語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-10-30 計79語
新着語
骨皮道賢、本間中将、保守的な遺伝子、凡夫往生、ボノム・リチャード号、ポクロンナヤの丘、ボロジノの戦い、ホーフブロイハウス、方外の士、ポパーの反証可能性テーゼ、本願誇り、

ボーア戦争(205)P.226  
 「それは見事な政策である。イギリスの経済力あるいは軍事力をこれほど増大させた勝利は史上まれである。フィレーニギングでの講和の後、イギリスの移民と資本がこの国に 流れ込んだ。今日それはイギリスの二番目に重要な市場となり、おそらく、ゆうに10億 ポンドを越えるイギリス資本がその土地に投資されている。」 この国とは南アフリカである。これがアパルトヘイトの出発点である。

ポアティエの戦い(494)
 (1356年)、5フランス王軍は猛追をかけた。折しも大雨であり、イングランド王軍も逃げきれないと覚悟を決めた。黒太子エドワードが布陣したのは、ポワティエから南西に15キロ、森を背負う平原モーペルテュイだった。…かの有名なポワティエの戦いも中身をいえば、クレシーの戦い(百年戦争の初期1346年にフィリップ6世がエドワード3世に完敗した戦い)の再現でしかなかった。イングランド王軍は騎兵3千、弓兵3千の総勢6千、対するフランス王軍は総勢3万を数え、兵数に差があるととも同じである。
…号令一下、フランス騎士ともあろう者が戦場で馬から下りた。が、それも的がずれていた。クレシーでは下馬したイングランド騎士に負けたと考えていた。どちらも下馬すれば負けないのだと、素直に行動に移したものの、長弓戦術にやられたとは思っていない。弓兵のような高が平民に負けるわけがないと、そのあたりの差別感情は頑ななのだ。
 であれば、結果は同じである。騎馬ならぬ徒歩で突撃して、長弓の弾幕に餌食にされる展開は変わらない。王太子シヤルルの第一列は早々に崩れた。…黒太子エドワードは作戦を変えた。こちらは馬を用意して、騎馬突撃を敢行したのだ。フランス王軍の側面を討つ鮮やかな攻撃を決めたのは、…ガスコーニュ騎兵だった。フランス王軍は総崩れである。…右に左に敵を迎えたジヤン2世も、すっかり固まれてしまえば投降せざるをえない。


 ■ ホイヘンスのエンジン(42)  
 ベルサイユ宮殿の水役人であったホイヘンス(ホイヘンスの原理の)は宮殿維持のため に大量のセーヌ川の水をくみ上げる方法を考えた。これがエンジン(内燃機関)のアイデ アの最も古いものとされる。シリンダー内で火薬を爆発させてピストンを上昇させという 方法。実際にはこれは実現できずベルサイユでは水車揚水が使用された。

(381)中村元
 仏教哲学は「法」の哲学であるとは、すでに諸学者の認めるところであり、つねに法に関する思索を中心として発展している。これに対して大乗仏教、たとえば『中論』は「法有」に対して「法空」を主張したのであると解せられている。法という語を語源的に説明すれば、語源は……であり、これからdharmaという名詞がつくられた。これは「たもつ」という意味であるから、法とは「きまり」「軌範」「理法」というのが原義であるといわれている。そうしてこれはインド一般に通ずる用例であり…。
 パーリ語聖典において用いられている法の意義は種々あるが、その中で純粋に仏教的な用法はただ一つで、…ドイツのW・ガイゲルはこれを「もの」と訳している。また日本でも伝統的に法とは「もの」「物柄」であると解釈されている。
 ここで問題が起こる。法の原義は「きまり」「法則」「軌範」であるのに、何故後世、伝統的に「もの」と解釈されるに至ったのであろうか。「理法」がそのまま「もの」であるということをわれわれは理解に苦しむ。この間題に関してはガイゲル自身が不審をいだきながらも、何ら解決を示していない。「理法」という意味から発して一見全然別な「もの」という解釈に至るには哲学的な理由があるのではなかろうか。一般に法の原意から法有の主張の導き出される経過を考察したい。
 仏教成立の当初においては、自然的存在の領域を基礎づけ可能ならしめるところの法の領域を、自然的存在の領域から区別して設定し、仏教はもっばらこの法の領域を問題とした。もちろん原始仏教聖典自体の中にはこのような区別は明言されていない。原始仏教は自然認識の問題を考慮の外においている。もしも自然的存在の領域だけを問題としているのであるならば、その所論はわれわれにそれほど難解なものではないだろうし、仏教徒でない人でも容易にその所論を理解しうるであろう。
 ところが仏教は実践的宗教者の関心事と映じた「法」をとりあげたのである。法とは一切の存在の軌範となって、存在をその特殊性において、成立せしめるところの「かた」であり、法そのものは超時間的に妥当する。したがって、この解釈は「理法」「軌範」という語源的な解釈とも一致する。法は自然的存在の「かた」であるから自然的事物と同一視することはできない。そうしてその法の体系として、五種類の法の領域である個体を構成する五つの集まり(五ウン、認識および行動の成立する領域としての六つの場などが考えられていた。
 しかしながら法の体系をいかに基礎づけるか、すなわち法の体系を可能ならしめる根拠はどうか、という問題に関しては、なお考究の余地を残していた。原始仏教聖典の初期に属する資料からみると、これを基礎づけるために縁起説が考えられていたことを知りうる。「法」の体系を縁起によって成立せしめようとするのである。縁起に関しても種々な系列が考えられ、後になってついに十二支の系列のもの(十二因縁)が決定的に優勢な地位を占めるようになった。


望遠比(191)
 望遠レンズは、普通のレンズと焦点面の間に凹レンズを入れて像を拡大するレンズであ る。よって焦点距離より、そのレンズ系全長を短くすることができる。レンズ前面からの 距離を焦点距離で割ったのが望遠比。通常は80〜60%。

方外の士(508)
子桑戸という人物が死んだとき、孔子は門人の子貢を弔いにゆかせたが、死者の友人であった二人の隠者は平然として歌をうたっていた。子貢はあきれて、死者の前で歌うのは礼かと質問する。二人は顔を見合わせて笑うと、「この男には礼の意味はわからないよ」とつぶやいた。形式的な礼儀を尊ぶ儒者に対する痛烈な揶揄である。
 孔子はいう、「彼らはこの世間の外で遊ぶもの、わたしはこの世間の内で遊ぶものだ。お前をお弔いにゆかせたのはまずかった。彼らは造物者と仲間になって天地の一気に心を遊ばせ、死生を超越した無為の人々である。どうして世俗の礼で飾りたてたりしようか。このわたしなどは、天の刑罰を受けてこの世につながれている人間だ。ただ事を棄てて道を守っていくなら人生も満足に送れよう」。世間の外に遊ぶ「方外」の士の立場をすぐれたものとしたうえで、自分のことを「天の戮民」だと言っておとしめている。


封建軍(494)
(カペー朝フイリップ4世の時代)フランス王にも、ひとつだけ大きな泣きどころがあった。お金である。軍資金は常に不足していた。…軍隊が別物になろうとしていた。従来のそれは封主の召集に封臣が馳せ参じる、いわゆる封建軍であり、基本的には軍資金などいらなかった。日本の封建社会と同じに、御恩と奉公の原理で成立しているからで、知行を認めている領地そのものが給養の手段なのである。ところが、このあたりヨーロッパの感覚はドライだというか、その無償奉公も40日と時間が切られたものだった。40日がすぎれば、封臣は封主が勝ち戦を逃そうが、負け戦を強いられようが、知らぬ顔で戦場を離れてよい。
 カペー朝になって、フランス王国というような「国」の戦争、「公」の戦争を担わなければならない立場で、それを遂行するとなると、もはや封建軍は役に立たなくなりつつあった。 かわりに用いられたのが傭兵隊で、つまりは給料を支払わなければならない。封建軍を召集した場合でも、40日たったからと戦争を放棄されないように、だんだん給料が支払われるようになる。


方向定位連合野(478)
 宗教的体験には、日常的体験にはないような強烈な性質がある。多くの宗教家が報告している、自己と非自己の境界が消え、宇宙、あるいは「神」と一体になるという宗教的な体験の強烈なリアリティーを支える神経機構は何かということは、大変興味深い問題である。
 本書では、著者たちが「方向定位連合野」と名付けた頭頂葉の領域の活動が、感覚入力が遮断されることによって特別なモードに入ることが、宗教的体験のリアリティーを支えていると推測している。頭頂葉のこの領域は、自分の身体イメージをはじめとする空間的な情報の把握などの機能を担っていると考えられる部位である。…この部位への感覚入力が何らかの理由で遮断されることが、自己と非自己の境界を揺るがし、いわゆる宗教的体験を引き起こすメカニズムの一翼を担っている可能性はある。


放射線(415)
 放射線には、ガンマ線 (光)、ベータ線 (電子)、アルファ線 (ヘリウムの原子核) や中性子線 (中性子) などがある。アルファ線の透過力は弱く、空気中では酸素分子や窒素分子との衝突のために、数センチメートルしか届かない。また紙一枚で遮蔽できる。したがってアルファ線を放射するプルトニウムで地表面が汚染しても、それだけでは、被曝を心配することはない。ベータ線は空気中をある程度飛ぶけれども、金属板一枚あれば遮蔽できる。例えば、草や家の中にいれば、屋外が汚染していても、このベータ線は防護できる。ガンマ線や中性子は金属板を透過するが、厚いコンクリート壁の建物でこれを変化させてしまう性質がある。…この放射線を放射する能力を放射能という。この原因は原子核の崩壊である。1秒間に1回原子核が崩壊して放射線を出すときの放射能の量を1ベクレルという。

放射線被曝による発ガン(415)
 放射線被曝により誘発される発ガンは、線量に比例し、被曝後、長い年月の潜伏期を経て症状が現れる。この種のガンには、甲状腺ガン、乳ガン、胃ガン、肺ガン、結腸ガン、白血病などがある。被曝後のガン発生率は、広島・長崎原爆被曝者の調査から、500ミリシーベルト以上の被曝をした場合、その被曝線量に比例してガンの発生率が増加することがわかっている。しかし200ミリシーベルト以下の被曝者には、ガン発生率の増加は認められていない。
もし数10ミリシーベルトの線量を読者のあなたが被曝した場合に、それによって将来ガンになる確率は、その他放射線以外の因子でガンになる確率よりも低い。


放射線の遺伝的影響(415)
 広島・長崎の原爆生存者の調査では、この遺伝的影響は見つかってはいない。見つかっているのは、ショウジョウバエやマウスなどを用いた実験からである。ヒトへの影響に関しては、この生物実験の結果から遺伝的影響を推定しているだけである。もしも読者のあなたが10ミリシーベルトの線量を被曝したとすると、将来あなたの子孫に遺伝的影響が現れる確率は10万分の6と推定される。l00ミリシーベルトならば、その確率は1万分の6となる。

訪独潜水艦(287)
 同盟国ドイツとの間の連絡は無線による以外は事実上途絶し、日本は技術的鎖国状態に陥ってしまった。この厳しい状況のもとで、なんとかドイツから技術を導入しようと潜水艦による連絡が企てられた。三年間に「伊30」「伊8」「伊34」「伊29」「伊52」の五隻の潜水艦が訪独の途に上がった。このうち往還ともに無事だったのは「伊8」ただ一隻であとはどこかで撃沈されてしまった。最後の訪独潜水艦「伊52」には技術導入のために7人の民間技術者が搭乗していた。日本光学で射撃指揮装置を開発していた水野一郎もその一人で、死後は一年後輩の更田正彦が後任となる。この更田がニコンFを設計することになる。

法の標準性(489)
 永遠なる道法の方は万全であるし、個人の知能は失敗がつきまとう。その説明として衡にかけて、物の重さをはかり、規によって円形がわかるといっている。これは「道法」篇に「道が法を生む」のあとに「法とは得失を引いて縄し、曲直を明らかにするものだ」 と定義している、法とは人間の行動の得失を判断し、その曲直を断ずる度量のようなものだという考えから導かれたといってよいであろう。
 田中耕太郎博士は『法家の法実証主義』のなかで、法家が実定法の内容の認識にたいする重要な貢献として、法の度量衡的性質を明らかにしたことだとされる。それは法の説明にアナロギーを社会技術である度量衡や規矩縄墨に取って、法の標準性を明らかにしたことをあげられている。『経法』の「道法」篇はまさに天地の根源であり、宇宙論的自然法則的観念である道から生れたとする人間社会の法の標準性を明示した貴重な新文献である。


方便(301)
 つまりこの知拳印では、左手が胎蔵界、右手が金剛界を象徴するということです。つまりこの印相では、左手が象徴する胎蔵界、その般若の力と、右手が象徴する金剛界、その方便の働きがしっかりと結びあうことになる。「般若」とは、仏教の静寂で清らかな智慧を表わし、女性の力を表わすとされる。「方便」は、われわれ衆生を救うための激しい活動、叡智が基本となり、それをもつ男性の働きを示す。

方法(400)ポアンカレ
 あまりに相似ない、あまりに変わりやすい、あまりに気紛れな、一言にしていえば、あまりに複雑な人間である。その上歴史はふたたび繰返すことをしない。如何にして興味ある事実、すなわち繰返す事実を選択するのであろうか。方法とは正に事実の選択のことであるから、まず、方法を案出することに努めなければならないのであるが、いずれとして是非採らなければならないという方法がないため、彼等は沢山の方法を考え出した。社会学の学位論文が出るたびに新しい方法が提出され、しかもその論文を書いた新ドクトルはひたすらその方法を用いざらんとこれ努める。したがって、社会学はその有する方法の数はもっとも多く、その挙げ得る結果はもっとも少ないという科学である。

方法序説(114)  
 ルネ・デカルト初めての著作。41歳、1637年オランダの出版社から著者名なしで 出版された。「理性を正しく導き、学問において真理を探求するための方法の序説。加え て、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学。」という全体で500ページを越 える大著の最初の78ページの序文。

法輪(143)  
 ヘレニズムの影響を受ける前、仏教において仏陀を像として描くことはされなかった。 初期仏教の無仏像時代仏陀は車輪のようなシンボルで表現された。たとえばこの車輪は伝 説の聖王、転輪聖王のもつ金輪があらゆるものを粉砕していくことに、釈尊の説法があら ゆる論敵を論破していくことをたとえたことによる。

ホーエンツォルレン城(180)  
 プロイセンの王家ホーエンツォルレン家の発祥の城。11世紀までさかのぼるが、現在 の城は1867年にフリードリッヒ・ヴィリヘルム4世によって建設。ノイシュヴァンシ ュタイン城の建設の2年前である。シュヴァルトヴァルトのテュービンゲンの郊外。

ボーカイユ(97)
 美しい小石という意味。シヤトー・デュクリュ・ボーカイユ。マルゴー地区を離れてこ れほど小石の多い畑は見当たらない。サンジュリアンは、南のマルゴーと北のポーイヤッ クに挟まれ、マルゴーに見られる甘美な優雅さと、ポーイヤックの古典的な酒躯の充実と が完全なバランスを保っている。

ホーキング放射(165)  
 光の脱出速度を越えるブラックホールの表面を「事象の地平」と呼ぶ。ホーキングはこ の面は収縮することはないことを証明、ブラックホール力学の第二法則と呼ばれる。ブラ ック・ホールはなにものも脱出できないが、逆にマイナスのエネルギーが運び込まれると ブラック・ホールのエネルギーすなわち質量が減少し、放射が起こる。これがホーキング 放射。

ポクスンド湖(TV)
 ネパール北部の山岳地帯の湖。透明度世界一ともいわれる。透明で深い青は、かっても っとも美しい湖と考えていたアフガニスタンのバンデアミール湖を越える。

ポクロフ祭(395)
 ロシアの暦では、10月1日はポクロフ祭(聖母祭)と呼ばれている。この祭の起源は、十世紀、東方教会の中心であったコンスタンチノープルの都が、サラセン人の猛攻で陥落寸前になったときの故事に由来する。教会で必死に祈りを捧げる僧の前に聖母マリヤが姿をあらわし、そのポクロフ(衣)で信者たちを覆ってくれた。この奇跡に力づけられて、正教徒たちはサラセン人を撃退できたというのである。こうして10月1日は、聖母のポクロフ(衣、庇護)をたたえる祭日となった。

ポクロフスコエ村(419)
 グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは、トボリスク県チュメニ郡ポクロフスコエ村で生まれた。広大なシベリアの大地にひっそりと埋もれるようなこの小さな村は、豊かな水をたたえるトゥラー河の岸辺に位置し、大きな街道筋にあった。何百キロも続くこの街道を御者たちが馬を駆り、ウラルの小都市ヴェルホトゥリエから(この町には、のちにラスプーチンが強い愛着を抱くニコラエフスキー修道院があった)、トゥラー河岸沿いにチュメニを通って、トボリスクまでやって来た。皇帝一家もあの恐ろしい1918年に、まさにこの街道をつたってポクロフスコエ村を抜け、ラスプーチンの家の前を通って、ウラルへの死出の旅路につくことになる。

ポグロム(421)
 (ロシアの)ユダヤ人集団虐殺。

ポクロンナヤの丘(520)
 ナポレオンは麾下の軍に囲まれながら、ポクロンナヤの丘上に立って、限前に展開された光景を眺めていた。八月二十六日から九月二日、すなわちボロジノ戦から敵軍のモスクワ侵入へかけて、この不安な記念すべき一週日の間、かの常に人を驚かすような、すばらしい秋日和が毎日つづいた。
 ロシヤ人は誰でもモスクワを見た時、これは母なる町だと感じる。外国人がモスクワの母らしい意味を知らずに眺めても、きっとこの町の女性的性質を直感する。で、ナポレオンもそれを感じた。
「無数の教会を持ったこの名高いアジアの町、この聖なるモスクワはついに目前に現われた! もうとうにこの時がくるべきはずだったのだ!」とナポレオンは言った。そして馬からおりると、このモスクワの地図を自分の前にひろげさせて、通訳官のルロルム・ディドヴィーユを召し寄せた。『敵に占領された街は貞操を失った処女のようだ。』と彼は考えた。


ボゴミル派(461)
 カタリ派とはマニ教の流れを汲む二元論の異端である。マニの末喬は十二世紀のはじめ頃、バルカン半島を経由して西欧に入ってきたものである。カタリ派の直接の祖は、十世紀のマケドニアの説教師ポゴミルの教えを奉ずる一派「ポゴミル派」である。それゆえ、初期カタリ派の教義は、ほとんどボゴミル派の刻印を押されている。
 …ボゴミルとは「神の友」ないしは「神に愛されし者」という意味のスラブ語である。


菩薩(143)
 菩堤薩捶(ボディサットヴァ)の略。成道、成仏を志し、長期にわたって修行し、や がて仏陀となることを約束された者。仏像とは仏陀の像である。菩薩とは出家前の修行 中のものを言い、まだ仏ではないので菩薩像は仏像ではないというのがたてまえ。

菩薩行(381)中村元
 大乗仏教はかれらのかかる生活態度をいたく攻撃した。かれらの態度は利己的・独善的であるといって蔑視し、かれらに「小乗」という蔑称を与え、自らは利他行を強調した。大乗仏教では慈悲の精神に立脚して、生きとし生けるものすべてを苦から救うことを希望する。自分が彼岸の世界に達する前に、まず他人を救わなければならぬ。かかる利他行を実践する人を菩薩と称する。…かかる慈悲にもとづく菩薩行は、理想としては何人も行なわねばならぬものであるが、一般の凡夫にはなかなか実践しがたいことである。そこで他方では、諸仏・諸菩薩に帰依し、その力によって救われ、その力にあずかって実践を行なうことが説かれた。

星の野(387)
 サンティアゴ・デ・コンボステーラSantiago de Compostelaの語源については、不明な点も残るが、サンティアゴは聖ヤコブ(サント・ヤコブSanto Yacob〉に、コンポステーラは「墓廟;コンポシトゥームCompositum〉」を意味するラテン語に由来するといわれる。コンポステーラの語源を「星の野(カンプス・ステラーエCampus−stellae)」とする研究も散見されるが、最近の研究ではコンボステーラと「墓廟」との関連を指摘する向きが多い。「星の野」とは古代の神々が住まわれた銀河を意味しており、「星の野」というロマンチックな呼称は、銀河GalaxiaとガリシアGaliciaの混同に由来するとされる。

星の友情(267)p.88
 ニーチェ「悦ばしき知識」。…友人であったが、疎遠になってしまった友達に対して、お互い自らを高めて、尊敬しあえる者になろう、地上では敵同士になるかもしれないが、星の友情を信じることにしようという呼びかけ。

星は誘うが強いない(187)  
 トマス・アクイナスの言葉。つまり天体は人間に影響を及ぼすが、神の与えたもうた 自由意志を越えてまで運命を強いるものでないとした。キリスト教と占星術の運命をこ のように調停したがその後中世からルネッサンスに至って、天体の影響力は決定的にな っていった。ヤーコブ・ベーメは言う。「この世界の原因はことごとく星の中にある。 生成するものすべては星の性質によって目覚めさせられ、生命を与えられている。」

募集広告(260)
 「求む男子。至難の旅。僅かな報酬。極寒。暗黒の長い日々。絶えざる危険。生還の保証なし。成功の暁には名誉と賞賛を得る」シャクルトンの1914年の南極横断探検の募集広告。5千人以上の志願者が殺到した。

保守的な遺伝子(555)
 或る変化が、有害なものが起こる危険を冒して、どちらかといえば偶然的なやり方で「試みられる」、そしてもし有害な変化であった場合には自動的に滅びてなくなってしまう、というように考えられます。このような考え方からはなはだ重要な結論が一つひき出されます。突然変異が、自然淘汰を営む要素として適切なものであるためには、それは稀にしか起こらない出来事でなければなりません。そして、実際にはそうなのです。もしも突然変異がはなはだしばしば起こるものであって、同一の個体に異なる突然変異がたとえば10以上も起こる確率がかなり大きいとしたなら、普通、有害な突然変異が有利なものを凌駕してしまい、その結果、種は淘汰(選択)により改良されはしないで、不変のままで残るか、あるいは滅びてしまうでしょう。遺伝子が高度の永続性をもつことの結果として、比較的に保守的であることが本質的に大切なのです。


ボス一番の傑作(232)
 著者の中野孝次のボス「十字架を担うキリスト」(ゲント美術館所蔵)に対する評。…実に単純で力強い構図だ。キリストが担う十字架の線によって画面が四分割され、その中にびっしりと人間の顔だけが悪夢のように描かれている。胴体も脚もなく、ただ顔だけが、しかもどの一つを見てもその表情になんというすさまじさか。…そして何より、この絵を救っているのは、群集に背を向けて立去ろうとしている聖ヴェロニカの、なんともいえぬ表情−−だ。

ポスト・ホック(218)p.182
 アド・ホックと逆の時間的条件。現象が起きた後。

ボタニー湾(153)  
 アメリカの独立によって流刑者の送り先がなくなった英国はテムズ川に牢獄船を浮かべ これを収容したが、これでも間に合わず1787年オーストラリアのボタニー湾を新たな 流刑地とし、ここにオーストラリアの歴史が始まる。

法身仏(364)
 密教は、他の仏教が釈迦仏の教えであるとするのにたいし、大毘廬遮那如来、すなわち大日如来の教えであるという。大日如来とは何か。空海はいう、「大日如来は法身仏である。法身仏とは、釈迦如来のように歴史的実在性をもった仏ではなく、宇宙の初めから存在している永遠不滅の仏性である」と。仏教は、その理論的発展において、一つの大きな疑問に逢着した。…仏教は釈迦崇拝に始まり、釈迦崇拝に終わる。これでは歴史的実在の釈迦を超越することができない。…密教は、思い切って釈迦仏教を否定する。仏の応化身を二義的と考えて、法身を一義的とする。

補糖(47)  
 シャブタリザション。ブルゴーニュの赤は重いといわれるが、この重さは補糖によって もたらされる。ぶどう果汁の発酵中に糖分がアルコールに変換して重みを出す。甘口にな るわけではない。ブルゴーニュも北部は気温が低く、不作時はぶどうの糖度が上がらず、 これを補うもので法律的にも許容されている。

ホドゥインカ原(420)
 1896年5月18日。(ニコライ2世の)戴冠式ののちに国民の野外祝典が行なわれることになっていた。食べもの、菓子、パンなどの大盤振舞、ツァーリが国民を養うというわけだ…その会場は(モスクワ)郊外のホドゥインカ原と定められた。古くからの「パンと見世物」−古代ローマ皇帝と民衆。
 ホドゥインカ原には、色とりどりの天せ吊が張られ、さまぎまな菓子が並べられた。そして戴冠式祝賀の紋章のついたカップが配られ、すべてが無料なはずであった。…無料の振舞にあずかろうと大勢の人々がつめかけた。五十万人を超える黒山のような群衆で、大砲の弾丸も通らぬほどだ。…押し合いが始まり、巨大な人波が動き出した。そして雪崩を打って壕に落ち…夜明けに押し潰された人々の死体が手押し車で運び出された。
 その日の昼過ぎ、大臣ウィッテが祭典に出かけようと馬車に乗ると、ホドゥインカ原で二千人の死者が出たことを知らされた。だが、彼の豪華な馬車がホドゥインカ原に着いた時は、もうすっかりきれいに片付けられて、悲惨な事件の跡形もなかった。空には太陽が輝き、パビリオンにはヨーロッパの貴顕たちがあふれ、大オーケストラが戴冠式を祝してカンタータを奏していた。…群衆がむらがり、皇帝も臨席していた。そのそばには式典の組織者であるモスクワ総督セルゲイ・アレクサンドログィチ大公がつききっていた。ニコライはとまどい気味で、しよんぼりしていた


ポトラッチ(124)  
 競覇的接待。共同体の秩序維持、他の共同体との関係維持のための必要以上に過剰な接 待や贈物の習慣。

ホトル(117)
 HOTOL。使い捨てのロケットではなく、水平離着陸型の宇宙往還機としてイギリスで 計画されていたもの。人間が一切、操縦に関与できないシステム。設計仕様では、ミッシ ョン放棄率2%。機体を失う確率は0.2%。

骨皮道賢(562)
 応仁の乱においても、防御側優位の状況が生じた結果、戦線が穆着したのである。こうした中、戦局打開のための新戦力として浮上したのが足軽である。足軽は、甲冑などを着けない軽装の歩兵である。応仁2年3月中旬、東軍は足軽を動員し、下京を焼き払わせた。これは西軍の駐屯地・物資集積地に打撃を与え、兵力・兵糧の補給を阻害するための作戦だったという。この作戦を指揮した足軽大将が、…有名な骨皮道賢である。
 応仁の乱前後の侍所所司…の所司代…は治安維持のための軍勢を主君の持出から与えられず、京都の牢人・悪党らを雇い入れたという。その一人が骨皮道賢だったのであり…。


ボノム・リチャード号(522)
 小艦隊やゲリラ部隊をもってしては、質量ともに圧倒的にまさるイギリス艦隊の陸上軍と呼応した作戦行動を牽制することはできなかった。たしかに、イギリス木土近海を荒らしまわりイギリス人の心胆を寒からしめたジョン・ポール・ジョーンズの活躍や、彼のボノム・リチャード号と英艦セラピス号との凄絶な戦い(1779年)は、アメリカ海軍史の第1頁を飾るにふさわしい物語ではあるけれども、独立戦争の大局には直接的な影響を与えるものではなかった。

ポパーの反証可能性テーゼ(506)
 ヒュームの帰納の問題…の根元は、「経験主義の基本テーゼ」といわれるもの−−経験だけが科学的言明の真または偽を決定しうるというテーゼ−−と、帰納的論証は承認できないというヒュームの認識とのあいだの、あからさまな矛盾である。だが、この矛盾は、すべての科学的言明は「全面的に決定可能」でなければならぬと、つまりそれらの実証と反証とが原理上ともに可能でなければならぬと仮定する場合にのみ、生じてくるのである。もしわれわれがこの要求を放棄し、一つの意味においてだけ決定できる…一方的にだけ決定できる、とりわけ反証できる…諸言明、およびそれらを反証しようとする体系的試みによってテストされうる諸言明を経験的なものと認めるならば、その矛盾は消滅する。
 すなわち、ポパーが帰納法の意義を否定するのは、けっして経験主義の立場を棄ててなんらかの反実証主義の立場に走るからなのではなく、個別的経験命題から理論的一般化への飛躍を可能にするいわばバイパスを求めたがゆえなのである。


ポピュリズム(362)菊池信輝
 立花隆が、田中政治を単なるポピュリズム (大衆迎合主義)、バラ撒き政治と捉えていることの問題点を挙げてみよう。…保守系の論客でもある田中直毅は、2000年の総選挙の総括を行なつた際、田中政治こそが改革を阻む諸悪の根元であり、保守政治が克服しなければならない対象だと言っている。しかし、田中(直毅)の主張で重要なのは、田中(角栄) の一連の政策が一種の所得再分配政策、福祉国家的な政策であっただけに、廃止することが難しいとしている点である。80年代、イギリスではサッチャーが、アメリカではレーガンが福祉国家の解体、つまり労働条件や社会保障の水準をいかに下げるか、といった難題に直面したが、米英国ともにその直接の「敵」が労働組合であったのに対し、日本の場合、それが田中政治だったということである。

ボフォース機銃(69)  
 永世中立国スウェーデンのボフォース社が作った傑作中の傑作と言われる40mm対空 機銃。カミカゼを撃ち落としたのもこの機銃。

ホープ夫人(477)
 「ニュートンは宗教心が篤かった。あなたがたのうちで誰が、ニュートン、ガリレオ、ケプラー等々よりも自分のほうがすぐれていると威張れるのだ?神の存在が彼らのような人物にとって十分に得心のいくものであったというのに、あなたは自分をいったい何様、だと思っているのか?」。
…一部の擁護者はこれにダーウィンの名前を付け加えることさえある。ダーウィンについては、臨終にあたって回心したという、明白に誤りであると実証されている噂が、いつまでたっても、悪臭のようにただよってくる。この噂は「ホープ夫人」と称する人間によって故意にばらまかれたもので、この女性が夕闇の灯りのなかで枕によりかかって休むダーウィンが『新約聖書』をめくりながら、進化論はまちがいだったと告白したという感動的なほら話を紡ぎあげたのだった。


ホーフブロイハウス(513)
 (1919年)9月19日、ヒトラーはドイツ労働者党の55番目(ヒトラーは7番目と主張しているが)の党員となった(ヒトラーの正式入党日には諸説ある)。ヒトラーは党員募集と宣伝活動を担当することになり、そのたぐいまれなる才能を発揮することになる。
 10月16日、ドイツ労働者党はミュンヘンのビアホール「ホーフブロイハウス」で公開集会をひらいた。ヒトラーはこの集会の勧誘文を書き、案内状を送付した。…ヒトラーはこの集会で、二番目の弁士として登場し、30分間にわたって熱弁をふるった。彼の弁舌のおかげで、寄付金300マルクが集まったという。ヒトラー自身、このときの経験で、自分に演説の才があることを確信したようだ。以後、同党はこのようなビアホール集会を、数おおくひらくことになる。そのたびにヒトラーの演説はおおくの聴衆を魅了し、ドイツ労働者党の財政は豊かになっていった。ヒトラーはしだいにドイツ労働者党の実権をにぎるようになる。
 ホーフブロイハウスとは、「宮廷ピール醸造所」の意味である。つまりバイエルン王室の御用達ビール醸造所というわけだ。


ポーポイジング(81)  
 飛行艇の離水時にイルカの泳ぐような上下運動する不安定状態をいう。名機二式大艇は かつおぶしと呼ぶスタビライザを取り付けることによって解決。

ボマルツォの森(185)  
 マンディアルグの写真で再評価された16世紀ヴィキノ・オルシノ侯によって造営され た庭園。エロティックで神話的な巨像を配した庭園はバロック精神の極致であったが、今 緑に覆われ自然の森に溶け込んでいる。

ホモ・ヴェルボースス(183)  
 ホモ・サピエンス(人間)このお喋りなるもの。  

ホームポートレート(211)P.115
 土門拳のカメラは日本工房時代のライカも、国際文化振興会時代のスピグラも会社の借り物であった。土門が1941年に自ら購入した最初のカメラが小西六のキャビネ版組み立てカメラである「ホームポートレート」であった。戦中の古寺古仏の写真はこのカメラで撮影されたと思われる。 

ホモニム(218)P.68
 同一なものに違う名をつけたとき、これをシノニムと呼ぶ。逆に異なるものに同じ名をつけたとき、これをホモニムと呼ぶ。

ポール・ボー(46)  
 フランスとスペインの国境駅。自動ゲージ変換機のある駅。国際列車タルゴ(軽量関節 列車という意味)は標準軌(1435mm)からスペイン広軌(1668mm)へ乗客が 乗ったまま、台車の車軸間隔を切り替える。

望遠比(191)  
 望遠レンズは、普通のレンズと焦点面の間に凹レンズを入れて像を拡大するレンズであ る。よって焦点距離より、そのレンズ系全長を短くすることができる。レンズ前面からの 距離を焦点距離で割ったのが望遠比。通常は80〜60%。

ホメオスタシス(37)  
 体内の状態の恒常性。大脳辺縁系で、これら体温、血圧、心拍、血糖等を維持している 。大脳辺縁系の助けがないと、爬虫類のように、体内状況が外界に依存するようになる。 大脳辺縁系は哺乳類で発達したため哺乳類脳とも呼ばれる。

ホモロゲーション(181)  
 自動車レースで、いわゆる量産車が出場資格である場合の、最低条件を満たす生産台数 。

ポラード(26)  
 頭を切られた木。中世イギリスにおける農民の知恵として細い雑木類の恒常的な供給源 としての樹木整形法で、地上から2,3メートルで幹を切って成長を止め、その上にたく さんの細い枝を作り、これを数年後に用材として利用する。さらに根元から切ってしまう のがコピス。英国の風景の懐かしい特色となっている。

ポリアモニー(477)
 私たちが受け入れやすい熱狂的な一夫一妻的愛よりもむしろ、ある種の「複数恋愛」(ポリアモニー)のほうが、一見したところ合理的である(ポリアモリーというのは、人は二つ以上のワイン、作曲家、本あるいはスポーツを愛することができるのと同じように、何人かの異性を同時に愛することができるという信念)。二人以上の子供、親、兄弟姉妹、教師、友人、あるいはペットを愛することができるというのは、問題なく受け入れられる。そのように考えていくとき、私たちが配偶者聞の愛に全面的な排他性を期待するのは、どう考えても奇妙ではないだろうか?しかしそれが私たちの期待するものであり、理想として目指すものである。それには理由があるにちがいない。
…進化心理学者たちは、この不合理な一目惚れが、共同親たるパートナーに対する忠誠心を、子供を育てら
れるだけの長期間にわたって持続させるための一つのメカニズムになりえるのではないかという彼女(へレン・フィッシャー)の意見に賛同している。

ボリシェヴィキ(421)
 1903年7月30日、ブリュッセルでレーニンの夢想が実現されたのである。40人の革命家たちが小さな納屋に集まった。入口には「ロシア社会民主労働党大会」と書かれた小さな紙きれが貼られていた。彼らはこの納屋で無神論の救世主−全人類を幸福にするはずの党を誕生させなければならなかった。会議はプレハーノフが議長を務めた。レーニンは若い信奉者たちのグループと、プレハーノフや当時のロシア社会主義の権威者たちを激しく攻撃した。彼は宗教の教団のような絶対服従主義をとる厳しい中央集権組織を要求した。プレハーノフとマルトフは、ヨーロッパの社会民主主義のように、論争の自由の余地を残すことを主張した…ある項目の投票で反対者たちの得票が下まわった。レーニンはそれを巧みに利用して反対者たちに「メニシュヴィキ」(少数派〉のレッテルを貼った。彼は誇らしい名「ボリシェヴィキ」(多数派)を自分たちのものとした。…30年後にコーバ(後のスターリン)が、ラーゲリで最後の革命家たち−メニシュヴィキを撲滅し、この闘争に終止符を打つのである。

ボリシェヴィキの先駆け(422)
(ロマノフ王朝ニコライT世の)冬宮の一階の執務室で、彼は深夜まで働いていた。睡眠もこの部屋でスパルタ式にとった−−鉄製の野戦用の寝台に、兵士の外套にくるまって寝たのである。…ニコライは文字どおりすべての仕事を手がけたが、何よりも第一の仕事としたのがイデオロギーであった。…「専制、正教、国民性 − これこそロシアのよって立つ土台となるべき三本の柱である」 
 ドイツの血を引く皇帝自身も、フランス語を話す半ドイツ人集団の宮廷も、このロシア・ナショナリズムの旗、すなわち専制の旗を高らかに掲げていた。専制政体こそがロシアの比類なき偉大さの中心要因であると宣言された。
 ボリシェヴィキの帝国を創出しようとしたスターリンも、「ロシア国民には神と皇帝が必要である」 と発言することになる。そして自身を皇帝とし、神とすることで、スターリンはマルクス・レーニン主義を新しい宗教と化したのである。
 こうして一大パラドクスが完成する。すなわち、ロシアの急進革命家たちが建設したボリシェヴィキの帝国は、彼らが憎んだニコライT世の帝国に驚くほど似ていたのであった。


ポリメラーゼ連鎖反応(157)  
 PCR法とも呼ばれる。DNAを大量コピーする方法。これによって古生物や人骨から ミトコンドリアDNAを取り出し、これの塩基配列を決定し、現代人や他の原人との近縁 性を調査することが可能となった。

ホルテンシウス(429)
 あるとき、学校でキケロの対話篇『ホルテンシウス』が取りあげられた。キケロ (前106--43)は紀元前に活躍したローマの政治家、哲学者で、有名な雄弁家、文章家であったため、人々の間でよく知られ、高く評価されていた。アウグステイヌスはこのキケロの本を読み、その魅力あふれる文章だけでなく、内容そのもののすばらしさに圧倒される思いであった。…アウグスティヌスの心情に新しいものをもたらし、その生き方に転向をうながし、従来と異なる方向を志向させたキケロの本とはいかなるものであったのか。アウグステイヌスが読んだのは、先にもふれたようにキケロの対話篇の一つ、『ホルテンシウス』であった。本書は残存していないため、その内容について詳しく知りえないが、ギリシア哲学、たとえばアリストテレスの『プロトレプティコス』にみられるような哲学の、つまり愛知の精神と生活の大切さをすすめたものと思われる。
 アウグステイヌスは本書の次のような言葉を『三位一体論』の中で引用している。「…古代の哲学者たちや彼らのなかで最も偉大で有名な人々も思ったように、私たちが永遠にして神的な精神を持っているなら、いよいよ自分の進路をまっすぐに定め、すなわち理性的に生き探求心を深め、人間の悪徳や誤謬に巻き込まれ捕らえられること少なければ一層容易に 天へ上昇し帰るであろうと考えなければならない」 ここでは愛知に生きること、理性的に生き、賃心を深めること、天へ上昇する思いが強調されている。


ボルドー流のワイン(320)
 カベルネ・ソーヴィニヨンは、ワインのためのぶどうの中でも果皮が厚く、果汁が少ないという特徴がある。この品種で造るワインは骨格が大きく、長い寿命をもつものになる。これに対してメルロー種のワインは、果実味が豊かで、滑らかな喉越しのものになるのが特徴だ。つまりカベルネ・ソーヴィニヨンの荒々しさ、渋さを、ふくよかなメルロを合わせることで補い、さらに色が濃く、タンニンが豊富なプティ・ヴェルド種でバランスをとるのが、ボルドー流(主にメドック)のワインの作り方だ。

ホロゴン(204)  
 ホロゴン・ウルトラワイドは1968年フォトキナに登場した。15mmF8画角11 0度である。ディスタゴンやプラナーF0.7の開発者であるグラッツェルとシュルツの 作品。しかしすでにツァイス・イコン社はカメラ事業の継続が不可能な状況になっていた。 そのレンズだけは、M用としてライツから1972年に販売しれた。そしてコンタックス G1用として二度目の復活をとげる。画角は16mmに変更されて、新コーティングで滅 茶苦茶に色乗りがよいが、球面対称構成は同じで、ちゃんとホールディングした指まで写 る。

ボロジノの戦い(520)
(1812年9月)二十四日(ユリウス暦)、シェワールジノの角面堡で戦闘が行なわれた。二十五日には両軍とも一部をも発しなかった。そして二十六日にボロジノの戦いが始まったのである。
何のために、どういうふうにしてシェワールジノおよびボロジノの戦いはいどまれ、かつ応じられたのか? ボロジノの戦いは何のために行なわれたのか? この戦いはフランス軍にとってもロシヤ軍にとっても、何らの意味をも有していなかった。ただこの戦いの直接の結果となったものは、また当然なるべきであったものは、ロシヤ側からいえばモスクワの滅亡に近づいたことであり、フランス人側から見ると全軍の滅亡へ近づいたにすぎなかった。この結果は当時すでに明瞭であったにもかかわらず、しかもナポレオンはこの戦いをいどみ、クトゥーゾフはそれに応じたのである。
双方の軍指揮官が合理的理由によって行動したならば、二千キロも奥深く入りこんだうえ、全軍の四分の一を失うおそれのある戦闘をするのは、間違いなく滅亡の道へ進むにひとしいというくらいのことは、ナポレオンにもわかっていたはずだと思われるし、また同様クトゥーゾフにしても、この戦いに応じて、同様に全軍の四分の一を失うような冒険をすれば、必ずモスクワを失うに相違ないということは、明瞭にわかっていたはずである。


ホワイト・スター社(345)
 タイタニック号の惨事は、ホワイト・スター社のフラッグ・シップが氷山に激突した初めての事故ではなく二度目の事故で、また、平和時の世界最悪の被害記録を作った最初の事故ではなく二度目の事故だった。ホワイト・スター社の常軌を逸した劇的な歴史を見れば、まだまだ数多くの驚くべき事実があり、産業資本主義とそのメカニズムの中心にあった蒸気機関の絶項期における搾取の体質を考慮に入れたとしても、この会社は例外的な存在だったと言える。タイタニック号の事故以前と以降の同社の記録は、かなりいかがわしい不法な業務内容、過失、不運、事故、大惨事で満ち満ちている。
 同社のアトランテイック号が1873年、ノヴァスコシア州ハリフアックスで座礁し、約1000人の乗員のうち約600人が死亡したというのが、タイタニック以前の最悪記録であったが、その当時の社長はタイタニックで生き残ったブルース・イズメイ社長の父ヘンりー・イズメイであった。

梵我一如(445)
 「ウパニシャッド」に特徴的な思惟の傾向の一つは、かんたんにいうならば、「きわめて多様でかぎりなく変化しつづける現象世界には、唯一の不変な実体がその本質として存在し、それは人間の個体の本質と同一である」ということになる。この思想は、しばしば「梵我一如」とよばれている。すなわち、その現象世界の本質は多くプラフマン(梵〉、また個体の本質はアートマン(我〉とよばれ、その一体化がめざされた。このような人聞をふくめた現象世界内部の不変の本質、唯一不ニの絶対者の追求および一体化が「ウパニシャツド」の重要なテーマであった。

本覚思想(378)
 本覚思想とは平安時代の半ばごろから室町期にかけて、比叡山を中心に発達した独自の思潮である。主として天台宗で展開された思想である。…仏教では人間が到達すべき究極の理想を仏に求める。仏とは救済主であると同時に、みずからがそうなるべき最終的な目標であった。…本覚思想の場合、仏を最終的な到達目標とするそれまでの伝統仏教の立場とは違って、仏とあるがままの人間を初めから完全に一体化して捉えるところに特色があった。人間は本来仏なのであり、人はそれに気づいていないだけにすぎない。だから仏になるためには難しい修行は一切必要ない。自分が仏であることを自覚すればよいのだ。煩悩に覆われた人間がそのまま仏であるとする本覚思想にとって、真に重要なものは学問や修行よりも、仏としての自己の本性を自覚するために詳細に心を観察すること=「観心」だった。この本覚思想の発想方法はやがて天台宗の枠を超えて、中世の思想と文化に広く影響を及ぼしていくのである。


本願誇り(497)
 東国門徒内部に起った奥義対立と、それから生じた暗闘の問題であった。教勢の広まるにつれて、面授の門弟たちはそれぞれ道場と称するものをつくって布教に努めているが、そこにはおのずから小教団の対立が生れ、ときには信徒の争奪に憂身をやつすようなこともあったらしい。また小教団の続出には、当然奥義、邪義の発生する隙も生れる。難しい言葉でいうと、造悪無碍、緒神仏の否定、いうところの本願誇りと呼ばれるものである。造悪無碍ということは、「愚痴無智」の農民などを主として対象に愚人正機、悪人正機、ひたすら念仏往生の他力易行道を説くとき、なんとしても免れ難く発生する邪義であり、消息の中でも親鸞はいくどかくりかえしこのことを信徒たちに戒めている。

本質剥離(110)
 トインビー「宗教の本質と付属物とを注意深く識別し、引き剥がすこと。剥離された本 質を他文明に移植するためである。高度宗教の本質はどの文明にでも伝播しうる普遍性、 つまり世界性をもっているが、付属物の方はその文明にしか妥当しない、特殊なもので、 他の文明には不必要なものである。」日本へのキリスト教は本質剥離のないまま移植され たもので、多くの場合、日本人のキリスト教感はその本質ではなく、剥離されていない付 属物への愛着であったりする。

本生話(143)  
 ほんじょうわ。永遠に転生するのが輪廻であり、菩薩行によってこれから解脱した境地 が涅槃である。釈尊はブッダガヤで悟りを開きクシナガラで成道して仏陀になったから、 それ以前は他の人と同じように輪廻転生していたことになる。この釈尊の前世の説話が本生話。

ポンタック(97)
 16世紀にシャトー・オー・ブリヨンの名を高まらせたのがジャン・ド・ポンタック。 そのころオー・ブリヨンはポンタックのワインとして売られていた。18世紀にこのシャ トーを買ったのがタレイラン。このような古い歴史をもちながらオー・ブリヨンは、ボル ドーで最初に木樽からステンレスタンクの優秀性を発見したシャトーとなった。木樽はワ インに揮発性の酸味を帯びさせるのである。

本地垂迹(177)  
 日本の在地の神、それはもともとインドの仏・菩薩が日本人を救済しようと、神の姿を とって降り立ったという思想。

梵天(143)  
 ブラフマー。世界創造の根源をさす非物質的な無始無終の絶対原理。この抽象概念に人 格を与えたのが、世界創造神としての梵天。仏教以前にバラモン、ヒンドゥーの神でもあ る。

梵天勧請(143)  
 釈迦の悟りは自らのためであったから、人に説法することは考えていなかった。これに梵天が三度釈迦に説法を進め、ようやく決意して釈迦は衆生済度の決意をして席を立った。

ポントルモ(441)
…来るべき時代がいかなる時代であるかを、予感していたポントルモの絵にまず動揺、不安、見捨てられているという感情、<寄るべなさ>が、すべての部分の調和、均斉、節度、円、整合的な中心というアルベルティ風のルネッサンスの完全性の理想を敵に回していわば「登場」(ホッケ「迷宮としての世界』)してきたのである。…「キリストの降架」この絵には三次元的空間を暗示するものはいっさい描かれていない。左上の一片の雲を除いて背景は消え、何人もの人体が層を成して上へ上へと積み重ねられ、ほとんど画面全体を埋めつくしている。…空想的で孤独でメランコリックで人間嫌いのポントルモは、梯子を使ってアトリエに入り、入った後は他人が入ってこられないように悌子を引き上げてしまったといわれる。

本能を甘やかす(368)
 論理による分析よりも、本能や直感へ沈潜する思想のほうが深いという了解がしばしば暗黙になされている。人間の生まれ持った自然の本性を肯定するロマン主義的思想は、直感的に心地よく、本能に受け入れやすいゆえに、それこそ本能的に深いと思い込まれやすい。しかしラッセルによればそれは錯覚であり、怠慢だ。本能を甘やかすところからは、保守的かつ退行的な姿勢しか生み出せず、環境の変化に追いつけないのだ。

凡夫往生(542)
 『観経硫』における古今指定の基本的立場がほぼ明らかとなる。まず、ここで善導がもっとも力を注いで強調しているのは、凡夫すなわち一般の凡庸な人々がすべて阿弥陀仏の浄土に往生できるということである。
  (1)序説において釈尊・阿弥陀仏の二尊一致による凡夫往生を示し、
  (5)定着と散善の箇所では未来のすべての凡夫のために散善の教えが説かれたとし、
  (6)経典と論書との相違の釈明では、九品のすべてが凡夫であり(いわゆる九品唯凡〉、世尊の教えが「定んで凡夫のためにして聖人のためにせず」ということ(いわゆる唯為凡夫)を詳細に論じている。のみならず、その箇所では引続いて阿弥陀仏の身土がすぐれて高い報身・報土であることを論じて、凡夫が往生するのはまさしく報土であること(いわゆる凡入報土)を明説している。こうした善導の主張は、古今の諸師とは大きく違っている。


本間中将(559)
日本国民はアメリカがかつて敵だったことをすみやかに忘れたが、マッカーサーはフィリピンのパターン攻略戦で撤退に追い込まれた屈辱をけっして忘れてはいなかった。とくに彼を破った本間雅晴中将に対しては、43もの罪状を挙げ容赦なく銃殺刑を科した。処刑の日時は昭和21年4月3日午前O時53分、ちょうど4年前にパターン第二次攻撃を本間中将が命じたその日、その時刻を選ぶという念の入りょうである。本間は刑の執行を前に次のように語ったという。
「私はパターンにおける一連の責任を取って殺される。私が知りたいのは、広島や長崎の無辜の市民の死はいったい誰の責任なのか、という事だ。それはマッカーサーなのか、トルーマンなのか」



【語彙の森】