド3世
…ダマスカスの領主(アヌール)の救援要請を受けたヌラディンが率いるアレッポからの軍の接近が伝えられたのである。(1148年7月29日、ダマスカスでの戦闘開始して4日で)、フランス王ルイの陣幕に顔をそろえた第二次十字軍の首脳たちは、「撤退」を決めたのである。撤退は、その日のうちに始められた。


十字軍(第3次)(471)
(花の第三次、俗界の人間による十字軍)
 誰よりも先に十字軍遠征に手を挙げたのは、イギリス王のへンリー二世である。へンリーは、十字軍遠征費の調達ということで、新たな税の徴収を決めた。この新税は、サラデイン税」と名づけられた。…ところが、足許から火が燃えあがってしまったのだ。息子のリチャードが、父王へンリーに反旗をひるがえしたのだった。
…フランス王フィリップの、生涯を通しての最大の目標、いやほとんど唯一の目標、であったのが自領の拡大である。
…西暦1190年の7月初め、フランス北西部にある小さな町ヴェズレーは、集まってくる兵士たちであふれんばかりになっていた。英仏両軍の合流の地にヴェズレーを選んだのはフィリップで、父のルイ七世が第二次の十字軍に出発したのがこの地であったからだ。第三次十字軍が第二次の雪辱を果すつもりである意志を、遠いローマにいる法王に向けたメッセージでもあった。…この時期の神聖ローマ帝国皇帝は、「パルパロッサ」(赤ひげ)の縛名で知られるフリードリッヒ一世だったが、サラディンによってイエルサレムが奪還された1187年には、すでに62歳になっていた。…1189年の5月には、全軍を従えた皇帝「赤ひげ」は、レーゲンスプルグを後に東に向ったのである。…(小アジアのゴクス川で皇帝が溺死して終わる)
…十字軍の総大将の一人としてフィリップが中近東にいた期間は、三カ月と少しでしかないのである。フィリップにとっては幸いにも、その間にアッコンの奪還は成功する。…二十六歳の若者にしては、と感心するくらいに、フィリップの動きは巧妙であったと言うしかない。フランス王は第三次十字軍を見捨てて帰国したのではないということを示すために、側近の将たちだけを従え、残りの全軍は残留させたのである。


十字軍(第四次)(471)
 リチャードとサラディンの間で結ばれた講和自体が、法王インノケンティウス(三世)には気に入らなかった。イスラム教徒もキリスト教徒もお互いを「不信仰の徒」と言い合っていたが、キリスト教徒である王が不信仰の徒と講和を結ぶこと自体が、あってはならないことなのである。…、第四次の十字軍とは、中世フランスの騎士道の花がこぞって動き出したことであるのを痛感するだろう。法王インノケンティウスの、帝冠も王冠もなしの十字軍の遠征という考えは、現実になったのである。
…第四次十字軍は、ヴエネツィア人にとって、国を挙げての投資を意味したのである。だから契約の細部に至るまで、完壁に遂行したのであった。…元首、ダンドロから十字軍の諸侯に対して、彼らが思ってもみなかった提案がなされたのである。オリエントに向う途中でザーラを攻略するのに手を貸してくれれば、借金の返済期間を、それが可能になる時まで延期する、と提案してきたのだった。
…ヴィザンティンの皇子アレクシスは、十字軍の首脳たちを前にして、涙ながらに嘆願した。行き先をコンスタンティノープルに変えることでこのピザンチン帝国の首都を攻撃し、非道な叔父を破滅させ、正統な皇位継承者である自分が帝位につけるよう助けてほしい、と頼んだのである。
…十ヵ月後に攻略成ったピザンチン帝国の首都コンスタンティノープルだが、この十ヵ月の聞にピザンチンの皇室内部で争いが頻発し、…つまり、ビザンチン帝国の帝位そのものが空席になってしまったのである。…フランス人でさえも、総大将はモンフェラート侯だったが軍の頭脳は元首であった、と評したほどのこの男、エンリコ・ダンドロが成した最大の業績は、本国のヴエネツィアから東地中海の通商要地すべての間を連鎖式につないだ、海上の高速道路網を完成させたことだろう。
…この第四次十字軍は、歴史学者たちからは大変に評判が悪い。キリスト教徒がキリスト教徒を攻めたのが第四次の十字軍だから…。

十字軍(やっただけ無駄な第五次)(471)
 第五次の十字軍は結局、中近東に住むキリスト教徒が背負うことになる。目的地は、まずはエジプト北部の港町ダミエッタと決まった。それでも海軍力のほうは、ジェノヴァの参加が決まった。アラディール下のエジプトを攻めるのにヴェネツィア共和国が関心を示さなかったからだが、第四次十字軍によってそのヴェネツィアに大きく距離を開けられたジェノヴァが、第五次十字軍に参加することで失地挽回を期したからである。(法王代理ペラーヨの反対で有利な時点での講和をできないまま)ナイルの水路に沿って北上中だった十字軍は、洪水と化した河水に襲われる。荷だけでなく兵士や馬までもが流され、助かった者だけがほうほうの体でダミエツタに逃げ帰った。(さらに)、ダミエッタを放棄し、キリスト教軍はエジプトから完全に撤退する。…第五次十字軍とは、やっただけ無駄、であり、そして、このような結果に終わった責任は、法王代理のペラーヨにある、とする点では、現代ではほとんどの歴史家が一致している。

十字軍(破門された皇帝が率いる第六次)(471)
 フリードリッヒ(二世)は、父方からドイツ人の血を、母方からはイタリア化したノルマン人の血を引き、イスラムの文明が今なお濃く残るシチリアで育ったのである。葉っぱの舟を追って走る元気な男の子の生きていく先には、キリスト教徒を率いて異教徒イスラムに向うことが第一の責務とされている、神聖ローマ帝国皇帝の地位が待っているのであった。
…(さらに)イエルサレム王国の正統の世継ぎであるヨランダと政略結婚をして…南伊とシチリアの王、神聖ローマ帝国皇帝、に次いで、イエルサレムの王にもなったのだ。…1227年の3月、法王ホノリウスが死んだ。翌日、新法王が選出される。57歳で法王に即位したグレゴリウス九世は、前任者とは反対に激しい性格の人だった。20歳以上も若いフリードリッヒに、…何としてでも、十字軍の遠征に送り出す決意に満ちていたのである。…怒り心頭に発した法王は、約束違反を理由に、フリードリッヒを「破門」に処すと公表した。
…破門された者の率いる第六次十字軍は、南伊第一の海港プリンディシから出港して行った。十字軍史上初めてになる神聖ローマ帝国皇帝の聖地入りに、中近東に住むキリスト教徒たちは熱狂した。…(その一方で講和交渉は進めていたが、相手の)アル・カミールにしてみれば時間稼ぎで始めた交渉も、少しずつ、異教徒間の共生の樹立を真剣に目指す、交渉に変わっていったのである。…イスラム側は、イエルサレムを、キリスト教側に譲り渡す。ただし、イエルサレムの市内の東側の三分の一は、イスラム教徒のものとして残り、非武装のイスラム教徒が管理する「イスラム地区」とすると決まった。…、岩のドームやアル・アクサのモスクのある「イスラム地区」は除いたイエルサレムの都市全体をキリスト教側に譲渡するという決定は、イエルサレムがイスラム教徒にとっても「聖都」である以上、イスラム世界のリーダーとしては重大極まるリスクを冒すことであった。その証拠に、当時でも強い反援があり、あれから八百年近くが過ぎている現代でさえも、「屈辱」と断じられているのである。


十字軍(第7次)(471)
 歴史上では「聖王ルイ」の名で残ることになるルイ九世が、フランス歴代の王の戴冠式挙行の場であるランスの大聖堂で、王冠を頭上にしたのは十二歳の年であった。1244年になって、エジプトに専念するスルタンのスキを突いたシリアの一部族が、功名心に駆られてか、イエルサレムを占領したのだった。…法王インノケンテイウス四世も、大いに乗り気になる。新十字軍を率いて行く人の人選が始められた。…人選と言っても、実際は、ルイ一人しかいなかったのである。
 ダミエッタの攻略は優秀な海軍力を誇るキリスト教側にとっては常に容易で、あの第五次十字軍でさえも、ダミエッタは攻略できたのだった。…(さらにマムルーク軍団が守るマンスーラを攻略すべく)アルトワ伯とソールスベリー伯を先頭に、堂々たる隊列を組んだエリート部隊の全員が、マンスーラに入って行ったのである。…騎上姿ゆえ、また細い道ゆえ行動も自由でなく、動きがとれなくなってしまった騎士たちは格好の標的になった。エリート部隊は、槍も剣も使うことなく殺裁されつづけたのである。
 ダミエツタから前線基地までの補給は、戦略の重要分野とは考えられていなかったので、キリスト教側の補給船には戦闘要員はほとんど乗っていない。ゆえにエジプト側の阻止戦術は成功し、ルイの本営には食糧も水も入ってこなくなった。
 これまでの百五十年の十字軍の歴史上、そしてこれまでの六度にわたった十字軍遠征でも、一度として起ったことがなかった。上は王から下は兵卒に至るまでのほとんど全員が、そろって敵側に降参したのである。…(身代金を払って)フランス王ルイが、王妃ともどもヨーロッパに向けてアッコンを後にしたのは、1254年の4月25日である。1248年の8月にフランスから発ったのだから、ルイのオリエント滞在は6年間にもなった。


十字軍(最後の第8次)(471)
…フランス王に新たな十字軍遠征を推める人は、誰もいなかったのである。ローマの法王庁は、惨澹たる結果に終わった第七次十字軍に呆然自失の状態で、そのうえ、1268年にはアンティオキアまでがイスラムの支配下に入ってからは打つ手もなく、ヨーロッパの各地に説教僧を送り出しての扇動さえも考える余裕を失っていた。
…1270年夏に発つと決まった第八次十字軍は、誰に推められたわけでもなく、ルイ自らが望んで始まったのである。
…だがなぜ、目的地を、他のどこでもなくチュニジアに決めたのか。…劣悪な状況下で疫病に倒れたのは、王一人ではなかった。法王の代理の格で同行していた司教も、ルイの息子の一人で第七次十字軍中にダミエッタで生れたトリスタンも、遺体になっていたのである。もう一人の王子のフイリップも、病床に伏したままの状態にあった。


十難無記(392)
 カントは、大陸合理主義といわれる形而上学を、イギリスの経験論の観点を取り込みながら、批判的に構築しなおすという仕事をした。そして、経験(感覚所与)を出発点としない議論は、たがいに矛盾しあいながらも同等の権利をもって並び立つふたつの主張へと逢着してしまうとし、そうした意味での二律背反の主張をはじめから考察の対象外に置き、理性の暴走を食い止めようとした。いくつかカントが挙げた二律背反の最初のものが、「世界は時間的に有限である」と「世界は時間的に無限である」という二つの主張である。
 …ゴータマ・ブツダは、経験的事実を出発点としないいわゆる形而上学的とされるいくつかの問い(十難)にはけっして答えなかった(無記)。その間いのはじめの二つが、まさに、「世界は時間的に有限であるか」と「世界は時間的に無限であるか」というものであった。経験論の立場から不可知論を展開したわけで、この点にかぎつてみれば、ゴータマ・ブッダとカントの視点には大いに共通性がある。


 ■十分の一刑(151)
 ローマ軍の最厳罰刑。罪を犯した隊の中から籤で十分の一の兵を選び、残りの仲間がこ れを撲殺するというもの。スパルタカスとの緒戦で敗走した隊をクラッススがその刑で罰 しさらに、メッシーナ海峡を背に背水の陣をひいて勝つ。

十里十カ所(319)
 四国八十八カ所のスタート、発心の道場では、昔から十里十カ所といって一番(霊山寺)から十番(切幡時)まで平坦な道が続き、早朝出発すれば健脚でなくとも一日で十カ所巡ることができる。そして次の十一番から十二番で、第一の苦行の場が用意されている。

十一面観音(143)  
 大乗仏教は菩薩道、悟りを得て仏陀になるまでの修行を重んじる。よって多くの菩薩像 が作られた。なかでも観自在、略して観音は前世利益の信仰対象として多く作成された。 東西南北、天地の十面をあまねく功徳し、さらに本面の計十一面を持ったものがこれである。

 ■十二音技法発明者(120)
ヨーゼフ・マチアス・ハウアー(1883〜1959)。シェーンベルグ以前に12音 技法を発明したと主張したオーストリアの風変わりな音楽家。ヘッセのガラス玉遊戯のモ デル。

 ■12世紀革新論(124)  
 ヨーロッパの革新がルネッサンスや宗教改革以前の12世紀に起こったという堀込庸三 らの現在では定着した考え方。この時代にロマネスクの完成からゴヂックの発達、教皇権 と皇帝権の2極化、商業の復活と農業の革命、グレゴリウス改革によるカトリック世界の 成立、騎士文化と封建制の確立、学問科学や芸術の展開が一斉に起きた世紀である。

12世紀のイスラム学者(560)
 12世紀はヨーロッパの学界にとって、単に古代ローマの文献を集めればすむというような時代ではございませんでした。イスラムの世界では、11世紀に活躍した学者としては、アル・ガザーリ(『哲学者の意図』『誤謬からの救済』などの著者)、アヴィセンナ(『アリストテレス形而上学ラムダ巻註解』で名高く、『ハイイ・プン・ヤクザーン譚』をはじめとする神秘思想書の著者)、12世紀のアヴェロエス(アリストテレスの註釈家として抜群であると同時に、『形而上学要綱』の如き自己の思索をも示した人)であるとか、スフラワルディー(『照明学派の叡智』の著者、プラトン=ゾロアスターの結合を主張した人) というような人々がおりましたし、またユダヤの世界では12世紀のモーゼス・マイモニデス(博学の人であるが、哲学的に重要な『迷える者への救いの手引き』の著者)とかアブラハム・ベン・ダヴィド(『高められた信仰』や『伝統の書』の著者) というような学者がたくさんおりました。つまり、この時代はひとりキリスト教の領域としての西欧のみならず、東はアラビア・ベルシアから西はスペインまで、そしてまた、北は英国から南は北アフリカにかけて、ヨーロッパを中心とする世界全体が文化的に高まっていた時代であるということができると思います。

12世紀の精神界の王者(360)
 12世紀が持つことのできた最高の精神、クレルヴォーの聖ベルナール。…彼が自分の属するシトー修道院の戒律として執筆編集した会則は、「愛の憲章」と呼ばれ、今日でもおよそ宗教的な修練を望む人々の、よき古典として珍重されている。ベルナールにとっては、すべてが愛の対象であった。1128年から、かれは修道院内の活動を捨てずに、ひろく全ヨーロッパの公的な問題ともとりくむようになり、1153年に62歳で亡くなるまでの生涯に、上は皇帝、教皇、その他の諸君主・諸侯から、下は一農奴、一盗賊にいたる種々雑多な相手に、政治・軍事・宗教・道徳・身の上相談にわたる人生全般のことについて、500通以上の手紙を書いている。ベルナールはある手紙の中で、そんな彼自身を、「私は現代の獅頭羊胴の化けものです」と書いている。…彼は、キリストの受難と、聖母マリアの悲哀を貫く愛との中に、犠牲の神秘をくみとっていた人で、…同時にそれと一見矛盾するような意味で、誇り高く、武勇の誉れにつつまれ、悪と不正と不信に戦いをいどむ強烈な戦士的精神をもかねそなえていた。僧衣をまとうものの理想は前者にあり、鎧を身にっけるものの理想は後者にある、と一般には考えられていた。しかし、ベルナールは両者を一つのものとしか考えなかった。その具現化が神殿騎士団であった。…第二回十字軍は彼の雄弁によって動員され、彼の衣の布片を十字のしるしとした。

12部族(144)  
 ヤコブの12人の子供から形成されたイスラエル12部族。神に選ばれたとする契約の 民。ヤコブは、始祖アブラハムの子、イサクの子。

13世紀のビスマルク(529)
 ドイツ騎士修道会の最高責任者は、総長と呼ばれる。初代の総長はハインリヒ・ヴァルポト・フォン・パッセンハイム、二代目はオットー・フォン・ケルペン、三代目はハインリヒ・パル卜という。しかし、ドイツ騎士修道会を一躍、飛躍させ、ヨーロッパそしてその根拠地としてのプロイセンに足場を築くのに功績があったのは、第四代総長へルマン・ザルツァ(在位1210〜1239年)であった。
 へルマンは、「十三世紀のビスマルク」とも「中世最大のドイツ人政治家」とも呼ばれる。傑出した外交感覚の持ち主であった。アッコンに生まれたドイツ騎士修道会がヨーロッパにはじめて登場したのは、彼が総長の時代である。困難な情勢のもとで、首尾よくプロイセンに進出しえたのも、彼の外交手腕の賜物といわれている。


16世紀のレオナルド(210)
 ロバート・フックである。ロンドンのレオナルドとも言われる。実験家であり設計者であったフックは、現代に通用する多くの発明をしている。

18世紀のシンフォニー(356)
 ベートーヴェンは独自の力学を備えて生まれてきた音楽家であり、単純なマンハイム型の音楽の影響のもとに出発したわけではない。にも拘らずリーマンは彼の大著『音楽辞典』の中でマンハイム楽派″というものが存在したかのように立ち上げ、さらにはそれがウィーン古典派の先駆であるかのように記述したのである。、18世紀のシンフォニーとは、まだそれほど重要なジャンルではなく、ドイツでは音楽会の始まる前のガヤ静めの音楽のことであり、終ったあとの送り出しの音楽のことであった。…アインシュタインが「パリは全くの驚異の念に打たれ、ドイツとの競争を断念してしまった」というに至っては、こちらが驚異の念に打たれ、腰を抜かしてしまうであろう。パリは最初から音楽後進国のドイツとシンフォニーというマイナーなジャンルについて競い合うという気持ちは持ってもいなかった。こういうものの書き方は、ドイツの史家たちが、シンフォニーを音楽の最高のジャンルとする史観を20世紀までにでっち上げたあとだからできるのである。

20世紀のアールワール(482)ガンディー
 カーティヤーワール地方は、インド神話のなかでもとりわけ民衆に人気のある英雄クリシュナが王国を築いたところとされ、いまなお、その都市ドゥヴァーラカをはじめ、いたるところに神話や伝説にゆかりの地が散在している。したがって、ここは古くから、クリシュナをヴィシュヌ神の化身とするヴィシュヌ派の一派ヴァイシュナヴァ派の民間信仰のさかんな土地柄であった。この宗派の説くところは、個我は宇宙霊プラフマンの一部であるとの信念にもとづき、カーストの別や知識の有無を問わず、ひたすら神を愛し信じることによって、人はみな解脱できるとの「信愛」の道である。「信愛」の教義は、遠くヒンドゥー教の聖典『パガヴァッド・ギーター』にまで起源をさかのぼることができるが、ヴァイシュナヴァ派の信愛運動は、七、八世紀ごろ南インドのタミル地方に出現した「アールワール(神を直観的に知り得た人)」と呼ばれた吟遊詩人たちによって始められた。
…彼が、神について人びとに語るとき、あるいは自ら神としたしく対話するとき、神はしばしば、クリシユナとして、ラーマとして彼の眼前に現存していたのである。こうしたことから、ガンディーの宗教思想へのヴァイシュナヴァ信仰の影響の大きさはじゅうぶんにうかがえよう。この意味において、ガンディーを二十世紀における「アールワール」の一人と呼んでも、なんら不自然ではない。事実、彼の政治実践の悲願は、アールワールの詩人たちが願った地上における「神の国」の建設であった。

二十五三味会(20)  
 極楽往生のために行うべき信仰生活テキストである[往生要集]を源信(942〜10 17)が書くことによって、その後の日本人の地獄・極楽観が決定的に形成される。源信 は、これを実行するために25人の仲間とこの念仏三昧の結社を作った。仲間に死期が迫 るとホスピス的な往生院で西方浄土への旅立ちを導き、この臨終の記録を取る。

30年戦争(1618〜1648)(1)(35)
 デア・ドライスィッヒエリゲ・クリーク。ドイツのカトリックとプロテスタントの両諸侯によるヨーロッパにおける最後の宗教戦争。ドイツ国内の人口の60%が消滅、最初の 宗教的情熱は最後には、宗教は戦うに値しないという程に国内を荒蕪の地としてしまった 。日本の戦国時代が平和に感じられる。この戦争によってドイツの発展は実に200年後退したとメーリングは指摘したが、当時の英仏と比較しての、このドイツの後進性こそが 、カントやヘーゲルらの古典哲学を抽象的、観念的なものとした。また文学、音楽でも偉大な達成を成し遂げたのも、無縁ではない。

三十三の札所(378)
 日本には各地に三三の札所がある。四国、西国、坂東などがよく知られている。これは観音の霊験所から三三カ所を選んで巡礼するものである。こうした霊験所成立の背景には、『法華経』 の思想が存在する。『観音経』として知られる『法華経』普門品には、観音菩薩が三三の身に姿を変えて人々を救済すると説かれている。三三身には仏を始めとして、梵王・帝釈・居士・比丘(僧)・比丘尼(尼)・優姿塞(男性信者)・優姿夷(女性信者)・童男・童女などが含まれる。要するに、観音はあらゆるタイプの姿をとって、この世界に出現するのである。…また天台教学では、『法華経』で説かれる「久遠実成」の本仏とインドで生誕した釈迦との関係が、本地−垂逃の関係で説明されている。中国で成立したと考えられている偽経『清浄法行経』 でも、中国の聖人である孔子・老子・顔回は、それぞれ本地が儒道菩薩・迦葉菩薩・定光菩薩とされている。仏が中国に仏教を広めるに先立って、仏教受容の精神的土壌を整えるために派遣されたのがかの三人の聖人たちであった。

 ■36枚撮り(95)
 小柄なバルナックが両手を一杯に広げ、長尺の映画フィルムをカットした長さが約40 枚分の長さ。これからリーダーの部分を引いて36枚撮りになる。学生時代に暗室でフィ ルムを詰める時に先輩から教えられた方法と同じだ。

36秒(304)
 かつてはレールの長さは10メートルに決まっていた。忙しく、そしてリズミカルな継ぎ目の音がしたら、一拍が正10メートルなのである。36秒は1時間の100分の一であり、10メートルは1キロの100分の一だから換算の必要がない。36秒間にレールの継ぎ目の音が何回したか、それがそのまま時速(km/時)となる。

40年知識(314)
 ……歴史の教科書で暗記したような知識は「4分間知識」=たかだか4分間程度しか話せない知識だ。4分間知識をいくら集積させても、ただそれだけである。しかし、工学系で学ぶ専門科目は「40年間知識」である。これは40年間話し続けることができるという意味なのか。当然、違う。工学で学んだ知識を活用して実社会で定年までの40年間飯を食っていかなければならないという意味だ。

 ■四十二行聖書(日経97-1-22)
 グーテンベルグが1450年頃発行した、1ページに42行の活字で組んだ世界初の聖 書印刷。現在47冊現存し、国内では慶応大学が所蔵。

49年組(223)p.222
 フォーティーナイナーズ。1849年ゴールドラッシュの熱狂の中、カリフォルニアを目指した者たち。これらの一部は船でパナマを経由してカリフォルニアへ行くルートを取り、運河開通前のパナマがその鉄道で潤った時期でもある。

80日間世界一周(325)
 1872年末にはジュール・ベルヌの空想物語「八十日間世界一周」が刊行されているが、トーマス・クックの販売する世界旅行は、ベルヌのこの物語の熱狂的な人気に支えられていた。ベルヌの物語は当時の夢物語と考えられていたが、実際には、クックはベルヌ以前に世界一周旅行を販売し、ベルヌはこのクックのパンフレットに触発されて物語を書いた。

98.77%(NHK-E 2002-6-28)
 人とチンパンジーのゲノムの一致度。サルはシッポのあるモンキーと、シッポのないエイプ(ape)に別れ、最近になって、チンパンジーと人が別れ、チンパンジーはボノボと別れた。チンパンジーは人にとって「進化の隣人」である。

百科全書(35)
 フランス啓蒙思想の壮大な記念碑。1751年から1772年にかけてディロドがダラ ンベールの協力を得て編纂。当時の啓蒙哲学者の多くが背執筆。その項目には「百科全書 」もあり、「地上に散乱する知識を集めて、その総体を同時代人に分かち与え、これを後 世に伝える」とその意義を定義した。

100年戦争の終結(494)
 1453年、カスティヨンの戦いでイングランド王軍を打ち破り、ボルドーの囲みを解いて、再度の陥落劇となったのが、10月19目だった。これが百年戦争が終結した日付である。終わらせたシャルル七世は、「勝利王」の名前で歴史に残る。(英仏100戦争は1337年のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付からボルドー陥落までの116年間の対立状態を指すが、これによって英仏の国境線が確定し英国は島国になった。)

300メートル塔(214)p.130
 クフ王のピラミッドが146m、それ以降、エッフェルが建てるまでの世界最高の建造物は、159mのケルン大聖堂であった。(ただしワシントンの169mの大理石オベリスクがあるが)  しかし高い塔はエッフェルの専売ではなかった。産業革命後の鉄の利用がそれを可能にしたが、まず蒸気機関車のトレヴィシェックが鋳鉄製の1000フィート塔を1833年を計画したが、本人の死によって中止。次に技師セビヨがパリを夜間でも明るく照らす灯台として構想。しかし実際にこの塔を建てる技術を持つのはエッフェル社だけであった。そして1889年パリ万博の最大の呼び物となる。

404特許(326)
 ツーフローMOCVD「半導体結晶幕の成長方法」基板の表面に平行ないし傾斜する方向に反応ガスを供給し、基板の表面に対して実質的に垂直な方向には、反応ガスを含まない不活性ガスの押圧を供給して…半導体結晶膜を成長させること。特許番号は第2628402号…この特許はマスメディアでは「404特許」と呼ばれる。
この発明の原点について、私は在社中の中村君に直接、聞いたことがある。窒化物のエピ成長がうまくいかず、成長面は凹凸とクレータの連続。いかにすれば綺麗な面ができるか苦慮している状態のときにアイデアが出たということであった。…そもそも、上から押さえつけるという発想自体が異例中の異例であった。それによって反応ガスに乱流が起こると考えられ、常識的にはきれいな膜ができると思われないからである。


666(46)
 ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフのイニシャルはPPP(3エル)である 。当初ドストエフスキーはロジオンでなく、ヴァシリー(B)すなわちBPPとしていた 。ある時BをPにして、これを逆さにすると666という数字になると気づいた。これが 「謎とき罪と罰」における江川卓の解釈。666は悪魔の数字である。

826km(807)
 サンチャゴ・デ・コンポステーラ教会まで826km。ヴァルカルロスから登るピレネー路は、その名の示す通りカール大帝ゆかりの谷。ブナや樫の木に覆われる深山の道は、イバニェタ峠(シセ峠)で山脈を越える。昔のシセ峠より少し低い海抜1057メートルだ。かつて命を賭けて越えた峠には、巡礼人を導く鐘を鳴らしつづけた修道院があった。…峠を下ればロンセルスバイェス、仏名ローンズヴォー、「ローランの歌」が生まれる悲劇の戦場だ。

千年王国(43)
 ヨハネ黙示録によるユートピア。再臨したキリストが支配する神の王国が最後の審判の 日まで千年続くという。16世紀ドイツ農民一揆を指導したトーマス・ミュンツァーは原 始共産主義的王国としてこれの実現を目指した。 同様にヒトラーは「第三帝国」として父なる神の国、御子キリストの国に継ぐ精霊の国 としてナチス政体を称した。

1101年の十字軍(469)
 西欧は、聖都イェルサレム解放を知って熱狂していた。誰もが十字架に宣誓したがり、十字軍に参加しようという気運に満ちあふれでいたのだ。まず起ったのは、イタリアの北部である。第一次から第八次までの主要な十字軍には数えられることのない遠征だが、「1101年の十字軍」の名で残るこの十字軍は、ミラノの大司教が旗ふり役を務め、北伊と南仏の兵士や巡礼が主体になって、第一次と同じに、まずはコンスタンティノープルを目指したのである。…結果は見るも無惨で、多くの騎士や兵士が、小アジア内陸部の荒地を血で染めた。すんでのことに、サン・ジルもブロア伯も王弟ユーグもボエモンドの牢仲間になるところだった。…新たな兵力の到着を心待ちしていたイェルサレム王ボードワンの期待も、こうして水泡に帰した。

1666年(210)  
 デフォーが疫病流行記で描いたペストの大流行が1665年。その翌年にはロンドン大火が起き、ロンドンが中世から近代へ変貌する重要な転回点となった。ロバート・フックは大火の後、首都の再建に測量官として忙殺され、ニュートンはいなかに引きこもり光学や、力学を構想する。

1812年の彗星(519)
 空気は寒く冴えかえっていた。汚く薄暗い往来や黒い屋根の上には、暗い星空がひろがっていた。空ばかり眺めていたピエールは、高翔せる自分の心にくらべて腹の立つほど下劣な地上のいっさいに気がつかなかった。アルパート広場へさしかかったとき、暗い星空の偉大な全面積が彼の目前に開けた。この空のほとんどまん中、プレチースチェンスキイ並木通りの上にあたって、金砂子をまいたようなおびただしい星に四方からとりまかれながら、地球に近い位置と、白い光と、上の方へ撥ねあげた長い尾とで、ほかのどれよりもひときわ目立つ1812年の巨大なまぶしい彗星がかかっていた−−かのありとあらゆる恐怖と、世界の終鷲を予言するといわれた彗星である。

1883年(76)  
 1883年、カール・マルクスが亡命の地ロンドンで死んだ年、20世紀を代表する二 人の経済学者が生まれた。ケインズとシュンペータである。

1889年(444)
(4月26日にウィトゲンシュタインが生まれた)1889年という年は、偶然のことながら、ドイツではM・ハイデガー、フランスではG・マルセル、英国ではA ・トインピー、スイスではE・ブルンナー、日本では和辻哲郎といった思想家たちを生み出した「哲学的」な年であるとともに、あの悪名高いA ・ヒトラー(四月二十日!〉や、映画「独裁者」の製作者C・チャプリン(四月十六日!)をも生み出した因縁の年である。

1904年6月16日(145)  
 ジョイスがユリシーズで描いたダブリンの1日。レオポルド・ブルームという凡人を平 凡な日常生活の中に事件もなく放置する。

1914年のロシア(420)
 1913年がきた。彼(ニコライ二世)の帝国の繁栄の頂点、偉大な記念祭の年である。彼の祖先たちがロシアを支配して三百年、そしてロシアの歴史は彼らの名で区分されてきた。そして今、神が彼に無事にその祝典の日を迎える幸運をあたえたのである。… ストルイピンの改革ののちかつてない高揚が始まっていた。ヨーロッパは立ち上がる巨人を驚きの目で見守っていた。フランス政府は経済学者エドモン・テリーをロシアへ派遣した。そして彼はその著書『1914年のロシア』に、「ヨーロッパのいかなる民族もこのような成果を知らない。世紀の半ばにはロシアはヨーロッパを支配することになるだろう」と書いた。
…しかしこれらすべての喜ばしい変化が彼をおびえさせた。モスクワ−ついこの間まですべてが彼の心にやさしい過去を息づいていた古い首都。それが今日の前で屋敷の町が消え失せて、工場の煙突が煙をはき、巨大な建物がにょきにょきとそびえ立ち、モスクワのツァーリたちの都に今は資本が支配している。「マンチェスターがツァーリの町(モスクワ)に突入した」…1914年には革命家たちポリシェヴィキの間には絶望と隣り合った暗い気分が支配していた。レーニン、ジノブィエフ、トロッキーたちは希望のない亡命者となった。

1922年度ノーベル賞(416)アインシュタインp.72
 アインシュタインにノーベル賞を与えるのがこのように遅れてしまった原因にはつぎのようなわけがあった。まず問題になったのは、相対性原理が「発見」であるかということであった。…この相対性原理が人類がそれから非常に大きな利用価値を導き出し得るようなものであるかは…、なんともきめかねることであった。そこでスエーデン・アカデミーは、相対性理論についてのトラブルにまきこまれることなくアインシュタインにノーベル賞を与えるうまい工夫を思いついた。それが光量子の理論に対して与えることであった。

1933年(556)
 1933年は、ドイツの一般的な政治的展開における根本的な分岐点であったばかりでなく、科学史においても重大な切れ目になっている。すでにヒットラー独裁の最初の数週間に、政治的民族的迫害を背景として、例をみない優秀な学者たちの追放の嵐が吹き荒れた。「不適当な」者、「アーリア人種でない」者、それ以外でも「ナチス国家を躊躇なく支持する保証を与えなかった」者は、何千人と解雇され、ドイツは短期間に科学における世界一の座を失った。そのうち特に被害を受けたのは自然科学で、1935年までだけでほとんど五人に一人が去って行った。この措置の進行にともなって、ゲッチンゲンやベルリンなどの重要な学問の中心地が文字どおり潰滅してしまった。

1953年3月5日(421)
 1953年3月5日のその同じ日に、スターリンと共にもう一人の人間が死んだ。しかしその人間の死はまったく人々に知られなかった。それはセルゲイ・プロコフィエフである。未亡人はせめてどんな花でもいいから彼の墓に供えようとした。しかし店は全部閉まっていて、何も売っていなかった。隣人たちが大作曲家の墓に何か供えてあげたいと、室内の鉢植えの植物を切りとった。その頃プロコフィエフの大好きなピアニスト、スヴヤトスラフ・リフテルが特別機でトビリシから飛んでいた、列柱大広間で大指導者の柩の前で演奏するために。機内は花で埋まり、リフテルは文字どおりその芳香で息苦しいほどだった……。

 ■1961年(49)
 本物のワイン通の前で61年が卓越した年であったなどと言ってはならない。 これはミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井画を描いたというのと同じくらい当たり 前なことです。61年のブルゴーニュが同じ年のボルドーに比べて少し落ちることを指摘 するぐらいならまあいいでしょう。ボルドーの過去30年で61年が最良の年とされるな ら70年はその次に上げられる年です。

1999年(338)
  1999年、7の月
  天から恐怖の大王がやってくる
  アンゴルモアの偉大な王が蘇り
  火星の前後に、幸福の名のもとに君臨する
「なぜ、1999年という年にしたかと申せば、それは、私(ノストラダムス)が千年王国説を信じているからに他なりません。…現在の時の流れは、1999年で終了いたします。これは、この年が第6の千年期の最後の年に当たるからでございます。次には、新たな第7の千年期が到来し、この時代は、偉大な千年期といわれております。」


5557歳(418)
 生前からカリオストロの周辺には夥しい 「偽典」が生産されていたが、そのなかに『五千五百五十七年の霊性に達することを得せしめる再生、あるいは肉体の完全化の秘密』と称する一書がある。…一定期間の少量の薬草とスープと水だけの断食の後に、当事者は「第一原質」の小さな粒を呑む。するとそれから3日間、幼児に戻ったように「記憶も言葉も失せ」、いちじるしい発汗と排尿が経験される。次いで第二の 「第一原質」をもう一つ口のなかに放り込むと、凄まじい発熱とともに歯も髪の毛もすっかり脱け落ち、皮膚はぺろぺろに剥がれてしまう。その35日目にもう一度「第一原質」を呑むと、今度は深い昏睡状態に陥り、そのなかで歯が生え、毛髪が伸び、皮膚も新たに全身を覆って、頭の天辺から爪先まですっかり生れ変るのである。これを50年に一遍ずつ111回くり返せば5557歳まで容易に到達することができる。クレオパーラと臥所を共にし、カナの饗宴に列したというのも、もしもこの秘法が真物であるならあながちあり得ないことではない。…そういえばカリオストロのサン・レオにおける死の齢が52歳であったことも、おおよその数としては右に符合している。カリオストロは獄死と見せかけて、まんまと生れ変って脱獄したのであろうか。

100万画素(61)  
 これは一説であるが、バルナックがライカ版を決定した論理的根拠とされる。すなわち 当時のフィルムの解像度が1/33mmであることから30μの点が画像を形成するとし て、同じく当時の良質の網版印刷が100万画素から形成されていることから、30μの 画素が100万画素となる面積を求めると22×33mmとなり、これから24×36m mサイズが決定されたという説。こじつけっぽい。


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