語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-11-30 計57語
新着語
ミケランジェロは劣等生、水底の枯葉、ミゲル・ミエノス、南方と夏目、南方と柳田、南方曼荼羅、三浦梅園、妙好人の往生観、みミラボーの堕落、明代の科挙、ミュンスター監督、右手で左手のものを取る、


三浦梅園(538)
  一気・陰陽・五行の三つのカテゴリーによって、万物を認識論の立場から統一的に把握したところに、中国思想史上における朱子の画期的な意義がある。それはやがて存在論と認識論の分裂、そして、その統一への努力という思想史的展開を、東アジア的な規模において導きだすことになるだろう。たとえば、三浦梅園はその最後の段階を画する思想家であった。
三浦梅園(1723〜1789))が明治以前の日本における最高の哲学者であり、極東の規模においても稀有の恩弁家であったことは、今さらいうまでもない。ただわたしとては、この見とり図を大綱において承認しながらも、急いで注釈を加えておきたいとおもうのである。それは、梅園のばあいは、すでに明末ジェズイット系の西洋自然学(とくに天文学)を経過している、という重大な事実のほかに、五行説の否定、宇宙進化論の否定など、朱子と大きく相違する点が、やはり、あるのだ、ということ。(島田虔次)


見えざる手(35)
 「自由な市場機能に任せておいた時に資財と人口の最適配置が自ずと実現される。」とい うアダム・スミスが国富論(1776年)で重商主義を批判し、自由経済を主張した基本考察。

ミカエル(261)
 マイケル、ミッシェルとも呼ばれる大天使。この天使こそ、死後の霊魂の誘導者、罪の重荷の評定者、冥界の使者だからである。彼は週末の日の開始を告げるラッパを吹鳴らす。…最終審判図で、地獄の責苦をしり目に、主の傍らで霊魂を一つ一つ秤にかけているのは、常にミカエルである。…古代エジプトのアヌビス神にふれた柳宗玄氏の文を目にして、なるほどと思った。これは冥府の玄関を守り、死者の心臓を秤に載せる葬礼の神で、黒犬、あるいは頭だけ犬の形をしているという。計量の場面は、後代にほとんどそのままキリスト教に採り入れられ、アヌビスは大天使聖ミカエルに代わる。

三木淳(211)P.179
 慶応の学生だった三木淳は、アサカメの月例写真で土門拳を意識し、戦前に内弟子となり、明石町で起居を共にした。一方でライフの写真にも引かれ、戦後、名取の「週間サンニュース」からINP通信を経て、日本人初のライフ契約カメラマンとなった。INP時代の1949年に、ライフ向けの仕事で18万円の原稿料を得、その約半分を割いて、土門に新品のライカをプレゼントした。土門は「お前は心をアメリカに売った」と愚痴っぽかった。VFが発売されるのは1950年であるから、VCであろうか。

右手(294)ロジェ・カイヨワ
 とくにカントは、同じであるが重ね合わせることができない物体という逆説を使って、絶対的観念論を批判し、空間の客観性を論証しました。完全に同一の構造をもつ物体であるのに、その左右の向きの違いだけが原因で、同一物と断定できないことがある。左右の識別が必要だが、それが不可能なことがあるのは、空間が精神の外側に存在しているからに違いない。また、物体から独立した固有の実在性を、空間がもっているからに違いない。カントはこう考えました。このなぞは次のような形にいいかえることができます。かなわち、右手を理解させるのに、右手のすべての部分と各部分の関係とをどんなに詳しく説明しても十分ではない、というようにです。この手の空間内の位置のみに由来する、何かが欠けているのです。

右手で左手のものを取る(490)
 「私は左手で世間に『あれか・これか』 をさし出し、右手で『二つの建徳的講話』をさし出したが、すべての人、あるいはたいていの人は右手で私の左手のものをつかみとった」。
 すなわちキルケゴールは、はじめは仮名による美的著作と本名による宗教的著作との二重性によって、問いと答えの実存弁証法的構成を考えたのである。ところが世間の人は、問いの方をまともな答えであるかのように受けとって、『あれか・これか』第一部の「誘惑者の日記」はすばらしいと本気で称賛したのである。これでは、実存の三段階の弁証法的構成は全体としてくずれてしまう。そこでキルケゴールは、彼がほんとうにいいたいと考えていた答えの方、つまり厳密な意味でのキリスト教を、上から、明確に、直接的に語らざるをえなくなったのである。

右手の優越(266)ロペール・エルツ(吉田禎吾訳)p.141
 われわれの両手ほどよく似ているものがあるだろうか。しかし、両者の間には何という驚くべき不平等が存在していることだろう。右手には名誉と、嬉しがらせるような名称と、特権とが与えられている。右手が行為し、命じ、「取る」のに対して、左手は、侮辱され、賎しい補助的役目を与えられている。左手は単独では何もできず、ただ、援助し、支え、「持つ」だけである。
右手はあらゆる貴族性の象徴でありモデルであるのに対し、左手はあらゆる庶民性の象徴でありモデルである。いったい右手の優越性の由緒はどこにあるのだろうんか。また左手の隷従は何に由来するのだろうか。 


右と左の分離(266)ロペール・エルツ(吉田禎吾訳)p.176
 ある著者たちによると、右と左の分離は宗教的な志向性の規則や太陽崇拝によって完全に説明されるという。空間における人間の位置は無関心でも恣意的でもない。種々の地方で、多くの神聖な建物は東を向いて作られている。東の方向が固定されると、身体の各部分はそれぞれ東西南北につながる。…昼の明るい太陽はわれわれの右側にふり注ぎ、北の不吉な影は左にのびる。…その仮説は決定的な反証にぶつかる。実際のところ、空間に対する区分が人間の身体の左右の区分に先行するといったことを証明するような事実は全くない。

右の心・左の心(196)  
 左右脳を中央線で完全に離断すると心理状態が二つに分離されて、分離心状態になる。 これによって観察している脳の中で主観的に何が起こっているかを局外の第二の脳が直接 観察するという奇妙な実験ができるようになる。

右回り(301)
 アジアではほぼ全域にわたって、聖なる場所を訪れる巡礼路は、右回りだとされています。広大なインド亜大陸を一回りする古代からの巡礼路がありますが、この巡礼路も時計回り。東から昇り、南を経て、西に沈む太陽の一日を動きを写しとる右回りが、ヒンズー教でも、仏教でも、聖なる回転方向として尊重されていたのではないでしょうか。仏塔の回り方も、右肩を塔身、つまり仏の側に向け、その周囲を三回巡る。仏教用語で右遶三匝(うにょうさんぞう)と呼ばれる参拝の礼法です。…日本の神道では、なぜか左回りが尊重されます。

ミクサマトウシス(153)  
 オーストラリアは入植後はなったうさぎの大増殖に悩んだ。うさぎ駆除の懸賞にはパス トゥールも応募し、コレラ菌の伝染による方法を試みたが失敗した。この爆発的なうさぎ 大増殖からオーストラリアを救ったのがこの粘液腫症(ミクサマトウシス)である。近年 これへの免疫を持つウサギが再び増殖しつつある。

ミケランジェロの負け(213)
 ミケランジェロは古代ギリシャ彫刻に腕を補う仕事を引き受けることができなかった。ギリシャ人と同じやり方では到底かなわないという気持ちが非常によくでている。
モーゼの髭でも着物のひだでも腕や肩の肉でも、ほとんど全体の形を無視するかのようにむくむく盛り上がっている。その局部的な表現力で全体の輪郭などわざと見せないようにしている。……そういう仕方で内なるものを、精神を外に押し出すことができる。……内と外の区別のないギリシャ人には、そんなことは問題にならなかったのである。…ミケランジェロは、深刻に精神的になったかも知れないが、しかしかたよっている。二つを比べろといわれれば、ミケランジェロの負けだというほかない。


ミケランジェロは劣等生(566)太宰
 傍にミケランジェロの「最後の審判」の大きな写真版をひろげて、そればかりを見つめながら箸を動かしていたのであるが、図の中央に王子のような、すこやかな青春のキリストが全裸の姿で、下界の動乱の亡者たちに何かを投げつけるような、おおらかな身振りをしていて、若い小さい処女のままの清楚の母は、その美しく勇敢な全裸の御子にういういしく寄り添い、御子への心からの信頼に、うつむいて、ひっそりしずまり、幽かにもの思いつつある様が、私の貧しい食事を、とうとう中絶させてしまった。よく見ると、そのようにおおらかな、まるで桃太郎のように玲瀧なキリストのからだの、その腹部に、その振り挙げた手の甲に、足に、まつくろい大きい傷口が、ありありと、むざんに描かれてある。
…ダヴインチは、ばかな一こくの辛酸を嘗めてて、ジョコンダを完成させたが、むざん、神品ではなかった。神と争った罰である。魔品が、できちゃった。ミケランジェロは、卑屈な泣きべその努力で、無智ではあったが、神の存在を触知し得た。どちらが、よけい苦しかったか、私は知らない。けれども、ミケランジェロの、こんな作品には、どこかしら神の助力が感じられてならぬのだ。人の作品でないところがあるのだ。ミケランジェロ自身も、おのれの作品の不思議な素直さを知るまい。ミケランジェロは、劣等生であるから、神が助けて描いてやったのである。これは、ミケランジェロの作品ではない。


ミゲル・ミエノス(547)
 ミゲル・ミノエスについては残念なことにその日本名はわからない。だがミノエスという名から美濃の出身であることは窺えるのだが、彼もまたゴアからペドロ岐部より遅れて船でヨーロッパに向い、ポルトガルのエヴォラ大学で学び、日本人として最初の学位をとった。その後ローマに赴き、イエズス会に入会したが、1628年、帰国を決意しながらポルトガルで客死している。

ミクログラフィア(210)  
 ニュートンによって科学史から消されたロバート・フックの著作。実験家、実践派らしい観察記録。顕微鏡による見事な図版によってフックの名声を高めた。

ミサについて(467)カルヴァン
 たとえば人々は日々ミサを唱え、他人より信心ぶかく思われたい者はそれを聞きに出かける。さてこれが許されることだろうか。福音を思慮ぶかく聴いた人ならだれでも、そこで司祭がしていることが冒演であり、涜神のきわみであることを知っている。パンのかたまりを神として崇め、もはやこれはパンでなく神自身だという、すべての不虔を越える偶像礼拝がある。もし、主の晩餐が正しく行なわれたなら、イエス・キリストのからだと血の真の拝受がなされたといってよいだろう。しかしそれは、パンの実質が変化したり、その中にからだが隠されているという意味ではない。聖餐は、私たちの精神を天に向けて高揚せしめるためであって、自の前にあるパンとぶどう酒という目に見えるしるしによって精神を欺くためではない。たとえ真の聖餐であったにせよ、イエス・キリストの代わりにパンのかたまりを崇めたり、キリストがそこにいると考えるのは、有害な、忌むべき幻想ではないか。。…ただ司祭が、ぺてんを使う魔法使か手品師のような仕方で、パンの上に息を吹きかけ、魔術をかけようとする。これがなんの価値をもつというのだ。

ース・ファン・デル・ローエ(123)  
 外面をガラスで覆った摩天楼、すなわち現代高層建築を最初に1920年頃イメージし た。実際にこれが実現するのは戦後のことになる。彼は「レス・イズ・モア」と「神はデ ィティールに宿る」と言った。

ミタンニ王国(293)
 前16世紀、北メソポタミアとシリアに分散していたフッリ人の諸国が、インド・ヨーロッパ語系民族のマリヤンヌ(戦士族)を支配者として、統一ミタンニ国を建設した。ミタンニ国は、初めエジプトとシリアを巡って対立したが、背後からハッティの圧力を受けだすと、エジプトと協力関係をとるようになる。しかし、アメンヘテプ4世がミタンニへの補助を打ち切ると、ミタンニはたちまち崩れはじめ、ハッティに打ち負かされてしまった。ミタンニ国の軍隊は、戦車戦という新しい戦法をあみだした。

道と徳(489)
 無為によって意識しないうちに肉体に集ってきたものが徳である。それは無欲によって完成し、思考しないのに安定し、用いないのに確固とし、これを意識的に実行し、これを欲望すると、徳は身体に止まらず、逃げていってしまうと韓非はいう。…宋子によると、徳とは虚で形のないのが道であり、それが万物を育てあげたのが徳だという。その意味は、道は天地の間に遍満していて、巨大さは越えるものがなく、どこまでも広がっているし、その微小さはどんな小さなものにもはいって行ける。極大極小の存在なのである。いやそれは物でなく、存在ではなく、虚、むしろ空間、そのものだといいかえた方がいいだろう。この道が形をとり、ある場を占めると、それが徳になり、物がそこに生れると考えられた。
 …マルセル・グラネは「古代中国における婚姻習慣」で…道の概念と原始社会におけるマナの概念とを結びつけようと試みた。
 マナは一つの力であり、存在であるに止まらず、行動であり、性質、状態である。それは人間と物の価値をなす。それは魔術的、宗教的、社会的な価値をなすものである。それはまた物の内部にある本質ではなく、外部から附加されたものと、宗教民族学者たちは解している。宋子の学統をうけた韓非の徳に関する解釈は、メラネシアのマナの観念とひじように類似している。グラネは道をマナと解したが、むしろ徳をマナと解した方が適当であろう。


ミチューリン農法(278)
 1951年に長野県下で菊地謙一らの指導のもとはじめられたミチューリン農法は、ヤロビザチャを作物に施すことに集中していた。なかでも最初に成功したのは、秋まきムギを摂氏三度ぐらいに冷蔵処理をして秋まきする試みであった。この処理によって収穫期がはやくなり、病気にたいする抵抗も強くなるし、収量も増加するとされた。この処理をヤロビ処理と呼んだ。
ルィセンコ説の実践農法として、日本共産党も支持したが、スターリンの死とともに、すたれていった。


ミッシング・ファンダメンタル(292)
 楽器が変わると周波数成分は違うが、ピッチ(高さ)は変わらないということは相当昔からわかっていたことです。たとえば、200ヘルツの基本周波数があって、その倍音が1000,1200,1400,1600ヘルツと並べば、200ヘルツと同じピッチが知覚されます。ところが、この基本周波数の200ヘルツを機械的に取り除いても、私たちは200ヘルツのピッチに感じるのです。音色は変わるけれ高さは変わらない。このように基本周波数がなくても、その連続倍音があれば基本周波数のピッチが知覚されることをミッシング・ファンダメンタル、あるいはヴァーチャル・ピッチと呼んでいます。

水の教会・光の教会(279)
 安藤忠雄の建築で、個人的に最も好きになったのが「水の教会」。シュタルンベルグ湖に立てられたルートヴィッヒU世の墓標を思い出す。墓標の十字架を池に立て、さらに建物の外壁一面を除去して、この十字架に対面させた礼拝堂の形態。 「水の教会」は北海道に1988年に建設された。一方、大阪で行われた「光の教会」は、外壁の一面を十字架状に切り欠き、外光によって十字架を造形した。たった113mという空間に、軽込昇牧師のたっての望みで建設された。(日本基督教団・茨木春日丘教会)

ミツバチ紫(16)
 ミツバチの三原色は黄/青/紫外。人間にとって青と赤の混合で得られる紫は、ミツバ チにとっては黄色と紫外の混合色であり、これがミツバチ紫。

ミズーリ号(212)
 足の悪い重光外相は、ランチから水兵に抱えられてミズーリ号のタラップを上がった。無条件降伏の調印式場は第二主砲塔の右舷に設けられ,側壁には1852年ペルリ提督の来航時に使われた星条旗が掲げられていた。マッカーサは「戦いは終わった。恩讐は去った。神よ! この平和を永遠に続けさせたまえ」と述べた。

ミトコンドリアDNA(365)
 その突破口を切り開いたのは、1987年1月の『ネイチャー』誌上で発表された科学論文だった。著者は老練のアメリカ人進化生化学者、故アラン・ウィルソンと、彼の学生レベッカ・キャンとマーク・ストーキングだった。論文のタイトルはこうだー『ミトコンドリアDNAと人類の進化』。…ミトコンドリアには、特異な点がある。両親からそれぞれ受け継がれる細胞核の染色体内のDNAとはちがい、ミトコンドリアを受け継ぐのは片親から、つまり母親からだけなのだ。人間の卵子細胞質には、数にして二十五万ものミトコンドリアが詰め込まれている。それに比べ、精子のミトコンドリアDNAはごくわずかしかない。卵子をめざして子宮まで泳いでいくときに必要なエネルギーの分しか含まれていないのだ。精子が卵子に入り込み、細胞核の染色体パッケージを届けたあとは、そのミトコンドリアはもはやお役目ごめんとなり、しっぽとともに切り捨てられてしまう。そのため、まるまるとした受精卵には両親からの核DNAが揃ったことになるが、ミトコンドリアDNAは最初からその細胞質内にあったものだけしか残っていない−そのすべてが母親のミトコンドリアDNAである。…ミトコンドリアDNAは子どもたちに引き継がれ、それは世代ごとにくり返される。ごくたまにではあるが、突然変異と呼ばれる任意の偶然から生じる変化だ。時間の経過とともに、DNAにさらなる任意の変化が加えられる。その変化は維持され、未来の世代へと受け継がれていく。そしてごくゆっくりとしたペースではあるが、共通祖先となる最初の人物の末裔たちが運ぶミトコンドリアDNAは、任意の突然変異がひとつずつ増えるにしたがって、どんどん異なっていく。…これによってミトコンドリアDNAは人類進化の分子時計となり得た。そして、その原点として15万年前のアフリカのイブにさかのぼることができた。

ミトハト憲法(209)
 1876年、欧米以外で初制定された憲法。オスマン・トルコ帝政時代に制定。明治憲法より12年も早い。ミトハトは提案者であるが、この憲法の精神が実質的に生きるためにはケマル・パシャの登場を待たなければならない。

ミトラ神(86)
 イランに起源を持ち、遠征軍人によってローマ帝国に持ち込まれた太陽神信仰。女性を 排除し、厳格な入社試練でヒエラルキー的な組織を作る。新興のキリスト教によって、洞 窟の悪魔崇拝として描かれることが多い。

ミトラス教(475)
 古代の密儀宗教においても、その神殿を聖なる領域としての地下に築くことが多かった。たとえば、ペルシア起源のミトラス教神殿の原型は、地表面より低い自然洞の中にあり、暗い内陣の奥に祭壇が設けられる。その地下は、まさに聖なる洞窟の象徴であり、聖なる儀式の場所でもあった。このミトラス教の神殿建築は、のちにキリスト教聖堂建築の「地下祭室」(クリュプタ)の様式模型ともなる。現に、ローマのサン・クレメンテ聖堂の地下には、ミトラス教の神殿遺跡の一部がのこっている。
 少なくとも古代的な認識によれば、洞窟はなによりも神霊の斎く聖所であり、また現世と他界を結ぶ二次元的な境界の場であった。いわば、「生と死」あるいは「光と闇」のイメージが交錯する両義的な意味空間である。洞窟での祭祀は、暗黒の混沌に抗しながら、神の恩寵をもたらし、現世の秩序維持と再生を約束する。
…ミトラス教徒が崇拝したのは「王たる太陽」であった。この太陽神の祝日が、ほかならぬ冬至とかかわる十二月二十五日である。この事実は、キリスト降誕日の決定を解く一つの鍵ともなろう。このように、異教的な太陽崇拝とキリス
ト教との関係は、一般の想像を超えて遥かに深いものがある。


緑の世界仮説(413)
 1960年、ミシガン大学の動物学部に所属する三人の傑出した科学者ネルソン・G・ヘアストン、フレデリック・E・スミス、ローレンス・B・スロボトキンが「群集構造、個体群制御および競争」という、後に騒動を巻き起こすことになる論文を書いた。この論文は何度も引用され、激しく議論されたので、じきに執筆者たちはひとまとめにHSSと呼ばれるようになり、仮説の方は「緑の世界」仮説という通称を得た。…この世界の陸地が線なのは、草食動物がすべての植物を食べ尽くすことがないからだ。そして草食動物がこの世界を土だけの世界に変えてしまわないようにしているのは捕食者だ、というのがHSSの見方である。「緑の世界」仮説は、自然のはたらきについてこれまでとはまったく異なる世界観を提示した。…三人は、捕食者が上から生態系を牛耳っていると考え、エルトンの神聖なピラミッドをもてあそび、その頂上部をこれまでよりずっと重くしようとした。彼らは自分たちの仮説の証拠として、ネズミや昆虫の異常発生はその捕食者の駆除に続いて起きるというよく知られた話を引用した。

ミドルアウト(285)
 ある国際会議で、アメリカのパネラーがこの問題を取り上げた。彼は、トップダウンも、ボトムアップも、それぞれ一長一短があるので、「ミドルアウト」こそ、最も良いコンセプトであると結論づけていた。つまり、商品企画を提案するのは、ある程度のキャリアをもち、現場の情報にも精通していて、問題意識を十分にもち始めたミドルが、自分の考えを、自信と情熱をもって上と下へ爆発させることが、最も有力であり価値がある。

南方と夏目(545)
 ついに熊楠がロンドンを離れる日がやってくる。1900年9月1目、熊楠はリヴァプールから帰国の船に乗ることになったのである。…スエズ運河を通ってシンガポール経由、神戸港までは一月半の旅であった。この熊楠を乗せた船が、インド洋上で、逆に日本を発ってロンドンに向かっていた大学予備門時代の同級生夏目金之助の乗る船とすれちがっていることである。
 近代日本を代表するこの二人の巨人は、その生涯においては互いの仕事に対してまったくの沈黙を守っている。それだけに、このインド洋上でのたった一度のすれちがいは、何とも象徴的な光景として我々の自に映るのではないだろうか。むろん、そんなことは、甲板で酔い潰れてくだを巻いていた熊楠の知る由もないところではあっただろうが。

南方と柳田(544)
 柳田は、宝貝を見て、『海上の道』(日本人の起源)に想いを至した。南方は、子安貝から、人間の生命の起源というべき、性に想いを潜めた。ここにも、この二人の独創的な民俗学の開拓者の資質と志向の違いを、わたしたちははっきり見てとることができる。柳田と南方を対比して谷川健一が評したことばは、『海上の道』と「燕石考」との対比においても、いい当てて妙である。
…柳田民俗学の限界は、日本人とは何かという問いに終始し、ついに人間とは何かという問いの解決まで進み得なかったことである。それは諸民族の比較研究という知識の次元での操作とは正反対に、人間それ自体の生態を直視すること以外の何物でもない。しかもそれは南方のように強烈な視線の集中カと無垢の心情の持主であってはじめてできることであった。

南方曼荼羅(544)
 南方は、ヨーロッパ近代の科学を学ぶことによって、大乗仏教の思想に独自の解釈を与えた。真言曼荼羅を「南方受陀羅」に読み替えた。自然及び人間世界の森羅万象は、すべて原因結果の連鎖でつながっている。それはしかし、漫然とすべてがすべてに関係がある、ということではない。南方は、大乗仏教の世界観を、ものごとを原因結果の連鎖として示す、科学的字宙観として、解釈し直したのである。
 かれが、粘菌に対して抱いた異常なほどの関心もまた、この「南方曼荼羅」の発想と関係がある。粘菌は、植物でもあり動物でもある。動物と植物との結節点であるという意味で、また、生命の原初的形態であるという意味で、自然と人間との関係の萃点(すいてん)にあると言ってよい。大乗仏教は、人類に対象を限らず、人類を含むすべての生類のあいだの因果関係をその宇宙観の中に包蔵していると南方は考えた。


ミナカテラ・ロンギフィラ・リスター(462)
 1929年6月、天皇が南紀伊に行幸の時、南方は田辺港で御召艦長門の艦上で、植物学の進講をした。その際日本産の粘菌の標本を献上した。標本に添えた「進献表」によれば、…南方が集めた粘菌の種類は、「実に38属193種を算し、うち外国に全くなきもの約7種あり」と記した。
 南方が発見した新種のうち一種は、粘菌図譜の著者で、粘菌学の「大権威」であったイギリスのアーサー・リスターの娘で、自身も粘菌学の権威であるガプリエル・リスター女史によって、新種として鑑定された。リスター女史は、これをミナカテラ・ロンギフィラ・リスターと命名し、1925年版の『大英博物館・博物誌』の「プロトゾア(粘菌)の部に、彩色の図入りで…紹介した。

水底の枯葉(564)太宰
 侘びしい。
 自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言の呟きのほうに、共感をそそられるに違いないと期待していても、この世の中の女から、ついにいちども自分は、その言葉を聞いた事がないのを、奇怪とも不思議とも感じております。けれども、そのひとは、言葉で「侘びしい」とは言いませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、そのひとに寄り添うと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした陰惨の気流とほどよく溶け合い、「水底の岩に落ち附く枯葉」のように、わが身は、恐怖からも不安からも、離れる事が出来るのでした。


みにくいアヒルの子の定理(218)
 人間の認知パターンから自由である限り、すべての対象は同じ位似ている。このことを厳密に証明したのは渡辺慧で、アヒルと白鳥の間の類似度も、二羽の白鳥の間の類似度も同じことから、これを「みにくいアヒルの子の定理」という。(文献:「知るということ−認識学序説」東京大学出版会)

醜いシステム(256)リーナス・トーバルズ
 醜いシステムというのは、やりたいことにいちいち特別なインターフェイスが必要になってくるやつのことだ。ユニックスはその反対だった。…どんな複雑なものでも、シンプルなものの対話から作っていくことができる。複雑な問題の解決のためにやらなくちゃいけないことは、シンプルなプロセス間にコミュニケーションのチャンネルを作ることだけだ。

ミネシス(199)  
 トインビーの文明生成論における「非知性的模倣」概念を示すギリシャ語。人類はただ ミネシスの能力の助けを得ることによってのみ、自力では及びもつかぬゴールへ向かって 動き始める。そして必然的にミネシスは機械性を帯び、文明の破局をも招く。

ミノルタ・スカイ(104)
 稔る田。Machinery and Instruments Optical by Tashima。ドイツ人が去ったモルタが 昭和8年につけたブランド名。 ミノルタ・ブランドで、最も響きのよいのはミノルタ・スカイ。ライカM3に挑戦して 開発されたが、ライカのファインダーの明るさを越えるという自負からスカイにしたのだ ろう。社長はこれを持って、アメリカに販売促進に行くが、帰りにはそれを首に下げてい なかった。そしてたった一言「ライカの時代は終わった。一眼レフを作れ。」

ミハイル・ロモノーソフ(421)
 キャンペーンはたちまち狂気の様相をおびるにいたった。知識のあらゆる分野でスターリン主義の歴史家たちは、ずる賢い外国人たちに盗まれたロシアの学者たちの優先権を探し出した。蒸気機関を発明したのはワットではなく、シベリアの職人ポルズンコフであったとされ、電灯はエジソンではなく、ロシア人のヤプロチコフ、無線電信はマルコーニではなく、ロシア人のポポフ、最初の飛行実験をしたのはライト兄弟ではなく、ロシア人の技師モジャイスキーであったとされた。アーク放電を発見したのは教師ペトロフであり、その他すべては、18世紀にすでにミハイル・ロモノーソフによって発明発見されていた。

ミミズの生活(269)p.31
 多木浩二は71年……「日々」(牛腸茂雄と関口正夫)の書評を書いて、「かれらによって選択された態度、あるいは見る方法はあまりに素朴すぎ、調和にみちていて疑問を感じないわけにはいかない」と評している。中平卓馬は森山大道との対談の中で「日々」を「あれほど無感動で、爽やかに生きていることが不思議でならない……何ごともないということがすごいというふうに、悪い評論家がいうわけだ……うらみつらみがなければ撮らない方がいい……何かのこだわりがなければ、<日付>も何もないわけだ。ミミズの生活だよ……ああいう写真といっしょにされるのはちょっと心外だね」とコキ下ろしている。

耳の戦車(232)
 「悦楽の園」右翼に現れるボスの天才的ビジョン。鋭利にナイフを載せた巨大な耳の車が、裸の人間たちを轢き殺している。

ミーム(253)
ジーン(遺伝子)と韻を踏んだミームはドーキンスの造語であが、ギリシャ語の「模倣」から取られた。ドーキンスは、生命の進化が情報の伝達であることに注目して利己的な遺伝子という発想にいたったのだが、おなじように人間の文化も、情報の伝達である。情報が伝達されということは、そこで何かの情報が複製されたと考えることもできる。遺伝子の場合は、DNA分子がたしかに複製される。では文化では? それは「ミーム」だという仮説。

ミームのプール(254)佐倉統
インターネットの出現は、新しいプール(培地)の出現である。…物体から単独で切り離された情報−。これは、動物や植物の身体から離れて<遺伝情報>>が存在しうるようになった。つまり、ウィルスが出現したという事態に似ているかもしれない。…ウィルスの出現というよりは、遺伝情報が増殖し広がってくことのできる場を提供した、太古の海に近いのではあるまいか。言い換えると、人間の脳という培地の中でひそやかに誕生したミームは、今ようやく、その制約から解放されて自由に活動できる場を獲得したのである。

宮本武蔵(32)
13歳で有馬某を撲殺して以来、29歳で佐々木小次郎をやはり撲殺するまでに60数回戦って不敗。身長1.8m近く、琥珀色の半眼で相手を見据える異形の剣豪。後半生は 猟官運動に費やすがかならずしも成功しない。詩歌、茶の湯、絵画等の万能の天才。名作 「古木鳴鵙図」。「死骸に甲冑を着せよ」と遺書が、果たせなかった武将としての生き方 の夢を物語る。 1584〜1645

ミュスク(321)
 麝香猫臭。分析的に猫の小水(シベット)という。ミュスカデはミュスクの香りが感じられるため、こう呼ばれた。

ミュンスター監督(490)キルケゴール
「私はミュンスター監督のことを考えると時おりまるで不安になり、この人のために心配になってしまう。彼はいま七十二歳だ。まもなく−−審きの前に出る。そして彼は、虚偽の輝きをつくり出すために、どれほどキリスト教を害したことだろう−−地位につき、支配するために。彼の説教は、まったくまともなものである。−−だが永遠においては彼は説教をすることができないであろう。−−彼は裁かれる」。「ミュンスターの説教は欺瞞だ。…キリスト教を空しい穏健さに変えてしまうことによって誤用したこの男は、わざわいである。」

ミュンヘン協定(154)  
 ヒトラーがズデーテンを奪おうとの動きに列強はミュンヘン協定でヒトラーに妥協し、 これを平和裡に解決しようとした。これがその後のヒトラーの野望を肥大させることとな った。ミュンヘンと言えば弱腰で分別を失っていることを象徴する言葉となった。 ヴァイツゼッカーはナチスの台頭の外因として、これとヴェルサイユ条約を挙げる。

明王(143)  
如来の真意を奉持して悪を破砕する使者。済度しがたい相手を威をもって仏法に導く役 柄で、忿怒形に造られる。変形パターンが五大明王であるが、その中尊の大日如来の所変 が不動明王。

■妙好人の往生感
  浄土系信者の中で特に信仰に厚く徳行に富んでいる人を妙好人と言っている。彼は、学問に秀でて教理をあげつらうというがわの人でない。浄土系思想をみずからに体得して、それに生きている人である。
 最も特殊と見られる一事は、才市の考えが未だ曾て死後の往生に及ばぬことである。死んでから極楽へ引きとられるから此の世の悩み苦しみ等はさもあらばあれと、一言もそれに触れていないことである。普通に念仏宗と言えば、婆婆は苦しみ、極楽はその名の如く楽しいところ、両者は対峠して相容れない。それゆえ此の世では忍順・随順など言う訓練をやって、静かに臨終をまつことにする。弥陀の本願さえ信じておれば、極楽往生疑いなしだから南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言って日々を送る、それにこしたことはないというが普通である。
 然るに才市の歌には、死んでからどうのこうのということがない。親から貰うた六字の名号で、その心は一杯になっていて、そのほかの事を容れる余地がないように見える。「さいち、こんどのつぎ正(次生)は、どこにいく。なむあみだぶつのさと(里)にとられて、なむあみだぶつ。」これが才市の後生観または往生観とも見るべき唯一の手がかりである。


未来のジークフリート(361)
 若きヒトラーの自己規定。…ゲルマン民族の騎士たちの、騎士道精神溢れる勇敢な行為、破りえぬ誓い、禁欲的鍛錬などは、ヒトラーの少年時代からの憧れの的だったが、彼らの根本理念に霊感を与えていたのがロンギヌスの槍だったという事実こそ、最大の発見だったのである。…ヘーゲルの哲学は、存在と実在の、概念としての難解な相違を理解できたはずのない若いヒトラーには、いささか及ばぬところだったが、ヘーゲルが述べるところの「世界史的英雄」について考える時、あらゆる道徳観念は彼の魂から溶け去るかに思えたのである。「世界史は、道徳が占めているしかるべき位置よりさらに高い場を占めている。道徳とは個人的性格であり、個々の良心である。的はずれな道徳的主張は、世界史的行為とその遂行に抵触するべきではない。くだくだしい私的道義心−謙譲、卑下、博愛、忍耐など−が呼び起こされてはならぬ」…自らの運命の成就を妨げようとするものすべてを踏み砕いて進むべきである。

未来仏(143)  
 仏とは悟りを開いたものであるから、仏とは釈尊一人だけではない。釈尊以前の仏を過 去仏といい、釈尊以後に登場する仏を未来仏と呼ぶ。すなわち時間的空間的に多くの仏陀 が存在することになり、これが浄土信仰を生む。

未来への外挿(158)ファインマン
 法則とは推測、未来への外挿にすぎない。法則とはどうしてもこうでなければならぬと 観察によって条件づけられたものではありません。単にいままでのところは何とかテスト のふるいを通りぬけてきた、一見よさそうな推測であるだけのことです。

ミラボーの堕落(523)
 彼は二つのものを救おうとしたのだ。王権と自由と。王権の存在そのものが自由の保障であると考えていたのだ。この二重のこころみにおいて、彼は最大な障害にぶつかった。彼が守ろうとする宮廷のどうしょうもない無能ぶりである。
…選良は才能を前提とし、人民は素朴で根づよい本能の力をもつ。中間精神にはそのどちらもが欠けている。この精神は、人が高くもなく低くもなく、ちょうど同じ高さ、つまり中間的、平均的でいることを強要する。この精神は疑いぶかいくせに、けっきょく凡庸な策略に牛耳られてしまうのだ。大革命の上げ潮はこうした活動的な凡庸を権力の座に導いていったのである。
 1791年4月2日 ミラボー病死(毒殺?)。4月3日、パリ県は国民議会にたいし、つぎのような請願をし、採択された。偉人たちの墓所として聖ジュヌヴィェーヴ寺院を選び、最初にミラボーをそこに葬ること。4月4日、盛大な葬儀が行なわれた。その広範な人民的規模の大きさは有史以米のもので、1840年12月15日のナポレオンの葬儀まで、その記録を破るものはなかった。

ミレット制(475)
 トインピーは、ディアスポラ共同体の歴史的な結晶として、オスマン帝国の「ミレット制」をあげる。この制度は、オスマン・トルコがピザンツ帝国を征服した際に採用した社会体制であり、その帝国内で公認された宗派別の「宗教共同体」を指している。いわゆる、非イスラーム教徒を対象とした、宗教を基軸とする統合的共存のシステムである。とくにオスマン帝国が重視したミレットは、ギリシア正教徒、アルメニア教徒、ユダヤ教徒を核とする「三大ミレット」である。各ミレットは、首長(ミレット・バシ)の責任による一定の納税義務などを果たす代償として、信仰の自由をはじめ法および生活習慣などにわたる大幅な自治権が与えられた。そのイスラlム支配下の「保護民」(ズインミー)が果たした社会的役割は、とくに行政の分野をはじめとして特筆すべきものがある。

弥勒(143)  
 マイトレーヤ。慈という意味を持つミトラの語に由来する実在の仏弟子。

明代の科挙(509)
 明代の科挙の試験は、「明史」選挙志によれば、子・卯・午・酉の年に(つまり三年に一度)各省ごとに生員を集めて郷試を行い、合格者を挙人と称した。郷試は中央から試験官を派遣して実施した。郷試の翌年、丑・辰・未・戌の年に(つまりこれも三年に一度)挙人を都に集めて、礼部が会試を行い、その合格者を朝廷において天子が試験し(これを廷試または殿試という)、成績によって三等級に区分して合絡を確定し、これで始めて進士と称して任官の資絡を得ることができた。郷試も会試も、三日おきに三場の試験を実施し、第一場は四書義三道(一問題を一道という)・経義四道、第二場は論一道・判五道、詔・誥・表のうちから一道、第三場は経史時務策五道が出題された。この四書義・経義の答案を書くに用いるのが八股文で、時文・制義などとも呼ばれる。全文の分段構成がきちんと定められていて、その規絡に合せ対句を多く用いて、答案を書くことが要求される受験生は出題された経書の各節分について、その趣旨を敷衍しつつ八股文の規格どおりに.一遍の文書を作りあげたわけである。

ミンネゼンガー(119)  
 12世紀のプロバンスのトルバドゥールの影響を受けてドイツに起こった貴族出身の詩 人、音楽家たち。十字軍によって盛んとなった処女マリア信仰と関係が深く、理想の女性 をマリアに付託して歌った。中世最高の詩人ワルター・フォン・フォーゲルワイデ、宮廷 詩人ナイトハルト、激情の恋愛詩人タンホイザーらがいる。


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