語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-10-30 計162語
新着語
風呂饗応、ブリュンの僧院長、ファント・ホッフ係数、負のエントロピーを食べる、藤白王子神社、仏教がキリスト教よりもすぐれているのは、プシュケー、ブレンナー・ポスト、プロイセン人は愚か、フィリッポ・ネリ、ブチントロ、

ファインダー(313)植田正治
 ファインダーに目を押し当てて、大自然のなかにのめり込んだ゙とき、押し寄せる波涛は、遥か水平の彼方から私の心の中までひたひたと押し寄せてきます。流れ去る白い雲は、大気の輝きを伝えて、私は私だけの世界に佇むことができるのです。人物に対した時だって、対話はすべてファインダーの中にのみあるのです。

ファカリティー(198)

ファクターX(246)
 まずファクター10は資源生産性に関する長期的目標であり、「持続可能な社会を実現するためには、2050年までに資源利用を1990年の50%にすることが必要。人類の20%を占める先進国が大部分の資源消費をしており、先進国だけで資源消費を減少させるとしたら先進国において、この期間で資源生産性を10倍にしなければならない。短期的目標としては別定義のファクター4がある。

 ■ファコマート(61)  
 M2かM3を持っていて、今度のM4の改良点が自分の撮影にどうしても必要であると 思う人以外は、もしその人がファコマート引伸機をもっていないのならば、M4よりファ コマートを購入する方がライカの性能を発揮できることになる。

ファシズム(213) P.182
 …見ていて一番かわいらしかったのは少年隊である。幼稚園くらいの小さい子供たちが、いかにも楽しそうに、ファッーショ、ファッーショという号令にあわせて歩調を取っていた。教育が根本だというところにムッソリーニは眼をつけているらしい。ファッショの語源は?

ファシズムの原理(456)p.317
 「ファシズムにおいて、世界とは、表面に現れるこの物質的世界ではない。個人は他のすべての人と分離・孤立して、本能的に一時的・私利的な快楽を追う生活をいとなむところの自然法則にしばられた物質的存在ではない。ファシズムにおいては、国民を成し、国家をなすところの個人である。伝統と使命とによって、個人は時代と結びつけられ、おのずから道徳的法則を体現する。個人は自己を没却し、その利益を犠牲にし、ついには死によってはじめて人間としての価値をあらわすところの、全く精神的な存在となるのである。ムッソリーニは『ファシズムの原理』の中でそう言っている。いや、ムッソリーニが到達したこの思考は、ほかならぬ日本の武士道が、そして立正安国の宗教が、培ってきた思弁ではなかったか。

ファチマ大予言(15)  
 リスボンの北西150kmにある町、コインブラより南。1917年この村の子ども達 (ルチア・ペトロ・ヤシンタ)の前にマリアが出現し太陽の奇跡を示すとともに3つの予 言を与えた。     
   第一の予言…第一次世界大戦の終結。     
   第二の予言…第二次世界対戦の勃発と核の使用。     
   第三の予言…未だローマ法王によって封印されたままとなっている。
(AZTAKさんからの情報)2001-8-19
DICTIONARYにファティマの預言の第3部は不明との記述がありましたが、これは既に公表されています。教皇庁発表によるファティマ「第三の秘密」に関する最終公文書である「ファティマ  第三の秘密」という本があります。その紹介文です。預言の第三部は長らく秘密にされてきましたが、これを教皇庁は、1981年に起きた教皇ヨハネ・パウロ二世狙撃事件を指すものであり、成し遂げられたと解釈し、2000年についに公表がなされました。 本書は、公表に至る過程や教皇庁の考え方も収録された、カトリック教会唯一の公式文書です。


フアニータ(NHK 01-1-4)
 マヤの遺跡から発見された氷漬けのミイラ。15歳で山の神に捧げられた少女、フアニータである。

ファーブル・デグランチーヌ(523)
新しい信仰にさきだって新しい合理的な暦がつくられねばならぬ。九月二十日、共和国建国の一周年の前日、公会にロムが共和暦を提案、十月五日に採択された。新しい暦の紀元はキリスト紀元ではなく、フランス紀元、共和国建国の1792年が紀元第一年となる。1ケ月はみな三十日、十日目ごとを休日にして、日曜日は廃止。月の名だけがうまくない。合理的にすぎて想像力にうったえる点にとぼしく、民衆にはなじみにくい。そこで、ファーブル・デグランチーヌが助け舟を出す。自然と人間の営みに従った美しい名が、月にあたえられる。9月からヴァンデミエール(ぶどう月)、ブリュメール(霧月)、フリメール(霜月)…

ファボナーティ拡張(79)
 1:1.618。この比が黄金率。数字を順に前の二つの数字を加算して並べる。この数 列の前後を割算すると全て1.618となる。これが黄金率による周期性の延長による衰 退を象徴している。これがファボナーティ拡張。(またはファボナッチ数列)   

ファラミアの人柄(273)指輪物語
 ヘネス・アヌンにて…「ゴンドールの大将、ファラミアがその人柄を示す機会とはな!」…「…人間を危うくする物をたずさえて、遥かな国からやって来た、そなたたち二人の不思議な旅人によってな!だがそなたたちが人間を見る目はわたしが小さき人たちを見る目より劣るな。われらは嘘はつかぬ。…われらはめったに大言壮語を吐くことなく最後までなしとげるか、あるいはその途中で死ぬか、どっちかだ。「道端に転がっていようと、それを取ろうと思わない」とわたしはいった。たとえわたしがこの品をほしいと思うような人間であろうと、…」

ファルサルスの戦い(135)
 共和制派ポンペイウスをカエサルが打ち破り、事実上の帝政が始まるきっかけとなった 戦い。アテネからメテオラ修道院に行くとき、原野の只中の乗り換え駅はパレオ・ファル サルスという駅名だった。まさにあの原野で歴史的戦いが行われた。

■ファル・ニエンテ(無為)(303)ヘルマン・ヘッセ
…何時間ものあいだ休息を続け、一見つまらない事物に注意を集中しつづける能力を得たのである。これを通じて現象の多様性に対する私の驚嘆がつのるのと同時に、自分自身を完全に忘却することができて、私の心は落ち着いた。これによって、決して退屈することのない、治療効果をもった「ファル・ニエンテ(無為)」が確立されたのであった。これが始まりなのであった。意識的な生活を脱却して、芸術家にとってほんとうに不可欠なものであるのに到達しにくい、ひとときの自己忘却の状態に沈潜するためには、他の人々は、私と違った方法を選ぶことであろう。

ファンタム・リム(195)  
 幻肢。足を失ったのにもかかわらず、その「無い足」が痛んだり、痒みを感じる現象。 脳は視覚的な世界地図と、触覚的な身体地図を持っている。足を失っても、この地図が残存するために起こる。

ファント・ホッフ係数(555)
 われわれが考えている分子の或る部分にたまたま振動エネルギーの偶然な揺らぎによって配列状態の異性体的変化が起こることは十分稀な出来事であって、これが自発的に起こる突然変異であるとの解釈が成り立つように思われます。このようにして量子力学の原理そのものによって、突然変異に関する最も驚くべき事実、すなわち突然変異は「飛躍的」な変異であって、中間形が生ずることはないということが説明されているのです。
…突然変異を起こす頻度が温度の上昇とともに増す増し方が一層目立ってくることを意味します。(この比の実際の値はおよそ二分の一と五分の一との間にあります。その逆数の二および五という数は、普通の化学反応でファント・ホッフ係数と呼ばれているものです。)(温度を摂氏10度上げると反応速度が2倍ないし5倍になるということ…訳者註。)


フィチーノ(187)  
 コジモ・ディ・メディチの庇護によってプラントン・アカデミーを創立する。プラトン を注釈し、ヘルメス文書、偽ディオニシオスを翻訳し、さらにアラビア科学にも関心を持 ち、ルネッサンスの思想的シンクレティズムの発端とった。マルシリオ・フィチーノ(1 433〜1499)。

フィアカー・ミリ(120)  
 19世紀ウイーンの庶民の舞踏会はそれぞれの職業別に行われた。特にフィアカー(御 者)と洗濯女が集まる舞踏会はその猥雑さで人気となり、その中で歌う人気者となったの がフィアカー・ミリ。

フイッシャーの貨幣数量説(492)
 貨幣数量説は、一国の貨幣の価値は貨幣の数量によって左右されると考える。もっとも単純な貨幣数量説はフィッシャーの貨幣数量説といわれているものであって、[PT=MV]で示される。この場合Pは一般物価水準であり、Tは取引量であり、Vは貨幣の流通速度であり、Mは貨幣数量である。つまり財の取引総額とそれに支払われた貨幣の額とは等しくなる。同じ貨幣が何回も回転するから、その流通速度をVとし、貨幣量、がMならば、それはMVになる。これはいかなる取引においても妥当する。この恒等的な関係から貨幣数量説は、財の取引数量と貨幣の流通速度に変化のない限り、物価水準Pは貨幣の数量Mに依存すると考える。
今日再び復活しつつある、フリードマンによって代表される貨幣数量説は、より複雑な形をとっているけれども、結局はこの貨幣の数量が物価水準を決定するという理論である。こうした貨幣価値論をもっていたがゆえに、財の価格決定理論、あるいは需給決定の理論とは無関係に、「物価水準は貨幣数量によって決まる」という信念が新古典派の学者のなかにはあった。


フィッツロイ艦長(105)
 ダーウィンを乗せたビーグル号の艦長。フィッツロイの伯父カッスルリー卿はパラノイ ア的になりかみそり自殺した。さらにフィッツロイの前の艦長も航海中に神経衰弱になり 自殺してしまう。よってフィッツロイは自分が自殺するのではないかという強い強迫観念 を持っており、ビーグル号の探検航海に当たって、気分を紛らわせるための私的な話し相 手としてダーウィンを選んだ。よって伝説のようにダーウィンはビーグル号の公式の博物 学者ではなかった。

フィディアス(280)ル・コルビジュ
 それは純粋な発明、一人の人間のものなるがゆえに個性的である。フィディアスはパルテノンをつくった。情熱、慈悲、魂の偉大さ、ひの他の徳が、刳り型の幾何学の中に刻みこまれ、正確な関係に組み込まれた量となっている。パルテノンはフィディアスがつくったのである。この大彫刻家フィディアス。

フィニス・テラーエ(387)
 ヨーロッパ大陸の極西部、「原初の海」との境域という日常的生活圏の周縁部に位置したサンティアゴの聖性を強化したのは、「地の果て(フィニス・テラーエ)」のメタファーでぁる。「地の果て」は、日没に象徴される宇宙的な生と死の舞台、その死が翌日の黎明とともに蘇生する奇跡顕現の場所、換言すれば生と死、精神と肉体、天と地が一体化し、宇宙ないし異界へとつながる「永遠の救済の地」、「聖なる中心点」であった。「永遠の救済の地」にして「聖なる中心点」には、聖性の可視的表象として聖ヤコブの遺骸が安置されており、それが後述する聖ヤコブにまつわる奇跡講や、異教ないし異端的習俗、ユートピア思想と一体化して、サンティアゴの聖性と聖ヤコブ崇敬をいっそう強化したのであった。

フィニステーリャ(388)
 「私はこれからどうやって歩いていったらいいの? あの黄色い矢印なしに……」
 フィニステーリャは名前の通り、ヨーロッパ大陸の西の果てにあった。岬の先端まで行き、私は杖と靴を、海へと投げた。そして枯れ枝を集めて火を焚き、巡礼中に着ていた衣棋などを焼いた。私は最後にこの巡礼のきっかけとなった小説『星の巡礼』を火の上に置いた。


フィリッポ・ネリ(532)
 フィリッポ・ネリ(オラトリオ会の創設者)は、1515年フィレンツェに生まれたが、子供のころから豊かな天分をもった従順なかつ品行のよい少年としてきこえている。彼を中心にまた若い人たちが道徳的な活動と敬神とのために集合し、貧しい人々の悲しをみたり、病める人たちを看護したりするのに倦むことを知らなかった。
 生前よりもさらに多くの奇蹟がつき纏っていたところの彼の死去の後、まもなく人々が法王クレメンス八世に審理、すなわち叙聖式に先んじて行われるいわゆるプロツェスを始めてよいかどうかを尋ねたとき、法王はこう答えた。「余は彼を常に聖者として考えていた。ゆえに、教会が一般信徒に彼をかかるものとして布告しかつ紹介する場合、それに何らの異議も唱えることはできない。」
<ウィキペディア>より
 オラトリオ会は、修道会ではない。修道会は、修道者が上長の修道院長に絶対服従する会則をもっている。これに対して、オラトリオ会は、司祭と信徒のキリストへの愛徳により結ばれた共同体である。そこでは、重要事項は全員の決議一致によって決められる。フィリッポ・ネリは、このオラトリオ会で歌う聖歌を、信徒であり、当時高名な作曲家であったジョヴァンニ・ダ・パレストリーナに依頼した。ここから、聖歌の一形式であるオラトリオが生まれた。
 最晩年に、フィリッポ・ネリは、国際政治にかかわることとなる。 フランス国王アンリ4世は、ユグノーからカトリックへの改宗を、教皇庁に対して希望した。 教皇庁は、以前にも改宗を繰り返したアンリ4世の申し出を信頼できず、改宗問題は暗礁に乗り上げた。 このとき、フィリッポ・ネリは、フランス側の依頼で、教皇庁に助言を行い、足掛け5年の交渉の中で、アンリ4世の改宗は最終的に認められた。 これによって、アンリ4世は、有名なナントの勅令を出し、カトリック教国フランス国王としての地位を確立するとともに、信教の自由を国内に認めるのである。


フィリーペ二世(185)  
 スペイン・ハプスブルグの絶頂期に全カトリック世界の絶対君主として、アルマーダ( 無敵艦隊)の最高司令官、エル・エスコリアルの主であった。しかしプラハのルドルフ二 世の伯父にして、ボッシュの「悦楽の園」の所有者、修道僧のような黒服で質素に彼岸を 夢想する孤独者でもあった。

フィルネスの谷(14)  
 1944年、ラインホルト・メスナーが生まれたチロルの村。  もしも心の奥底でパラダイスを信ずるか、期待するならば、フィルネスこそパラダイス である。ここではありとあらゆる色彩が輝き、空気は水晶のように澄み切り、水は濁りな く味わい深い。…ガイスラーシュピッツェンの巨大な連峰は挑むかのよう迫っている。こ こでは何もかもが平安で、簡素である。(地図で何度も探しているが見つからない。本の 中の一枚のモノクロ写真が目に焼き付いている。)

フィロキセラ(47)(97)
 アメリカ大陸からもたらされたぶどう根あぶら虫。15世紀以降何度もにフランスのワイ ン産地を襲った疫病で、農民たちは駆虫祈願の苦行を行ったと言われる。19世紀末に再 び襲われ、ブルゴーニュの作付け面積は1/3に減少したが、ロマネ・コンティは被害に あわなかった。そのロマネ・コンティにしても、第二次世界大戦の疲弊で、古い株は掘り 起こされ、新しい株に接ぎ木された。だから1945年から1952年のロマネ・コンテ ィは存在しない。  アメリカ産のヴィティス・ラブルスカの根株にヨーロッパのヴィティス・ヴィニフィラ の枝を接ぎ木することで、この災害を乗り切ることができた。

ヴィンドボーナ(533)
 ここには旧石器時代から人類が住んでいた。紀元前400年ごろからケルト人が住み、のちにローマの軍隊によって占領され、紀元1世紀にローマはここにドーナウ防衛線の東北辺の守りを固める。ラテン語でヴィンドボーナといわれ、これからウィーンの地名が由来する。ローマが敗退したあと、ゲルマンの血とハンガリーの血がここで混ざり合う。9世紀にはいくつかの古い教会が建てられ、12世紀には現在のリング通り上の城壁が町を囲ってつくられた。1276年ハープ久ブルク家の居城、神聖ローマ帝国首都となった。
1529年と1683年に圧倒的なトルコ軍の包囲を受けるが、ついに町を守り通したのである。東洋との激烈な対決に、このとき西欧は勝利をおさめたのであった。


フィンブレシル(272)指輪物語
 ファンゴルン「その頃はエント娘がおったよ、あーあ!フィンブレシル、足取り軽きたおやかなぶな娘の愛らしさ!わしらの若い頃じゃが−−エントたちとエント女たちはともに歩き、ともに歩き、ともに住まっていた。ところがわしらの心は同じふうには育っていかなかった。…何故ならエントたちは大木を愛し、原始の森を愛し、高い山々の斜面を愛し、そして山を流れる水を飲み、…だがエント女たちはもっと小さな木や、森の麓のかなたに広がる日当たりのよい牧場に心を向けた。」

ブーヴィーヌの戦い(494)
 大国フランスの誕生である。ブーヴィーヌの戦いは、フランス王の地位を確立した同記念碑的事件といえる。まずはプランタジュネ家との長きにわたる抗争が、カペー家の勝利で確定した。1214年、フイリップ二世はシノンで五年間の休戦を約して、ジャンに向けた矛を収めるととにした。「アンジュー帝国」の諸領邦をフランスの領邦をあらかた奪われて、歴史に「失地王と呼ばれざるをえなくなっても、反撃を狙うとか、報復を誓うとか、そんな余裕は金輪際ジャンにはなかった。最後に残された王冠付きの島国に逃れて、ますます「イングランド王ジョン」になるしかなくなっているのに、この国でも戦費を賄うための重税が恨まれ、あげくに有名な「マグナ・カルタ」を呑まされたからである。

フェイルセーフ(299)
 Fail to safe sideのことで、異常が発生したり、故障したりするときは安全側になるように故障すること。フールプルーフは非正常な誤使用が行われても、安全であること。

フェデリコ・ボレル・ガルシア(403)
 撮られた位置が被写体の斜め前という絶好のポジションであること、二枚の写真の背景が同一であるにもかかわらず、一枚目にはくっきりと写る影が、一瞬あとの二枚目にはほとんどないことなどからキャパのヤラセ説がささやかれることになったのである。しかし、写真が撮影されてから60年たった1996年に、ここに写っている兵士の名前がスペインの歴史家の手で明らかにされた。兵士はフェデリコ・ボレル・ガルシアといい、彼が亡くなった場所と時間が、キャパがこの写真を撮ったものと一致することが遺族によって証明された。ただ、これによってもヤラセ説が完全に払拭されたわけではない。

フェムト秒レーザ(テクノインフォ2003-no.21)
 1フェムト秒とは千兆分の1秒のことで、その一瞬の間には、光でさえウイルスの大きさほどの距離しか進まない。フェムト秒レーザを時間軸上で見ると、この一瞬だけ光るパルスが一定の間隔で現れるが、フーリエ変換して光周波数軸で見直すと、光コム(櫛)と呼ばれる鋭い櫛の歯状の周波数成分(モード)が広がっている。距離を測定するには、レーザを対象物に照射し、戻ってきた光を光検出器で受ける。すると電気信号に変換される過程でモード同士のビート(うなり)により電波領域に多数の波ができる。そのひとつを物差しとして利用し、波の数と位相を測って距離を求めるのが、「フェムト秒コム距離計」の原理である。

フェニーチェ座(335)
 不死鳥座の意。商業都市ヴェネツィアは1637年に世界初の公衆のための歌劇場を持って、<祝祭オペラ>を誕生させ、17世紀末までに、人口12万5千人の街に17の歌劇場を有する世界に冠たるオペラ都市となっていた。2年かけて1752年に完成したフェニーチェ座は、ヴェルディの作品でも、<リゴレット><エルナーニ><トラヴィアータ><シモン・ボッカネグラ>を初演している。作曲を始めてから僅か2ケ月足らずで完成したトラヴィアータの初演は惨憺たる失敗に終わった。1836年に火災を起こして再建されたが、1996年に再び火災を起こし、ヴェルディ当時の美麗な内装のすべてを消失した。そして今また蘇ったからまさにフェニーチェである。

 ■フェリックス(151)  
 カエサルの出現する前の元老院体制の混迷期に現れたスッラは、旧体制維持のために独 裁者として制度改革を行うが、それがなったと判断したとき私財を貯めこむことなく身を 引いた。みずからを「幸運に恵まれた者」(フェリックス)と名乗った。

フェルゼンネスト(513)
 ヒトラーは西方戦役開戦に先立ち、戦線近傍へ進出して、この戦いを指導した。その場所は「フェルゼンネスト(岩壁の巣)」とよばれ、オランダ・ベルギー国境から48キロのアイフェル山中にあった。…じつはポーランド戦当時、ヒトラーは特別列車で戦争を指導していた。これでは不便なことは明らかで、ポーランド戦後すぐに本営建設の準備が開始されたのである。
「フェルゼンネスト」は、のちにヒトラーがほとんど「住む」ことになる「ヴォルフスシャンツェ」にくらべると、かわいいといってもいいくらい、ちっぽけなものであった。丘をまるまるひとつといっても、その広きはせいぜい数百メートル四方でしかなかった。警備施設も厳重というほどではなく、周囲が有刺鉄線でかこまれ、ところどころにもうけられた木造の監視塔が、梢の上からあたりを暁んでいただけだった。


フェルマータ(65)
 Fermata。ローマ市内バスのバス停の看板表示。深夜バスはノットゥルノ(Nottur no)と表示してあるというからオシャレだ。

フェルマーの最終定理(357)
 『算術』 には百を超える問題が含まれ、ディオファントスはその一つ一つに詳しい解答をつけていた。しかしこういう良心的なやり方はフェルマーの流儀ではなかった。フェルマーは、来るべき世代のために教科書を書こうなどとは思いもしなかったにちがいない。彼は問題が解けたという満足感が欲しいだけだったのだ。フェルマーは、ディオファントスの問題と解答を研究するうちにもっと難しい問題を思いつき、そちらに取り組むこともあった。そんなとき彼は、解法を発見したと走り書きをするのだが、証明そのものをわざわざ書くことはしなかった。
 その余白のメモとして、フェルマーは「Xn+Yn=Zn n=3,4,5…を満たす整数解は存在しない」「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」と書き残した。


フォクトレンダー・スパーブ(101)
 キャパが1931年、最初に手に入れたカメラ。6×9形折り畳みフォクトレンダー。 友人の亡命芸術家ケペシュから無期限に貸与を受けた。たぶんスパーブという機種。

フォクトレンダー全金属カメラ(287)
 旋盤加工だけでレンズの光軸を出すと同時に、これに垂直に感光材料面の支持面を作ることもできる。その代表的なものがフォクトレンダーの全金属製カメラだ。このカメラはなにも奇をてらって円錐と円筒の組み合わせという独特の外形スタイリングにしたのではない。19世紀なかばにはオーストリアにはまだ信頼できるフライス盤がなく、カメラボディーを旋盤加工だけで仕上げるためにほかならない。

フォセアオ人(523)
 まもなく、マルセイユの人々が出発を要求するだろう。彼らは祖先フォセアエの人々の誓いを新たにする。石を海に投げ、もし勝利者とならないならば、この石が浮きあがる日にしかもどってくるまいと彼らは誓うだろう。(マルセイユの起源はイオニアの古代都市でフォセアエの植民地。フォセアエ人は、ペルシャに攻められ、この誓いをたて本国を捨てた。)

フォレスト・ロー(26)
 御猟林法。ノルマンの征服王ウイリアム一世が1066年にイギリスを版図に収めると、 王の狩り場を保護するために作った法。14世紀には68のフォレストが存在、国土の1 /5が指定されていたとも言われる。

フォルマント(292)
 音声の音韻性は音道の共鳴特性によって特徴づけられるのだが、サウンド・スペクトログラフとはその共鳴特性を分析することができるもので、この機械に音声を入力すると、音道の共鳴によってエネルギーが集中した部分(フォルマント)を見ることができ、逆にフォルマントのパターンをパターン・ブレイバックに入力すると音声が合成されるというものだった。

フォントネー(261)
 ブルゴーニュのフォントネーは、現存する最古のシトー会僧院建築だ。…一切の装飾性を拒絶するとどうなるか。建物自信で意志を表明できたのだ。端正な合理主義。結晶体に似た明快性が露出するようになる。…フォントネーもル・トロネも建築様式は完璧なロマネスクだが、抽象的な美しさを発見した以上、その精神はすでにゴチックのものと見てよいだろう。

不確定性原理(242)p.153
 世界を決定論的に記述することが出来ない根拠となる。ハイゼンベルグは粒子の「位置の不確かさ」と「速度の不確かさ」と「質量」を掛けたものがプランク定数よりも小さくなることはないと言っている。このことは「粒子の位置と速度が同時に正確に決定していることは決してない」ということであって、粒子の位置を測定すると、その過程で外的影響を与え、速度が変わって位置も分からなくなるというような説明は誤りである。

不可逆性(322)
 平衡状態の確率は、分子間の衝突の詳細によらず、また外界との接触の詳細にも依存せずに、単に温度とエネルギーで決まる。そして揺らぎは平均値の周りで揺らいでいるだけで、揺らぎが成長して、別のマクロな状態になる、ということもない。分子レベルでは、衝突を繰り返して複雑な運動をしているが、その確率は非常に安定している。
 結局、マクロな系は平衡状態に向かおうとする傾向を持つ。これを不可逆性と呼ぶ。熱力学においては、不可逆性を法則として予め前提とかる。不可逆性とは、マクロな系の状態には時間的な順序がある、ということである。


不可知論(477)
 他の人々は、ある種の「霊知」に到達したと確信していました。−多かれ少なかれ、存在の問題を解決したというのです。しかし私は、自分がその問題を解決していないことを確信し、この問題が解決不能であるというかなり強い確信をもっていました。そして、私と同じ立場に立つヒュームやカントとともに、その意見を固守するのが僭越だとは思えなかったのです。そこで私(ハクスリー)は、熟考し、それにふさわしいと思う「不可知論(agnostic)」という呼び名を考えだしたのです。
…。知識人に関しては、その他一切のことを考慮せずに、それが連れていってくれるぎりぎりのところまであなたの理性に従いなさい。否定的に言えば、知識人に関しては、実証されていない、あるいは実証可能でない結論を確かなものであるように偽ってはならないということです。私が不可知論的な信仰とみなしているものは、もし、ある人間がそれを無傷なまま、汚さないままでもちつづければ、どんな未来が待ち受けているにせよ、何恥じることなく世界を直視することができるということです。


フーガの技法(75)  
 朝比奈隆と大阪フィルとのブルックナーの<五番>を聴きながら「もしバッハがフーガ の技法を完成させオーケストレーションしたらこうなるのではないか?」と感じた。

福祉の女王(401)
 ウェルフェア・クイーン(福祉の女王)。なぜ、クイーン″なのかと言えば、ニューディール政策当時に創設された多くの福祉制度のうち、この時代に残っていた主なものが子供を持つ片親世帯への支援制度(AFDC)で、受給者の大多数が女性だったからだ。しかも、片親であることが受給資格で、育てる子供が増えるほど受給額が多くなったから、貧しい女性は結婚して家庭を築くより、シングルマザーのまま子供を次々と産んでいった方が確実な収入が得られるという事態になったのである。受給額は低賃金の労働者よりは高かったから、福祉が依存心を生んで貧困を再生産しているという批判が出てきた。

服従(290)
 フーコーによると、この服従者である囚人こそが近代的主体のモデルになっている。囚人は、看守が自分をどのように見ているかを知るためには、看守の立場に立って自分を見なければならず、こうした自己監視を通じて近代的主体が生成されるからである。こうして服従が主体性に転化するという逆説が生れる。…服従という形式は、自立的な個人を確立する上で必要であった。

不屈の自信(260)
 シャクルトンは、普通の人間ではなかった。彼は自分の無敵を心から信じており、挫折するとしたらそれは、自分に能力がないせいだと考えていた。普通の人間から見れば理にかなった慎重な行動が、シャクルトンにとっては失敗する可能性をあらかじめ認めている恥ずべき行為に映じた。
 だが同時に、この圧倒的な自信の因である、基本的なうぬぼれの強さのために、彼は時折、現実を見誤ることがあった。かれは無言のうちに、周囲の者もまた、自分と同じように楽観的であることを強要した。


 ■袋詰めの太陽(97)
 補糖は適切に行われれば、ワインのボリュームを出すうえで有効だが、往々にしてブル ゴーニュではこれが過剰で、袋詰めの太陽と皮肉られる。ブルゴーニュは無理に手をかけ なければボルドーより軽く仕上がるが、ブルゴーニュは重いという買付け人の予断によっ て、この悪弊が残っている。

不作為の責任(115)  
 東京裁判で、A級戦犯、松井石根が問われた罪。違反行為阻止怠慢。1936年の南京事件時、陸軍中支方面軍司令官として、南京攻略を指揮、陸軍刑法に示す「戦地又は帝国軍の占領地において住民の財物を略奪したものは一年以上の有期懲役に処す。前項の罪を 犯すにあたり婦女を強姦したるときは無期または7年以上の懲役に処す」を守りうる体制を作らず、むしろこれら暴虐行為を支那膺懲として容認した。

藤白王子神社(545)
 この三葛丘から熊野街道に沿って五キロほど南に下ったところに、熊野九十九王子の一つ藤白王子神社があり、南方家は代々この藤白王子神社の祠官から「藤」「楠」「熊」のうちの一字を授かって子にけていたのである。「熊楠」という名がそこから組み合わされたものであることは言うまでもない。本来は一字であるところを熊楠だけがニ字授かったのは、どうやら彼が虚弱児として生まれたことに理由があるようだ。
 こうしたそれぞれの文字の由来を考えてみると、「藤」はもちろん藤白王子神社から、そして「熊」は熊野権現の名からとられており、「楠」は後述する藤白王子神社境内の楠の大木に由来するものであった。熊野の「熊」 は、もともとは「隈」と書くべきであるようだが、神武東征の際にこの地の神が熊の姿であらわれたという『古事記』の記述などから「熊」の字が用いられるようである。また、「楠」については、楠の大樹を神として見る信仰から生まれたものであった。


プシュケー(431)
 アリストテレスの心理学乃至霊魂論は、何故、特に人間論とされずに自然学の中に位置づけられるのであろうか。それについては、霊魂または心理と訳されたギリシア語及びそれに当たるラテン語について、若干の説明をしなければならない。…もともとプシュケーは英語読みをすればサイキであり、一般に近世ヨーロッパでは、心ないしは魂と理解されてしまっていた。しかし、ギリシア語に於けるプシュケーは何か。ホメロスの詩を読めば、プシュケーは、人が死ぬ際に、その口から最後の息とともに飛び去る人の形をした透明な霊魂であり、ハデス(冥界)に去ってそこに彷徨う実体であった。しかし、その後、このプシュケーについての思想が深まるにつれて、それは気息よりも生命であると解されて釆た。しかし、プシュケーが生命であるとすれば、それは、また人間の最も人間らしい生命としての精神的生の主体たる霊魂ということになり、そして他の生物の場合のプシュケーとはただの生命である、ということになるであろう。

プシュケー(536)
 「蝶」といえば、霊魂を意味するギリシア語の「プシュケー」が、もともとその蝶を意味していたということを思いおこす。神話に登場するプシュケーは、キューピッドに愛された、蝶の羽をもっ美少女として姿をあらわす。蝶は霊魂の権化とされていたのである。わが国でも、蝶の大量発生を怪異とする伝承が、中世の歴史書である『吾妻鏡』などに語られている。蝶を精霊の化生したものとして畏れかしこむ心意を、それは伝えている。それというのも蝶の生態が、幼虫からさなぎへ、さらに羽化して飛び立つというところから、羽化すなわち変化の霊物とみなされるにいたったためであろう。

浮上(309)
 18世紀に入ると、ポルトガルでブラジル人のバルトロメウ・グスマンという僧職者が、童話に登場しそうなものにより、ともかく地上から少し浮上したのである。次に最初に完全な形で浮力を得て空を飛んだのは、フランスのモンゴルフィエ兄弟の1783年の熱気球だった。また1901年、ブラジル人のサントス・デュモンは動力つきの気球でエッフェル塔の周回飛行に成功する。ブラジルでは、これを世界最初の飛行として認め、この国の教科書にはライト兄弟などには触れられない。

ブストロフェドン(80)  
 ヒエログリフで1行ごとに読む方向が違う表記法を牛が畑を耕すときの動きに似ている ことから、ブストロフェドンと名付けた。通常のヒエログリフは右から左へ読むが、人や動物があった場合は顔の向いている方が文頭。さらに文章中に神像が彫られている場合は 、その文章の他の顔はこの神の方を向いてしまうので、ヒエログリフの読む方向を解明するのが困難であった。

不足(388)黛まどか・サンテイアゴ巡礼にて
 その光景を見て私が愕然としたのは、指がなかったからでも、彼らがみすばらしかったからでもない。私がこれまで目にしてきたどの母娘よりも、彼らが安らかで幸福そうに見えたからだ。彼らには不足しているものが何一つないように見えた。お金も家も、失った指さえも彼らには微々たるもののように見えた。

二つの自由の遭遇
 自由な意識がもう一つの自由な意識と出会えば、どうなるか。私の意識と他人との関係を議論するのは、主著「存在と無」である。私が他人を見るとき、私は他人を対象化する。私の自由な意識のなかに、他人は物としてあらわれる。逆に私が他人から見られるときに、私は対象化され、自由を奪われる。二つの自由な意識の遭遇は、かくして、一方が他方を対象化しようとする「争い」となるだろう。
 しかも他人から見られた私自身を除外して、私の意識は私自身を定義することができない。私は私自身を知るために他人を必要とし、みずから自由であるために他人の自由を奪わなければならない。「存在と無」の内容の一面は、そういうことで、その文学的表現は、「蝿」と同じ年に書かれたもう一つの芝居「出口なし」 である。そこでは登場人物たちが、地獄にいる。「地獄とは他人である」。死者とは何か。習慣に捉われて、それを変えることのできない人々である。「出口なし」は、また「自由」の不在によって、真に生きている人間の「自由」を示唆する。


二つの托鉢僧団(410)
 ドミニカンとフランシスカンという二つの托鉢僧団は、異端が生まれたのと同じ社会的背景から生まれた。しかし創始者である聖フランシスと聖ドミニクスの僧団建設の動機は、それぞれ異なっていた。聖フランシスは裕福な商人の息子に生まれたダンディだったが、軍隊に入り、描虜となって熱病に苦しむうちに回心にいたり、絶対清貧の生活に入った。聖ドミニクスの方は、最初からの学僧で、伝道の意欲にもえ、トルコ人の伝道をイノセント二世に願い出て、かえってカタリ派のほびこるラングドック地方に送り込まれた。ここで伝道を行なううちに、カトリックの伝導者は異端のそれと同様の熱情と厳格主義が必要であると悟り、聖フランシスと同じ清貧の生活に入った。…最初、異端審問は、学僧の集団であり、それを目的に結成されたドミニカソの独占だったが…。

豚肉(267)p.7
 旧約聖書のレビ記などによれば、ひづめが二つに分かれていても反芻しない動物は、食べることはタブーだったんだ。ところがキリスト教徒は、豚肉を食べないユダヤ教徒と決定的に決別するために、三世紀、アンティオキアの公会議で、ユダヤ人たちが忌避する豚を食べるようにとアピールがなされたのだ。こうして、キリスト教文化圏で、ユダヤ人差別と並行するかのようにも豚をさげすみ、豚を汚れた、怠惰な存在の代表のようにとらえる見方ができてくるわけだ。

ブチントロ(530)
 一言をもってブチントロを説明しようとすれば、私(ゲーテ)はそれを「豪華ガレー船」と呼びたい。この名はしかし、模型図が今日もわれわれに伝わっている昔のそれに、よりよく当てはまるもので、現代のものは余りに華美に過ぎて、その起源を明らかに示し得ない。
ここでは最も厳かな祭日に、この共和国が普から承け伝えている海上権の霊祭礼のために、その首長を乗せるにふさわしいような一隻の榛走船の建造が芸術家に委託された、そしてこの任務はみごとに遂行されたのであった。その船はまったく装飾だけである。したがって装飾が過ぎるということは言い得ない。それはすっかり鍍金された彫刻物でらって、なんら実用には立たない。ただ民衆に首長の威容を示さんがための聖餅盆である。


普通教(479)
 …みんな一緒にしなければ成り立たないものは、じつは世の中にそんなに多くはない。…容易にわかることであるが、協調性にはそれ自体としての道徳的価値はないのだ。協調性のある人とは、「周囲に合わせられる人」にすぎない。周囲が魔女裁判に熱病のように浮かされているときに、魔女を火あぶりにしようと真剣に企む人であり、周囲がユダヤ人狩りに精を出しているときに、ユダヤ人を躊躇なく密告する人である。つまり、与えられた状況が何であろうと、それを批判するととなく受け容れることのできる人なのである。
…いじめは、協調性の欠如から生ずるのではない。協調性の欠如を非難する態度から生ずるのである。このことを、私(中島義道)も私のまわりの人間関係に悩んでいる少なからぬ青年たちもからだの底からよくわかっているのに、どうして「普通教」の信者たちはこれほどにもアホなのであろう


普通名詞としてのキリスト(436)
 この称号は元来、「油注がれた者」を意味するヘブライ語の「マーシアハ」−−我々のいわゆる「メシア」−−のギリシャ語訳で、正確には「クリストス」と発音された。具体的には、油注がれて「王」となったダビデの子孫から出て、終末の時にイスラエルを解放する政治的救世主として、ユダヤ人によりその来臨を待望されていた存在である。キリスト教徒は、この「メシア」=「キリスト」を十字架上に死んで甦ったと信じたナザレのイエスと同定したのである。

仏教がキリスト教よりもすぐれているのは、(544)
 南方は、大乗仏教をもっともすぐれた宗教原理と考えたが、同時に、他の諸宗教に対しても、それぞれそのよいところを認め、そこから学ぼうとする寛容な姿勢がその比較宗教諭の根底にあった。それだからこそ、つぎのように土宜の問いに応えているのである。「小生に諸宗教のことを問わる、これはなはだ難題なり。…要するに仁者みずからこれを究むるの外なし…」
 仏教がキリスト教よりもすぐれているのは、現代(南方の時代)の科学により適合するからである。第二に、土宜が「西洋の語言自由ならざるを短と」する。なぜならば、仏教がキりスト教よりすぐれていることを示すための最良の方法は、仏教が「天部の神界に超絶せるの界を示せるものなれば、有神を唱うるの徒も、実は仏教の一部を得たるものなり。されば仏者の至穏至便の法としては、神もまたあるものとして包蔵し、ただその上に超出するの法あることをとけば可なり。これをなすには、諸外教のことを知るはもっとも必要なり」と南方は考えるからである。
 南方によれば、仏教はキリスト教よりも、二つの点で近代科学と整合する。第一は、キリスト教は、もろもろの現象を、「神意」によって説明するが、仏教は、「輪廻因果」によって解明する。仏教でいう「因果輪廻」は、ものごとを原因結果の相関関係でとらえる近代科学の方法に近い。


フック・ジョイント(210)
 フック・ジョイントとはユニバーサル・ジョイントのことである。フックは天体観測器具の赤道儀のようなものの手動駆動用にユニバーサル・ジョイントを発明した。今日、自在継手と呼ばれるものである。

フッゲライ(180)  
 世界最初の社会福祉住宅。フッガー家がアウグスブルグに作った救貧院。

物質のために重くなっている精神(450)エラスムス
 キリスト教徒は、プラトン主義者と一致する点がありますね。つまり、肉の絆に包まれ縛られて、物質のために重くなっている精神は、あるがままの真実をほとんど眺めることも、享受することもできないと考える点です。ですから、哲学とは死を膜想することだと定義されているのも、つまりは、哲学のおかげで霊魂は可見の肉体的なものから解脱せしめられるからなのでしょうが、これはまた、死の作用でもあるわけですね。こういうわけで、魂が肉体の器官を正常に用いているあいだは、その魂は健全だと言われますが、肉の絆を断ち切って、躍起となって自由になろうとし、その牢獄からのがれ出ょうと思うようになった場合には、これを呼んで「狂気痴愚」と申すのです。


ブッシュ大統領の秘密指令(434)
 9.11の翌月にジョージ・ブッシュ大統領が秘密命令を発したとき…テロとの戦いで拘束した者に対しては、拷問を禁じたジュネーブ条約などの国際条約や国内法の保護は及ばないと決めた。さらにブッシュは、長い時間をかけて磨きあげた心理的拷問の技術を−−1960年代にCIAがベトナムで用い、70年代と80年代にはラテンアメリカの協力機関も使った技術を−−復活させた。…フードをかぶされて箱の上に立ち、伸ばした手の指先に偽の電線をとりつけられたイラク人の囚人の写真ほど、この冷戦の遺産を端的に示しているものはない。拷問は一部の不埒な兵士が勝手におこなったとされたが、むしろこの写真はCIAの用いた心理的拷問の技術が復活したことを物語っている。感覚を遮断する(フード)、つらい姿勢をとらせる(伸ばした両腕)、肉体的な苦痛を受ける恐怖にさらす(偽の電線)などの方法が見てとれるからである。

仏舎利戦争(日経97-3-30)  
 仏陀がクシナガラで死んだ後、この遺骨の分配をめぐって起きた戦争。結局遺骨はイン ド諸国八ヶ所に分配され仏舎利塔に収められた。さらにインド初の統一国家となったマウ リア朝アショカ王が、これを掘り起こし八万四千に分けて帝国全土に仏塔を築いた。

ブッダ最初の説法「聖求経」(511)
「みずから生けるものの存在にして生けるものの過患を知り、無生・無上・安穏のニルヴァーナを求めつつ、無生・無上・安穏のニルヴァーナをさとった。みずから老いるものの存在にして老いるものの過患を知り、不老・無上・安穏のニルヴァーナを求めつつ、不老・無上・安穏のニルヴァーナをさとった。みずから病むものの存在にして「無病」、みずから死ぬものの存在にして「不死」、みずから憂いるものの存在にして「無憂」、みずから染汚せるものの存在にして過患を知り、無染汚・無上・安穏のニルヴァーナを求めつつ、無染汚・無上・安穏のニルヴァーナをさとった。さらに、そこで、わたくしに『わたくしの解脱は不動である。これは最後の生まれである。いまや輪廻の再生はない』という正しい理解と見解が生じた」

物理懇談会(212)
 海軍のリーダ開発の中心人物であった伊藤庸二大佐の発案で、昭和17年、日本海軍でも原爆の研究が始まった。理研の長岡、仁科、東大の西川正治、東北大の渡辺寧らによって物理懇談会を発足し、翌年まで可能性検討がおこなわれた。結論は可能であるが、日本にはウランがないので、戦争には間に合わない。米国も間に合わないというものであった。

不動点定理(244)
 トポロジーにかかると、何やら理解できない話しが、当然の定理として示される。例えば、地球上を風が吹いても、必ずどこかで静止している点がある。地球上のどこかに点があって、その点と地球の反対側の点では気温と気圧がぴったり一致する。いろいろな形や大きさのものをどんなに雑多に重ねても、これらをそれぞれ2等分できる一つの切り方が存在する。

不動明王(376)
 大日如来をこの世においてあらわしたものが不動明王です。不動明王は、大日如来の教令輪身(教化しがたい衆生を導くために大日如来が方便として現した身)だという説明のしかたがされます。この世で剛強難化ということで、いわば煮ても焼いても食えない連中にはやはり仏の強い一面を示す必要があり、その強い力にすがってわれわれも自分のもっている弱さをなくそうとするのです。日本では、「我れに強さを与え給え」という信心が、昔から大日如来の現実の形として関東を中心にひろまりました。

太った豚(35)
 ベンサムの功利主義はリカードウを経て、J.S.ミルによって完成する。ミルはマルサ スの「自然の吝嗇」も受け継ぐがこれを越えて、人口の増加による経済成長停止は、外的 抗争に明け暮れた人類前史が、個人の内面的成長を志向する真の人類史の段階へ到達する ことと捉えた。その「功利主義論」で狭義の快楽ではなく、善を為すことそれ自体も高次 の快楽であるような人間のあり方を探求した。その中で「太った豚であるより、痩せたソ クラテスでありたい。」と書いた。

負のエントロピーを食べる(555)シュレージンガー
 われわれの食物の中に含まれていて、われわれの生命を維持する貴重な或るものとは一体何でしょうか?それに答えるのは容易です。あらゆる過程、事象、出来事……何といってもかまいませんが、ひっくるめていえば自然界で進行しているありとあらゆることは、世界の中のそれが進行している部分のエントロピーが増大していることを意味しています。したがって生きている生物体は絶えずそのエントロピーを増大しています。……あるいは正の量のエントロピーをつくり出しているともいえます……そしてそのようにして、死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に近づいてゆく傾向があります。生物がそのような状態にならないようにする、すなわち生きているための唯一の方法は、周囲の環境から負エントロピーを絶えずとり入れることです。後ですぐわかるように、この負エントロピーというものは頗る実際的なものです。生物体が生きるために食べるのは負エントロピーなのです。


フノラール教会(307)
 私をいやおうなくロマネスク美術に引きずりこんだのは、フランス南端のルション地方にあるあの小さな村の教会、サン・マルタン・ド・フノラール教会である。農家の倉か何かと見誤られかねないような、ごく貧弱な建物だった。1125年頃描かれたとされる受胎告知図やキリスト降誕図を見たとたん、私のなかのなにかが決定したのである。このサン・マルタン・ド・フノラールの聖母は、土のにおいがしみとおっているどころか、土と石のうえに、泥で塗りあげたような聖母なのだ。

不被動の起動者(431)
 いずれの時期を通じてもアリストテレスでは神の単複は曖昧であり神学的発展を数において認めることは不可能である。…つとにアリストテレスはこの考え、すなわち「各々の円環運動はそれぞれ固有の一つの不被動の起動者を有してはいるが、全宇宙はまた唯一つの動者によっている」という考え方を確立していたようである。動者の数の問題は、たしかにこの光りの下に見なくてはならない。…また確実に天球は彼の考えでは理性体であったから、その運動の起動因は天球霊魂であり、それには位置的にも生成的にも運動はない。ところでそれの宿る天球は、可視的永遠者であるから、天球的霊魂は可視的なるもの、つまり感覚的なるものから離れてはいない。ゆえにこれは第一天の起動者たるものの完全な超越的離存的純粋形相性をもってはいない。実にこの離存者こそ神である。諸天球のそれぞれの自発的起動理性は、円環運動の作用的起動因であり、それらの理性は如何にして調和を相互に保っているかと言えば、目的的起動因としてこの第一の起動者をもっているからである。

ブーヒュエンバルトの説教者(485)
 一人の反ナチ抵抗者を紹介しよう。それは牧師パウル・シュナイダーで、《プーヒェンヴァルトの説教者》とも呼ばれてきた。…宣教と牧会のために生命がけでナチ党と闘い、ヒトラーが権力をとっていらい、ヴァイマルの町はずれ、〈ぶなの森〉(プーヒェンヴァルト)の中の強制収容所に入れられた。1939年夏−−そこでも、彼は、ナチ党の残虐性を告発しつづけ、第二次大戦が始まる前に−−殉教の死を遂げたのだった。そこで行なわれた大量虐殺のゆえに〈死者の森〉とも呼ばれるプーヒェンヴァルトの収容所で、シュナイダーは多くの囚人たちにとって希望の星だったといわれている。
〈プーヒェンヴァル卜〉はヴァイマル市街からわずか五キロ、小さな丘の上にあり、車で上ってくれば、その近さにあらためて驚かされる。元収容所跡は、現在、博物館になっている。

プピーユ92(320)
 1992年はフランスワインらとっても難しい年であることで知られているが、僕の飲んだ範囲の中ではプピーユ92は最良のワインのひとつだ。…メルロー種100パーセントの、果実味がたっぷりのっている、しなやかな口当たりのワイン。メドックのいい作りのグランヴァンのような骨格の大きさは感じないが、飲んでいると作り手の声高ではない主張が聞こえてくる。

普遍文法(263)
 つまり文法とはチョムスキーによれば、ことばそれ自体の中から現れ、それ自体の中に見出されるのではなく、ココロとことばとをつなげるつなげかたの方式を記述するものだということになる。…深層構造を表す方法がいかに多種多様であろうとも、深層構造が諸言語を通じて基本的に同じであるという信念は、私の知るかぎり、近代言語学は、それを致命的なやりかたでくずすような証拠をまだつきつけていない。
…このような主張は、従来の言語学の研究が複数の言語に対する知識を必要とするのに対して、要するに英語さえできれば、他の言語も一緒だというような言語学者を出現させ、さらに、固有に見える言語が普遍的な文法に支配されているというアイデアは、人工知能研究者に、彼らの論理的根拠を与え、第5世代コンピュータ研究を牽引した。その結果は知られている通りである。


冬の閾値(306)
 ある日、冷え込みがゆるんだ。冷酷に晴れわたった空が雲を和らげ、雪が降りだした。積雪量は魔法を起こす「冬の閾値」(積雪が土の温度の短期的変化を鈍らせるようになる積雪量。15〜20cm)を超えた。雪の層が十分な断熱効果を発揮するようになり、ハタネズミの世界が危険なほど熱を奪われることはなくなった。

フライ基準(434)
 ミュンスターバークの教え子であるウィリアム・モールトン・マーストン(1893−1947)は、学生仲間に対してロールプレイの実験をおこない、被験者の血圧を測定すれば正直者と嘘つきをほぼ100パーセント見分けられると主張した。…1922年、殺人を自白しておきながらのちに撤回したジェームズ・アルフォンソ・フライの裁判で、マーストンはフライが無実だとする検査結果を法廷で証言しようとしたが、裁判官はマーストンを証人として認めなかった。これが先例になり、刑事法廷では今日に至るも嘘発見器による検査結果は例外なく採用されずにいるが、犯罪捜査などの数多くの場面では使用が認められている。

フライ・バイ・ワイヤ(159)  
 従来の航空機は、その操縦情報は、操縦桿から直接に油圧パイプで、昇降舵などに伝達 していた。これに対して、これらの情報を電気信号で伝達することによって、軽量化と信頼性の向上を実現しようという技術。

フライング・バットレス(405)
 ゴシックの建築家は、フライング・バットレス(飛び梁)と呼ばれる構造の発明によって、この難題をみごと解決した。ヴォールトの推力が作用する身廊壁の外側に、アーチを斜めに架け渡して、推力を最外部の控え壁(側廊外壁から直角に突出した壁状の支柱)に伝達する方法である。この卓抜なアイデアにより身廊壁は荷重支持機能から解放された。

ブラウナウ要塞(518)
1805年の10月、ロシヤの軍隊はオーストリア大公国の村や町をみたしていたうえに、なお新しい隊がぞくぞくロシヤから到着するのであった。そして、自分たちの駐屯によって住民を苦しめつつ、ブラウナウ要塞の付近に散在していた。ブラウナウにはクトーゾフ総司令官の本営があった。(1805年のナポレオンとの戦役でのロシアの最西到達点、ウイーンを守ることなく東に撤退し、オーステルリッツで全面的な敗北を喫する。)

プラクチナ(アサカメ1998/10)  
 Praktina。プラクチカではない。VEBペンタコンがプラクチカの改良版として開発し た。今はM42と呼ばれるスクリュー式のプラクチカマウントをスピゴットマウントに変更した。このマウントは消防ホースの連結部と同じで強固ではあるが、2段階操作が敬遠 された。その同じ轍をキャノンフレックスがを踏む。

プラクティカ(251)
 15・16世紀の星占い師たちはPraktikaと呼ばれる予言を数年分まとめて出版したが、その後、毎年出版するようになった。そしてこのプラクティカはカレンダーにとってなくてはならない部分と考えられるようになった。

プラシーボ(243)p.73
 偽薬。新薬の薬効の事前調査のために患者および医師の双方に知らせずに、本物の新薬とプラシーボの双方を与える。これを二重盲検と呼ぶが、このプラシーボには小麦粉、重曹、乳糖など薬効のないものが使われる。こんなプラシーボでも、患者に治癒効果が現れることがある。これをプラシーボ効果と呼ぶ。

プラスティネーション(111)  
 ハイデルベルグ大学のハーゲンス博士が開発した死体標本作成法。零下5℃のフリーザ で細胞の水分をアセトンに置換して、これを抜きながらシリコンを浸透させる。これによ って自由に人体を輪切りにして断面を見ることができる。

ブラック・マンデー(133)  
 1987年10月19日(月曜)のニューヨーク市場の大暴落。ソロスはその当時、日本市場の暴落を予測していた。日本市場は当時すでに世界の株式総資産の36%を占め、 バブル化していたからである。しかし暴落したのはニューヨークだけで、ソロスは、世界 最大の損失をこうむったといわれる。しかしソロスの判断は時間遅れで真実であったこと が後に証明される。

ブラックライン(153)  
 1830年現住のアボリジニをタスマニア半島に追い詰め、絶滅を図るために、200 0人が手をつないで人間の鎖を作り、7週間の掃蕩をおこなった。すくなくとも入植者の キリスト教的価値観ではアボリジニを人間と認めていなかった。ブラックラインはまさに狩であった。

プラトンの二世界論(431)
 プラトンは、二世界論をとった。それは、形相(イデア)と質料(マテリア)の二つの概念ですべての現象を説明しようとした結果である。そのため、形相すなわちイデアは自己目的性と理念的性格が強く、天上界にも比すべきイデア界に超越者として恒存する。こうしてプラトンに於けるイデアは、その語源すなわち「見られた形」という動詞から「見られた形」として存在する事物の範型であると同時に、精神の力で見られた形として理念であった。イデアはそれを帯びようとするもの、またはそれに似ようとするものを、憧れで呼び起こすところの目的であると同時に、おのれの影をおのれに向かう者に与えようとする形でもあった。また質料は、自らを形相に類似させようとして、形相に向かうエロスを内包するものであると同時に、自らを形相によって形づくられるようにするところの材料でもあった。

…物質現象の学問的説明に際してすら、エロス(愛)というような擬人的能力を用いて神話的に語らなくてはならなかった。しかも、右のようにして、かりに事物の生成は説明できたとしても、イデアという不滅の実体にあずかるところの個物が、なぜに消滅するのか、という問題については、納得のゆく説明が不可能になることもあった。

プラトン立体(264)P.69
 プラトンがその対話編「ティマイオス」に述べて以来、プラトンの立体と呼び慣わされてきた五種の正多面体のこと。正四面体。正六面体。正八面体。正十二面体。正二十面体。プラトンおよびその後の多くの哲学者たちは、この五つの正立体と、世界を構成していると信じられた五つの元素とを結びつけた。

 ■ブラフマー神(177)  
 インドではBC1000頃からバラモン教が主流になり、ヴェーダとして聖典化される が、BC500頃からヴェーダの神々を取り込みながらヒンドゥー教化していく。ブラフ マーはヒンドゥーの非人格的な宇宙創造神であり、仏教では梵天と呼ばれることになる。

ブラフマチャリア(482)ガンディー
 長い苦悩と自己浄化の歳月を経なければならなかった。そして、南アフリカでサティヤーグラハ闘争を開始するにあたって、37歳という男盛りにブラフマチャリヤ〔純潔〕の誓いをたて、妻の同意のもとに夫婦の交わりを断ち、妻とは「兄弟姉妹」 「同志」 の関係に入ったとき、ガンディーはようやく、自らを性のしがらみから完全に解放することができたのである。こうしてガンディーとカストゥルパーイの62年におよぶ結婚生活は、ブラフマチャリャの生活に入る前の、いわゆる夫婦関係を前提とした前半の24年間と、性生活の否定の上に成り立った後半の38年間に分けることができるが、このユニークな結婚生活が、「幼児婚といういまわしい習慣」に起因する、■ブラフマチャリア(482)ガンディー
 長い苦悩と自己浄化の歳月を経なければならなかった。そして、南アフリカでサティヤーグラハ闘争
を開始するにあたって、37歳という男盛りにブラフマチャリヤ〔純潔〕の誓いをたて、妻
の同意のもとに夫婦の交わりを断ち、妻とは「兄弟姉妹」 「同志」 の関係に入ったとき、ガンデ
ィーはようやく、自らを性のしがらみから完全に解放することができたのである。こうしてガンデ
ィーとカストゥルパーイの62年におよぶ結婚生活は、ブラフマチャリャの生活に入る前の、
いわゆる夫婦関係を前提とした前半の24年間と、性生活の否定の上に成り立った後半の38年間に分
けることができるが、このユニークな結婚生活が、「幼児婚といういまわしい習慣」に起因する、
屈折した性の体験を出発点としたことは注目に値する。屈折した性の体験を出発点としたことは注目に値する。


ブラフミー文字(80)  
 サンスクリット、現代ヒンディー語の母体となったBC3世紀頃からのインド文字。 フェニキアのアルフベットの系譜で、母音、子音を備えた表音表記。

ブラームス交響曲第一番(75)  
 この曲が初演された年、「ニーベルングの指輪」も初演された。第一楽章の序奏は木管 と弦楽合奏とがほとんど並行で旋律らしき部分と対位の部分の2声。そのバランスといい 、音色といい、非常に上手に、もうひとひねりしたらワグナーになる。なかなかオリジナ ルだ。あれがなかったらベートーベンそのまま。

ブラームスの第5番(359)
 ハンス・リヒクーにとってエルガーの第1番は、「最もすぐれた現代の作曲家による現代の最もすぐれた交響曲−それも、この国でだけではない−であった」。ニキシュは、「第1級の傑作」と呼び、ブラームスの最初の交響曲が「ベートーヴェンの第10番」と言われたように、エルガーのものもブラームスの第5番となりうると述べた。リヒターがエルガーを未来のホープとして見る一方で、ニキシュは、エルガーは本質的に保守的であり、前向きなものではなく、ブラームスの時代へ逆戻りしている、と最初から見ていたのだ。

フランクフルト協定(439)
 戦没した一般の兵士の埋葬とその記録の問題の重大性に英国をはじめ、ヨーロッパ各国民の目を聞かせたのは、アメリカ南北戦争中の一つの出来事であった。南北戦争が起こった翌年、1862年4月、北軍の軍務局長は、各部隊の軍司令長官に命じて、各戦場において適当な場所を画し、できるだけ速やかに戦没者の遺体を埋葬せしめ、さらに墓標を立てて、番号を付し、もし可能なら、そこに葬られた兵士の氏名を記させた。…その結果、南北戦争が終わるまでに41の墓地が作られ、そこに20万を越える北軍将兵が葬られたということである。…ゲティスパーグにおける戦没将兵墓地が奉献されたとき…リンカーンはその短い演説の中で、…次のような深い言葉を続けた。祖国のため己の命を捧げた人々の最後の休息の場として、この戦場の一画を献げんがために集まったのであるが、この土地を聖別できるのは、ここで戦った人々なのであって、それ以外の人はそれに何をつけ加えることも減ずることもできないという趣旨の演説であった。
 このリンカーンの演説は…ヨーロッパ各国民に大きな衝撃と感動を与えずにおかなかった。1871年、普仏戦争が終結した年に締結されたフランクフルト協定によって、フランスとドイツ両政府はそれぞれ自国領内に葬られた相手国将兵の墓地を鄭重に管理することを責任を以て約束したのである。…この協定に基づく、戦没将兵墓地管理に関する条約は、両大戦を通して、ソ連を除くヨーロッパ自由諸国の全土で立派に守られた。交戦中の敵軍の兵士の遺体を鄭重に扱い、懇ろに葬るということは19世紀以前の世界史の中で先例を見ることができない。


フランクリン探検隊(439)
 北西航路とは北氷洋に面する北米カナダ大陸の北海岸に沿い、北大西洋からアラスカ北岸に出て、太平洋に通ずる航路のことである。フランクリンが活躍したのは今を去る140年の昔、わが間宮林蔵とほぼ同時代の人、徳川幕府の末期、鎖国の夢がようやく破られんとする頃である。…アムンゼンやスコットたちの極地探検に先んずることじつに70年であるということから言っても、海洋探検史上、画期的壮挙であった。
フランクリンは、エスキモー人を除いては前人未踏の地とされていた、カナダ北岸に沿う北氷洋北西航路調査のため二艘の帆船を仕立て、139名の士官および水兵と共に英国を出帆した。時に1845年5月19日のことである。…予定された2年の歳月が過ぎたが何の音沙汰もなかった。…1859年、フランクリン夫人によって遣わされた捜索隊がついにその使命を果たし、報告を持ち帰ったのは、探検隊が祖国を出帆してからじつに14年目のこと、しかもその報告は隊長フラソクリソ以下探検隊員140名全員死亡の悲報であった。探検隊が発見されたのは北極圏に近いキング・ウィリアムズ島であった。すでに白骨と化していた多くの遺体の傍らに航海日誌が発見された。


フランス語(263)
 フランス人としては、語順が一定しておらず、時にしばしば倒置が行われる言語の文法は錯乱しているとしか思われない。「百科全書」に遂に「倒置」の項目すらあらわれ、ラテン語とドイツ語は、より自由な語順のために倒錯言語であるのに反し、フランス後と英語とは固定した語順のおかげで、秩序正しい言語である。フランス語は「思考の性質そのものの上に築かれている。」ので「世界で最もはっきりした、明晰な言語である」と書いた。

 ■フランボワイアン(57)
 縦線が強調されるゴシック様式であるが、フランスではうねるような曲線が炎のような 形ででてくるのが特徴。フランスの末期ゴシックをフランボワイヤン(火炎式)と呼ぶ。

 ■プリアモス王(146)
 ゼウスの末裔、トロイヤの王。その長男がヘクトール、二男がパリス。バリスがスパル タに遠征し、スパルタ王の妻、絶世の美女ヘレナを奪うことでトロヤ戦争が始まる。トロ ヤの悲劇的結末を予言するカサンドラもプリアモス王の娘。

降りかかる火の粉(61)
 U型ライカ(日本式でDU)が発売された1932年、コンタックスUも発売される。 それ以降、コンタックス/ライカ論争が起こり、36年のアサヒカメラでコンタックスに 軍配をあげることで最高潮に達する。これに対して代理店シュミットが配布した有名なパ ンフレットが[降り懸かる火の粉は払わなければならぬ。

フリーゲンデルハンブルガー(128)
 ベルリン−ハンブルグを最高時速124kmで実用運転した戦前の超高速列車。ディーゼ ルエンジンを使用。

ブリゴジン(62)
 「非平衡の熱力学」で1977年ノーベル賞を受賞。彼の基本的な問いは[なぜこの世界 に秩序と構造があるのか][それはどうして生まれるのか] 熱力学の第二法則は世界が無秩序と崩壊への不可逆なプロセス、すなわちエントロピー増 大の方向へ向かっていることを自明のこととしている。それなのに現実の世界には秩序が ある。それをブリゴジンは自己組織化構造によって説明。条件が整うと小さな影響が拡大 される傾向にあり、ポジティブ・フィードッバックされる。

フリーズ()
 絵様帯。ギリシャ神殿の列柱上部の横に細長い面に描かれた円族的構図の浮彫り彫刻や絵画のこと。

ブリタニア橋(268)P.133
 鉄道熱(レールウェイ・マニア)時代にダブリンへの郵便船とロンドンをつなぐ重要な鉄路、チェスター=ホリーヘッド鉄道の……メナイ海峡に架けられた鉄道橋。海軍側の要請で建設中、建設後ともに、海上通行の阻害が許容されないために吊り橋、アーチも実現できず、結局、矩形のパイプを構造部材として、そのパイプの中に蒸気機関車を走らせるという、とんでもない発想にいたり、実際に1840年代後半に建設された。当時は、驚くべき構造的な成功と賞賛され…。…完成した橋に組み立てられた各チューブは、事実上メナイ海峡の100フィート上に1500フィートの長さの錬鉄のトンネルを形成することになる。このことは、太陽熱が橋の内側を不快な温度に熱することを意味し、…さらに、石炭を燃料とする蒸気機関車の排気は、管内を煙と煤煙で満たした。こんなことは分りきっている。

フリッツ・ハーバ(164)  
 1915年に毒ガスを発明。「これで終戦が早まればおびただしい人命が救える」と語った。ノーベルのせりふの繰り返しであり、この30年後ロスアラモスで原爆を開発して いる人々もまた、同じせりふを吐く。……ハーバーは1914年イープルの戦いで塩素ガスを散布する作戦を指導した。ユダヤ人である。

不立文字(431)
 この時代のギリシアの哲学者に関する限りは、だれ彼の別なく、その人々の思想を著書で知ろうと試ることは危険なことである。その理由は、…時間的距離がもたらす文献的な困難さのみではない。そこには不立文字の慎みを守る風土が形成されたのである。どのようにしてであろうか。もともと、ギリシア人にあっては、レゲインすなわち内なるロゴスを働かせ「考える」とは「語る」ことであった。すなわち、思惟と言語とは密接に結びついていたが、それは論理と文字との結びつきを意味しはしない。もとより、このことは書くことを否定したことにはならない。
 …ソクラテスは一冊の書物も著わさない不立文字の教師となって、もっぱら弁を以て人々に向かった。


フリードランダー(313)
 リー・フリードランダー(1934--)。ブルース・ダヴィッドソンらと共に参加した「コンテンポラリー・フォトグラファーズ−社会的風景に向かって」展で、注目される。「社会的風景」と称された日常的な光景をスナップショットした表現で1970年代を代表するアメリカの写真家。金子隆一は、ライカ使いとして木村をブレッソンに対応させたとき、植田正治はこのフリードランダーに対応させた。

フリードリッヒ大王(在位1740〜1786)(1)  
 人口250万のプロイセンが数十倍の周囲の大国と戦った7年戦争(1756〜63) で16回の大戦闘を直接指揮。ナポレオンに匹敵する軍事的才能。(そしてこの軍事国家 が突き進んだ道はヒットラーによって完成し、破滅する。)

プリミニゲニス・ゾウ(157)  
 マンモスのこと。マンモスの始祖はアフリカで誕生し、150万年ころから北上してヨ ーロッパに渡り、メリディオナーリスゾウという種に進化し、これがアルメニアゾウを経 てマンモスになった。そして人もこれを追ってユーラシア大陸に進出していく。

フリーメーソンの教え(519)
「組合員Vと教訓的な長い会話を交換した。彼は余(ピエール)にむかって、組合員Aの説を遵奉するようにすすめた。余はまだその資絡なきものなれど、多くの啓示を受けたような心持ちがする。アドーナイ(ヘブライ語でわが主の意)は世界を創造した人の名である。エロヒム(ヘブライ語で神の意)はいっさいを支配する人の名である。第三の名はいっさいの意味を包含している名だが、口に発することができない。Vとの談話は徳行の途上に立つ余を堅固にし、かつ爽快にしてくれる。彼と語っていると、懐疑など容れる余地がなくなる。かの世上の科学の貧弱なる教義と、いっさいを抱擁するわが神聖なる教えとの差異がますます明瞭になった。人間の科学は理解のためにすべてを分析して、観察のためにすべてを破壊する。フリーメーソンの神聖なる教えにおいては、すべてが唯一不可分であって、すべてが集合と生動のままで認識されるのだ。

フリーメーソンの三つの目標(519)
パズジェーエフ氏はかなり長いあいだ黙って考えていたが…彼は組合の三目的の真意を覚えているか、とだしぬけにきいて余(ピエール)を驚かした。三目的とは、すなわち、(一)神秘の保存とその認識、(二)これに到達せんがための自己浄化および自己匡正、(三)かくのごとき自己浄化の努力を経たる後の人類匡正、これである。これら三者のうちもっとも重大な目的は何であろう? もちろん、自己の匡正と浄化である。
真のフリーメーソンの主なる義務は自己の完成である。しかし、われわれはよく人生の煩瑣な問題から遠ざかってしまったら、早くこの目的を達することができるように考えたがる。ところが、それはまるで反対で、ただただ実生活の勤務の中にのみ、われわれは三つの主なる目的を達することができる。


ブリュンの僧院長(555)
 彼はその結果を、はやくも1866年に、ブリュン(チェコの現ブルノ市)の自然科学協会の会報に発表したのでした。この僧院長の道楽に特に関心を払った者はただ一人もなかったようであり…。両親の異なる性質が子孫の次々の世代へ遺伝することの法則、およびさらに特殊なものとして劣性=優性という大切な区別は、今日では世界的に有名なアウグスチヌス派の僧院長グレゴア・メンデル(1822--84年)に負うものです。
 メンデルの論文は忘れ去られ、1900年に至りはじめて、コレンス(ベルリン) 、ド・フリース(アムステルダム) 、およびチェルマク(ウィーン)により、時を同じくし、しかも互いに独立に再発見されたのです。


プリンキピア(210)
 1684年、王立協会のレン、フックとハリーは引力が距離の逆二乗に比例することは知っていたが、惑星の軌道を論理的に導くことはできなかった。そこでハリーはニュートンを訪問し、この計算をみせて欲しいと要請した。このハリーの訪問がなければ1687年のプリンピキアの刊行もなかったことも想定できる。フックはプリンキピアの発行以降も、その中の多くのアイデアは自分のものであると主張。ニュートンは自らのの権威を築くと、フックの痕跡を徹底的に排除していく。

プリンス・オプ・ウェールズ(262)
 中国で産出される紅茶の中で、キーマンが世界三大銘茶の最後の一つであり、香りがよい。これはブルックボンドとトワイニングにその銘柄があるが、トワイニングでは、これを「プリンス・オブ・ウェールズ」と呼んでいる。

プリンチェプス(135)  
 第一人者。ティベリウスは自邸の奉公人にとっては[ドミヌス](御主人様)、兵士に とっては[インペラトール](皇帝)、ローマ市民にとっては[プリンチェプス]であろ うとした。

プレビスター・ヨハネ伝説(411)
 1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマは4艘の大帆船に乗組んだ160人の一隊を率いてリスボンを出帆し、東方探検の途についた。ヴァスコの目的はアフリカの南端を迂回する東洋航路の発見と共に、東洋のキリスト教の王にして僧なる神秘的なプレビスター・ヨハネ、すなわち西遼の耶律大石の跡を探るにあったという。
 …十字軍の戦士によってヨーロッパに伝えられた報告によると、1141年にグル・ハーソは西トルキスタソのイスラム教徒問の紛争に介入したので、サマルカンドのマームード・ハーンはホラサンのセルジュック・トルコ皇帝スルタン・サンジャールに援助を求めた。スルタンは援軍を派遣したが、サマルカンド北方の草原でグル・ハーンの軍に迎撃されて一敗地にまみれ、イスラム軍は三万の将兵を失った。強大なセルジェックのスルタンがキタイ人に破られたという報道は、当時シリアと北メソポタミアでイスラム軍のために苦戦中であった十字軍に歓喜して迎えられた。十字軍の将士たちは、キタイ人は東方のキリスト教徒(ネストル教)の僧にして王であるヨハネの下で、十字軍に呼応してイスラムを討ったものと信じた。


古い技術(351)
 設計者の視覚的な記憶と設計した具体物との間の明白な類似性は、グッドイヤー・タイヤ会社によって1961年にNASAに提案された宇宙ステーションの計画に見ることができる。クラークは、グッドイヤーの「膨張式宇宙ステーションの初期のデザインは、まさしく巨大なバイアスベルテッド・タイヤそっくりだ」と書いている。
…歴史家ジョージ・バサラは、新しい技術の設計者は、古い技術を無視しょうとしてもそれができないことを、説得力ある議論で示した。発明家や設計者ほはとんどいつの場合でも、斬新な成果を得るために、熟知している要素から成る新しい組合せを考案するのでどうしても既知の技術との結びつきが存在することになる。しかしながら、新しい技術の中に旧来の技術が入り込むのは避けられないとしても、それが独創性を妨げることはいささかもない。既知の要素の可能な組合せは理解の限度を超えて広がっており、要素の組合せには無限のバリューショソがあるからである。


古川竹二(366)
 血液型の発見は20世紀初頭の画期的な出来事だった。ヨーロッパにも血液が生命の源であり、血液の性質が人間の性質に関係するという信仰はあったが、ABO式血液型と性格とを結びつけたのは、日本の医者たちだった。その中で、最も大きな影響を与えたのは古川竹二の研究である。古川はもともと教育学看で、教育史や女子教育の研究をした。親戚に医者が多かったため、生理学や心理学に興味をもっていた。最初の血液型の論文「血液型による気質の研究」は、1927年の心理学研究に発表された。…1933年の日本法医学会総会で、古川学説は正式に否定される。この否定された古川学説を焼き直して大衆書を執筆し、血液型人間学として蘇らせたのが能見正比古である。

フルカネッリ(369)
 1926年秋、『大聖堂の秘密』 という書物がパリで出版された。限定出版で、表紙には著者名が 『フルカネッリ』と記されているだけだ。…フルカネッリは、建築物に封じ込められた暗号を読み解いて、ゴシック建築は、一種の「石の書物」であり、そこに錬金術の秘密が隠されていると述べている。…序文を書いているユジーヌ・カンセリエなる人物は、著者の弟子であり、師フルカネッリは、本が出版される以前から行方知れずだというのだ。…フランスでは、フルカネッリの名は、すでに十六世紀から現れている。ヴァンデー地方のテル・ヌーブ城には、「錬金術の暖炉」なるものが残っており、フルカネッリという錬金術師が使用したものだと語り伝えられている。もしこれがあのフルカネッリなら、彼は400年も生きていたことになる。…カソセリエ自身、1922年に失踪直前のフルカネッリから「変容の粉」なるものをもらって、百グラムの鉛を黄金に変えたことがあるという。カソセリエは、姿を消したフルカネッリに30年後に会ったとき、フルカネッリが異常に若返り、そのうえ女性化していたと話している…「幸福な出来事」とは、両性具有者への変身のことだったに違いない。

故郷(120)  
 マーラーは言う「私には三重の意味で故郷がない。オーストリアにおけるボヘミア生ま れの人として、ドイツ人中のオーストリア人として、そして世界のいたるところでユダヤ 人として。」

フルダタール(172)  
 ドイツICE新線、フルダ川の谷を、あたかも中空を行くように架かる長大鉄道橋。  

ブルックナーの長大さ(120)  
 音の進行エネルギーからすると、宗教曲は音が広がっていく傾向をもつのに対して、交 響曲は先へ先へと進むエネルギーが顕著である。ブルックナーは前者の音進行上の空間的 広がりの傾向と時間的進行の緩慢さを交響曲の領域に持ち込んだのである。  まず主題そのものが複合的に構成され、自己完結する長さを持ち、その数は一般の2つ ではなく、呈示終結部が第三主題に発展する。この漸層原理による半音階的上昇進行で石 段をゆっくりと上がっていく。

ブルディガーラ(97)
 ボルドーのローマ時代の名前。水のほとりという意味。フランス古語でもオー・ボール ・ド・ロー。

ブールヴァール(142)  
 17世紀になってパリの古い城壁を撤去して、そこに都市計画的につくった歩道と並木 を持つ道路。城壁の堡台を意味する軍事用語がブールヴァール、これがこの新道路を指す ようになった。

ブルー・ストッキング・レディ(225)p.75
 18世紀のロンドン社交界の中心にいたのがモンタギュー夫人。そのグループの名がこれ。日本の青鞜派の由来となるのであるが、いかにも日本の婦人運動が貧しすぎると感じさせる余裕あるイギリス夫人達である。

ブルネレスキ(84)
 建築家フィリッポ・ブルネレスキ。ダ・ヴィンチの手稿に描かれた図面の多くは、実は ヴェロッキョの工房での徒弟時代に学んだものであることが最近の研究で明らかになって きた。特に前世代のフィレンツェで活躍し、聖母マリア大聖堂のドームを建設したブルネ レスキから多くのものを得ている。

ブレインストーム絵画(389)
 レオナルドの素描でいわゆる「ブレインストーム」と呼ばれる描写プロセスがある。これは、彼の内面から自動的に形や構成が湧き上がり筆が活発に動くものだ。その素描とは、1501年のもので大英博物館に展示されている「聖アンナと聖母子」である。

プレカリア(124)  
 古代ゲルマン人が持っていた自然の諸力への畏れや死後感に基づく死者への贈与すなわ ち財物の地下への埋蔵は、まさに社会経済活動において死者もまた消費者であった。中世 キリスト教の肉体と魂の分離概念はこれを異教的風習として否定し、この富を教会に集中 させる仕組みを作り、十世紀以降の貨幣経済の再生の一原因となった。 プレカリアとは神への贈与のこと。

フレスコ画(258)
 フレスコ画は、イタリア語で「新鮮な画」という意味である。壁に漆喰を塗り、それが乾かないうちに水に溶かした顔料を塗っていく。壁が濡れているうちに描かなければならないから、時間的制約が大きいし、同時に顔料はすぐ壁に染み込むため、描き直しがきかないから、決断と素早さ、それに高度のデッサン力を要求される。

ブレスト講和(420)
(1918年、レーニンはドイツとの講和のみが、軍のを戦時体制解除と、彼の党があれほど容易に奪取した政権を強化することができると考えていた)… 党内でもこの講和を屈辱と考える者が多かった。ポリシェヴィキの第二の指導者トロツキーは憤然として反対した。だがレーニンは、反対者たちを粉砕し、心身消耗の極に達する討論の末、投票で勝った! この間ずっと彼のそばに、彼の影、忠実な執行者ヤコフ・スヴュルドロフ(全露中央執行委員会議長)が立っていた。スヴェルドロフが死ぬと、彼は熱心に「新しいスヴェルドロフ」をさがし始めた。そして見つけた。スターリンが彼の新しい影になるはずであった。だが今度はそうはいかなかった。影がひとりだちし、最後には主人を負かしてしまったのである。
 中休みが必要なのだ。どうってことはない、強くなったら、そのあとですべてを拒否すればいいのだ。ポリシェヴィキはもう原則をつくりあげていた。協定を結びながら、同時にあとでそれをどう破ろうかと考え始めるのだ。政策とは革命の名における窮状脱出の嘘に過ぎない。


ブレリオ(19,42)
 1909年、飛行機による初の英仏海峡横断成功。25馬力/2800CCのアンザー ニ空冷扇形エンジンとシュピエール木製2枚プロペラによる単葉のブレリオ]T機による。

ブレンナー・ポスト(533)
 15世紀の末、この道路は再び改修拡張された。イタリアでルネサンスの花が最盛期のころだ。インスブルックからズィル川の谷底を伝う道を、ニュルンベルク生まれの若き画家アルブレヒト・デューラーがイタリアに向け二度も修学の途についている。そして同じこの峠の道を、18世紀になると駅馬車に乗ったモーツァルトが父とともに三度もイタリアに旅した。モーツァルト父子の旅の記録にはジャン・ジャック・ルソーやヴィンケルマンのような熱狂的ロマンティシズムはないけれども、モーツァルトの音楽はイタリアなしでは成立しなかった。その十数年後には、ワイマルの宮廷生活から抜け出したゲーテが駅馬車をとばして、「君よ知るや、南の国」と自ら歌ったレモンの花咲きオレンジのたわわに実るイタリアへ疾駆していった。
 当時峠にたった一軒だけあった木造り二階建ての駅馬車宿屋「プレンナー・ポスト」の主人は、宿屋のスケッチをしているゲーテに誇らしげに語って聞かせたという、「おらんちの雨樋から落ちる水は、半分はアドリア海に、半分は黒海に流れるんだ」と。


プロイセン人は愚か(529)
 ポメラニアとリトアニアの中間地帯では、一人の人物が平和的な宣教活動に従事していた。ヴィスワ川とネムナス川に挟まれたこの地域、つまりプロイセンで伝道していたのは、クリスティアンという名の修道士、おそらくポーランドのウエクノ修道院の院長であった。
 彼はシトー会に属し、1206年に異教徒たちのために布教をはじめた。この当時のプロイセン人の信仰については、当時の最も重要な資料である、ドゥスプルクの『プロイセン年代記』(1326年)に次のような記録が残されている。
「プロイセン人は、神について何も知らなかった。彼らは愚かだったので、理性によって神のことを理解することはできなかった。彼らは文字を知らなかったので、神のことを文書を通じて知ることもできなかった。彼らは神のことも知らなかったので、誤ってどんな被造物でも神的なものとして崇拝した。太陽、月、星、雷、鳥、四足の動物、ひきがえるすら崇拝した。」


不老不死の細胞(512)
 有性生殖を行う生物の細胞は分裂回数に限りがあるといってきたが、例外もある。生前細胞である。精子や卵子の染色体が一般の細胞のように短くなると、数世代後には不妊になってしまうだろう。実際、生殖細胞の染色体は短くならない。精巣や卵巣には、短くなったテロメアをもとの長さに戻してしまう酵素が存在しているからだ。テロメラーゼという酵素である。
…ES細胞とは、初期胚(胚盤胞)に存在する未分化細胞(機能や役割が特定化していない細胞)であり、培養下で未分化状態のまま増殖し継代培養することが可能である。この細胞は、テロメラーゼをもつために無限に増殖可能だ。
もう一つ、例外的に分裂限界をもたないものとして、ガン細胞がある。ガン細胞も、このテロメラーゼをもつことで、無限に増殖する能力を手に入れている。ガン細胞のテロメラーゼの作用を抑えれば、ガン細胞が分裂寿命をもつことになり、治療に応用できる可能性も出てきている。
細胞が不在不死になるメカニズムが、前述の細胞周期の研究やテロメアの発見により明確になってきた。


風呂饗応(562)
 経覚は日記に「林間」と記しているが、…これは「淋汗」のあて字と考えられる。「淋汗」は禅宗用語であり、禅宗寺院で夏に入る風呂を意味する。したがって、「林間」は基本的に風呂饗応と考えるべきである。中世においては風呂を焚くことは、客をもてなす趣向の一つであった。「林間」には茶湯だけでなく、食事や酒が伴う。風白から上がった後、宴会を行うのである。

フロジストン説(33)
 燃える物質にはフロジストンが含まれていて、これが逃げ去る現象が燃焼であるという近 代学説。アリストテレスの4元説(土、水、空気、火)以来、ようやくラヴォアジェが1 777年に酸素による燃焼理論を解明。酸素を発見したプリーストリは、自分では最後ま でフロジストン説を信じていた。

プロセス知(113)  
 技術者の思考プロセスの背後にあってプロセスを支配する「なにか」である。その「な にか」は3つの観点からとらえられる。
 能力の観点……プロセスを駆動する能力。図面等の設計生産物
            を考案したり解釈する能力。
  文脈の観点……プロセス知の能力の発現は、社会背景問題の
            構造や種類によって受けるし、技術者の関心に
            よっても変わる。プロセス知はそれを発現する文
            脈に影響を受けことを意味し、そのことは発現さ
            れるプロセス知に特徴を、たとえば組織に共有
            されるエンジニアリング・センスとして蓄積される。
 情報の観点……プロセス情報はいくら集めてもプロセス知にはなら
            ない。設計とはプロセス知がなんらかの情報によ
            って触発され、新たなプロダクト情報を生成する
            プロセスである。


ブロッケン山(180)  
 ハルツ山脈の伝説の山。ヴァルプルギウスの夜に魔女が饗宴を行う。霧が多く、プロッ ケン現象で知られる光を背にして立つ人の光の環の語源となる。いまではヴェルニゲロー デからハルツ狭軌鉄道ブロッケン鉄道の2時間で行けるSLが人気。

プロティノス(187)  
 3世紀ごろのネオ・プラトニズムの始祖。1者から流出した叡智の模像が世界(万有) であるという流出説(エマナティオ)を唱えた。叡智から魂が、魂から自然が、自然から 最下位の質料が流出する。それらは模像ゆえに流出したものは常に劣る。魂を叡智に高め るための神秘体験を魂の知的に高めていく作業で達成しようとする神秘思想の源泉となっ ていく。

プロテスタント(303)ヘルマン・ヘッセ
 カトリックの宗派がプロテスタントよりも有利であるのは、その様式美、すなわちそれが具体的で華やかな礼拝形式をもっているせいだけではない。とりわけ、教義が融通性と具象性を、はるかに大きな適応能力をもっているせいである。改革派の厳格な信仰は、自我の放棄を要求するが、それができる者はわずかである。
 カトリックの司祭は、ミサ用の祭服さえまとえば、ただちに司祭になれる。プロテスタントの牧師は、長いめんどうな説教で、自分が牧師であることを証明しなくてはならないが、誰も彼が牧師であることなど信じていないのである。プロテスタント的な性格をもつ宗教はどんな宗教でも、信者を神仏に対する劣等意識にもとづくやましい崇拝をするようにしつけるのである。


プロレターリ(24)
 古代ローマにおける無産者。子供という財産しか持たない者。

フロレンティノ・アメギーノ(348)
 人類「発祥の地」はアルゼンチンであったと主張したアルゼンチンの古生物学者(1859--1911)。後にピルトダウン原人論争に有力な反証を提示するスミソニアンのハードリチカは、このピルトダウンに似た民族主義的人類起源論に対しても論争し、その誤謬を正した。

文化(254)
 生物学的な観点からは「文化とは、遺伝子によらずに次世代へと受け継がれていく情報の体系」と定義される。一時的に伝達されるものではなくて、ひとつのまとまった系として存続していくものであることを意味している。…この文化的情報伝達の単位をミームと呼ぶ。

文化(303)ヘルマン・ヘッセ
 文化というものは、自然と対立するもので、人間が毎日を生きるためにどうしても必要なもの以外の、精神の領域に属するすべての発見と創造である。その最上位にあるものが宗教と芸術と哲学である。…この精神的財産を共有する者は、確固たる精神の共同体の一員であり、何人にも奪われ得ない財産を所有しているわけである。

分割被爆(415)
 チェルノブイリ事故後、施設内部に数年間に何度も入って調査したある科学者は総計9000ミリシーベルトの被曝をしたが、元気に生きていると聞いた。この被曝線量値は、瞬時に被曝した場合には、致死量であるが、このように分割被曝では、致死とはならなかった。この分割被曝の人体影響は、瞬時被曝よりも小さい影響となるようである。さらに、被曝の時間当たりの量、すなわち、線量率も人体への影響の仕方に変化を与えると考えられる。すなわち同じ線量値を、低線量率で被曝する場合は、それを高線量率で被曝する場合と比べて、人体影響は少ないようだ。生物の高度な修復機能と関係があるのかもしれない。この問題は、現在放射線生物学の重要テーマとして研究が続けられている。

文化の終焉(385)
 ヨーロッパ人なら、文化と文明を区別するのに、日本人ほどの困難を感じないだろう。文化とはcultivateすること(すなわち耕すこと)で、文明はcivilizeすること(すなわち野蛮状態を脱却すること)である。たとえばシュペングラーにとって、文化は文明の対立概念だった。文化とは力を内部に向けるものであり、「形式に富み、大地に生死を託する民族」 のものであるのに対して、文明は「もっとも外的な、またもっとも人工的な状態」であり、「農民生活を心から嫌う無宗教的、理知的、不産的な、全然伝統のない、純然たる実際的人間」 のものであるが、ヨーロッパでは19世紀に文化から文明への推移が行われたために、「現代は文明の時代であって、文化の時代ではない」というペシミズムが、大著『西洋の没落』を貫く基本理念となっている。つまりシュペングラーにとって、文明は文化の終焉を意味していた。

文鏡秘府論(364)
 空海の文章の創作法である。いわば、アリストテレスの 『レトリカ』 のような書物である。中国には、このような著作が当時つくられていたのであろうが、日本人にしてかかる著作をつくったのは、古今、例がない。この著作をつくるのは、よほど、中国の言葉に通じつつ、言葉というものにたいする深い関心とともに、自らも文章をつくるすぐれた能力をもたねばならない。わが大師(空海)を措いて、かかる能力をもつ日本人は古今を通じて見つけがたいであろう。 このように見ると『文鏡秘府論』は、わが国では、はなはだ珍しい、みごとな文学論であるといわねばならぬ。しかも、その文学論は、純粋に文学論であり、弘法大師の宗教活動とあまりかかわりをもっていない。…現在、ほとんど読む人はない。また読んでもふつうの人間にはわかるものではない。

分業と機械(448)p.68
 労働者は、きわめて精巧な機械にくらべれば、もはや、きわめて不精巧な機械の役闘を演じえたにすぎぬからである。だが工場は、機械によって免職された一人の男子の代りに、おそらく三人の子供と一人の婦人とを雇うであろう。!
か?では、この変則のブルジョア的きまり文句は何を諮問叫するか。他でもない、」骨か労働者
家族の生計を得るために、以前にくらべて今や四倍だけの務働者の生命が消費されるということ
である。

 これを要約すれば、生産的資本が増大すればするほど、分業と機械の使用とがますます増大する。分業と機械の使用とが増大すればするほど、労働者の間の競争がますます増大し、彼等ら賃金がますます収縮する。

分業論の原型(430)スミス
 のちの『国富論』との関係からいって、社会的職業分化の意味の「分業」の成立は市場の大きさによって制約される点を指摘している点である。たとえばスミスは1エディンバラ講義」でこうのべている、 − 「市場が広いときには自然に進行する一つの職業から他の職業の分離というようなことも、市場が非常に狭いときには、殆んど不可能である。例えば、田舎の村落では、荷運び人夫のような仕事は殆んど存在の余地がないのである。こうした事情の下に在っては、或る家から他の家に運搬を要するような重い荷物は、一年に一週間も一人の人に完全な職業を与えないであろう。このような職業は、かなり大きな都市においてはじめて他のすべての職業から完全に分離独立することができるのである。同じ理由で、都市の市場から非常に距っているすべての小さな村落においては、各家庭はそれぞれ自分たちのパンを焼き、また自分たちのビールを醸造するのであるが、このことによって各自の職業は中断され、またこのためにそうでない場合に必要であるよりもより多くの使用人を扶養しなければならないので、各自が多大の費用と不便とを伴うことになる。

分子的混沌(322)
 ボルツマンが仮定したことは、衝突の前には、衝突する二つの分子の状態は互いに統計的に独立である、ということである。分子は衝突したときに生じた関係の記憶(相関)を引きずっているが、実際には周りにいる分子とすぐに衝突して軌道は乱されていく。こうして、次に他の分子と衝突するときには、かつて衝突した相手のことは忘れている。だから、衝突の起こる頻度は、衝突時における分子状態の確率だけによるのであって、分子がどのような経過を経てきたかには依存しない。

分子テクノロジー(51)  
 分子はモレキュラー。高分子はポリマー。さらに分子をバルクで扱うのが対立概念であ るバルク・テクノロジー。ドレクスラーは「石片をシリコンチップ」に変身させた古来の 技術」と書く。 分子一個づつを自由自在に組立てる分子単位で構成されたアセンブラで実現されるナノテ クノロジーの世界。

ふんどし画家(258)
 宗教会議に基づいて、システィナ礼拝堂の天井画に腰布を着けたのは、ミケランジェロの第一の弟子を任じるダニエーレ・ダ・ヴォルテッラで、ミケランジェロの肖像や、スベイン広場の上のトリニタ・ディ・モンティ教会の壁画などの名作を残しているが、腰布事件があまりにも有名になったため、「ふんどし画家」の異名を与えられることになってしまった。

分配論(430)
 生産物は、三つの部分に分解し、土地の地代が控除され、ストックの利潤が控除され、労働の賃銀はその生産物の価値のごく一部分だけになってしまう。「貸銀と利潤と地代とは、いっさいの交換価値の三つの基本的な源泉であり、同時にすべての収入の三つの基本的な源泉でもある。…人間「労働」の生産物は、労働の提供者と資本の提供者と土地の所有者の三者のあいだで分配されることになり、スミスの分配論の骨髄はこのような形でつくりあげられていくのである。スミスの労働価値の思想は、その後、いわゆる搾取理論の原型として、やがてマルクスの労働価値論に引きつがれ完成されていく

分封(16)  
 超個体としてのミツバチ社会(基本的には女性だけの生命を維持するための社会)の唯 一の増殖手段。社会規模が一定以上になると新女王蜂の誕生を待って、旧女王が働き蜂を 率いて巣を出る現象。

文明(68)
 シュペングラー「高度の人類種が可能とするところの最も外的な、また最も人工的な状 況である。文明とは終結である。文明は成ることに続く成ったものであり、生に続く死で あり、発達に続く固結であり、田舎と精神的子供とに続く知的と老年、自ら石造であると ともに石化させる世界都市とである。文明とは取り消し難くも一つの終結である。」

文明体験(110)  
 トインビー「世界大戦といった文明的規模さらに世界的規模の戦争は一民族のできごと ではなく、文明体験と観念され、命名されるべきである。すなわち戦争とは民族的責任で ある以上に文明の責任の問題である。」

文明の衰亡(129)  
 遺跡の多くは乾燥し、荒廃した土地にある。初期の考古学者は単純にかって文明が栄え ていたときには、いまに見るような荒涼とした土地ではなかったと考えた。何らかの原因 、主として文明そのものの発展が自然を収奪した結果として環境が変化し、それによって 文明が衰退したと考えた。モヘンジョ−ダーロはその都市の基盤である燒成レンガを焼く ための過度の伐採によって乾燥化が進んだと言う。しかし最近の研究はそれを否定してい る。古代文明のある土地は確かに荒廃していたが、それはあくまでもヨーロッパのような 森に文明を築いた人間の視点である。

分離脳(196)
 右左脳を接続する交連線維(脳梁)を切断した脳。欧米でてんかんの治療のために行わ れた。左右の脳が完全に分離されるので、右左脳の機能を実験的に確認することができ、 これによってロジャー・スペリーは1981年にノーベル賞を受賞する。

分類(196) p.8 , p.94
 分類することは思想を構築することだ、と私は思う。しかし、ほとんどの人はそうは思っておらず、分類はただの道具だと思っているのかも知れない。われわれの日常はのべつまくなしの分類作業だといっても過言ではない。眼の前にあるものが食えるか食えないか、この男は敵か見方かそれ以外か。分類は道具ではなく、生きること自体である。
人間の認知パターンから独立した客観的な性質をことごとく選んで、それらを等価とみなす限り、そもそも分類という行為は成立しないのである。逆に言えば、分類することは重要な基準を選ぶこと自体なのだ。ア・プリオリに重要な基準などない。したがって分類することは世界観の表明であり、思想の構築なのである。


【語彙の森】