語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2014-9-16 計62語
新着語 サティアーグラハ、最後の后妃ツィタ、サントボームの洞窟、山賽モデル、サッコ ディ ローマ、ザヴィエルの右手、サヘラントロプス・チャデンシス、ザヴォルジエの森、サルフの戦い、西極、沢辺琢磨、


斉一説(253)
 チャールズ・ライエルは「地質学原理」で、当時主流だった激変説を論破した。激変説とは、現在のさまざまな地形が、洪水とか火山の爆発といった過去に起こった急激な大変化の名残りである、というものである。それに対してライエルの斉一説は、日常的に起こる侵食のような、ごくごくわずかな変化が累積して、大きな地形のパターンを生んだと考えるものである。そのためには、当時としては信じられないほどの長大な地質年代を必要とする。現在も観察できる微小な変化が過去の大きな変化の原因であるという視点を、ダーウィンはライエルから学んだのである。

西極(411)
 旬奴は衰えたとはいっても、依然として西北の雄たることには違いなかった。旬奴は烏孫が漢と接近したことを怒り、烏孫を撃とうとしたので、烏孫は恐れて使いを漢に遣わして名馬を献じ、烏孫と漠の王室との通婚を申し入れた。武帝は烏孫のウマをことに喜び、これを天馬と名付けたが、その後また更に優れた大宛の汗血馬がきたので、帝は烏孫のウマを改めて西極とし、汗血馬を天馬といった。

最高の数学(357)
 数学者を駆り立てているのは応用の魅力ではない。…G・H・ハーディは『ある数学者の弁明』のなかで、数学者であるとはどういうことかを説明し、次のようにその弁明を試みた。
…最高の数学もまたそのほとんどは「役に立たない」ということである。私は何一つ「有用」なことはしてこなかった。私の発見は、直接的にも間接的にも、また良きにつけ悪しきにつけ、この世を住み良いものにするためにはいささかの寄与もしなかったし、今後もするとは思えない。…あらゆる実際的な基準で判断すれば、私の数学者人生の価値はゼロである。そして数学以外には、いずれにせよ大したことはしていない。まったく無意 味な人生だという裁定からのがれる唯一のチャンスは、私が創造に値する何ものかを創造したと判断されることだ。


最後の后妃ツィタ(480)
 最後の皇帝カール一世はどこから見ても凡庸な男であったが、皇妃ツィタはなかなかのツワモノで、…1918年にハプスプルク帝国が滅びるとスイスへ逃れ、夫と必死の思いでハンガリー王・王妃という地位だけは確保しようと奔走するがそれもならず、七人の子供たちを連れて北大西洋のポルトガル領マディラ島に逃亡する。その後、一家はスペイン、ベルギーと転々した後、アメリカに渡る。
 彼女はヒトラーが政権を握ってから、ローズヴェルト大統領に三度も会っていた。時には、ハンガリー王妃として「接見した」というのだから、したたか者である。そして、「ナチス敗北のさいには、ドナウ周辺国家を、民主主義を基調にした中欧連合国家にしたい」旨の共同コミュニケまで出している。
 ツィタは1989年3月14日に96歳で亡くなった。4月1日に葬儀が挙行され、シュテファン広場にはハプスブルク家やブルポン家をはじめとするヨーロッパ屈指の名門貴族たち二百人あまり、それにウィーン市民二万人が集まってツィタを見送ったということである。

最後の望み(260)
 シャクルトンの乗ったケアード号は残された最良のものをかき集めて、出発してしまった。残った22人は、ケアード号の船旅が成功し、自らが救助されることを、少なくとも表向きは確信していた。だが他にどう考えることができただろうか。他の見方をするということは、自分たちの死を認めるのとほとんど等価だった。人間というのは、見込みはどうであれ、何かに最後の望みをかけたとき、それが失敗するとは考えないものらしい。

最後の晩餐(259)
 が死の直前の最後の晩餐に何を食べるかという質問がある。それではイエスの本当の最後の晩餐では何を食べたのだろうか。
イエスの「最後の晩餐」は過越しの祭りというユダヤの祭日の晩の出来事である。この日、エルサレムのユダヤ教徒は生贄の子羊を神殿に捧げて、その肉を持ち帰って食した。したがってイエスと弟子たちもその晩には子羊の肉を食べたはずである。
一方で「イエス・キリスト神の子、救世主」を表すギリシャ語の頭文字は「魚」という単語になることから、そこに神秘的な意義を見ることによって、最後の晩餐の絵に魚を皿にのせた作例もある。レオナルドの最後の晩餐でも魚の切り身が描かれていた。


最初の素人写真家たち(397)
 最初の素人写真家団体は、1889(明治22)年に榎本武揚子爵を会長に設立された日本写真会。1893(明治26)年には大日本写真品評会が結成され、有力会員の鹿嶋清兵衛が、東京・新川の酒問屋の若旦那という財力にものを言わせて、全紙四倍大の特注のカメラで撮影するなど、大盤ぶるまいを続けて話題をさらった。この頃の素人写真家たちのほとんどは、華族、医者、豪商、大学教授など上流階級の人々で占められており、写真がまだまだ金のかかる高級趣味であったことがわかる。明治30年代以降になると、高いカメラや印画紙の大きさを競うだけではなく、「画其ものを唯一の目的物」とするような、「芸術写真」を求める動きが活発になってくる。1904(明治37)年に設立された大阪の浪華写真倶楽部や1907(明治40)年創設の東京写真研究会の会員たちは、撮影会や展覧会を開催し、作品を掲載した雑誌や写真集を刊行するなど、意欲的な活動を展開した。

ザヴィエルの右手(432)
…昭和24(1949)年5月のことで、ザヴィエルが、現在のスペイン側バスクでうまれてから443年、日本の鹿児島に上陸して400年、さらに広東の近くの上川(シャンチュアン)島で病没してから397年という年まわりになる。ザヴィエル自身についていうと、かれが43歳のとき、日本の天文18(1549)年7月22日、ジャンク「海賊号」に乗って鹿児島湾の奥ふかく入って上陸した。…上川島で死んだザヴィエルの遺骸を、ポルトガル人たちは棺内に石灰を詰めて納棺し、それを海岸にうずめた。12月のはじめのことで、南国とはいえ、島は寒かった。それから二ヵ月半のちに遺骸を船にのせるべく掘りかえしたところ、生けるがようであったという。…これがゴアまで喧伝され、…ふたたび船に移されてゴアに運ばれた。…ここで、珍事がおこった。参観者にまじって遺体に近づいたイサベラ・ド・カロンという貴婦人が遺骸の足に接吻するや、やにわに右足の第四指と第五指を噛み切って逃げ去った。死ぬときに聖堂に返したが、2個の足の指はその後、聖堂に保管され、1902年、そのうちの一個が、ザヴィエルの生家であるピレネー山脈のスペイン側のザヴィエル城に移された。1614年、ローマから「遺骸の右腕を切断して送れ」との命令がゴアにきた。聖人に列せられる場合、当該人物の事績調査が法王庁においておこなわれる。…生けるがごとしということを確認すべく…送らせたのである。…「ザビエル400年祭」にこのザビエルの右手が来る。 

サヴィニャック(170)
 フランスのポスターはロートレックによって伝統を作り、カッサンドルによって精神を 作った。そしてサヴィニャックによって文化を作った。1925年頃からポスターが画家 の余技から離れ、デザイナーの手の中に入った。これがカッサンドルによる即物的で強烈 な構成によるデザイン哲学であった。その助手であったサヴィニャックは戦後も活躍し、 師の構成力にユーモアと刺激を加えた。

ザヴォルジエの森(419)
…ザヴォルジエ地方〔ヴォルガの東岸の中流・下流地方とウラル山脈の間の地域〕
17世紀、ザヴォルジエの森は、途切れることない密林となってはるか彼方シベリアまで続いていた。ヴォルガ河支流の河岸には稀にしか村落がなく、それも人を通さぬ森によって互いに隔てられていた。そこに住む人々は、その外のキリスト教が普及した世界から切り離されているかのようだった。
…1610年代、この人も通わぬ僻遠の地に、新しい住人の姿が見られるようになった。…動乱時代は、1613年にミハイル・ロマノフが皇帝に即位しロマノフ王朝が始まったことによって幕を閉じた。そして、つい先ごろまで反乱に参加していた者たちは、新しい王朝の皇帝たちの怒りを避け、ザヴォルジュやシベリアヘ逃れた。…これはいわば「ロシアの中のアメリカ(新天地)」のようなものだった。
…17世紀、ザヴォルジエの森とシベリアには、新たな避難民たちが加わった。アレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝時代の教会改革は、聖書の改訂や十字を切る方法の変更を伴っていた。…こうして教会の大分裂が始まったのだった。公認教会は古儀式派の信者を厳しく罰した。そして権力の手が届かないザヴオルジエの果てしない森とシベリアに、彼らの聖なる修道院が造られた。


逆髪(147)
 世阿弥の本質を現す劇に「蝉丸」「綾鼓」がある。疎外された人間の中に人間の真実が あるという主張。逆髪は棄てられた醍醐天皇の盲目の皇子蝉丸の前に現れる髪が逆さに生え た、同じく棄てられた皇女。

杯の苦味(274)指輪物語
 「予が自ら自分に調合した杯の中の苦味をかき立てるな。」と、デネソールはいいました。「もう幾夜もわが舌の上でそれを味わいながら、杯の底の澱の中になおいっそう悪しきものがあることを予が予感しておらなかったというのか? 今こそわかったぞ。こうでなければよかった! その物が予の手にはいればよかったのだ!」

サカリア川の戦い(209)p.156
第一次世界大戦の敗戦国となったトルコはセーブル条約によって列強によって蚕食される運命となったが、ケマル・パシャの率いる救国戦争によってこれを阻止。中でもイギリスの支援を得たギリシャの小アジアへの領土的野心を砕いたのがサカリア川の戦い。

サガルマータ
 エベレストのネパール語表現。中国ではチョモランマと呼ぶ。ではエベレストとはどこ の表現。

詐欺師のつきやすい職業(358)
 偉大なる指揮者とは、この種の神話のヒーローであり、非音楽的な意図で人工的につくられ、職業上の必要に支えられている。高名な現役の実務家ダニエル・バレンポイムは、「フルタイムの職業としてのオーケストラ指揮は、二十世紀の発明である−芸術上のではなく、社会学上の」と認めた。「これ以上、詐欺師がつきやすい職業ほない」と、ぬけ目のない、辛抱強いヴァイオリニスト、カール・フレッシュは書いた。指揮者は、人類が、目に見えるリーダー、もしくは少なくとも見分けがつく名目だけの長を求めるから存在するのだ。この役目にくらべたら、その音楽上の存在理由などは二次的なものにすぎない。

ザクセン人(265)p,63
 今日のザクセン州やニーダーザクセン州に名を残しているザクセン人とは、ユトランド半島の下方に定住したゲルマン人の一派である。ザクセン人というよりもサクソン人といつたほうがわかりやすいかもしれない。この人々の一部は5世紀にイングランドに渡り、ここの7王国を建てた。イングランドの人々がアングロ=サクソン人と呼ばれるのは。この事実に由来する。
ちなみに、アングロとは、ザクセン人とともに、この時代にイングランドに渡った、ユトランド半島南部に住んでいたアンゲル人のことである。


座古愛子(160)  
 18歳で重度のリウマチになり、胸から下が完全不随となり一生ベットの上で生きるこ とになるが、カトリックの信仰によって、神戸女学院の購買部を受け持ち、自立した生活 を送ったとされる。両手両足を失った中村久子は昭和5年、彼女に面会し、生かされてい るという感謝の境地に達する。

サザーランドクリアランス(118)
 ハイランドのサザーランド伯爵領からの領民の追い立て。ナポレオンの脅威に対応して羊毛生産拡大のための政策。実際はハイランド・クリアランスと呼ぶべき。これら難民の多くはカナダをめざした。

挫折した建築家(336)
 フランスの社会学者ピエール・ブルデューによれば、高等教育とは、挫折したエリートを救済するための、社会的装置である。すなわちエリートだから高等教育を受けるのではなく、社会的競争から脱落したエリートたちに、プライドと満足感を与えるために、高等教育は存在する。同じ理屈で、住宅とは、挫折した建築家を救済するための、社会的装置である。…建築設計の能力とは、一種誇大妄想であり、…にもかかわらず、ほとんどの建築家は、その誇大妄想を実用に供することができない。そして個人住宅の設計とは、きわめて社会的意味の大きい、貴い仕事だと、彼ら挫折した建築家は考えるようになる。彼らが盛んに「住宅論」を書くのも、この理由からである。…単に設計しているだけでは救われず、どうしても書かねばいられないほどに、彼らの挫折の闇は深い。

挫折した塔(336)
 …この揺らぎを一言でいえば、資本と商品(資産)との境界が曖昧化したということである。…資本自体が一つの商品としての性格を帯びはじめたのである。…ではポストモダンの建築とはいったい、いかなるデザインであったと総括できるのか。資本制の変容が、ポストモダニズムと呼ばれる建築デザインを誘導した。資本の身体としての建築に、流通可能な図像性が要請されたわけである。…もし図像性とモダニズムの規範を無理に両立させようとすれば、…社会の要請を大きく逸脱した、きわめて不経済、不合理なアクロバティックな技術的解決に向かっていかざるをえなかった。これがレイトモダニズムによるモダニズムへの裏切りであった。この矛盾ゆえに、この過渡的アプローチにかわって登場したのが、凡庸な技術を用いて建設される、凡庸な平面計画を有する建築に、強い図像性を付与したのがポストモダニズムであった。…その結果として世界中の都市に「挫折した塔」が残された。

挫折した物質(336)
 モダニズムの始祖、ミース・フォン・デル・ローエはユニバーサル・スペースという空間概念を提唱したが、これは建築と欲望との距離に関する新しいフォーミュラの設定に他ならない。…物(間仕切りや家具)は欲望に屈服するが、建築は欲望に屈服してはいけないというのが、ミースの理念であった。建築は物=商品ではなく、商品のメタレベルにある存在だという理念である。ミースが批判しようとしていたのは、19世紀のブルジョアジーの室内である。そこでは建築と物(商品)とがべったりと癒着し、建築が欲望に対してみじめなほどに屈服していた。19世紀のブルジョアジーの欲望は、その室内に投影されると語ったのは、ベンヤミンである。そこには彼らの夢、趣味、欲望の投影された物たちが並べられ、…このような状態の室内を「挫折した物質」と名付けた。そもそも住宅という存在自体が、挫折した物質であるということを、エンゲルスは別の表現を用いて述べている。

サティアーグラハ(482)ガンディー
(ガンディーは)自分の運動を、「受動的抵抗」という語で呼んでいたが、ここには彼の言う非暴力の抵抗という「新しい原理」が含まれない。どうしても運動を消極的・受動的抵抗と、積極的・非暴力的抵抗とに明確に区別する必要があった。それに、「この偉大な民族の闘争を英語のままにしておくのも残念だ」、運動を名実ともに土着のものにしなければならない、と彼は考えた。そこで、『インディアン・オピニオン』紙に、一般から適切な名称を募集することになった。
 応募の一つに、「善を堅持すること」 という意味の「サダーグラハ」 という語があり、ガンディーはこの言葉が気に入ったが、さらに「善」という語を「真理」 とおきかえ、「サティヤーグラハ」 と訂正した。彼は、「サティヤ」という語を「真理と愛、または非暴力から生まれる力」と呼んでいる。こうして、「受動的抵抗」という外来語の使用をやめたとき、運動はいっそう民族色を帯びることになったのである。


サッコ ディ ローマ(441)
 1527年5月、虎視眈耽とイタリア支配の機会を狙っていた神聖ローマ帝国皇帝カール5世(1500--58)は、凶暴なドイツ農民兵を中心とした軍隊を率いてローマに侵入した。軍規らしいものもないドイツ農民兵の大群は、徹底的な殺裁と強奪をなし、一瞬のうちに「氷遠の都」を廃櫨と化してしまった。数万人が殺害され、生き残った者の数は200人ぐらいだったと伝えられる。いわゆる「ローマの劫掠」である。…宗教改革の嵐にのみこまれていたドイツ兵には、ローマ教会を畏れる気持はほとんどなかった。それどころか、世俗化し堕落したカトリック教会を掠奪し聖職者を卑しめることをローマに入城する前から楽しみにしていたのである。掠奪や凌辱はほしいままになされた。ヴァティカン宮殿の宝物は奪い去られ、システィナ礼拝堂も厩舎に使われた。

左道密教(376)
 …タントラの宗教は、当時民間で行われていた卑猥な宗教であり、男女の性的結合を絶対視するものであり、これが仏教を堕落させることとなりました。…同じく左道密教の変形としてサハジャ乗が現れました。サハジャ(sahaja)とは「生来」「生まれつき」という意味で、さとりは本来そなわっているものであるとして、人間の性情を肯定することを説きます。アパブランシャ語やベンガル語の著作を残し、謎のような表現を好む点に特色があります。詩集『ドーハーコーシャ』などはその一例です。このサハジャ乗では美しい娘にたいする愛情が解脱への道であるなどと説いています。後世のベンガル人にたいする影響はいちじるしいものがあります。

サニャック効果(247)
 GPSで車両の進行方向を知るためのセンサとして、車両の回転角速度を検出するジャイロを使用する。この角速度を積分すると車両の方位変化量が分かる。ジャイロには、振動ジャイロ、ガスレートジャイロ、光ファイバージャイロの3種がある。
リング状に巻かれた光ファイバの光路に回転力が加わると、その内部をそれぞれ逆方向に伝播する光の位相差がその回転の速さ(角速度)に比例するというサニャック効果を利用したのが光ファイバージャイロであり、加速度の影響を受けない、機構部品がなく精度が高いという特徴を持ち、航空分野で実用化が進んでいる。


左脳で聴く人(292)
 1995年2月、アメリカの科学誌「サイエンス」(2月3日号)に興味深いレポートが掲載されたそれは、絶対音感を持つ人の脳の解剖学的形態を探るという内容で、研究を行ったのは、ドイツ・デュッセルドルフのハインリッヒ・ハイネ大学神経科医グループである。30人のプロの音楽家の脳をPETで撮影した結果。絶対音感を持つ11人の音楽家の左半球の大脳皮質聴覚野が、右半球の同じ場所に比べて、平均40%も大きかったというのである。

砂漠の女(370)アルケミスト
 「砂漠は私たちの男を連れてゆきます。そして彼らはいつも、戻ってくるとは限りません」と彼女は言った。「私たちはそれを知っていて、それに慣れています。帰らない人は雲の一部になり、谷間にかくれて住む動物の一部になり、地面から湧き出る水の一部になります。彼らはあらゆるものの一部になります……彼らは大いなる魂になるのです。帰ってくる人たちもいます。すると他の女たちは、いつか自分の夫も、戻ってくるかもしれないと思って、幸せになります。私はそうした女たちを見て、彼女らの幸せをうらやましく思ったものでした。今、私もそうした待つ女の一人になります。私は砂漠の女です。そして私はそれを誇りに感じます。私は自分の夫には、砂丘を作る風のように、自由に歩きまわってほしいのです。そしてもし必要であれば、彼が雲や動物や砂漠の水の一部となることも、私は受け入れるでしょう」

砂漠は賢い(370)アルケミスト
 砂漠に出ると、絶え間なく吹いている風の音と、動物のひづめの音だけになった。案内人さえも、ほとんどしゃべらなくなった。「私はこの砂漠を何度も越えたことがある」と一人のらくだ使いがある夜言った。「しかし、砂漠はとても大きく、地平線はとても遠いので、人は自分を小さく感じ、黙っているべきだと思うようになるんだ」 少年はこれまで砂漠に来たことはなかったが、彼の言おうとしていることが直感的にわかった。少年は海を見たり、火を見たりすると、そこに永遠の力を感じて、いつも静かになった。僕は羊たちからものごとを学び、クリスタルからも学んだ、と少年は思った。砂漠からも何かを学べるにちがいない。砂漠は年をとっていて、とても賢いように思えた。

サバティカル(197)

寂しくない(202)埴谷雄高
 考えていれば寂しくない。僕は一人でいるけれども、退屈というのはしたことないので す。要するに独房の思想です。独房に行っても一つもいやだとか思わなくて、幸いだと思 って、ただ考えていられるわけですよ。

サピア−ウォーフ説(289)
 「言語相対性仮説」。この主張のすごいところは、「言語によって、思考方法や概念そのものが変容される」とまでいってしまうところです。言語は、それを生み出した社会や文化の痕跡を残しており、この言語世界の中で生活していくということはその言語に対する概念形成に大きく影響を与えるとする。サピアはアメリカにおける構造言語学の祖となる。

サビーニ族の女たちの強奪(24)
 ローマ建国者、ロムルスが周辺に勢力を拡大する中で、サビーニ族を祭りに招待し、そ の女たちを強奪し、妻とした故事。プーサンやルーベンスに描かれる。また花婿が花嫁を 抱えあげて敷居をまたぐ習慣は、この強奪に由来する。その後のサビーニ族との戦いに勝 つが、敗者であってもローマに対等に同化する政策を取り、拡大していく。

サブダクション帯(390)
 プレートがなぜ動くかというと、その下にある半流動体のアセノスフェア(岩流圏)が、広域にわたってゆっくりと対流運動をしているからだ。この対流によって、融解したリソスフェア(岩石圏)が地表近くまで運ばれ、プレートのへりに接して固化し、新しい地殻となる。新しい地殻ができたことにより、プレートの反対側のへりでは古い地殻が、再びアセノスフェアのほうへとひきずりおろされ、深部で溶ける。まるで巨大なべルトコンベアが動いているような、たえまない再循環の仕組み。ここから海洋地殻の年齢は古い部分でも2億年という結論が導かれる。新しい地殻は、中央海嶺と呼ばれる。その場所ではプレートが少しずつ左右に離れていくのだ。…最終的に、反対側から同じように移動してきた地殻とぶつかるところまで来ると、一方の地殻はアセノスフェアに沈み込んでいって融解していく。サブダクション(沈み込み)と呼ばれるこのプロセスによって、地球の多くの大陸に沿って、深い海溝がつくりだされていく。

サフル大陸(157)
 5万年前、オーストラリアとニューギニアが陸続きだったころの大陸。ジャワもスンダ 陸棚として大陸につながっていた。このスンダ陸棚とサフル大陸を通って、モンゴロイド は太平洋の各諸島に進出していった。

サヘラントロプス・チャデンシス(424)
 現在、「最古の人類」と言われているのは、アフリカ中央部に位置するチャドで発見されたサヘラントロプス・チャデンシスである。600万年から700万年前の地層から「人骨」が発見された霊長類で、[人類700万年の歴史]と言うときの「700万年」はこれに由来する。これに対して、新しいほうの人類はエチオピアで発見されたホモ・サピエンス・イダルトゥで、約16万年前に生きていたと推定されている。これは解剖学的にほぽ現代人と変わらない姿に進化しており、「最も古い現代人」と言われている。ミトコンドリア・イブの「16万年前プラスマイナス4万年」はホモ・サピエッス・イダルトゥと一致する。ミトコンドリアDNAの研究結果は、それまでにも言われていた「人類のアフリカ起源説」を裏付けることになった。

サマーヴェル版(199)
 1920年から1972年まで書き続けられたトインビーの「歴史の研究」の縮刷版。 本人による取捨選択ではない。トインビーは一般向けに自らの手で縮刷新版を作った。そ れが図説歴史の研究。

ザマの会戦(68)

サムソン(6)
 ペリシテ人のデリラに迷って、自らの怪力の弱点である髪の秘密を漏らす。

左右盲(295)
   ドイツの心理学者クルト・エルゼ(1925)は、「色盲」からの類推かと思われるような「左右盲」という新造語を考案した。その例として、帝政ロシアの補充兵のことをあげている。左右の区別がどうしてもできないので、その違いを教えるのに、右足にはワラ束、左足にはまぐさの束をつけさせて訓練したという。ただし、左右盲は単に知能が低いためばかりではない、というのがエルゼの主張である、かの著名なジグムント・フロイトやヘルマン・フォン・ヘルムルツ、詩人シラーたちも、左右の区別に悩まされた人たちの仲間入りをしているという。

サラスヴァーティ(177)
 ヒンドゥーの女神。叡智・学問・音楽の神。日本には弁才天となって来て、仏教・神道 の両世界にまたがって信仰を得た。

サラミスの海戦(24)
 BC477、アテネのテミストクレスがペルシャ王クセルクセスをサラミス島沖で打ち 破り、ペルシャ戦役に決着をつけた戦い。テレモピュレーの隘路にラケダイモンの勇者が 死闘したのと並ぶ戦い。このテミストクレスも陶片追放でかっての敵国ペルシャに亡命、 今度はアテネと戦わなければならず、自殺に追い込まれる。この後たったのが、ギリシャ の黄金時代を築くペリクレス。

サルフの戦い(413)
 秀吉の両度の侵略戦における朝鮮国への「降倭」とは傷病者、さらには総軍撤退のときに奥地に入って連絡をうけなかった者、その他のたぐいであったろう。朝鮮国は、かれらの戦闘技能をむだにせず、大きくまとめて北方の国境近くに住まわせた。
 ヌルハチが遼東の明軍に対し決定的な打撃を与えたサルフの戦い(1619)では、約10万の明軍のなかにざっと1万の朝鮮軍がいた。この戦いは、高地に陣地構築して火砲までそなえた明軍に対し、ヌルハチの騎兵団が果敢に突撃するというかたちで進行し、攻防は5時間以上つづき、この間、ヌルハチ軍は三度の突撃をおこなったといわれる。明軍の敗北の困はいくつかかぞえられるが、そのひとつは、戦闘中における朝鮮軍の総帥の単独降伏にあったとされる。降伏後、副将格の金景瑞がこの降伏を不満とし、ヌルハチを殺す計画をひそかに練り、露われて処刑された。倭兵一百はその配下だったためにともに刑殺された。秀吉の朝鮮出兵から、サルフの戦いまで22年ないし27年経っている。サルフ付近でのヌルハチの陣地で処刑された降倭たちはすでに兵というには老いすぎていたであろう。

サラワク法則(206)p.104
 1955年にウォーレスがダーウィンの出版に先駆けて「新種の導入を調節してきた法則について」を発表した。ここで提示された「あらゆる種は以前に存在していた類縁の近い種と空間的にも時間的にも重なりあって出現した」という考えは進化論そのものであり、ウォーレスのサラワク法則と呼ばれる。

ザルツカンマーグート(31)
 塩の御料地。ザルツブルグ(塩の城)繁栄の源である塩鉱によって開発された地域。オ ーストリア・アルプスのもっとも美しい森と丘と湖の景観を示す。塩の町はハルシュタッ トでケルト時代の塩漬けにして埋葬された遺体が発掘された。保養地としてはザンクト・ ギンゲンがモーツァルトの母アンナ・マリア・ペントルの生誕地で有名。

サルムング教団(369)
 グルジェフが第一次世界大戦以前に、チベットの首都ラッサに生活していたのが分かっている。…旅のあいだにグルジェフは、「真実の探究者たち」と名乗るグループの一員になった。…彼らが探していたのは、「サルムング教団」という古代秘密結社の後継者だった。サルムング教団は、ノアの大洪水のずっと以前に起きた最初の大洪水からのがれた賢者らによって、紀元前2500年にバビロニアで創設されたといわれる。…若きグルジェフはアルメニアの古都アニの廃嘘を訪ねたとき、サルムング教団に関する情報の記された一枚の羊皮紙を発見したのだ。…しかし十年間の熱心な探索にもかかわらず、サルムング教団のありかはようとして知れなかった。…ある日、旧友である托鉢僧ボッガ・エディンが、グルジェフのもとにやってきた。エディンは、ブハラで出会った神秘的な老人のことを彼に話した。…老人はグルジェフに、この僧院のある場所を絶対に秘密にするようにと命令した。グルジェフは約束を守ることを誓い、友人と二人でサルムング教団を目指しての旅に出たのだ。…無数の山を越え、谷を渡った。出発から12日目に、まばゆいばかりの緑の峡谷に着いたとき、ついに頭巾がはずされた。…僧院での修行のなかで特に重要なのは、尼僧たちによる神聖舞踏と、神聖音楽の鑑賞だった。…グルジェフがサルムング教団に滞在していたのは、1900年ごろという。

ザワークラウト(92)
 ドイツ料理の塩漬けキャベツ。1772年、クックの2度目の航海から、このすでに発酵しているので腐敗することのない食事を船員に与えることで壊血病を駆逐した。

沢辺琢磨(409)
 NHK「龍馬伝」では拾った金時計を売ってしまい咎めを受けたのを、龍馬に助けられ江戸を脱出した、というところまでしか登場しない……。1861(文久元)年7月、聖ニコライはロシア軍艦アメリカ号(一説では、アムール号)にのり、函館に到着しました。領事のゴシケーヴィチがとてもアジア通、日本びいきであったせいもあり、ロシア領事館はじつにオープンで、日本人の往来も盛んでした。…新島譲は『古事記』を教材にニコライに日本語を教えました。この様子を苦にがしく見ていたのが、函館神明社の宮司、澤邊琢磨(本名山本数馬)でした。滞遽は郷里の高知で、武市半平太に師事、坂本龍馬のいとこであり、筋金入りの尊皇壊夷の志士です。…1865(慶応元)年のある日、沢辺は神州日本に異教の害毒を流しこもうとしている西洋坊主、聖ニコライを一刀両断に切り捨てる決意をかためました。
… 「なんじの信じる教法(宗教)は邪法であり、なんじはわが国を窺う者ではないのか」聖ニコライは平然と問い返しました。
 「されば、あなたはハリストス教のことをよく識っておられるのか」
 「識らず」
 「いまだ識らざるハリストス教を、なぜ憎むべき邪法と名づけられますか。もし識らないのであれば、これを研究し、しかるのちに正邪いかんを決すべきではないのですか」
 聖ニコライの問いかけに、答えるべき言葉に窮した澤邁は、しばらく沈黙したあと、意を決して言いました。
 「しかり、しからばこれよりハリストス教を聞くべし」
 こうしたやりとりを石川喜三郎が『日本正教博道誌』に記録しています。澤邁は、聖人の静かな気迫に引きこまれ、魅了されてしまったのかもしれません。澤邁は、日本人初の司祭に叙聖されることになる「初穂」なのです。


山賽モデル(468)
 模造品製造業者の面白い点は、その行き着くところがオープンソースの組織構造と似通ったものであるところだ。ネットの荒野に放たれたアイデアやテクノロジーは、それが不法に侵害されたものであれ、オープンソースの信条のもとに自主的に公開されたものであれ、どちらも同じような協調的なイノベーションを誘発することになる。
 山賽業者は、発明者の知的財産権をほとんど気にかけず、業者間でオープンに情報を共有しています。その生態系に参加する業者はみな小規模で、全体を統率するような大企業は存在しません。お互いに押したり引いたりしながら、効率的な超少量生産の生態系を生み出し、固定費を最低限に抑えて市場に素早く対応しているのです。

ザンクト・フロリアン僧院(120)
 こう書くと、一般的に言われる聖フローリアン教会より、ずっと禁欲的で素朴なイメー ジになるから不思議だ。ブルックナーはこのリンツ郊外の僧院で児童合唱団の一員として 歌い、オルガニストを長く勤めた。リンツからの郊外電車に乗ると、ブルックナーのあの 鉤鼻とひっこんだ眼の独特の容貌はこの地方の農民の典型的な顔立ちであることが分かる 。

残心(117)
 剣道における究極の境地。打ったあとを確認し、油断することなく次の敵にそなえるこ とが、無意識にできること。

サンスクリット語(392)
 サンスクリット語というのは、時代や地域で変化してやまない自然言語であるヴェーダ語を、完壁な文法規則で縛り上げて作り出された一種の人工言語である。インドの伝統的文法学は、ヴューダの補助学として位置づけられ、西暦紀元前4世紀、天才的文法学者パーニニによって完成された。…そして、驚くべきことに、パーニニ以来今日にいたるまで、サンスクリット語は、まったく変化していないのである。奇跡的なことであるが、それほどパーこ二の文法学は完壁だったということである。バーニニの文法学は、用いる記号と公理をまず列挙し、それをいくつかの運用規則で徹底的に分析的に展開したものである。つまり、バーニニの文法学は、インド人が編み出した世界最古の公理体系なのである。

残存収差レンズ(313)植田正治
 ソフトフォーカスという表現は、ただ単にピンボケをつくるというものではなく、その芯になる焦点はあくまでシャープであり、わずかにその周辺に収差による滲みがでるというものであります。…軟焦点イコール芸術写真という一般概念を生んだのは、明治の末からかなりの期間続いた、ネコもシャクシも芸術写真といった時代に発したものであり、今、改めて見直されたといっても、この古めかしいイメージからの脱出は容易ではありません。ウォーレンサック社のベリトレンズから出発した残存収差レンズは、戦前ライカがタンバールレンズを発表することにより、その地位を確立したという感はあります。

サンタ・キアラ(213)P.171
 アッシジのジォットは色がよくない。チマブエも同じだ。…彼らの後、シエナの画家がここへきて壁画を描いている。その一人はシモネ・マルチネでこれがなかなかいい。サンタ・キアラは聖クララで、フランチェスコの女弟子。

サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ教会(65)
 この食堂にダヴィンチの「最後の晩餐」がある。ダヴィンチはパトロンであるイル・モ ーロの依頼で描いた。まだ保存技術が確立していない段階での油絵具の使用が現在にいた る長期の修復作業を必要としている。1999年から予約入場制となったが、時間さえあ れば並んでも入場できる。予約して次々に入るのは日本人団体だけ。

サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼(78)(307)(347)
 スペイン北西部ガリシア地方、使徒ヤコブの墓があると伝承される聖堂の地。聖者崇拝 、聖遺物崇拝は特に10世紀ごろ急速に民衆的熱情となって、修道士が率いた巡礼団を各 地に送り込んだ。こうした盛んな聖地巡礼がやがて起こる十字軍の素地となっていく。 
…サンティアゴの墓が発見され(9世紀初め)、現在地にお墓が安置されのは899年。今も残る栄光の門をはじめとする増築前(増築はゴシック、バロックと幾度もされている)のロマネスク様式のカテドラルは、11世紀後半から12世紀前半にかけて建てられたものだ。最初の巡礼がいつの頃にはじまったのか定かではないが、914年の記録があるという。
 Campus stellae(星降る野)とは、9世紀初め、ガリシアの野で羊を飼っていた羊飼いが、ある夜、星に導かれてヤコブの墓を発見したことにちなむ。異説によれば、星に導かれて墓を発見したのは、サンフェリックス・デ・ソロビヨ聖堂の修道士ペラギウスと信徒たちだともいう。
 951年には、フランス・オーヴェルニュのル・ピュイの司教ゴデスカルクが巡礼したことが記録されている。(ル・ピュイ道の起源)


サンチャゴの聖年(347)
 ヤコブが亡くなったとされる7月25日が日曜日と重なる年は「サンチャゴの聖年」と呼ばれ、この年に聖地詣でをすると特別のご利益かあるといわれる。特に昨年(1999年)はその聖年に当たり、年間15万人もの巡礼者が世界中から訪れた。

山頂の戦い(272)指輪物語
 モリアのデュリンの橋でバルログと戦い墜死したと思われていたガンダルフの話。「わしは生ある者の大地からはるか下の方で闘った。そこでは時が数えられぬ。あれは絶えずわしに掴みかかり、わしは絶えずあれに切りつけた。そしてついにあれは暗いトンネルに逃げ込んだ。…ドワーフたちの掘った最も深いトンネルのはるか下には名前も持たぬ者たちがいて、この世界を侵食している。…かれらはサウロンより年古りておる。さてわしはそこを歩いて来た。かかる絶望の中では、敵だけがわしの唯一の望みじゃった。…あれはそれらの道をすべて知りつくしておった。…そしてとうとう無限階段にやってきた。…そして最後は銀枝山の頂き、ジラクジギルの自然の岩を刻んだデュリンの塔に出た。」そこケレブディルの頂きで、ガンダルフはバルログと最後の戦いをした。これが山頂の戦いである。
「次いで暗闇がわしを襲った。わしは思考からも時間からもさまよい出て、はるかな道を彷徨した。その道のことは語すまい。…裸のままわしは送り返された…かくするうちにとうとう風早彦グワイヒアがまたもわしを見つけてくれた。」


サンティアゴ巡礼の歴史的意義(398)
 サンティアゴ巡礼の歴史的意義は、多部族からなるゲルマン諸国家に一つの運命共同体としての自覚を促し、かつ西欧世界に「キリスト教的共同体」としての有機的な統一性を授けたことである。そのキリスト教的共同体の理念は、九世紀末にイベリア半島の大半を支配したイスラームに対する反撃として、十字軍的な意図を秘めている。すなわち、イベリア半島の宣教者聖ヤコブへの巡礼は、クリニュー大修道院の陰の演出にも支えられながら、いわゆる「イスラーム抗戦」の精神的なシンボルとなつた。紀元800年にローマ教皇によって西口ーマ皇帝に戴冠されたカール大帝の意義も、『ロランの歌』に投影されるように、現実のイスラーム征服者としての功績にある。いわば、イスラームに対する「国土回復運動」 (レコンキスタ)としての、聖ヤコブ伝説とカール大帝伝説の結合が、西欧文明を形成する基盤となったといえよう。

山頭火は甘い(340)
 …高知に到着した山頭火は一番に郵便局に行った。いろいろ受取つたけれど、期待したものはなかった。…山頭火は四国遍路に出てからも友人たちからの送金で旅をしていた。やろうと思えば行乞だけでもやっていけるのだ。…飲むための資金が必要だった。人に甘えるばかりの山頭火。そこがどうしても許せないという人も多い。確かにそうである。山頭火は甘い。

サン・ドゥニ(261)
 サン・ドゥニはゴシック建築発祥の地でもある。ここからシャルトル大聖堂、さらにアミアン大聖堂へと展開したゴシックが、単に技術の問題にとどまらず、精神の様式に関係しているとするならば、サン・ドゥニは一つの文化の転回の基軸でもあったのだ。
 聖ドゥニは斬首されても倒れ伏さず、自分で切落とされた首を抱えたまま静かに歩み去ったという伝説のある聖者である。


サントボームの洞窟(472)
 伝承によると、ローマ帝国の迫害を逃れたマグダラのマリアと弟子たちの一行は、地中海を渡ってマルセイユの港に辿りつき、そこで異教のゴール人たちに布教したというものである。さらにマグダラは、マルセイユの郊外にあるサント・ボームの洞窟に引きこもり、禁欲的な膜想と苦行に余生を捧げ、その遺体は、エクス・アン・プログアンスの司教であった聖マクシムスによって彼の教会堂に埋葬されたといわれる。しかL、西洋の各教会が聖人たちの「真正なる」聖遺物獲得への情熱を高めるなか、彼女の遺体は、プルゴーニュ地方のヴェズレーの修道院に移され(略奪され〉、11世紀半ば以来、この修道院の守護聖人として信仰を集めることになった。

サン・フアン・バウティスタ号(300)
 洗礼者ヨハネ号。伊達政宗が建造した。月の浦を1613年10月28日に発って、翌年1月25日にアカプルコに到着。船長はヴィスカイノ、先導は宣教師ソテロ。支倉常長の慶長遣欧使節の往路の航海。帰国は1620年9月22日。マドリッドで洗礼を受けたドン・フィリペ・フランシスコ・ハセクラとして。

サンマエル(224)p.34
 エデンの園で罪を犯すようイブをそそのかした蛇の名前。この言葉はヘブライ語で左を意味する。「悪の化身であり、もう一つの側、つまり左側の化身」であるとされる。 



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