語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-8-31 計47語
新着語
ニコライティズム、日本の恩人、二者択一の質問、人間を除外する進化論、日本を深く恨む、日本的霊性、認識する前に信仰せよ、人間の意志、偽テュルパン年代記、日本乞師記、人間の無用化、 人間になりましょう、人間の理性、

ニコフレックス(287)
 「光とミクロと共に−ニコン75年史」は付属の資料類も入れると600ページを超す大冊だが、そのなかで100ページ近い紙数がカメラの記述にあてられている。ついに日の目を見なかった二眼レフ<ニコフレックス>の設計図から始まって…。

ニコライ・エジョーフ(375)
 …1937年8月から38年11月のわずか1年半の間に、157万人が逮捕、224万人が有罪判決を受け、うち半数以上の68万人が銃殺刑を宣告された。取り調べ中に拷問室で虐殺された者も加えると、この期間に粛清によって失われた命は、実に100万人にものぼるとさえ言われている。
…テルミンが逮捕されたころ、クレムリンではこれまでの路線を方向修正する静かな改革が進行していた。行きすぎた粛清を戒め、「社会主義的適法性の回復」をテーゼとしたキャンペーンにより、NKVDおよび検察庁は逮捕、追放の大規模作戦を実施することを一切禁止された。…人事の刷新も併せて行なわれ、内務人民委員エジョーフが更迭された。スターリンの右腕、忠実な実行者として粛清を指揮してきたエジョーフは間もなく逮捕され、反革命的組織を指導した廉で銃殺された。替わりに内務人民委員のポストに就いたのは、スターリンと同郷の、グルジア共和国出身のペリヤだつた。


ニコライ・スペシネフ(393)
20代の終わりながら、クルスク郡の地主の出で不撓不屈の意志力をもつこの青年は、長いヨーロッパ生活で得た幅広い教養と洗練された身だしなみで会のメンバーたちを圧倒した。1840年代に登場した革命家のなかでも極左に属し、当局側もこの人物を危険人物としてきびしく監視していた。ペトラシェフスキー会でのスペシネフの発言は過激なもので、神の存在を否定し、秘密印刷所の設置をとなえ、武装蜂起をめざす秘密結社の設立をくわだてるなど穏健なドストエフスキーを驚嘆させた。のちに『悪霊』の主人公スタヴローギンのモデルとなるこの人物について、ドストエフスキーは、はじめ注意深く距離をおいていたが、やがてその悪魔的な魅力に屈し、「ぼくのメフィストフェレス」とまで呼ぶことになった。

ニコライティズム(560)
 第二の不都合なものは、聖職者の妻帯であります。この方はシモニアに対してニコライテイズムといいますが、この語源は諸説あってはっきりしません。要するにニコライテイズムなるものは、妻帯聖職者、妾ないし隠し妻をもつことで、これも当時にあっては異例のことではありませんでした。そして、これも前述のシモニア同様、グレゴリウス改革が完全に排除しきれなかったものです。教会会議の記録などを追ってまいりますと、11世紀はもちろん12世紀にもそれ以後も至るところに同じ妻帯禁止の条令が出てきます。そこで、ルターに至りましてついに、プロテスタンテイズムでは、聖職者の妻帯つまり牧師が妻を持つことが許されることになり、ルターはその先例を開くことになるわけでありますが、カトリックは今日に至るまでそれを認めておりません…。

ニコライ・レーリヒ(369)
 ロシアの画家として思想家としてのニコライ・レーリヒの名声は、20世紀初頭のヨーロッパやアメリカに鳴りわたっていた。芸術家としての彼は数多くのバレエやオペラの舞台美術を担当したことでも知られ、特にストラヴィソスキーの 『春の祭典』 の初演のときは、ストラヴィソスキーと台本を共同執筆して大評判になった。一方でレーリヒは、人類の幸福を求める思想家としても精力的に活動している。戦時中の文化財保護を主張する彼の提案は、学者アインシュタイソや作家のトーマス・マンに熱心に支援され、1935年に「レーリヒ条約」として国際連盟で締結されている。このように一流芸術家として大成したレーリヒは、のちにヒマラヤ山中に引き籠ることになる。晩年にすべての名誉を捨ててまで、ヒマラヤ山中にやってきたのは、いったいどうしてなのだろうか? ひとつだけ分かっているのは、レーリヒが、「伝説の国シャンバラ」がヒマラヤ山中の何処かに実在していると、信じていたらしいことである。

ニコラ・フラメル(369)
 14世紀後半のパリ、エクリヴァン街のサン・ジャック・ラ・ブーシュリーの教会の隣にある小さな書籍商店に、1人の男がひっそりと住んでいた。ニコラ・フラメルという書籍商兼ラテン語教師だ。…1330年にポントワーズで生まれ、13歳でパリに赴いた。…1357年のある夜、フラメルは奇妙な夢を見た。夢のなかに天使が現れて、1冊の手書きの稿本を彼に渡した。…数日後、アラブ人らしい黒い肌をした男が、夢で見たものとそっくりの本を見せて、金2フローリンで売り渡した。…21年の月日がたったが、書物の解読は依然として進まなかった。…そこでフラメルは1379年、妻ペルネルの助言に従って、スペインのサンチャゴ・デ・コソボステラ寺院への巡礼の旅に出た。…この旅の途中で、フラメルは重要な人物に出会う。帰りに立ち寄ったレオンの町で、マイトル・カンチェスという改宗したユダヤ人のカバラ (ユダヤ密教)学者に会ったのだ。フラメルが例の書物のなかから、絵図の写しを見せると、…「それはきっと、ラビ・アブラハムの『アッシュ・メザレフ』 に違いありません。カバリストたちが、もう数百年前に失われてしまったとあきらめているものです。…カンチェスはその書物を自分の目で見るため、フラメルについてパリまで行くことになった。レオンからパリへの道中のあいだ、カソチェスほ錬金術について自分が知っているかぎりの知識をフラメルに授けた。古代エジプトの知の神、ヘルメス・トリスメギストスから始まるその知識は、…忘れられ、隠されてしまった。…カンチェスは、高齢のうえに旅の疲れが重なって、途中のオルレアンで病気になり、旅館の一室で床についたまま、世を去ってしまった。その死の直前に、カンチェスはフラメルに、卑金属を金や銀に変えることができるキーポイント、つまり「賢者の石」の秘密を教えたと言われている。…1382年1月17日月曜日正午ごろ、ついにひとかたまりの銀を火のなかから取り出して見せた。

ニコン漸進主義(287)
 「どうもこのカメラにはこれまでのニコンのつまらぬ亡霊がつきまとって、せっかくの新設計による一眼レフの使いやすさを殺しているようだ」「せっかくここまで進んだのに、なんでニコンSPのデザインと部品を流用しなければならなったか」。これはいわゆるニコンの漸進主義、確立した技術を足がかりにステップ・バイ・ステップで歩を進めて行く確実なやり方に対するユーザー側のじれったさの表現ともいえる。<ニコンF>の基本構造は、1948年から10年にわたり培って最終的に<ニコンSP>に到達したレンジファインダー方式フォーカルプレーン機のボディーを左右に分割し、その中間にミラーボックスを挿入したものと言える。

ニコンの改革(428)
 ロシア教会の古い礼拝様式を変更しようとしたモスクワ総主教ニコンの改革(1653年)にはげしく反対した主僧アヴァクムは、不服従を理由にシベリア流刑となったが、ツァーリの特別の配慮によって、囚人風に頭髪の左半分を剃ることだけはまぬがれた。彼はまれにみる博覧強記で、弁舌にもすぐれ、その所説は、下層民から高官にいたるまで、幅広い支持をえていた。…この旅行は困難をきわめ、衣服は破れてほとんど裸同然となり、加うるに二人の幼児は道中で餓死するし、妻もついに力つきて病いにたおれた。「主よ!われをたすけたまえ」とさすがの彼も天をあおいで嘆息したが、「このような苦しみはいつまで続くのでしょうか?」と訴える妻に、「生あるかぎり」と答えざるをえなかった。…アヴァクムは、のち一時モスクワによびかえされた。しかし、東方教会の各総主教も参加して開かれた1667年の教会会議では、ニコンの改革が認められたために、アヴァクムはついに異端とされ、ふたたび北ロシアのアルハンゲリスク県ペストゼルスクへ流刑となった。これより彼は旧儀式派、いわゆる分離派(ラスコーリ)の教祖となり、1681年にはツァーリ・フョードルにはげしい非難の手紙を書いたため、火あぶりの刑に処せられた。

ニコン判(208)
 戦後35mmカメラの生産を始めた日本光学はその画面サイズをライカと同一にしなかった。
    昭和23年 ニコンT  24×32mm
    昭和25年 ニコンM  24×34mm
昭和26年のニコンSでようやく標準化した。この24×32mmをニコン判と呼んだが、これは印画紙の縦横比に一致するという利点があった。しかし輸出に支障をきたすことが分かっているのに、さらに中途半端な24×34mm判を販売したという戦略あるいは設計都合はどこにあったか知りたいところである。


虹色(218)
 われわれは普通何の疑いもなく虹の色は七色だと思っている。ところが英語では六色であって、藍はblueの中に含まれてしまう。虹の色はズーニインディアンでは五色、ローデシアの一言語であるショナ語では三色、リベリアの一言語であるバッサ語では二色である。我々はまずなまえをつける。然るのちになまえによって分節されたかくかくしかじかの色が、あたかも実体のような貌をして現れてくるのである。

西澤三原則(326)
 青葉山のふもとに設けられた半研の玄関に掲示されている西澤潤一の理念。
 ・未だやられていない事でなければならない。
 ・他処より早く発表しなくてはならない。
 ・他人がやり直しをせねばならないようではならない。


二者択一の質問(558)
 バベッジはますます熱中して、その機械がどのように計算するかを詳しく説明し始めた。人間とは違う方法で、人間よりもずっと速く、ずっと正確に計算するのだ! 計算機は、これまでの数学をはるかに超えた、信じがたい新たな認識をもたらすだろう。貧民救済法と税法の草案を、統計の結果から直接立ち上げることさえできるようになるかもしれない。
 フランクリンは、なにかを理解すると、それを自分のしたいように使う。いいえ、その機械には限界があります、とフランクリンは言って、発明者バベッジを怒らせた。つまり、その機械は常に「二者択一の質問」−−すなわち「はい」か「いいえ」で答えられる質問−−で見つけられるものごとしか計算することができない、というのがフランクリンの意見だった。フランクリンは、エスキモーたちについて、「はい」か「いいえ」かの二者択一の問いによって新しいことを聞き出すことの不可能性について話した。


偽テュルパン年代記(515)
 サンチャゴ大聖堂宝物室のガラスケースに保存され、参詣の信者に展示されている。その彩色細密画はいまも色あせず、美しい。ただし、17世紀に装丁された時、『カール大帝事績録』を取り出して別冊としたため、それ以来、二冊本となった。『巡礼の案内』を第四巻と呼んだり第五巻と呼んだりするのは、このためである。
 問題の『カール大帝事績録』序文にはこうある。「かつてイスパニアにおいて大帝の扈従たりし大司教テュルパン、エクス・ラ・シャペル聖堂司祭長レオプランに挨拶を送る。ここヴィエンヌに隠棲して過ぎし日の古傷をいたわっている今日この頃、あなたの手紙を受け取った。我らの隠れもなきカール大帝がイスパニアとガリシアの全地をサラセンの支配から救った経過を物語れと、あなたは求めたのである。大帝の数ある功業のうち、大帝とともにイスパニアならびにガリシアを疾駆した十四年の間に私が親しく目撃した勝利を物語るに躊ういわれはない。されば、ここに一書をまとめて、贈る。… テュルパンとは、一部の人々には親しい名であろう。武勲詩『ロランの歌』のかなり重要な登場人物である。ランス大司教となっているから、大帝側近ではまず最高位の聖職者と言ってよいが、その実、豪勇無双の武将であった。大帝の命を奉じてロランとともにロンスヴォーにとどまって奮迅のはたらきを見せる。


二祖対面(542)
 善導が入寂してから452年経って、日本の美作国(岡山県〉に生まれた法然(源空、1133-1212)は、承安五年(1175〉の春四十三歳の時、『観経疏』「散善義」を味読し、その中に、「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行・住・坐・臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、是れを正定の業と名づく。彼の仏願に順ずるが故に」とある文に至って、ついに一向に念仏に帰し、仏教の歴史の中ではじめて独立の一宗としての浄土宗を開いた。
 法然は夢の中で、上は墨染の衣、腰から下は金色の姿で現われた善導より専修念仏を弘めよとの教示を受けたという。いわゆる夢中における「二祖対面」の伝承であるが、これは法然が時間・空間を超えて善導より師資相承したことを示したもので、おそらく法然自身の宗教的な神秘体験を背景として成立したものであろう。
 善導・法然の思想を継承し発展せしめた出色の一人は親鸞であった。親鸞の主著は『顕浄土真実教行証文類』(『教官信託』と略称)六巻であるが、本書を含めて数多くの著作の随処に善導の五部九巻からの引文・領解が見出される。よく知られている『教行信証』「行巻」末尾の「正信念仏偈」(「正信偈」と略称)には、浄土真宗相承のインド・中国・日本にわたる系譜として、龍樹−−天親(世親〉−−曇鷲−−道綽−−善導−−源信−−源空(法然)の七祖をあげ(これを「七高僧」と呼ぶ〉、それぞれの所説をたたえている。


ニッコロ・ロリーニ(466)
 ドミニコ会のニッコロ・ロリーニも万聖節の目に説教壇からコペルニクス説を攻撃し、それが聖書の記述に反するとした。そこでこの年ガリレオは友人のコンティ枢機卿に質問状を送り、自分の書いていることが異端かどうか尋ねた。これに対し枢機卿の答えは、ガリレオの天界の変化についての言説はとくに聖書に違反しないこと、聖書は必ずしもアリストテレスを支持していないこと、またコペルニクスの「地球の運動」については、聖書はあくまでも通常の人々の言葉で語ったのだということによってのみ、聖書と調停しうることを示唆し…。
 1615年11月にはロリーニがローマ法王庁の異端審問所にガリレオがカステッリに送った手紙の写しを送り、ガリレオが聖書の勝手な解釈をやっていると申し立て、同時に彼の著作『太陽黒点論』のなかのコペルニクス地動説支持の言説をとらえてガリレオを告発した。最初はとり合わなかった異端審問所も、ロリーニらの圧力もあり、ついに1616年2月24日に「謹賀されるべき命題」というものを決定し、正式に公布した。


ニッポニウム

ニヒリズムの諸段階(155)ニーチェ  
 第1段階は「怨恨」で、強者にたいする非難と不平。次は[疚しい心]で私が悪い、私 のせいだと自分自身と敵対する。「禁欲的理想」段階になって弱い生が望むものは、結局 のところ生を否定することである。ひとは生を、生より高位の価値に応じて裁く。そうい う経験な価値は生に対立し、生を断罪して虚無へと導く。これが「神の死」からパウロが 打ち立てたキリスト教である。しかし人は「神の死」の論理的帰結を求め、自身が神の殺 害者であることを発見する。最後の段階は虚無の意志より、意志の虚無をつぶやく最後の 人間が現れる。最後の人間を越えた彼方には滅びようとする望む人間が現れて、ニヒリズ ムが成就する。この真夜中に価値転換の全てが準備される。

ニヒリズムの第五形態(479)
 他人の顰蹙をも省みず、そもそも人生は生きるに値しないこと、何をしてもどうせ死んでしまうこと、その限り不幸であること、それから眼を離して生きているととが最も不幸であることなど、繰り返し書き散らしているうちに、奇妙に「明るい」気分が私の体内に育っていった。
…いったん語り出してみると、人生は瞬時も生きるに値しないことはますます確かになるのに、なぜか私は明るくなっていったのである。「自由になっていった」と言い換えてもいい。
 そんなころ、私の中で「明るいニヒリズム」という言葉が煌き出した(ニヒリズムの第五形態)。「明るいニヒリズム」に最も近いところにカントがいる。カントによれば、われわれ人間は「課せられているが答えられない問い」に絡めとられている。それは「神はいるのか?」「魂は不滅なのか?」「自由(善悪)はあるのか?」という三つの問いである。われわれはこれらが永遠に答えられないととを知りながら、執勘に問い続ける。なぜなら、もしわれわれが誠実であろうとするならば、それらに「関心」を抱かざるをえないからである。


ニフカレッテ(104)
 ミノルタの前身、千代田光機の前身、モルタ合資会社の前身、田嶋一雄の日独写真機商 店の一号機。 ベスト版でシャッターやレンズはドイツ製。翌年昭和6年、超大型飛行船 ドルニエ・ドックス号にあやかって自社製シャッターを内蔵したニフカドックスを発売ヒ ットし、創業の足がかりとする。

日本乞師記(509)
 (明から清への変革時に)黄宗義の書いた『日本乞師紀』(師は軍隊。乞師は援軍の派遣を乞うこと〉によれば、周崔芝という海賊が日本の薩摩藩主と親子の縁を結び、順治二年(1645)に…日本に援軍の派出を依頼し、日本側もその要請に応ずる計画を立てたが、南明の側で周崔芝を信用しなかったため、この計画は沙汰やみとなった。

日本最南の鉄道(284)
 沖縄戦の終結の地に「サラバンダ公園」というのができ、そこに豆汽車が走っている、日本最南の鉄道です、ぜひ乗りにおいでください、という文面であった。
豆汽車軌道の路線は一周600メートルもある。…「ラ・ヴィスタ(展望)」という途中駅もある、その名のとおり眺めのよいところで、青い海が白波になって岩礁に砕けている。「ここが日本最南端の駅ですな」と石田さんが笑顔でいう。


■日本的霊性
 霊性の日本的なるものとは何か。自分の考えでは、浄土系思想と禅とが、最も純粋な婆でそれであると言いたいのである。それはなぜかと言うに、理由は簡単である。浄土系も禅も仏教の一角を占めていて、その仏教は外来の宗教だから純粋に日本的な霊性の覚醒とその表現ではないと恩われるかも知れない。が、自分はだいいち仏教を以て外来の宗教だとは考えない、従って禅も浄土系も、外来性をもっていない。なるほど仏教は、欽明天皇時代に渡来したという。しかし渡来したのは、仏教的儀礼とその付属物であった。
 神道各派が、むしろ日本的霊性を伝えていると考えてもよかろうか。が、神道にはまだ日本的霊性なるものがその純粋性を顕わしていない。それから神社神道または古神道などと称えられているものは、日本民族の原始的習俗の固定化したもので、霊性には触れていない。
…日本的霊性でなければ、この飛躍的経験は浄土系思想の中に生れ出なかったのである。浄土系思想は、インドにもありシナにもあったが、日本で初めてそれが法然と親鷺とを経て真宗的形態を取ったという事実は、日本的霊性即ち日本的宗教意識の能動的活現に由るものといわなければならぬ。
 仏教は、鎌倉時代に来るまではまだ十分に日本的霊性の所産とならなかった。伝教大師や弘法、大師もなかなかえらいお祖師で、こんなお方が素地を作っておかれなかったら、鎌倉時代のために機縁が出来あがらなかったと思うが、それでも天台や真言は日本国土の中までは浸透しなかった、上層部だけの概念的なものでしかなかった。なるほど真言は(天台もその中に入れて)、「神道」と戒る種の抱合を遂げたことによりて、修験道なるものが発展した。修験道は、一方では神道であり他方では仏教である。日本的霊性の外郭に触れたものと言ってよい。真言は或る意味では日本民族の宗教意識を握っている。しかし真言の最も深いところはインド的である。概念性に富んでいるので、日本人の多数はそこまでは十分に到り得ない。かえってその外郭の相貌を捉えて、それに或る方面の神道的解釈を加えて、それで霊性の効能力が十分に出たものと考えている傾きがある。鎌倉時代になって、政治と文化が貴族的・概念的因襲性を失却して、大地性となったとき、日本的霊性は自己に目覚めた。


日本の恩人(559)
 マッカーサーはソ連に対する盾でもあった。極東軍事裁判においてソ連は昭和天皇の証人喚問を求めたが、マッカーサーは言下に拒否している。ソ連はまた、マッカーサーの指揮下に置かれない独自の占領軍を北海道に派遣したいと考え実力行使に及ぼうとしたが、これに対しマッカーサーは、「一兵たりとも進駐させたら、ソ連代表部全員を即刻逮捕し投獄する」と言い放った。吉田はマッカーサーのことを「日本の恩人」と呼んでいる。それはおそらく本心であったろう。マッカーサーが昭和39年(1964年)4月5日に他界(享年84)したとき、吉田は85歳という高齢にもかかわらず葬儀に参列するため渡米したことでもそれはわかる。近衛の一件もあって、とても恩人と呼ぶ気にはなれない次郎とは少し思いが違っていたのだ。

日本のラルティーグ(397)
 この「偉大なるアマチュア写真家」は、石塚三郎よりは20歳近く年下だが、1902(明治35)年、8歳の頃に父敷からプレゼントされたカメラで写真を撮りはじめているから、活動時期はほぼ重なりあっている。ラルティーグ(Jaques−Henri Lartigue)は裕福な銀行家の家に生まれ、ベル・エポック(19世紀末から一次世界大戦までの時代)のブルジョワ家庭の日常を、小型カメラで素早く撮影していった。家族、友人、恋人たちがせいいっぱい人生を享受している、その輝かしい瞬間を写しとめたプライベート・アルバムは、1960年代になって脚光を浴び、全世界で展覧会が開催され、写真集が刊行される人気写真家となった。
…あらゆる被写体に愛情のこもった眼差し向け、その生の輝きをポジティブに受け止めようとする態度は、互いによく似ているように感じる。石塚三郎もラルティーグも絶えず少年のようないきいきとした好奇心を働かせ続け、写真を撮るという行為を心から楽しんでいた。二人とも、言葉の本来の意味での=アマチュア=精神の持ち主であり、幸福な写家であり続けたといえる。石塚三郎を「日本のラルティーグ」と呼びたい誘惑にかられるのは、僕だけではないだろう。石塚三郎の遺した乾板はまだ完全にその全貌をあらわしているわけではない。

日本のリテラーティ(462)
 英人は父が職業を勉めた結果、大富人となり、その子は父の余光で何の職業も勉めずに楽に暮らし得る身なるに、なお余事に目をふらずに学問をもっぱら励むもの多し。いわゆる素人学問ながら、わが国でいわゆる素人浄瑠稿、素人角力と事かわり、ただその学問を糊口の方法とせぬというまでにて、実は玄人専門の学者を圧するもの多し。スペンセル、クロール、ダーウィン、いずれもこの素人学問にて千万の玄人に超絶せるものなり。…南方は、日本のリテラーティをもって任じたのである。

日本報道写真協会(211)
 1941年真珠湾攻撃の直後の12月20日、報道写真家とその研究者によって全国組織として情報局の指導のもとに組織された。その開会宣言は土門拳によって読み上げられた。「我々はこの輝ける大日本帝国に生を享けたる報道写真家としての大いなる誇りの下に、……宣戦布告の大詔を謹んで戴き奉り、祖国未曾有うの艱難を拝し、……カメラを銃としペンとする我々の職能に相共に挺身し、以って大東亜共栄圏の大理想達成に殉んぜんことを期待します。」

日本人論(176)   
 例えば[甘えの構造]の如くの日本人が書いたものにせよ、西欧人が書いたものにせよ 、ほとんど全ての日本人論は、西欧にないものを日本に認めると、それを本質的なごとく の根拠として差異論を展開する。そのような多くの日本人の特質として認められるものは 韓国や中国に容易に発見できる。それら西欧にない特質は日本の独自性の表象と言いたて て、それがたとえば韓国から移入されたものであっても、それを黙殺する。

日本を深く恨む(543)
 山東返還問題をめぐって日中関係が緊迫していたとき、「中国人はなぜ日本を深く恨むのか。両国の感情を調和するにはどのような方法があるか」との『朝日新聞』記者からの質問を、うけた孫文は、次のような回答(「中国の青島回収の件につき朝日新聞記者に答うるの書」〉を寄せたという。
 彼は、山東問題に関して無条件返還という従来からの立場を説明するとともに、それが実現しない場合を想定して、次のようにいう。(そうなれば〉わが国は、いっそのこと全力をあげて日本を拒み、日貨排斥その他経済関係断絶などの方法によってこれに対応することができよう。たとえ日本が兵力をもってわが国を圧迫したとしても、極言すれば、わが国はセルビアとなり、日本はオーストリアとなってふたたび世界大戦をひきおこすだけのこと、その結果、日本は莫大な禍を被るであろうが、わが国は滅亡の心配はなく、むしろこれによって振興する希望さえもちうるのである。

にもかかわらず信ずる(485)
 「われわれは、アウシュヴィッツ以後、祈ることができる。なぜなら、アウシュヴィッツにおいても祈られていたから」と。…苦難と抵抗と服従の中で成熟してくる魂の力強い冒険こそ、したたかな《にもかかわらず信ずる》というユダヤ教の(さらにはキリスト者の)信仰の特質だ、と断言している。アウシュヴィッツは、こうした意味で、キリスト者にとって生きた信仰の反省を呼びかけている。
…とはいえ、ここでは、あのようなアウシュヴィッツの凶行を、まさにその神的計画の中に許容しうるかにみえる神の存在と格闘しなければならなかった。」の神との苦しい闘いを共にしうるのは、近代の懐疑主義者の徒ではもはやありえないであろう。むしろ、苦難の中にあってあえて神に問いをいどんだ旧約のヨブこそ、アウシュヴィッツの真の同時代人として想起されてよいのではなかろうか。アウシュヴィッツにおける神の沈黙は、まさにキリストの十字架以後におけるもっともヨプ的な出来事ということもできよう。
『いったい、神はどこにおられるのだ』。そして、私は心のなかで、ある声がその男にこう答えているのを感じた。『どこだって。ここにおられる−−ここに、この絞首台に吊るされておられる−−』。ヴィーゼルのことばは、いわば火の中から−−アウシュヴィッツの夜空をこがすガスかまどの火の中から−−発せられたような響きをもっている。火は焼きつくす破壊のシンボルであり、それは日常的なイメージ、無関心、自己充足に安らう生き方を否定する。


ニューコメン機関(33)
 ワットに先駆けてはじめて実用的蒸気機関を量産。ドニ・パパンの蒸気ピストンとトマ ス・サヴォリのボイラー機関を組み合わせて完成。ワットはグラスゴー大学の機械修理工 として標本のニューコメン機関のシリンダーからコンデンサー(復水器)を分離するとと もにシリンダーの両側から蒸気を入れるように改良した。ワットが蒸気機関の発明者とい われるゆえんである。

ニュートン粘性(169)  
 流れに並行な分子間に働くせん断応力と、その速度勾配が比例する流体の粘性特性。す なわち粘性係数は一定値になる。高分子では粘性が直線的に変化せず、これがレオロジー 的特質となる。

ニュルンベルク法(43)
 1935年に公布された「ドイツ人の血とドイツ人の名誉に関する法律」。この法の名 の下に600万人のユダヤ人が虐殺され、さらに10万人のドイツ人の身体障害者、精神 病患者、アルコール中毒者等が安楽死させられた。 1932年にハクスリーは(反)ユートピア小説「すばらしい新世界」で人間の誕生と 教育は完全に人為的にコントロールされて、国家に不利なものは徹底的に排除する未来世 界を描く。17世紀のカンパネッラの正統派ユートピア小説「太陽の都」でさえ生殖は国 家公共のことがらとされる。ユートピア(理想国家)思想とナチスの民族政策との共鳴 を指摘されるゆえんである。

ニルヴァーナ(236)
涅槃。

ニレンバーグ(72)   
 1961年、無名のニレンバーグがATCGの4塩基中の3塩基の組合せがそれぞれの アミノ酸に対応する遺伝情報となることを示した。

人・月の神話(149)  
 1965年に出荷されたIBMシステム360の開発記録。IBMの大型コンピュータ を事業として確立したシステム。これのOSの開発責任者のブルックスが著述した。OS の開発だけで、4年、5000人・年、7070万ドルかかっている。まさに人・月の管 理がソフトウエア開発のポイントであることを示した古典。

人間(52)
 「すべてに慣れ得るもの」という命題をたてたのはドストエフスキーの「死の家の記録」 である。「異常な状況においては異常な反応がまさに正常な行動であるのである。」とフ ランクルは書く。

人間社会の修道院化(469)
 カトリック教会の改革派をもって任じていた、クリュニー修道院出身のフランス人が、法王に選出されたのは、西暦1088年。46歳の年であった。その七年後、この法王ウルパン二世によって、十字軍遠征が提唱されることになるのである。とはいえ、改革と戦争はどこでどうつながるのか。
…貧しさにあえぐキリスト教徒にも救いを与えたいという考えは、この一世紀後に現われる聖フランチェスコを待たねばならない。それよりは百年も前のカトリック教会の上層部の頭にあった改革とは、人間世界の諸悪の解決はそれを神から託された聖職者階級がリードしてこそ達成される、という信念に立っていたのだった。この立場に立てば、その道を突き進もうとしているローマ法王の前に立ちふさがる者は、たとえ皇帝や王であってもキリスト教世界の敵であり、神の地上での代理人である法王には、破門によって厳しく罰する権利と義務がある、となる。平たく言えば、宗教面にかぎらずキリスト教世界のすべての事柄は、ローマ法王が頂点に立つカトリック教会が指導し、世俗の君主たちは忠実にそれを遂行していればよい、ということだ。後世の歴史家の言葉を借りれば「人聞社会の修道院化」となる。


人間の意志(517)
 私のうちにおいて、それよりもいっそう広く大きなものの観念を他に何も考えることのできないほど大きなものとして経験するものは、ただ意志があるばかりである。従って、私が神の映像と似姿とを担っていることを私に認識させるものは、もっぱらこの意志なのである。というのは、たといこの意志は紳にあっては私におけるよりも、あるいは認識と能力−−意志に結合されていてこれをいっそう堅固にいっそう有効にするところの認識と能力−−に関して、あるいはそれの対象に関して、比較にならぬほど大きくはあっても、しかし私の思うに、もし私が意志を形相的に、すなわち全くそれ自身においてみるならば、神の意志は人間の意志よりも大きいというわけではないのである

人間の死(362)小浜逸郎
 人間の死の瞬間とは、可能なかぎり厳密な医学的判断に基づいて生理学的な死が確認されたことを前提として、当人の家族またはそれに準ずる近しい間柄にある人々が、その事実を承認する態度を示した時点をもって原則とすべきである。…医学的な「臨終」を告げられた周囲の近しい人々が、「わかりました」と言って首をう なだれるとか、思わず泣き崩れるとかいった態度表明で充分なのである。…人間は本質的に社会的、関係的存在であり、その死とは、彼自身を形作ってきた人間関係の解体と変容を意味するから、最も近しい人間の承認なくして「人間死」の概念は構成しえないのである。

人間の終焉(267)p.34
 フーコーが「言葉と物」が述べた。18世紀以前には、現在使われているような意味での「人間」という概念は存在しなかったのです。すべてをコントロールする人間という考え方は、200年たらず前に生まれた新しい考え方。そして、現代社会では、デカルトが考えたような「私は考える(意識する主体)と「私は存在する(世界のなかにに実在する人間)」との幸福な結合は信じられなくなっている。人間学という形での近代哲学は、袋小路に突き当たったのであり、新しい出発のために「人間の終焉」が語られることになるでしょう。

人間の無用化(503)ハンナ・アーレント
 「全体主義の起源」…では、歴史的に知られた独裁や専制とは異なる全体主義運動と全体支配の特徴が描かれる。…強制収容所という実験室のなかで人間の無用化の実験をしようとした全体的支配の試みにきわめて精確に対応するのは、人口過密な世界のなか、そしてこの世界そのものの無意味性のなかで大衆が味わう自己の無用性である。

人間の理性(487)カント
 人間の理性は、その認識のある種類において、特異な運命をもっている。つまり、人間の理性は、拒むことはできないが、かといって答えることもできないいくつかの問いによって悩まされるという運命をもっているのである。拒むことができないというのは、それらの問いが理性自身の本性によって人間の理性に課せられているからであり、答えることができないというのは、それらの問いが人間理性のあらゆる能力を越え出ているからである。
 こうした当惑に人間の理性がおちいるのは、この理性の責任ではない。人間の理性は、経験の過程においてそれを使うことが避けがたく、また同時にそれを使うことが経験によって十分保証されている諸原則から始める。これらの諸原則をたずさえて、人間の理性は(これもまた理性の本性のしからしめるところなのだが)ますます高く上昇し、いっそう遠くへだたった条件へと向かう。とはいえ、人間の理性は、問題はけっしておわることがないゆえに、このような仕方では、いつまでもらちがあかないことに気づくので、すべての可能な経験的使用を越え出るが、にもかかわらず、通常の常識の同意すらかちえるほどに信頼するに足りるとおもわれる諸原則に逃げこまざるをえないことを自認する。しかし、こうすることによって、それは、唆昧と矛盾のうちへとおちいるのであり、そうした暖昧と矛盾からして、理性は、どこか根底に隠れた誤謬がひそんでいるにちがいないと推しはかることはできるのだが、その誤謬を発見することはできない。というのは、そこで理性が利用する諸原則は、すべての経験の限界を越え出てゆくので、もはや経験という試金石を認めないからである。この果てしない抗争の戦場こそ、形市上学と呼ばれているものにほかならない。…「純粋理性批判」序言(第1版)

人間になりましょう(490)
 キルケゴールにとっての思想上の課題は、実存の自覚を確立することによって、いかにして真のキリスト者になるかということでもあった。この二つの課題が、盾の両面のように一つになっているところにキルケゴールの思想の根本的な特徴があった。彼が…見た人間は、実存の自覚に立たず、「単独者」のもつ重さを知らない水平化された、無名化した、無関心的大衆であった。若きキルケゴールがいつも口ぐせのように語ったとして、アンデルセンが童話『幸福の長靴』でおうむに仕立てて語らせた言葉、「さあ、人間になりましょう」というのも、このような大衆化社会における人間の回復、実存の自党の確立を求めた呼びかけであった。

人間はみな同じ(140)  太宰治
 「人間はみな同じものだ。」という不思議な言葉は民主主義とも、またマルク ス主義とも全然無関係のもので、民衆の酒場からわいて出た言葉だ。…ただのイライラで す。嫉妬です。思想でも何でもありやしないんです。

人間を除外する進化論(553)
 人間と他生物を同一次元でつなげたダーウィンの意図に、ある意味でもっとも違反しかねない傾向が、社会ダーウィニズムの一部から発生した。ダーウィン流の厭世思想をみとめつつも、その適用を他生物にかぎり、人間だけ別個にあつかおうという傾向である。要するに生物の進化と社会の進歩は、共通しあう部分をもちながらも、明確に区別されなければならないとする。人間社会には独自の法則があり、これこそ歴史を決定する最大要因だとし、しかもそれの内容を、人間固有の優秀性として強調したのである。
 これもロシアのN・K・ミハイロアスキー(1842--2904)は、そのような立場から、生物の進化と人間社会の進歩とを区別し、ダーウィンの学説がじかに当てはまるのは前者だけであるとした。一方、人間の場合には、自然環境によってたんに選別されるのではなく、みずからの価値観にもとづく主体的な行為が、歴史をつくる最大要因になるという。つまり人間自身の意志に、大きな意味をおいたのである。


認識(239)
 常識では、正しい認識とは、事物の姿を主観を混じえずありのままに受けとること、と思われている。しかしカントが「純粋理性批判」で明らかにしたのは<あるかがままの事物>をとらえられると考えるのはおろかな妄想にすぎず、認識は徹頭徹尾、主観的な条件で成立しており、そのことによってのみ、認識は客観性を有するという主張なのである。つまり素朴にありのままを認識しようとすれば、それは主観的なものとなり、逆に世界は主観の構成物だと考えることで、初めて客観的認識が成立する、というパラドキシカルな主張こそ、「純粋理性批判」の根源的テーマなのである。

認識する前に信仰せよ(519)
 フリーメーソンの男は例のつつましい父親のような微笑を浮べた。「最高の智慧と真理とは、われわれが自分の心にとりいれようと望んでいる、清浄な液体のようなものだ。」と彼は言った。「ところで、この清浄な液体を穢れた器に容れて、その浄不浄を論ずることができようか? 人間はただただ自己の内的浄化によってのみ、内容たる液体をある程度まで浄化することができるのだ。」
「そうです、そうです、それはまったくです!」とピエールはうれしそうに叫んだ。「最高の智慧は単なる理智や、人間の知識を分裂させる科学−−物理とか歴史とか化学とかいう、世間的な科学に根拠をおいていない。最高の智慧は唯一無二だ。最高の智慧は唯一の科学を包蔵している。それは万物の科学、すなわち、全宇宙、およびその中で人間に与えられている場所を闡明する科学なのだ。この科学を自分の心へ納め入れるには、自己の内部の『人』を浄化して更新しなくてはならん。だから、認識する前に信仰し、自己を完成するの必要がある。これらの目的を貫徹するために、われわれの霊魂の中へ良心と名づけられる神の光が播かれてあるのだ。」






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