語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-8-31 計95語
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インノケンティウス3世の異端対策、イギリス人の寛大さ、イエズス会の創作態度、一向宗、イエズス会の信仰強制、生きるに価しない人生、イルマン・ロレンソ、石の永続性、意識の本質は自由、イェッセの樹、

帷幄上奏権(139)
 いあくじょうそうけん。三権分立の明治憲法において、それ以上の超越的な権利はない のに「陸海軍は天皇がこれを統帥する」という言葉から統帥権という軍と天皇に直結させ幻想の超越権を握ったのが参謀本部。内閣も議会も関係なく天幕で直接お上と相談する権利のこと。  

イエス最後の日々(144)
 イエス自身の最後の日々については記録はない。クムランの死海文書からは次の解釈もできる。……64年には彼は70歳であった。ローマで隔離されたまま老衰で死んだこと は大いにありうる。また家族があの帝国への希望とともに起こった迫害を恐れて北方へ旅 したのかもしれない。南フランスにはヘロデ家の所有地があった。そして聖杯のような多 くの伝説の発祥地となったかもしれない。70年にはエルサレムが炎に包まれ、74年に はゼロタイ党員たちはマサダで集団自殺をして絶滅した。ユダヤの王国についての実質的 な希望は何も残らないことになった。それは多くの人々の心に抱かれた精神的王国「神の国」になった。それはより永続的な形において現代でもわれわれとともにある。

イエズス会の信仰強制(528)
 伊勢神宮が秀吉に「伴天連」すなわち宣教師の成敗を訴えた結果として「覚」(伴天連追放令)が出されたことが判明する。伊勢神宮とイエズス会との聞に摩擦があったことはいくつかの点から窺える。
 キリシタン大名の領国であった肥前国大村領と有馬領でいずれも伊勢信仰が盛んであったことである。伊勢御師の残した記録では、大村純忠とその正室、及び家中が伊勢御師と交流をもっていたことがわかる。純忠が受洗したのは永禄六年であるから、受洗後も純忠自身伊勢信仰をもち、その家中でも伊勢信仰が存在していたことが窺われる。確かに天正二年に大村領では大規模な「異教徒」迫害があり、神仏への信仰に対する迫害が行われたが、その後も依然民衆は「異教徒」だったとの証言もあり、根強い伊勢信仰の存在が想像される。
 豊臣秀吉の対応として確認できるのは、伴天連追放令以前はイエズス会に対して好意的だったこと、追放令発布への急転は、知られる限り伊勢神宮の訴訟によること、そこで問題とされたのはイエズス会による信仰強制と神祇信仰や仏教への攻撃であること、である。
 すでに前節でみた安土宗論における織田信長の場合のように、他宗派への攻撃を正当とはみなさないのが、この時代の一般的な見方であった。さらにすべての宗派は結局同一であり、どれを選ぶかは大した問題ではないという見方も有力であった。言い換えれば当時の日本では宗派の共存と信教の自由とが原則であった。フランシスコ・ザピエルが来日当初、日本では自らの意思によって好きなように宗派を選ぶことができ、他人に宗派を強制したりすることはないと述べているのもこの点の傍証となろう。


イエズス会の創作態度(530)
 イエズス会土の態度行動は、私(ゲーテ)の観察の眼を捕えて放さない。教会、堂塔、その他の建造物は、その規模において何か偉大な完全なものがあり、それが万人の心にいつしか畏敬の念を起さしめる。装飾としては金、銀、その他の金属、彫琢された石などを眩いばかり豊富に使用してあって、あらゆる階級の乞食をば眩惑せしめずにおかない。ところどころに、民心と妥協してこれを引きつけるために、わざと没趣味に設えた点もなくはない。これは総じてカトリック教の外面的礼拝儀式の精神なのであるが、私はついぞイエズス会土におけるほどその理智と技能と徹底性との発揮されたものを見たことがない。何を見ても解ることは、彼らが他の教団の僧侶たちのように徽の生えた無刺戟な礼拝の式を墨守することなく、時代精神に適応して、華麗な装飾によって面白を新たにしていることである。

イエスの伴侶(472)
 マグダラのマリアに対するペテロの反感と敵意は、特別に主の寵愛を受けた彼女に対する嫉妬の現われでもあったと解釈される。『マリヤによる福音書』のなかでペテロは、マリアに面と向かって、「姉妹よ、救い主が他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています」と噛みついている。こうしたマグダラへの嫉妬はまた、抜粋集『フィリポによる福音書』にも表現されている。「[主は]マ[リヤ]を[すべての]弟[子]たちよりも[愛して]いた。[そして彼(主〉は]彼女の[口にしばしば]接吻した。他の[弟子たちは]彼が[マリ]ヤ[を愛しているのを見た。]彼らは彼に言った、『あなたはなぜ、私たちすべてよりも[彼女を愛]されるのですか』。救い主は答えた。彼は彼らに言った、『なぜ、私は君たちを彼女のように愛さないのだろうか』」。またこの福音書では、マグダラのマリアはイエスの「伴侶」とも呼ばれている。

イエス33歳(394)
 ドストエフスキーはカラマーゾフの序文に、13年後のアリョーシャを主人公にした続編を書くと書いたが、それを果たすことはなく死去した。…
…イワンの 「大審間宮」叙事詩で、キリストの地上における布教期間が 「3年」と特定されていることである。イエスの生涯、またその布教期間についてはさまざまな説があるが、マルコ福音書によって計算すると短くて1年足らず、長く計算すると2年余になるという。またヨハネ福音書をもとに計算すると、3年という数が出てくるらしい。ドストエフスキーは、この「3年」説を採用したわけである。またイエスの布教の開始時はルカ福音書に明確に「30歳」(ルカ伝)のときと記されているし、これについては異論がないようだ。するとドストエフスキーは、イエスが30歳で布教をはじめ、それから3年経った33歳のときに十字架にかけられた、と考えていたことになる。…この小説で20歳の青年として登場するアリョーシャは、13年後には33歳になっているはずだ、ということである。この33歳という年齢が、ドストエフスキーの理解していたキリストの没年とびたり一致するというのは、よもや偶然ではあるまい。13年という神話的な時間をドストエフスキーが必要とした最大の理由は、おそらくこのあたりにあったのだろう。「現代のキリスト」たるアリョーシャは、キリストが十字架にかけられたのと同じ33歳のときに、おそらくは 「ユダ」 の密告によって、官憲にとらえられ、処刑される運命であったのにちがいない。


 ■イエーダーマン(186)  
 バイロイトに対抗して第一次大戦の灰燼の中、1920年から開催されたのがザルツブ ルグ音楽祭。ホフマンスタール、リヒァルト・シュトラウスらによって実現。その第一回 の演目のイエーダーマン(エブリボディ)で、この成功がこの音楽祭の呼び物となる。

 ■イエーツ(145)
 若きジョイスが文豪イエーツにはじめて会ったとき、「あなたは僕から影響を受けるに はあまりにも年取りすぎている」と言い放ったというあまりにも有名なエピソードは事実 ではない? イエーツは、ジョイスの詩の出版に紹介の労をとっているし、ジョイスもイ エーツの作品の翻訳を行っている。

イェッセの樹(514)
 スゲリウスは、「イェッセの樹」と称されるあの壮大な図像の創案者であったらしい。少なくともサン・ドゥニの芸術家たちは、スゲリウスの眼の前で、その完全な形を作り上げたのである。この構図はまことに見事なものであったから、その後の数世紀間は、それを模倣して力の抜けたものにすることしかできなかった。イェッセの体から大樹が生え出る。国王たちが坐った姿で次々と積み重なりながら、象徴的な樹の幹そのものを形造ってゆく。
彼らはまだ、後代のものに見られるように、笏杖などは持たず、吹流しを手にすることもなく、竪琴を弾じてはいない。彼らは何もせず、ただそこにいるだけで満足している。というのは、彼らの真の任務は、運命の定まっていた民族の系譜を伝えることにあったからである。…そして次に掲げるイザヤの章句の具象化としての何という見事な仕方であろう。「イェッセの幹より一つの芽もえ出で、その幹の頂に一つの花咲き、その上に主の霊とどまらん。」

 ■イエナ・ガラス(85)
 アッベと共にツァイスの基礎を支えたレンズ用ガラス作りのオットー・ショットによっ て作り出されたガラスの総称。テッサー、プラナー等々としてレンズに磨き上げられる。 日本でも六桜社の最初のヘキサーF4.5もこのガラスを輸入して使用していた。

イエニチェリ軍団(440)
この橋(ドリナの橋)は1571年にトルコの大宰相ソコル・メフメド・パシャが命じて建設させたものである。この橋の歴史は、オスマン・トルコ帝国のイエニチェリ軍団によるセルピア少年の略奪にはじまる。イエニチェリ軍団とは15世紀から制度化されたオスマン帝国の特殊軍団である。イエニは、小アジア・トルコ語で「新しい」、チェリは「兵」を意味し、イエニチェリは新設の兵の意味になる。このイエニチェリ軍団は、東南欧における被征服地の、とくにキリスト教徒の居住地域から、5年目ごとに、10歳から15歳の少年のうち、美しく、健康で、頭のよい者を選び出して、デウシルメ(強制徴収)という形式で軍団の中に吸収した。少年たちは、両親のもとから引き離され、オスマン帝国の首府コンスタンチノープルに送られ、そこで回教徒としての訓練・教育を受ける。やがて、成年に達すると常備軍に編入されてスルターンにつかえる。自分は奴隷でありながらさまざまの特権が与えられ、一部には宮廷につかえる高級官僚ないしサドラザム(大宰相) となって政治的支配層にはいる者もいた。

■イギリス人の寛大さ(554)
 当時、われわれは、自国民の独立実現への努力を始めていたが、心の底では、イギリス国民の寛大さに対して信頼を持っていた。この信頼が独立実現への努力をする人々の間で深かったので、かれらは、この征服された民族の独立への道が勝利民族の思寵によって敷かれるだろうと一時決め込んでいた。というのも、一時は、虐待に苦しんだ民族の避難所が、イギリスにあったからである。自民族の尊厳を守るため、最大の努力をした人々のために、躊躇もせず場を与えたのは、イギリスであった。私はイギリス民族の性格の中に、人類友好の純粋な範例を見ていた。そこで私は、心からの尊敬の念をもって、イギリス人を、私の心の最高の座に坐らせていた。当時はまだ、イギリス人の性格の寛大さが、帝国主義の倣慢さの狂乱によって汚されていなかった。


イギリス的想像力(82)
 近代以降の美術では、ブレイク、ターナー、P・R・Bがイギリス的想像力を代表する ものとして、いまや国宝的な存在になったという事実が現在のテート・ギャラリーを訪れ ると納得される。

イギリスに対するアメリカの敵意(205)
 イギリスに対するアメリカの敵意は第二次世界大戦の終結時にもまだ著しかった。…… 「イギリス国内においてあまりにも忌々しい社会主義を、そして海外であまりにも忌々し い帝国主義」と非難。

生きるに価しない人生(526)
 治療教育におけるシュタイナーの基本的な考え方は、次のようなものである。人間の精神的本質は決して病むことはない。しかし、肉体という道具に欠陥がある場合、物質の中に精神が十分に展開できないことがある。そのような子どもの人生は「失敗」したわけではない。むしろ、子どもはそのような在り方を通して、「別の種類」の人生の課題を背負っている。そして、その課題を成し遂げるためには、同胞の人々の助けが必要なのである。ここには、「生きるに価しない人生」というような考えが入り込む余地はない。

イグアス(237)p.2
 パラグアイの先住民族のグアラニー族は「イ・グアスー」と呼んでいた。イは水、グアスーは大いなるである。ちなみに南ア諸国の国語はブラジルを除いてスペイン語であるが、ここパラグアイではこのグアラニー語がスペイン語とならんで公用語となっている。

イグナーチー・グリネヴィツキー(422)
 1880年、こうして作家(ドストエフスキー)の部屋の壁の向こう側に、最も危険なロシアのテロリストの一人が暮らすことになったのである。それは、…皇帝に対するここ最近のあらゆる暗殺の企てに関わっていた、まさにあのアレクサンドル・バランニコフであった。…この部屋には
  ・アレクサンドル・ミハイロフ 「人民の意志」の指導者
  ・アレクサンドル・コルバ   背の高い金髪の名高い美女 ミハイロフの恋人
  ・ニコライ・クレトチニコフ  「守護天使」と呼ばれる最も謎めいた男→第三部のスパイになる
が出没した。…12月、バランニコフは、マーラヤ・サドーヴァヤ通りで、ようやく自分が必要としているものを見つけた。…ミハイロフスキー調馬場では、毎週日曜日の行事として近衛軍の衛兵整列が行われていたが、そのミハイロフスキー調馬場から冬宮へと皇帝が帰宅する際通過するのは、まさにこの道り、マーラヤ・サドーヴァヤ通りであった。
 1881年1月25日マーラヤ・サドーヴァヤ通りのチーズ店の地下から通りの下に地下道を掘り始めた。…アレクサンドル・バランニコフ、アンドレイ・ジェリャボフ、セミョーン・ボグダノヴィッチらが掘った。
 2月27日党員トリゴーニの部屋で実行班のリーダであるジェリャボフが捕まった。しかしマーラヤ・サドーヴァヤ通りのチーズ店に手入れが入った。店主に変装したボグダノヴィッチは覚悟したが、なぜか逮捕を免れた。当局は…暗殺が計画されているという情報はいくらでも入ってくるが…(これをなぜか無視した。)
 2月の末までにマーラヤ・サドーヴァヤ通りのチーズ店の地下道は完成し、あとは、その地下道に爆弾を設置しさえすればよかった。もし皇帝が別の道、すなわち、エカテリーナ運河を通った場合に爆弾を投げつけることになる役も、みずから志願した四人が決定された。
   ・鉱山大学の学生で平民のニコライ・ルィサコフ
   ・工業大学の学生で二四歳のポーランド人貴族のイグナーチー・グリネヴィツキー
   ・若い労働者のチモフェイ・ミハイロフとイヴァン・エメリヤノフ
というメンバーであった。投弾者の四人は地下アジトに集合し、技術責任者のキバリチチが手相弾の装置を彼らに説明した。28日もう以前の幹部は逮捕され誰も残っていなかった。ソフィア・ペロフスカヤが会議を仕切った。
 3月1日午後1時 チーズ店のボグダノヴィチと彼の妻役ヤキーモヴァは店を出て、ダイナマイト専門家のフロレンコに交代した。ペロフスカヤがハンカチで鼻をかむ合図で、皇帝がエカテリーナ運河沿いのコースをとることが分かった。運河で馬車を迎えるはずのチモフェイ・ミハイロフは雲隠れしてしまった。ニコライ・ルィサコフが馬の蹄の下に爆弾を投げ込んだが、馬車の後部を破壊しただけだった。皇帝はすぐさま取り押さえられたルィサコフに話しかけ、さらに爆発現場にもどる途中、イグナーチー・グリネヴイッキーが足下に爆弾を投じた。グリネヴィッキーも吹き飛ばされた。
出血多量で衰弱した皇帝を運ぶのを手伝った者の中には、三人目の投弾者イヴァン・エメリヤノフがいた。エメリヤノフは脇の下に「書類鞄」を抱えていた。これは爆弾であった。彼は、自分より前の投弾者たちが失敗した場合、皇帝を殺すのにその爆弾を使うことになっていたのだ。
 (以上アレクサンドルU世の直接の殺害者はイグナーチー・グリネヴィツキーであった。)

イグラウ(359)
 イグラウは、プラハからウィーンへの主要道路に位置する。マーラーには、その小さく住みにくい町を出るのに、とりわけ差し迫った理由があった。イグラウの彼の家は、母親がひどい頭痛と婚姻の不幸に耐え、兄弟が棺で運び去られる間にも、父親は階下で営業する居酒屋でばか騒ぎをしているような、生き地獄であった。マーラーの最も早い作曲は6歳のときで、葬送行進曲のあとの陽気なポルカだった。周囲の森や草原に彼は慰めを求め、少年時代を果てしない空想で過ごした。「野原の花が僕に教えてくれること」が彼の交響曲第3番の楽章のタイトルとなり、彼の「亡き子をしのぶ歌」は、小児の死亡率への大人の無関心に対する怒りを表わした。

イーグルネスト(513)
 1936年、ボルマンはあろうことか、オーベアザルツベルクを一望のもとに見おろすことのできるカールシュタイン山上に、新しい山荘をつくることを計画したのである。カールシュタイン山は標高1887メートル、オーベアザルツベルクの南にそびえるホーハー・ギョル(2522メートル)から北西に、ベルヒテスガーデン方面に伸びた支峯である。
 バルクプラッツェからは、水平に128メートルのトンネルが掘られ、そこから垂直に130メートルものぼるエレベーターが設置された。これはヒトラーが、頂上まで道路をつくることで、山頂の美しきがそこなわれることをこばんだからだという。また、山上の巨大エレベーターによって、ヒトラーの威光を示せるという別の目的もあったのだろう。エレベーターの動力には、なんとUボート用の発電機が流用されていた。頂上の山荘はカールシュタインハウスと名づけられた。しかし、この名前は、「イーグルネスト(鷲の巣)」のほうが一般的かもしれない。
おそらくこれこそは、数多くの「ヒトラーの城砦」のなかでも、美しきでは最高傑作といえるであろう。


池田清彦(219)p.32
 自然物と人工物の区別については池田清彦氏の議論がたいへん参考になる。(分類という思想) 自然物は相手がいかに変化しようと名前が変化しない。池田清彦という名は、口がきけない赤ん坊の時代から、理屈ばかりいう中年に至るまで池田清彦である。…しかし人工物はそれを用いる人間の設定した枠組みのなかで名が定まる。

イコノクラスム(58)
 聖像破壊運動。東方キリスト教会における聖像否定的教理が高まった8世紀以降の過激 な破壊運動。カッパドキアの岩窟修道院の多くはこのイコノクラスム時代のものであり、 知られるような壁画が描かれた岩窟の方が少ない。  

イーサー(387)
 共通の歴史認識と巡礼の記憶が、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教をつなぐのである。「道であり命である」とされたイエスも同様であり、イエスはイーサーとしてイスラム教の預言者の一人に位置づけられる。こうした「共属意識」と巡礼の記憶が、一種のシンクレティズム(習合現象}を引き起こす。アブラハムの墓所があるとされた、イエルサレム南部の聖地ヘブロンのマクペラの洞窟には、キリスト教の教会とモスクがあり、中世のキリスト教徒とイスラム教徒のみならず、ユダヤ教徒もマクベラの洞窟に巡礼ないし参詣した。

意識の流れ(145)
 stream of consciousness. ユリシーズでジョイスが完成した表現手法。ある人間の行 動や会話のあとの地の文を外形の描写ではなく精神の独白風に、意識の流れをそのまま描 写しようとした。だからユリシーズには通常の小説のようにストーリによって動きや骨格 を与えることがない。

意識の本質は自由(517)
 現実にないものが意識にあらわれるのは、意識の側からいえば、意識が現実にないもの(イマージュ)を作りだすということである。現実の世界が決定論的なものであるとしても、現実にないものを作りだす機能は、決定論的支配を受けないから、意識の本質は自由」だということになる。かくして一方には、物そのものの「偶然性」があり、他方には、意識の「自由」があるだろう。前者の文学的表現が、「吐気」であるとすれば、後者の文学的表現は、戦時中に書かれたた戯山「蝿」(1943)である。

石塚三郎(297)
 石塚三郎旧蔵ガラス乾板の発見・収集にいたる経緯(渡辺史生)
 1996年夏、新潟県安田町数育委員会に、同町保田にお住まいの石塚セツさんから、石塚三郎氏の遺品を町に寄贈したい旨の申し出があった。石塚氏と言えば大正から昭和の初期に歯科医・代議士として活躍し、親友野口英世の顕彰に尽くした人物であり、地元では「郷土の先賢」の一人としてよく知られている。安田町ではお申し出をありがたくお受けし、翌年に開館を予定していた「町立岩田東伍記念博物館」がこれを収蔵、管理することになった。寄贈された石塚三郎氏の遺品は、6〜10枚の写真ガラス乾板が納められた紙箱が百数十箱。むき出しのままの乾板が数十枚。総数で約2,200校。これを主体としてそのほか、歯科医学、政治、歴史、美術、写真関係書籍・雑誌が多数。それに若干の手紙類、プリント写真、アルバムなどであった。


石の永続性
 石の永遠性というものは、無気力(イネルシ)の同義語であって、永遠に凝結された現在なのである。

石原莞爾(95)
 1925年、ライカTaが発売されたその年に、留学の帰りにベルリンで購入。ライカ を最初に手に入れた日本人となった。 (115)参謀本部作戦部長時代、盧溝橋事件後は不拡大派として華北への派兵を押さえ ようとしたが、下克上的陸軍参謀武藤章らの拡大論によって失脚。

イシュマエル(6)
 イスラエルの始祖、アブラハムの妻、サラは子を持たなかった。そこで異教徒の召使い ハガルにより血筋を残そうとした。その子がイシュマエルである。後に神の恩寵によって サラがイサクを生むと、逆にハガル親子を砂漠に追いやる。イシュマエルは荒野に住んで 弓を射る者となった。これがアラブ人の先祖であり、マホメットもその末裔とされる。 

イシュルディアの禍い(271)指輪物語
 エルロンド「わたしはオルドルインの山腹で戦われた最後の合戦もこの目で見た。その戦いで、ギル=ガラドは死に、エレンディルは倒れ、名剣ナルシルはかれの体の下で二つに折れた。しかしサウロン自身もこの戦いで打ち倒された。イシルディアが父の剣の束元に残ったやいばのかけらで、サウロンの手から指輪を切り取り、これをわがものにした。」
 イシルディアはゴンドール南方王朝の創始者エレンディルの子。「イシュルディアはそれを取った。それは取ってはならないものであった。それは、その時手近にあった、昔それが作られたオロドルインの火の中に直ちに投げ込まれるべきであった。」

イシルディン(271)指輪物語
 ガンダルフ「これらの線は、イシルディン(という金属)を用いて描かれている。それは星の光と月の光だけを反射し、中つ国ではもうとっくに忘れられた呪文を唱える者が手で触れるまでは眠っておるのじゃ。」
モリアのデュリンの扉には「モリアの領主、デュリンの扉、唱えよ、友、そして入れ。」「われ、ナルビ、これを作りぬ。ホリンのケレブリムボル、この図を描きぬ。」と書かれていた。


イスカンダール・ズルカルナイン(411)
 (2世紀あまり東方に繁栄を誇ったアケメネス朝最後の王となる)ダリウス三世はマケドニア軍との遭遇戦を避けて退いたので、アレクサソドロスはフェニキアの諸港を占領してペルシア海軍を駆逐した。彼は小アジアのゼウス・アンモンの神殿で神の子であるとの神託を受けた。ふたまたの角のある兜を用いたので「二つの角の君」(ズルカルナイン)と呼ばれるようになったのはこの時のことであった。西アジア、中央アジアで彼が「イスカンダール・ズルカルナイン」(二つの角のアレクサンドロス)と呼ばれるようになった起りは、この伝説に始まるといわれている。

椅子の思想(139)
 軍の中心にいる軍人は、その椅子が思想を持っていただけであって、その椅子にだれが 座ろうとも、その椅子の思想で振る舞い、ものを言い、そして交代していく。だからその椅子が悪いんだといって、斧でたたきつぶしたところで、歴史の解明にはならない。

 ■イスラエル(6)
 神と戦って不屈な者。アブラハムの子、イサクその子ヤコブ。双子の次男で、イスラエ ル12部族の始祖であり、兄エサウと長子権を争う。  

イスラム世界の分裂(438)
 750年、アッパース朝革命と呼ばれる革命運動によってウマイヤ朝が滅び、アッパース朝が成立すると、ウマイヤ家の王族の一人アプドッラフマーンがシリアから逃れてスペインで独立した。これが「アンダルシアのウマイヤ朝」、いわゆる後ウマイヤ朝(756-1031年)で、ここにイスラム世界は分裂した。
…イスラム教徒はキリスト教徒のレコンキスタによってしだいに南部に圧迫され、14世紀には、イベリア半島南岸に近いグラナダを都とするアラブ系のナスル朝(1232-1492年)がわずかに残るのみとなっていた。この王朝の始祖ムハンマド・プン・ ユースフは、自己の軍事力では到底力スティーリャの進撃をくい止めることができないと判断し、フェルナンド三世に臣従の誓いを立てた。彼は、近隣のイスラム教徒の反抗に対してはキリスト教徒の援助を得、キリスト教徒に対しては北アフリカのイスラム教徒の援助を得るというように、巧みな外交政策によってその地位を築き、それは代々の基本政策として受け継がれた。その結果、ナスル朝は以後二世紀半も命運を保つことができたのである。


異数性(240)p.326
 遺伝子の先天性欠損症の大半は、胚の染色体の数が多すぎたり、少なすぎたりすることが原因であり、これを染色体の異数性と呼ぶ。たとえば21染色体のコ゜ピーを1ケ余分に持つとダウン症となる。クローンを危険視する意見に対して、クローンでは、正常な成人の正常な細胞から作るから染色体異常が起こらないから、通常の妊娠より安全だと主張する学者もいる。

イーゼンハイム祭壇画(183)
 画家マティス(グリューネヴァルト)のキリスト磔刑図はコルマールとカールスルーエ にある。イーゼンハイム村の聖アントニウス施療院礼拝堂の9面の絵はコルマールのウン ターリンデン美術館に移されている。聖アントニウスの誘惑に描かれた世界は幻想ではな く、まさしくペスト禍の中世世界そのものである。現実世界の過酷さに対して、キリスト はより悲惨であったことを示すために十字架上のキリストは徹底的に惨い受刑死体として 描かれた。磔刑図の右に立つのはバプテスマのヨハネで、「この人を見よ」と指差す線上 に「かの人こそ栄え、われは衰える」の文言が記される。左側は失神するマリアと、これ を支える使徒ヨハネ、跪くマグダラのマリアが描かれる。  カールスルーエの方は、構図はシンプルで、キリストの死体表現を徹底している。

イゾラ・ベッラ(185)
 美しい島の意。ベッラ島である。イタリア北部湖水地方、マッジョーレ湖内の島。島そ のものがボッロメオ家のバロック宮殿と庭となっている。17世紀、この岩山の島を40 年をかけて十階層のテラス式庭園と宮殿に作り変えてしまった。過剰な豪華さ。ストレー ザから船。マードレ島。ペスカトーリ島と共にマジョーレ湖の真珠(三姉妹)と呼ばれる。  

遺題承継(343)
 江戸時代、和算の世界には遺題承継という習慣が登場する。算術家甲が著書を出版するとき、回答をつけないで問題を載せておく。それを算術家乙が回答して本にする。そのとき、また新たな問題をつけておく。それが次から次へと繰り返される。当然、問題は難しくなる一方である。西洋からの文物の輸入が禁止された中で、日本の数学が独自の発展を遂げた理由のひとつである。

イタリア(344)
 イタリアといういい方は、つい最近の1849年でさえ、一つの地理的表現に過ぎなかった。1830年代、ヴェルデイがパルマからミラノ(オーストリア領)へ行くには、旅券が必要だった。ロッシーニはローマ教皇領の市民であった。またドニゼッティは正式にはオーストリア人であった。

イタリア(474)
 「イタリアの不和の源を滅ぼしたのだ。」マキアヴェッリは、思わずきいていた。「イタリア?」チェーザレは、その鋭く光る限で、マキアヴェッリをじっと見つめて言った。「そうだ、イタリアだ。」
イタリア。この言葉は、何世紀もの間、詩人の辞書以外には存在しなかった。マキアヴェッリの知合ったどの人物も、その地位の上下を問わず、誰一人この言葉を口にした者はいなかった。当時のイタリアには、フィレンツェ人、ヴェネツィア人、ミラノ人、ナポリ人はいても、イタリア人はいなかったのである。
 しかし、イタリアの統一は、チェーザレにとって使命感からくる悲願ではない。あくまでも彼にとっては、野望である。チェーザレは、使命感などという、弱者にとっての武器、というより寄りどころを必要としない男であった。


イタリア式簿記(251)  
 イタリア式簿記を習得した人ならば、それが商人にとってじつに役に立つ独創的な方法の発明であり、また商業を発展させ、商取引を促進するのに貢献してきたのを認めるはずである。
貸方と借方からなるこの複式簿記は、15世紀のイタリアのいずれかの商業都市で起こった。(アラビアから移入されたのではないか。


イタリア人(151)  
 ローマの市民権は投票権と控訴権まで持つ完全市民権であるローマ市民権と、それらの 権利までは持たないラテン市民権があった。さらにその外側のローマ連合に加盟している 同盟都市の市民がいたが、これらの人がイタリア人と呼ばれた。これらの同盟人がBC9 1にローマ対して起こした反乱が同盟者戦役。コルフィニウムに首都を起きイタリアを建 国するが敗北する。その後イタリア人が祖国を建国するのは19世紀のことである。

イタリアとインド(482)ガンディー
 19世紀イタリアの民族解放運動が、同時代のインド・ナショナリズムの覚醒に与えた外的影響は大きかった。それは一つには、外国支配の排除と民族の統一事業を同時に推進しなければならなかったイタリアの国内情勢が、インドの歴史的課題と類似していたためであったが、それとともに、イタリア統一運動の促進者であるマッツィーニ、ガリパルディらの熱烈な愛国心が、インドの青年層に民族意識をかきたて、自由へのあこがれを、いやがうえにもつのらせたためであった。
…ここで、イタリア解放戦争とインドの自治獲得の戦いとの本質的な相違が明示される。すなわち、前者が武力による政権の奪回を目的としたのにたいして、後者はあくまでも、「正しい目的に至る浄化された手段」としての非暴力による受動的抵抗でなければならないという。

イタリアのはしご(356)
 ドイツ人の器楽的な世界は、イタリア・オペラという梯子を昇ることによって初めて到達し得たものである。しかし新興ドイツは、一旦その梯子を昇ったあとで、それを蹴り倒し、以後は口を拭ってイタリアの梯子などは最初から存在しなかったようなふりをしているのである。

一密成仏(348)
 鎌倉仏教は天台宗の分流として発展し、その選択の方向をいっそう徹底させ、最澄の信行の精神を発揮して文字どおりの日本仏教が誕生したのであった。…ところが、別箇の立場からみれば、鎌倉仏教の選択は密教の一密成仏の徹底化の方向をおしすすめたものといえよう。すなわち専修念仏の浄土宗と唱題成仏の日蓮宗とは口密(語密)成仏、公案話頭の臨済宗と只管打坐の曹洞宗は身密成仏、信心為本の真宗は意密成仏の点で、密教と共通項をもつ。

一向宗(528)
 戦国期に「一向宗」の語で表される宗旨は、真宗本願寺派のみではないからである。近世の本願寺教団が「一向宗」と呼ばれたのは確かだが、「一向宗」の語は中世ではもっと広い対象を指していた。
越前国吉崎で伝道していた本願寺蓮如のもとに集まったのもこうした人々であった。蓮如は「本願寺の宗旨を他宗の者ならともかく、自ら「一向宗」と称するのは大きな誤りで、親鸞の命名のとおり「浄土真宗」と呼ぶべきである」と述べている。
 戦国期は、前述のように家族の鮮が一般的に意識されるようになり、先祖や家族の死者の供養が問題となった時代であった。…フランシスコ・ザピエルは、日本のキリシタンが、死んだ父母や妻子を地獄から救う手立てがないかをザピエルに尋ね、それがまったくないと回答すると必ず泣く、と記している。
このような時代に、死霊を供養する力をもつと認識されていた「一向宗」が人々の中に浸透し、本願寺との寺檀関係が展開していくのは見やすい道理といえよう。まさに親族の供養が意識され始めた庶民の世界の中で、念仏を掲げる本願寺は、自分たちの檀那寺として、頼もしくなじみ深い存在にみえたのかも知れない。


一切の断念(455)
 そして突然の、いまだに根拠のはかり知れぬ、あの<一切の断念>と、それにつづく狂気の時間のあいだに憂鬱な変貌を強いられてしまっていた。…。不意に、俗物の価値である日常は無に帰し、遠い悲惨な、めらぬらと皮膚のずるけてゆくような過去の感覚に彼は捉えられた。そして彼はたちまちにこの時代に対する順応能力を失ってしまったのだ。

一般者(364)
 空海の喜び悲しみは容易にわからない。もとより、彼はすばらしい詩人で、その詩は、情感が豊かである。それなのに、われわれは、彼の詩から、あまり、人間空海を感じとることが出来ない。それは、どういうわけであろう。それは彼があまりにも、完璧なレトリーカーであるゆえではないか。自己のすべての感性を、みごとな詩文で修飾する、そういう見事なレトリーカーとしての側面が、われわれをして、容易に彼の人格の核に近づかせないのではないか。彼はいつも、一人の個別者であるよりは、一般者として行動していたように思われる。大日如来は宇宙の中央にある仏である。それは一般者である。この大日如来と一体となることを、最終目的とした空海は、また、世俗的世界においても一般者であることを目標としたのではないか。一般者であることは、絢欄たるレトリックによって修飾された型の言行をすることである。

一般設計学(96)
 吉川弘之が創始した工学設計の一般化概念。人間の概念はトポロジー的であり、設計行 為はトポロジーで、集合と位相で説明できるとした。それまで理研で砥石という実学を追 求して、東大に戻った吉川は実験室から全ての実験装置を廃棄して、この概念を追求した 。設計とは幾何学図面を扱うことではなく、人間の思考作業であると言う。問題は自由度 がとても大きいために、それを十人の人にやらせると、ものすごく違ってくる。それは最 適でないということである。 発達心理学のピアジェのシューマ(概念の関係図)は部分集合にあたり、経験によって 獲得されたシューマが相互に関連して増殖していく。これは位相演算であるが、概念の獲 得は設計とは関係ない。設計とはシューマがいくら増えても設計にならない。シューマが 饗応して始めて設計になる。

イディオ・サバン(163)(252)
 天才白痴。サバン症候群。鋭すぎる視覚を持ち、この視覚記憶が異常に優れているため に、電話帳をそっくり記憶したりする。
 ダウン症のダウン博士は約100年前に 「白痴のサバン」という思いもよらない二つの言葉をつなげた用語を作った。サバンとは「知る」「学問のある人」という意味のフランス語である。


イディッシュ(308)
 ユダヤ人とは最もうまく意思疎通ができた。中高ドイツ語から派生した、イディッシュという言葉の関係からだけではない(中世ドイツ語とヘブライ語との混成語との混成語で、ドイツおよび中・東欧のユダヤ人によって用いられている)。…思考の世界におけるある種の共通点が、われわれと話をしたがらせたのではないか。
戦後、ソ連に拉致され、ロケット研究をさせられたV2ロケット研究者であるマグヌス博士の発言。


射手座の新星(466)
 1604年、ガリレオの生涯をもう一つの方向へとおしゃる事象が起こった。それは射手座に新星が出現したことである。この新星の出現という現象は当時世間の大きな注目の的となり、ガリレオもいろいろと意見を求められた。そこで彼もこの新星の観測を行い(まだこの段階では望遠鏡をつくってはいない)、これについて三つの講演を行った。…そこでガリレオはこの新星の視差が観測されないから、それは月よりもはるか上の領域で起こっていると論じたらしい。この意見は、月より上の領域は第五元素という不生不滅の元素からなっているから、そこには生成消滅はありえないとするアリストテレスの学説と抵触することになり、直ちにアリストテレス哲学者であり、ガリレオの友人にして論敵でもあるクレモニーニの反論をよんだ。…またドミニコ会のコロンベは『新星についての論議』で、この新星は新しいものではなく、旧くからあったが肉眼では見えず、それが天球をつくっているクリスタルのレンズ効果により鉱大されて見えているだけだとして、アリストテレスを擁護しようとした。これに対しガリレオはマウリなる偽名で一書をものし、これを数学的に反駁し、愚弄した。

遺伝子(21)  
 遺伝子は純粋な情報であり、量の低下や意味の変質を招くがことない。純粋な情報はコ ピーすることができるし、デジタルな情報なので、複製の忠実度は測り知れないほどだ。 ちょうどまれに変種ができる程度のエラーをともなうだけで、世代から世代へとコピーさ れていく。もっもアナログ的存在と考えられた人間が遺伝子というデジタルの川の流れの 媒体にすぎないというのが面白い。

移動の野心(482)ガンディー
 ところでもう一つ、人聞は本来、手足を動かすことによって可能な範囲内に行動を制限するようつくられていることを付言しておきたい。もしわれわれが、鉄道とか、そのほかそういった類の気狂い沙汰の手段を用いて、西から東へとかけまわるようなことをしなければ、今日見られる多くの混乱は避けられたことでしょう。われわれの困難は、自業自得というものです。神は人間の移動の野心を、その身体の構造にかなった範囲に限りたもうた。人間はたちまちにして、その限界を逸脱する手段を発見しはじめた。

いとしいしとにかけて(273)指輪物語
 フロド「スメアゴル、お前はこんなものに言質を与えるのか?」ゴクリ「スメアゴルは、決してあれをあいつに渡さぬことを誓う。決して渡さないよう!…しかしこの二人はある意味では同類でした。異質なものではありませんでした。二人は互いに相手の心に届くことができました。ゴクリは体を伸ばして、フロドの膝のあたりを前足でじゃれるようにひっかき始めました。

祈りの大実験(477)
 奇跡に関する、興味深く、むしろ哀切でさえある一つの事例として、「お祈り大実験」というものがある。患者のために祈ることで、実際に回復が促されるということがあるのだろうか?研究者チームは、あらゆる嘲笑を尻目に果敢に突き進み、ボストン近郊にある心身医学研究所の心臓医、ハーパート・ベンソン博士の指導のもとで、テンプルトン財団の240万ドルの金を費やして、辛抱強くがんばった。ベンソン博士は以前、テンプルトン財団のプレス・リリースで「医学的な場面で取りなしの祈りが有効であるという証拠が蓄積されつつあると信じている」という文章を引用されたことのある人物である。…2006年4月発行の《アメリカ心臓病雑誌》に報告された結果は、一目瞭然だった。祈ってもらった患者と祈ってもらわなかった患者のあいだに差はなかった。

イープルの戦い(59)
 第一次世界大戦で1914年、西部戦線が膠着する前、ドイツの進撃をフランス・ベル ギー国境でこれに頑強の抵抗したイギリス軍の戦い。過酷で大量消耗する凄惨な近代戦闘 の初の洗礼。ベルギーの古都で、オステンドの近く。  

イブン・ハルドゥーンの思想(438)
  イプン・ハルドゥーンは14世紀前半、北アフリカで生まれた人で、したがって彼に至るまでに、イスラム世界としてはすでに700年の歴史を経ていた。…欧米でこれほど高く評価されているイプン・ハルドゥーンの思想とは一体いかなるものであろうか。…彼の『歴史』やその序論としての『歴史序説』によって、歴史家であるとか歴史哲学者であるとかいわれることがある。しかし、彼は…単なる机上の学者ではなく、ときには政治家であり、ときには裁判官であって、彼自身の人生体験がその思想形成に大きく影響している。…そこで、学者によっては『歴史序説』を人類最初の文明批判の書であると述べたり、百科全書であると言ったり、また歴史哲学の書であるとか社会学を説いたものであるとか、その他さまざまな見方がなされている。事実『歴史序説』は、これらすべての面を含んでいるが、その思想の本質を端的に言うとすれば、それは政治理論を中核に据えた社会思想であるといえよう。

イマジマル・ディスク(106)
 完全変態する昆虫は、成虫(イマーゴ)の体組織を形成する細胞は孤立したバッチ状で 幼虫の体内に存在する細胞。この言葉は成虫が幼虫より高次なものであって、幼虫は未完 成な過程的存在であるという考えに基づく。それは人間の偏見ではないのか。 バトラーは比喩的に「卵は自らの分身である新たな卵を生産するためにめんどりを使っ ている」と書く。幼虫と成虫をそれぞれ摂食と生殖のための独立した環境に適応する装置 と考える。

今直ちに生きなければならぬ(460)セネカ
 ところで例の連中、つまり先々のことをいつも口走っている人間たちの考えほど愚劣なものがありえようか。彼らはますます良い生活ができるようにと、ますます多忙をきわめている。生活を築こうとするのに、生活を失っているのだ。彼らは自己の全てを遠い将来に向かって整えている。しかし事を先に引延ばすのは、生活を遥かに遠くに投げ出すことである。この引延ばしは毎日を順々に抜き取り、彼方のものを約束する一方で現在のものを奪い去る。
生きることの最大の障害は期待をもっということであるが、それは明日に依存して今日を失うことである。運命の手中に置かれているものを並べ立て、現に手元にあるものは放棄する。君はどこを見ているのか。どこに向かって進もうとするのか。将来のことはすべて不確定のうちに存する。今直ちに生きなければならぬ。…(略)…それゆえに幸うすき人間ども、つまり多忙に追われている者たちにとって、まさに最良の日は真っ先に逃げていく、ということに疑問の余地があろうか。多忙に追われている者たちの心は今なお幼稚であるのに、彼らの心を老年が不意に驚かせる。


今道友信(431)
 私はアリストテレスをそれほど好むものでもなければ、それほど高く評価するものでもない。やがて現われてくる私の『中世哲学研究』という書物にもあるように、今も私がむしろ哲学的に、また論理学的に興味を持つものは、西洋ではプラトン、ニュッサのグレゴリウスや、アウグステイヌスや、アベラールや、アンセルムスや、……。にもかかわらず、『同一性の塑性』や『美の位相と芸術』に始まる私の現在の体系的思索が少なくとも私の見るところでは着実に展開されていっていると思うのであるが、その基礎はアリストテレスが仕込んでくれたといっても過言ではないであろう。ともすれば堰を切って横に溢れ流れようとし、もしそうすれば涸れ尽くしてしまったであろう私の思索の泉を、その泉が豊かになるまで論理の骨組で守り育ててくれた学者、それがアリストテレスであるというほかはない。

今村博士の大地震襲来説(451)
 明治38年(1905)、東京帝国大学地震学教室の今村明恒(当時35歳)が、雑誌『太陽』9月号に、東京は50年以内に大激震に襲われるだろうから震災対策を一日も猶予すべきではなく、とくに火災が発生すると10万以上の死者が予想されるので石油灯を全廃して電灯に代えるべきである、という趣旨の論説を書いた。…翌年「今村博士の大地震襲来説」と題して、…センセーショナルに扱ったために、市民のあいだに不安が生じた。折り悪しく、2月24日の朝9時すぎに東京湾でM6.4の地震がおこり、東京市内は震度5の強震に見舞われた。
…こういう状況になって、地震学教室教授の大森房吉が、今村説退治にのりだした。大森は…明治30年以来教授として地震研究に打ちこみ、このころは震災予防調査会もほとんど一人で背負っていた。彼は雑誌『太陽』3月号で、大地震が近い将来東京を襲うという説は学問的根拠のないデマだときめつけた。…このあと、明治42年7月と大正2年12月にまた東京湾を震源M6.1とM6.0の地震があり…。…明治45年2月23日の夜から、伊豆大島の三原山が噴火を始めた。…大正4年(1915)11月12日未明、九十九里浜南部の一宮付近で群発地震山が始まり…大正6年(1917)の1月末、箱根で群発地震が発生した。最大でもM4.5くらいだったが、地面の小亀裂や小被害を生じ、有感地震は249回に達した。
…大正9年(1918)には山梨県東部でM6.3の地震が起こり……大正10年(1921)12月8日、茨城県南西部でM7.0の地震が発生した。…翌大正11年4月26日には浦賀水道付近でM6.8の地震がおこり、…東京駅前では、米国の最新技術によって丸ピルが八分どおりできあがっていたが、地震を軽視した設計のために外壁・間仕切壁などがかなり損傷した。…5月9日には、茨城県南西部を震源とするM6.1の地震があって、上浦や現在のつくば研究学園都市付近で小被害でた。
 年が明けて大正12年(1923)になった。1月14日にまた茨城県南西部でM6.1の地震が起こり、…五月下旬になると銚子東方沖〜鹿島灘で群発地震が始まった。そのなかで、6月2日にはM7.3とM6.9の大地震が発生して津波を発生した。何か異変がおこりつつあった。
…9月1日、土曜日。東京付近は未明からの暴風雨が10時ごろには収まり、真夏のような太陽が顔をだした。…午前11時58分、神奈川県西部の地底でついに岩盤の大破壊が始まった。それは、たちまち巨大な亀裂となって湘南地方と相模湾の地下に拡大し、さらに房総半島までの大地の底を切り裂いた。1703年元禄関東地震以来220年間たまりつづけた南関東全域のひずみエネルギーが、激しい振動となって一挙に放出された。M7.9の関東大地震の発生である。
…本震の揺れがまだ収まらない12時1分にまた強烈な地震が発生し、東京などでは第1震より強く感じた人もいた。24分、40分、48分にも大余震があり、16時38分には山梨県東部方面でM6.8の大地震がおこった。
…東大地震学教室では、大森教授がオーストラリアに出張中で、今村助教授が留守を預かっていた。だんだん激しくなる揺れをきわめて冷静に体感し、烈震が一段落すると地震計の記録を解析して、約30分後には、震源は相模湾だと発表した。…いっぽう大森は、シドニーのリバビュー地震観測所を視察していた。ちょうど地震計の前にたった午後1時9分(東京との時差は1時間)、描針が生き物のように動き出した。太平洋の遠方で大地震が発生したことを直観した大森は、それが東京付近であることを知って愕然とする。
 横浜港に戻った彼は、脳腫瘍が悪化して重態になっていたが、山迎えた今村に留守中の労を謝し、このたびの震災に重大な責任を感じていると述べた。大森はそのまま東大病院に入院し、11月に55歳の生涯を閉じた。

イマヌエル・ヴェリコフスキー(446)
 旧約聖書を始め世界各地に伝わる神話・伝説などを渉猟して、天変地異すなわちカタストロフを説明する大胆な仮説を立てた。…この医師の名はイマヌエル・ヴェリコフスキー(1895--1979)。1950年に彼が出版した『衝突する宇宙』は、全世界で数百万部という大ベストセラーとなった。…有力新聞や雑誌は、出版前からこの本を革命的な著作と書き立てたものである。そしてヴェリコフスキーを稀代の天才と称賛し、歴史や物理学の見方そのものを変えたとまで評価した。一般大衆にはヴェリコフスキー信者が大勢いたが、科学界は最後までこのロシア人を目の敵にした。理論構築のあらゆる段階で都合のいいこじつけや無視が紛れ込んでいることに、学者は我慢がならなかったのである。その結果、ヴェリコフスキーを連想させるものすべてが疑いの限で見られるようになった。たとえばごく最近私は、気候変動否定論者がヴェリコフスキーまがいと批判されているのを聞いた。

イマレクト(95)
 35mmから135mmの視野を示すユニバーサル・ファインダーVIDOMの正像タ イプの米国での呼称。

忌服屋事件(505)
 姉アマテラスが寛容なことをいいことに、彼(スサノヲ)のイタズラはエスカレートする。高天原に住むほかの神々の…反感を決定的なものとしたのが「忌服屋」(いみはたや)事件だ。忌服屋とは、アマテラスに仕える女たちが、神々の衣服である「神御衣」(カンミソ)を織るためにもうけられた機織り小屋のこと。あるときスサノヲは、何を思ったか、マダラ模様の馬の皮をはぎ、忌服屋の天井に穴を開けて、そこから馬を放り込んだのだった。…今度ばかりは弟をかばいきれないと悟った彼女はいたたまれなくなって「天の岩屋」と呼ばれる洞窟に駆け込む。そして岩の戸を閉ざしてしまったのだった。

意味を欲しがった時(458)P.251
 意味を欲しがった時、その人間の堕落がはじまり失墜がはじまる。理性的な哲学が登場した時が、あるいは人類の堕落のはじまりだったかもしれないのだ。人類が全体として、自分の存在理由を宇宙に向けて問えば、どうなるか。そこには人類全体の静かな、あるいは激烈な自殺しかありえない。いや、そうではないのかもしれない。人は虚空に自己の存在の意味を問うてしまうことの危険から身を避けるために、位階制を築き、命令の系譜を作り、服従の綻と造反への罰則を築いたのかもしれない。

イムホテプ(50)
 歴史上記録に残っている最古の設計者。4500年前にサッカラに階段状ピラミッドを 設計・建設。第3王朝最後の王ジュゼルの宰相。

イメージ(114)デカルト
 イメージを思いうかべられないものはすべて、かれらには理解できない。哲学者でさえ 学校において「そもそも感覚のうちになかったものは知性のうちにはない。」ということ を格率としている。しかし、神の観念と魂の観念が感覚のなかにはけっしてなかったのは 確かである。

イリナ山下りん(409)
 明治期を代表する女流画家、聖像画家イリナ山下りん(1857〜1939)も聖ニコライに導かれ、神の恵みに満ちた人生を歩んだ一人でした。山下は、1877(明治10)年工部省が運営する工部大学付属工部美術学校画学科に入学。イタリア人教師のフォンタネージに師事しました。翌年洗礼を受けた山下は、1880年に退学すると、聖ニコライの懇請に応じてこの年の12月、横浜からロシアに向けて出発。ペテルブルグのスモーリヌイ女子修道院に寄宿し、聖像専門の修道女から聖像画の基本を学びました。
 1883(明治16)年に帰国した山下は、神田駿河台の正教会内に住みこみ、東京復活大聖堂に飾る聖像はじめ、日本各地の聖堂を彩る聖像の製作に打ちこみました。山下は画業ひとすじ、生涯を独身で通しました。1912(明治45)年、聖ニコライ永眠後には、山下自身の体力・視力の衰えもあり、あまり作品数をのこしていません。
 山下作の聖像は、北は北海道の上武佐、釧路から、南は九州の人吉正教会の聖堂にまで安置され、祈りに訪れる人々を神のもとへと導いています。


■イル・マニフィコ
(84)
 豪華王。ロレンツォ・デ・メディチ。コジモ、ピエロを継いだフィレンツェの実質的統 治者で、ルネッサンス芸術とネオ・プラトニズムの擁護者。

イルマン・ロレンソ(527)
 1551年4月の末ごろ、(ザビエル)神父は威儀をととのえ、インド総督の使者たる格式をもって大内義隆を山口に訪ねた。…ザピエルが説いた宇宙の創造主にして主宰者たるデウスという唯一神についても、「その創造主は善か、悪か」「善ならば、なぜ悪をこの世にはびこらせ、悪魔や、苦難や、むずかしい戒、人間の弱さや、永遠の地獄をつくったのか」というようなはげしい論争が行なわれた。それでも二カ月の聞に500人の信者ができた。
 そのなかに、肥前白石生まれの貧しい琵琶法師で、名を、りょう西という、片目でびっこの青年がいた。彼はこれらの渡世事にもひいでていたが、その生き生きとした精神、豊かな知識、理解力、記憶力は抜群で、盲人仲間ではひときわすぐれた人物であった。異国の神父が新しい宗教を説いているという噂をきき、意を決してパーデレを訪問した。
ロレンソは、パーデレたちがあらゆる苦労艱難を冒して、数千里の外国から渡来した目的が、ただこの国の人びとの魂を救うこと以外にないことを知り、いたく感動した結果、琵琶や、芸事や、平家琵琶などの渡世事をすてて教会に入り、雑役にしたがいながら、デウスに奉仕する身となった。おごれるものをくじき、低く賎しき者をあげ給うデウスは、ほとんど生まれつきの盲人で、おかしな顔つきをしたこの貧しい人を日本における最初のイエズス会の修道士たらしめ、日本キリシタンのなかでもっとも大切な布教者たらしめ給うた。彼の説教をきいて改心せる者数千人におよぶ。


イルミン聖柱(265)p.65
 シャルルマーニュはザクセン人との戦いが異教徒との戦いであり、聖戦であることを強く意識するようになったのである。そうでなければ、彼がザクセン人の信仰の中心である「イルミン聖柱」の破壊をもくろんだことの説明がつかないだろう。「イルミン聖柱」とは一本の聖なる高い木であり、ザクセン人はこの木を神のごとく敬っていた。彼はその木を倒したのである。

入籠型(176)
 いれこ。日本人の縮み志向の例証として挙げられる世界感。「東海の小島の磯の白砂に …」という「の」を重層させて世界を一粒の砂にまで還元してしまう意識構造。

イルメンゼー(249)p.180
 ドイツのイルメンゼーは「奇才」にして「超人的な博士」と呼ばれ、微細実験技術の高い「黄金の手」を持つ分子生物学者として著名であった。1979年、それまで不可能視されていたマウスのクローンを作ったと発表したが、後にそれが捏造であると内部告発された。その権威によってうやむやにされてしまったが、誰も追試できず、本人すら名誉回復のための再現実験ができなかった。

いろいろなことは分かっている(497)
 (死の半年前、正宗)白鳥は、相変らず「いつも懐疑の念におそわれているありさま」であることを云い、「もう何年生きてみたって、自分の生涯はつまりなんにもわからずじまい。いろんなことはわかっている。わかってはいるけれども、肝心なものをわからずにいるんじゃないかと思う。…僕は死ぬるとき、どう言って死ぬるか、キリストを拝んで死ぬるか、あるいは南無阿弥陀仏で死ぬるか、あるいはもっと世俗的なことに身を寄せて死ぬるか、自分の死にざまはどんなことになるか、そこで自分のほんとうの一生が出てくるんじゃないか、ということを感ずる」と述べている。

イワン・イリッチの死(483)
 イワン・イリッチの主な苦しみは嘘であった。…「でたらめはもういいかげんにしてくれ。わたしが死にかかっているのは、君たちも知っていれば、わたしもちゃんと承知している。だから、少なくとも、嘘をつくのだけはやめてくれ。」
…彼は自分の頼りなさを思い、自分の恐ろしい孤独を思い、人間の残酷さを思い、神の残酷さを思い、神の存在しないことを思って泣いた。

…「いったいお前は何が必要なんだ。」…「何が? 苦しまないことだ。生きることだ」
…その当時よろこびと思われたものが、今の彼の目から見ると、すべて空しく消えてしまい、なにかやくざなものと化し終わり、その多くは穢らわしいものにさえ思われた。

…「しかし、なぜこんな事になったのか、せめてそれだけでもわかればいいのだが、それすらだめだ。」
…するととつぜん、はっきりわかった−−今まで彼を悩まして、彼の体から出て行こうとしなかったものが、、一時にすっかり出て行くのであった。…「ところで死は? どこにいるのだ」…「いよいよお終いだ。」…「もう死はなくなったのだ」

インキュナブラ(116)
 グーテンベルグの印刷技術発明後の初期印刷本。揺籃期本。

インクリングス(382)
 現代イギリス児童文学ファンタジーの両雄ともいうべきトールキンとC・S・ルイスは無二の親友でもあった。ふたりがオックスフォード大学の教授になったのは同じ1925年、以来ルイスがケンブリッジ大学へ移る1954年まで、親しい交わりがつづいた。わけても1939年以後はチャールズ・ウィリアムズを中心に、ルイス、トールキンなどごく少数の気心の合ったオックスフォードの学者たちで(インクリングズ)という一種の文学的サロンができ、毎週2回、うち1回は火曜の昼にオックスフォードの町なかの(ワシと子ども)というパブに、他の1回は木曜の夜、モードリン学寮のルイスの部屋に集まっては、談論風発、たがいの書いたものを批評しあっていた。トールキンの『指輪物語』はほぼ全巻、作者自身によってこの仲間たちに朗読披露されたらしく、『指輪物語』 の第一部『旅の仲間』初版(1954)の献辞で作者は、インクリングズは「諸氏のりっぱな家系にホビットの血が流れているのではないかと思いたくなるほど、忍耐強く、また興味すら示して、この作品に耳をかたむけてくれた」 と感謝している。

インコグニト(微行)(490)キルケゴール
 神でありながら、それと同時に単独の人間であるということは、識別不可能性である。すなわち、絶対的な識別不可能性である。特定の単独の人問、あるいはある単独の人間(それが高貴の人であろうと卑賎の人であろうと、ある意味では同じである)であることは、神であることに対して最大限の、つまり無限の質的な距離をおいた状態であって、それゆえにもっとも深い徴行(インコグニト)である。

印刷屋(145)
 20世紀初頭のヨーロッパでは印刷屋が勝手に原稿の句読点を変えたり、内容にケチを つけたりすることはごく普通であった。だからジョイスのユリシーズを出版するためには 英語をまったく分からないディジョンのフランス人印刷屋を使わなければならなかった。

インシデント(159)
 事故は、トラブル→インシデント→アクシデントと重大化する。インシデントとは些細 なこと、ありがちなことを意味する。  

隠者ピエール(354)
 パレスティナへの巡礼で知った聖地の惨状と、シリアにおけるキリスト教徒の被抑圧状態といった一連の出来事を起動させるのは、この隠者ピエールなのである。
…おびただしい数の貧民の群れが諸侯の軍勢に先立って遠征に出立したことが第1回十字軍に、最も特徴的な性格を与えている。騎士たちによる十字軍に民衆運動が先行していたのである。「農民たちが家族総出で、牛に蹄鉄をはかせ、わずかな財産を荷車に積み込んでいる」…というのもこのような出来事には前例が見当たらないからである。愛する土地つまり聖地を再征服するため遠征の途につく貧民たち。集団移住や移民や征服の話は歴史のなかにいくらでもあるが、このような門出は唯一の例外である。…ピエールが民衆の化身であるばかりではなく、彼の説く十字軍が民衆の意識のなかでは他のすべての十字軍に取って代わっていたからでぁる。戦争が領主とその一族郎党だけのものであった時代に、民衆が戦士に変貌するということは異例のことであった。だからこそこの事実が想像力を刺激して、歴史を一挙に伝説にすりかえてしまったのである。
 隠者ピエールは、彼の説教の大成功により第一次遠征の指導者の一人となる。1096年3月には、ロバにまたがった小男は数知れぬ群衆を従えて、すでにロレーヌを出立していた。この群集は、ヨーロッパを略奪しながら、南にすすんだが、イスラム勢との最初の戦闘で壊滅してしまう。


インターロック(299)
 装置の動作命令は、安全が確認される信号を受けたときのみ、実行され ること。すなわち、装置のカバー・スイッチはカバーが開けられて危険になったことを通報するだけでなく、閉められていることも通報できなければならない。カバー等が開けられて非安全になったら機械を停止させるが、カバーが閉じられて安全になったとしても、いきなり動作開始せずに、再度運転開始スイッチをONして初めて、運転再開する二重安全化しなければならない。

インデユルゲンシア(353)
 「赦免」。ウルバヌス二世がクレルモンの公会議で、初の十字軍への参加を求めるときに、初めて出した条件。…「赦免」を宣言したウルバヌス二世は、「聖地におもむくために十字架を受ける」者には、彼らの犯した罪によって受けるべき罰の全面的免除を約束したわけである。……かの地に行く者は、陸上であれ海上であれ旅の途上で命を落としたり異教徒との戦いに果てることがあっても、その者の罪はその瞬間に許される。神より授けられた権限により、私はそれを保証する。…

インテリゲンチャ(110)
 トインビー「外来の文明を土着に架橋し媒介する任務をもって、土着から選出された外来文明を習得する特殊の階層のこと。インテリゲンチヤは土着の文明を超えることができ 、外来文明への改宗者となる。外来と土着に二股をかけた二重文化の持ち主で、二つの文化に引き裂かれる苦悩をその本性上もっている。」

インテリゲンツィア(422)
 アレクサンドル(U世)の治世の最初の15年間に、ロシアの精神生活はそれまでになかったほど活性化した。いわばロシアのルネッサンスが起こつたのだが、それは精神の饗宴、偉大なる文学の誕生、学問における疾風怒涛時代を意味した。1860年代はまさにロシアの科学が世界に勝利した時代であり、メンデレーエフの「元素周期律表」の発表がそれを象徴している。…まさにこの60年代に、有名な作家ボボルィキンが、初めて「インテリゲンツィア」という用語を使い始めた(これは西欧語の「インテレクチュアル」に相当する言葉だった)。つまり偉大なるロシアのインテリゲンツィアとは、一連の大改革と大きな期待の時代の産物なのだ。はじめ彼らは「雑階級インテリゲンツィアと呼ばれていた。維階級インテリゲンツイアは知的労働に従事した。つまり作家、ジャーナリスト、教師、学者になった。そして彼らは新しい時代の到来を宣言し、貴族階級に代わってロシア社会の前衛となるのは、今や自分たち雑階級インテリゲンツイアだと主張したのである。インテリゲンツイアの基本属性は権力への対抗であるということになった。このロシアのインテリゲンツイアが、来るべきロシア革命を生み出し、世界を変えることになる。

インテル・ケテラ(449)
 1493年5月、、教皇アレクサンデル六世はエスパニャ女王の要請によって教書《インテル・ケテラ》を発す。アフリカ西岸アソレス諸島およびヴェルデ岬諸島西端から西方100リューを通って南北両極を結ぶ線いわゆる教皇子午線を引き、それよりも西方にある島や陸はすべて、キリスト教布教を条件としてエスパニャ領と認めるというもの。
…1494年6月、ポルトガル王ジョアン二世《インテル・ケテラ》に抗議、エスパニャとの間にトルデシリャス条約を結ぶ。分割線はさらに270リュー西方に移され、カナダのニューファウンドランド島東端からブラジル南端のリオ・グランデを結ぶ線となる。


インノケンティウス3世の異端対策(560)
 インノケンティウス三世がローマ教皇の位に就いた時、初めて意識的に異端に対する積極的な対策がとられるようになりました。もちろん、そのインノケンティウス三世は一方では従来通りシトー派の修道士による具端改宗の方法をつづけていましたが、この方法はあまり成功しなかったのであります。…それはこれら(ヴァルドー派などの)異端の主張を一部認める代りに、彼らに一種の修道会則を与えて規整し、教皇庁の監督下に置くという方法であります。これは宗教運動や異端運動に対する教皇庁の態度の決定的な転換を示すものであり、托鉢修道会の設立と認可もこの同じ精神に基づくものであります。
 しかし他方インノケンティウス三世は頑固で改宗の見込みのない異端に対しては強行な手段をとることも敢えて辞さなかったのであります。そのことを示すのがカタリ派に対する有名なアルピジョワ十字軍といわれるものであります…。


淫婦マルゴ(346)
 …二人の命令で従者がラ・モルとココナス伯の首を拾い上げて車内に運び込み、再び馬車は出発した。これらの首を宮廷に持ち帰った二人の女は、それに最後の化粧をほどこした。血や泥を払い、防腐処理を施し、その閉じられため凍った唇や冷たい歯に、最後の狂おしい接吻を与えたのである。「リジイヤ」を愛したポーの如く、「ヴェラ」を欲したリダランの如く、「生」と「死」との偉大なる夢が、その無限の扉を一瞬の間、かすかに開けることを望んだのか。二人の女の復讐は、これだけでは終わらなかった。二人は、死者の首の模型をネックレスやブレスレットや被り物に吊るし、ヴェルテュガダン(鯨骨製の箍骨)のコウに死者の心臓の模型を吊るして、喪服姿てせ宮廷に現われたのである。…このときから人々の目にマルグリット・ド・ヴァロアは「淫婦マルゴ」となったのである。

インフレピッチ(292)
 1939年の国際規約において、気温摂氏20度でA音=440ヘルツと制定されたにもかかわらず、オーケストラの基準音は上昇し続けているからである。日本の場合は主要オーケストラ、音楽大学、ヤマハなどは442ヘルツ。ベルリン・フィルやウイーン・フィルは445〜446ヘルツ、イギリスは440ヘルツ、アメリカは440〜442ヘルツとまちまちなのである。周波数が高くなることで音に張りがでる、華やかになる、つやが出るなどの効果があり、NHK交響楽団のようにホールの音響との関係から442ヘルツを採用したというケースもあった。…モーツァルトやベートベンの頃はもっとずうっと低かったのだから、今もし彼らが生きていれば、優に半音の違いが出てくるだろう。

インフレの16世紀(223)p.75
 パナマからヨーロッパに持ち出されたインカの富は、半世紀で銀だけでも20万トンもあったと推定されている。16世紀を通じて、物価はスペインの富が放出されるためどんどん上がったが、スペイン人はこの現象を理解できなかった。そしてその騒ぎでもっとも大きい打撃を受けたのはスペインであった。16世紀の後半3回も王は破産した。アメリカ大陸征服者たちのあらゆる勇気と努力、あらゆる暴力と虐殺にもかかわらず、スペイン王国は結局よくなりもしなければ、富がふえもしなかった。

インペトゥス理論(466)
 インペトゥス理論は、その起源をさぐるならば六世紀のヨアンネス・ピロポノスにまで遡る。ピロポノスはまず、アリストテレスが言及している「循環的位置移動」の考えをとり上げ、投射体によって押された空気がぐるりと廻って、再び投射体をうしろから押すというのは背理であることを指摘する。…むしろ起動者によって運動体に「ある非物体的な運動力」が付与され、この運動力が物体に内在し統けることによって生ずるものであるとした。運動力が起動者から媒体にではなく、直接運動体そのものに移されるという説を「インペトウス理論」と定義すれば、これはたしかにこの種の理論の先駆であった。ここでは起動者がひとたび物体にこの運動力を付与すれば、その後はなんらこれに接触的作用を及ぼす必要はなく、物体は獲得したこの「運動力」(のちに「インペトゥス」とよばれるようになるもの)自身によって、それが消耗し尽されるまで運動を続けるのである。

インペリウム(23)
 絶対指揮権。ローマ共和制時代の政治的キャリアのステップ。31歳で元老院の資格を 得て8年の議員経験で法務官(プラエトル)に立候補する資格を得る。同時に戦略単位の 二個軍団25000人の兵に対するインペリウムを得る。さらに42才で執政官(コンス ル)への立候補資格を得る。早熟の天才軍事家のポンペイウスは、これらのキャリア義務 をスキップして、元老院と対立していく。


【語彙の森】