語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-8-31 計76語
新着語
ペルトス・ダミアニ的秘跡論、ベネディクトゥスの勤労精神、ベンガル・ルネッサンス、ペドロ岐部への批判、ペドロ岐部の「わが事なれり」、平均地権、変法思想、ヘルウェティイ族、遍路フェドーシュシュカ、

ベアートゥス写本(396)
 中世初期の写本でリエバーナのベアートゥスによる『黙示録注釈』、いわゆる「ベアートゥス写本」ほど数多く残っているものはない。…各写本の成立年代は10世紀から13世紀初めが大部分で、…用紙は羊皮紙で、字体は11世紀末までは西ゴート文字、後代になるとカロリング文字及びゴシック文字になっていく。
 現存するベアートゥス写本の最古のものは、今日マドリード国立図書館に所蔵されるものの一つであり、ヴァレラニーカ修道院で作成されたもの。次はエスコリアルのモナステリオ王立図書館にあるもので、サン・ミリヤーン・デ・ラ・コゴーリア修道院で10世紀中頃から末にかけて作成されたものと推定されている。…
 ベアートゥスの『黙示録注釈』が十、十一世紀に広まった理由は、まず、キリスト生誕後千年という黙示録の義人千年説にしたがえば「最後の審判」の期待される年の近くであったことに由来しよう。ヨハネ黙示録がイベリア半島で尊ばれ、広く読まれた理由の一つは、そこにおけるキリスト教徒の置かれた立場が、黙示録の書かれた時代のローマ社会におけるキリスト教徒の立場と相似するものが多かったからであろう。両者は政治権力によって迫害され、それからの解放、迫害者の没落を待ち望むと言った点でたしかに共通点があった。ローマのキリスト教徒にとってローマ皇帝の支配権のシンボルであった「獣」はイスラム君主の支配を、首都ローマを意味した「バビロン」はコルドバ市を、偽預言者はムハンマドを、竜は迫害するイスラム教徒を、大淫婦はイスラムの教えそのもの意味するものになった。

ベアトゥス「黙示録」(514)
 南フランス地方のあらゆる写本の中で最も有名なものは、パリ国立図書館の蔵するサン・スヴェールの『黙示録』である。これは黙示録そのものではなく、リエパナの修道院長ベアトゥスによってスペインで著わされた黙示録注釈書である。この写本の最も美しいぺージの一葉は、栄光のキリストを表わしている。四つの活き物が彼に侍し、彼の周囲に二十四人の長老たちが大きい円を描いている。彼らは座席に就き、頭には冠を戴き、片手に杯を他の手にヴィオルを持っている。彼らはまなざしを肱しい幻像の方に向け、その輝きを受け止めている。彼らの周りでは、天使たちが空を飛んでいる。これこそ、モワサックの彫刻師が手本としたものである。

ベアートゥス「ヨハネ黙示録注解」(515)
 アストゥーリァス王宮廷の人でもあったベアートゥスは「ヨハネ黙示録注解」(776年)で、「使徒ヤコブこそ、常にスペイン信者を見そなわす御方。合戦に加護を垂れたまう聖者。ふたたぴスペインに回帰したまう使徒」と誌した。この頃、すくなくとも半島北西部の一角では強固なヤコブ信仰が定着している。ユリアヌスからペァートゥスまでの間には、いったい何があったか。
いうまでもなくイスラムの半島席捲である。そしてこの頃ガリシアのアストゥーリァス王国は半島におけるキリスト教徒の最後の砦であった。聖者が「ふたたび回帰する」とは、気のせいか、遺骸発見を予告しているようにも思うのである。なぜ、ガリシァの聖者がヤコプでなければならなかったか。その解答が出ることはあるまい。


平均地権(543)
 最終的には「中国同盟会」を正式名称とすることに決定した。ついで綱領については、孫文の提案により、1903年以来、彼がかかげてきた「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」が、そのまま採択された。
…(孫文は)大英博物館図書室での読書を通じて獲得した西洋社会科学についての知識、なかんずく直接に影響を受けたのは、アメリカの経済学者ヘンリー・ジョージの学説であった。ジョージは鉄道建設にともなって地価の騰貴が進行するアメリカ社会の状況を背景に、…貧困の原因は土地私有制にあるとして、地主の不労所得を抑制する方法として土地に対してのみ重課税し、他のすべての税目を廃止するという「土地単税論」を提起した。彼の学説は、アメリカのみならずヨーロッパ諸国でも大きな反響を呼び、イギリスにおけるフェビアン協会の創立にも影響を与え、またロンドンにはジョージスト・クラブなるものも生まれた。トルストイの晩年の思想と行動にもジョージの土地に対する考え方の影響があるという。それはともかくとして、初期民生主義の中心内容といえる「平均地権」、すなわち土地所有者の申告価格にしたがって地価を確定し、その確定地価を基準として課税するとともに、以後、社会発展にともなって上昇した地価(確定地価をこえる部分)はすべて国家〈社会全体)に帰属せしめるという考え方は、ジョージの学説と密接な関連をもつであろう。ただし、「平均地権」の語は、この段階ではまだ存在していない


平成の真念(330)
 遍路のガイドブックの歴史は江戸時代までさかのぼる。…芭蕉の「奥の細道」が出版された頃、真念という無名の僧が画期的な「四国遍礼道指南(みちしるべ)」(注:遍の字の辺は行人偏)を著した。…彼の没後、約60年を経た宝暦の頃には、発行された四国遍路の巡礼手形が年間ついに10万枚に達したとの記録が見られる。…松山市内で布団店を営む宮崎建樹さんは「四国遍路ひとり歩き同行二人(別冊)」(へんろみち保存協会篇)を1990年に著した。…私は中を見るなり仰天した。それは国土地理院2万5千分の一の地図をベースに、頁をめくるにつれて一番札所から八十八番に至る道筋を途切れなくつないでいる現代版完全徒歩専用遍路地図とでも言うべきものであった。

平方根の法則(407)
 平均から離れて、このような例外的なふるまいをする粒子の頻度は、平方根の法則(ルートn法則)と呼ばれるものにしたがう。つまり、100個の粒子があれば、そのうちおよそルート100、すなわち10個程度の粒子は、平均から外れたふるまいをしていることが見出される。これは純粋に統計学から導かれることである。
…全体が100で、例外が10ならば、生命は常に10%の確率で不正確さをこうむることになる。これは高度な秩序を要求される生命活動において文字通り致命的な精度となるだろう。
 実際の生命現象では、百万どころかその何億倍もの原子と分子が参画している。生命体が、原子ひとつに比べてずっと大きい物理学上の理由がここにあるとシュレーディンガーは指摘したのである。…生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ、「原子はそんなに小さい」、つまり「生物はこんなに大きい」必要があるのだ。


平面(プラン)(280)ル・コルビジュ
 平面は基礎である。平面なしには、意図や表現の偉大さもなく、律動(リズム)も立体(ボリューム)も脈絡もない。平面なしには、人間にとってあの耐え切れない感じの、あのくずれた、貧しい、乱雑な、いい加減さがある。平面はもっとも活発な想像力を必要とする。それはまたもっとも厳正な規律を必要とする。平面は全体の決意である。

ペカディジョ(367)コエーリョ
 宗教的な巡礼は、常に悟りを得るための最も実際的な方法の一つとされているのだ。小さな罪という意味のペカディジョ(peccadillo)という言葉は、「道を歩いて行 くことのできない傷ついた足」という意味を持つペカス (pecus)という言葉から来ている。ペカディジョを正すための唯一の方法は、前へ歩き続け、新しい状況に適応し、その代償として、求める者に対して人生が豊かに与えてくれる何千何万という祝福のすべてを受け取ることなのだ。……旅に出る時は、われわれは実質的に、再生するという行為を体験している。今まで体験したことのない状況に直面し、一日一日が普段よりもゆっくりと過ぎてゆく。ほとんどの場合、土地の人々がしゃべっている言葉を理解することができない。つまり、子宮から生まれてきたばかりの赤子のようなものなのだ。だから、まわりにあるものに、普段よりもずっと大きな重要性を感じ始める。生きるためには、まわりのものに頼らねばならないからだ。困難な状況におちいった時、助けてくれるのでほないかと思って、他人に近づこうとするようになる。そして、神が与えてくれるどんな小さな恵みにも、そのエピソードを一生忘れることがないほどに大感激したりするのだ。

ヘーゲル的一元論(368)
 事物が多数存在するというのは、幻想だ。aとbという別個のものがあり、その間にRという関係が成り立っているとする。aは、<bに対し関係Rにある>という属性を持つ。なぜなら、もしその属性を持たなければ、aは現実のaでないだろうから。同様に、bは、<aに対し関係Rにある>という属性を持つ。つまり、どんなものも、他のあらゆるものとの関係を列挙しなければ、それ自身の完全な特徴づけはできないことになる。全体以外のものは独立して分離するとそれ自身の属性を失ってしまう。よって、個別に分離して存在するようにみえるものたちは真の実在ではなく、究極の一者だけが本当の存在である。

ヘーゲル批判(506)
 マルクスのへーゲルに対する批判は、彼がブリュッセル時代にエンゲルスと共著で書き、しかし生前には出版されなかった大著『ドイツ・イデオロギー』にいたって一層前進する。マルクスとエンゲルスはこの書の中で、へーゲル以後のへーゲル学派の哲学を「ドイツ哲学」と呼び、ドイツ哲学は皆へーゲルを超えていると主張しながら、そのじつまったくへーゲル依存的であるにすぎないと批判したのち、…すなわちへーゲルではものごとがさかさまになっているというテーゼをより広範かつ根底的に展開して、…「天空から地上へ下るドイツ哲学とはまったく逆に、ここでは地上から天空への上昇が行なわれる」という有名な言葉はこのことをあらわしたものである。へーゲルの命題を逆転するとは、理念から出発したへーゲルとは反対に、現実に生活している人間の「物質的活動と物質的交通」から出発して、「道徳・宗教・形而上学およびその他のイデオロギーとそれらに照応する意識諸形態をそれらに規定されたものとして見る、ということである。ここから、「意識が生活を規定するのではなくして、生活が意識を規定するのである」という史的唯物論の有名な基本命題が引き出される。

ペシア・システム(148)  
 印刷が発明する以前、大学が考案した分冊システム。分冊化によって写本作業の並行処 理が可能となるだけでなく、写本を常に同一のテキストからコピーすることで誤りの混入 を防止した。

ペシェル(144)  
 聖書についての注解。複数形はペシァリーム。注解する人をペシャリスト。聖書に書か れた表面的な事項から、隠された歴史的事項を読み解く。

ヘシカスム霊性(70)
 4世紀のマカリオス、エヴァグリオスらを祖とする静謐のなかに呼吸と姿勢と生活のす べてを祈りに統一する東方修道会の指導原理。1782年アトス聖山ディオニュシオス修 道院のニコデモスらにより「フィロカリア」(善への愛)として編纂された。  

ヘシュル回(175) 
 左脳の側頭葉の後言語野ウェルニッケと前頭葉の前言語野ブローカの間、左耳に近い位 置にある聴覚の一次中枢。右脳にはこの機能はない。(?)

ベス単フード外し(95)
 127フィルムで6.5×4cmを切り取るベストポケット・コダックは1912年に発 売された。そのシリーズでもっとも安価なメニスカス・アクロマチックレンズ付きがベス 単と呼ばれる。単玉とはいっても両凸1枚、両凹1枚を貼り合わせた設計。収差が大きい ので近軸光線だけ使うようにフードがついていた。これを外してソフトフォーカスの味を 楽しむという日本だけで流行した技法。

ヘダ号(451)
 安政二年(1855)の正月から、戸田浦南岸の午ヶ洞で、(津波と暴風によって沈没したプチャーチンの)ディアナ号の代船の建造が本俗化した。戸田村を中心に伊豆各地から船大工や鍛冶職人が集められ、ロシアの技術将校らの指示のもとに、長さ23メートル、幅6メートル、約120トンの二本マストの木造スクーナー(縦帆の快述帆船)の完成をめざした。船は2月下旬に進水し、「ヘダ号」と命名された。鎖国時代の「大船建造禁止令」が嘉永6年9月に解除され、日本人だけの手ですでに二、三の本俗的な洋式帆走軍艦が造られており、ヘダ号がわが国の洋式造船の始まりという通説は正しくないという。しかし、代用の工具や部品を工夫するなどの苫心を共にして、ヨーロッパ人から実地に造船技術を習得した意義は、きわめて大きい。戸田では同型船がさらに6隻建造され、当時の郡名(君沢くんたく郡)をとって君沢型とよばれて、輸送船として活躍した。そして、ここで働いた船大工の何人もが、明治の日本の造船界をリードする技術者になったのである。

ペーター=シェッファー(116)
 グーテンベルグへの投資者であったヨハネス・フストは、42行聖書の完成を待たずに グーテンベルグを訴追。その後、グーテンベルグ下の有能な技術者シェッファーを担いで 印刷事業を推進。シェッファーの子らが、意図的にグーテンベルグの業績を無視すること によって、活版印刷の発明者はシェッファーであるということに長く理解されていた。

ヘッジ・ファンド(133)  
 1949年、元ジャーナリストの学者ウィンスロー・ジョーンズによって開発された。 ヘッジとは垣根である。投機というよりはリスクを分散するための投資技術で、空売りと 空買いに資金を分散する。これを積極的にレバレッジ(てこ)をきかせてつかって成功し たのがソロス。

ベッセ・ヴワール(97)
 ガストーニュ語で「帆を下げよ」。船乗りが、領主のシャトーの前で敬意を表した。こ れが、シャトー・ベイシュヴェルになまった。マルゴーの優雅さからポーイヤックの雄大 さへ移る変り目に位置するサンジュリアンのワインである。

ペッツバール和(191)
 平面物体の像面湾曲に関する基礎式。画面の周辺に行くに従って、結像面が手前に湾曲 するその量がペッツバール和。0が理想。レンズ曲率と屈折率で定まる。初期のレンズ設 計者は、非点収差を過剰補正することで、この湾曲をごまかした。また写真家は集合人物 を周辺が手前になるようにカーブをつけて並ばせるという工夫もした。  ペッツバール和を小さくするには  1)厚肉のメニスカスを使い、二つの外側レンズの曲率わ同じにする。   2)凸と凹のエレメントを複数枚離して使う。  3)クラウンとフリントを組み合わせる。

ヘッドスペース(358)
 「瓶詰めされたワインはコルクを通して酸素を呼吸し、ゆっくりと熟成していく」ルイ・パスツール(1822−95) こんな幻想的な話を一度は耳にしたことがあるでしょうが、残念ながら本当に幻想です。樽の中では、ワインは空気から全く遮断されているわけではなく、ワイン中では空気が関与したさまざまな酸化的反応が起こつています。これに対して、瓶詰め後ではコルク等により密閉されているため、ヘッドスペース(ボトルを立てたときの、ワインの液面とコルクの間の空間)や、ワインに溶け込んでいる分を除き、酸素は新たに供給されず、熟成は非酸化的(還元的)に進みます。
 ワインをボトル熟成するときに寝かせておくのは、コルクを通して呼吸させるためではなく、コルクを常にワインの水分で膨張させておいて、空気が入る隙間を与えないためです。こうしてざらざらとして苦い赤ワインが熟成によって丸みのあるやわらかい味わいになったり、濃い紫だった色調がレンガ色に変わっていったり、ボトルの底に澱が沈殿したりするのは、色素及び芳香成分であるフェノールの重合に関係があります。赤ワインに含まれるフェノールでもっとも重要なのは葡萄果皮に含まれ、ワインを赤や紫、育に染めるアントシアン類色素と、果皮や種子、果梗に含まれる黄色い色素で、赤ワインに渋味や収赦性を与えるタンニンです。これらのフェノールは酸や、ワイン中に溶け込んだ微量の酸素の影響を受けて小さな分子同士が結合し合い(重合)、より大きく複雑な構造へと変化していきます。例えば、発酵後18ケ月程度でほぼすべてのアントシアン類色素はタンニンと結合し、赤ワインは熟成した色調を見せるよぅになります。やがて、ワイン中に溶け込んでいられないほど構造が大きくなったフェノールは析出(固体化)し、ワインの澱となって沈殿します。結果、ワイン中に溶け込んでいたアントシアンやタンニンの量が減り、ワインはとげとげしい苦みが和らぎ、色調は薄くなります。


ヘッドダウン(159)  
 文字通り頭を下げたままデイスプレイばかりを見ていて、外界の状況を自分の感覚で把 握できない状態。飛行機のコクピットパネルを1ディスプレイ化すると、パイロットはディスプレイに全ての情報があるという錯誤を持ち、瞬間的な対応能力が低下する。  

ヘッセン家の呪い(420)
 それは家族がひたかくしにしていた秘密だった。誕生後まもなく医師たちが、(ロシア最後の皇帝ニコライ二世の妻、ヘッセン国皇女)アリクスがこの世でもっとも恐れていたことを明らかにした。彼女の赤ちゃんは、ヘッセン家の血の中にひそんでいて、男の子孫にのみ現れる病気を遺伝していたのである(つまり王位の継承者に〜王たちに対する運命の嘲笑−〕。宿命的な病 − 血友病。血管の膜がきわめてもろいために、ちょっとした打撲や緊張が血管の破裂を招き、死にいたる恐れがある。転んだり、けがをしたりすることも危険だというのである。この病気はヘッセン家の呪いで、女をとおしてのみつたわるのである。

ベッラ・マニエラ(183)  
 優れた手法。1568年ヴァザーリが表した「列伝」で芸術を完成させる要素としてあ げた概念で、マニエリズム芸術を定義する原点であり、次の5つの段階から成り立つ。 ヴァザーリはこれによってルネッサンス芸術が完成し、その体現者としてミケランジェロ を位置付けた。後年、この時代はルネッサンスを逸脱したマニエリスム時代とされるこ とになる。  「レーゴラ」  基本的原理  「オルディネ」 秩序と構成  「ミズーラ」  幾何学的調和と均衡  「ディセーニョ」デッサン、描写  「マニエラ」  この世で考えられうる最上の美の姿形を生み出す手法 。

ペテルブルグ(419)
 首都ぺテルブルクのほうはフィンランド湾の沼地にフランス人とイタリア人の建築家の指揮下に建てられた摩気楼のような町で、その整然たる町並みやまっすぐ伸びる大通りはロシア人の魂にとって忌み嫌うべきものだった。ぺテルブルクの冬宮前にそびえ立つアレクサンドル記念円柱の天辺に置かれた天使のブロンズ像がしがみついているのは、象徴的なことに、カトリックの十字架である。つまりぺテルブルクとは西欧主義の都であり、新しいロシア貴族が抱いた西欧化志向を具現したものである。それに対して、ロシア民族の象徴として残ったのはモスクワだった。モスクワという町は、元来、モスクワ大公国からロマノフ王朝にかけての古の時代の首都である。ここには無数の教会があり、この町のひどく絡み合った通りはロシア人の魂にとても懐かしく感じられるものだ。

ベートーヴェン以後(385)
 バッハやモーツァルトにとって音楽は技巧であり、したがって才能の問題だったが、ベートーヴェンにとっては神の啓示であり、したがって天才の問題だったということ、音楽をそのようなものとして捉える視点を、バッハやモーツァルトは持たなかったが、シュトルム・ウント.ドランクの後から来たベートーヴェンは持っていたという相違が、彼等を本質的に隔てているのである。ベートーヴェン以後、音楽家達は王侯貴族に仕える楽師であることを止め、洗練された知的悦楽ではなく、普遍的で自然権的な美と真実の創造者として生まれ変わる。ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲は、「自己以外語るべき何ものも、その存在の閃光のなかできらめく以外なすべき何ものも持たない」ような《音楽》を抱えこんだ人間でなければ、とうてい書きえない音楽だと言うべきである。

ベートーベン交響曲第2番(75)  
 1802年ハイリゲンシュタットの遺書が書かれたその年に作曲された、不思議な快活 な曲。第一楽章の長大な序奏は第7と並ぶ充実で、コーダは「英雄」を先取りしている。 第二楽章はベートベンの交響曲中、最も優美で歌曲的。第三楽章スケルツォのトリオはほ とんど「驚愕」。重要なのは第四楽章。哄笑的なコーダの爆発はニ長調の主題がブラーム スの二番のフィナーレで、さらにマーラーの五番の終結で再現・引用される。

 ■ペトラ(126)
 「今日世界中を見渡しても、交通の不便なく近づくことができ、しかも真に訪れるに値する遺跡は少ない。ペトラ遺跡はその数少ないひとつである。シクと呼ばれるつづら折り の細い道を抜けると突然視界が開け、「宝物殿」の見上げるようなファサードが眼前に現れる。1812年スイスの探検家ジョン・ルイス・ブルクハルトがベドウィンによって秘 密にされていたこのナバティア王国の都を発見した。……」  ワディ・ムーサ川が穿った曲がりくねった川岸回廊を天然の要塞として、その岩壁に直 接都市を彫り込んだ。宝物殿と並ぶペトラ最大の見物はデイル(修道院)である。  さらにペトラから北数キロに「小さなペトラ」と呼ばれる岩窟遺跡も面白そう。

ペトラシェフスキー事件(46)
 1849年ドストエフスキーが連座した社会主義的陰謀事件。外務官吏のペトラシェフ スキーが主催するサークルで、フーリエ主義やベリンスキーの理想社会を議論。死刑判決 を受け銃殺場でニコライ一世の振ったハンケチで恩赦、4年のシベリア流刑。

ペドロ岐部の「わが事なれり」(547)
 訊問が評定所で始った。そしてその席上にはじめて連れだされた時、三人の神父は驚くべき出来事にぶつかった。評定所の屋敷に並んだ役人たちの端に日本人の服装こそしているが、髪も面貌もあきらかな一人の南蛮人の男が坐っていた。その顔は忘れようとしても忘れられぬフェレイラ神父の顔だった。三人にとってイエズス会の上司であり、在日すること二十数年でありながら、遂に六年前、長崎で捕えられ、「穴吊し」に耐えかねて棄教したあのフェレイラ神父がそこに坐っていたのである。
…異例のことだがこの取調べに将軍家光までも一度出席をしている。家光は老中、酒井讃岐守の下屋敷に赴き、そこに三人の神父をよび、政治顧問の沢庵、柳生但馬守も同席して「宗門の教えを訊ね」その後二、三日すぎて大目付の井上筑後守だけに取調べを一任したとある。…
 ながいながい苦闘が続く。苦闘は永遠の地獄のようだった。幾つかの穴から呻き声だけがたちのぼってくる。遂に転び者が出た。岐部とは別の穴に吊されていた式見神父が力つき果てたのである。彼は棄教の意思を頭上の役人に示し、血だらけの顔で穴の上に引きあげられた。ポルロ神父も転ぶことを示す動作をした。六十歳をこしたこの二人は、もう耐えられなくなったのだ。恩師とその先輩が今、棄教したのである。岐部との約束、殉教の誓いを破ったのである。
…同宿たちを励す岐部を見た役人たちは彼を殺すことに決め、穴から血まみれになった彼を引きずり出した。穴吊しのあとのこの火あぶりの拷問の問も、役人は棄教を奨めつづけている。そしてペドロ岐部は死んだ。


ペドロ岐部への批判(547)
 それはマカオの聖職者や上司には世俗的な野心、個人的な野望とうつったことは確かである。当時の巡察師ヴィエイラ神父はペドロ岐部たちを手きびしく報告書のなかで批判している。「この若者たちは神父になり、それからその身分で日本に帰るつもりでいる。神父であることは日本では名誉であり、利益でもあるからである。しかし彼等は新信者であり自尊心強いあたらしがり屋だ」
巡祭師ヴィエイラ神父はこの報告書のなかでペドロ岐部たちの信仰をあまり信用していない。名誉と利益とのために神父になった者がたとえ故国に戻っても、その信仰はぐらつきやすく、もし、ぐらついた場合は迫害に苦しむ信徒に及ぼす悪影響いはあまりにも大きいだろうとさえ指摘した。

ペニシリン(500)
 実験室に飛び込んできたカビを同定し、その目覚ましい抗菌力がそのカピに特有のものなのか、あるいは他の種類のカビももっているのかを明らかにする必要があることは明白だった。カビには非常に多くの種類があるが、フレミングも他の医学領域の細菌学者の大半と同じように、カビについては細菌培地をしばしば汚染する厄介ものという以上のことは、ほとんど知らなかった。そこでフレミングは、カピ学者のラ・トーシュにこの奇妙な訪問者(カピ)を同定してくれるよう頼んだ。ラ・トーシュはペニシリウム属の一つであると結論した。その属にはたくさんの種類があるが、他のどれよりもペニシリウム・ルブルムによく似ているとみた。このことについては、1929年2月のフレミングのノー卜に記述が残っている。フレミングはこの仮の同定(のちに誤りであることがわかった)を受け入れて、彼のノートではそのカビは以後"P"rubrum となった。
 カビがペニシリウム属とわかってから、フレミングは、その生産物に新しい名称をつけることにした。「カピの汁」では余りにも泥臭く、「ペニシリウム・ルブルムの肉汁培養漉液」では長ったらしい。そこでフレミングは、仮定の活性成分を「ペニシリン」と呼ぶことにした。この命名はフレミング自身によるもので、リゾチームの場合のようにライトによるものではなかったらしい。

ペニシリン第二の発見(500)
 (オックスフォード大学のフローリーらによって実用的なペニシリンが開発されるが) フレミングの生涯と経歴についての記述は多数あるが、そのすべてにおいて、彼は、何年にもわたって実りのない努力をつづけ、同僚から無視された後も、自分の大切なペニシリンがいつの日か治療の勝利者になるという燃えるような信念をもっていた人間として描かれてきた。おそらく過去において何度も苦い目にあってきた彼の希望が、1941年に実現しそうにみえたからには、喜んだフレミングはオックスフォードをしばしば訪れ、それをさらに促進させるためのキャンペーンの強力な援護者になった、と思うのが自然であろう。実際は、フレミングはあまり動かず、じっとしていたようにみえる。
 フレミングが熱意を示さなかったもう一つの理由は、現在の方法でペニシリンを作るのは、非常に困難で高価につくことを認識していたためであろう。1940年11月15日付のフロリーへの手紙でも、また当時の多くの講演の中でも、フレミングは、化学者たちが精製し、合成することができなければ、ペニシリンはサルファ剤より優れた治療薬にはならないと力説していた。そして、その後の経過からも、フレミングが当時においてすら、自分の発見した物質のもつ治療上の可能性を正しく認識していなかったことは明らかである。


ベネディクトゥスの勤労精神(560)
 古代では勤労は奴隷あるいは召使いのするもので、一般の人間はしない。ことにギリシアやローマの場合にはそうですね。…そういうことについては、何か古代人はひどい蔑視感をもっていますね。ですから、そういう観念が西欧近代の勤労感に変わるために何がその間にあったのかといえば、どうしても中世のベネディクトゥスに始まる勤労精神の尊重が考えられなければならない。そういう意味で、修道院は宗教的な問題ばかりでなしに、西欧的な精神を一般に作り上げるうえに大きな意味をもっていたのではないか。
 聖書の中には…、「働かざる者は食うべからず」という言葉があって、それが修道士たちの労働に対する考え方の出発点だといわれておりますが西ヨーロッパで修道院が拡大していく時期に、西ヨーロッパがちょうど農村社会として新しい社会形成をするという状況にありまして、修道院に多くの土地が寄進される。…、修道院が未耕地を開拓してそこで衣食住の原料や製品を生産していくことが社会的にも要請されるという条件があり、それらの相互関連の中で労働の倫理が西ヨーロッパ社会のものになっていくのではないかという気がするのです…。


ベネディクト戒律(410)
 中世史上アイルランド修道院より大きな役割を果たしたのは、6世紀の前半におこった聖ベネディクトの修道院だった。彼は529年ロ−マ南方のモンテ・カッシノ山にその最初の修道院をいとなみ、前文と73ケ条からなるベネディクト戒律(レグラ)をつくった。これは服従、童貞、清貧を理想とし、祈りと労働をモットーとする修道士の生活を規律したものだが、東方の修行道の峻厳に偏することのない、「生活の知恵」の書である。
 民族大移動後の西方社会は、修道院の活動をとおして、一つのキリスト教共同体へとつくりあげられてゆくのである。だがこのことは、ローマ法王権の括導と密接に関係のあることで、ベネディクトの修道院が法王権との結びつきをもったことが、彼の事業がほんとうに歴史的な意味をもった理由であった。


ペネロペイア(146)  
 オデュッセウスはユリシーズである。トロイア戦争ではあの木馬作戦を創案する。戦後 故郷イタケに帰るまで10年の彷徨をする。その間じっと待ったのが妻ペネロペイアであ り、息子のテレマコス。

蛇状曲線形(441)
「フィグーラ・セルペンティナータ」…ミケランジェロは弟子のマルコ・ダ・シエナに「人体はピラミッド形で、蛇状にし、一人、二人、三人と増していかなければならない」という助言を与えたという。ロマッツォはミケランジェロのこの言葉の後に続けて「私見を申せば、(ミケランジェロの) この言葉で技術の奥儀はすべていいつくされていると思う。というのは、人物像が獲得し得る最高の美しさと生命感は、それが動きを表現していることにほかならないからである。…この動きを表現するには、炎の形ほど適切なものはない」とのべている。

ヘブライ語(295)
 …左から右への書き方が右利きに有利であるとする結論は、やや誇張されているきらいがある。たとえばアラビヤ語やヘブライ語は、書く人がほとんど右利きなのに、現在でも右から左へと書いていく。 最近、モンゴル語も、同じく右から左へ書くという情報を得た。

ヘム・オン(221)p.46
 初めてピラミッドを作ったことで設計者の元祖と呼ばれているのはイムホテプ。であるなら最大のヒラミッドを作った人も記録されなければならない。ギザのクフ王のピラミッドの建設の指揮をとったのが大臣ヘム・オン。工事はナイルの氾濫によって農作業ができなくなる四ヶ月間だけの失業対策事業として行われた。

ベラ・マニエラ(441)
 ヴァザーリは、彼の世紀、すなわち十六世紀の作家たちには劣るが、十五世紀の作家たちがなしとげた、ルネッサンスの業績を偉大たらしめている五つの要素をあげ、その中にマニエラを加えている。その五つの要素とは、古代の建築物の構造を研究する際の「規範」、他の様式と峻別するための「区分」、正しい統一のある構成をもつための「均衡」、そして「写生」、それに「マニエラ」の五つである。マニエラとは彼によれば次のようなものである。マニエラは、手や顔であれ、また胴体や脚であれ、最も美しいものをしばしば模写し、それらをつなぎ合わせ、あらゆる美しさを完墜に備えた一つの人体をつくりあげることによって最美のものとなった。今ではこのような手法は、あらゆる姿態を描く場合に応用され、ベラ・マニエラ(美しいマニエラ)と呼ばれている。

ヘリコプターの操縦(423)
 回転するロータ・マスト外周にドーナツ状の搖動板(スラスト・ベアリング)がある。搖動板の上面はロータ・ブレード角度を変えるためのピッチ・リンクが取り付けられていて、ロータとともに回転できる。搖動板の下面は回転せず、上下移動と角度変更ができる。
 搖動板はもともと19世紀に水車を建てていた大工が編み出した工夫だった。下面を上下させるとブレードのコレクティブ・ピッチが変化する。(すべてのブレードの角度が同じように変わる)傾けるとブレードのサイクリック・ピッチが変化する。(各ブレードがまわりながら、順送りに角度を変える)ヘリコプターの操縦とは、コレクティブ・レバーとサイクリツク・スティックで、同時にコレクティブ・ピッチとサイクリック・ピッチを微調整する作業である。

ペリシテ人(6)  
 ユダヤの約束の地カナンには、ペリシテ人が宿敵として存在し、これを打ち倒さなけれ ばならなかった。だから旧約はペリシテ人を悪者として描く。ダビデが打ち倒した巨人ゴ リアテもペリシテ人だし、勇者サムソンをたぶらかして弱点である髪の毛の秘密を聞き出 したデリラもペリシテ人である。

ベリンギア陸橋(39)
 氷河期には海水面が下降する。その時期ベーリング海峡はアジアとアメリカをつなぐ陸 橋になる。これがベリンギア陸橋。約3万年前のヨーロッパのヴュルム氷期、アメリカの ウイスコンシン氷期にインディアンの始祖がこの陸橋をアジアから渡っていった。

ベル・エール(97)
 Bel-Air。ラランド・ポムロール産。Belairはベレールと発音し、これはサンテミリオ ン産。他にもBel-AirとかBelairと名乗るシャトーはジロンド県にいくつもある。

ベル・カント(333)
 bel canto 「美しい歌」。18世紀に成立した劇的表現やロマン的叙情よりも音の美しさ、むらのない柔らかな響きやなめらかな節回しに重点が置かれている。名人芸的要素の極端な誇示に走る面もあるが、イタリアオペラにおける理想的な唱法とされている。

ベルタ・フォン・ズットナー(323)
 19世紀末にベストセラーとなった「武器を捨てよ!」の著者。ボヘミアの名門の伯爵令嬢であったが、零落してウイーンやパリで活動する。ズットナー家の息子とコーカサスに駆け落ちし、ここで露土戦争を体験する。この体験から、戦争を食い止めるための女性の働き掛けが不可欠であると主張。パリ時代にノーベルの個人秘書になり、その後、ノーベルに平和賞を設立するように働き掛けて実現し、後に彼女自身も第五回のノーベル平和賞を受賞した。

 ■ヘルヴェティ族(23)
 レマン湖近傍に居住していたガリア人。ガリア戦記に残る。ゲルマン人の南下圧力によ って民族大移動を試みるが、カエサルによって押さえられ、結果的に現在のスイス人の始 祖となる。スイスのコインに刻印されるヘルヴェティカの意味が分かった。

ベルクマンの法則(218)p.207
 生物が恒温を保つためには、体を大きくする必要がある。熱生産性は長さの三乗の割合で増加するが、熱発散量は長さの二乗の割合でしか増加しないから、体を大きくすれば相対的に熱の発散を防げるからである。よって哺乳類の体の大きさと生息地の気温の間には比例関係あるという法則。
この考えを基に今泉吉典は日本のモグラを気温と体長の関係から直線クラインとして分類。すなわち傾き角が等しい一群は同種であるという分類を提唱した。


ヘルゴット教会(180)  
 ローテンブルグの隣町の教会。リーメンシュナイダーの「聖母マリアの昇天」を見る。

ペトルス・ダミアニ的秘跡論(560)
 アウグスティヌス的、ベトルス・ダミアニ的秘蹟論というのはそれならどんなものか、と皆さんは疑問に思われるでしょう。詳しいことは、私(堀米)の小さい書物『正統と異端』(中公新書)をごらん頂くほかありませんが、ごくかいつまんでいえば、次のようなものです。キリスト教会内で行なわれる秘蹟は、一見したところ聖職者がとり行っているが、本当に秘蹟を執行なさるのはイエスその人にほかならない。だから、聖職者はその道具なので、すでに道具である以上、聖職者が有徳の人であるかどうかは、秘蹟の効果には何ら関係がないということなのです。これは世俗世界の論理とはまったく異なる宗教の論理でありまして、その意味で多くの高等宗教に共通にみられるものです。わが国の中世仏教、とくに道元の中にはまったく瓜二つといってよい言葉が見出されます。

ヘルマン・ロールシャッハ(366)
 1884年スイスのチューリッヒで生まれた。少年時代、インクのシミ遊びに熱中し、仲間から「シミ」というあだ名で呼ばれていたという。医学を志し、ミュースターリンゲン州立精神病院に就職し、この間に学位を取り、その後、いくつかの病院を転々とした。ヴァルダウ精神病院での勤務も俸給が少なく、仕事も面白くなかった。
1917年、インクのシミ検査が、精神診断の手段として使えることに気づいた。インクのシミ図版を作成して、正常者と精神病者にインクのシミ検査を実施し、反応を比較する研究に没頭した。1921年にようやくシミ図版を収録した「精神診断学」が出版されたが、…在庫の山となった。
著者(村上宣寛)によれば1986年にロールシャッハテストの「自動解釈プログラムを作ってみると、いつの問にか我々は世界のトップに立っていた。そして、ロールシャッハの解釈仮説を再検討すると、実証的根拠がほとんどないことに気づいた。」…インクのシミが明らかにするのは、唯一、それらを解釈する検査者の秘められた世界である。これらの先生方は被験者のことよりも自分自身のことをたぶん多く語っている(アナスティン、1982年)。…現在ロールシャッハ産業は途方に暮れている。


ペルフェクタ(167)  
 ローライに成功に対抗して、66の二眼レフを折り畳み可能にしたウェルタ社のペルフ ェクタ(完全の意)。畳むと7.5cmになる。同様の発想はツェカフレックスやピロー トにも見える。ゲテモノである。

ベルリンの壁(56)  
 1961年8月13日夜半西ベルリンを囲む165キロメートルが壁と鉄条網で囲まれ た。その壁が1989年11月9日崩れ去った。

ペレグリナティオ(281)
 このラテン語は「異教遍歴」と訳されるようである。ペレグリナティオは逃走、冒険、巡礼のために故郷を捨てることではなく、おのが魂の救いのために新しい故郷を求める贖罪的な意味を伴った禁欲的動機に基づく行為であった。その典型的な例として「クロンファートの修道院長、聖ブランダンの航海」をあげておられる。

ヘレニスモス(442)
 使徒時代になって成立した新約聖書の諸文書のギリシア語用法の中に、われわれは、「キリスト教的ヘレニズム」の最初の段階を見出す。これは、後の、いわゆる教父時代にも引き続きみられる。「ヘレニスモス」は、元来、このような現象を示す言葉であった。言語の問題は、当面の問題と決して無関係のものではない。ギリシア語の使用と共に、キリスト教思想は、ギリシア語固有の諾概念・思想の諸範疇・伝統的な比喩・意味の持つ微妙な含蓄のすべてを持つことになるのである。キリスト教が、始めから周囲の世界に急速に同化していったのは、次のような明白な理由によるものと考えられる。すなわち、キリスト教はユダヤ人の起した運動であるが、ユダヤ人は、パウロのころまでには、散在のユダヤ人ばかりでなく、パレスチナにおいてすら、かなりの程度、「ヘレニズム化」されていた。キリスト教の宣教者が、まず最初に対象にしたのは、ユグヤ人のなかでも、まさにこの「ヘレニズム化」した一群の人たちであった。

ヘレン・キームゼー宮殿(166)  
 キーム湖に浮かぶヘレン島にあるヴェルサイユを模してルートヴィッヒ二世が築いた宮殿。プリーン駅から1827年製造の骨董蒸気が引くキームゼー鉄道がヘレン島への連絡船乗り場までいく。

ヘレンケラーの夢(202)  
 3重苦であるヘレンケラーも夢を見る。…単にこんな、ここにあるものを書いているだ けじゃ駄目なんです。ヘレンケラーもいれば、サリバン先生のいないヘレンケラーも考え ろ。そのヘレンケラーに向かい合う神様も考えろ。どんどん考えなければ駄目なんです。

ヘルウェティイ族(535)
 (現在のスイスあたりに居住していた)ヘルウェティイ族もまた武勇の点で、それ以外のケルタエ人を凌駕している。というのも、ヘルウェティイ族は、あるときは、自国の領土をグルマニア人の侵から防ぎ、あるときは、自分らの方からゲルマニア人の領土に攻撃をしかけたりして、侵入ルマニア人との合戦を、ほとんど日常茶飯事のごとく行なっているからである。
…ディウィコは答えた。「へルウェテイィ族はこれまで人質を受け取っても、自分のほうから与えたためしがない。これは祖先からの伝統的なしきたりである。このことの証人は、ほかならぬローマ国民ではないか」このような捨て台調を残して立ち去る。


ペルシャ人の消滅(438)
 奴隷化された集団は、こうした弱化と衰微の一途をたどり、ついには滅亡してしまう。持続されるのは神のみである。
このことはベルシャ民族を見れば明らかとなろう。ベルシャ人はかつて多数の人口を擁し、世界に満ちていた。ペルシャの軍隊がアラブの時代になって絶滅した当時でさえ、まだかなりの人口が残っていた。ペルシャ人は、アラブの支配と専制下に入つてのち、わずかのあいだだけ存続したのみで、かつて存在したことが疑われるぐらい〔偉大な民族としての〕ベルシャ人は消滅した。これは彼らに対する圧制と専制の結果であると考えてはならない。イスラムの支配は、公正をもって知られている。このような滅亡は、自由を奪われ、他者の道具となった人間にとって、当然起こる現象である。

■ベンガル ルネッサンス(554)
 近代インド・ルネッサンスは、ベンガル地方の先進性のゆえに、まずベンガル地方から始まった。このベンガル・ルネッサンスは、広義に解すれば、18世紀最末葉から20世紀前半までである。その特徴を述べると次のようになる。
   1)中世文化のみでなく、リグ・ヴェーダ、ウパニシャツドなどの古代文化の尊重
   4)西洋外来文化との折衝・交流とその影響
   6)ベンガル民族主義およびインド民族主義意識の昂揚
   7)ベンガルの宗教改革、政治・経済改革、社会生活改革との密接な関係
 ヨーロッパ・ルネッサンスとの…相違は、ヨーロッパ諸国が地理上の発見とともにルネッサンス期に入り、非ヨーロッパ地域を植民地化する方向に進んだのに対して、インドの場合は、被植民地化とそれからの解放という流れの中にあったことである。ロビンドロナト・タゴールは、19世紀末葉にベンガル・ルネッサンスの暁星として輝き始め、珠玉の作品を残し、芸術のあらゆる分野に、天菓の才を示した。このタゴールの活躍が、やがて、ベンガル・ルネッサンスが世界的に注目を浴びる一因となった。


ぺロブスカイト(34)  
 星間物質の98%は水素とヘリウムである。残りの2%の元素が集まって地球が誕生す るとき、数千度kから冷えていく過程で、融点の高い物質から凝固していく。1500度 で最初にできるのがペロブスカイト。すなわち地球最古の物質である。

ヘンケル(111)  
 個体発生は系統発生を繰り返すと主張。胎児の成長は数日でその顔は32日目には魚類 であったものが、両生類、爬虫類と変化し、38日目に哺乳類的になる。数億年の生命の 歴史をその生命の記憶を、夢見ているのが胎児であるという。

ペンコフスキー事件(69)
 キューバ危機にあって、アメリカ側に情報にうったソ連スパイ事件。使ったのがミノック スB。ラトビア人のワルター・ツアップが辛苦の末、1937年にT型をリガで製品化し た。ミノックスBは回折を嫌って絞りがないが、球面収差は測定不能なほど小さく、中心 解像度は325本と、アサヒカメラの診断室の史上最高値である。

弁護士(481)ガンディー
 弁護士の仕事は、依頼人に味方してやることであり、依頼人の有利になるよう、抜け道や弁論を見つけだすことです。彼ら(依頼人たち)は、しばしばそれについては、ずぶのしろうとなのです。もし弁護士たちがそうしなければ、彼らはその職業を穢したと考えられるでしょう。そこで弁護士は、一般には、紛争を鎮めるかわりに、それを助長するのです。さらに人びとは、他人を惨めな境涯から助け出すためにではなく、自分が豊かになるためにその職業を選ぶ。それは金持ちになる近道であり、彼らの利益は紛争をふやすことにある。彼らの商売を名誉職だなどと考えてきたのは、ほかならぬ法律家たちです。彼らは自画自讃を演出するように、法律をも演出する。彼らはどのくらい謝礼を要求するか自分できめる。

弁証法(487)
 弁証法とは、一言でいえば、人間理性が神的理性に近づくことが可能か否かの論理である。可能と考えられれば、弁証法は積極的に承認されることとなり、カントに続くへーゲル哲学へと進展することとなる。否と考えられるならば、弁証法は消極的な意味しかもたず、人間理性は神に近づきたい衝動と近づきえない現実という矛盾、不安に陥ることとなる。へーゲル没後の現代哲学もへーゲルの積極的弁証法に対し否定的であり、そこに弁証法についての新しい見解が模索されつつある。簡単にいうと、現代哲学における近代的理性への批判は弁証法的理性批判という形をとっているのである。

便所の100ワット(352)
 これが石橋と対談して、非武装中立論をヨイショした小林直樹になると、底抜けに無邪気、 便所の百ワットのごとく無意味に明るいというしかない。小林はこう述べている。
「かりに二、三十万人のソ連軍隊が−そういうことは実際には生じないと思うけれども−日本を占領すると仮定する。しかし、日本の社会に文化が華開いており、自由が満ちあふれ、そして日本人が毅然とした自主的な姿勢を持って、不正な支配に屈従しない国民として生きていたならば、彼らは占領者として自らを恥じ、ひいては日本から学ぶようになるだろう。いわば日本が自由学校になることによって、ここで彼らが自由の良さを学んだならば、本国に帰ってソ連のシステムにあきたらなくなり、これを変えるように努力するということになるだろう。そうなれば、向こうは公費で日本に留学生を送ってきたのと同じ結果になります」


変身(155)
 ツァラトゥストラの第1部。「どのようにして精神は駱駝になるか、またいかにして駱 駝はライオンになるか、そしてライオンはついに小児になるか。」駱駝は既成の諸価値の 重荷を担いでいる。砂漠に入った駱駝はライオンに変身し、偶像を破壊し重荷を踏みにじ る。そのライオンもついに小児の戯れの境地から、新たな価値と原理の創造者となる。  この変身は自身の著作のモメントと、かれの健康の諸段階そのものであるとニーチェは 言う。

鞭身派(394)
 17世紀に分離派の一派として生れた宗派に鞭身派というのがある。1700年1月1日に生きながら天に召されたダニイロ・フィリッポフが開祖とされており、この点では作中(カラマーゾフの兄弟)に登場する聖痴愚フェラポント神父にその面影が映されている。鞭身派の教義の特質は、教会や僧を否定し、直接にキリスト、聖霊との交わりを求める点にあり、そのための手段として、男女の信徒が一部屋に集まり、祈祷、歌、踊りのあげく、最後には手や鞭でおたがいの全身を打って、集団的な恍惚状態に達する独特の儀礼が行なわれた。この瞬間にキリストないし聖霊が信徒たちの胎内に入ると信じられたのである。この教義の当然の帰結として、鞭身派には、初代キリストのイワン・スースロフをはじめ、何人ものキリストがつぎつぎと現われることになった。…むろん「十二使徒」も信徒たちの中から選ばれ、「船」と呼ばれた信徒たちの共同体には、かなり厳格なヒエラルキーが確立していた。…ところでこの鞭身派は「性」の問題については、もともと「霊は善、肉体は悪」の立場をとり、開祖フィリッポフの十二戒にも次のように言われていた。「要るなかれ、すでに要れる者は、その妻と姉妹のごとく暮すべし。いまだに嫁がざる者は嫁ぐなかれ。すでに嫁げる者は離別すべし」

偏袒右肩(143)  
 へんたんうけん。仏が右の片肌を脱ぎ、左肩を衣で覆う作法。

ベンツの衰退(433)
 1900年まで世界最大の自動車メーカー(1900年の生産台数は603台)だったベンツでは販売台数が減少した。それまでダイムラーの販売量はベンツの約10分の1だったが、(メルセデス)の高い評価の後、両者の販売台数は逆転した。ダイムラーに追いつこうとカール・ベンツは空しい努力を続けた。…フランス人マリウス・バルバルーに…設計を任せたが、折り合わなかった。…1905年にカール・ベンツ父子社をマンハイム近郊のラーデンブルクに設立したが…うまく軌道にのせることはできなかった。

■ベンドリーノ(46)
 イタリア国鉄の看板列車で「振り子」を意味する。フィレンツェとローマの間は新線で 直線を意味するディレッティシマ線と呼ばれるが、在来線区間でこの振り子が威力を発揮 し、急カーブを車体を振り子仕掛けで傾けて高速で走行する。

変法思想(543)
 孫文が海外にあって革命(清王朝打倒と共和国家建設〉への道を模索しつつあったとき、国内は変法運動と義和国運動の高揚によって大きく揺れ動いていた。
変法思想--改良主義的変革の思想--の系譜は遠くアヘン戦争時期の林則徐や魏源、…らにまでさかのぼることができる。近代化の擬態をとりつつ旧体制の補強をめざす李鴻章らの洋務運動のもつ欺瞞性を直接あるいは間接に批判することを通じて、しだいにその理論を完成の域に近づけつつあった。個々の主張に相違はあっても、そこに共通するものは、対外的脅威への鋭い感受性と救国への強い意志の存在であり、彼らは、列強の侵略に対抗する国力は、洋務運動のごとき単なる軍備の強化によってではなく、政治・経済・社会・文化の各分野にわたる全面的改革を通じて、はじめて培養されるとする認識に立っていた。この変法の思想を運動へと飛躍させる動因となったのが日清戦争の敗北がもたらした衝撃であり…。


遍路ころがし(319)
 四国八十八カ所巡礼路には、弘法大師のはからいによって6カ所の苦行の場があり、遍路ころがしといわれるほどけわしい山上に寺がある。
   1)第12番 焼山寺……藤井寺から16キロの山道。
   2)第20番 鶴林寺……立江寺から14キロ。(阿波の札所では焼山寺以上の難所)
   3)第21番 大龍寺……鶴林寺から6.5キロ。(現在は急峻な山道にロープウエイがかかる)
   4)第27番 神峰寺……金剛頂寺から29キロ。(「真っ縦」といわれる勾配45度の1.3キロの急坂)
   5)第60番 横峰寺……国分寺から28キロ。(八十八カ所第一の難所)
   6)第66番 雲辺寺……三角寺から23キロ。
 ただし、距離的に最も長いのは第23番薬王寺から室戸崎の最御崎寺の85キロ。


遍路の醍醐味(330)
 ただ、一度でも歩き遍路を体験した者は、次の機会はバスやタクシーで廻ろうとは死んでも思わない…。遍路の醍醐味は、たんに札所に着いて、本尊の霊験ご利益にあやかることでは断じてない。すべては札所をめざしてゆく道中にあるのであって、よほどの事がない限り、その過程をとばす団体バスやタクシーの車中にはないからである。

遍路フェドーシュシュカ(519)
 こうした放浪者の中にフェドーシュシュカという、もう三十年も体に錘をつけて(苦行のためのもの)、はだしで遍路をしている小柄で、もの静かな、あぱたの五十女がいた。マリヤは特にこの老婆を愛した。あるとき灯明の光かすかな薄暗い部屋で、フェドー シュシュカが自分の身の上話をしたとき、人生の正しい路を知っているのはこの女一人だ、という考えが異常なカをもってマリヤを襲った。
…いく度かいっさいを投げうって家出しようと覚悟した。彼女はもう心の中で、フェドーシュシュカと連れだっていく自分の姿を描いてみた。粗末な肌着を着て、頭巾をかぶり、袋を一肩にしてほこり道をたどりながら、人間らしい愛もなく、希望もなく、羨みもなく、聖地から聖地へと放浪の旅をつづけて、末は、かの悲哀も嘆きもない、永久の飲びと幸福の国へと志すのであった。
『どこかある場所へ着くとお祈りをする。馴れて愛着する暇のないうちにまた先へいく。そして、足がよろよろして倒れると、そのまま、どこかで死んでしまって、ついに悲哀も嘆きもない、永久の静かな波止場へ着くまで、歩いて歩いて歩きつづけよう1 』とマリヤは考えた。けれども、その後で、父や−−とくに幼いココーを見ると、彼女はまたもや心が弱り、人目を忍んで泣きながら、自分は罪深い女だと感じた。彼女は神よりも父や切が愛しかったのである。



【語彙の森】