語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-5-18     計32語
新着語
ナチス科学、南無阿弥陀仏、ナポリを見て死ね、何かというと泣いている、ナポレオン法典、ナポレオン帝国の絶頂、ナポレオンのヨーロッパ、長生きをしすぎる、ナザレの村、汝、ナグ・ハマディ文書、ナブッコの初演、中村修二課長、


内集団(224)p.18
 我々は自分が属するグループは「よい」グループで、そのグループに属さない人間は「悪い」人間だという固定観念を抱く。心理学的観点から特に興味深いのは、グループのメンバーであることが何か重要な条件に基づいていたり、特別な要因がからんでいる必要は決してないという点だ。自分がグループの一員なのだと考えるかぎり、人間はこうした内集団対外集団という固定観念を形成し始める。

長い髪(265)p.36
 王は外見上もカリスマ性を帯びた存在であった。メロヴィング朝フランク王国では王族の者しか髪を長く伸ばすことができなかった。この風習は遅くとも5世紀中葉の王でクローヴィスの父にあたるヒルデリヒ王に遡る。…メロヴィング家の「長い髪」に、ローマ教皇の権威が打ち勝ったのである。ローマ教皇の権威により、カロリング家への王朝交替に正統性が与えられたのである。8世紀前半におけるメロヴィング家の国王とカロリング家の宮宰の関係は、よく天皇と将軍の関係にたとえられる。この権威と権力の二元構造は確かによく似ている。…フランク王国においては、国王より高次の絶対的権威であるキリスト教の神が存在したからである。

中島知久平(128)  
 中島飛行機の創立者。戦前に政界入りして、鉄道大臣となる。米国本土攻撃用にB29 の2倍規模の渡洋重爆撃機「富嶽」を企画、試作。  

中村修二課長(326)
 その頃(93年)には、噂で日亜が青色LEDを研究していることは耳にしていたが、まさか実際に研究室で光っているとは思わなかった。しかし、正直に言って、それほどビックリはしなかったる発光色は青紫で、市販されていたアメリカ・クリー社の2〜3倍くらいでしかなかったからだ。また、構造はMIS(金属−絶縁層−半導体)の改良程度であろうと見くびっていた。ところが、中村修二課長から説明があり、pn接合ができていることを知ったのである。これはほんとうにビックリした。すごい! pn接合が実現していて、しかも材料は、直接遷移型の窒化ガリウム。条件は全部そろっているではないか。

中山正之(123)  
 1939年生まれ、東北大学卒。ソニーで3.5インチFDKを発明。8インチはIB M、5.25インチはシュガートが開発したが、この5.25インチが125kBだった 時期に3.5インチで1MBをなぜ企画できたのか。ソニーのアナログのVTR技術は、 そのままデジタルに応用すれば十分高密度となるレベルにあった、これに気がついた。

ナグ・ハマディ文書(390)
 『ダ・ヴィンチ・コード』 のプロットを支える宗教的な骨組みほ、初期キリスト教の歴史についての資料、とりわけ1945年にエジプトのナグ・ハマディ近郊で発見されたグノーシス主義福音書を土台としている。歴史の闇に葬られた思想の再発見につながったこの文書は、『ダ・ヴィンチ・コード』において事実と虚構の巧みな融合を生み出す道具立てのひとつとなっている。…イエスのことばの意味や弟子たちの役割、初期キリスト教について、これまでより多彩な、ことによると思い切った解釈を可能にしたし、キリスト教が数多くの分派に分かれ、聖書正典がまだ確立されていない時代を解明するのにも役立つからである。そして何より、新約聖書版とは異なるイエスの教えを、今日のわたしたちに垣間見せてくれる。教会の歴史から見てさらに衝撃的なのは、ナグ・ハマディ文書がマグダラのマリアをイエスの弟子、また親密な連れ≠ナあるとして、はるかに重要な役割を持たせている点だ。また、伝統的な新約聖書の教えに比べ、内なる認識を深め自己啓発を促すことに重きを置いている。ナグ・ハマディのグノーシス主義者は、教会や司祭の必要性をあまり感じていなかったらしい。彼らは自分たちの福音書や聖なる書物を仲介者なしに解釈し、じゅうぶんそれで事足りていたようだ − それは組織化されたキリスト教にとっては脅威となる思想だった。

ナザレの村(436)
 いずれにしても、ナザレの村の人々がイエスを知っていたので彼を受け入れず、イエスはそこで奇跡をなしえなかったという状況句には、ガリラヤ地方、とくにナザレなど中央山地の村々に教勢が伸びなかった事実に由来する、原始教団のいわゆる「党派性の論理」が反映している。このことは、イエスの言葉伝承の担い手によって構成された、ガリラヤの町々に対するイエスの呪詛によっても傍証されるであろう。これは教団によるイエスの郷里に対する批判であるが、マルコはこれをイエスの「親族・家」に対する批判に変えている。

なぜ、植物図鑑か(269)p.110
 中平卓馬はカメラによって「物を物自体としてみずからを顕現させ」ることの可能性について積極的に語っている。中平が73年にまとめた論集「なぜ、植物図鑑か」では、これからの自身の写真がまず「図鑑」のように、ある中心を持たず、単なる部分として羅列、並置されているものをカラー写真で捉える決意が書き下ろされていた。
…シュールレアリストの自動記述や「選択の拒否」による「無意識の浮上」の努力を中平もカラー写真という現像所おまかせシステムにあずけることで成そうとした。


長生きをしすぎる(516)
 ひょうひょうとして「人間は長生きをしすぎる」と山田風太郎は何度も繰り返している(『死言状』小学館文庫)。私もそのとおりだと思う。つまり、自分にとっても、家族にとっても、あるいは社会にとっても、ほとんどのケースで意味のない年月が晩年に待っているのである。そのあたりの事情に関しては、科学も造物主も責任をとる気はなさそうなのである。
もちろん、そのような年月を「意味がない」と言って否定することは、客観的に正しいと言えるわけではない。意味のある人には意味があるからである。しかし、ここで注意しなければならないことは、「意味がない」という主張が人生の中のある部分だけを否定しているということである。つまり、人生全体を否定しているわけでも、「生きることにはもともと意味がない」などという虚無主義的主張にもなっていないことである。その点では混同すべきではない。
 ただ単に質の低下した意味を見つけにくい生活を拒否しただけのことであって、それ以上には何も否定していないのである。人生らしい人生を肯定したからこそ、かえって人生らしくない生活を否定しただけのことでもある。厭世主義でも虚無主義でもないのである。伊丹十三の「楽しいうちに死にたい」という言葉はそれを端的に表している。むしろ、「どんな形であれ、生きていることそのものに価値がある」などと主張する人の方が屈折した虚無主義者ということになる。


ナチス科学(553)
 ドイツの社会ダーウィニズムにはひどい独断があり、非合理なロマン主義がありました。しかしその枠のなかでみれば、それなりに実証的であり、因果的思考が貫かれていました。これをもっとも極端化してしめしたのが、ナチスの科学でしょう。ヒトラーの究極のねらいは、世界でいちばん優秀とみずから信じこんだゲルマン民族もしくはドイツ人を、ひとりでも多く増加させることと、同時にユダヤ人を、地球上から根絶させてしまい、,生物学的淘汰を人為的に貫徹させようというのでした。これは恐るべき妄想であり、はなはだ非科学的で非合理な偏見にちがいありません。ところがナチスに加担した学者たちは、科学的な手段を駆使してこの政策の実践に協力したのでした。
 19世紀には、進化論の影響もあって、人類学が発達しました。その特徴は「人体測定学」とも呼ぶべきもので、このなかから、人体の外形を測定することで、内面の知的能力をあきらかにできるという考えがでてきました。代表的な例が顔面角すなわち横側からみた顔面の角度で、これが脳の容積に比例し、それゆえに知能と密接に関係しているというのでした。ナチス流の人類学はこのような発想を武器としました。そしてユダヤ人は、人間のなかでいちばん動物に近く、白人なかんずくドイツ人はいちばん動物とちがっているはずだと考えました。そういう偏見、非科学的な思いこみから出発し、しかしそのことをが証明するべく採用した手段は、じつに厳密な数量測定で、そのかぎりで科学的、合理的だったのです。親衛隊(SS)長官だったヒムラーの命令で、ドイツ軍の占領地域からおびただしい数のユダヤ人の頭蓋骨があつめられ、たんねんな測定がおこなわれたのです。


ナチスドイツ文化の象徴(183)(188)  
 フルトヴェンクラーは国立歌劇場とベルリン・フィルの指揮者、ドイツ音楽局副総裁、 枢密顧問官。リヒャルト・シュトラウスは帝国文化院院長であった。ヒンデミットは「画 家マティス」でドイツ農民戦争でのアルザスの蜂起をナチスへの抵抗として表現して迫害 されるが、フルトヴェングラーは彼を擁護した。リヒャルト・シュトラウスはその子孫に ユダヤ系の血が流れており、これが彼を迎合的にさせざるを得なかった。

ナチスの聖地(188)  
 ヒトラーという無名の青年は1923年、まだ存命だったコジマをヴァンフリート館に 訪ねる。その時にバイロイトのナチスによる聖地化が定められた。ナチスが政権を取った 1933年、総督ヒトラーは再びヴァンフリートに現れ、ルートヴィッヒ二世以来の国家的パトロンとなり、現在におけるワグナー音楽の大衆的理解の基礎を作った。  

ナチズムの美的装い(286)
北原白秋も「独逸青少年団歓迎の歌」を作った。
  燦たり輝くハーケンクロイツ、ようこそ遥々西なる盟友
  いざ今見えん朝日に迎えて、我等ぞ東亜の青年日本
  万歳ヒットラーユーゲント、万歳ナチス
彼らの行進を神戸で眺めた「少年H」によれば、背の高さが170〜190cm、一人もメガネをかけていなかったことにみんなが驚いたという。彼も「無理ないなあ、ヒットラー・ユーゲントは格好よかったもんなあ」と思った。まさしく「ナチズムは、まずその美的装いをもって、受け入れられた」のである。


ナチュラル・ステップ(246)
 スエーデンの環境問題NGO。かれらの提唱するコンセプトがすばらしい。
1)地殻が有機物を資源として定着する速度より速いペースで資源を掘り起こしてはならない。
2)自然が人間の排出物を分解するより速いペースで物質を廃棄してはならない。
 持続可能な社会の実現は、これを実行する以外にない。


ナズグルの王(274)指輪物語
 黒の乗り手は頭巾を後に払いました。すると、いかに! かれは王冠をいただいていました。それなのに、その王冠は目に見える頭の上にのっているのではないのです。王冠とマントを羽織った大きな肩との間には赤い火が燃えさかっていました。見えざる口から死の笑いが聞こえてきました。

ナトリウムポンプ(72)

■何かというと泣いている(524)
 『万葉』が平安以前の日本的情緒と言えるなら、『古今』を以て平安人の情調と言われるであろう。『古今集』二十巻のうち、自然を歌ういわゆる四季の歌が六巻、恋歌が五巻を占めている。物質に恵まれた貴族生活の行楽遊戯的気分のいかに横溢していたかがわかるではないか。そして彼らのいかに涙多いことよ。何かというと泣いている。彼らの長袖はいつも濡れている。『源氏物語』のような文学的作品は世界にないと言うが、こんなもので日本精神が−−それがなんであるにしても−−代表されては情けない。思想において、情熱において、意気において、宗教的あこがれ・霊性的おののきにおいて、学ぶべきものは何もない。これらの女性およぴさまざまの日記・物語類の作者を出した平安文化は優雅で、或る意味の上品さを示したということのほかに、まず取り柄がないと言ってよい。

ナバティア人(126)

ナブッコの初演(384)
 こういう旧約聖書に基づいた、ある意味では堅いオペラ、宗教的なオペラはクワレージマ(四旬節)に上演するのがいちばんいいのだ。その前の謝肉祭のときにはもっと明るくて豪華な曲、そして四旬節にはできるだけ旧約聖書に基づいた宗教的な作品というのが、当時のイタリアの習慣だった。
1842年3月9日、スカラ座で《ナブツコ》の幕が上がった。実はこの作品は、数年前にバレエで上演されていて、大変な人気を博していた。メレッリとしてみれば、古い衣装や装置を全部使い回して、まあ9回の上演がまずまず成功すればいいな、という程度でこれをかけたのだが、実は練習のときからスカラ座のオーケストラの人々も合唱団の人々も、「この曲はすごい!」という評判を立てていた。


ナポリを見て死ね(531)
Vedi Napoli e poi muori !  ナポリの人は自分の町を去りたがらないし、ナポリの詩人はこの地の景勝の地位をひどく誇張して歌っているが、それも無理とは思えない。よしんば近くにもう二つ三つヴェスヴィオのような火山があったにしても、ナポリの値打は変らない。ここにいると、ローマのことなど全く思いかえして見る気にもなれぬ。当地の快闊な四囲に比べると、テヴェレ河の低地にある世界の首府は、僻地の古寺みたいに感じられる。
 ナポリは楽園だ。人はみな、われを忘れた一種の陶酔状態で暮らしている。私(ゲーテ)もやはり同様で、ほとんど自分というものが解らない。全く違った人間になったような気がする。「お前は今まで気が狂っていたのだ。さもなければ、現在気が狂っているのだ」と昨日私は考えた。

ナポレオン帝国の絶頂(522)
 1807年ごろ、すなわちオーストリア、プロイセン、ロシアを屈服させて、大陸にフランスに敵対する国がなかったころが、ナポレオン帝国の絶頂期であった。ナポレオンの兄弟や文武の功臣を中心として、七王国、三十公園がナポレオンの支配下に編成された。独立国デンマーク、プロイセン、オーストリアも、フランスに一定数の兵力を提供する義務を負っていた。イギリスを屈服させることのできないのがナポレオン帝国の弱点であった。イギリス本国とインドとの連絡を切断する目的でなされたエジプト遠征は失敗し、本土上陸作戦は、トラファルガー海戦後イギリスが完全に制海権をにぎったので不可能になった。武力によってイギリスを制圧できないとすれば、残された道は経済封鎖のみである。
 大陸封鎖とイギリスの逆封鎖によって、経済界は混乱してきた。破産、失業が激増した。際限のない徴兵には、さすがのフランス人も不安になってきた。財界もナポレオンにたいして批判的になり、財布のひもをしめてきた。不平は国民のあらゆる層にみちてきた。言論の抑圧や警察の取締りがいっそうきびしくなってきたが、それでも間に合わなくなってきた。巨大な兵力を征服地に配置しているが、反ナポレオンに変わっていく諸民族の心をどうすることもできない。


ナポレオンのヨーロッパ(520)
 彼(ナポレオン)は一生涯のあいだ最後の日まで、善も、美も、真も、また自己の行為の意義も、理解することができなかった。なぜならば、その意義を理解するには、彼の行為があまりに善と正義に反し、あまりにいっさいの人間らしい事柄から隔たっていたからである。彼は世界のなかばから讃美された自分の行為を、否定することができなかった。
 神の摂理によって多くの国民の刑吏たる役割、おのれの意志でどうすることもできない悲しむべき役割を授けられた彼が、自分の行為の目的は各国民の福祉であった、自分は数百万人の運命を左右することができたから、権力によって義行を積むこともできるなどと、自分で自分に信じさせようとしていたのである!
「ヴィスラ河を渡った四十万の兵士のうち」彼はロシヤ戦争のことをこう書きつづけた。「半数はオーストリア人、プロシャ人、ザクセン人、ポーランド人、パヴァリヤ人、ヴュルテンベルク人、メクレンプルク人、スペイン人、イタリア人、ナポリ人などであった。また正確にいえば、帝国軍の三分の一はオランダ人、ベルギー人、ライン河畔の住民、ピエモンテ人、スイス人、ジュネーヴ人、トスカナ人、ローマ人、第三十二師団管区、プレーメン、ハンブルグその他の住民から成り立っていて、そのうちフランス語を語る者は、ようやく十四万あるかないかにすぎなかった。ロシヤ遠征においてフランスの払った犠牲は、わずか五万人弱にすぎなかった。

ナポレオン法典(522)
 1804年5月、フランスの元老院はナポレオンを皇帝とすることを議決した。パリのノートルダム寺院で法王司会の下に戴冠式がおこなわれた。独裁権を撮ってからのナポレオンは、戦争ばかりをやっていたのではない。彼は革命によって破壊された秩序を回復し、同時に革命の生んだ改革を大幅に国民に保証し、各階層の和解によって圏内の平和と安定をもたらそうとした。産業の発展を望んでいる資本家階級がナポレオンに財政的援助を与えたので、ナポレオンは中央銀行としてフランス銀行を設立し、租税制度も改革した。これで革命の直接原因となり、革命中にますますひどくなった財政難は打開された。小学、中学、大学の近代的な三段階教育制度も彼の手で世界ではじめて整備された。内政上の最大の業績は、フランス革命の成果を結晶させた「ナポレオン法典」であった。ナポレオンはのちにセント・へレナで「余の真の栄誉は四十度の戦いの勝利ではなく、−−−永久に生きるのは余の民法典である」と述懐した。ナポレオンはフランス革命の子であり、継承者であったのである。

波の収縮(242)P.48
 ド・ブロイの「物質は波動なり」という物質波仮説をシュレディンガーの波動方程式は数学的に表現できた。波として考えることによって初めてその振る舞いを計算することができる電子は、一方で観測された瞬間にはどこかの一点で現れる。この矛盾に対してボーアは「波動関数によって表されていた電子の波は、観測された瞬間にある一点に収縮し、その後再び波として計算できるが、観測後の波は、もはや観測前の波ではない。観測によって一点に収縮したその点から新しく広がる波である」と説明。これが波の収縮である。

南無阿弥陀仏(542)
 善導によって確立された称名念仏の南無阿弥陀仏(日本の浄土教では一般にこれを六字の名号と呼ぶ)とはどのような意義内容をもつものであろうか。この点について、善導が「玄義分」の経題を解釈する項で、これを「帰命無量寿覚」の六字にあてていたことは前に述べたが、さらにその意義について、いわゆる六字釈と呼ばれる次のような解釈を与えている。
「今この『観経』の中の十声の称仏は、すなわち十願・十行ありて具足す。いかんが具足するや。南無と言うはすなわち是れ帰命なり。また是れ発願廻向の義なり。阿弥陀仏と言うはすなわち是れその行なり。この義を以ての故に必ず往生を得るなり。
 この善導の六字釈をめぐって、後世、日本の浄土教各派では種々な解釈が立てられており、特に親鷺によると、この場合の「帰命」とは「本願招喚の勅命」を意味し、「発願廻向」とは「如来すでに発願して衆生の行を廻施したもうの心」であり、「すなわち是れその行なり」というのは「選択本願」であるというように、まったく他力廻向の立場からの領解を述べている(『教行信証』)。これは、善導の解釈を超えたものではあるけれども、もとは善導の独自な六字釈があって、それを飛躍台として、さらに発展させたものにほかならない。


南緯80度5分(283)
 アムンゼンが南極点に到達したのは前年の12月14日。そのほぼ1ケ月遅れ、1912年1月28日白瀬探検隊は往路9日目、その氷原突進を停止した。白瀬はそこを大和雪原と名付けた。しかし、そこは残念ながらまだ南極大陸ではなかった。それでもこの年まで行われた22回の南極探検のなかでに南緯80度のカベを突破したのは、シャクルトン、アムンゼン、スコットだけで白瀬は四番目だった。大変な偉業である。白瀬は後年大和雪原が日本領土であることを機会あるごとに強調した。

南京安全区国際委員会(115)  
 ナチス党員でジーメンス南京支社長のジョン・H・D・ラーベを委員長とした外国人に よる南京難民保護組織。しかしこの保護区に武装解除した中国部隊を収容したために、( しなくても同じ結果か)日本軍による軍民無差別殺戮にたいしてその活動は無力であった が、事件を記録し、国際世界にこの事実を知らせた。

南京渡洋爆撃(115)  
 海軍の南進論の戦略機種として、山本五十六が開発を促進した三菱の96式陸攻は最高 速度370km、航続4380kmという、当時の世界最高水準にあった。  1936年8月から開始された96式によるハーグ陸戦条約に反する非武装都市への攻 撃によって国際的非難をまねいた。陸軍の独走による中国侵攻というイメージが強いが、 海軍もまた、その後に続く南京事件へのきっかけをつくっていった事実が示される。

(424)福島伸一
 汝とは「汝の食べた物」である

ナンセン(237)p.12
 フリチオフ・ナンセン、フラム号で北極に挑んだノルウエイ探検家である。1922年にノーベル平和賞を受賞している。探検でノーベル賞が得られるとは思えない。探検後、外交官となり国際連盟の高等弁務官になる。このとき第一次大戦のロシア領内捕虜の本国帰還と、飢餓に苦しむウクライナ農民のカナダ移住を実現した、その功績である。

ナントの勅令(93)
 サン=バルテルミーの虐殺をきっかけとする新旧キリスト教による内戦状態を1599 年、アンリ四世が新教からカトリックに改宗するとともに新旧両教徒をともに承認し、フ ランスに平和と統一をもたらすこととなった勅令。しかし1685年、ルイ14世は、勅 令を廃止し新教を禁じた。これによって多くの知識人が亡命し、結果として国力の衰退を 招くこととなった。

南蛮吹き(168)  
 蘇我理右衛門は1591年堺で外国商人から銅銀吹き分け術を教えられる。その子が住友政友の子と縁戚を結び、屋号泉屋を起こす。寛文期の日本の輸出の7割は銅であった。 よって、輸出銅に金銀が混ざらないようにするこの南蛮吹きは幕府にとっても益するものであり、これによって住友の採銅、精錬を出発とする事業基盤が確立した。




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