語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-6-14 計19語
新着語 ムムターズ・マハル、無限者信仰、無神論者、無記説、無心、無我、宗春のペレストロイカ、無はある、無理数の否定、村野藤吾、無差別戦争観、無調、無冠の者、ムント婚、ムンカッチ

無我(443)
 初期仏教いらい、仏教に一貫する根本は「無我」である。のちに大乗になると、外界に実在すると考えられる事物的存在、あるいは存在のさまざまな構成要素(法)は実体的存在ではないという「法無我」をも主張するにいたったが、『倶舎論』などの部派仏教の思想までは、生命的存在(人)は実体的存在ではない、すなわち無我であるという主張にとどまった。「自分は存在する」とわれわれがふつう考えるような我、あるいは仏教以外の学派が主張する究極的自己としての我はけっして存在しないというのが仏教の主張である。ところで、ここに問題が生じてくる。それは、我がなければ、生死輪廻してゆくところの主体はなにかという疑問である。これに対して「倶舎論」 でヴァスパンドゥは、「我は存在せず、煩悩と業とによって形成される蘊(うん)のみがある」と答える。つまり、存在するものは、自己を構成する色・受・想・行・識という五つの構成要素すなわち五蘊(うん)のみである。しかもそれら五蘊(うん)は、刹那に生滅するものであるから、五蘊(うん)から構成される自己存在のなかには、不変的・実体的な我というものは存在しない、つまり、生死輪廻の過程において、輪廻の主体となるような一定不変の我というものは実在しない、と主張する。

無冠の者(271)指輪物語
 エルロンドの御前会議でビルボがアラゴルンのために述べた。
 「金はすべて光るとは限らぬ、放浪する者すべてが、迷う者ではない。
 年ふるも、強きは枯れぬ、深き根に霜は届かぬ。
 灰の中から火はよみがえり、影から光がさしいづるだろう。
 折れた刃は、新たに研がれ、無冠の者がまた王となろう。」


無記(177)  
 ブッダは霊魂の有無についての弟子の質問に対して「無記」として答えなかった。それ があるともないとも決め難いとして、不問とし、問うても答えなかった。仏教思想史は、 仏教は無我説の立場をとることから、霊魂の存在を否定した

無記説(511)
 「あの世は存在する」と考えたなら、「あの世は存在する」とあなたに答えるであろう。しかしながら、わたくしは"そうだ"とは考えない。"そうらしい"とも考えない。"それとは違う"とも考えない。"そうではない" とも考えない。"そうではないのではない"とも考えない。
このようにして、「あの世は存在しないのか」「あの世は存在し、かつ存在しないのか」「あの世は存在せず、かつ存在しないのでもないのか」などのそれぞれの問いについて、同様に答える。
さらに、善・悪二業の報いは存在するのか、ないし如来(人格完成者〉は死後に存在するのかについての形而上学的問題についても、同様に判断中止の立場をとって確答を避けている。このサンジャヤ・ベーラッティプッタ(前5世紀ごろ)の懐疑論は、ある意味で、ゴータマ・ブッダの無記説(他の諸宗教・諸学派からの形而上学的質問にプッダは黙して確答を与えなかった)に影響を及ぼしたとも考えられる。ただたんに、サンジャヤが「いいのがれ」に走ったのではなく、人間の行為についての業論や霊魂論を、実践の本質的探求の面からとらえなおそうとしたものといえよう。

無原罪の御宿り(257)
 無原罪の御宿りと言ったら、童貞マリアのイエス懐妊を意味すると思っていた。それは違う。イエスの母マリアをその母アンナが身ごもったことであった。アンナとその夫ヨアキムには結婚して20年になって子供がいなかった。ヨアキムは荒野で40日間祈り、主に妻の妊娠を告げられ、町に戻り、城門で妻と出会う。この出会いが、神学上ではアンナの懐妊、無原罪の御宿りとされ、重大な意味をもつ。

無原罪のおんやどりの大聖堂(152)  
 ルルドのガブ川のほとりに立つベルナデッタの奇跡の地。聖マリア大聖堂である。

■無限者信仰(554)
 外的宇宙の様々なものがなければ、私の存在がなくなる。しかし、それら、いくつかの他の存在をもって、私は私になりえない。私以外の他を実感することによって、私は、私性の存在を認めることができる。しかし、一方、私の外に、これらの他の存在を認めると、私は縮小される。したがって、再び、私の中に宇宙が含まれるという命題が、タゴールにとって重みを持ってくる。
…古代インドは、全宇宙に自己の意識の範囲を広げることによって、すべてを意識し、すべてに行きわたっている霊、すなわちブラフマンの中に生き、行動し、自らの歓ぴをその中に見出すことに憧れた。タゴールは、唯一神思想によって回印両思想の融合を図ったシーク教創始者ナーナクを、また諸宗教の区別を解消し、最高神信仰に専心した神秘主義者カピールを尊敬していた。このようにタゴールは、様々の系譜の無限者信仰を、生の感情の中核において統一的に把握していた。ここに述べられている無限者の定義は、様々な学派、宗派で異なっているが、無限者の絶大性という点で、タゴールには、統一的把握のできるものであった。無限者の前で中間的なものは、むしろ障害として排せられ、個の平等を主張する近代改革派とタゴlルは一致していた。このこととは矛盾するが、他方では、無限者の絶大性のため、中間者のみでなく、個という有限者をも無にする想いも持っていた。
…タゴールが、有限者を犠牲にして、絶対者を賞揚するという事実があっても、タゴールが全世界の過程を夢幻とみなしているとはわれわれは決して思わない。


無差別戦争観(310)
18世紀から19世紀にかけて正戦理論は衰退し、代わって戦争の実質的原因の正、不正を問うことなく、両交戦国が対等の地位にあるとする無差別戦争観が確立した。双方が共に正当性を主張した場合、これを客観的に判定する上位の権威が認められない以上、結局は双方は対等のものと見るほかないからである。

無心(486)
 その頃ある日のこと、私が一射すると、師範は丁重にお辞儀をして稽古を中断させた。私が面食らって彼をまじまじと見ていると、「今し方“それ”が射ました」と彼は叫んだのであった。
「私がいったことは」と師範はたしなめた、「讃辞ではなくて断定に過ぎんのです。それはあなたに関係があってはならぬものです。また私はあなたに向かつてお辞儀したのでもありません、というのはあなたはこの射には全く責任がないからです。この射ではあなたは完全に自己を忘れ、無心になって一杯に引き絞り、満を持していました。その時射は熟したた果物のようにあなたから落ちたのです。さあ何でもなかったように稽古を続けなさい。」


無神論者(541)
 17世紀の哲学者スピノザの思想のうちで、特に目につき、他の思想と区別されるのは次のもの、すなわち、神即自然の汎神論思想、体系にみなぎる決定論的性格、これと関連して自由意志や目的概念の否定、そして神の知的愛思想などであろう。彼がこれらによって西洋の、特に中世以来の思想史において特異な位置、いわば異端的な位置を占めていることは論をまたない。しかも彼は、自分の属したユダヤ教会から破門されるが、それは、これらの思想のゆえに破門されたのではなく、破門されたのちに、その思想を大成させた哲学者である。
 宗教を既成の宗教の枠の中でしか考えないならば、彼のようにいずれの宗教にも帰属しないものは無宗教者であり、無神論者とみなされよう。事実、彼は当時の人たちから無神論者という非難を浴びせられた。
「神を最高の善とみなし、神をそのものとして自由な精神をもって愛さねばならぬと主張し、そしてこのことにおいてのみわれわれの最高の幸福と最高の自由があり、さらに徳の報酬は徳そのものであり、愚鈍と無能の罰は愚鈍そのものであり、最後に、各人は自分の隣人を愛し、そして最高権力の命令に服従しなければならないと説くものを称して、あらゆる宗教を捨てたといえるでしょうか。」このスピノザの言葉の中にもられているものは、彼の主著『エチカ』の思想である。


無調(292)
 私たちが音楽をわかったと思えるのは、そもそも音を相対的に把握しているからなのである。絶対音感と対立するものではない。無調の現代音楽がわかりにくいのは、あらかじめ、わかること、相対的に把握するという前提を破壊していくことが、その作曲(実験)の目的としてあるからである。

宗春のペレストロイカ(412)
 徳川宗春(1696〜1764)。八代将軍吉宗の享保の改革に真っ向から反対し、開放経済政策を提唱した異色の尾張藩主。このとき宗春が撒いた輝ける名古屋城下の火種は、今日の名古屋の繁栄を招来させたのかもしれない。
 …吉宗は将軍に就任すると、破綻しかけた幕府財政の再建のために自ら陣頭指拝に当たり、法令を連発して引き締めをはかり「倹約将軍」の異名をとったほどである。…ただ一人、宗春だけは、堂々と正面から吉宗のこの強引な締めつけに反対の意思表示をしたのである。
 …華美をてらった宗春の東海道珍道中の演出も、吉宗の政策に対する真っ向からの挑戦だったのである。宗春は名古屋城に入ると、藩士や領民に思いきった開放政策を宣言した。彼が名古屋で最初に取り組んだ政策は、遊廓と芝居の積極的な誘致であった。そして新しい城下の拡張繁栄政策をつぎつぎにうち出していった。胸のすくような宗春の大改革が始まったのである。享保の改革で禁止されていた祭礼や集会の制限などを廃止した。


無はある(392)
 ヴァイシェーシカ学派は、実体、性質、運動、普遍、特殊、普遍かつ特殊、内属を、実在のカテゴリーとして数えるのである。ここまでくれば、あともう一歩である。右に述べた言語表現は、みな肯定的であるが、言語表現には否定的なものもある。たとえば、「この床に水がめがない」といったものがそうである。ここには「ない」という否定辞が用いられている。否定辞も言語表現であるから、それは実在を指し示す。この場合の実在こそが無なのである。無を扱うことに慣れていない西洋哲学者たちにはなかなか考えにくいことなのかもしれないが、無理数を平気で扱う数学を早くから開発していたインド人の頭からすれば、なんということもない。インドの言語では、「この床に水がめがない」という一文は、簡単に、「この床には水がめの無がある(実在する)」と言い換えられるのである。

■ムムターズ・マハル(554)
 16世紀半ばから19世紀半ばまで、インドを支配したイスラム教のムガール朝の帝王シャー=ジャハーンは帝国領土を拡大し、隆盛な外観を持つに至った。西方ベルシャ文化もとり入れた、華麗で洗練された宮廷文化はその極に達した。多くの場所に、王宮やイスラム・モスクを建て、オールド・デーリーにも華麗な都市と王宮を造った。彼自身はアーグラ王宮に住み、愛妃ムムターズ・マハルの死後、妃を偲んで、ジャムナ川畔に有名なタージ・マハル霊廟を造ったといわれている。
     あなたは、だからこそ、あなたの心鎮まらぬ鳴咽を
     永えの沈黙の網で、固い伽なる大理石の中に封じこめた。
     月光の降り注ぐ夜、二人だけの静かな部屋で、
     愛する妃を静かに呼びならわしていたあの愛称を
     あなたはまた、このタージ・マハル廟で、囁くように、
     無限なるものの耳奥深く残していった。
     それゆえ、これら静謐な石に、美という多くの花々を通して、
     愛の情ある優しさが咲き出た。
          (タゴール:渡り飛ぶ白鳥(1916)より)


ムラーノ(?)

村野藤吾(336)
 村野藤吾という建築家を位置づけるのは難しい。村野という作家は、従来の公式的な近代建築史の上にのらない。近代建築史では説明できない村野の存在そのものが、公式の近代建築史を批判しているのである。…村野は、近代建築が支配的な時代においてなお、様式主義寄りの姿勢を保ち続けた、唾棄すべき後衛であった。村野を様式主義者として位置づけしようとする者にとって、日生劇場ほど、最適の証拠品はほかにない。構造と表層の不一致をはじめとする日生のモダニティーは評価されることはなかった。村野の建築には理念というものが欠如しているように見える。しかし、にもかかわらず、彼の建築の根底にはある種の強烈であざやかな近代性が脈打っていた。

無理数の否定(357)
 ヒッパソスという名の若い弟子が、ルート2を表す分数は存在しないことに気づいた。つまり、ルート2は無理数だということだ。ヒッパソスはこの発見に狂喜したにちがいない。しかし彼の師はそうではなかった。有理数だけによってこの宇宙を捉えていたピュタゴラスにとって、無理数の存在は彼の思想をゆるがすものだったのである。…ピュタゴラスはヒッパソスに溺死による死刑を言い渡し、後世に汚名を残すことになつたのである。 論理学と数学的方法の父たる人物は、自らの誤りを認めるよりも暴力に訴えることを選んだ。ピュタゴラスが無理数を否定したことは、彼個人にとっては実に不名誉なことだった。

ムンカッチ(211)p.48
 名取洋之助がドイツで影響を受けたユダヤ人写真家。 ドイツの優れたユダヤ人写真家はヒットラーによって追放され、その中でアメリカに渡った人々の手で、LIFEが1936年に創刊される。この時の表紙を飾ったのがバーク・ホワイト。土門は厳しく絞ったピントのかたいバークホワイトの画像を好んだが、亀倉雄策は動的なムンカッチを好み、よく二人で議論した。後日、土門はムンカッチを不世出の天才報道写真家者としてムンカッチを上げるようになる。
どんな写真とったのか見てみたい。ムンカッチってどんな人?

ムント婚(265)p.82
 側室は単なる妾とは区別されていた。法制史の用語では、この種の婚姻関係は「合意婚」(フリーデルエーエ)と呼ばれ、最も正式な結婚であるムント婚と区別される。このような婚姻慣習はフランク人がキリスト教に改宗してからも続いていた。


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