語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-7-26 計78語
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憲法24条の母、憲法改正草案綱領、傾斜生産理論、賢明さを発揮すべき時、ケネス・アーノルド、健康な思想、ゲーテの自己実現、ゲルマニア人、ケルタエ人、ゲディミナス大公、ゲーテ天与の幸、ゲーテの美術研究、

経験と対象(239)
 純粋理性批判「…経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件である。」
空間・時間はものが存在するための形式ではなく、私たちの直感の形式であること。「原因と結果」などの因果律は、ものの存在様式ではなく、私たちの主観的カテゴリーの側に属している、などなど。これらの条件によって私たちの経験は成立するのだが、私たちの経験、<認識>が成り立つことと、その認識の対象、つまりものが成立してくることとは同時的事態であるとカントは主張しているのである。


形而上学的自負心(480)
 ヒトラーの嘘に長く付き合っていると、ヒトラーの独特の人格が見えてくる。それは、あまりにも誇り高い青年が、いままですることなすこと裏目に出てきたという状況において、ようやく見出すことのできた活路であり、ごく一般的にまとめればすべては「(自分ではなく)社会が悪いのだ」と解釈するととである。
…二十歳の彼は、自分を救うことで精一杯だったのだ。そうした青年はいつの時代にもいたし、現代日本にも少なからずいる。しかし、その多くが自分に対する外からの客観的評価を無視できないのに対して、ヒトラーの天才は、自分に下された客観的評価を(心の中で)「無」にできること、それほどまでに自分を救うことに熱狂できることである。
 世界の構図をすべて逆転してでも自分を救うことは「義務」なのだ。そのために必要なものなら何でも利用する。たとえ真っ赤な嘘でも。これまでの人生において度重なる負け札を引いてきた自分が、このまま終わるわけがない。この推理にさしたる理由はない。あえて言えば「自分だから」だ。ここには、サルトルの言葉を使えば、「形而上学的自負心」(自分が何であるか、何をしたかによる自負心ではなく、ほかならぬ自分だからという自負心)が捻り声を上げている。


傾斜生産理論(559)
 昭和21年12月18日、(白州)次郎は経済安定本部(後の経済企画庁)次長を兼任することになった。経済復興を担う役所である。石橋湛山(を公職追放で)失った吉田は、学者たちに協力を仰ぐことで事態を打開しようとした。なかでも重用したのが大内兵衛、東畑精一、有沢広巳といった東京大学の教授連である。いまと違って教授が政府のブレーンになるというのは一般的ではない。
…有沢が有名な傾斜生産理論を披露したのもこの昼食会の席上である。限られた資金と資源を経済の基盤となる分野に集中させ、これを原動力として経済全体の復興をめさすという考え方であった。それはすぐに政策として採用された。石炭の増産に注力し、この石炭を鉄鋼生産に集中投下するという形で生産回復が進展し始め、経済復興の起爆剤となるのである。


芸術家(131)  
 カミュ「ロマン主義以来、芸術家の努力は一つの世界を創造したり美のために美を称揚 したりするだけでなく、態度を決めることである。そこで芸術家は典型となり、自ら模範 を示す。芸術が道徳となる。……ダンデイが自殺したり、気違いになったりしなくなると 、彼らは輝かしい経歴を作ったり、繁栄をめざしたりする。……彼らが沈黙を宣言すると 叫ぶときでも、彼らの沈黙はやかましい。」

芸術家のための資料(432)
 アッジェが、重い木造の組み立て式の暗箱をかついでこの街を歩きまわっていたのは、日本の年代でいえば明治31(1898)年から大正期いっぱいで、1927年…その人生がおわる。生涯無名だつた。街のひとは、10キロ以上もある写真道具をかつぎ、古ぼけた服を着て毎朝街路をうろうろしていたアッジェを正常な人とは見ていなかった。かれは、生きているあいだじゅうまずしかった。大男でありながら、北井一夫氏によると、70歳で死ぬまでの20年間、パンとミルクとすこしの砂糖だけで食事をしていたという。当時、写真はまだ芸術としてみとめられていなかったし、アッジェ自身、名を求める意識などはなく、パンだけをもとめた。かれはそのアパートの部屋の入口に、「芸術家のための資料」という看板をかけていたように、画家たちに資料写真を売ることによって生計をたてていた。…ユトリロの母親やブラマンクのほか、キスリングやブラック、藤田嗣治も買ってくれた。…パリを撮りつづけたアッジェのネガが、買いあげられてパリの歴史図書館に4600枚保存されているという。

芸術への衝動(232)
 「最後の審判」など永久に来ないのではないか。…神の裁きが行われないのであったら、神の業を人間が代行する以外にない。ただし個人には現実世界でそれを行う力はないから、想像裡にそれを行うしかない。これが人類発生以来人間を芸術へ駆り立てた衝動(モチーフ)の最も大きなものの一つだった。

経世到用の実学(509)
黄宗義の経世致用の実学がほんとうに世の実用に役立ったのか、ということを少しく検討してみよう。黄宗義の広い範囲にわたるあらゆる分野の学問がすべて世の実用に直結するということは、もちろん有り得ない。彼の経世のための経史の学の成果を最も端的に代表するのは『明夷待訪録』の政治論であるから、この著書について考えてみるに、この書の内容が実際の政治に採り入れられたという事実は全くない。彼の学問上の業績が実際に用いられたのは、魯王のために作った魯元年大統暦が浙東の地方に頒布されたこの一事だけであろう。また彼はその魯王の下で兵部主事に始まり左副都御史官をもらったほかは、明代にも清代にも一切官職についていないから、その政治論を行政官として実際に役立てる機会も持たなかった。そもそも遺老・遺民というのは、一種の政治姿勢であって、深い政治的関心の現れであるには違いないが、それは時の政治に背を向けた政治姿勢である。その意味では彼の政治論は所詮学者書生の政治論だと言えないこともない。

形相と質料(488)カント
 形相・質料という対概念は、哲学の歴史では、きわめて古くからある重要な概念。特に、アリストテレス哲学の基本概念となる。ラテン語だったら、フォルマとマテリア、英語ならフォームとマターなる。…次の区別は、カント認識論が成立するための基本中の基本である。
「ところで、経験は、きわめて異なる二つの要素、つまり、認識の〈質料〉と、この質料に秩序を与える〈形式(形相〉〉とを含んでいる。」
認識の材料(つまり〈質料〉)などは確かに、感性の受容性によって、世界から受けとる。しかし、そのまったくの素材に、形や脈絡を与える(つまり〈形相〉)のは、主観の側の自発性の能力なのである。つまり、ここで、「感性の受容性」と「悟性の自発性」がくっきりとした二元性をなしていて(いる。)


形態学(195)  
 自然科学は因果関係を追及するとしばしば誤解されている。心という機能と脳を対応さ せるには「心の原因としての脳」を扱うのではない。心の示す機能に対応するものとして 脳あるいは脳の構造を扱う。これは形態学の方法であって、哲学的な心身論では解明でき ない心は脳の機能であることを示す。これが唯脳論である。脳と心の因果関係を追及する と「心は物質から生じるか否か」というような議論になってしまう。  

系統証拠(193)  
 アダムス医師事件におけるイギリス陪審制度の特質。…他の各謀殺を主張するだけで、 数にものを言わせてその一つの謀殺を確信させようと期待し、そういう証明をするのは許 されなかった。疑いではどれほど強くても充分ではない。疑いというのは、各事実につい て有罪か無罪か、どちらの説明でもできるという意味である。  ただし系統証拠という概念は、告発されていない事件的行為と、告発されてい事件行為 が著しく類似している場合、これを証拠として提示してよいという考え方である。  

経度法(92)
 アン女王時代のイギリス、1714年の法。誤差二分の一度以内の精度で経度を測定す る実用的かつ有用な方法に対して2万ポンドを支給するという法律。それまでの海洋航行 は、天測による緯度のみの情報と磁石だけに頼っていた。すなわち現在経度が特定できな い、不確実でカンによるものであった。1707年帰還途中の軍艦4隻がシリー諸島で座 礁し2000人が死亡する大惨事も、艦が現在位置を誤っていたためであった。 天体観測、特に月距法を主張する学者たちと、精密な時計を作ろうとする職人との戦い でもあった。

啓明結社(86)
 1776年ヴァイスハウプトによって設立されたバヴァリア啓明結社も、フリーメーソ ンの支流である。自身の社会改革思想、無政府主義の実現を目指し、「あらゆる宗教はひ としく根拠がない。神と世界は一にほかならない。」と唯物的汎神論が説いた。

ケインズ生涯の頂点(492)
 かれ(ケインズ)自身は、業務の国家的重要性を理由に、大蔵省からの申請によって兵役を免除されていたようである。 この時期のケインズについて、ハロッドは「見方によっては、これはかれの生涯の頂上であった」と書き、「ケインズは、軍務に服さなかった人びとのなかで、他のだれよりも第一次世界大戦の勝利に貢献した」という意見があったことを伝えている。サセックスのチャールストンからケインズがロンドンにでるときは、急行列車が臨時停車したそうだから、戦時中からそういう評価があったのかもしれない。

ケインズの一般理論(492)
 ケインズ理論の妥当性は、こうした政治の質の問題と深くかかわっていると同時に、過大なる公共投資による、景気政策依存型のケインズ政策に対する反省をもたらしていると言っていい。そのような意味では、ケインズ理論は、与件としての政治分析に甘さをもっていたということが言えよう。
 だがケインズの『一般理論』がそうしたことを越えて、経済学のうえに残すものは何であろうか。それは経済の活動量水準は、何によって決まるか−−投資と貯蓄が、相等しい水準において、所得水準が決まるという、投資・貯蓄、所得決定理論ないし有効需要理論を提起したことであろう。しかも人々は思い思いに行動しながらも、社会全体として合計した貯蓄の額と投資の額は必ず等しくなる、投資と所得の聞には一定の関係があるという、人々の行動を離れ、マクロの数字と数字との聞にはひとつの関係があるということを明らかにすることによって、従来の経済学のように経済主体の行動に即して経済を見ょうとする−−したがってその行動が変わるならば変わってしまう−−そういう理論に変えて、人々の行動とは無関係に社会にはある一定の法則があるということを明らかにすることによって、経済学の科学性を高めたという点であり、このことは永久に残るであろう。

ケインズの乗数理論(492)
 波及論的理解−−1OO億円の投資が行われると、1OO億円の所得の第1次増加があり、ついで9O億円の第2次増加が、さらに81億円の第3次所得増加がある、という説明−−の背後にあるものは、経済のあらゆる分野の人が在庫が減っただけ生産を行う、あるいは各分野は標準在庫量をつねに維持するという、あまりにも強い仮定である。
…サムエルソン的な波及論的乗数理解は経済の各分野において、在庫が減っただけ生産を行うという仮定をあらゆる分野について置くことになっている。そのような強い仮定が現実的であると考える人聞がはたしているであろうか。このような強い仮定のうえにケインズの乗数理論は成り立っているのではない。人々が在庫量をどのようにしようとも、つまり以前よりも増やそうが減らそうが、そのときに社会全体として合計したところの在庫投資を含めた投資の合計と貯蓄の合計はつねに等しく、投資の増加と所得の増加との聞には乗数関係があるということを主張したのである。

劇場のイドラ(33)
 フランシス・ベーコンが「ノヴム・オルガヌム」で人間が真理を見出す妨げとなってい る幻影(イドラ)には種族、洞窟、市場、および劇場のイドラがあるとした。 まちがった多くの哲学が打ち出されると、その数だけ架空的で舞台的な世界を作り出す芝 居が生み出される。

華厳経(381)
 『華厳経』の趣意は、現象界の諸事象が相互に密接に連関しているという、いわゆる事事無げ、法界縁起の説にもとづいて菩薩行を説く。菩薩の修行には自利と利他との二方面があるが、菩薩にとっては、衆生済度ということが自利であるから自利即利他である。この経の十地品では、菩薩の修行が進むにしたがって心の向上する過程を十地(十種の段階)に分けて説く。また入法界品のうちでは、善財童子の求道という中心の筋書きが注目さるべきである。かれは菩提心を起こして、菩薩行を完全に知らんがために南方に旅して五十三人(または四十四人)のもとを訪ねて教えを乞い、最後に普賢菩薩の教えを受けて究極の境地に到達する。

ゲシュヴィント(227)
 「右脳と左脳」:ガラパーダ共著:東京科学同人刊の著者である。日本の角田忠信の同名の著書と並んで、左右脳の問題を学理的に解明しようとしている作業を一般向けに分かりやすく書いて、結果的にすこしバイアスのかかった右脳ブームの火付け役を担っている。
 ゲシュビント達は脳の左半球と右半球の形状的非対称性を発見した。また左半球の発達の遅れが右半球のシナプス結合を助長し、ひいては右半球の発育をうながすという見解も明らかにした。ほとんどの人では左半球が大きく、より多くの機能をになっているが、なかには左右対称の脳の持ち主もいて、この非凡な対称性こそが、きわめて創造的な能力(天才)と特殊な障害を生む原因かもしれないとした。

ゲシュタルト(299)
 ゲシュタルトとは「ある物事がどのように配置され、どのようにまとめられているか」ということを意味するドイツ語である。これに対応する日本語はない。通常「かたち」と邦訳され、心理学では「形態」という用語が振り当てられる。 ゲシュタルト心理学(形態心理学)では視知覚がどのような要因に基づいて外界をまとめるか、すなわち形態化するかを明らかにしてきた。その要因をゲシュタルト要因と呼び、「近隣」「類同」「閉合」「連続」「形」「共通運命」がある。ただし、共通運命とは「一緒に変化しているものは1つのまとまりとして認知される」ということである。

ゲスタ・ロマノールム(329)
 中世ラテン語文学の傑作。もっとも古い手書き写本は、イギリスで成立した1342年のものです。…この教訓説話集がどこでも、とくにドイツで大いに人気を博しました。…宗教改革とともに、この本はすこしずつ消えてゆきます。ローマ皇帝時代の騎士の放浪・流離話が中心。清貧な修道士などはあまり登場しない。

化体説(472)
 1215年、第4回ラテラノ公会議は、1年に1回の告解をすべての信者に義務づけることを決定する。この公会議はまた、托鉢修道会に説教の任務が与えられたこと、化体(ミサにおいて司祭の聖別により、パンとワインがキリストの肉と血に変じること〉の教義があらためて確認されたことでも知られる。化体説はひるがえって、キリスト像をはじめとする聖画像への崇拝をますます助長することになった。つまり、機悔、説教、聖画像崇拝という、信者たちを導き、諭し、ある場合には統制することになる重大な三つの宗教的契機が一線上で結びつくのである。

ケツェラコテル神(125)  
 1519年コルテスがメキシコに上陸したとき、アスティカ最後の王となったモンテズ マがこれに抵抗しなかったのは、コルテスを伝説の「翼のある蛇」背が高く髭がある白人 で、太陽を暗くする災害の後登場し、この神がいつの日か復活すると信じられていたケツ ァラコテルであると誤解してしまったからである。

結跏趺坐(143)  
 けっかふざ。仏像のあぐらをかいた座り方。  

月光文明(110)  
 シュペングラー「伝播したものは、もはや様式ではなく趣味である。生粋の習慣ではな く、マニエリスムである。そのため遠く離れた民族が一文明の永久的な収穫を受容するこ とが可能となる。それが月光文明であり、日本、ジャワ、カルタゴがその事例である。」  

欠史八代(505)
 神武東征の壮大な歴史ロマンに比べて、続く第二代から第九代天皇までの記述はなんと愛想のないこと。この時代は欠史八代といわれ、のちの世に創作されたのもではないかと考えられている。えんえんと語られる系譜は、天皇家の永遠の繁栄をイメージづける効力を発揮したに違いない。…二代「綏靖(すいぜい)天皇」→「安寧天皇」→「懿徳(いとく)天皇」→「孝昭天皇」→「孝安天皇」→「孝霊天皇」→「孝元天皇」→九代「開化天皇」

ゲッセマネ(341)
 最後の晩餐を終えたイエスは、城外のオリーブ山の麓へ向かった。そこは墓地とオリーブ畠とになっており、ヘブライ語で搾油所を意味するゲッセマネと呼ばれる場所だった。ユダヤ律法によると、過越祭が本格的にはじまってしまえば裁判はできない。逮捕と裁判は至急、決行しなければならない。このカヤパの提案によって、イスカリヨテのユダに導かれた神殿警備隊がイエス捕縛にゲッセマネに向かった。

決戦ダイヤ(150)  
 昭和18年10月のダイヤ改正は決戦ダイヤと銘打たれた。これは急行のスピードダウ ンによって、普通や貨物を含めた列車の走行密度を上げようとしたもの。

ゲーテアヌム(363)
 人智学的活動には、ある対極性、二重性が認められる。それは超感覚と感覚、与えるものと受け取るもの、講師と聴衆などの言葉で特徴づけられる。この二重性を「芸術的にとらえたものが、ドルナハの二重のドームに表現されている」……シュタイナーはこの形を図形によってではなく、粘土をこねながら考案した。それを実際に製図する段になると、非常に困難な技術的問題が出てきた。…1914年4月には、上棟式を行なうことができた。建物の規模に関してい、えば、観客席は約千人を収容できるように設計されていた。…その目的からして、できるだけ生きいきとした造形が要求された。そのため、柱の台座、柱頭、アーキトレーヴ、扉、窓のアーチ、外壁と内壁の大部分に木彫が施された。第一次世界大戦が続く間、十七カ国の人々がここで働いた。彼らが平和に仕事を進めているときも、近くのアルザスでは、夜も畳も大砲がとどろいていた。……1922年の大晦日の夜遅く、シュタイナーの夕べの講演を聞いた人々がゲーテアヌムを立ち去ったあと、夜警が建物の中の煙に気づいた。ゲーテアヌムは燃えていた。建物を救おぅと必死の消火作業が行なわれたが、火の手は猛烈な速さで広がっていった。…この火災の直後に、シュタイナーの活動と人格とに対する激しい攻撃が頂点に達した。

ゲーテアヌム(526)
 建物の形は、内部で行なわれることと照応しているべきだ、とシュタイナーは考えていた。それを説明するのに、彼は好んでクルミの殻の喩えをもちいた。クルミの殻の形は、それが包んでいる実にふさわしいというのである。そして、科学における活動も、芸術における活動も、それぞれ文化刷新を目指すものなのだから、建築においてもまったく新しい形式を模索すべきだというのだった。人智学的活動には、ある対極性、二重性が認められる。それは超感覚と感覚、与えるものと受け取るもの、講師と聴衆などの言葉で特徴づけられる。この二重性を「芸術的にとらえたものが、ドルナハの二重のドームに表現されている」
 ゲーテアヌムは、多くの人が思うような「神殿」ではない。人智学は、科学、芸術、宗教という三つの価値を併せもつ。この三つの生活領域がますます切り離されていく時代にあって、シュタイナーはそれらを新たに統一する道があることを示そうとした。ゲーテアヌムは、そのような文化総合の試みとして考えられたのである。それは直接的には、芸術と科学に仕えるものであった。そして、芸術と科学の実践を通して、さらに、間接的には宗教生活に仕えていたのである。


ゲーテ天与の幸(532)
 生涯私(ゲーテ)にまつわり苦しめた自分の二つの主要な欠陥をば、私はちょうどこのごろ、発見することができた。その一つは、私がなさんと欲しまたなすべきであった事物の手法を決して習いたがらなかったことである。それゆえに、素質は十分にありながら作成し成就したものはいくらもないという結果になっている。…もう一つのこれに近似した欠陥は、仕事や業務に対して、私がそれに必要なだけの時聞を十分に費やそうとしなかったことである。私は短時間に非常に多くのことを考えかつ結合し得る天与の幸を享受しているために、一歩一歩誌を進めるということは、私にとって返屈で地らないのである。だが今や自らを匡正すべき時がきたのではないかと私は考えている。私は美術の闘にきているのだ。この方の専門のことを十分に勉強したい。そうすれば今後の生活に落着きと満足とを見出し、やがては他の背中にも手を染め得るであろう。

ゲーテのカリオストロ体験(418)
 偶然を装った『イタリア紀行』の(カリオストロの実家とされる)バルサモ一家訪問は、かくて偶然や気まぐれの産物とは程遠かったのである。気質の相似からいえば双生児のようにそっくりの両者は、どこかで相会してお互いの持分をここからここまでとはっきりしておかなければならなかった。バレルモのバルサモ家訪問で、ゲーテの、みずからの夢想と友人たちの熱っぽい鼓吹に膨れ上っていたカリオストロ像はようやく実物大に収縮する。これが、ひとまずカリオストロに距離を置き、ロストロと変名させて客体化することに成功する『大コフタ』成立の条件である。仮象と実像の落差をシチリアで実地に体験しなかったならば、彼はなお久しくカリオストロの眩惑に翻弄されつづけたものに相違ない。
…作品と現実はイタリアの靴先から蹴出されたボールのような小さな島ですれ違う。いや、そもそもが一七八六年九月三日、突然人知れず、カールスパートから無名の一旅行者として出立したイタリア旅行そのものが、仮象の大旅行家カリオストロの模倣であったかもしれないのだ。…すなわちゲーテは夢の内在する現実をであり、カリオストロはたえず現実を超出する夢をであった。この二人は、実像と鏡像のように、瓜ふたつでありながら、ただ左右だけがあペこベだったのである。

ゲーテの官僚主義(456)P.257
 教授たちが口をそろえてゲーテをほめそやす理由なのだ。それは、帝国大学をはじめ、その予備校である高等学校、日本のエリートの教育機関が、教養主義の名において官僚主義を正当化したいと思っている、その気持のあらわれなのだ。ゲーテがフランス革命のとき、反革命軍に従軍したことを知ってるか。…『人は如何にすれば自己を知ることができるか。内省では断じてなく、行為によってである。汝の義務を果たすように努めよ。しからば汝の何たるかが直ちに分るであろう。−−さて、汝の義務とは何か。日々の仕事である』と。そりゃ、確かに、その通りにはちがいない。しかし、日々の仕事というのが、与えられた地位に安住し、その範囲内で誠実を尽すというのでは、…

ゲーテの自己実現(533)
 ゲーテはブレンナー峠を初めて越えるより11年前の1775年、ザクセン・ワイマル公園の若い君主カール・アウグスト公に相談役として招かれ、自由都市フランクフルトからワイマルに移住した。26歳の若きだった。
 国政のどんな局面でも彼は仕事の上で手を抜くことがなかった。責務は十全に果たした。彼もまた典型的な規律正しいドイツ人であった。しかし彼の不思議なところは、彼が職務に忠実でありながら、それになずむということのなかったことである。自分自身が何者であるのか、何者になっていくのか、それが職業をつらぬいて職業よりも大切なのであった。世界に対して生きる、それがとうとい価値であった。19世紀以降のヨーロッパのことばで言えば一個の人間として世界の中に、「自己実現」と呼ぶことのできる価値である。おのれの生来の素質と与えられた環境を生かしきって、自分自身になっていき、自分という大きな樹を伸ばすことを彼は願い、実現した。その過程で彼はイタリアに旅し、人間としても詩人としてもまったく新しく生まれ変わった。

ゲーテの虹(531)
 しかし私の眼に珍しいものとして映った今一つの現象があった。それはふうわりとした雲間から出ている細い虹で、片方の脚をシチリアにかけ、清澄な碧空に弧を描いて、他方の脚を南方の海上にかけているようであった。沈んで行く太陽に照らされて美しい色合を見せ、じっと動かずにいる有様は、見る眼に珍しくもよろこばしい光景だった。「この虹はまっすぐにマルタ島の方に向いておりまして、片方の脚は確かにあの島にかかっているらしいのですが、こんな現象は時々現われることがありますよ、」と案内者は説明して聞かせた。両方の島の引力が互に作用し合って、大気中でこのような現象を起すものとすれば、これは実に面白いことだ。

ゲーテの入学許可(531)
 プラトーは「幾何学を知らざる者」の弟子入りを許そうとしなかった。かりに私が一つの学校を作り得るとすれば、何らかの自然研究をまじめにかつ厳密にしようと思わない者の入門を許可しないであろう。…私は近ごろ次のような馬鹿げた文句、「生命を有する一切のものは、自己以外の或る物によって生きている」というのを発見した。大体こんな文句であったと思うが、こんなことを軽々に引き下せるのは異教徒にたいする伝道者なればこそであって、それゆえ彼の守護神も校訂の際に彼の袖を引張って注意しなかったのであろう。彼らは初歩のしごく簡単な自然の真実をも把握しないのに、王座のまわりの椅子に夢中になって坐りたがるが、そこは実は他の人々の場所であるか、または誰も坐れない所なのである。

ゲーテの美術研究(532)
 私の美術研究はずいぶん進み、私の原理は至るところに適応して一切を私に解き明かしてくれる。美術家がわずか一つずつ苦心してさがし集めねばならないものが、全部一緒になって今や私の眼前に自由に公開されている。私は今、自分のまだ知らないことがどれだけあるかをも悟っており、またすべてを知り、理解するための道もすでに聞かれている。もともとこれはコロンブスの卵のようなものだ。私は、こうした何所でも開けられる鍵を持っていることは口外せずに、今や美術家たちと部分部分について要領よく論議をし、彼らがどの程度まで達しているか、何を所有し、どこに障害があるか等を悟るのである。私は扉を開けた。そして敷居の上に立っている。が、遺憾ながら私はそこから殿堂の中を見まわすことができるだけで、ふたたび立ち去ることになるのであろう。

ゲディミナス大公(529)
 ヴィテヌスについで1328年に大公となったゲデイミナスは強力だった。大公はその地ヴイルニュスを首都と定め、そこを拠点として積極的に大胆な政治的、軍事的行動を展開した。ゲディミナスの下で、リトアニアは飛躍的に拡充、強化された。
大公は、各地で圧迫されていたユダヤ人をヴィルニユスに招いたことでも有名である。この伝統は、二十世紀初頭にまで受け継がれ、第二次世界大戦前夜のヴイルニュスはワルシャワやニューヨークとともに、ユダヤ人の経済的・文化的活動の中心地であった。ゲディミナス大公は、文武の両面において、リトアニアを東方の大国とする基礎を固めた。彼は、いまもリトアニアで、偉大な英雄として敬愛されている。


ゲーデルの定理(108)  
 「正しさを証明できない数学の理論がある。」万能の天才と言われたフォン・ノイマン にとっても数学の世界ではライバル、ゲーデルに及ばなかった。

ゲーデルの不完全性定理(357)
 ゲーデルが証明したのは、完全で無矛盾な数学体系を作るのは不可能だということだった。彼のアイディアは簡潔な二つの命題として表すことができる。
  <第1不完全性定理>
     公理的集合論が無矛盾ならば、証明することも反証することもできない定理が存在する。
  <第2不完全性定理>
     公理的集合論の無矛盾性を証明する構成的手続きは存在しない。
 第1不完全性定理が述べているのは、公理の集合としてどんなものを使おうとも、数学には答えることのできない問題が存在するということだ。完全性は決して達成できないのである。…第2不完全性定理はこう述べる。公理の集合として選んだものが矛盾をもたらさないと確信することは決してできない。つまり、無矛盾性は決して証明されないということだ。
「私は嘘つきである」という言明の真偽は証明できない。


ケーニヒスベルグの橋(244)
 プロイセンのケーニヒスベルグ市、そこのプレーゲル川には中洲と両岸の間に7つの橋が架かっている。これらの橋を一回づつだけ渡って、全ての橋を渡る散歩のルートがあるかという、グラフ理論の発端となった問題である。この問題を解いたのがオイラー。一般にグラフが一筆書きできるかどうかについて、オイラーは次のように回答を与えた。「グラフが一筆書きできるための必要十分条件は、奇頂点の個数がゼロまたは2個である。」

ケネス・アーノルド(557)
 アメリカ軍当局には奇妙な飛行物体に関する報告は以前から寄せられてはいたのだが、空飛ぶ円盤に関する最初の公式の報告は、1947年のケネス・アーノルドによるものである、ということが通説になっている。アーノルドはレーニア山国立公園付近を飛行中、九つの物体が隊列をなして、山頂の間をものすごい勢いで飛んでいくのを目にした。彼は自分が見たものを描写する際に、その動きを水を切ってはね飛んでいくコーヒー皿にたとえた。こうして、空飛ぶ円盤の歴史が始まったわけである。それ以来、何千もの目撃報告がなされてきた。

ケプラーの球体充填問題(357)
 では、フェルマーの最終定理に取って代わる数学最大の未解決問題は何だろうか? その最有力候補は、ケプラーの球体充填問題である。…物質を構成する粒子は、いかにして自己を組織化するのだろうか? この間題に興味をもったケプラーは、雪の結晶とは別のテーマに論を進めた。それこそが、体積を最小とするように粒子を積み上げるにはどうすればよいか、という問題だったのである。粒子が球体だと仮定すると、どう並べようとも必ず隙間ができる。問題は、隙間を最小にするにはどうすればよいかということだ。ケプラーはさまざまな配置を試し、それぞれに対して充填率を計算してみた。…フェルマーの問題に半世紀ほど先駆けて生まれ、いまではそれ以上にやっかいであることのわかった球体充填問題の核心である。数学者は、面心立方格子が間違いなく最高の充填法であることを証明しなければならないのだ。

ケプラーの第三法則(264)P.97
 今日、ケプラーの第三法則と呼ばれるこの関係−−公転周期の二乗は平均距離の三乗に比例する−−こそ、、彼の「世界の和声論」の最大の成果であり、また、ニュートンが惑星理論を発展させるうえで根本的に重要なものとなったのである。
…ケプラーは、…ほどなく「概要」を完成させてこの法則を物理的に説明している。…太陽の駆動力が距離に比例して減少する。…太陽光線の力を受け止める惑星の受容力は惑星の体積に比例する。…距離の平方根に比例する惑星のかさによって生じる抵抗がある。…


ゲヘナの火(140)  
 エルサレム南方の谷の塵芥焼却場。立ち昇る黒煙と焔は悪臭を帯び、聖書で地獄を象徴 する言葉となる。  

ゲミュートリッヒカイト(31)(119)
 Gemutlichkeit.ウィーン人、ザルツブルグ人が自らをドイツ人と対比して性格つける表 現。のんきで享楽的で、妥協的なというニュアンスを持つ心地よさであり、義務や責任と いう概念から最も遠い。これをプロイセン人はschlampig(だらしない)という。  

ケメトの国(293)
 ケメトとは黒土のこと。ナイル川の氾濫によってもたらされる肥沃な土のこと。つまり「ケメトの国」とはエジプトを表す。

ケリー・ジョンソン(117)  
 ロッキードの創立者で、かつ機体設計者。大戦中、ドイツに対抗して、ジェット推進戦 闘機P−80を開発。その一号モデルXP−80は受注後141日で地上試験にこぎつけ た。  

ゲルストマン症候群(295)
 脳の損傷によって、左右の区別ができなくなることがあるといわれているが、左右の混同を含む症候群として最もよく知られているのは、ゲルストマン症候群(1940)によって記載されたものである。この症候群には、左右障害の他に、手指失認、失書、失算が含まれている。これは、左半球頭頂葉の限局した部位の一側性の損傷で起こるとされている。
 左右の混同が基本的には構造上の対称性によって起こるとすると、一側性の脳損傷は対称性が減少することになるので、この考え方とは矛盾してしまう。


ケルタエ人(535)
 ガリアは、今日のフランスとベルギーの全部と、それにオランダの南部地方、ドイツのライン川以南地方、スイスの大部分を含んだ地域のよび名であった。この地方や、そしてプリタンニア(今日のイングランド)の大部分に、カエサルの時代にはケルト人(古名はケルタエ人)が住んでいた。ケルト人は、インド・ヨーロッパ人種に属する一派であるが、…古代作家は、ゲルマニア人と同様に、背が高く金髪であるといっている。彼らが、本来の故郷である中央ヨーロッパを、気候の悪化とともに捨てて移動を始めたのが、紀元前九百年ごろであった。

ゲルダ・タロー(101)
 キャパの恋人でマネージャ。ゲルダ・ポホリレス。当時パリに留学していた岡本太郎の 名から取って名乗る。当初、キャパの名で写真を発表していたが、写真家としても認めら れたが、スペイン人民戦争の戦闘中死亡。戦闘で死亡した最初の女性カメラマンとされる。  

ケルト(135)  
 ケルトはギリシャ語。ガリアはラテン語。ローマに征服される以前をケルト、征服後を ガリアと呼び分ける。カエサルのガリア征服により、ドルイドを信じる多くのケルト人が ブリタニアに逃げ、かれらがストーンベンジを作ったと考えられている。

ゲルツッシュタール橋(172)  
 ザクセン州にある4重アーチの石造鉄道橋。ポン・デュ・ガールを思わせるが、184 9年建造。

ゲルニカの木(476)
 ゲルニカには、ビスカヤの村々の代表の集まる議会場があった。又、ゲルニカの議会場の前には樫の木があって、歴代の領主がこの木の下で、バスクの『法』の尊重を誓ったものだった。だから、ゲルニカは、二重にバスクの自治の中心だった。そして、自治が失われてからは、ビスカヤだけではなく、全バスクの自治の象徴と考えられるようになった。

ゲルマニア人(535)
 ゲルマニア人は、ガリア人のこうした風俗習慣とは、大変に違っている。彼らは祭り事をつかさどるドゥルイデスも持たねば、犠牲にも凝らない。彼らは目で見られもし、また恩恵を受けていることがはっきりしているものだけを、つまり太陽と火と月を、神々として崇める。その他の神々は、噂を通じですら知っていない。
 自国の領土の周囲をできるだけ広く荒廃させ、人の住まぬ空地をつくることが、どの部族にとっても無上の栄光となるのである。近隣部族が土地から追い出されどこかに立ち去り、もう自分の回りに進んで住む部族がなくなると、それこそ自分の勇気の証拠と考える。それと同時に、こうしておくと不意の襲撃に怯えて暮らす必要はなく、いっそう安全であると考えている。

ゲルマン民族(408)原口統三
 ゲルマン民族は、常識的な事を、非常識な熱情をもって礼拝する。僕が読んだドイツの哲学者達、カント、フュヒテ、ヘーゲル、ショーペンハウエル、あるいはシュペングラーが話しをする時の顔つきは、俗悪な程深刻である。…「ねばならぬ」と言い切ることは確かに男らしいことである。…僕はドイツ人の太い地声に「明晰ならざる」ものを嗅いだのである。

ケルムスコット印刷所(82)
 第二次PRBの中核であり、アールヌボーであり、近代デザインの始祖であるウイリア ム・モリスが晩年、自宅に作った印刷所。ケルムスコット版「チョーサー著作集」

ケロジェン根源説(245)
 石油が数億年前の海や湖のプランクトンなどの生物体の死骸がケロジン(母油)という高分子化合物になり、これが地熱の作用で石油になるという有機成因説。これが石油枯渇の原因であるが、少数説として無機成因説があって、これを信ずるなら、石油枯渇の心配はなくなる。

ケロッグ・ブリアン条約(73)
 東京裁判において検事団が論理的根拠とした1928年のパリ条約の通称。第一次大戦 後1924年ジュネーブ議定書で「侵略戦争は国際犯罪である」としたが各国が批准を拒 み、玉虫色のパリ条約になってしまった。第一条で戦争放棄をうたい、第二条は紛争は平 和的手段をもってなすとしているが、違反への罰則を規定していないこと、また戦争勃発 の責が一人敗戦国にあるとする論理的根拠はないことより、東京裁判の非論理性を示して いると主張する。

謙虚さ(70)
 アトスからの言葉「謙虚さのはじめとは、あらゆる点でほかの人の判断に自分をまかせ てしまうことです。霊的父は理屈に合わないことを従う者たちに求めることがある。たと えば花を咲かせるためにレンガに水をやりなさいと。これは弟子たちに単なる理知的な理性状態を超越させ、理解を超えた神の光のなかに謙虚さによって浸らせるためである。」

原型植物(531)
、植物の生産および組織の神秘が私(ゲーテ)には大分はっきりとわかってきた。しかもそれは思いもよらぬほど簡単なものである。このイタリアの空の下では、実に面白い観察ができる。萌芽発生の主要な点を私は発見した、きわめて明白で、何ら疑念をさしはさむ余地のないものだ。その他の点もすでに大体わかっているのだから、ただなお二三の点さえもう少し明瞭になれば、それでいいのだ。原型植物は世にも不思議な植物で、それを発見した私は、自然によって羨まれても然るべきである。この典型と鍵とによってわれわれは植物を無限に発見できるし、それらの植物は首尾一貫したものでなくてはならぬ。すなわちたといそんな植物が存在しないにしても、存在し得るものであり、絵画や文学上の影像や仮像とは異なって、内的な真実性と必然性とを持っているのである。同様の法則は、すべての他の生物にも当てはまるであろう。

健康な思想(540)
 木の中から、観音が出現したというのは、どこにでもある話だがおもしろい。逆にいえば、その野性のエネルギーが、仏教を消化し、発展させたといえるのではないだろうか。そういうものがなかったら、日本の仏教は、抽象的な学問に終ったかも知れない。神の肉体に、仏の精神を与えた、いわゆる本地垂迹説には、私達がふつう考えるような神秘性はなく、はるかに実際的で、かつ健康な思想のように思われる。私はその方面の学問にはうといけれども、巡礼をしてみて、一番はっきりしたのはそのことであった。そして、今はまったく地上から消えうせたように見える神々が、観音様の衣のかふと顔をのぞかせることに驚いている。

健康な人(303)ヘルマン・ヘッセ
 私たちの生活の構成要素である行為と苦悩は、補いあって一体をなし、不可分のものである。それゆえ上手に悩むコツを覚えたものは、生きることに半分以上成功したこと、いや、それどころか、完全に成功したことになる! 苦悩から力が湧き、苦悩から健康が生まれるのだ。ささいなことが牽引で死んでしまうのは、いつもいわゆる健康な人であって、苦しむことを学ばなかった人びとである。

言語獲得の謎(484)
 第一は、「決定不能の謎」である。これは、与えられる言語データだけから、幼児が言語知識のすべてを決定するのは不可能だという問題である。
 第二は、「不完全性の謎」である。刺激の貧困から明らかなように、幼児に与えられる言語データは不完全である。しかも、どのデータが完全で、どのデータが不完全か、という手がかりすらもない。不完全なデータから、なぜ完全な文法能力が生まれるのか。
 第三は、「否定証拠の謎」である。文法的に誤った文のデータを否定証拠(負例)と言う。…否定証拠も十分に与えなければ、文法を決定することは不可能であることが理論的に証明されている。親は、子どもの言い間違いをすべて直すとは限らないし、あ与えて間違った例文を与えてくれるということもない。
 母語の言語獲得は、もともと文法が脳にあると考えるしか、説明がつけられない。次のステップは、それを脳科学から証明することだが、まだまだ解決に時間がかかりそうだ。これはチョムスキーの宿題のようなものである。

言語論的転回(368)
 分析哲学は、「言語論的転回」と呼ばれる革命運動の産物だとよく言われる。言語論的転回とは20世紀前半に興った次のような改宗である。すなわち、哲学的問題は、世界の事柄(心、物質、神、倫理、時間……)を直接相手にするよりも、いったん言語表現の問題に落として処理すべきである。表現形式にこそ問題や混乱があるのに、実在世界に問題があるかのように錯覚する、そうした人間の傾向に気づいて、正しい言語表現を心がければ、実在についての問いと思われていた表面上の謎は消滅するのだ、と。ラッセルは、この「言語論的転回」の方法である言語分析の模範(パラダイム)と呼ばれた「記述理論」 の発見者である。記述理論は、言語哲学におけるラッセルの最重要の貢献と言えるだろう。にもかかわらずラッセルは、二十世紀言語哲学の潮流では、はっきり異端として位置づけられている。なぜかというと、ラッセルは言語分析を終点と考えず、言語が自律システムを形成するとも考えず、あくまで言語が指示する対象は何であるか、ということを考え続け
ていたからだ。これは言語論的転回以前の古い哲学そのままであり、ラッセル哲学はしばしば「形而上学的」という批判を浴びたのである。


原始戦闘理論(224)
 歴史家カーライルが考えた左利きの比率が少ない理由を、スタンレー・コレンが名付けた説。左利きの兵士は、体の右側に盾をかまえなければならない。すると左側は無防備のまま前面へ押し出されるので、心臓に致命的な攻撃を受ける可能性が右利きよりも高くなる。だから左利きはすくなくなったという。

原子命題と分子命題(506)
…考察は、命題につぎのような二つの種類のものを区別しなければならないことを教える。すなわち、一つは経験的事実に照らしてその真偽が問われる命題、他の一つは純粋にア・プリオリかつ形式的に数学的ないし論理学的演算の規則に照らしてその真偽が問われる命題である。ラッセルは、個別的な経験的事実をあらわす最も簡単な命題を「原子命題」と呼ぴ、原子命題によって表現されている経験的事実を「原子的事実」と呼ぶ。すべての原子命題は、その真偽が個別的経験的事実に直接に照合することによってのみたしかめられるのであり、他の原子命題からの推論によってたしかめられるのではない。すなわち、「すべての原子命題は論理的に相互に独立である。」
 これに対して、なんらかの原子的事実に一定の論理的推論を加えて得られる命題を、ラッセルは「分子命題」と呼ぶ。分子命題は、その出発点を経験的事実にもってはいるが、直接的な経験的事実だけによってはその真偽をたしかめることができず、「もし…ならば」「もし…でないならば」などのかたちで二つあるいはそれ以上の命題を結合して得られる推論に依存する。原子命題を立てるのには経験的観察だけがなされればよく、数学や論理学などは何もいらない。
 これに対して分子命題を立てるのには経験的観察だけでは不十分で、推理の用具としての数学や論理学の助けが必要になってくる。経験科学が総合的命題の定立にかかわっていながら、観察や実験や調査だけでなく、それらに加えて数学や論理学を必要とするにいたるのは、この分子命題の定立に関してなのである。


現象の成立(488)
 きわめてくどいが、もう一度だけ繰りかえしておく。時間・空間、そして因果関係などは(通常は〉、人間の存在に関わらず、世界そのものが成立するための条件だと考えられている。人間がいなくとも、時間・空間はあるし、因果関係も、世界そのものの側に属する法則である、と考えられている。カントは、「否!」と言う。そうではないのだ。それらは、人間が世界を認識するための〈主観的〉条件であって、我々の認識を離れてはそれらは無なのである。しかも、それだけではない。想定される知的存在者、例えば天使や神も、彼らが認識するために、時間・空間や因果関係などを使用することはおそらくないだろう、というのがカントの考えである。時間・空間や因果関係などのカテゴリーは、人間の認識の成立の条件、つまり、〈現象〉の成立の条件なのであって、物そのものの成立の条件では決してないのである。

現象の創造主(488)
 変化が実在的なものであることは否定しません。ただしこの場合私が言っているのは、実在的なものとは現象に対応しているものだ、ということなのです。
 この論述において、現象はもはやたよりがいのない仮象ではない。現象は物自体と区別され、しかも実在的なものとの連関において語られている。神の場合には直観することが対象を産出することであり、神は物の「創造者」であった。しかし、有限的存在者はみずからのうちから他の物を認識することができない。なぜなら有限的存在者は他の物の創造主ではないからであるとカントは後のあるレフレクシオン(考察〉で語っている。そして続けて「したがって有限的存在者がア・プリオリに認識しえるのは現象なのである」、なぜなら「人聞は現象の根源的原理」だからである、とも言っている。ここでは、神の物自体のア・プリオリな認識と、人間の現象のア・プリオリな認識が類比的関係において考えられており、人間が現象のいわば「創造主」となることで、現象のア・プリオリな認識が可能となったことが語られている。


幻想美術(185)  
 ロジェ・カイヨワによれば「幻想美術の範囲に関してもっとも寛容なひとは、アルチンボルトまで受け容れるであろうし、もっともきびしい制限を設けるひとは、ボッシュすら 拒否するであろう。」   澁澤龍彦は書く。「幻想芸術家の資質ほど曖昧さから遠いものはないのであり、まず明 確な線や輪郭とともに、物をはっきり見ることが幻想芸術家たる者の第一歩なのである。 反リアリズムは、リアリズムの陰画でしかなかったのである。」   

現代音楽(292)
 そもそも歴史をさかのぼれば、20世紀の現代音楽の中心的存在であるユダヤ人のシェーンベルグが発したメッセージは反ナチス、つまりナチスが悪用したワグナー音楽の<絶対性>を調性原理を破壊することによって脱却することだったといわれる。心を揺り動かされてはならない。記憶に残ってはいけない。感動を引き起こすことをあらかじめ排除することを前提に作られたのが現代音楽だった。

現代の錬金術(446)
 「地震がいずれ決定論的に予知可能になると考えるべき理由は何もない」と語った。この発言には驚きを禁じ得ない。これでは、19世紀の物理学者が「人間が月に行けると考えるべき理由は何もない」と言っているようなものではないか。しかも(東京大学教授の)ゲラーは別の機会には一段と過激な姿勢を示し、地震予知の試みを錬金術になぞらえてみせた。「アイザック・ニュートンほど錬金術に没頭した科学者はいない。失敗に次ぐ失敗で彼は絶望し、ついに科学を捨てて造幣局長官という閑職に就いてしまった。だがニュートンの挫折にもかかわらず、その後百年ほども才能ある科学者が次々に錬金術に魅了され無駄な努力を続けたものである。地震予知の試みは、現代の錬金術と言えるかもしれない」

建築主義(86)
 フリーメソンの目的「エルサレムの伝導の象徴的再建」。この理想的伝道建設の技術は 人間存在を変える、あるいは「粗石を削りとる」技術、すなわち石工の技術である。入社 者は「粗石」でありこれが「立方体の石」となり、理想の殿堂の資材として利用される。

建築のアリバイ(336)
 公共工事は「弱者」のために行われるというレトリックである。このレトリックに反論することは、決して容易ではない。ケインズ政策もまた、この「弱者」のレトリックによってほとんど反論の余地がないほどに補強される。こうして建築は往々にしてほぼ無制限のアリバイを獲得する。

憲法24条の母(559)
 ベアテ・シロタは1923年ウィーン生まれだから、このとき23歳という若きである。5歳のときにピアニストの父レオ・シロタ氏とともに来日したロシア系ユダヤ人である。10年間も日本に滞在していたから日本語は流暢。両親は彼女が米国に留学している問もずっと日本にいた。栄養失調で餓死す直前の状態にまで陥ったが、親戚が次々にアウシュピッツに送られたことを思うと耐えることができた。
 GHQ民政局では人権に関する小委員会に所属していた。女性の権利を明記することに尽力したことから、後年、「憲法二四条」(「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する)という条文)の母と呼ばれるようになる。

憲法改正草案要綱(559)
 「できれば3月7日の極東委員会(ソ連など他の戦勝国も含まれる)の前にワシントンに憲法草案を届けておき、すでに日本は民主的な憲法の草案を自ら作成していると報告したいものだ」
 「今日は3月5日、しかも三分の二が過ぎている。明日中に何が何でも憲法草案を完成させるんだ。」 結論は出た。午後六時ごろ、ケーディスは次郎を呼び、「今夜中に日本国憲法の確定草案(ファイナル・ドラフト)を完成することになった。日本側もそれに参加してもらいたい」と申し入れてきた。…作業があらかた終わったのは午前10時。
…閣議を通過した「憲法改正草案要綱」は、昭和21年3月6日、「日本政府による憲法改正案」として世間に公表された。間髪をいれずにマッカーサーは同案への支持を表明。完全な「出来レース」である。この事態に怒ったのが極東委員会である。前文を見ただけで彼らは「憲法改正草案要綱」が日本人の書いたものでないことを見抜いた。当然だろう。同委員会は憲法案を審査する機会を与えるよう主張したが、マッカーサーはこれを拒否。結局、強引に押し通した。
注目すべきことは、極東委員会の米国代表であるマッコイ議長さえも憲法問題に関してはマッカーサーを支持していなかったことである。この後、マッカーサーの独断専行はさらに顕著なものとなり米政府とGHQの思惑は大きく希離していくことになる。


厳密な意味の無価値(447)
 「実存主義においてはあらゆる解決の道がとざされているから、地上における行動は全面的に不可能と考えなければならず、それゆえに、実存主義は人々を絶望的静寂主義へと誘うものであり、究極においては一種の静観哲学に帰着する。しかも静観は一つの贅沢行為であるから、それは一種のブルジュア哲学へとみちびく」という批判が実存主義にむかってなされた。これはとくにコミュニストたちからの非難である。…マルクス派もカトリック派も、われわれが「人類の連帯関係にそむき、人間を孤立したものと考える」と非難している。
…キリスト教のがわでは、われわれは「人間の試みるさまざまな企ての現実性や真摯さを否定するものだ」と非難する。われわれのように、神の戒めや、永遠のなかに規定されているさまざまの価値を廃棄すれば、あとにはもはや厳密な意味の無価値しか残らない。各人は自分の望むままを行うことができ、自己の観点からは他人の観点や他人の行為を
非難することはできないからだ、というのである。
…彼らは、実存主義の悲観論でなく、むしろ実存主義の楽観論に不服なのではないかと私はひそかに疑っているくらいである。けっきょく、私がこれから述べようとする主張のなかで人々を恐怖させるるものは、この主張が人間にたいして選択の可能性を残しているという事実ではあるまいか。


賢明さを発揮すべき時(558)
 「僕たち自身がチャンスだよ」という声が聞こえ、耳にした者は振り返る。ジョン・フランクリンだ。フランクリンの言葉を、皆が理解したわけではない。だが、自分の言葉を熟考し、吟味する者がいるとすれば、それはフランクリンだ。というわけで、皆も少しのあいだ熟考してみた。フランクリンは、賢明さを発揮できる時が来るまでは愚かに見えることをいとわない勇気をもっている。これは見習うに値する。それにフランクリンには鉄の頭蓋骨がある! どんな銃弾も彼の頭を貫くことはできない。きっとフランクリンは、神からまだこの世での使命を与えられているのだろう。皆は、できるかぎりフランクリンに助力した。

権力(225)p.27
 ヒュームに従えば、社会がその内部だけを見ていればいいような発展の段階では統治組織の必要はない。…「外部」を契機とする統治組織の成立をはっきりととらえたことによって、「権力」の根拠が論理的なものや「聖家族」によって支えられているのではなく、内在的に考えれば「権力」は本来的に無根拠なものであることをあからさまに示したことである。…権力は無根拠であるからといって、裸の「力」として存在しつづけるものではない。「時間」と習慣がレトリックの力を発揮し精神の惰性を生み出すことによって、権力は納得のいく権威となる。




【語彙の森】