語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-8-31 164語
新着語
愛この12世紀の発明、麻生と吉田、アニ・ベズント、アユタヤのペドロ岐部、有馬のセミナリオ、会津三十三観音詣り、アルス・モリエンディ、アリオウィストッス、悪魔の偽造、悪人往生、浅間しき凡夫、アブスルドゥム

アイウォール(446)
 ハリケーンの…渦全体の中で最も高速なのは、アイウォール(渦の目を壁状に取り囲む厚い雲〉であることがわかる。実際にも、風雨はアイウォール周辺が最も強い。だが目そのものの回転速度は遅く、中心に近づくにつれてさらに速度は落ちる。目の中心部の上空では下降気流、アイウォール近くでは上昇気流が起きる。
 嵐の中心部上空を飛んだことがある人なら、その光景をきっと忘れられないだろう。…「写真ではあの感動を到底表すことはできない。ローマのコロシアム、それも幅20マイル、高さ10マイルの巨大なコロシアムを想像してほしい。観客席はまばゆいまっ白な雲だ。その雲に沿って、氷の結晶が小さな滝のように滑り落ちていく」。現実とも幻想ともつかない光景である。


アイオナ島(118)
 ケルトの王子、コルンバがスコットランド布教の最初の拠点とした島。これは5月のこ とだから、内ヘブリディースの海が最も美しい時だった。アイオナ島はこの丸い地球で最 も天国に近い場所だろう。砂浜に続く緑の原、バラ色の崖、……高くはないが何とも美し い丘、西と南には無数の小島が散らばるヘブリディースの海が見晴らせ、この島はまるで 小さな宝石のようで、胸を打つほどの美しさだ。この島がスコットランドの信仰の故郷。

愛この12世紀の発明(560)
 「愛、この12世紀の発明」…、これはフランスの歴史家セニョーボスがいったことばです。男女間の愛は『旧約聖書』の昔から当然存在していたのですが、現在われわれが考えるような愛、すなわち男と女が対等の意識、感情をもって接しあうという愛はどうやら12世紀に源を発しているのではないか。今日は12世紀の「発明」である愛、この愛がいったいどのようなものであったかを、例のとおり主として文学的な作品に証言を求め…。
 聖職者にとってどうかといいますと、女性はイブの後裔でありますから、諸悪の根源、たえざる誘惑の契機として意識されております。聖ヒエロニムスを筆頭に、彼らはおしなべて反女性思想の持主です。もちろん聖職者が女性や結婚に対しまったく否定的かといえば、そうではないので、やはり人間という種の保存のためには止むをえざる必要悪だと考えておりました。そのため、女性を婚姻の秘蹟の中に閉じこめ、挙式の仲立ちを務める、といったぐあいでしぶしぶ女性の存在を認めていたわけです。
、このように女性が貶められていた状態は、11世紀末〜12二世紀の南フランスで変わってしまいます。女性を高貴の存在として崇敬し、また憧れるすぐれた貴婦人に、熱烈なしかもへりくだった愛を捧げることで自己をより高い存在に向上させる、そして、愛の成就が困難であればあるほど愛の質が高められる、と主張する新しい愛の観念が発生したのです。このような愛の観念をうたった人たちは、南フランスでトゥルパドゥールと呼ばれております。このトゥルパドゥールというのは、トゥルパール(「創作する」〉からつくられた名詞で「創作する人、詩人兼作曲家」の意味です。


アイソスタシー(216)
 地殻均衡。地殻はそれより密度の大きい粘性流体層の上に平衡状態で浮かんでいるという考え。各地点での重力測定と、大陸氷河の融解による荷重減少によって地殻上昇する事実から証明される。大陸移動説のウェゲナーにとっても、自説を補強するものとなった。

会津三十三観音詣り(539)
 江戸時代には、会津でも古くからの観音信仰と結んで、会津三十三番札所巡りが盛んに行なわれた。これは藩祖保科正之が西国三十三観音詣り等によって領内から多額の経費が他国に流出するのを防ぐために、会津盆地内三十三力所の霊場を定めたのが始まりという。
 毎年七月頃の農閑期になると、盆地の街道筋は白衣にゴザと一文字笠をつけ、杖をもって御詠歌を合唱しながら歩く女人たちの巡礼姿が見られた。家庭的なあらゆる束縛の厳しかった婦人たちにとって、それは信仰にかこつけた夢のように楽しい一時の解放であった。


アイデア(468)
 アイデアだけで世界を変えるのは難しかった。画期的なネズミ捕り器を発明したとしても、数百万個の単位で製造できなければ、世界は振り向いてくれない。マルクスの言葉どおり、製造手段を支配する者が、権力を持つのだ。祖父は自宅の作業場で自動スプリンクラー装置を発明することはできても、工場を建てることはできなかった。商品化するには、製造企業に興味を持ってもらい、自分の発明のライセンスを供与しなければならなかった。企業を説得するのは並大抵のことではなかったし、発明家は自分の発明をコントロールするすべを失うことになった。製造手段を持つ者が、なにを作るかを決めることができたのだ。

アイデンティティ(236)
 自我同一性とはアメリカで活躍した精神分析哲学者エリック・エリクソンの提出した概念である。彼自身のことばを引用すれば「自我同一性の感覚とは自分が他ならぬ自分として生き生きとした生命的存在として生きているという実存的な意識であり、同時に自分が所属する社会の人々と、ある本質的性格において共通しており、世界との一体性をもつという実感である。すなわち主体的感覚というきわめて個性的なものと、他者との連帯感という社会的なものとが私のなかで統合されているというところにこのアイデンティティの概念の本質がある。」

愛の宮廷(346)
 ナヴァル王妃(アンリ二世と王妃カリーヌの娘マルグリット)は夫国王に、騎士というものは愛なくしては魂がないのも同然だと教えた。…マルグリットが出会ったプラトンの「饗宴」の世界が、彼女の唱えるこの愛の原型となったのである。すなわち、肉の快楽は二人の人間を純粋な精神の王国に結びつける無形の情熱の前では何の価値もないという思想である。この思想を、マルグリットは夫や彼に仕える騎士たちに教唆し、ネラクの宮廷を「鹿の園」(快楽の園)ならぬ清らかな魂の王国に仕立て上げようと望んでいた。

愛の憲章(261)
 1119年、シトー会の規則「愛の憲章」が公式に認可された。「愛」とはいえ、これは厳しい掟であって、過酷な生活と烈しい労働のために、初期シトー会士には28歳を越えて生き続ける者は稀であったという。…いわば貧しさを理想とする者たちであった。

愛の物語(374)コエーリョ
 「炎が書いた言葉を、水が消してくれるだろう」と。すべての愛の物語は、その本質はみな同じなのだ。

愛よその手を離せ(496)
   かわいい暴君の少女は
   有無をいわさずわたしを縛る、
   その魔法の輪のなかで
   わたしはこのひとの言いなりになって生きてゆかねばならない。
   ああ、なんという大きい変化だ、
   愛よ、愛よ、その手を離せ。
…ゲーテをいったん捉えた愛の手は、しかし、どうしても彼を離そうとしない。愛からの逃れ難さをこれほど痛烈に彼は歌ったことがない。


アインザッツ・ゲーベン(333)
 einsats geben 管弦楽や合唱である声部や独奏者が比較駅長い休止のあと、再び演奏を始めること。アインザッツゲーベンとは指揮者がアインザッツを指示することだが、これもアインザッツというようになった。

アインジーデルン
 1493年、錬金術的医師の父といわれるパラケルススが生まれたチューリッヒの近郊 の村。

アインシュタインの宗教的確信(477)
 もっとも頻繁に引用されるアインシュタインの所見の一つに「宗教なき科学は足萎えであり、科学なき宗教は盲目である」がある。しかし、アインシュタインはこうも言っているのだ。
…もちろん、私の宗教的確信についてあなたがたが読みとっているものは嘘、故意に繰り返されている嘘である。私は人格神を信じてはおらず、その事実をけっして否定したことがないばかりか、明確にそう表明してきた。もし私のなかで、宗教と呼べるものがあるとすれば、われわれの科学が解明できるかぎりにおいての世界の構造に対する限りない賛美である。…人格神というのは、私にとってまったく異質なもので、あまりにも純朴にさえ見える。…

アヴェロエス派(189)
 12世紀のアラビア人注解家アヴェロエスのアリストテレス解釈に始まる自然哲学で、1 5世紀のポンポナッツィがその代表。トマス・アクイナスはアリストテレスとキリスト教 を融合したが、アヴェロエス派はトマス派に対立し、神による創造の否定、魂の不死の否定を主張したが、哲学と信仰を峻別し、カトリック教会の枠内に留まった。

アヴォンの森の学校(369)
 …その後グルジェフは、フランスに渡った。当時の大統領ポアソカレは、彼に好意的だった。たぶんグルジェフが大戦中、インドか小アジアで、フランス政府に何らかの協力をしていたためだと思われる。…1922年、グルジェフはパリ郊外、フォンテンブロー近くのアヴォンに古城を買い、「人類の調和的発展のための協会」を設立した。ここで学んだ欧米の知識人たちは、その後、神秘学以外の分野でもさまざまな活躍をすることになる。
 アヴォンの森の学校は、6、70人の男女生徒からなり、一風変わった集団生活を行なっていた。質素な生活のなかで、生徒たちは朝早くから夜遅くまで厳しい肉体労働に専念した。自給自足で広い地所を耕して農園にしたり、家畜を飼ったりするのだ。グルジェフによると、労働は一種の精神療法で、「覚醒」を得るための有効な手段だというのだ。そして「覚醒」を得るための、もうひとつの手段は、グルジェフ自身の発明した舞踏だった。1923年パリのシャンゼリゼ劇場で、グルジェフの弟子たちによる舞踏のデモンストレーションが行なわれた。東洋風な音楽や太鼓にあわせて、古代の祭りの舞楽のような象徴的な舞踏が繰り広げられた。


アウグスティヌスと新プラトン主義(249)
…新プラトン主義との出会いは、アウグスティヌスの生涯に決定的な意義をもたらした。アウグステイヌスはミラノで、ヴィクトリヌスのラテン語訳により、プロティノスの『エネアデス』を読んだ。彼はこの派に属する哲学者としてヤンプリコス、ポリエフィリオスの名前も挙げているが、後者の作品、たとえば『魂の帰還』を入手したと思われる。アウグスティヌスはプロティノスが宇宙の魂について語り、また照明説を説いたと述べ、ポリユフィリオスが魂の解放を信じていたことに感心する。しかし、両者とも光や救いがキリストに結びつくことを知らなかった点を残念がる。…彼は、新プラトン主義のロゴス論がヨハネ福音書の教えに類似していることに驚嘆し、評価することをはばからない。新プラトン哲学が霊的存在を重視する点にも共鳴する。…この出会いを通し、彼はキリスト教への理解に目を開かれ、さらに永年虜になっていた、マニ教的唯物論を克服する契機をつかむ。

アウグスブルグの宗教和議(264)
 1555年には、カトリックとプロテスタント両教派の同権を規定することを目的とするアウグスブルグの宗教和議が開かれた。ここに帝国議会の布告により、帝国(神聖ローマ帝国)内の諸領邦にはカトリックとプロテスタントの選択の自由−−ただしカルヴァン派は従来通り非合法の宗教とされた−−が承認された。しかし、信仰選択の自由とはいっても、個々の市民にその権利が与えられたわけではなく、選択権は支配者にあり…

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アウステルリッツの太陽(522)
 アウステルリッツは今のチェコスロヴァキアのスラヴコフである。今は人口四千あまりの小さな町の西方が戦場となったのである。トルストイはこのあとを次のように書いている。
「朝の九時になった。霧は渺々たる海原のように低地一面にひろがっていたが、ツュラパニッツ村に近く、ナポレオンが磨下の元帥たちにかこまれて立っていた高地はすっかり明るくなっていた。彼の頭上はるかには晴れわたった青空があり、太陽の一大円球が、さながら、巨大な、空洞の真紅の浮標のように、乳色をした霧の海の表面にゆれていた。−−きょうは彼にとって祝日−−戴冠一周年記念目だった。夜明け前に彼は数時間、仮睡をとり、健康で、快活で颯爽たる人となり、あらゆることが可能に思われ、すべてが成就しそうなあの幸福な気分で、馬にまたがって、原頭に乗り出した。 −−彼はプラーツェン高地と、霧のなかから浮かび出た太陽とを交互に見まもっていた。−−太陽がすっかり霧のなかから現われ出て、まばゆいばかりの光を野原と霧にふりそそいだ…」。
トルストイはしきりに太陽を気にしている。これは彼にはじまったことではない。アウステルリvツの戦勝のあと、フランスの将兵はこのときの太陽の輝きを思い出し、それが勝利の前兆とみられたと語った。「アウステルリッツの太陽」、それはナポレオンの勝利のシンボルとなった。


アウトダフェ(359)
 異端者の火刑。

青信号(326)
 実は、道路と鉄道の信号機の「青」は別の色である。道路用の交通信号灯は「青側に寄っている緑色」で、鉄道用は「緑側に寄っている青色」なのである。それぞれの色調は規格によって定められている。交通用の国際規格(ITE)というものが、別に存在する。この三つの規格を同時に満足させるような色調ポイント、それは500ナノメートルである。…窒化ガリウムは紫外の364ナノの光を出す、窒化インジウムは当時(94年)は赤色系の633ナノの光を出すとされていた。ガリウムとインジウムの組成比が、青緑色信号用LEDの波長を決める因子である。

青山士(282)
 あおやまあきら。パナマ運河開削工事に携わった唯一人の日本人クリスチャン技師。内村鑑三の門下生。東大では広井勇の弟子。戦前の内務省技術官僚として荒川放水路建設工事や信濃川・大河津分水修復工事を成し遂げた清廉な技師として知られる。信濃川・大河津分水修復工事の竣工記念碑にエスペラント語で「POR HOMARO KAJ PATRUJO」(人類ノ為、国ノ為)と書いた。これは内村鑑三刊「聖書之研究」創刊号表紙の上段に横書きで書かれた「基督の為め国の為め」(ラテン語同文Pro Christo et Patria)に類似する。 長年この碑文を見たいと夢見ていた版画家棟方志功は昭和48年70歳の時、この地に脚を運び碑文を見上げた。

アカイア人(24)
 クノッソスを中心とするクレタ文明のあとペロポネソス半島でギリシャ文明をになった のがミケーネ文明。BC1250年頃から10年間にわたるトロイ戦争を戦った各国をア カイア人と呼ぶ。トロイの王子パリス、スパルタの王妃ヘレナ、アルゴスの王アガメムノ ン、テッサリアの王アキレス、イタカの王オデュッセウス、ホメロスの「イーリアス」の神話的世界である。

アカシック・レコード (125)
 ルドルフ・シュタイナーのアカシア年代記。心霊エーテルに記された地球の全歴史。人 間は最初は完全にエーテル体としての存在であったが、その進化の過程で肉体へと固まっ ていった。

赤旗法(433)
 それでも蒸気機関は道路検査官や馬車所有者から、道路を傷め、馬を驚かすと敵対された。1865年にロンドンの議会は…公道を走る蒸気車は、人や動物に警告するために赤旗をもった歩行者が先導しなければ走らせることができたいとする法案を可決した。この赤旗法と呼ばれる法律は、イギリスの(自動車)にかかわる産業に破滅的な結果をもたらした。…この法律が1896年に廃止されるまで活発とはならなかった。しかし、イギリスにとってそれは遅すぎた。

アクィテーヌのエレオノール(470)
 この時期のフランスの王位には、25歳になるルイ7世が就いていた。王妃は、…エレオノール。「アクィテーヌのエレオノール」と言うだけで通じたこの女人は、夫のフランス王の直轄領よりも広い領土の女相続人であるためか、気のほうもすこぶる強かった。なにしろ、フランス王と結婚する前にすでに、アクィテーヌ公国領とガスコーニュ伯領にポワティエ伯領という、現在のフランスの四分の一にも当る広大な領土の女主人であったのだ。
…名誉も何もない「撤退」で終わった(第二次十字軍)後、…ローマ法王と公会議は正式に、二人の結婚は「無効」であったと認める。そのさらに2年後の1152年、30歳になっていたエレオノールは、11歳年下のノルマンディー公アンリと結婚した。当時はノルマンディー公だけだったが、この2年後にはヘンリー2世として、イギリスの王位に就く人である。こうして、フランスの西南部を占めるアクィテーヌ地方は、フランス王の手からからイギリス王の手に移ったのだった。この2人の間には幾人も子が産まれるが、その一人が、第三次十字軍を率いることになる、リチャード獅子心王である。また、この結婚によって広大なアクィテーヌ全域がフランス王からイギリス王に移ったことが、英仏間の百年戦争を引き起す要因になっていく。


アクイナスの退行(477)
 これらにはすべて、いわゆる「無限の退行」がかかわっている。一つの問いに対する答が、それに先立つ問いを提起し、その繰り返しが無限につづく、というものだ。
…1.不動の動者 どんなものも、それに先だって動かす者がいなければ動かない。これは無限の退行へと導き、それから逃れることができる唯一のものは神である。何かが最初の動きをつくらなければならず、その何か(第一動者)を私たちは神と呼ぶのである。
…2. 原因なき原因 どんなものも、それ自体によって引き起こされることはない。あらゆる作用には先立つ原因があり、これもまた無限の退行へと私たちを導く。これは最初の原因(第一原因)で終わらなければならず、それを私たちは神と呼ぶのである。
…3.宇宙論的論証 いかなる物理的な事物も存在しなかった時があったはずにちがいない。しかし、物理的な事物が現にいま存在するのであるから、事物を存在に至らしめた非物理的な何かが存在したはずにちがいなく、それを私たちは神と呼ぶのである。


アクエンアテン王(28)
 アメンヘテプ4世。ハトシェプスト、トトメス、ツタンカーメンらが連なるエジプト第 18王朝の宗教改革王。テーベの地方神アメンと、太陽神ラーが習合した国家神アテン・ ラー神の神官勢力の増大に、対抗して唯一神アテンを信仰し、新都アケト・アテンを建設 したが、一代で失敗した悲劇のファラオ。

アケト(293)
 ナイル川は毎年6月の初めから増水を始め、7・8・9月に氾濫を起こした。9月に最高の水位に達し、10月には元の川幅に戻る。古代エジプトでは、この氾濫の時期を「アケト」といった。

悪循環(479)
 私(中島義道)のニーチェとの「出会い」は、「永遠回帰」の思想がある時はっとわかったからである。それは、単純この上ない真理であって、この世の何ものもいかなる意味(目的)もない、というとと。すべては偶然である、いや偶然とは必然との関係においである用語だから、すべてはただ生ずるだけなのだ。
 だが、ほとんどの人はこのことを承認しようとしない。打ち消そうとしても、気がつくと人生に何かしらの意味=目的を求めてしまっている。そうした弱さを完全に拒否するとと、それをニーチェは延々と言い続けているだけである。
 もし目的があるなら、時聞は無限なのだから、とっくの昔にそのすべては実現されているはずである。だが、どう見てもいかなる目的も実現されていないのだから、目的など始めからなかったのであり、いかなる目的もなくただ無限の時間が経過しただけなのである。
 それをニーチェは「永遠回帰」という詩的なイメージで語ったのだ。だから、このイメージに惹かれてさまざま詮索するより、クロソウスキーの言うように、単なる「悪循環」でいいのである。


アクタ・ディウルナ(23)
 アクタ・セナートゥスとも呼ばれるカエサルが始めたローマ元老院の速報的議事録壁新 聞。後世、これを新聞の始まりとする。

悪人往生(525)
 善人でさえも浄土へ往生させていただける、まして悪人はなおさら往生させていただけるのである。ところが世間の人は一般に、悪人でさえも往生させていただけるのであるから、善人はいうまでもなく往生させていただけるといっている。この考え方は一往いかにも道理のあるようにきこえるけれども、実は本願の力によって救われる趣旨にかなわないのである。そのわけは善根をはこんで自分で證果(さとり)をひらこうとする人は他力のすくいにまかせるこころが欠けているから弥陀の本願にはずれている、これに反して自力にたよるところをひるがえして、本願のすくいにおまかせするものは、まことの浄土へ往生させていただけるのである。
 煩悩ずくめの私たちは、どんなに修行をはげんでも、到底、生死をはなれることができないことを不憫におぼしめされて、弥陀は本願をおこしてくだされたのである。本願をおこしてくだされた本意は、まず悪人を救うて仏に成らせたい思召であらせられるから、その本願のおはからいにおまかせした悪人は、それこそ往生する正しい因をいただいたものである。それであるから、善人さえ往生させていただける、まして悪人はなおさら往生させていただけるのであると、聖人は仰せられた。


悪の起源(128)
 神が一切を創造したことを認めると、悪もまた神を起源とするという難問に多くの神学者がぶつかる。靴屋の哲学者ヤコブ・ベーメは、これに対してその「黎明」で、独自のすなわち異端的な解釈を行う。三位一体の神がまず、天使の世界を創造した。天使の頭であ るルチフェロが反逆して世界は天国と地獄に分かれたので、神は再び世界を修復し、万物をつくり、その中心に人間を置いた。これが天地創造である。よって悪は神に起源を持たない。

アクーペディック法(222)p.36
 聾児への言語理解の方法には多感覚法(眼と耳を使う)と、アクーペディック法として知られる単感覚法(耳のみ)がある。二つの受容器が一つの刺激を受容する場合には、一方が他方に対して抑止的にはたらく傾向がある。多感覚法では障害のない受容器である目が、障害のある受容器である耳を抑制し凌駕して、聴覚のもつ可能性の伸びが阻害されるというのが、アクーペディック法の論理的根拠である。

悪魔(408)原口統三
 悪魔は惰性の神である。悪魔は傑れた歴史家であり、社会学者である。それは、いつでも「一般論」の網を張りめぐらして、僕の飛翔を妨げようとする。僕には、こいつを追っぱらうには、一たたき、羽を動かすだけで沢山だった。悪魔は過去に住み、天使は未来に住んでいる。僕はどちらにも意地悪かった。

悪魔の偽造(528)
 ルイス・フロイスは、「悪魔は彼ら(日本人)にいくつかの事柄においてキリスト教のそれに酷似している外面的な儀式を与えることに尽力した。そのことで、日本人たちは、私たち(宣教師)が彼らに説いていることと、彼らの有していることとは、すべて同じ一つの事柄である、しかしながら、深く聞くときにはたちまち混乱してしまうのだ、と言うようになった。彼らは三位一体にして一つである阿弥陀、そして釈迦は、一二人の弟子と彼の生涯についての四人の年代記作者をもつほどの無限の奇跡をもった人類の救い主であると言うのである」
 日本で行われる在来信仰の行事もまた、イエズス会の宣教師たちには、キリスト教のそれと酷似しているとみえたらしく、これらを「悪魔」が「偽造」したと述べている。ガスバル・ヴィレラによれば、京都の祇園祭は「聖母教会で行われるキリストの聖体祭」を「悪魔」が「偽造」したもの、盆は「キリスト教徒が、彼らの祖先の霊魂に対して諸死者の日の頃に行っている祭式と霊魂のための祈り」を「悪魔」が「偽造」したものという。
イエズス会の宣教師たちがヨーロッパの伝説に基づき、日本にかつてのキリスト教の痕跡が見出せるものとの先入観をもっていたせいかもしれないが、ともかくも彼らの目には仏教のキリスト教と酷似した面が映っていたようである。


悪夢の模写(441)
 近年になって再評価された幻想画家にデジデリオ・モンスという画家がいる。この画家の正体は、いまだに判然としないのであるが、最近の研究ではフランソワ・ノーム(1593--)というロレーヌ地方出身の人物であるらしい。この画家もカロン同様、幻想的建築物を描いた。ただカロンと違って、デジデリオの描く世界はそれらの建築物が崩壊した後の荒涼とした夢幻的風景であったり、メルヘンにでも出てきそうな、ロマンチックな宝石箱のような建物のある庭の風景であったりする。グスタフ・ルネ・ホッケにいわせれば、デジデリオの世界は「幻覚喚起的な夢の破局、あるほとんど分裂症的−夢幻的な悪夢の模写」ということになる。

悪霊ネチャーエフ(422)
 ロシアの革命運動のその後の歴史すべてが、ネチャーエフ主義に覆い尽くされるのである。…ロシアの20世紀は悪霊ネチャーエフのものとなり、ポリシェヴィキ主義の勝利は彼の勝利となる。人々はポリシェヴィキのロシアで恐怖におののきながら『悪霊』を、自分が革命後に作り出す社会を語る本の主人公ピョートル・ヴェルホヴェンスキー(ネチャーエフ)の独自を読んだ。
「社会のメンバーは、それぞれお互いを監視し密告する義務を有する。すべての人々が奴隷であり、奴隷状態において平等となっている。まず手をつけるべき仕事は、教育や科学や才能の水準を下げるということである。秀でた才能は必要ない。秀でた才能はいつも権力を握り、暴君になる。…キケロは舌を切られ、コペルニクスは目をくり抜かれ、シェイクスピアは石を投げつけられるのだ。」
「文化水準を組織的に下げよ」と説いたポリシェヴィキの指導的理論家ブハーリンの呼びかけた。…


アゴーギグ(333)
aqogik 速度法。速度変化による表情を意味するギリシャ語agogeに由来する。厳格なテンポ、リズムに微妙な変化をつけて精彩豊かにする方法。ラレンタンド、アッチェレランド、テンポ・ルバートなど。

アゴスティーノ・ラメッリ(324)
ダ・ヴィンチと同時代で、同じように高い名声を得たイタリアの軍事技術者。1588年に「種々の人工機械」を出版。ラメッリの編集による、さまざまな機械や技術的な道具を解説した美しい挿絵のついたこの本は、この種の本の中でもっとも影響力をもつものだった。

アコンモダチオ論争(437)
 「共産主義が中国に入って中国化したからといって私はすこしも驚かない。昔からの大文化が現に生きている中国に何か新しいものが入ってくれば必ず中国化する。ヨーロッパの精粋ともいえるキリスト教は、二度も中国化し、その度に、ヨーロッパ自体をゆるがしている。古くは景教、五世紀に異端として…排斥されたネストリウス派キリスト教は中国に入ってすっかり中国化し勢いをまし、景教となる。…更に十六世紀末、イエズス会士マテオ・リッチに始まる中国宣教も、かなり似た様相を示す。宗教改革のカトリック側の救い主、正統派中の正統派カトリックと見なされていたイエズス会士が中国に入ると、徐々に中国文化と同化し、中国伝統の皇帝崇敬と妥協して終う、とすくなくともヨーロッパでは感じられるようになる。…イエズス会の宣教があまりにもキリスト教を中国化したとするヨーロッパ内での攻撃「アコンモダチオ(宣教上の慣習適応)論争」。それはやがてイエズス会全体の禁圧破門に発展する。中国(清〉においては宣教方法の大変化となり、清政府に忌避され、中国におけるキリスト教宣教は禁じられる。…やがて十八世紀、教皇クレメンス十四世によるイエズス会解散命令発布の遠因ともなる。

アーサー王物語(383)
 アーサー王物語というのは、アーサー王の宮廷の人々をめぐって11世紀以来、ヨーロッパ中のさまざまな作家によって書かれてきた多数の作品の全体であるということができます。古い作品で有名なものとしては、フランスではクレティアン・ド・トロワによる『荷車の騎士』、『聖杯の物語』などの作品、ドイツではゴットフリート・フォン・シュトラスブルグの『トリスタン』、ヴォルプラム・フォン・エッシュンバッハの『パルツィファル』などをあげることができるでしょう。これに対して本家本元のイギリスにおいては、トマス・マロリーによる『アーサー王の死』と並んで重要な作品とされるのが、この作者不詳の『サー・ガウェインと緑の騎士』です。

アサビーヤ(438)
 イプン・ハルドゥーンがこのとき(征服者ティムールに対して)話題にしたのは、彼の持論でもある王権論で、彼はネプカドネザル、コスロー、アレクサンダー、カエサルなど古今東西の英雄を持ち出しながら、結局王権(ムルク〉というのは、それを支える連帯意識(アサピーヤ)如何であり、連帯意識をもつ人々が多ければ、それだけ王権の力は強い。その点「トルコ人」−−イブン・ハルドゥーンはそう呼んでいる−−は、初期イスラム時代のアラブ人のように、連帯意識のうえできわめて強固なものがあり、その王である陛下は、これら古代の諸王の及びもつかない世界の支配者である、と主張した。

アーサー・ヘンリー・ロストロン(345)
 カーパシア号の船長アーサー・ヘンリー・ロストロンは、当然のことをしたためにタイタニッタ号の悲劇の英雄になった。彼の果たした役割は、無謀なスミス船長と無力なカリフォルニアン号の船長ロードが演じた役柄と全く対照的だ。英雄崇拝の国家の立法府である合衆国議会は、タイタニック号の生存者を救出したロストロンに授与するために特製の金メダルを鋳造させた。彼が大西洋の両側で称賛されたのは、勇気があったからというより、しかるべき能力を紛れもなくもっていたからである。海上で非常時に何をすべきかよく知っていて、求めに応じて極めて能率よく決然と行動することができた本物の船長がここにいたのだ。イズメイとともに中心的なスケープ・ゴートとなったスタンリー・ロード船長は、ロストロンの得た栄冠を、大した危険を冒すことなく、ごく簡単に自分のものにすることができたかもしれなかった。悲しむべき皮肉である。

浅間しき凡夫(525)
 私は口で念仏をとなえてはおりますものの、心のうちにはとびたつほどの欽喜はあまりおこりません。また、いそいで浄土へまいりたいという憧憬もおこりません。こんなあさましいことでは、どうしたものでございましょうかと打明けておたずね申上げたところ、親鸞もこれについては不審をいだいて居たのである、唯圓房そなたも丁度おなじ心持で悩んでいるとみえる。 しみじみ考えてみれば、救われる手がかりのない身が、こりまま救われるということば、天におどり地におどるほどに喜ばねばならないことである、この喜ばねばならないことが喜ばれない身であるから、いよいよおたすけくださることであらる。往生はまちがいないと思いなさらねばならぬ。…仏はまえもって、この私の浅間しさを御見抜あらせられて煩悩ずくめの凡夫であると私たちをよびかけて、かような凡夫をそのまま救おうとおちかいあらせられたのであるから、弥陀の悲願はこんな浅間しい凡夫を救うためにおこしてくだされたのであることが知られて、いよいよ手強いお慈悲がたよりになるのである。

アジア号(128)
 昭和9年に運転開始した満鉄の特急列車。平均時速82.5km。2400馬力を2m 動輪を伝え許容速度は130kmのパシナ型蒸気機関車が牽引。

足裏の米粒(407)
 私たちにとって、博士号は研究者としてスタートするための運転免許証に過ぎない。博士号とかけて足の裏についた米粒と解く。そのこころはとらないとけったくそ悪いが、とつても喰えない。そんな戯れ言葉を先輩から聞かされていた。

足回り(321)田崎真也
 ワインの足。傾けたグラスを元に戻したときに、グラスの側面に伝わっていくワインの軌跡をよくみてください。さらっと消えてしまうもの、ゆっくりひきずっていくものと違いがあります。この脂をふくむような粘り気は、アルコール分が多いほど強くなりますので、同時にアルコール発酵によって生じるグリセリンという成分も多いといえます。グリセリンは糖の甘さとは別個のしっとりとコクのある甘さを持ち、口に入れた瞬間にアルコール特有の芳醇な広がりを感じさせてくれます。粘り気が大きいほど甘く感じるわけです。

アジール(124)
 聖所。世俗の空間や時間とは隔絶した場所。共同体という小宇宙と、それを取り囲む死 を含む制御不能な大宇宙があって、これらの間には質的な違いがあり、その接点となる場 所。アジャイル(俊敏)とは違う。  

アジャンクール(118)
 アジンコートの戦いのことだ。この一年間、どこからかアジャンクールという言葉が頭 に入り込んで、しかも何のことか皆目見当もつかない状態がつづいていた。14世紀の英 仏における100年戦争で、英国がフランドルのアジンコートで、圧倒的に優勢な仏軍を 破った戦い。

アーシュラマ(445)
 カースト制度がバラモン中心のイデオロギーによって成立した身分制度であるように、やはりそれにもとづいて一個の人間の生涯を四つの段階に区切って個々の段階に義務が付せられている。カースト制度を「ヴァルナ」と称するのに対し、これらの四段階を「アーシュラマ」という。バラモン中心のこれら二種の社会制度は、いわばたて糸とよこ糸の関係にあって、人びとを固定的に拘束した。アーシュラマは、しばしば「住期」と訳される。それらは「プラフマチャリヤ」(学生期〉、「ガールハスティヤ」(家住期)、「ヴァーナプラスティヤ」(林住期)、「サンニヤーサ」(隠遁期〉であり、これらを一般に四住期とよんでいる。…孫が生まれる時期になると、妻をともない、あるいは妻を子に託して、林住期、すなわち家を出て林の中の生活に入る。ここでかれは種々の祭紀を実行しつつ禁欲の生活を送るのである。…第四の住期は隠遁期である。かれは施し物によって生活し、孤独で、ぼろ衣をまとい、ひたすら解脱のみを求める生活を死ぬまで行なうのである。

アジリタ(344)
 …彼女は前人未踏のアジリタを持っていますし、それに概して、彼女はフィオリトゥーラやグルペッティやトリルを、その歌唱の華麗さが発揮されるよう歌うのです。アジリタとは軽快さを意味し、細かい音符で書かれた速いパッセージのことで、大きな喜び、悲しみ、怒りを表現したり、歌手が声楽技巧を誇示するときによく使われる。特にこういった表現を得意とする歌手をソプラノ・ダジリテ、テノーレ・ダジリテと呼ぶ。

アスタポヴォ駅(419)
 1910年11月7日は、おそらくこの年唯一の歴史的な(悲しい!)事件があった。この日、全ロシアが喪に服した。アスタポヴォ駅で、家出中のレフ・トルストイが亡くなったのだ。ニコライ二世は弔辞の中にこう書いた。「偉大な作家の死を心から悼む。……主が彼に対して寛容な裁き主でありますように」

アストール・マンフレディ(474)
 ほとんど戦いも交えずに城門を開けさせてきたチェーザレの前に、必死の抵抗を試みる人々があらわれた。フォルリとイーモラの中間に位置する小国ファエンツァの当主は15歳の少年アストール・マンフレディだった。
…ファエンツァの民心は、この少年の下に一致団結していたのである。…1501年4月、矢折れ力つきた籠城軍は、ただ一つの条件をつけただげて、チェーザレの軍門に屈した。その条件とは、アストール・マンフレディの自由の保証であった。…しかし、彼らは家臣の忠告をしりぞけて、そのままチェーザレの許にとどまった。アストールは、この自分より十歳年長のチェーザレに憧れに似た気持を持ち始めていたのだ。
…しかし、…約1年が過ぎた頃、ローマのティヴェレ河に、首に縄をつけられた兄弟の死体が浮かんだ。


アストロラーブ(100)
 望遠鏡を定角度に向けて観測し、天体がこの高度に達する時刻をいろいろの方位で測定 して、緯度、経度、時刻を求める道具。水平を向いた対物レンズの前に正三角プリズムと 水平な鏡を置き、プリズムへの直接入射光と、鏡で反射してプリズムに入った光の像が一 致した瞬間を正確に計測する。

アスプレイ社(132)
 アスプレイ家が経営する英国王室御用達の特注品製造メーカ。ようするに金にあかせず どんなものでも作れる会社。どの商品も世界でただ一つしかないので、いわゆるブランド 品として消費の対象になりえない。

アスンシオン(353)
 被昇天(アサンシオン)の聖母マリアの町。

アセンブラージュ(97)
 ワインを発酵槽に入れた後そのまま熟成させず、翌春に格外れのものを除外する作業。 たとえばラトゥールでは、この作業で残されるのは6割で、あとのワインは、セカンド・ ワインのブランド(フォルト・ド・ラトゥール)か、ただのポーイヤックの名前で売られ る。

麻生と吉田(559)
 (白州)次郎は吉田の妻・雪子にも可愛がられたが、ある日彼女から折り入って頼みごとをされた。うちの和子にいいお相手はいないかしら? 次郎ちゃん、さがしてやってちょうだい」
…欧州出張から帰る船の中でいい男を見つけたから、この男性と結婚するように、という命令口調の手紙を和子に送りつけてきた。そのいい男とは、九州の炭鉱王の息子麻生太賀吉のこと。たまたま船で一緒になり、サンフランシスコから横浜までの二週間ほどずっと一緒に賭け事をしていてすっかり意気投合したのだ。ギャンブルは上流階級の暗みの一つ。。賭け事。とはいってもたいへんスマートなものだった。
…和子はめでたく太賀吉と結婚することになった。次郎は吉田家にとって縁結びの神でもあったわけだ。後年吉聞は、「金は銀行に取りにいけばいつでも引き出せるところをみると、麻生が入れておいてくれるのだろう」と語っている。麻生財閥の経済的バックアップなくして後の吉田の政治活動はなかっただろう。


アタチュルク(205)P.9
 ケマル・アタチュルクのアタチュルクは「トルコの尊父」という尊称。ケマル・パシャとも呼ばれるが、パシャとは「将軍」の意味。

頭が不況(317)
 筆者(若松義人)は「不況を嘆くのは、頭が不況なのだ」と考えている。どんな状況であれ需要はあるし、伸びている会社はある。需要の変化に応えられないから不況なのであって、そんな企業はたとえ不況が回復したとしても好景気の恩恵にあずかれない。…「不況だから就職難」と考えているうちは、決して就職状況は好転しない。頭が不況なのだ。

新しいカルタゴ(209)P.114
 イギリス人が商業・交易に付した重要性は悪名高くなった。イギリスは新しいカルタゴ 、つまりヨーロッパ大陸の大帝国を寄生的に食いものにする大商業国と広く見なされるよ うになった。ナポレオンは「商売人の国」と軽蔑して評した。

熱い乳(306)
 6月初旬、気温は氷点下20度から零度のあいだで推移した。出産のときが来たカリブーのメスは、仲間から数歩離れて雪のない場所に移動した。子はすぐに生まれた。分娩に時間を費やす余裕はなかった。子はわずか数分後にはふらつく足で立ち上がった。子はメスの腹の毛を鼻先でつついて乳房を探し、生命を支える熱い乳を飲んだ。乳を飲むと子はまた座りこんだ。一時間ほどしてメスは立ち上がり、鼻先で子をつつくと、子は本能的に立ち上がり、メスのあとにつづいた。立ち上がれない子は、たちまち吹きつける雪に埋もれた。

アッシャー大司教(99)
 1650年に、アイルランドのジェームス・アッシャーは、聖書の記述のみを元にして こみいった計算をした結果、天地創造が紀元前4004年10月26日に始まったという 結論を出した。しかも当時の宗教界はこの結論を信ずべきものとして認めた。

アッピア街道(23)
 BC312にクラウディウス一門のアッピウスが敷設し、インフラストラクチャとして のローマ街道を意味づけることになる。ローマとカプア間。現在、ギリシャに渡るフェリ ーの発着するブリンディシには、アッピア街道終点の記念碑がある。なお北に向かうのは フラミニア街道。

アッベ数(191)  
 ガラスの屈折率は青側が大きくなる。レンズ磨きの職人フラウンホーファーは太陽光線 の吸収線を分類した。彼の発見した水素のC腺(赤)、ナトリウムのD腺(黄)、水素の F腺(青)のそれぞれの屈折率を使ってレンズのレンズ屈折率の分散を定義した。
     分散能力=アッベ数=V値=(nF−nC)/(nD−1)

アーティキュレーション(333)
 音楽演奏において各音、各語を明瞭に発生させること。弦楽器においては一本の弓の場合もあるが、主として弓の交替によってなされ、吹奏楽においては気息の中絶によるか、または急速な時は舌の助けをかりて行う。ピアノにおいては打つ運動の多くの種類によってなされる。

アテネの学校(431)
 ヴァティカノの聖ペトロ寺院に隣接するヴァティカノ博物館のセニャトゥラの広間に、有名なラファエロの傑作の一つ「アテネの学校」というフレスコ画がある。この作品は1502年に完成されたものであるが、周知のとおり、画面の中心にプラトンとアリストテレスが並び立っている。向かって左側に立ち天を指すプラトンの側には、ソクラテスやヘラクレイトスのようにいわゆる観念論的な思索をした哲学者の群像約二十人が描かれ、向かって右側に立ち地を指すアリストテレスの側には、デモクリトスやアルキメデスのように当時としては実験的と考えられるような、経験を重んじた学者の群像約二十人が描かれている。

アトランティコ手稿(41)
ダ・ヴィンチの手稿集。

アナスチグマット(95)
 非点収差(Astigmatism)にアンチのANをつけた、収差補償レンズ。1888年ツァイ スのルドルフが考案。現代の全てのレンズはアナスチグマットである。 

アナバブチスト(401)
 最も急進的な改革を求めたのが「アナバプテスト(再洗礼派)」だ。…再洗礼派は、信仰を自覚した成人が、自由な意思で洗礼を受けなくてはいけないと主張した。これは過激な思想である。なぜならば、カトリックに限らず改革派も「一つの領地には、ただ一つの教会があり、領地住民はすべてその教会に入る義務がある」という考えに固執していたからだ。だから住民は幼児の時に洗礼を済ませて、強制的に教会に所属させられることになる。ところが、再洗礼派は、洗礼と教会への所属は自由意思だと主張する。…それで再洗礼派は、カトリックだけでなくルター派からもひどい迫害を受けた。再洗礼派という名前も「二回も洗礼を受ける奴」という軽蔑の言葉である。有名な再洗礼派のグループにメノナイトというのがある。迫害を逃れ、東欧やロシアを転々としたのちアメリカに行きついた。その末裔は、今でも電気を使わない古式の生活を守っている「アーミッシュ」だ。

■アニ・ベズント(アニ・ベサント)(554)
 (ブラヴァツキー婦人の)神智教会は1875年欧米人によって設立され、膜想によって直感的に霊知を得ょうとした。それが南アジアの民族主義運動と密接に関連を持つに至った。19世紀はスリランカの仏教に、20世紀に入ってからは、インドのヒンドウー教に深く共鳴しながら神智教会は活動を展開した。アイルランド女性アニ・ベズントがその中心であり、ヒンドゥー古典文化を高く評価し、インド人を鼓舞した。第一次世界大戦が勃発し、イギリス参戦後、植民地インドは自治への期待をもって参戦したが、イギリスは反対の弾圧の方向に向かった。アニ・ベズントらは、1916年自治連盟を結成、抗議活動をするが、それが次第にインド民族主義運動を統一するような大きな動きになり始めると、ついにイギリス政府はベズントを逮捕する。

アネクドート(155)

アノミー的自殺(290)
 デュルケムは経済危機のときに自殺率が高くなるばかりでなく、景気が非常にいいときもまた自殺率が上昇することを発見した。アノミーとは規範の拘束力が弱まった状態を意味する。道徳的規制が弱まり、個人の欲望が無制限に追及されるようになって、個人は自由を謳歌するどころか、いつまでたっても満足感を得られなくなる。好況のときは一見自由で可能性が増大したように感じられ欲望をかき立てるが、それが満たされないことから生じる失望感もまた大きいからである。

アバス通信社(194)
 マルコーニが無線を発明し、無線通信が一般化したが、通信コードが各国により意図的 に異なっているので、国際的な通信はかならずしも迅速におこなわれなかった。ここにフ ランス人アバスは目をつけ、伝書ばとによる世界初の国際通信社を設立した。この会社に いたウォルフやロイターはそれぞれ独立して通信社を作った。

アパティア(70)
 ヘシカスム霊性においてヘスキア(静寂)を経て至る境地。不煩心。これを目指して人 は祈り、砂漠に入り、カッパドキアの岩窟を掘り、メテオラのような高みに生きる。

アパトサウルス(105)
 動物の学名は基本的に先取権による。同一の種について先に学会に発表した命名が正式 の学名となる。かみなり竜は現在、プロントサウルスと呼ばれる。アメリカでのマーシュ とコープの恐竜発掘競争の過熱で、十分な確認のないまま各種の新恐竜名が付与され、そ れが後に同一の種であることが判明することがあった。このプロントサウルスもさきにア パトサウルスと命名されたので、先取権からはアパトサウルス(さぎ師とかげ)となるが 、プロントサウルスの方が定着した。

アハルテケ(TV)
 騎馬民族トルキスタンの馬。砂漠の名馬と呼ばれる。ソ連崩壊後、トルケミニスタン共 和国の心情的シンボル。  

アビダルマ(443)
『阿毘達磨倶舎論』の阿毘達磨はサンスクリットでアピダルマという。このうち「アピ」とは{対する」「向かう」を原意とする。つまりアピダルマとは「ダルマを研究する、分析する」という意味である。ではダルマとは何か。仏教が主張する三つの綱領の一つに「諸法無我」がある。この場合の「法」とはサンスクリットでダルマといい、存在を意味する。したがって諸法無我とは「あらゆる存在には固定的実体はない」という意味である。…ところで教理としての教法(ダルマ)はその裏に存在としての法(ダルマ)を前提とする。自己の肉体と精神、自己をとりまく自然界、さらには現象界を超えた非現象界、すなわち存在するかぎりのありとあらゆる存在の真実の相を概念で表現したのが教法としての法である。したがってアピダルマとは、教法を分析・研究することであると同時に、それは存在そのものを分析・研究することである。

アービトラージ(133)
 裁定取引。サヤ取り。異なる市場や、現物と先物との取引価格差を利用した取引き。

アヒンサー(482)ガンディー
「アヒンサーは手段である」。なぜなら、手段というものは、つねに「わたしたちの手の届くところ」になければならないからである。いかえれば、アヒンサーは、われわれのだれもが実践しようと思えば、いますぐ、その場で実践できるものである。
「アヒンサー」というのは、字義的には「ヒンサー(殺生・傷害)」という語に、否定の「ア」を冠せたものである。普通「無殺生・無傷害」を意味する。しかしガンディーは、怒りや憎悪、悪意や自尊心などをもって、直接・間接に人間と動物を苦しめることも「ヒンサー」であると考える。さらにまた、個人や集団が自己の欲望から、弱者を搾取し、屈辱を与え、飢餓に追いこむことも「ヒンサー」である。…「魂の力をもって悪に立ち向かい」「不正に対するもっと積極的で、実際的な闘い」 を展開することでなければならない。
…母の死を知った同じ日に、ガンディーは知人の家で、宝石商を営む在家の宗教家ラーイチャンドバーイに会った。ラーイチャンドパーイは、25歳そこそこの若者であったが、ガンディーは彼を一目見たときから、その豊かな学識と高潔な人格に心をひかれ、その人のうちに、純粋な真理の探求者の生きた実例を見たのである。そして彼は、ラーイチャンドパーイとの交友をとおして、ジャイナ教の思想体系を、とくにその中心思想であるアヒンサーの哲理を学ぶことができた。すなわち、彼はアヒンサーを、ただ機械的に暴力を避けるという消極的な善行ではなく、人類にとどまらず、生きとし生けるいっさいのものとの生命の連帯感を認識することから生まれる積極的・普遍的な愛の行として受けとめたのである。彼はまた南アフリカへ渡ってからも、さまざまな精神的危機に遭遇するたびに、ラーイチャンドパーイが31歳の若さで死ぬまで、助言と慰籍と避難所をこの友に求めた。


アファー三角地(217)
東アフリカの大地溝帯がソマリア半島の根元で紅海に出会う部分。この大地溝は北のタウルス山脈の根元から死海のあるヨルダン谷、南はタンガニーカ湖、イアサ湖まで続く。

■アブスルドゥム(524)
 この矛盾が霊性的直覚を性格づけている。矛盾であるから信が成立する、矛盾のないところに信はないとも言える。キリスト教神学者に「アブスルドゥムだからクレドだ(背理だから、私は信ずる)」と言ったものがあるが、その通りである。親鸞の随順は信で成立する、信は非随順で成立する。これほどアプスルドゥムなことはない。霊性的直覚が分別智の定規で計られぬというはこの意味である。「念仏には無義をもて義とす」という、親鸞の念仏はここから出発して、初めて「よき人の仰せ」が成立するのである。


アプス(405)
 (教会堂の)身廊の東端部は、通常アプスと呼ばれる半円形の窪みとなって終わる。初期には、アブスに聖職者席を配置し、その前面に祭壇(主祭壇という)を置いたが、のちに聖職者席と主祭壇の位置は入れ替わった。アブスと主祭壇を含む東側の部分は聖職者の専用空間、すなわち内陣となり、一般信徒に開放される西側の外陣から区別される。

アブソルート・ピッチ(292)
 知覚研究では周波数は物理量、音の高さ(ピッチ)を心理量と呼ぶ。実際に聴いてみればすぐに分かるのだが、周波数と音の高さは必ずしも比例関係にはない。周波数が倍になったからといって、常に音の高さも2倍、つまリオクターブ上の音感じられるとはいえない。絶対音感の英訳であるアブソルート・ピッチは、なんの比較判断の手がかりもなく、知覚される音の高さ(ピッチ)に音名や周波数という物理量をラベリングできることなのである。

アブダクション(123)
 Abduction仮説形成。成熟した知の体系においては、一般法則から個々の事実が演繹的に 導かれる。創造の過程は逆の向きをたどる。したがって創造に貢献する推論が考えられる とすれば、それは演繹に逆向する。与えられた事実を導く法則(仮説)がさまざまに考え られる以上、アブダクションは演繹の持つ必然性を欠き、創造性の徴である飛躍を含む。  アブダクションを近代とりあげたのはプラグマティズムの始祖パースであるが、分かり やすく言ってしまえば、「おもいつき」ということ。

アプラナット(191)
 シュバリエのフランス型風景レンズの改良版として、1857年に球面収差を除去した のがグラブのアプラナット。2枚の貼り合わせメニスカスの凹面を前に向ける。さらにこ れをダブレットにしたのが、1866年のダルメヤーのラピッド・レクチリニアとシュタ インハイルのアプラナット。この二つは同一の構成が別々に同時期に発明されたもの。最 高F6の明るさが特徴。この構成は1890年にアナスチグマットが登場するまで、もっ とも成功したレンズとなった。

アフリカのイブ(21)
 すべての人が共通の子孫と呼びうる始祖。ミトコンドリアのイプ。ミトコンドリアのD NAは女系であり生殖による男女のDNAの混合が起こらない。各人のミトコンドリアは 世代間での突然変異のみである。この変異の差をたどることにより、全人類の女系の始祖 までたどり着けるという考えがアフリカのイブである。

アペレスの再来(84)
 アペレスは、ルネッサンスの芸術家に理想像として見られていたアレクサンドロス大王 の宮廷画家。ダ・ヴィンチは当時の詩人からアペレスの再来と呼ばれた。

阿呆男爵(309)
 フェルディナント・フォン=ツェッペリン伯爵(グラフ)が飛行船を研究を始めたときボーデン湖畔の地元の人たちから阿呆男爵と呼ばれた。夫人も持参金として所持していたラトヴィア方面の土地を担保提供して、かろうじて開発資金を工面していた。軍事的意義から飛行船を開発しようとしていたが、国も軍も資金をださない。そうして製造したLZ−4号が墜落事故で烏有に帰し、破産一歩手前まで追い詰められる。これを救ったのは、国でも軍でもなくドイツ国民挙っての募金活動であった。

阿房列車(331)内田百聞
 用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。用事がないのに出かけるのだから、三等やニ等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい。私は五十になった時分から、これからは一等でなければ乗らないときめた。…どっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。二等に乗っている顔附きは嫌いである。

■アポカリプス(197)
 黙示

アポトーシス
 生きるためにプログラムされた細胞の自死。ネクローシスは病理的な細胞死。

アポリア(488)
 「道がないこと」の意で、何かを問う場合に出会う難関・窮地。難問。論理的困難。

アポフテグマ(436)
 アポフテグマは、元来ギリシャ文学や教父学の分野において、哲学者とか聖書の逸話を彼らの言葉を中心に置いて描く、一つの文学類型を特徴づける呼称である。これがブルトマンによって新約聖書学にも適用された結果、今日「アポフテグマ」と言えば、イエスの言葉に頂点を有する一単位の物語を指す。…様式上、「論争」「対話」「伝記的アポフテグマ」の三種類に区別される。

■アポロ13号
(5)
 スプートニクが1957年、カガーリンが1961年であった。そしてたった10年も 経ずしてアポロ11号を成功させる。その急激な変化率から、だれしもがスタンリーキュ ーブリックの2001年を予想される現実として捉えた。しかしアメリカの宇宙への情熱 はさめた。その中での最高のドラマがこの13号。ラベル、スワイガート、ヘイズのクル ーによるミッション。1970年4月11日(金)13時13分打ち上げ。13日酸素タ ンク爆発。17日奇跡的生還。

甘い発明(194)
 発明王エジソンは技術開発より法廷紛争を得意にしていたふしがある。つめの甘い発明 をしておき、あとで他人が類似の有力な特許を出すと、そのアイデアを借用しながら自分 の発明をリライトして自分のプライオリテイを主張するという方法をしきりにとった。

アマゾネス(257)
 アッティカの英雄テセウスはクレタの迷宮等での、遍歴武勇伝が多いが、その一つがアマゾンとの戦いであった。小アジアのテルモドン河畔に住む女人族で、弓を射るのに射やすくするために右の乳房を切り取ったので、アマゾネス(乳房をとったの意)と呼ばれた。トロイア戦争では、トロイア側に参戦した。

アマデーウス(356)
 イタリアに滞在したときのモーツァルトも自分の洗礼名ヴォルフガング・テーオフィールを、イタリアふうにヴォルフガンゴ・アマデーオと読み替えて使っている。TheoとDeoは神、PhilとAmaは共に愛の意。彼はこのアマデーオが気に入ったらしく、帰国してからもドイツ語のテーオフィールを使うことはなく…アマデーオとアマデを使い分けている。…ときにそれをさらに語尾をラテン語ふうにアマデーウスと直して署名したこともあるが、その例はごく少ない。だがその稀に署名したはずのアマデーウスがどうして20世紀の通り名になってしまったか。重要な原因は19世紀の後半にドイツのブライトコップフ社からモーツァルトの楽譜の全集が刊行されたとき、同社がこのアマデーウス≠採用し、モーツァルトの正式名をアマテーウスとしたためだと思われる。さらにはドイツ人の学者たちもこのデーウスという語尾に執着した。

アマルナ革命(129)
 アケトアテン(アクナートン)の宗教改革革命。アケンアトンと名づけられたアマルナ の地に新都を築いた。

アミノ酸(72)
  Cを中心にアミノ基(NH2)とカルボキシル基(COOH)と水素(H)と側鎖(R) からなる正四面体構造。側鎖の違いによって20種のアミノ酸となり、各アミノ酸のカル ボキシル基とアミノ基が脱水結合したペプチド結合したものが蛋白質。これが生物の基本 構成単位となる。

アーミッシュ(4)
 ペンシルバニア州フィラデルフィヤに近いランカスターを中心とするシルバニア・ダッ チ・カントリーと呼ばれる地域に住む。プロテスタント再洗礼派であるメノナイト派から さらに原理的なグループが、ヨーロッパでの圧迫を逃れて住み着いた。独特で質素な黒い 服装と、電気や自動車という文明を拒絶した自給自足的生き方が、従来の価値観に自信を 失った人達の関心を呼んでいる。

アミティエ(267)p.86
 朋友愛。古代から長い間、朋友愛は、社会関係の重要な様式だった。それは、男同士の情愛の関係であり、また経済的、社会的な関係でもあった。

アメスラン(224)p.43
 アメリカン・サイン・ランゲージ。すなわち聴覚障害者が使用する英語の手話。

アメリア・イヤハート(66)
 1928年リンドバーグから1年後、大西洋横断に成功した女性パイロットのスター。た だし実際は男性パイロットが操縦する飛行機に同乗したにすぎないとされる。その後各種 横断記録に挑んだ後、1935年の東周りの世界一周をケリー・ジョンソン設計のロッキ ード・エレクトラで行う途中日付変更線あたりで行方不明。その5日後、日華事変勃発と いう時節柄、スパイ活動説もささやかれる。

アメリカ(112)レヴィ・ストロース
 野蛮から文明を経ないで退廃に移行した国。新世界の都市はみずみずしさから老朽へ、 古めかしさという段階に立ち止まらず移っている。

アメリカの保守主義(401)
 一見して、これはあべこべのように見えるかもしれない。一般的に、人民の権利を守るために、横暴な君主と政府の権力を制限する思想は自由主義(つまりリベラリズム)」と呼ばれ、「保守主義」とは、封建制度や君主制を擁護する思想のことであったはずだ。ところが、アメリカにはそもそも守るべき君主制は最初からなくて、自由主義が建国以来の理念である。だから、その自由主義の伝統を守ることが、アメリカでは「保守主義」と言われているのだ。さらに、資本主義が発達するにつれて、経済活動の自由によって成功した資本家が、その自由を政府の規制から守ろうとする「自由放任主義」も保守主義の重要な要素に加わっていく。

アメリカ文学(173)
 事実上すべてのアメリカ小説の読者は白人として位置付けられている。作者たちがアフ リカニストの身振りや身体を作品に描きこむ方法を通して、わたしたちは現実または虚構 のアフリカニストの存在が、このアメリカ人らしさの感覚を生むためにきわめて重要だっ たことが理解することができる。

アメリゴ・ヴェスプッチ(353)
 …アメリゴ・ヴェスプッチという名前のフィレンツェの銀行出納係である。ヴュスプッチはメディチ銀行のセビリア支店長だったが、新世界の驚異の話を聞くと、退屈な仕事はあっさりやめて、探検や宇宙論や地理学に取り組んだ。やがて大西洋を越え、ブラジルの海岸沿いに南下して、のちにラプラタ川と呼ばれることになる川を発見した。ヴュスプッチは、この広大な海岸のどこかに海峡があって、大陸の反対側にある香料の島へ行けるはずだと確信するようになったが、しかし、パタゴニアの海岸のとある地点で調査を打ち切ってしまった。

アメン神(293)
 テーベの守護神で、古い太陽神ラーと結びついて、全能の神アメン・ラーとなってエジプト全土で信仰されるようになった。おもに戦いの神と見られたが、シリアでのエジプト優位が確立したトトメス3世、アメンヘテプ3世の時代には、宇宙創造神とされるようになった。

■アムベッドカル
(173) P.217
 ガンジーと同時期のカースト制反対運動の創始者。自身も不可触賎民であり、数百万の支持者と共に仏教に改宗する。……「ヒンドゥー教を受け入れることは、私の自尊心が許さない。宗教は人間のためにあるものであって、人間は宗教のために存在するものではない。…諸君を人間扱いせず、諸君に水を飲まさず、寺院に入ることを許さぬ宗教は、宗教の名に値しない。…諸君に人間としての扱いならぬ、動物並みの扱いを甘受せよと説く宗教は宗教ではない。にせものである。…」

アモン・スール(270)指輪物語
 風見ガ丘には塚はない。西方の人間たちはここに住まなかったのだ。…しかしそのうち、北方王朝の初期に、大きな物見の塔が建てられ、アモン・スールと呼ばれた。それは焼き払われ、こぼたれた。…話によれば昔、エレンディルはそこに立ち、西方からギル=ガラドが来るのを待って見張っていたということだ。最後の同盟時代のことだ。

アユタヤのペドロ岐部(548)
、本書(遠藤周作:王国への道)が歴史的背景を借りた1627年から30年という時期は、まさに抗争のなかで傭兵隊長としての武力を背景にして山団長政が出世をとげ、ついにリゴールの藩主に封ぜられるに至る時期であった。それはまた、ペドロ岐部が日本への便船をもとめてアユタヤに滞在した時期でもあったのである。しかし、ローマの友人にたいしてアユタヤ生活を語るペドロ岐部の手紙には、山田長政について一言の言及もない。

新阜るみえ(211)
 土門拳の「筑豊のこどもたち」「るみえちゃんはお父さんが死んだ」の主被写体となった。福岡県嘉穂郡幸袋町井之浦の小学4年生、妹のさゆりは一年生。

アラスカの発見(306)
 1741年ロシアの女帝アンナ・イヴァノヴナの命を受けた博物学者ゲオルク・ヴィルヘルム・シュテラーがカヤック島に上陸することによってアラスカが外部によって発見された。

アーラヤ識(443)
 われわれはなぜ生死輪廻をくりかえしているのか。この間いに対して、仏教は総じて業感縁起という考えで答える。すなわち、自己存在という結果を生みだし、その存在の質を決定するのは業(行為)である、という考えである。…ここで問題となるのは、そのような業の影響を担って生まれかわり死にかわりする「輪廻の主体」とはなにか、という問いであった。…このような「輪廻の主体」追求の頂点において発見されたのがアーラヤ識である。ヴァスパンドゥは『唯識三十頌』でアーラヤ識について、「異熟はアーラヤ識と称せられる識で、一切の種子をもつものである」と説明する。ここではアーラヤ識が「異熟」ということばで言いかえられている。異熟とは「異なって熟したもの」という意味で、過去世(あるいは現在位)の業を原因として現在世(あるいは未来世)に生じた結果、すなわち自己存在をいい、その自己存在の根本をなすものがアーラヤ識であると考えた。

アリオウィストッス(535)
 アリオウィストゥスというゲルマニアの王が、(ガリアの)セクアニ族の領内に居すわってしまい、彼らの耕地の三分の一を占領した。
アリオウィストゥスは使者をこうあしらった。「もしカエサルに要求したいことがあれば、予の方から彼のところへ出かけて行くだろう。もしカエサルが予に何かを欲しているなら、彼の方から予のところへくればよい。のみならず、予は軍隊を連れずにカエサルの制圧しているガリアのその地方にのこのこと出かけて行く気はまったくない。…それにしても奇妙に思えてならぬことは、予が戦争で征服した予のガリアと、カエサルにせよ、あるいはローマ国民にせよ、いったいどんな関係があるというのか」


アリストテレス運動論(466)
 彼のこのような運動理論は結局、物を押したり引いたりする日常経験に基づく力学であり、それはまた彼のコスモス的世界像の枠組のなかに、がっちりと組み込まれている。そのような運動理論として、それは常識的な日常経験の場面での運動を一応よく説明しえていたと言えよう。したがってこれを超え出てゆくためには、ただ日常経験をいっそうよく観察するだけでは足りない。
…なぜなら、なんらの抵抗もない空虚な空間をなんらの力の作用もうけずに無限に直進する、近代力学における純粋な慣性運動というようなものは、この日常経験の世界のどこにも与えられていない。現実の身辺に見出されるものは、媒体につきまとわれた摩擦や抵抗のある空間のなかで、外力や重力の作用をうけている物体の運動である。実際「慣性の法則」をはじめとする近代の力学原理は、単に観察の詳しい描写だけから得られたものではない。否むしろそれは全く科学の現実認識の在り方の根本的転換によってもたらされたと言うべきである。


アリストテレスの生涯(431)
 彼の生涯は大別して四つの時期に分けられる。第1期は、紀元前384年の誕生から17歳の時期に至るまでの、故郷に留まっていた幼少時代である。この間彼は、父がマケドニア王ビリボスの侍医であったという事実からその宮廷が提供する文化と、生地のもつイオニア的伝統が、精神形成に影響を与えたと思われる。
 第2期は、17歳でアテナイに遊学し、プラトンのアカデメイアに入門し、プラトンの死の年、まで二十年間を関する研究と教授の時代である。少なくとも後半十年間は、最も重要な教授として講義を担当していた。プラトンの死に際し、アテナイを去る。
 第3期は遍歴の時期で、37歳〜49歳に至る十二年間である。アテナイを離れると小アジアのアッソスに赴き、ここで三年間滞在する。この間にヘルミアスの養女ビュティアス)と結婚した。紀元前342年、マケドニア王ビリボス二世の招きに応じて、当時十三歳の王子アレクサンドロス、すなわち後のアレクサンドロス大王の師博となった。
 第4期は、アテナイ復帰とともに学園リュケイオンを開設し、研究と教育に於いて、アカデメィァを凌ぐ営みを実現させていた時期、十二年間である。彼の学問的関心と経営能力、さらにはアレクサンドロス大王の援助によって、この学園は図書館、博物館、動植物園等の設備を擁し、当時としては世界一を誇る整備された学園であった。大王の急死によって、かねて底流として伏在していた反マケドニア運動がアテナイに於いて顕著となったため、また、アリストテレス自身が義父ヘルミアスを神と讃えた詩句が、不敬罪として問われるに至ったので、彼は、その学園と学友を去って、エウポイアのカルキスに逃がれた翌年の前322年春、失望と不安に悩んだ漂泊の地で胃病を病み、62歳で病没した。

有りて在る音楽(385)
 マーラーの音楽は聖と俗の間で引き裂かれているという解釈にしても同じことだ。ワルターの言う神も、聖と俗との葛藤という二項対立も、神と人間と世界という弁証法的(キリスト教的)な構造の中で閉じている。調性音楽は必然的に救済に向かうしかないというベッカーの主張を仮に認めたとしても、それがかならずし両義性の弁証法的な解決として現象しなければならない謂れはない、クレンペラーならおそらくそう言うはずである。クレンペラーの演奏するマーラーの懐の深さ、そこから滲み出す土俗性のようなものがあってこそ、マーラーは野人としての風貌を我々に顕す。その野人は、神と人間との契約から排除された汎神論的世界の中で、初めて深く呼吸する。そこでは、自らが「有りて在る者」 になるほかないからである。

アリニュマン(129)
 メンヒルは単一の立石。ドルメンは複数の巨石で天井石をささえる墳墓。アリミュマン は列石で、ブルターニュのカルナックのものが、最大規模。全長4Kmの範囲に約300 0個の巨石を並べた。

有馬のセミナリオ(547)
 日本の文化史のうえで貴重な価値を持ちながら、今もほとんどの日本人が顧みない一つの学校がある。その学校は1580年(天正八年〉に開校して三十三年の間存続したが、迫害のため閉鎖した。…いつ来てもこの廃盛は静かだった。訪れる人影もなかった。むかしここに小さな学校があり、こここそ日本人がはじめて西洋を知った場所だったとはほとんどの日本人は知らない。ここで学んだ者たちがその学んだことゆえに迫害され、殺されていったこともほとんどの日木人は知らない。ここで学んだ者たちのなかに我国最初のヨーロッパ留学生の何人かがいたことも、ほとんどの日本人は知らない。だからすべてが静かである。

アーリマン的(363)
 シュタイナーは精神の世界で「魔的な諸力」に遭遇した。これらの諸力は「自然認識のなかから精神の直観ではなく、機械論的唯物論的な思考様式を生ぜしめようと欲している」。「世界は機械にならねばならない、というのが彼らにとって絶対的な真実なのである。」これらの存在をシュタイナーは後に「アーリマン的」、あるいは総括して「アーリマン」という言葉で呼んでいる。彼はいま、一つの内的な戦いをまったき意識のもとに戦い抜かねばならなかった。「私は当時、内的な嵐のなかで、自分の霊的直観を救い出さねばならなかった

アリョーシャの12使徒(394)
 ドストエフスキーは、この最後の場面(カラマーゾフ万歳)に、13年後、新しい小説の作中人物となるであろう少年たちを勢揃いさせたかったのにちがいない。彼らは、13年後、おそらく新しい組織、ぁるいは教団とでもいったものを作って、皇帝暗殺であるかどうか、ともかく重大な国事犯罪を犯すのにちがいない。そこで、おそらく、アリヨーシャ自身はいわば影の思想的教唆者という役まわりになり、実行犯は、『カラマーゾフの兄弟』でスメルジャコフがそうであったように、少年たちの一人がなるのだろう。…ドストエフスキーはアリョーシャの最後の演説の中で、少年たちを「ぽくの小鳩たち」と呼ばせている。言うまでもなく、鳩は聖霊の代名詞であり、時によっては使徒たちの象徴的な呼び方でもある。すると、この石の傍らの場面は、「最後の晩餐」につどったイエスと12使徒の場面をそのままなぞっていることになる。…そうなれば、この13人の中には、1人のユダも含まれているはずである。少年たちに即して言うと、私はその「ユダ」候補が、「トロイの建設者はだれか」を発見してクラソートキンの鼻をあかしたカルタショフ君ではないか、と疑っている。毎度姓名占いで恐縮だが、この姓は、タタール語起源の 「カルダショフ」 (「親友」の意味をもつ) に酷似しながら、その実、「見せかけだけの仕事をする」「嘘をつく」 の意味をもったロシア語の動詞「カルターヴィチ」から派生しているように見えるからである。

アルクイユ(29)
 パリ時代のエリック・サティが死を迎えるまで住んだ郊外の街。アルクイユ・カシャン 駅から徒歩。ブランクーシが彫ったという墓石のサティの墓も近く。 死後、初めて他人の目に触れた部屋には、「…ペダルを紐で念入りに縛った上下2台積 み重ねたピアノ。衣装棚には全部同じ形のグレイの服が7着。カラーがたっぷり30本。 100本近い雨傘。葉巻箱のなかには大量な神秘主義的な文章。ないものはなかった。名 指しする訳にはいかないものを含めて。‥」 名指しする訳にはいかないものって何。これほど好奇心をくすぐる文章はない。

アール・グレイ(262)
 ジャクソン商会では、外交使節として中国から帰任したグレイ伯から、中国茶の完全なブレンドの秘法を入手した。そのブレンドは「その香りにおいてならぶものなき、中国紅茶の絶品」と呼ばれ、…この銘柄はグレー伯にちなんで、「アール(伯爵)・グレイ」と名付けられた。

アルケオロジー(267)p,52
 フーコーの言うアルケオロジー(考古学)とは、ニーチェの「系譜学」やカンギレムの「概念の歴史」の影響を受けて考え出された方法論です。ニーチェは「道徳の系譜」などで「根源」なるものが人為的に作られたものにすぎず、それがいかに作られたか、その「発生」を調べることで虚構性が明らかになるはすだと論じた。カンギレムは、…その理論を生んだ時代を支配していた「概念」こそがあきらかにされなければならないと述べた。…かくしてフーコーは…そうした主題がその時代のどのような規則(無意識な構造)によって書かれたのか、発言されたのかを「考古学」の方法とした。

アルゴナウタイ(257)
 オデッセウスの冒険に良く似た話がアルゴナウタイ物語である。こちらの主人公はイオルコスの王子イアソン。王からヘレスポントスを経由して、黒海東部のコルキスに行き金毛羊皮をとり返してくることを命ぜられて、ギリシャ全土から勇士を募り、彼らを運ぶ船を船大工アルゴスが建造した。だから船名はアルゴ号で、勇者達はアルゴナウタイ(アルゴ乗り組みの一行)と呼ばれた。

アルコール温度計(17)
 アルコール温度計には摂氏100度まで目盛りがあるが、アルコールの沸点は78度で 、100度では沸騰して表示できるはずがない。最近のアルコール温度計にはアルコール ではなくケロシンが使われている。

アルシーブ(66)
 記録保存所。何語か分からない? グラモフォンのアルヒーブ・レコードもまさにこの 意味から取られたことが分かる。  

アールズウッドの天才(252)
 「聾唖」で精神的な発達度合いの低かったジェームス・ヘンリー・プレンはアールズウッド精神病院で66年間暮らした。特異で精密な工芸技術に長けており、サバン症候群の事例とされる。エドワード7世が皇太子だったころ。この驚嘆すべき変人にいたく興味を示され、立派な彫刻をつくるようにと象牙を贈ったことがある。また、ドストエフスキーが「白痴」をあらわしとき、プレンのことを念頭において、他人との関係をもたないアウトサイダーの主人公を設定したという。
死後解剖をおこなったサノは「右半球にくらべて左半球の発達は、はなはだしく遅れていた。」と報告している。


アルス・モリエンディ(536)
 13世紀ごろから、托鉢修道会がきそって「死を想え(メメント・モリ)」の説教をおこなうようになり、15世紀になるとヒエロニムス・ポッシュのような画家があらわれて、怪奇な「天国と地獄」図を描いた。この時期にはさらに、骸骨を主人公とする「死の舞踏(ダンス・マカーブル)」なる木版画が、飾り絵を付して大量に製作販売された。それは当時の人びとに、はげしい恐怖の感情をおこさせたのである。それとならんで「往生術(アルス・モリエンディ)という、死と生の関係を扱ったテキストも編集され、オーストリア、ドイツ、フランス、イタリアなどにひろめられた。
右の「アルス・モリエンディ」では、死の床で悪魔に攻撃される話がでてくる。その攻撃にたいして、罪をつぐない天国の経験を手に入れる方法が詳細に説かれているのである。死に勇気をもって立ちむかうことが大切な覚悟とされ、臨死者は十分な準備をして死をうけ入れるよう勧められている。


アルセニック・イーター(22)
 砒素嗜食者。カエサルと同時代のポントスの王ミトリダテスは暗殺を恐れ、毒物を常用 して耐力をつけていた。

アルデヒド脱水素酵素(157)
 酒のエチルアルコールは胃から小腸で吸収され、血液によって全身に運ばれ、脳中枢を 麻痺させるが、その後大部分は肝臓で代謝され、アセトアルデヒドを経て酢酸になり、最 終的には二酸化炭素と水に分解される。アセトアルデヒドを分解するのがALDH(アル デヒド脱水素酵素)で、このALDHが変異していて代謝能力が低下しているのが、いわ ゆる酒に弱い人である。ALDHには1と2があり、ALDH2は少量のアセトアルデヒ ドでも効率よく酢酸に変化させる。ALDH1はアセトアルデヒドが一定量以上にならな いと分解機能を発揮しない。ALDH2のN型、ND型、D型の順に酒に弱くなる。ND 型は訓練で飲めるようになるが、D型はダメ。  このALDHの下戸タイプはモンゴロイドに固有の特性である。

アルトエディング(43)
 ミュンヘンの東90kmの田舎町。黒マリア信仰の礼拝堂がある。ルートヴッヒ二世は じめ歴代のバイエルン王の心臓が保存されている。

アルヒヘレニス(216)
 考古学的にアフリカと南アメリカの間の陸地のつながりを示す証拠の多いことから、この2つの大陸の間に挟存大陸アルヒヘレニスがあったとする学説がある。

アルバダ・ファインダー(167)

アルファ・オルガ(396)
 ギリシャ語の最初と最後の文字。すなわち、万物の初めであり終わりであるという意味で、神が歴史の唯一の支配者であることを述べる。「私はアルファであり、オメガである」

アルベルティの窓(351)
 幾何学的に作図されたルネサンス期の最初の透視図は、1425年ごろブルネレスキによって描かれている。図は現存していないが、彼が用いた規則は10年ほど後に、レオン・バッチィスタ・アルベルティによって体系化されて公表された。アルベルティの透視図の作図法における画面が知られるようになるにつれて、「アルベルティの窓」はダ・ヴインチを含むイタリアの多くの画家に急速に採用されていった。

アール・ヌーヴォー(307)
 美術史ではよくガウディをアール・ヌーヴォーに分類しているけれど、おれに言わせりゃお笑い種だね。アール・ヌーヴォーのどこにああいう気ちがいじみたもがあるんだい。アール・ヌーヴォーなんぞ、飼いならされた温室の熱帯植物みたいなものさ。

荒野の40年(154)
 戦後40年記念のヴァイツゼッカー大統領の議会演説。ユダヤ人が約束の地を得るまで に40年荒野に止まらなければならなかったことと、戦後ドイツの40年を対比し、統一 への希望を語った。

ある・ある・ある(160)
 突発性脱疽で四肢切断した中村久子は、見世物小屋での過酷に生活のなかで、その強い 意志と努力によって、人生を切り開いた。昭和43年死亡するが、前半生の社会や親を恨 む気持ちは晩年に至って「生かされる」境地に達し、ないものを挙げるのではなく、あるものの素晴らしさを「短いけれど指のない、まるいつよい手が何でもしてくれる。断端に 骨のないやわらかい腕もある。」と詩に書く。

アレオパゴスの丘(439)
 アクロポリスの丘の北側の斜面を下りていくと、1932午から発掘が始まり、今なお再現工事が進められている古代アゴラの遺跡がある。この遺跡の立っているあたりがアレオパゴスの丘である。いまアレオパゴスの丘に立って、南に高くアクロポリスのパルチノソ神殿を仰ぎ、北側の宏壮なアゴラの遺跡を見渡すとき、はるかに重大な出来事がアレオパゴスの丘で起こったことを見落としていることに気付くのではないだろうか。…このアレオパゴスこそヨーロッパ二千年の歴史発祥の地と言うべきかも分からない。使徒パウロが、はじめてアテナイで福音を宣べ伝えたのはアレオパゴスであったと『使徒行伝』に記されている。ヨーロッパの文化はギリシア精神とヘブライ精神によって培われたと言われているが、その日こそ両者がまともに切り結び、深く係わりあうことになる決定的時点であった。『使徒行伝』には、パウロはこのアゴラにおいて、エピクロス派やストア派の哲学者たちと論じあったと記されている。

アレク・イシゴニス(432)
 50年代及び60年代にはフォルクスワーゲン以外にも、他のヨーロッパのメーカーの大衆車クラスのモデルで、生産台数で夢の限界といわれた100万台を突破する車が現れた。それらの中に…アレク・イシゴニスにより計画されたモーリス・マイナー(1949−1961)があった。インゴニスは1959年からミニをつくった。横置きエンジンとフロント・ドライブ、車体の最も外側の四隅に配置した車輪及びノッチ・バックに代わってハッチ・バックを採用することによって、小さな車体寸法の中に大きな車室空間を実現した。今日では、この方式にしたがって全世界で小型車がつくられている。…イシゴニスにより計画された「驚異の空間」は全長の80%が居住及び荷物空間に利用された。エンジンを横置きとしてその下に変速機を置く特別なレイアウトとし、さらにその横にラジエーターを置いて全長を縮めた。

アレッサンドロ六世(474)
 西欧キリスト教社会の君主のなかでも、十字軍遠征の馬鹿らしさに気づいていた者は何人かはいた。先に神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世。そしてこのアレッサンドロ六世も、彼は、ことなる宗教の共存を是認した最初のローマ法王であった。
…チェーザレ(・ボルジア)は、ロドリーゴ・ボルジアにとっては、実質的には嫡子なのだが、法王アレッサンドロ六世としてのロドリーゴ・ボルジアにとっては、悪魔の仕わざの結果以下ということになる。…ヴァノッツァ・カネタイの名を知らない枢機卿は一人もいなかった。法王ボルジアの何十年来の愛人として、彼女は、チェーザレ、ホアン、ルクレツィア、ホフレと、四人の子を生んでいたからである。
…マキアヴェッリに「…彼は、人々をだますことしか考えず、それだけをやってきた人だか、それでもなおだます相手に不自由しなかった。…金と武力さえあれば、法王はどれほどの力を発揮できるかを、歴代の法王の中で最もみごとに示した。」といわせた。


アレ・ブレ、コンポラの患者ども(269p,32
 東松照明は72年1月号の「カメラ毎日」に……コンポラ患者を「現状認識は肯定的……写真の機能的性能に疑いをもたず、また、価値の選択を自らの感性にゆだねてしまう……一人一人ばらばらで、患者であることさえも自覚していない……存在自体が希薄で人に不快感を与えない。体制にとって無害無毒」と分析。……比較するアレ・ブレ患者は「現状認識は否定的……やや意識的……写真の機能をなんとなくうさん臭いものとして直観し、その破壊を試みている……相互に連帯感をもち、患者としての自覚を強めている……メカニズムの破壊を企てるゆえに、有害有毒なものとして体制からしめ出される」

アーレント批判(503)
 エイベルは、アーレントの本は犠牲者よりもアイヒマンに好意的で、そこで述べられているのは誤りだらけであると断じていた。ベルは、ユダヤ人への犯罪ではなく「人類への犯罪」としての裁判を追及するアーレントの正義の基準が、イスラエル国家の利害と衝突したと指摘する。さらに、アイヒマンおよびナチの犯罪は狂人やサディストによっておこなわれたと考える方が楽だがそれは事実ではないと述べ、「必然あるいは義務」として遂行されるとき悪は悪として感じられなくなるのだと書いた。アイヒマンはナチ第三帝国の「法王」であるお偉方が「最終解決」について決定するならば「判断を下せるような人間」ではない自分には罪はないと感じた。ベルは、大量殺裁である絶滅作戦を「最終解決」と呼ぶようなナチの用語法が出来事からの心理的距離と犯罪のスムーズな遂行を可能にしたというアーレントの指摘を賞賛しつつも、アーレントの要求する普遍的な正義が世界を判断する物差しとしては厳しすぎるとも書いた。

アンガジュ(127)サルトル  
 Engager。約束や義務によってひとを拘束する。ひとをあることに参加させる。サルトル にとっては人を自分のなかだけに閉じこもらず、社会に参加させるという意味。

アンケセナーメン(TV)
 ツタンカーメンの若き妻。カーターがツタンカーメンの墓を発見したときに、そばのアンケセナーメンの棺の上に枯れた矢車草が置かれていたことから、ロマンチックな想像わ誘うことになる。

アンゴー(211)
 土門拳が宮内写真場の徒弟時代、叔父から手に入れた最初のカメラ。ゲルツ社の手札版クラップ・カメラで、スピグラ以前の代表的報道カメラ。プント合わせに手間がかかり、速写性がないので、土門は目測7フィートで人物をけられないように手ぶれしないように徹底的に訓練した。

アンザックデイ(153)  
 どの国家もその建国の神話や歴史を持ち、建国記念日として記憶する。しかしオースト ラリアの建国とは流刑地の開設したというむしろ忘れるべき日であった。第一次大戦ガル ポリで悲劇的な敗北をこうむったアンザック軍の行為こそ祖国のスタートを記念すべき日 であると考えられた。これがアンザックデイである。近年、流刑地開設の日はオーストラ リアデイとして記念されるようになっている。

アンジェラ・ゲオルギュー(335)
ショルティの引き立てで抜擢された、新人ソプラノだった。声は大きくないが、よくとおる声で、なにしろ演技がうまい。おまけに大変な美人だというので人気になった。ショルテイの演奏は最晩年の95年の録音だから、すっかり表現も穏やかになっている。ゲオルギューもまた、第1幕よりも、2幕と3幕で実力を発揮している。(トラヴィアータのDVD紹介分)

アンジュー帝国(494)
 1152年の司教会議で、(ルイ7世とアキテーヌの女相続人アリエノール)の結婚の無効取り消し、つまりは正式な離縁が決まった。せっかく手に入れたアキテーヌ公領も、またフランス王家の支配を離れた。…二ヵ月もしないうちに、ルイは衝撃の報を聞かされたのだ。アリエノールは再婚していた。二十九歳を数えて、さらに魅力を増すばかりの女を迎えた花婿はアンジュー伯アンリ・ドゥ・プランタジュネ、まだ十九歳の若者だった。
 のみならず、イングランド王スティーヴンの崩御を受けて、いよいよアンリは海を渡った。「イングランド王へンリー二世」として、ロンドンで戴冠式を挙行したのが、1152年のことだった。晩年のスティーヴン王は息子ユスターシュに先立たれ、自分の死後はアンジュー家に王冠を譲ることを承諾していたのだ。
 気がつくと、スコットランド国境からピレネ山脈まで連続する、巨大な勢力圏が出現していた。歴史に「アンジュー帝国」とも呼ばれる版図は、フランス王家の小さな王領に比べると、優に数倍はあろうかという規模である。その全てを握るのが、アンリ・ドゥ・プランタジュネなのである。


アンスコ・オートセット(104)
 昭和37年、フレンドシップ7号に搭乗したグレン中佐が使ったミノルタ・ハイマチッ クのこと。底面に特別のビューファインダーを取り付け、カメラを逆さにして撮影された 。絞りとシャッターを一体化したシンプル設計が評価された。

安政の連発巨大地震(451)
 嘉永7年(1854、改元されて安政元年)。1月16日(陰暦、以下同じ)には、早くもペリーが七隻の鑑隊を率いてふたたび江戸湾に現れた。…ついに3月3日、日米和親条約(神祭川条約)が調印された。…6月15日(陽暦7月9日)の午前2時ごろから8時ごろにかけて、伊賀上野・四日市、笠置山地の一帯で、M7.2、 M6.7、6.8Mと推定される大地震が相ついでおこった。…震度5以上の強い揺れに見舞われ、千数百人が死亡し、余震が幾日もつづく。
…11月4日(陽暦12月23日)…午前10時近く…太平洋の海底の圧迫に147年間耐えてきた東海地方の大地は、いま緊縛を解き放たれ、巨大な亀裂にそって激しい身震いを始めた。M8.4といわれる「安政東海地震」の始まりである。…下田への津波は、昼過ぎまでに7、8度押し待せた。そのうち第2波が最大で、波高は7メートル近くに達し、山ぎわまでの全町を浸した。…湾内には大きな渦巻きができた。それに巻き込まれた(プチャーチンの乗船している)ディアナ号は錨を引きずりながら数十回も回転した。
…最初の地震から約30時間後、11月5日(陽暦12月24日)の夕暮れどき、ついに紀伊水道沖から足摺岬沖までの海底でも巨大な岩石破壊が発生した。M8.4とされる「安政南海地震」である。こんどは、紀伊半島南部と四国南部が震度6以上の激しい揺れに見舞われた。ふたたび大津波が生じ、…数メートルから7、8メートルの波高に達した。…津波は大坂にも押し寄せた。…下田もふたたび約2メートルの津波に洗われ、サンフランシスコとサンディエゴの検潮儀も、また1フィートの波高を記録した。
…安政2年10月2日(陽暦11月11日)。…江戸直下の岩盤が、ついに大破壊おこした。世にいう「安政の大地震」、または「安政江戸地震」M6.9。最悪の都市直下型大地震の発生である。

アンデュリル(271)指輪物語
 エルロンド「わたしはオルドルインの山腹で戦われた最後の合戦もこの目で見た。その戦いで、ギル=ガラドは死に、エレンディルは倒れ、名剣ナルシルはかれの体の下で二つに折れた。…このエレンディルの剣は、エルフの刀鍛冶たちの手によって新たに鍛え直されました。…ふたたび完全に作り直された剣は孝行たる耿々たる光を放ち、陽の光が射せば赫々とと燃え、月の光が当たれば沈々と輝きました。…アラゴルンはこれに新しい名前をつけ、アンデュリルすなわち「西方の焔」と呼びました。

アンチポード(112)
 地球上の対蹠点。  アンチポデスという言葉が頭にあるが? 思い出した。対蹠点人のことだ。  

安定化選択(215)
 ダーウィンが進化の主要な原因とする自然選択というプロセスは、今日では進化を阻止するために働いていると考えられている。自然選択がおもにやっている仕事は、現時点で最適に作られている特徴からずれていかないように止めることである。

安藤忠雄(279)
 彼の力強いコンクリートの壁は境界を定める。…堅固な壁は触ると軟らかいかのようである。…その「空なるもの」である。中では光と空間だけが人々を取り巻く。…彼は答える、「15歳の時にいえで建築工事が行われることになり、大工たちと知り合いになった。同じころ、ル・コルビュジェの全作品集を古本屋で見つけた。彼の図面のいくつかを何度もトレースした。」
1992年度カールスバーグ建築賞、1995年度ブリツカー賞、1996年度高松宮伝家記念世界文化賞、1997年度王立英国建築家境界ゴールドメダルの受賞者。

アンドリュー・タネンバウム(256)
 「オペレーティングシステム−−設計と理論およびMINIXによる実装」の著者。アムステルダムのタネンバウム教授は、UNIXを理解する補助教材としてMINIXを開発したが、これがリーナスをとりこにし、数年も経ずしてLINAXを開発するきっかけとなった。リーナスにとっての大転換となった書籍であり、尊敬する人物であった。しかしLINAXが公開されたとき、これに最も強い反発と否定的言辞を唱えたのもタネンバウムであった。

アンドリュー・ワイルズ(357)
 ワイルズはこのプリンストン大学で、同世代中もっとも才能ある数学者との評判をとった。ところがここ数年というもの、ワイルズは学会の年会にもセミナーにも顔を見せなくなっていた。同僚たちのなかには、ワイルズの数学者生命はもう尽きたのだろうとみる者もいた。…40の大台には乗ったものの、ワイルズはこの七年間というもの、数学最大の問題を解決すべく完全な秘密のうちに研究を続けてきたのである。彼はもう枯れたのではないかと疑う者をしり目に、ワイルズは息をのむばかりの進歩を遂げ、いままさに披露せんとしている新しいテクニックと道具立てを作り上げていたのだ。…1993年フェルマーの最終定理を証明する。

アンドレアス・ヴェサリウス(427)
 ベルギー(フランドル)の解剖学者であり医者でもあったアンドレアス・ヴェサリウスは、解剖学の範とされてきたローマ時代のガレヌスの理論がほとんど間違っているのを発見した。彼が人の体を解剖した結果、男女がいずれも24本の肋骨を持っていることを明らかにすると、聖職者たちはアダムがイブよりあばら骨が一本多くない事実に憤慨した。彼は宗教界から脅迫されることになるが、学者たちの支持により、神聖ローマ帝国皇帝チャールズ(シャルル・カール)五世の主治医、つまり皇医となった。
(韓国人著者の翻訳ゆえ、少しおかしくなったが、普通なら( )のように訳される。)


アンドレーエ(86)
 1614年頃、「一般的改革」「同志的薔薇十字団の伝説」「団体の懺悔」を著作して 薔薇十字団の存在と教義を公然のものとする。「……伝説」では寓意的人物、創設者クリ スチャン・ローゼンクロイツの行跡を記述する。

アンドロマケ146)
 トロイヤの王子ヘクトールの妻。アキレウスとの一騎打ちにヘクトールは敗れる。その アキレウスもパリスに身を変えたアポロンの矢にアキレス腱を打たれて死ぬ。そしてアン ドロマケはアキレウスの子の戦利品として奪われる。

アンビヴァレント(120)
 アンチノミー。二面的な。二律背反。愛憎併存的な。

暗譜(292)
 カラヤンの指揮を見た佐渡裕は、この人はすべてを暗譜しているわけではないのではないかと感じたという。小節ごとにどの楽器のパートを振っているかがわかったのだ。…自分の頭の地図の上に、どこで打楽器が入るかということは記憶しているだろう。ハーモニーに関しては色としてとらえているだろう…などと、処理のポイントを音楽の流れに沿って、取捨選択しているのではないかと。
「暗譜で指揮している人に、今、あなたが聴いているすべての音をこの五線紙に書いてくださいといっても、おそらく書けないと思います。ただ、それができる人も確かにいます。ミュンヘンのバイエルン放送響のロリン・マゼールという指揮者です。この人は譜面をいわゆる写真のように覚えてしまっているのではないかと思うほどです。」

アンブロシウスの説教(429)
 ミラノに来た母モニカは熱心に教会に通い、司教アンプロシウスを敬愛し、充実した生活を送っていた。そして息子のために続けて祈りを献げた。アウグスティヌスもアンプロシウスの説教を聞きに教会をしばしば訪れた。最初は話術の技巧にのみ関心をもち、マニ教の教師ファウストウスの雄弁に比べて見劣りがする、などと批判的であった。しかし徐々に、特にあの乞食との出会い以後、自己に内的反省を向けはじめてから、アンプロシウスの説教は新しい響きをもってきた。アウグスティヌスはマニ教の影響で、聖書は矛盾に満ちたものであると長い間思い込み、特に旧約聖書はばかげていると考えていた。ところがアンプロシウスは、説教の中でしばしば「文字は殺し、霊は生かす」というパウロの言葉(コリント人への第二の手紙)を引用し、「文字通りに受け取ればよこしまなことを教えているように見えるところを、その神秘のおおいを取りさり、霊的な意味を開示した」(『告白録』)。ギリシア教父の神学に通じていたアンプロンウスはアレキサンドリア学派の聖書理解の方法にならい、比喩的解釈を行っていたのである。

アンブローズ城(41)
 フランソワ1世のロワールの城館。ダ・ヴィンチが食客として1519年にここで死ぬ。

暗黙知(289)
 マイケル・ポランニーは「暗黙知の次元」で「人間の知識について再考するときの私の出発点は、我々は語ることができるより多く知ることができるという事実である。」と書いた。

安楽死(161)
 倫理が厳しく断罪するのは、功利主義的に人間生命を処理していこうとする姿勢である。 痛みその他の重大な困難にまつわられた生命を存続無意味あるいは無価値として安易に切 り捨てたり、短縮しようとする態度である。  身体的な耐えがたい痛みによって苦しめられていないことは幸せの非常に重要な一要素 であることはいうまでもないが、それはけっして幸せの本質でもなければ全体でもない。 ゆえに瀕死者を目前の耐えがたい激しい痛みから救出するということが、そのままこの者 にとっての最大善を実現することになるとはかならずしも言えない。



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