DICTIONARY out of focus
カメラ編 更新日 2000-1-9       計99語
新着語

あ〜お

アッベ数(191)  
ガラスの屈折率は青側が大きくなる。レンズ磨きの職人フラウンホーファーは太陽光線 の吸収線を分類した。彼の発見した水素のC腺(赤)、ナトリウムのD腺(黄)、水素の F腺(青)のそれぞれの屈折率を使ってレンズのレンズ屈折率の分散を定義した。
     分散能力=アッベ数=V値=(nF−nC)/(nD−1)

アナスチグマット(95)
非点収差(Astigmatism)にアンチのANをつけた、収差補償レンズ。1888年ツァイ スのルドルフが考案。現代の全てのレンズはアナスチグマットである。 

アプラナット(191)
シユバリエのフランス型風景レンズの改良版として、1857年に球面収差を除去した のがグラブのアプラナット。2枚の貼り合わせメニスカスの凹面を前に向ける。さらにこ れをダブレットにしたのが、1866年のダルメヤーのラピッド・レクチリニアとシュタ インハイルのアプラナット。この二つは同一の構成が別々に同時期に発明されたもの。最 高F6の明るさが特徴。この構成は1890年にアナスチグマットが登場するまで、もっ とも成功したレンズとなった。

アルバダ・ファインダー(167)

アンスコ・オートセット(104)
昭和37年、フレンドシップ7号に搭乗したグレン中佐が使ったミノルタ・ハイマチッ クのこと。底面に特別のビューファインダーを取り付け、カメラを逆さにして撮影された 。絞りとシャッターを一体化したシンプル設計が評価された。


 ■イエナ・ガラス(85)
アッベと共にツァイスの基礎を支えたレンズ用ガラス作りのオットー・ショットによっ て作り出されたガラスの総称。テッサー、プラナー等々としてレンズに磨き上げられる。 日本でも六桜社の最初のヘキサーF4.5もこのガラスを輸入して使用していた。

石原莞爾(95)
1925年、ライカTaが発売されたその年に、留学の帰りにベルリンで購入。ライカ を最初に手に入れた日本人となった。 (115)参謀本部作戦部長時代、盧溝橋事件後は不拡大派として華北への派兵を押さえ ようとしたが、下克上的陸軍参謀武藤章らの拡大論によって失脚。

イマレクト(95)
35mmから135mmの視野を示すユニバーサル・ファインダーVIDOMの正像タ イプの米国での呼称。

ウイリー・シュタイン(61)
ライカM3の主任設計技師。それ以前がバルナックタイプと呼ばれるなら、1954年 フォトキナで突然発表されたこの画期的なM3もシュタインタイプと呼ばれてしかるべき か。  

ウルトロン50ミリF2(192)
ヴィテッサ用のレンズ。透明感と明晰性にプラスして、なんとも表現しようのない魅力 を兼ね備えた名レンズ。レチナのヘリゴンと共通した明晰さをもつが、どこか世界最古の 光学機器メーカの風格を感じさえする。レチナのクセノン50ミリF2とは宿命のライバ ルかと思われる。

ウルライカ(61) UrLaica。
原形ライカ。1913年6オスカー・バルナックによって2台作られた。

エキザクタの自殺(167)佐貫亦男
1961年にイハゲー社は自殺的モデルチェンジを行う。エプロンおばさんと嘲笑され ることになる横幅を広げた下すぼまりのボディ前板をつけただけの変更をしたのである。 実は私はこのモデルチェンジ機体であるEXAが大好きなのである。  

エルネマンの血(85)
ツァイス・イコン社はエルネマン社の血を引いている。すでにエルネマン社によってつくられた小型カメラのウネッテとボベッテはコンタックスの先祖だといっても過言ではない。


エルノスター(191)
エーリヒ・ザラモンの政治家のスナップはエルマノックスのF2レンズのおかげで撮影 がてきたものだ。このカメラのレンズがエルノスターF2。トリプレットの前側の空気間 隔に凸のメニスカスを入れるとレンズの明るさが増す。このアイデアをエルネマン社のル ートヴィヒ・ベルテレは、前群の2枚を凸のダブレットに替えてみることでF2を達成。 ベルテレ23歳、全く独学の成果であった。

エルマックス(61)
エルンスト・ライツとレンズ設計者マックス・ベレクの名を取った50mm/f3.5 レンズ。ライツ一号機であるライツ・ライカ・カメラとして1925年ライプチヒ見本市 に出展されたA型ライカ毎に搭載。まだレンズ交換不能。後群3枚の製造コストがかかり 後に旧エルマーと呼ばれる後群2枚の3群4枚レンズに変更された。

エルマリートR35ミリF2.8(192)
全ての一眼レフ用広角レンズの中で、最も優れたものの一つではないか。全ての点にお いて最高、特に発色がよい。その凄さは使ってみないとわからない。絞り開放からトーン もコントラストもよく、必要十分なシャープネスを兼ね備えている。一段階絞ったあたり からかばらしい切れ味が出て来て、絞りをマイナス補正にしていっても暗部がつぶれにく く、赤の発色が保たれ続けるのである。

エルンスト・アッベ(85)
1840年アイゼナッハに貧困な工員の子として生まれる。精密工学ではアッベの測長 器で知られる。ゲッチンゲン大学の助手時代にカール・ツァイスに出会い、ツァイスの光 学設計理論の基礎を築く。特に[分解能理論]が有名。ツァイスとの契約で研究成果の公 表禁止と、ツァイスの独占が規定されていたので、自身の手で論文や著作を発表できなか った。 ただしツァイスの事業的成功で、経営権の一部を得、さらにその権利を投げうっ てツァイスを財団化し、従業員全体の福利と権利を重視する経営形態を作る。

エンドレ・フリードマン(101)
1913年ブダペスト生まれのユダヤ系ハンガリー人。エンドレ・エルネー・フリード マン。キャパの本名である。エンドレのハンガリー風の愛称バンディと呼ばれた。192 9年の大恐慌にともなうハンガリー経済の混乱でベルリンに着の身着のまま亡命。言葉を しゃべれない者がジャーナリズムにつくのにもっも手っ取り早い方法は写真家になること だという理由が、彼を戦場カメラマンの英雄にした。

オジルビー社(95)
初期ライカのイギリスにおける有力な販売代理店。ライカTに特注レンズを付けたり、 金メッキ、色皮貼りさせて販売。販売力があり、その要請でコンパーレンズシヤッターを 付けたTbモデルをライツに作らせた。

オーバーコッヘン(85)
ヤルタ協定によってイエナのツァイスがソ連に接収されることを知ったアメリカ軍が技 術者百数十人を強制連行して、ツァイスを西側で再開させた村。戦後の名レンズ、ディス タゴン、プラナー等が生み出される。一方、残された多くの技術者はソ連に連行されたが 、その中の一部がコピー機キエフを生み出すことになる。


オマハ海岸(102)
Dデイにキャパが同行した第二大隊E中隊が上陸したのが、オマハ海岸のイージー・レ ッド。この時、ローライフレックスとコンタックスを持参しているが、上陸時はコンタッ クスで36枚撮りフィルム2本を撮りきった。乾燥時の不注意で乳剤が融け、11カット のみかろうじて映像が残った。

か〜こ

カメラ・オブスキュラ(141)
暗い部屋。ピンホール暗箱が光学像を作ることはダビンチがすでに記述しているし、そ の後も風景のトレース用に使われていた。だからダゲールが発明したのはヨウ化銀を蒸着 した銅版を水銀で現像する方法。これはニエプスがアスファルトで像を作った最初の写真 につぐもの。初期の写真家たちは水銀中毒に苦しむことになった。

カメラの耐寒処理(134)  
白川義員の南極撮影機材はリンホフ、ペンタックス6×7、ペンタックスLXで、これ らマイナス50℃で動作できるようにした。シャッターは1絞り分露出オーバになるが、 フィルム感度が低下して相殺する。フィルムはマイナス30℃から急激に色調が変化して 使い物にならないものが多いが、彼はコニカクロームのR100を使った。

 ■カール・ツァイス(85)
1816年ワイマール宮廷の旋盤工長の子として貧困の中で生まれる。アッベの協力を 得て、高精度の光学顕微鏡の量産技術を確立し、シァイスの基礎を作るが、カメラの設計 や製造は行っていない。カメラは、第一次大戦後の大不況の中で中小カメラ・メーカが合 併してできたツァイス・イコン社からスプリングメカメラ、イコンタとして発売されたの が最初。  

キネエクサクタ(94)
ドレスデンのイハゲー製のベスト版のエクサクタを映画用フィルム用(ようするにライ カサイズ)にしたのでキネと呼ぶ。1936年発売。フィルム巻き上げは左手のレバー巻 き上げ。(ローライ35も同じ。)1950年発売のバレックス(変わり型の意味)は、 交換可能なペンタプリズムを装着した。

キノテッサー(61)  
バルナックは1911年にライツ入社して最初に映画用カメラを開発していた。このフ ィルムを使って、映画1コマと同一寸法のスチルカメラを試作した。そのときつけたのが 50mmのキノテッサー。結果的には原版が小さすぎてバルナックをなっとくさせなかっ た。ようするにこれが現代のハーフサイズカメラの元祖ということになる。

逆望遠レンズ(191)  
レトロフォーカスのこと。通常のレンズの前に凸レンズを置くことでバックフォーカス を長くできる。ミラーの回動部が必要な一眼レフの広角レンズには必須の方式。

旧エルマー50mm(61)P.21  
ライカTは1925年にエルマックス付きで発売されたが、後群3枚構成のコストが高 く、これを2枚構成にしたエルマー50mmf/3.5付きに変更された。ほぼテッサー と同じ構成である。ガラスはゲルツ社のものであったが、ゲルツが1926年にツァイス に吸収されてしまい、ガラスの供給を受けられなくなり、イエナのショット社からのガラ スに変更して、これを新エルマーとなった。

キュッペンベンダー(85)
1932年ライプチヒの見本市でデビューした[コンタックスT]の設計者。バルナッ クのカメラを凌駕すべく、@バイヨネット・マウント、A基線長の長い連動距離計、B巻 き上げノブ連動シャッタチャージ、C金属幕フォーカルプレーンシャッタ、D着脱式裏蓋 を採用。ライカの単純な頑健さに勝てなかったが、レンズはいまだに評価が高い。 キュッペンベンダー自身は、その後、ツァイスの経営に参画し、戦争による2社分断の 悲劇を体験する。  

距離計(69)  
戦艦三笠は英国バー&ストラウド社の二重像合致式測距儀を用いて勝った。この三角測 量式距離計は遠距離になるに従って精度が落ちるという問題を持っていて、レーダに取っ て代わられた。この近距離で精、遠距離で粗という三角測量方式のありようが撮影レンズの特性にぴっ たりマッチしているのだ。  

崩れ落ちる兵士(101)
スペイン人民戦争コルドバ戦線で1936年9月に撮影されたキャパの代表作。パリを 立つ時、キャパはライカを、ゲルダはローライフレックスを持参したと記録されている。 このライカで、本来は全くの無名の死が歴史的記録となったが、この写真が単にポーズ を取らせたものだとの議論は多くある。その根拠は、ほぼ同じ時刻、同じ場所で別の兵士 が倒れる写真が存在し、しかも他の兵士が写っていないことによる。

グッタペルカ(61)
ラッカがボディに一貫して使用している人造皮革。ゴムエラストマーである。  

クラウンガラス(191)  
18世紀、初期のレンズ用ガラスは吹きガラスの方法で作っていた窓ガラスにたまたま できる厚いふくらみ(クラウン)を用いたものである。フリントは、砂の代わりに火打ち 石(フリント)を用いて、さらに酸化鉛を加えて、分散と屈折率を増加させた。

グラッツェル法(85)
1960年代に発達したカメラ・レンズのコンピュータ自動設計法の代表。コンタック スのグラッツェルが開発。主としてRTS用レンズ開発に利用された。他の設計法にはワ インの減衰最小自乗法、鈴木達郎に鈴木法がある。

ゲルダ・タロー(101)
キヤパの恋人でマネージャ。ゲルダ・ポホリレス。当時パリに留学していた岡本太郎の 名から取って名乗る。当初、キャパの名で写真を発表していたが、写真家としても認めら れたが、スペイン人民戦争の戦闘中死亡。戦闘で死亡した最初の女性カメラマンとされる。  

剛体蛇腹(104)
戦時中に蛇腹の素材である羊の皮の輸入が制限されたとき、ミノルタが採用したのがベークライトの3段蛇腹。これを搭載したのがミノルタ・ベスト。その外観の類似から別名大阪城カメラと呼ばれ、人気を得る。

コダック・エクトラ(95)
米国のライカ・コピーは戦時中やむを得ずトライしたカードンだけである。アメリカがライカに挑戦して独自のスタイルの頂点となったのが1941年のエクトラ。50〜254mmのズーム・ファインダー、1/1000布走りフォーカルプレーン、インナーカセットによるカラー/モノクロ使い分け等で機能的にはライカ以上のものをもっていた。
 
 ■コンタックスS(167)
戦後の東独ツァイス・イコン社が完成した世界初のプリズム式一眼レフ。Sはシュピー
ゲル(反射鏡)。アメリカではペンタコン(五角コンタックス)の名で発売された。画期
的なのに妙にデザインがつつましい。ただし交換レンズは豊富だった。
  カール・ツァイス……イエナ
  マイヤー………………ゲルリッツ
  エンナ…………………ミュンヘン
  キルフィット
  イスコ…………………ゲッチンゲン
  ローデンシュトック…ミュンヘン
  シャッハト……………ウルム
  シュナイダー…………クロイツナッハ
  シュタインハイル……ミュンヘン
 
コンタフレックス(204)
ドイツ一眼レフの最多発売台数120万台を20年間で記録した戦後ツァイスの代表機種。シャッターボタンを押した後の動きは忙しい。押すとシヤッターが閉じ、絞りが絞り込まれ、ミラーと遮光板が退避し、シャッターが開いて閉じる。最も複雑な機構を持つカメラである。設計としての合理性はフォーカルプレーンに分があるが、ツァイスがコンパーとプロンターという二大シヤッターメーカを吸収したことで、これを使う必要があった。
 1953年 コンタフレックスT……テッサー45mm コンパー
 1954年 コンタフレックスU……Tにセレン露出計を取り付け
 1956年 コンタフレックスV……テッサー50mm コンパー
 1956年 コンタフレックスW……Vにセレン露出計を取り付け
 1957年 コンタフレックスアルファ……パンター50mm プロンター
 1956年 コンタフレックスベータ………アルファにセレン露出計を取り付け
○1958年 コンタフレックスラピード……テッサー50mm レバー巻き上げ
○1959年 コンタフレックスプリマ………パンター50mm セレン露出計
 1959年 コンタフレックススーパー……テッサー50mm 追針露出計
○1962年 コンタフレックススーパーB…テッサー50mm AE露出計
 1964年 コンタフレックススーパーノイ…外観はスーパーB 追針露出計
 1965年 コンタフレックススーパーBC…テッサー50mm CDS−AE露出計
(1967年 コンタフレックス126……カセットフィルム対応)
 1968年 コンタフレックスS…スーパーBCに特殊スプール。ロゴ変更。
  
コンツールファインダー(95)
両目で見る単体ファインダー。ファインダーの対物面は黒い板で遮られているが、画面枠の線の部分だけは透明になっているので、ファインダーを除いた片目は透過する輪郭線だけを見ることができる。もう一方の目が被写体を見るので、両目の画像が合体して、枠付の画像となる。これがブライトフレームの原形となる概念で、戦前からすでにあった。

さ〜そ

ジェルジンスキー・コミューン(95)
ウクライナのハリコフの少年少女収容施設。1932年矯正授業でカメラを製作。ライカTaのコピーである。これがライカコピー機の一号となるFED(フェド)である。FEDは創立者ジェルジンスキーのイニシャル。

写真特性曲線(100)
感光材の露光量をEとしてIogEを横軸、写真濃度Dを縦軸に取った曲線。一次の直線領域が、比例部分でこれをラテイチュードと呼ぶ。直線の傾きのtanγをガンマと呼ぶ。ガンマの大きいものを硬調と呼び、明暗の差に比して、大きい濃度差が得られる。 

シュバリエの色消し風景レンズ(191)
1830年代にダゲールは写真用レンズを探していた。これに協力したのが望遠鏡製作者カルル・シュバリエ。シュバリエは望遠鏡の対物レンズ(凸レンズと凹レンズの貼り合わせ)を逆向きにすると近軸光線で像面湾曲が低減することを発見。レンズの前に絞りを置くのが特徴で、これでコマ収差を除去した。

焦点合わせ(191)
 無限遠に焦点を合わせた焦点距離fのレンズを距離Lにピントを合わせるためにレンズ系を動かす距離は
       ΔX=f/(L−f)。
ただしLはレンズ前側主点からの距離で、主点の位置が分からないので、フィルム面からの距離をSとして、
       (ΔX)−ΔX(S−2f)+f=0
とする。これらはレンズ系全体を移動させる方法であったが、1900年頃から前玉だけ移動させて焦点合わせする方法が考えられた。トリプレットやテッサーの前玉の屈折率が全体の3倍もあると、前玉の焦点合わせのための移動量が1/9になるからであるが、前側の空気間隔が変化するので収差補正が崩れる。
 
地雷(102)
1954年5月25日15時、キャパはドアイタンでベトミンの地雷を踏んだ。左足が完全に吹き飛ばされ、左手にはコンタックスが握られていたが、首にかけていたニコンは爆風で数フィート飛ばされていた。その時40才であった。

ズマール(191)
ライカのズ系列の元祖が1933年のダブル・ガウス系のズマールF2。これは開放の解像度がよくないので、1939年に7枚のズミタールF2に置き換わった。その後ズマリットF1.5が1949年に、ズミクロンF2が1953年に出た。
 
精機光学研究所(208)p.21
昭和8年精機光学研究所として発足した現在のキャノンは、コンタックスUが発売された昭和11年、ハンザキャノンを発売した。同年、日本精機光学工業として改組され、SEIKI KOGAKU製のCANONとしてニッコールF3.5付き350円で発売された。
「日本の科学、日本の精密機械工業もついにここまで来ました。いたずらに高価な外国製品のみが、優秀であるという観念は、断然訂正されなければなりません。セイキ製品は、新興科学ニッポンの誇りです。」という広告に気負いが感じられる。

セレナーF1.8(69)
中心解像力280本の初代ズミクロン50mmF2よりハロやフレアが少なく画像の抜 けが良い、キャノン「不滅の傑作」となった50mmレンズ。後にF−1開発のプロジェ クトリーダとなった伊藤宏の設計。

ゾナー(191)  エルネマン社を吸収したツァイスはエルノスターのベルテレも手に入れた。彼が設計し たのがゾナー。1931年にF2(3群6枚)についで翌年にF1.5(3群7枚)も出 た。ゾナーという名前はコンテッサ社のテッサー型レンズものだったが、ツアイスが同社 を吸収して、その名前を得た。

た〜と

対称型レンズ(191)  
レンズの前に絞りを置くとタル型の歪曲となり、逆に絞りをレンズの後ろに移すと糸巻 き型の歪曲になる。よって絞りを中心として同一のレンズを対称に置くと、歪曲が打ち消 し合う。現代でも製版やPPCのレンズに使われている。

高千穂製作所(95)
1938年、ライカスタイルで4×5cm版のオリンパス・スタンダードによってカメ ラ参入を目差すが、10台製造で、戦時経済により製造不能となった。 高千穂は日本の神々の山である。オリンポスはギリシャの神々の山である。オリンパス と名付けられた意味が分かった。

ダグラス・ダンカン(103)
「ライフ」のカメラマンで、朝鮮戦争からベトナムで活躍。彼に触発され、キャパが再 び戦場に赴くことになり、そのまま帰ることがなかった。ニコンを世界に広めた写真家。 昭和25年、稲村隆生の元に友人がニッカに85mmのニッコールをつけて訪ねてきた 。そのときたまたま、当時日本人としてただ一人の「ライフ」カメラマンであった三木淳 とダンカンが同席していて、三木のライカVFにこのレンズを付け替えて、ダンカンに見 せ、撮影したプリントを翌日見せると、多いに気に入り、ニコンの大井工場を訪問し、5 0mmF1.5、80mmF2、135mmF3.5を借用。その一週間後朝鮮戦争が勃 発し、ダンカンはマッカーサーとともに2台のライカVFにこのニッコールの50mmと 135mmをつけて従軍。ニューヨークに送られた写真は、4×6版で撮影したのかとい われたほどのシャープさであった。その後、マイダンスも使い出し、過酷な環境で使える のはニコンだけという定評を生み出すことになる。 ダンカンは昭和40年ニコンFの20万台目のモデルを贈られた。

ダブル・ガウス・レンズ(191)  
ガウス型はメニスカスの凸を前に凹を後ろにした構成。ガウスが望遠鏡用として考案し たものだが、これを2組対称構成にしたもの。現代の明るいレンズは大半、この構成にな っている。ツァイスのパウル・ルドルフは自己のアナスチグマットに満足せず、このダブ ル・ガウスに着目し、バリッド・サーフェスと呼ぶ凹レンズの前の貼り合わせ面を設け、 プラナーを作った。

筑豊のこどもたち(170)  
1959年末、土門が私の机の上にドカンと、引き伸ばした数百枚の写真をのせた。巻 き紙に毛筆でコメントが書いてある。これを読めばわかる。ともかくザラ紙に刷って1冊 100円で売る。そう言って土門は忙しそうに撮影旅行に行ってしまった。編集構成を無 理に押しつけられた私(亀倉雄策)こそいい迷惑である。……これが土門拳のあの赤い表 紙に「るみえちゃん」の表情を飾った写真集の誕生物語であった。

テッサーF6.3(85)(191)
1902年ツァイスのルドルフが、彼のウナーの前玉と、プロターの後玉を結合させ、 周辺の結像がシャープで高コントラストなレンズの開発に成功した。この3群4枚のレン ズがその後のテッサー・タイプの原形。ルドルフが取得した特許請求範囲は「それそれが 2枚のレンズからなる二つの群が絞り幕により分けられ、一つの群には一組の向かい合っ た面があってその屈折力は負であり、他の群には貼り合わせ面があり、その屈折力は正で あるようなレンズ4枚からなるシステムで球面収差、色収差、非点収差を補正したもの」

デフォト(101)
ロバート・キャパが暗室助手として勤めたベルリンの通信社。ここでコペンハーゲンに 講演にくるトロッキーを取材するチャンスを与えられ、ライカによるノーフラッシュでの 劇的なスナップを撮りデビュー。トロッキーは暗殺を恐れ、ボックスカメラやフラッシュ 撮影を嫌っていたのである。しかしベルリンはヒトラーの台頭によってユダヤ人には危険 となり、ふただびパリに亡命。

デラックス・ライカ(61)P.23  
1929年のクリスマスに発売されたライカT(A型)の限定版。金属部は梨地金メッ キで、4種のとかげ皮張り。

トリプレット(191)  
後に反射防止膜を発見するクック社のデニス・テーラーは1893年、全く新しい3枚 玉レンズを考案。クックのトリプレットである。向き合った凸レンズの間に凹レンズを入 れるのが特徴。フォクトレンダーのハーティングは、両側の凸レンズをダブレットにして ヘリアーF4.5を作った。

ドレイ・カイル(85)
1934年69判のスーパイコンタに搭載されツァイスの精密技術の評価を高めた距離 計。カイル(くさび)2ケのプリズムをレンズの回転でギャを介して回転させファインダ ー画像を平行移動させる。

な〜の

ニコン判(208)
戦後35mmカメラの生産を始めた日本光学はその画面サイズをライカと同一にしなかった。
    昭和23年 ニコンT  24×32mm
    昭和25年 ニコンM  24×34mm
昭和26年のニコンSでようやく標準化した。この24×32mmをニコン判と呼んだが、これは印画紙の縦横比に一致するという利点があった。しかし輸出に支障をきたすことが分かっているのに、さらに中途半端な24×34mm判を販売したという戦略あるいは設計都合はどこにあったか知りたいところである。

ニフカレッテ(104)
ミノルタの前身、千代田光機の前身、モルタ合資会社の前身、田嶋一雄の日独写真機商 店の一号機。 ベスト版でシヤッターやレンズはドイツ製。翌年昭和6年、超大型飛行船 ドルニエ・ドックス号にあやかって自社製シャッターを内臓したニフカドックスを発売ヒ ットし、創業の足がかりとする。

ヌーキー(61)(94)
NOOKY。ライカ用接写装置。ライカの付属品は、5桁の電信略号をただ棒読みした だけ。
FODIS 縦形距離計
FOCOS 横形距離計
VIDOM ユニバーサルファインダ
VALOY 引伸機(自動焦点のファコマートの前のタイプ)
COREX フィルム現像タンク
ABLON リーダカッタ
VOOLA エルマー50mm用かぶせ式フィルター枠使用時絞り変更リング
AUFSU 50mm用直角反射ファインダー

ヌルライカ(95)
第一次大戦でお蔵入りになったウルライカにエルンス・ライツU世が着目して、192 3年に30台製造されたモニター用量産試作機。モニターの評価はかんばしくなかったが 、1925年にライカTを発売した。

鼠泣き(85)p.89
コンタックスのシャッターは金属幕で軽快音を発するため、発売当初から鼠泣きと呼ばれてコンタックスファンにとってたまらない魅力であった。

は〜ほ

パウル・ヴォルフ(95)
35mmフィルムで全紙に伸ばして粒状が気にならない印画を作成、ライカ写真術の創始者と言われる。1935年日本でもシュミット商店主催の展覧会で話題となる。偶然、露出オーバーのフィルムを現像早仕上げで肉乗りの薄い軟調ネガから画調を荒らさない大伸ばしができることを発見。

ハネウェル特許(69)
1987年ミノルタをパニックに陥れたオートフォーカス特許。ミノルタはα7000の開発で350件もの特許を出願しながら165億円の和解金を支払わなければならなかった。キャノン70億円。ニコン57億円。オリンパス42億円。ペンタックス25億円。ハネウェルの特許は確かにハネウェルに巨利をもたらしたが、この発明者名が話題になることも、またこの発明者が、オートフォーカス・カメラの真の発明者として評価されることもない。 

バレックス(167)
変形という意味。エキザクタがファインダーに5角プリズムを採用したときの型名、エキザクタ・バレックスである。アメリカ輸出用は商標の関係でVXとかVと呼称した。 
 

ビオゴン型(191)  
第二次大戦後の新レンズに関する最も重要な発明の一つは、逆望遠を2個背中合わせに して歪曲を極限まで低減したレンズ。航空写真用に用いられたが、ツァイスのベルテレは これを超広角レンズにした。それがビオゴンである。その延長がシュナイダーのスーパー ・アンギュロンであり、、1966年のツァイスのホロゴンである。

ビテッサの煙突(167)  ビッテッサのフィルム巻き上げシャッターチャージ用シャフト。シャッターにしては長 すぎる棒。おなじく蛇腹の両開き前カバーはガマグチと呼ばれた。

ヒューゴー・エッケナー(61)
シェッペリン飛行船の発明者。ライカによる航空写真を残す。昭和4年にツェッペリンが 来日したときにエッケナーの手にあるライカを目にして、これに興味を持ち、物を売り払 ってライカを手に入れたのが木村伊兵衛である。 エッケナーにライツはno.10,000のボディを寄贈する。
no.25,000 はスウェン・ヘディン
no.575,000 はシュバイツァー
 no.666,666 はエドモンド・ヒラリー
no.750,000 はアンリ・カルティエ・ブレッソン

 ■ファコマート(61)  
M2かM3を持っていて、今度のM4の改良点が自分の撮影にどうしても必要であると 思う人以外は、もしその人がファコマート引伸機をもっていないのならば、M4よりファ コマートを購入する方がライカの性能を発揮できることになる。

プラクチナ(アサカメ1998/10)  
Praktina。プラクチカではない。VEBペンタコンがプラクチカの改良版として開発し た。今はM42と呼ばれるスクリュー式のプラクチカマウントをスピゴットマウントに変更した。このマウントは消防ホースの連結部と同じで強固ではあるが、2段階操作が敬遠 された。その同じ轍をキャノンフレックスがを踏む。

降りかかる火の粉(61)
U型ライカ(日本式でDU)が発売された1932年、コンタックスUも発売される。 それ以降、コンタックス/ライカ論争が起こり、36年のアサヒカメラでコンタックスに 軍配をあげることで最高潮に達する。これに対して代理店シュミットが配布した有名なパ ンフレットが[降り懸かる火の粉は払わなければならぬ]

ベス単フード外し(95)
127フィルムで6.5×4cmを切り取るベストポケット・コダックは1912年に発 売された。そのシリーズでもっとも安価なメニスカス・アクロマチックレンズ付きがベス 単と呼ばれる。単玉とはいっても両凸1枚、両凹1枚を貼り合わせた設計。収差が大きい ので近軸光線だけ使うようにフードがついていた。これを外してソフトフォーカスの味を 楽しむという日本だけで流行した技法。

ペッツバール和(191)
平面物体の像面湾曲に関する基礎式。画面の周辺に行くに従って、結像面が手前に湾曲 するその量がペッツバール和。0が理想。レンズ曲率と屈折率で定まる。初期のレンズ設 計者は、非点収差を過剰補正することで、この湾曲をごまかした。また写真家は集合人物 を周辺が手前になるようにカーブをつけて並ばせるという工夫もした。  ペッツバール和を小さくするには  1)厚肉のメニスカスを使い、二つの外側レンズの曲率わ同じにする。   2)凸と凹のエレメントを複数枚離して使う。  3)クラウンとフリントを組み合わせる。

ペルフェクタ(167)  
ローライに成功に対抗して、66の二眼レフを折り畳み可能にしたウェルタ社のペルフ ェクタ(完全の意)。畳むと7.5cmになる。同様の発想はツェカフレックスやピロー トにも見える。ゲテモノである。

望遠比(191)  
望遠レンズは、普通のレンズと焦点面の間に凹レンズを入れて像を拡大するレンズであ る。よって焦点距離より、そのレンズ系全長を短くすることができる。レンズ前面からの 距離を焦点距離で割ったのが望遠比。通常は80〜60%。

ホロゴン(204)  
ホロゴン・ウルトラワイドは1968年フォトキナに登場した。15mmF8画角11 0度である。ディスタゴンやプラナーF0.7の開発者であるグラッツェルとシュルツの 作品。しかしすでにツァイス・イコン社はカメラ事業の継続が不可能な状況になっていた。 そのレンズだけは、M用としてライツから1972年に販売しれた。そしてコンタックス G1用として二度目の復活をとげる。画画は16mmに変更されて、新コーティングで滅 茶苦茶に色乗りがよいが、球面対照構成は同じで、ちゃんとホールディングした指まで写 る。

ま〜も

ミノルタ・スカイ(104)
稔る田。Machinery and Instruments Optical by Tashima。ドイツ人が去ったモルタが 昭和8年につけたブランド名。 ミノルタ・ブランドで、最も響きのよいのはミノルタ・スカイ。ライカM3に挑戦して 開発されたが、ライカのファインダーの明るさを越えるという自負からスカイにしたのだ ろう。社長はこれを持って、アメリカに販売促進に行くが、帰りにはそれを首に下げてい なかった。そしてたった一言「ライカの時代は終わった。一眼レフを作れ。」

メス・ズハー(204)  
コンタックスUで初めてレンジファインダーと距離計が一体化された。これを計測ファ インダー(メス・ズハー)と呼ぶ。これから遅れること18年、M3も同一構造を採用し たが、そのMこそメス・ズハーのMである。

メニスカス(191)
1812年頃、イギリスのウォラストンはカメラ・オブスキュラ用のレンズの両凸レン ズより、メニスカス面を持つレンズを凸を対象に向けたほうが像面湾曲の少ない画像を得 られることを発見した。

や〜よ


ら〜わ

ライカ・スタンダード(61)P.29
外観的にライカT(C型)と類似しているが、次世代のライカU(UD)の連動距離形 を取り外した普及型モデル。巻き戻しノブが引き上げ式なのが分かり易い特徴。

ライカの謎・謎のライカ(88)
あとがきに著メゥ身が「この本を読むとライカがきらいになる。」と書く。きらいにな ったのはライカではなく田中長徳。愚書である。

ライカマウント(95)
1930年に発売された初のレンズ交換式のライカTCは、ボディとレンズの互換性が なく、下3桁の数字が一致するもの同志でなければ使えなかった。翌年になって、完全互 換のライカマウントシステムが確定した。フランジバック=28.8mm、内径=37. 9mm、外径=38.9mm、ネジピッチ=26本/インチ。

ライカW(95)
1936年にバルナックは57才で死去する。その年に試作されたのが、ダイカストボ ディ、パララックス補正等倍ファインダー、一軸不回転シヤッタを持つライカW。しかし 翌年に発売されたのはライカVb。システムの継承性を重視して、この大革新はM3まで またなければならなかった。

ラリー・バローズ(102)
キャパのノルマンディ上陸作戦の写真をダメにしたのは、写真の凄さに興奮した暗室助手で当時18才だったラリー・バローズが乾燥を急いで乳剤を溶かしてしまったというこ とになっている。彼は後に「ライフ」カメラマンとしてスエズからベトナム戦争まで、や はり戦場で死亡するまで写真を撮りつづけた。ただしこの暗室作業の伝説は正しくない。 またキャパによって撮影されたのはエドワード・リーガンと特定されている。

ルフトヴァッフェン・ライカ(95)
グレーライカと呼ばれるドイツ空軍特別仕様のVcをベースとしたライカ。シャッタイ にボールベアリングを使用、耐摩耗性、耐寒性を向上させた。このメカニズムはVfで市販でも採用された。

レチナ(94)
ドイツ語で網膜を意味する。コダックがドイツに進出して、ナーゲルの工場を買して 製造したカメラ。

ロバート・キャパ(101)
1936年パリで少しづつ成功してきたアンドレ・フリードマンは、恋人で ありマネージャであるゲルダとともに架空のアメリカ人の真家ロバート・キャパという存在を作り出し、その名で写真を高く売りつけるという方法を取った。彼らの無国籍性を象 徴する名前。

ローライドスコープ(94)
フランケ・ハイデッケミのロールフィルム用ステレオカメラ。ステレオだからレンズが 2本ついて、別々のフィルムに撮影できる。片方のレンズから撮影機構を取り払ってファ インダにすると二眼レフができる。これがローライフレックスの前身。

123

二眼レフ(192)  
必然的にカメラマンは頭を低くしてモデルに臨む訳で、二者の間に控えめな穏やかな関 係が生まれやすい。ローライコードのシュナイダー社製クセナーは、プラナーのこってり としたゴージャスな写りに対していぶし銀の描写力を持っている。

 ■2群ズーム(69)
ヨンサンハチロクと呼ばれるニッコールの3群ズームを凌駕したのがキャノンの2群式 35〜70mm。前玉でフォーカシング、次がズーミングをするバリエータ、次がバリエ ータで生じるピント移動を補正するコンペンセータ、後玉は結像ようのリレーレンズとい うのが、基本的4群ズーム。これを2群で実現し、しかも解放で中央224本。平均14 8本というシャープさを誇った。

 ■36枚撮り(95)
小柄なバルナックが両手を一杯に広げ、長尺の映画フィルムをカットした長さが約40 枚分の長さ。これからリーダーの部分を引いて36枚撮りになる。学生時代に暗室でフィ ルムを詰める時に先輩から教えられた方法と同じだ。

 ■100万画素(61)  
これは一説であるが、バルナックがライカ版を決定した論理的根拠とされる。すなわち 当時のフィルムの解像度が1/33mmであることから30μの点が画像を形成するとし て、同じく当時の良質の網版印刷が100万画素から形成されていることから、30μの 画素が100万画素となる面積を求めると22×33mmとなり、これから24×36m mサイズが決定されたという説。こじつけっぽい。

A〜Z

(95)
シャッターのバルブ。ウエッツラーにアメリカ軍が進駐して、ライカの低速シヤッター軸のZ(Zeit)記号を、現在のBに変更させた。

F値(191)
入射瞳口径と焦点距離の比。よってf=1.8ではなく、F/1.8でなければおかしい。レンズの明るさは最外部の光線と光軸のなす角Uとして、sinUに比例するが、F値は、sinU=1/Fとなる。よってF値は2の平方根の等比級数となる。これが、現代のF1,1.4,2,2.8,4,5,6,8,11,16,22,32,45,64,90の絞り系列の始まり。

K.K.K(95)
1935年アサヒカメラ紙上でライカ/コンタックス論争に火を付けた記事の筆者の署名。佐和九郎。その評点は以下(前がライカ/後ろがコンタックス)のようにコンタックスよりで、これが「降りかかる火の粉……」を書かせることになる。 「外観美」100/85。「容積/重量」100/70。「堅牢度」65/100。「値段」100/80。

 
PROVOKE(171)
1968年、中平卓馬、高梨豊、多木浩二らが「写真は思想のための挑発的資料だ。写真は表現ではなく、来るべき言葉のためのものだ」と主張して刊行したアレボケ写真で同時代に影響を与えた同人誌。2号からは森山大道を加えたが、3号で廃刊。

VPK(167)
ベスト・ポケット・コダック。ベス単のこと。チョッキ(ベスト)のポケットにすっぽり収まる縦型。この縦のまま蛇腹が開いて自立できる。