語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-11-30 計306語
新着語
自分を疑う、成就院光宣、シトワイヤン、シモニア、宗教と音楽、終戦連絡事務局、自分より優れた人物がいる、シリル・バート卿、シュレーディンガー方程式、シャンティニケトン、人類多元論、

(444)
6・431 1
死は生の出来事ではない。死をひとは体験しない。
永遠ということで無限の時間持続ではなく、無時間ということが理解されているなら、現在に生きる者は永遠に生きる。
われわれの生は、視野に限界がないように、終りがない。
6・431 2
人間の魂の時間的な不死、それゆえ死後も魂が永遠に存続するということ、これはどのようにしても保証されないだけでなく、何よりもまずかかる仮定は、ひとがそれによって達成したいと思っていることを少しもなし遂げてくれない。そもそも、わたくしが永遠に生き永らえることによって謎が解けるか。そのような永遠の生も、そのときには現在の生と同じく謎にならないか。時空内における生の謎の解決は時空の外にある。

(493)トルストイ
 《なんのために彼は苦しんだのだろう?なんのために彼は生きていたのだろう?彼は今それがわかっただろうか?》とネフリュードフは考えるのだった。そして彼には、この答えはないように、死のほかにはなに一つないように思われた。と、彼は急に気分がわるくなってきた。

(171)
 マルテの手記でリルケは書く。「詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら年少にしてすでに有り余るほど持っていなければならぬ。詩は本当は経験なのだ。……しかし思い出だけではなんの足しにもなりはせぬ。追憶が僕らの血となり、目となり表情となって、もはや僕ら自身と区別することができなくなって、初めてふとした偶然に最初の言葉がぽっかり生まれてくるのだ。」

シェオール(161)
 黄泉の国。旧約聖書時代に考えられていたシェオールは賞罰とは関係のないものであった。それは現世に対する来世ではなく、現在を有とすれば無の世界を表すもの、現在を形とすれば影に相当するものである。信仰を突き詰めていったイスラエルの民は、このシェオールも神の支配のもとにあると考えるようになり、復活と永遠の生命の概念を創出する。

シェーナ(333)
 オペラにおける劇的な迫力ある独唱で、劇唱と訳す。アリアほど詠嘆調でなく、またレチタティーヴォほど叙述的でもない。ふつうはアリアの前に歌われる。

ジェベル・カランタール(130)
 誘惑の山。ジェベルは山という意味のようだ。バプテスマのヨハネから洗礼を受けたイエスは荒野に入って40日間断食を行う。悪魔の誘惑の声を聞いた山。現在ジェベル・カランタールの垂直の岸壁にはこれを記念して岩窟修道院がしがみつく。メテオーラより厳しい環境である。

ジェームスの法則(125)
 哲学者ウィリアム・ジェームスの心霊現象に対する見解。心霊現象はそれを信じようとする者を説得するには十分だが、懐疑的な人間を説得するには決して十分でない証拠しか提示できない。

ジェームズ・マレー(340)
 「私は比較言語学と特定の言語の研究を、生涯を通じて好んで行なってまいりました。アーリア語族およびシリア・アラビア語族の言語と文学に、ひととおり通じております。これらのすべて、あるいはほとんどすべてに詳しいというのではなく、語彙と構文にかんする一般的な知識があり、少し勉強さえすれば精通できるという意味です。いくつかの言語については、もっと詳しい知識をもっております。たとえばロマンス諸語のうち、イタリア語、フランス語、カタロニア語、スペイン語、ラテン語には詳しく、そこまではいかないものの、ポルトガル語やヴォー州方言、プロヴァンス語、その他さまざまな方言の知識もあります。チュートン語派では、オランダ語を一応身につけており、フラマン語、ドイツ語、デンマーク語も心得ております。古英語およびモエシアゴート語については、はるかに詳しい知識があり、これらの言語にかんして著書を出す準備をしております。ケルト語派の知識も多少はあり、目下スラブ語を勉強中で、ロシア語については実用に足る知識を習得しました。ベルンア語、アケメネス楔形文字、サンスクリットについては、比較言語学の研究に役立つだけの知識はあります。ヘブライ語とシリア語については、旧約聖書とシリア語訳聖書を辞書なしで読める程度の心得はあります。それより劣りますが、アラム人のアラビア語、コプト語、フェニキア語についても、ゲゼーニウスが到達した程度の知識をもっております。」
 後にOEDの編纂に生涯をささげることになるマレー(当時30歳)の大英博物館への就職への自己紹介文。信じがたい博識ぶりと、それを公言してはばからない率直さが現れている。…これでもこのときは就職はできなかった。


ジェラシュ(126)
 アンマン南部のローマ遺跡。ゲラサとも言う。アレクサンドロスの末裔セレウコス朝のアンティオコスがヨルダンのギリシャ化を図るために建設した都市。ローマの時代ポンペイウスの南征で属州化され、現在に残るローマ的遺跡を残す。円状列柱を残すフォロから直線で800m伸びるカルド・マキムス(幹線道路)のイオニア列柱は、現存するローマ遺構でも最大の規模。

ジェラル・ウッディン(411)
 モンゴル軍に対して最後まで闘った勇敢な首長はかくして殺された。その最後はひどく呆気なかった。ジュラル・ウッディンは中肉中背で、トルコ人のような顔つきをしており、黒い顔をしていたと言われている。母はインド人だった。彼は極端と言えるほど勇敢で、静かで、重々しく、無口だった。贅沢で飲酒と楽曲に耽り、いつも酔って寝ていた。このホラズム最後の首長の死後、多くのべテン師が現れ、自分こそジェラル・ウッディンであると称した。

ジェルジンスキー・コミューン(95)
 ウクライナのハリコフの少年少女収容施設。1932年矯正授業でカメラを製作。ライカTaのコピーである。これがライカコピー機の一号となるFED(フェド)である。FEDは創立者ジェルジンスキーのイニシャル。
 
シェーレグリーン(22)
 スェーデンのシェーレが合成した酢酸銅と亜ヒ酸銅の複塩。鮮やかなグリーンとなり、ドラクロアやミレーが好んで使った絵具として、一時期ブームとなる。毒性がありこれを塗った壁紙は防虫効果があった。現在は船舶塗料。

シェングラーベンの戦い(518)
 このとき行なわれた攻撃についてティエール(フランスの歴史家・政治家)は次のように言っている。「ロシヤ軍は勇敢に行動した。こういうことは戦争では稀にしかないことであるが、二つの歩兵の集団がたがいに相手にむかって決然と進撃し、双方とも衝突の瞬間まで道をゆずらなかった。」ナポレオンはセント・ヘレナ島でこう言った。「ロシヤ軍の数大隊は恐れを知らぬ勇気を示した。」(1805年戦役でオーステルリッツ以前の唯一の交戦、バグラチオン公爵指揮)

シオニズム(323)
 反ユダヤの大波が強くなればなるほど、その攻勢から身を守ろうとするユダヤ人たちの抵抗も強くなる。パレスチナの地にユダヤ人の国を作る構想、シオニズムが生まれたのもこのウイーンであった。20世紀の歴史を刻んだナチズムとシオニズムの萌芽が二つともウィーンから始まったのである。テオドール・ヘルツルというブタペスト出身の青年が1896年「ユダヤ国家−ユダヤ人問題の現代的解決」を出版したのが発端である。ヘルツルの活動を英国の化学者ハイム・ワイズマンが引き継ぎ、1948年イスラエル初代大統領になる。

シオンの賢者の議定書(361)
 偽書。 貧しい靴屋の倅に生まれたアルフレート・ローゼンベルクが名を上げるようになったのは、彼がモスクワからひそかに運んできた秘密文書のおかげである。なぜこの男がナチ党の指導陣に加わり、お抱え哲学者にまで昇進したかといえば、それは彼がアドルフ・ヒトラーに、完全な権力への青写真、『シオンの賢者の議定書』を提供したからだ。同書は、1897年にバーゼルで開かれた「ユダヤ民族世界会議」の議事録とされていた。この会議で、(ユダヤ人による)世界支配の達成への計画が敷かれ、決議がなされたといわれている。 

死海文書(144)
 死海北端クムランの崖で発見されたキリスト教草創期の関連文書。グノーシス的あるいはエッセネ派文書とする見解が多いが、著者はこれらをまさにイエスそのものの活動の記録であることをペシャリームによって説明する。しかしこの文書は律法的、儀礼的であり排他的でもある。新約聖書の持つイメージと遠く、イエスの実像をまったく別のものに描く。新約では異質なヨハネ黙示録の世界だ。

視覚思考(227)
 ビジュアル・シンキング。視覚思考はイメージを生んだり、それを操作したりする思考様式である。イメージは重ねあわせたり、回転したり、大きくなったり小さくなったり、歪んだりして変換されていく。各種の分野できわめて独創的な業績を残した人々の中の何人かは、はっきり視覚思考に頼っていた。しかもこのような人たちは、初期の学校教育では広範囲にわたる障害を見せていた。失読症、学習不能、学習障害である。アインシュタイン、ダ・ヴィンチ、エジソン、アンデルセン、フローベル、ロダン、パットン、イエーツらがそれらの範疇に含まれる。左脳は言語と数字でものを考えるが、右側は視覚的に、絵や三次元空間のイメージで考える。彼らがハンディキャップを埋め合わせたから非凡なことが達成できたのではなく、ハンディキャップと才能は同じものの両側面であり、論理思考で得られない結果を視覚思考で得ることができた。

シガリョフ理論(45)
 「悪霊」の中で五人組秘密結社で展開される、結果として将来のロシア社会主義国家の破綻を予言する人類二分化理論。10分の1が支配者となり、個人的自由と、他の10分の9に対する無制限な権利を獲得する。他は数代の退化をへて天真爛漫な原始的平等にいたるという考え方。

時間(322)プリゴジン 
 時間には幾何学的時間と統計的時間がある。力学、相対論などの時間は幾何学的であって、光速一定の条件から長さに還元されるものである。そこには発展とか進化の概念がない。しかし、我々の実感からして時間には向きがあつて、世界はある方向に発展進化している。不可逆現象と結びついた統計的時間が過去と未来を区別する。そこで、師ド・ドンダーの言葉「時空はもはや堅く不活性な枠組みではなく、それ自体が現象である」を引いて、時間の概念には不可逆過程が最も基本的役割を演じるはずだ、という確信を述べている。

磁器の兵隊(228)p.230
 マイセンで磁器を作らせることになる磁器狂いのアウグスト強王は、その趣味のため、自らの竜騎兵連隊600人をプロイセンのフリードリッヒ王に与え、その代わりに127点の磁器を手に入れる。その竜騎兵は磁器の兵隊と揶揄されたが、プロイセンとザクセンの戦いでアウグストの子の兵と戦うことになる。

司教アデマール(469)
 1095年11月、クレルモンの地で開催された公会議の主要舞台は、屋内ではなく屋外にあった。ウルパン二世は主教会の前の広場を埋める群衆に向って、直接に訴えるやり方をとったからである。…聴いていた人々は、一人残らず感動した。群衆の聞からは自然に、「神がそれを望んでおられる」(DEUS LO VULT)の声がわきあがり、その大歓声の中で、聖戦に志願する最初の一人が、演説を終えたばかりの法王の前に進み出た。そして法王の前にひざまずき、遠征参加への誓いを行ったのである。その人はル・ピュイの司教のアデマールだった。
…征服したアンティオキアの中で、食不足と夏の暑さと疫病の流行に苦しまされることになったのである。この時期、つまり七月、首脳陣の一人がついに疫病の犠牲になった。…必要となれば自ら兵を率いて最前線に立って闘い、ことあるごとに敵対するボエモンドとサン・ジルの間も巧みに調整し、死に行く者の求めがあればその枕もとに駆けつけて、より良い世界への旅立ちを見送る。ル・ピュイの司教アデマールは、第一次十字軍にはなくてはならない人になっていたのである。

シクストゥス4世(41)
 腐敗、残酷さ、野心において歴代教皇のなかで抜きん出た存在と言われる。デッラ・ローヴェレ家の出身で、システィナ礼拝堂を建立。スペイン異端審問所を設立し、悪名高いトルケマダを任命。

シグモイド・カーブ(424)
 私たちは普段、インプット(人力)とアウトプット(出力)が比例関係にある現象に慣れている。というより、脳は比例関係以外の関係を理解するのが片手なのである。…生命現象を含む自然界の仕組みの多くは、比例関係=線形性を保っていない。…自然界のインプットとアウトプットの関係は多くの場合、Sの字を左右に引き伸ばしたような、シグモイド・カーブという非線形性をとるのである。…シグモイド・カーブにおいて、インプットとアウトプットの関係は、鈍→敏→鈍という変化をするのである。

資源(249)
 消費可能で明らかに必要で、あるいは絶対に不可欠な資源は、今日まで十分に足りていた。…人類の生存と成長に対して、今日までは、いわば事故防止のクッションが用意されていたのは明らかである。これはちょうど、卵の中の鳥が成長のある時期までは、液体の栄養分が与えられていたのに似ている。

思考・意志・判断(503)
 「思考」は自分自身との内的対話であり、過去と未来のあいだに生きる人間が時間のなかに裂け目を入れる「はじまり」でもある。「思考」のためには自分と自分自身という一者のなかの二者を必要とする。「意志」は未来に関わり、「意志する」と「否と意志する」のあいだで分裂や葛藤を経験する。「意志」は「選択の自由」や何かを変えていくという人間の活動に密接に関わるが、独我論的な意志である場合、自己や他者にたいして暴力的な結果をもたらす。「判断」はつねに他者との関係のなかでおこなわれるものであり、他者の意見や範例を必要とする。
 ヤング=ブルーエルは、アーレントが「思考」と「意志」の部分ではおもにハイデガーと対話し、「判断」の講義ノートではヤスパースおよびブリュッヒャーと共鳴していた、と書いている。


思考が和解をもたらす(503)
 彼女(アーレント)は、自分は何よりも理解することに関心があり、何もしなくても生きられるが出来事を理解しようと試みずに生きることはできない、と言う。そしてそれを「和解」と呼び、自分にとっては思考だけが「和解」をもたらすのだと述べた。また、思考の営みと複数の人びとともに行為する活動とをはっきりと区別し、「わたしは人生において何度か活動したことがありました。そうせざるをえなかったからです。でもそれがわたしの主要な衝動ではありません」と語った。考えたいときは、世界から引っ込むのだとも言った。思考は孤独な営みであり、自分との対話でもある。「わたしというたったひとりの人間」が「わたし自身」とおこなう対話である。アーレントはヴァレリーの「あるときわたしは存在し、あるときわたしは思考する」という言葉を思考の営みにたとえた。人は「現れっぱなし」のときは思考できず、人格をもった「ひとりの人間」になることもできなくなる。

思考法則(203)
 思考の法則というものがあれば、こんなに楽な話しはない。このような思考の法則の存在を信じる人はイデオロギーが優先する一部の国を除けば、まずない。科学の方法や科学の発展法則などについて論じる人に創造的な仕事をした科学者はほとんどいない。

自己欺瞞の進化(253)
 人の心理傾向は、自己正当化をするように進化してきたのではないか−−社会生物学きっての理論家、ロバート・トリヴァースの説である。まわりの事態が変えられない場合は、自分の意思決定は正しかったのだと思った方がストレスが少なくていいはずだ。だから、このように自己欺瞞をする心というのは、適応的なのだ。これを受けてゴワーティーは、「女らしさ」というのは、男性上位の社会で女性が少しでもいい条件を獲得するための自己欺瞞戦略なのではないかと仮説を立てた。

自己軽蔑者(353)ニーチェ
 ここにひとりの出来損ないがいる。自分の精神を楽しむことができるほどの精神はもち合わせてはいないが、そのことを知るだけの教養は備えている。退屈し、うんざりしている自己軽蔑者だ・…‥本当のところは自分の存在を恥じており−たぷんかれはそのうえいくつかの小さな悪徳をも備えているだろうーしかも他方では、自分には不相応な書物により、あるいは自分の消化しうる以上に精神的な交際によって、いよいよ悪く自己を甘やかし、虚栄的で興奮しやすくならざるをえない人間なのだ。このように完全に毒された人間……は、ついには復讐が、復讐への意志が、習慣的となった状態に陥るのである。

地獄(303)ヘルマン・ヘッセ
 地獄を目がけて突進しなさい。地獄は克服できるのです。(断章11 1933年頃)

地獄の季節(517)
o saisons ! O chateaux !
Quelle ams est sans defaut ?
ああ季節よ、城よ、無垢なこころが何処にある。(小林秀雄氏訳)
誰も問われず、誰も問わない。詩人は不在である。そして質問は答え許さない。或いはむしろ質問がそれ自身の答である。ではそれは反語なのか。しかしランボーが、誰にでも欠点はあるといおうと思ったと信じるのは、馬鹿げていよう。


■地獄必定(524)
 浄土系の人のよく言う「地獄必定」とは、生死の彼方に在るのではない。浄土と同じように、どこか十万億土−−浄土が西なら地獄は東かに在ると思ってはいけない。それは平安文化伝来の不徹底な思想である、地獄も極楽も此の土に在るとは言わぬが、此の土に対する認識の不足からくる見方である。我らの考えが大地遊離的方向に進むと、そこに地獄も極楽もあるが、我らは大地そのものであるということに気付くと、ここが直ちに畢覚浄の世界である。考えそのものが大地になるのである、大地そのものが考えるのである。そこに大悲の光がひらめく。大悲のあるところが極楽である、それのないところが地獄必定である。真宗の信仰の極致がここに在る。


自己侵襲(302)
 自己侵襲と呼ぶ免疫反応では、免疫系の攻撃によって直接自分の組織への障害が引き起こされる。病原体が侵入し、何らかの方法でその細胞を外来異物として免疫系に認識させるように変えてしまう。あるいは、ただ単に免疫系が、体の中のある細胞に対して、これはもはや自分ではないとという判断をくだす。いずれにせよ、結果は同じで、免疫系の破壊的な猛威の中で、自己が攻撃されるのである。

自己組織化(62)
 もし種の物質形成が完全にランダムなものであるとすれば、たった一個の有用なタンパク質が生み出されるまでに、宇宙の年齢よりも長い時間を待たなければならない。カウフマンは自身が秩序と呼ぶ自己組織化してパターンを形成しようとする複雑系の絶えざる作用、つまり創発をダーウインの自然選択に付加する必要があると考えた。

仕事は私事である(269)p.170
 荒木経惟(のぶよし)はフリーになって(その前の名刺は電通クリエーテイブ開発室写真部撮影課副参事)まず宣言した。「仕事は私事である」。これは、荒木の数あるテーゼの中でも不朽の名作である。このテーゼによって、彼の生活はすべて写真という仕事の一部になり、しかもその仕事は私生活そのものであることによってホンモノのリアリティを持つ。そのかわり写真家が私事を仕事にするのだから、彼と付き合うことになる周囲のすべてはこの写真劇場の役者にされてしまう。
 
自己の死(161)
 「善き生」はつねに古い自己が死ぬことによってのみ可能である。この古い自己の死はけっしてなまやさしいことではない。それは見せかけの死ではなく、本当の死だからである。古い自己の死を含まない自己完成は偽りの生であり、虚構の生にすぎない。
 
事故の波長(159)
 鉄道事故の発生周期を柳田邦男は8年と見る。航空機では5年サイクル。また化学工場の事故は9年サイクルという見方がある。全日空で安全を担当する舟津良行は雫石の空中衝突(1971年)の18年後、「私どもではあの事故を直接経験していない社員が3/4を越しているのです。自社で悲惨な事故を体験して、これを修復するために走りまわった世代が1/4以下になってしまった。だから事故がどの程度痛いかということは観念的にしか分からない。」と言う。トインビーが戦争サイクルで指摘する世代論が事故の領域でも存在するのかもしれない。

自己免疫寛容(302)
 ベーリングと北里によって発見された抗体は、B細胞(Bリンパ球と呼ばれる白血球)によって産生される。外来の抗原は、人体の細胞がついていけないような速さで突然変異を起こして進化するので、私達の免疫系は、これに対応できるように100万種以上の抗体を産生することができる。しかもそれらの全ての抗体は、自己と認識するものには反応しないという自己免疫寛容という特徴を持ち、特定の抗原のみ識別し、これと結合して、一連の異物排除機能が活性化される。

自己融解(195)
 自分の持っている加水分解酵素で自分自身を溶かすという細胞の死による変化。

自己を絶対視する精神(474)
 歴史上、これほどに才能の質の違う天才が行き会い、互いの才能を生かして協力する例は、なかなか見出せるものではない。レオナルドは思考の巨人であり、チェーザレは行動の天才である。レオナルドが、現実の彼岸を悠々と歩む型の人間であるのに反して、チユーザレは、現実の河に馬を悠然と乗り入れる型の人間である。ただこの二人には、その精神の根底において共通したものがあった。自負心である。彼らは、自己の感覚に合わないものは、そして自己が必要としないものは絶対に受け入れない。この自己を絶対視する精神は、完全な自由に通ずる。宗教からも、倫理道徳からも、彼らは自由である。ただ、窮極的にはニヒリズムに通ずるこの精神を、その極限で維持し、しかも、積極的にそれを生きていくためには、強烈な意志の力をもたねばならない。二人にはそれがあった。

思索する人(431)
 ヤムプリコスが伝えるところによると、アリストテレスは次のように言う。「我々人間の内には理性と知恵とのなにがしかが我々の中にあるというただ一つのことを除けば、神的なもの、或るいは至福なるものとして尊重に値いするものは何一つ存在していない。思うに、これだけが我々の所有しているものの中で不死であり、これだけが神的であると思われる。この能力に与り得ることによって、人間の生は、それが本来悲惨で苦悩に満ちたものであるにせよ、尚、他のすべての生物に比べれば人間は神であると思われるほど賢明適切に整えられているのである。なぜなら、「理性は我々の内に住む神」であり、死すべき生も神的なるものの部分を分け持っいるのであるから。かくて、我々は知恵を求めるべき、すなわち哲学すべきであるか、もしくはこの生に別れを告げてこの世から立ち去るべきであるか、いずれかである。というのは、他の一切は何か全く無意味なものであり、愚かしい業と思われるからである」
 このようにして彼は人間の命がどのように重要であり、また、どのように過ごすことによって真の幸福を獲得するかということを述べている。「すべての生物にとっては、生きる″ということこそ、まさしく存在する″ということそのことであるとするならば、思索する人こそ、存在する≠アとの度合に於いて、最も高度に、そして最も本来的な意味で 存在している≠アとになる。人間にとって、何にもまさる楽しみとは、それゆえ、「思索し観想することから生ずる喜び」にほかならず、それは「哲学する人々にのみ属している」から、「心ある人は哲学しなければならない」


自殺率(290)
 デュルケムは宗教の違いがどのように自殺に影響を及ぼしているかを見た。デンマークの自殺率はイタリアの9倍となり、ドイツ・スイス等のデータも全て、カトリックよりプロテスタントの方が高い自殺率を示した。カトリックは教会の権威に基づいた集団としての結束力が強いのに対して、プロテスタントは各人が聖書を読むことによって、自ら信仰とは何かを考えていかなければならない個人主義的な宗派であり、個人として孤立しやすい傾向があるからだと説明した。


シシィ(178)
 フランツヨーゼフ1世の皇妃エリザベート。バートイシュルでの皇帝と姉との見合いの席上で見初められる。伝説的な美貌によって最後のハプスブルグの歴史に留め、1898年レマン湖畔で刺殺される。実の子ルドルフ皇太子を心中死で失い、次の皇太子フェルディナントはサラィエボで銃弾に倒れ、第一次世界大戦に突入していく。これが800年以上のハプスブルグ王朝の終焉である。

事実の算出力(400)ポアンカレ
 事実の重大であるか否かはその産出力、いいかえれば、そのために我々が節約し得る思考の量の大小によって測られるのである。
 物理学において、産出力の大きな事実とはきわめて一般的な法則に包摂せられる事実のことである。なぜならば、かかる事実は幾多の他の事実を預見することを得しめるからである。数学においてもこれと異なることはない。わたくしがある複雄な計算に身をゆだねて、辛苦の末、ある結果に到達したものとする。もし、わたくしが、これによって、他の類似の計算を予見する力を得て、前にはやむなくこころみた手探りを、次はなすことなく、確実に計算の針路を定め得るようになるのでなかりたならば、わたくしの労は酬いられなかったというべきであろう。


事実の真理(503)
 アーレントは「真理と政治」という論稿のなかで、政治的な領域をかたちづくり人びとが生きるリアリティを保証すべきものであるはずの歴史的出来事や「事実の真理」が、数学や科学や哲学の真理といった「理性の真理」よりもはるかに傷つきやすいものであると論じた。
「事実の真理」は、それが集団や国家に歓迎されないとき、タブー視されたり、それを口にする者が攻撃されたり、あるいは事実が意見へとすりかえられたりという状況に陥る。「事実の真理」は「理性の真理」とは異なり、人びとに関連し、出来事や環境に関わり、それについて語られるかぎりでのみ存在する。それは共通の世界の持続性を保証するリアリティでもあり、それを変更できるのは「あからさまな嘘」だけであると言う。「歴史の書き換え」や「イメージづくり」による現代の政治的な事実操作や組織的な嘘は、否定したいものを破壊するという暴力的な要素をふくんでいる、とアーレントは指摘した。


獅子の爪痕(164)
 「獅子は爪痕で分かる。」ベルヌーイが無署名の数学論文に目を通して、それがニュートンのものだと一目で見抜いたときに言った言葉。

詩人の実存(490)キルケゴール
 キリスト教的に考えるならば(美学がなんといおうと)詩人の実存はすべて罪である。罪であるというのは、存在するかわりに詩作し、善や真であるかわりに、すなわち実存的に普や真であろうと努力するかわりに空想によって善や真にかかわろうとする点である。われわれがここで問題とする詩人の実存は、それが神の観念をもっという点で、あるいは、神の前にあるという点で、絶望とは違っている。しかし、詩人の実存は非常に弁証法的で、自分が罪であることをどれほど漠然としか意識していないかということについて、透明にはならない弁証法的混乱のうちにある。このような詩人は、非常に深い宗教的衝動をもちうるし、彼の絶望のなかには、神の観念が取り入れられている。彼はなにものにもまして神を愛している。その神は、彼にとって彼のひそかな苦悩に対する唯一の慰めであるのだが、彼はその苦悩を愛し、その苦悩を棄てようとはしない。

システム(151)塩野七生
 システムの持つプラス面は、誰が実施者になってもほどほどの成果が保証されるところにある。反対にほとぼとの成果では敗北になるような場合には、共同体が蒙る実害は大きくならざるを得ない。 

シスマ(494)
 シャルル5世晩年のごたごたとして、もうひとつシスマ(教会大分裂)を挙げなければならない。1377年、教皇グレゴリウス11世が教皇庁を、1309年から移されていた南フランスのアヴィニヨンから、古来より置かれていたローマに戻した。フランスの戦乱、わけでも盗賊化した傭兵隊の出没に嫌気が差したからとも、イタリア半島の教皇領が危うくなったからだとも、後に列聖される奇蹟の人、シエナのカテリーナに請われたからともいわれるが、いずにせよ大英断をなした教皇は、もう翌年には死去してしまった。ナポリ出身のウルパヌス6世が次の教皇に選ばれたが、この結果を不服としたのがフランス出身の枢機卿たちだった。面々は選挙の無効を訴え、自分たちでジュネーヴ出身のクレメンス7世を選び直した。新教皇と一緒にアヴィニヨンに帰ることもしたが、他方のウルパヌス6世も退位したわけでなく、そのままローマで教皇を名乗り続けた。

自然権(35)
 人間の本性は生命である。その生命を維持するために人間がもつありとあらゆる力を用いてよろしい。これが自然権であり、これを貫徹するために理性法である自然法に導かれて契約を結んで政治体を構築するというホッブスがリヴァイアサンで示した理論。ベンサムはこれを否定して功利主義を主張。

自然選択(553)
 イギリスの進化論は、産業革命下の現実を反映して、生存競争を重視し、その勝敗の差をきびしくみすえた。詩人テニスンはダーウィンにさきだち、『イン・メモリアム』という長編詩のなかで、「種の保存には注意深くみえる自然も、個々の生命には冷酷だ」とうたい、このあらわれとして、「五十個のたねのうち、みのれるのはただ一個にすぎない」ことを指摘した。
 ダーウィンは集団と個体の関係をつねに考えており、前者が保持される過程で、後者に甚大な犠牲がでることを現実と認識しつつも、感情を極力おさえた記述をこころがけている。どの生物にも、集団の構成数として、許容される−−生存可能な−−限度がある。ところが誕生する生物の新個体の数は、その許容限界よりつねにはるかに多い。そこから必然的に、同一種内の個体間で、生き残るための競争がおこる。問題は勝敗をわける要因で、ダーウィンは各個体にみられる形質の微妙なちがいに注目した。その微妙な差が、それぞれの環境とのつながりで、大きな意味をもつというのである。
 環境と関連づけると、生存に適した個体と、適さない個体とがわかれる。適さないものほど早期に死滅して、もっとも適したものが生きのび、子孫を残してゆく可能性が高い。つまり環境が形質のちがいを選ぴわけている。この現象が「自然選択」(または自然淘汰)である。


自然選択の着想(553)
 ダーウィンが自然選択説を思いつくうえで、飼育動物と栽培植物における人工的な品種改良が、着想のきっかけをあたえたこと、またマルサスの『人口論』が影響していると、たいていの伝記には書かれている。
 飼育動物あるいは栽培植物の場合、これを養い育てている人間が、つねにみずからの好みにあわせて形質の選別をおこなっている。特定の目標めざして一定の選択がつづけられると、やがて新品種ができあがってくる。これは人為選択とよばれる。人為選択を自然界に応用することで、自然選択説ができあがったというのである。
トーマス・ロパート・マルサス(1766--1834)はイギリスの経済学者で、もっぱら人間社会を考察の対象にした。食糧の生産増加にくらべると、人口のふえる数ははるかに大きい。放置すれば深刻な食物不足が到来する。文明社会では人口を制限するため、さまざまな工夫がなされなければならない。未開種族ではおのずと疫病、飢鍾、戦争などによって、人口の制禦がおこなわれる。そのとき強い個体が生き残り、弱い個体が除去される。


自然の欠陥(441)
 ルネッサンスの画家たちにとって、外界を正確に描写する際に最も常用な武器であった数学は、マニエリスムの時代には絵画からほとんど放擲されるのである。…ヴァザーリがすでに自然の美はそのままでは不完全であるとみなしていたように、マニエリストたちは、芸術の対象としての自然に不満を感じていた。…そして彼らは、芸術的表現とは単なる自然の模倣ではなく、芸術家の精神の内に形成される「知的思念」を視覚化することであると考えた。具体的にいえば絵の内容を自然や聖書や詩あるいは歴史から採ってくるのではなく、まったく純粋に芸術家自身が考え出したいと思ったのである。

自然の産物(553)
 自然の下では、構造や体質上のごくわずかな差異が生存闘争におけるみごとにバランスのとれた尺度を変化させ、それによって保存されるのである。人間の願望や努力は何とはかないことであるのか。人間のもつ時間は何と短いことか。したがって、人間のもたらす結果は全地質学的時代を通じて自然が累積したものにくらべ何と貧しいことか。それ故、自然の産物は人間の産物よりもはるかに,真実な性質をもつはずだということ、また自然の産物はもっとも復雑な生活条件に対して限りなく適応しており、あきらかにはるかに高度の技能の刻印をもっていることを、疑うことができようか。比喩的に言えば、自然選択は日ごと、時間ごとに世界中で、もっとも軽微な変異をもくわしく調べ、悪いものは斥け、よいものはすべて保存し、集積する。無言のまま、目だたぬまま、機会が与えられる時間、場所をとわずに、有機的、無機的生活条件に関するそれぞれの生物の改善の仕事を行っている。

自然の書(264)
 古来、キリスト教の伝統においては、神は「御言葉の書」(聖書)を通してばかりではなく、「自然の書」を通しても自らを人間に啓示したもう、と考えられていた。正多面体仮説を見出したケプラーは、御言葉の説教者でしなく、「自然の書」の説教者になることこそが神のお召しであると悟ったのであった。

自然の体系(39)(218)p.70
 1735年にスウェーデンのリンネが出版した生物の系統樹。[システマ・ネイチャ]霊長目にはヒト、有尾猿、きつねざる、コウモリの4属。ヒトはホモ・サピエンスと類人猿(穴居人)。さらにヒトは野蛮人、アフリカ原住民、ヨーロッパ人、アジア人、黒人、怪物に分類。
(218)神を信じていたリンネにとって自然の秩序はすなわち神の意志である。リンネは論理整合的な自分の体系によって神の意志を示し得たと自負したのである。


自然の非神格化(425)
 異教における自然の神格化、およびギリシャ哲学において合理的形態をとった自然の神格化と、「聖書」における自然の非神格化とは、根本的に好対照をなしている。イスラエルの宗教は、近隣諸国における自然崇拝と比べてみると、たぐいまれな現象であった。…近隣諸国民が至高神とする太陽や月でさえも、草木や動物と同格に扱われ、人間に奉仕するものとされた。…「聖書」は「自然」についてはなにも知らない。知っているといえるのは、その起源と存在とを神の意志に絶対的に依存している「被造物」についてだけである。…自然は人間のなかに畏怖の念を生じさせることがあるが、この種の感情は、人間が神の協力者であり、神とともに被造物を支配することを知るときに、克服される。

自然の吝嗇(35)
 マルサスが「人口論」で主張した「人口は等比級数的に増加するが、土地という自然条件の制約(自然の吝嗇)があるため食糧は等差級数にしか増産できない。過剰人口の積極的制限が貧困と悪徳となる」という21世紀に向かって再評価するべき基本命題。

自然冷媒(246)
 フロン(CFC)や代替フロン(HFC)に代わる地球環境保全のための冷媒として研究されている。人工物ではなく、自然界に安定して存在するものを使うことから自然冷媒と呼ぶ。自然冷媒の中で毒性や可燃性がなく、熱的にも安定している 二酸化炭素を冷媒としたヒートポンプが実用化されている。
 二酸化炭素はフロンと異なり、圧力をかけても液体とならず、 密度の濃いガス状の「超臨界状態」となる。従来のフロンガスと比べ約15%高いエネルギー効率が 得られるほか、 フロンでは不可能だった85℃という高温給湯が可能なこともわかってきた。


思想をもったカメラ(285)
 ピッカリコニカの試作品を販売に提示し、価格の設定を議論したことがあった。原価の推定額からすると。四万五千円以上で売らねばならない…。…その試作機は、それまでのカメラとストロボを組み合わせただけなので、レンズは明るさF1.8であり、シャッターも1秒から500分の1秒までついている。しかし、今やストロボはいつでも使えるのである。…レンズの明るさF2.8、シャッタ速度125分の1秒のみというカメラは、当時の流行からかけ離れたものであったが、幸い雑誌「写真工業」の新製品診断室では、「思想のあるカメラ」と評価され、市場にも受け入れられ、従来のカメラのイメージを完全に変えてしまった。

自尊心(408)
 何人も自分の家庭では偉人ではない。そこでは自尊心が首をもたげる暇がない。けれども、自尊心という奴は風邪を引きやすいものだ。だから、人々は朝になると外出して、自尊心を活動させ、夜になると家に帰ってそれを寝かしつける。ところが、精神とは、自尊心の活動する世界のことである。僕の凶暴な自尊心は、あらゆる八百長を拒絶した。つまり家庭を捨てたのだ。
…清岡さん、橋本、都留、道ちゃん、玲子。これらの群像を遠目に眺めて、愛すると肯定しよう。愛が何らかの卑劣な妥協を含むなら、棄てること。…愛は正にわれわれの故郷に違いない。僕は故郷を持たぬ。


死体が集まる場所(537)中上健次
 その熊野の真中の町、新宮には、四つの神社がある。浜の王子権現、川そばの阿須賀、舟町の速玉、それから小学校裏の山にある神倉。元々、記紀の時代からある古い町だから、それなりのいわれ、伝説は、各々にある。熊野三山のひとつである速玉神社に関して、羽市木の花の窟のすぐ裏に住む一遍上人研究家の清水太郎氏にうかがうと、神社とは、又、死体の集まるところだったのだろうと言う。そう言われれば、阿須賀、速玉は、川のそばにあり、よくそこで、川遊びの、水にのまれた子供の死体が、みつかる。速玉、神倉の神章が、鴉を元にしたヤタガラスであることもわかる。また、ひょっとすると、こうも言えるかもしれない。那智の青岸渡寺と大社は鳥葬、海辺にある補陀洛山寺は水葬、新宮の神倉は烏葬、王子、阿須賀、速玉は水葬の、死体が集まるところだった。死体の魂を呼び、鎮めるところだった。その町は、死んだ者の魂と生きている者の魂の、行き交うととろであった。

時代の問題(430)
 フランスにおけるアンシアン・レジームは、「時代の問題」としてのフランス経済のなり行きにたいして危機感をもつことがなく、ついにフランス大革命の勃発という「政治」の変革という形で、経済の旧秩序の矛盾を爆発させてしまった。イギリスでは、経済という、この新しい、「時代の問題」は、スミスの『国富論』のさし示していたような、「事物自然のなり行き」に従って解決がすすめられた結果、おなじ経済の「問題」も、フランスでは流血の革命を惹き起こし、イギリスでは産業革命という形で、経済の市民社会的な発展の方向へすべてのことが進行し、近代化していった。

死体を洗う海 (549)
 その時、私は、ふとガルペと山にかくれていた頃、時として夜、耳にした海鳴りの音を心に蘇らせました。闇のなかで聞えたあの暗い太鼓のような波の音。一晩中、意味もなく打ち寄せては引き、引いては打ち寄せたあの音。その海の波はモキテとイチゾウの死体を無感動に洗いつづけ、呑みこみ、彼等の死のあとにも同じ表情をしてあそこに拡がっている。そして神はその海と同じように黙っている。黙りつづけている。そんなことはないのだ、と首をふりました。もし神がいなければ、人間はこの海の単調さや、その不気味な無感動を我慢するととはできない筈だ。
(しかし、万一・・もちろん、万一の話だが)胸のふかい一部分で別の声がその時囁きました。(万一神がいなかったならば)
これは怖ろしい想像でした。彼がいなかったならば、何という滑稽なととだ。もし、そうなら、杭にくくられ、波に洗われたモキチやイチゾウの人生はなんと滑稽な劇だったか。


自嘲(340)
 草木塔に収録された句の前書き。「自嘲」…「うしろすがたのしぐれていくか」 あのうしろ姿の写真が掲載された雑誌「太陽」(平凡社)昭和53年9月号である。…この写真とこの句が並んで紹介され評判となった。それまでこの句は山頭火の代表作でもなんでもなかった…。「自嘲」と題された。

シックルグルーバー(480)
 ヒトラーは、オーストリアの西北部、ドイツと国境をなすイン川ほとりのブラウナウで生まれた。ここはチェコの国境とも比較的近いが、ヒトラーの先祖は長らくさらに東側のポヘミアに間近なヴァルトフィアテルという片田舎に住んでいた。父アロイス(・ヒトラー)はこの寒村から勇猛果敢にも脱出する。十三歳で単身ウィーンに赴き、靴屋の徒弟から大蔵省の門衛を経て、国民学校卒の学歴ながら税関次長の地位にまで上りつめたのである。
 …(当初)アロイスは私生児のままであったから、母親の姓シックルグルーパーを名乗っていた。のちにヨハン・ネポムク・ヒュトラーが彼を正式に養子にし、アロイスの姓がシックルグルーパーからヒトラーになったことである(当時の村民は字が読めなかったので、役所は村民の発音に基づいてさまざまな表記をしていた)。すでにアロイスは39歳になっており、とのときまさにアドルフ・ヒトラーの「先祖」が生まれたのだ。

実験(93)
 デカルトの思想は論理的であっても、実験を考慮に入れない点が欠陥であった。この欠陥は多くのフランス人によって受け継がれている。(114)最初のうちは、おのずからわれわれの感覚に訴え、ほんの少し反省を加えればいやでも知られるような実験だけを利用するほうが、珍しい複雑な実験を探求するよりもよいからである。こうした珍しい実験はもっとも一般的に原因を知らない間はわれわれを欺くことがよくあるし、これら珍しい実験が依拠している状況はたいてい特殊で細々しているので見分けるのが難しい。
 
実験科学(113)
 仮説を立て、ディダクション(演繹)によって結論をだし、それをインダクション(帰納)で実際の実験によって確かめていくというやりかた。一方で歴史科学は、人類の歴史、あるいは進化論をやっている人は生物の歴史、たった一回限りのものを追っているのであって、それを実験によって確認することはできない。過去になにがあったかということを精緻に知るというやり方でしか研究の方法がない。 再現可能なことにかかわる学問と、再現不可能なものにかかわる学問の差である。
 
実存主義の第1原則(127)
 神の概念は廃棄されたのに、人間は人間としての本性を持っている。それぞれの人間は、人間という普遍的概念の特殊な一例であるという、本質が実存に先立つという観念主義がいまだある。しかしたとえ神が存在しなくても、実存が本質に先立つところの存在、概念によって定義されうる以前に実存している存在が少なくも1つある。それが人間である。…人間ははじめは何ものでもない。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間がみづからつくったところのものになるのである。このように人間の本性は存在しない。その本性を考える神がいないからである。人間はみづからそう考えるところのものであるのみならず、みずから望むところのものであり、実存してのちにみずから考えるところのもの、実存への飛躍ののちにみずから望むところのものであるにすぎない。

実定法(310)
 実定法は、道徳ときびしく区別され、独立した政治社会で、主権者たる最高の政治権力をもつものの明示または黙示の権威にもとづく命令である。命令は義務を定めると同時に、その違反に対して制裁を加えるものである。別のことばでいえば、命令=法=は強制をともなわなければならないということである。 

私的帝国(89)
 経済帝国ともいう。ナチが定義した概念で、世界中に投資を行っている大企業は国家に取って代わりつつあり、その意志や行動は国家の政策より上位に位置するという考え方。 これによって、ナチに対抗する覇権国家の経済・技術基盤を弱体化するための対外国企業戦略が遂行された。

私的道徳(225)P.163
 同性愛芸術家ホックニーが自分のことは自分で面倒をみるし自分でコントロールしたいという時、そこには日常のうちで生きながら同時にシステムの介入を拒否する「私」というものが現れる。…これが公的道徳とは異なる私的道徳をたてて生きているものとなっている。…私的道徳とは形容矛盾であり単なる恣意にすぎない。…しかしシステムが批判され活力をもつことができるのは、この「私」の領分があって、そこではシステムがつねに相対化され検証されることができるからである。

視点(296)
 認知科学の最重要課題の一つは、人が何かをわかるとはどういうことか、という問いである。いま、この問いを考える鍵として、視点という概念が重要なものとなりつつある。いろいろな位置や他人に視点を設定したり、それを移動させてみたりする視点活動が、ものごとを深くわかるときに重要な役割を果たしているのではないか。
 視点という言葉はふつう2つの意味で用いられる。1つは、どこからみているかというときの「どこ」をさす場合であり、もう1つは、どこを見ているかというときの「どこ」をさす場合である。

自動車(220)p.148
 宇沢弘文は言う。「自動車は交通混乱や事故の問題解決のための社会的費用を払わないことで不当に高い競争力をもった存在である。」

シトー僧団(261)
 シトーとは芦原、つまり荒野の意。同じブルゴーニュ、クリュニーからさして遠くはない森に1075年ロベール・ド・モレームが世を捨てて草庵を結んだときに、シトー僧団の歴史が始まる。…シトー会を実質的に組織し、性格を決定したのは、死後列聖されて聖ベルナールと呼ばれることになる人物である。12世紀で、おそらくもっとも強靭な精神の持主である。
聖ベルナールは修道士たちが韻律について語ることを許さなかった。書物を弄ぶことを禁じた。一切の色彩を認めなかった。…芸術は精神の堕落にほかならず、真の信仰とは無縁だと見ているのだ。


シトワイヤン(560)
 ブルジョアとシトワイヤンの二つをはっきり区別したのは、ジャン・ジャック・ルソーでした。彼の『社会契約論』には、都市は家から成っているが、「シテ」(cite〉はシトワイヤンから成っている、と書かれています。「シテ」と申しますのは、ポリスとかキウィタスに相当するフランス語でありまして、具体的な都市とか都市居住民に対し、シテとかシトワイヤンが理念的な言葉であることを、はっきりいい表しております。
…フランス革命のさなかに国民議会が発した「人間と市民の諸権利に関する宣言」は、近代市民社会理念を高く掲げたものとして名高いものですが、このタイトルに使用されている「市民」は、シトワイヤンであってブルジョアではありません。すなわちそれは、都市民・農民の別なく「現実の封建的諸制約から自由な、共通の新しい価値意識、政治理念を主体的に共有する人々すべて」を対象としております。具体的にそれは、フランス国民そのものを指しておりました。理念をもたぬ現実肯定主義を特性とする日本の場合、「プルジョワ」は存在しても「シトワイヤン」は本来的に欠如していたといえると思います。


シナプス可塑性(38)
 シナプスを通じての情報伝達効率が変化すること。可塑性のあるシナプスによってニューロンをつないでいくと、記憶等の高次の機能を持った神経回路ができると考えられる。

シナプス伝達(37)
 神経細胞間の情報伝達は、ニューロコンピュータで模倣されるような微少な電気的信号の移動だけではなく、化学物質の伝達が重要な役割を果たす。前者は神経刺激と呼ばれ軸索を電位差として伝達されるが、神経終端のシナプスボタンは、わずかな隙間を介して他の細胞面と接するシナプス結合をしており、ここでシナプス伝達と呼ぶ化学物質の移動が発生する。神経刺激が終端に達すると、シナプス前膜に多数の小孔があき、ここからシナプス小胞の化学物質が雨のように降り注ぐ。相手側には、特定の物質を受容する受容体があり、特定の化学物質の表面凹凸と一致することで、この化学物質が担っている情報が伝達される。

指南(334)
 戦国時代に中国で発明された羅針盤は「指南」と呼ばれ、銅盤の上にスプーンの形をした磁勺を置いたものであった。イギリスのギルバート(1544-1603)は「磁石について」を著し、地球全体が磁石であるというモデルを示した。

死に臨んだ者への洗礼(454)
 「死に臨んだ未信者に洗礼を授けるときに、教えられればならぬことが三箇条あります。霊魂の不滅と死後の審判、そして十字架につけられて罪を贖いたもう最も重要な天主のペルソナ。そして己の生涯の罪を心より悔悟することです。罪の許しをうるかどうかは、なにびとにも……。」「そんなことを聞いているのではない」「しかし、たとえ完全な告白がなしえなくとも、」「終油によって、病人は、その目、耳、鼻、口、手、足に十字架を印され、クリスト者として、その霊魂は天国への道に旅立ちました。」

シニフィアン(289)
 ソシュールの言っていることは、基本的にはとても簡単なことです。「記号・言語は"→"(矢印)の機能を持っている」ということです。「本」という言葉は"本"を指し示す矢印であって、「本の実体」を問題にすることはできない。私達はその「矢印」しか認識できません。この矢印のことを「シニフィアン(指し示すもの=記号表現)と呼び、矢印が指し示している方向を「シニフィエ(指し示されるもの=記号対象)、そしてこの矢印の機能全体を称して「シーニュ(記号)」と呼ぶ訳です。

死の恐怖(486)
 初心者と同様に、剣の達人は恐れを知らない。しかし初心者と違って彼は、恐怖をもたらすものには一日一日と近よれなくなる。長年にわたるたゆまぬ瞑想によって彼は、生と死とが根本において同一であり、同じ運命の地平に所属していることを体得したのである。そこで彼はもはや、生の不安や死の恐怖が何であるかを知らない。彼は喜んでこの世に生きる−−そしてこのことは禅にとってとりわけ特徴的である−−しかしいつでも、死についての思想によって迷わされることなしに、この世から別れる覚悟ができているのである。

死の局部化(161)
 ドイツのガイレンは「従来の死は人間のある部分だけでなく全部が死滅することを意味していたのに対して、脳死は脳という中枢的ではあるが肉体の一部にすぎない臓器の死滅をもって個体の死と判断する」とした。すなわち、脳死とは、脳以外の全ては生存の可能性があることになる。 

死の距離の自乗に反比例(483)
 たった一点の光明が後ろのほうに、生活の曙の時期に見えているだけで、あとはしだいしだいに暗くなり、しかもその速度がしだいに早くなるのであった。「死の距離の自乗に反比例している」とイワン・イリッチは考えた。…いや増しに増してゆく苦痛の連続である生命は、しだいしだいに速力を増して、最後の点へ−−最も恐ろしい苦痛へ落ちていく。「おれは落ちているのだ」

シノドント(157)
 モンゴロイドは南北でその形態的特質が異なる。その歯列から見た分類がスンダドント(スンダ型歯列)とシノドント(中国型歯列)である。前歯の裏側が凹んでいるシャベル型切歯はシノドントの特徴である。

死のパノラマ(536)
平安時代初期の…景戒は薬師寺の下級の僧であった。そして『日本霊異記』という、わが国で最初の仏教説話集を編集したことで知られている。その説話集の末尾のところに、かれは自分の夢体験をさりげなく挿入しているのである。
…みると自分が死んで、薪が積まれ、そのうえにおかれた自分のからだが焼かれている。目をこらすと、焼かれている死体のそばに景戒自身の「魂神(たましい)」が立っているではないか。ところが、死体はなかなか思うように焼けない。ついに自分の「魂神」がみずから小枝をとって、焼かれているからだを突ついたり反転させると、脚、膝、頭なEが火につつまれ、切れ切れになって崩れ落ちた。
 自分のからだから遊離した魂は一定の高みにあって、自分の死のパノラマを鳥瞰していたのである。とすれば、そこに一種の生の浮揚感と死の崩壊感が、交替してかれの意識にあらわれていたと考えられるであろう。


死の理解(490)小川圭治
 「キルケゴールの死の理解」を読み、「死に至る病』の中より次の引用に感激し、実存的に生きんとの熱意をもつ。己を精神として知らないところの、神の前に自己を人格的に精神として知らないところの凡ゆる人間的実存、自己を自覚的に神に基づけることなしに、ただぼんやりとある抽象的な普遍者のなかに安住し乃至は没入し去って、そして自己に関しての自覚もなしに自己の才能をただ活動への力として受けとって、それが深い意味において何処から与へられたものであるかをも意識してゐないやうな、また内面的に理解さるべきところの自分の自己をただ不可解な或物として受けとってゐるやうな凡ゆる人間的実存、すべてかかる実存は、よしそれが何を〈よし最も驚嘆に値することを〉実現しようとも、よしそれが何を(よし全存在を〉解明しようとも、よしそれが自分の生活を美的に如何に強烈に享受しようとも、それは結局絶望である。

シノワズリ(228)p.151
 中国趣味。主としてヨーロッパにおける磁器ブームによって、そこに描かれたエキゾチックな混交したイメージへの嗜好。

縛られた巨人(462)
 写真で見る南方熊楠は、風貌魁偉である。眼光は鋭いが、同時に、ふしぎなやさしさをたたえている。南方の死後、かつて南方のほうから絶交状を送ったいきさつがあったにもかかわらず、柳田国男は、「日本民族の可能性、つまりポシビリティというものをよく実現しておられる」、と南方を最大級の讃辞をもって評価した。
 南方が、家庭の事情および日本の社会の偏狭さによって、十分にその才能を伸ばしきれなかったことを、柳田は愛惜した。そして、南方が、「巨人が縛られたような状態の苦しみ」にあったであろうと推量した。これをうけて、谷川健一は、『南方熊楠全集」第八巻の「解説」を、「「縛られた巨人のまなざし」と題した。


死は私と関係ない(479)
 「私の世界」が客観的世界を破壊することができなくとも(それはできない)それを相対化し、それと対等の地位を占めれば、ひとまずそれでいいということである。世界の側からは、なるほど私は「死ぬ」であろう。…しかし、同じ資格で私の側から語る言葉があるとすれば、いまのところ現実的には見いだせないにしても、可能的にはその言葉において徹頭徹尾「私の内から」語れるはずであろう。客観的世界の側から、私は「逝って(行って)しまった」のなら、私の側からも客観的世界は「行ってしまった」のである。客観的世界の側から、私は「亡くなった(無くなった)」のであれば、私の側からも客観的世界は「無くなった」のである。どちらが優位に立っこともないのだから、世界にとって私は「無」としてあるとすれば、私にとって世界は「無」としてあるのだ。
 とすると、有名なエピクロスの「死は私と関係がない」という論法も、単なる毘理屈ではなく、見直す価値があるように思われてくる。「死はもろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもない。なぜかと言えば、われわれが存在するかぎり、死は現に存在せず、死が現に存在するときには、われわれは存在しないからである」(『エピクロス 教説と手紙』岩波文庫、出隆・岩崎允胤訳。但し、表記・表現は適当に変えた)


私秘的人間(290)
 おたくのこと。個人の意識と社会構造がアイデンティティという媒介項で結合できなくなると、個人はしだいに自分だけの私的な世界に引きこもり、私的世界の充実感のみを追求するようになる。…ホッブズは個々人が私的欲望の充足を求めて闘争しあうことから生じるアナーキーを避ける手段として、公的機関と権力を要請したのであるが、現代の私秘的人間たちは私的欲望を社会に拡大しようなどと思っていない。彼らは公的社会から撤退しているのである。…私秘化の問題点は私生活そのものにあるのではなく、公的領域が私的生活をカバーできなくなったことにあるのである。

シブリーとウォーカーの30年仮説(268)P.191
 彼らが言うには、「深刻な観察というよりは議論のポイントとして、」ディー橋、テイ橋、ケベック橋、タコマ海峡橋の崩壊は、ほぼ30年間隔で起こった。…30年の間隔というのは、「ある世代の技術者と次の世代の技術者コミュニケーション・ギャップ」を示すものかもしれない…。

自分原因説(317)
 「自分の都合で仕事をするな」「原因を自分に求めてみよ」「改善はお客さまに近いところからやれ「お客さまのための真偽を疑え」「やりやすさを優先するな」
 …しかし、本当は自分こそが知恵を絞るべきだし、身の回りのやれることから変えていくのが正しい仕事のやり方だ。変わるのがいやな人ほど相手に変化を要求するが、自分が変わるからこそ、相手も変わることができるのである。


自分自身への旅(533)
 ブレンナー峠を駆けのぼり駆けくだってイタリアに旅した北方の詩人ゲーテも、風土だけでなく自分自身の内側にあるドイツ的な精神の日ごろの暗欝さや重苦しさをそっと肩からおろし、明るい澄んだ南の光の明るさのもとでほっと息をつこうとした。自分の中の大きな暗い魂の秘密のようなものを、明確な形のあるものに刻み、造形し、明るい陽光のもとに置いてはじめて救われるのを感じたのだった。
 人は旅をして、多くのよろこびや悲しみ、迷いや惑い、あるいは新鮮な発見の歓喜という足跡を自分の中に積み重ねていく。その積み重ねの中から、忍耐をもって自分自身が立ち現われてくるのを待つ以外はない。人生とは自分自身への旅なのである。内面の促しに正直に従いつつ、まったく異質なものに虚心に触れる経験によって、私たちは自分自身が何者であるかを次第に時間をかけて知らされていく。異質なものとの出会いを経験することなしには、私たちは自己を発見し認識することができない。

自分づくり(317)
 トヨタには「モノづくりは人づくり」という言葉がある。人づくりは「自分づくり」である。社員ひとりひとりが自分をどうつくり、育てあげていくかが、企業の命綱なのである。…人は資格によって成長するのではない。仕事を通して成長するのだ。

自分の罪ではない(521)
 みずから望まない人々によって遂行された、あの恐ろしい殺人を見た瞬間から、ピエールの心中においていっさいのものを支え、それに生命を与えていたばねが急に引き抜かれて、すべてが一つの無意味な塵芥の塊りに化したように思われた。彼自身、明瞭に意識こそしなかったけれど、この世界の安寧、人間および自己の魂、神−−こういうものに対する信仰が、彼の心中から消え失せたのである。以前こういった種類の疑惑に襲われた時、この疑惑の源をなしていたのは彼自身の罪であった。そういう場合、彼はその絶望や疑惑の救いが、自分自身の内部にあることを心の奥底で感じていた。けれど今は世界が眼の前で崩壊して、ただ無意味な廃墟が残っているのみにすぎない。しかもその原因は自分の罪でないことを感じた、もはや生に対する信仰を回復することは、自分のカに及ばないと直覚したのである。

自分より優れた人物がいる(558)
 艦長はウォーカーという名のスコットランド人で、骨の髄まで闘士だった。痩せていて、神経質だが、事態が急を告げ始めても、常に謹厳に上機嫌を保った。このウォーカーと第一士官のベイズリーは、簡潔と正確の見本のような存在だった。ほかの人間がお茶、ラム、煙草、またはよき言葉によって生きているように、ふたりは迅速さによって生きていた。簡潔さによってかなりの時間を節約しているにもかかわらず、ふたりともそのうえ早口で話そうとまでした。ジョンはふたりの恰好の生賛だった。
 自分より優れた人間がいることを、ジョンはとうに知っていた。自分の職業を完全に把握していたからだ。迅速な行動ができないので、機転の利く友人がいなければ困難に陥る。だが突然、そういった友人たちが現れた。
 「ミスター・ウォレン、当直が全員そろっているかを確かめてくれ。君のほうが速い!」士官候補生ウォレンは、自分のほうが速くできる仕事をし、満足のいく結果を残した。「フランクリンが以前より楽になったわけじゃない」とウォーカー艦長が吐き捨てるように言った。「だが、突然なんでもうまく行くようになった。自分にできることと、できないことがわかっているんだ。仕事の半分はそれで完了も同然だ」


自分を疑う(564)太宰
 自分には、禍いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が背負ったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまうほどの、凄惨な阿鼻地獄なのかもしれない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか?エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか。それなら、楽だ、しかし…

シベリア天皇(352)
 (訪ソ議員団の収容所視察に対して)…尾崎清正元中尉が立ち上がり、自分たちの救出のために国論国策を曲げることは断じて避けて頂きたいこと、われわれは祖国のためなら甘んじてシベリアの土となる決意であることを表明した。これに続いて数人が心境を吐露したが、突然、かつて「シベリア天皇」といわれ「民主運動」の最高指導者として君臨していたが、ソ連軍政治部と内務省(国家保安省)との派閥抗争のあおりを食った形で戦犯とされ、この収容所にいた浅原正基が立ち上がって、「私は、いままでの諸君とはいささかその所信を異とする……」と発言しようとした。浅原のひきいる二十数人のソ連党史研究グループは、ソ連側から特別の一室を与えられ、他の収容者の動向をソ連側に通報しているとして「犬」呼ばわりされており、この日のサボタージュ運動にも彼等だけは参加していなかった。そのためたちまち大勢の収容者からの怒号と野次を浴びた。

指方立相(542)
 ここでは善導の浄土観として有名な指方立相について少し紹介してみよう。指方立相というのは、浄土が西方の方角にあることを指し示し、具体的な様相をもって成立していることをいうが、善導は第八像観の項で、このように説明している。「また今この観門等は、ただ方を指し相を立てて(指方立相)、心を住して境を取らしむ。総じて無相離念を明かさざるなり。如来ははるかに、末代罪濁の凡夫の、相を立てて心を住すともなお得ること能わざるを知りたもう。いかにいわんや相を離れて事を求むるは、術通なき人の、空に居て舎を立てんがごときなり」
 善導によると、定善十三観の対象である浄土は西方に位置する有形的・具体的な世界であって、摂論学派や禅宗系など当時の仏教界一般で考えられていた無形的・唯心的な世界ではない。末代の凡夫は煩悩におおわれていて、形を立てて観想することさえむずかしいのであるから、まして形を離れて具体的な観想を行なうことができるはずはない。このことを仏ははるか昔より知っておられ、あえて西方という方角を指示して、形ある浄土のすがたを示されたのである。


資本主義の精神(290)
ウェーバーの研究は、なぜ西欧にのみ資本主義が生れたかという関心に基づき、その起源をカルヴィニズムに求めた。カルヴィンの予定説では、教会は救済を保証してくれない。そこで神の望む労働に専念し、無駄のない合理的で禁欲的な生活をすることで救いを求めた。このような禁欲的な生活態度は、誰も意図しなかった結果をもたらした。…ところが働いて得た利益で贅沢な生活をすることは許されない。唯一許されているのが利益の有効利用であり、それは利潤を新たな生産のためにつかうこと、つまり投資していくことである。救いの確信を得たいという動機から生じた禁欲的な生活態度は、皮肉にも利潤を合理的に追求する資本主義の精神を生んだのである。

(281)
現実界と異界の境界をなすのが「海」というのが、ケルトの民における異界観の基本構図である。海から「島」というメルクマールが生まれる。ケルトの航海譚では海上に散在する島々が、それぞれ独立した異界となるわけだが、…また霧によって隠された世界が突如あらわれて異界となることもある。
…海に関してとりわけ私の関心を惹いたのは「岩」だった。岩はケルト語で(スケリグ)と呼ぶ。…大スケリグ島から見た小スケリグ島は島というより文字通り「岩」なのだ。


島と山(311)
宗教のほかに、封建制度が山岳地帯では実現しなかったこと、一方で敵討ちや盗みを正当化するような社会的な古さが残存することが山の文明の特徴であるが、これは海によって大陸と隔たっている島についても同様である。山や島は、大きな文明の流れにとっては障害であると同時に、「避難所、つまり自由な人間のための国」でもある。

島安次郎(128)
新幹線を開発した国鉄技師長、若き設計者時代にはD51を設計した島秀雄の父。明治以降の日本鉄道の神様と称される。父が企画し、その設計に参加した戦前の弾丸列車計画を戦後、今度は子の秀雄が新幹線として完成させる。親子二代の執念の結果であるが、戦時中の強制収用に近い用地買上げによって、用地確保が容易だったり、戦前に新丹名トンネルや日本坂トンネルが掘削されており、これを利用することができた。
 
シマラウン(112)
マテ茶のブラジルにおける社交儀礼的風習的飲み方。マテはある潅木の小枝を焙じてから粉末にしたもの。まるで一つの森全部が幾滴かの液に凝縮されてでもいるようだ。

シムコム(484)
 最近人気の手話サークルや講習会では、その多くが日本語の語順に従って手話単語を並べたものを使っている。これは、「日本語対応手話」や「シムコム(simultaneous-Communication)」と呼ばれている。シムコムは、音声言語と手話を同時に使うための方法であり、日本語を獲得した後で、病気や事故のために聴力を失った人(中途失聴者)や難聴者に適したコミュニケーションの手段の一つである。日本語を母語とする人は、シムコムを音声言語に置き換えて理解できるからである。
…シムコムは、単語としては日本手話と共通のものを使っているわけだが、日本手話の文法を使っていないので、語順の違いに注意が必要である。例えば、「きれいな文字を書く」を日本手話では「書く」+「美しい」と表すのが普通で、語順が逆になる。ネイティブ・サイナーにとって、シムコムを見て理解するのは難しいことなのである。日本語の文を、英語の語順にして聞かされたことを想像していただきたい。
…シムコムは自然言語ではないのだ。一方、日本手話はすでに説明したように自然言語である。だから、ろう者の使う日本手話と、中途失聴者の使うシムコムは、全く違う言葉なのである。この二つを無理にまとめて「手話」と呼ぶことは、大きな誤解を生みやすい。…それから…テレピでよく見かける手話の放送は、日本手話とは似ても似つかない一方で、シムコムとも違った「人工言語」であることが多い。これは、ろう者と中途失聴者の両方に理解できるように、日本手話とシムコムの折衷案として工夫されたためである


シモニア(560)
 世俗権力の教会支配は、聖職者任命権に集中的にあらわれます。しかも、この任命はけっして無償ではない。任命を受けるものは金銭土地、権利など要するに有償でその位を買いとるのでありまして、これがシモニアと申します。これをなぜシモニア(聖職売買)というかといえば、それは聖書の使徒行伝の…中にみえる記述によりますと、ペテロは、彼がやってくるまで洗礼は受けたがまだ聖霊をさずかっていなかった人々のために、手をその頭に伸べること、つまり按手の儀礼によって聖霊を彼らに伝えた。それをそばでみていた魔術師シモンという男がおどろきまして、どうか自分にも聖霊を授ける力を与えてほしいと懇願してお金を出しました。ここが聖書の記述のちょっと不自然な点ですが、ていねいにお願いしているシモンに対し、ペテロは大変に立腹し、お前のお金はお前といっしょに地獄へ行ってしまえといってそれを斥けたという話なのです。

シモン・マグス(187)
あらゆる異端の父。マグスとは魔術である。魔術師シモンである。使徒行伝では聖霊を受ける力を金で買おうとした最初の男として貶められ、使徒ペテロの叱責を受け、反抗しグノーシスの生みの親になったとされる人物。贖罪による救済ではなく、世界は悪であり、その世界の一部である身体と魂に閉じ込められている神的部分、霊こそが本来の救われるべき自己であり、救済とはこの霊が神に回帰することだと説く。

社会学は心理学の系ではない(506)
 社会的事実が個人の意識の外部に存在しているものであり、個人が欲すると否とにかかわらず、それは命令と強制の力を個人に対して行使する、と考えるデュルケームは、そのような個人レベルでの説明を受けいれない。
 もし社会が一定の目的をめざしている人びとによって設定された手段のシステムにすぎないものであるならば、その目的は個人的なものでしかあり得ない。なぜなら、社会に先行して存在し得るのは個人のみであるから。それゆえ、社会の形成を決定した観念や欲求は個人のみから発することになり、そしてもしすべては個人からのみくるのだとすれば、すべては必然的に個人によって説明されねばならないことになる。
しかし、このような方法を社会学的諸現象に適用しようとすれば、それらを歪めることにならざるをえない。このことを証明するためには、われわれがすでに与えたこれについての定義を参照するだけで十分である。社会学的諸現象の本質的特性は、個人意識に対して外側から圧力を行使する力にあるのであるから、それは個人意識から派生することはなく、従って社会学は心理学の系ではない、ということになる。


社会契約(35)

社会ダーウィニズム(253)
人間社会に生物進化論を適用した理論は社会ダーウィニズムと呼ばれる。ダーウィンと同時期のビクトリア朝時代に活躍した社会学者ハーバートが提唱したもので、社会的に不適応な人間は淘汰されていくというものである。その後の優生学隆盛の素地を作った。

社会ダーウィニズム(553)
 もともとダーウィンの自然選択説は、経済学における概念を生物界に流用したものでしたが、ダーウィン自身は、今からみても驚くほど厳格に、対象を自然科学の範疇のものに絞りました。むしろ経済学からの流用であることをよく承知していたからこそ、対象を自然科学にのみ限定したというのがダーウィンの本当の意図だったのだろうと思いますが、彼のこの禁欲主義と、何が科学であり何が科学ではないかという基準は、全く現代のわれわれのものと同じです。ふつう百年もの隔りがあれば余裕を持って客体化できるのですが、ダーウィンとなると、われわれとの距離感が突然なくなってしまう。なぜ彼一人だけがこのような現代的規範を持てたのかは、未解明の大きな謎だと思います。
 しかしダーウィンに相前後する他の進化論者はそろって、人間社会と生物界をいっしょにした説明原理として進化論を考えていました。これらの一群の思想が社会ダーウィニズムもしくは社会進化論だったのですが、これらの思想の出現には、進化論の歴史的な役回りに由来するもっと本質的な構造的理由があります。どうもわれわれは、進化論の歴史を正しい科学を啓蒙する側からしか、みてこなかったようです。進化論は、中世的キリスト教的迷妄を一歩一歩打破してきた近代科学の最終的勝利だと、われわれは教えられてきました。確かにそうには違いないのですが、裏側からみると、それゆえにこそ当時の西欧人の陥った精神的混乱はきわめて深刻でした。
 第1に、進化論は、キリスト教教理の正しさを示す神による生物の創造という最大の根拠を奪い去ってしまったうえ、その内に人間の生物起源説を併せ持っていました。加えて、当時の人たちにとって、進化論の受容は、単に新しい科学理論を承認するしないの問題ではありませんでした。キリスト教教理の否定は、即、キリスト教信仰と同時に与えられていた帰依するに足る世界解釈、これを基盤にした社会観や日常のこまごまとした規律の崩壊を意味しました。このような中で先鋭的な知識人たちは、宗教的な迷妄を打破した自然科学こそ、これに代る合理的な新しい生活規範の根拠を提出してくれるものと確信しました。かくして、進化論啓蒙運動は、まもなく科学的根拠にのみ立脚した生活改善運動を生み出していきます。その目標は教育改革に始まり、婦人解放であったり、社会政策であったり、優生学であったりしました。このように19世紀後半から20世紀初頭にかけては自然科学が西欧の価値体系の中で非常に高い地位に上りつめました。これこそ社会ダーウィニズムが大流行した根本原因なのです。
 そしてこれには大きく分けて二つの流れがありました。英語文化圏なかでもアメリカで流行した社会進化論は、スペンサー主義に強く影響されていました。とくにアメリカではスペンサーが大流行しました。彼に従えば、社会の進歩は必然です。それは生物進化と同型の理論と原因によって不可避的に進行するものであり、きわめて楽天的な進歩史観でした。
 一方、ドイツの社会進化論は、英米系とはややちがうあらわれかたをしました。生存競争こそほんらいの状態なのに、文明が発達すると、これがおこなわれなくなるというのです。文明社会ではヒューマニズムとか福祉とかいった観念が先行し、ほんとうなら淘汰されるはずの劣悪個体が、温存され、自然選択が機能しなくなって、結局は社会すべてが悪くなってしまうという考え方が強く、英米系にくらべると悲観的で危機感が濃厚といえます。へyケルはこれの代表でした。スペンサーの影響が強いアメリカなどでは、進化すなわち進歩と考えられたのにたいし、ドイツでは退化とか絶滅とかいったことに、比重がかけられました。なぜドイツでそんな思想が優勢になったのかはよくわかりませんが、とにかくスペンサー主義はドイツでは稀薄でした。ドイツ流の解釈にたてば、自然選択を計画的に推進する考えが前面に出、ナチスの政策とつながってくるわけです。

社会的時間(311)ブローデル
ブローデルは「長期持続」という挑発的な論文で次のように述べている。「社会的現実の核心において、瞬間とゆっくり流れる時間との間で果てしなく繰り返される生き生きとした内面的な対立ほど重要なものはない。問題が過去であれ現在であれ、社会的時間が持つこの複数性についての明確な意識は、人間科学に共通する方法論に不可欠なのである」

社会を動かす要因(492)
 新古典派は労働市場が社会の生産の水準を決定する戦略的市場であり、労働市場が均衡するかどうか、つまり完全雇用になるかどうか、それが生産の水準を一切支配すると、労働市場を社会の均衡水準の戦略的要因として描くのが新古典派体系である。だがこれに対してケインズは逆に、社会の経済水準を決定する戦略的市場は財の生産市場であると考え、そこで決まったもの、その水準に従属的に雇用量が決まるとする。働きたいという人間がそれよりオーバーしている場合には、その差が失業者になる、という考えである。
 社会を動かす戦略的要因が財市場にあるか、それとも労働市場にあるか、これが両者を分けるものであり、財市場にあると考えるケインズは、…利潤極大を求めて行動する企業家の行動が、経済均衡の中枢にあると考えることによって、ここに資本主義社会の特徴は、財市場の均衡が労働市場を従属させていると見る資本主義的認識に立つケインズか、それとも労働市場というものが生産の水準を決定する社会か、…これを資本主義以前の社会、つまり自分で土地をもち自分で働く独立自営農民的社会を前提するのかという具合に、…とらえているけれども、ここに経済に対するケインズと新古典派とのビジョンの違いがある。


ジャカード織機(164)
905年マリー・ジャカードが発明したパンチカード式模様織り織機。バベッジはこの織機から、倉庫(ストア)と製粉機(ミル)という現代コンピュータの基礎概念である記憶装置と処理装置を発想し、解析エンジンを構想する。 

釈迦の子ラーフラ(380)
 父王は、王子シッダールタがとかく思索にふけり、その心中に出家の意図のあるのを知って、十六歳のときにヤショーダラー妃を迎えて結婚させた。アジャンター第1窟内の壁画には、その歓楽のありさまがまざまざと描かれている。妃とかたらうシッダールタのきれながの瞳が妖しく情欲に燃えて光り、口唇が官能美を暗示する。…シッダールタはヤショーダラー妃とのあいだに一子「ラーフラ」をもうけた。しかし、このようなことも、ついに彼をつなぎとめることはできなかった。彼は王宮を出て出家した。二十九歳であった。

釈迦の国籍争い(380)
 シャーキヤ族がコーサラ国に従属していたことは、仏典の文句から知られる。…シャーキヤ族の本拠はカピラ城であったが、従来、カピラ城はネパール領内のチラウラコットとする説、あるいは(これもネパールの)ルンビニー園(釈迦の生誕地)付近とする説など、意見がわかれていた。…インド政府の考古学局は、国境に近い地域の発掘をつづけてきたが、ついにその所在をつきとめ、それは(ある)寒村である、と発表した…。この発表に対してネパール政府考古学局の学者は、「とんでもないデタラメだ」と反論している。 こうして、釈尊の国籍争いについて、二つの国家が対立するにいたった…。

釈迦の臨終(380)
 プッダはラージャグリハの「鷲の峰」を出て、生まれ故郷へと旅立った。そして、ネパールとの国境に近いクシナーラーというところで、80歳で死んだのである…。彼は信者である鍛冶工チュンダのささげたきのこの料理に中毒して下痢を起こしたと伝えられている。病み衰えたゴータマは、クシナーラーへの苦しい歩行をつづけながら、愛弟子アーナンダをかえりみて、あえぎあえぎいった。「アーナンダよ、この木陰に衣をたたんで敷いてくれ、わたしは疲れた。アーナンダよ、水を一杯汲んできてくれ、わたしはのどがかわいてたまらない」…しめやかな愛情と親和感にみちた臨終であった。

ジャコバイト運動(118)
17世紀スコットランドでの捩れた政治宗教運動。フランスに亡命したジェームス7世がスコットランドのカトリック化をめざした運動。この王の名にちなんでジャコバイトといわれるが、意味が分からない。

ジャコバン・クラブ(523)
 無邪気な連盟、友愛の感情の盲目な躍動のうちに、敵も味方もごちゃまぜにしたような連盟ではだめだ。そんなものが、この窮地からわれわれを救いだしてくれるだろうなどと思ってはならない。 まったく別の力に満ちた組織が必要だ。ジャコパン・クラブが必要だった。ジャコパン派は革命そのものではないが、革命の目だ。監視する目、告発する口、打撃を加える腕だ。ジャコパン・クラブはかくて、反革命の陰謀から革命を救い、公安を維持するという最緊急の必要の産物であった。ヴェルサイユでのブルトン・クラブが89年10月、パリに移って、議会近くのサン・トノレ街のジャコパン派修道院の建物を集会所にきめたのがクラブの名の由来である。この当時、メンパーは四百、リーダーは3人、デュポールが考え、パルナーヴが言い、ラメットが行なう、と言いはやされた。一般のよび名は三頭派、ミラポーはこれを三人やくざとよんだ。
…そしてロベスピエールが台頭しつつあった。彼は議会内では急進的にすぎて、嘲笑とともに無視されている。ただひとりミラポーは言った、「この男は遠くまで行くぞ、なにしろ自分の言うことをみな信じているからな」と。
 

写真家四十八宣(314)
 しゃしんをうつすひとよんじゅうはちよろし。安井仲治が1940年、光芒亭主人を称して「丹平写真倶楽部会報」に掲載した、まさに写真旦那と呼ばれる相応しい警句的いろは歌留多。
[い]いっそスラムプは大いなるがよろし。[ろ]ろくでもないもの感心せぬがよろし。[は]ハツと感じたら写すがよろし。[に]ニツコリ微笑む自信はよろし。[ほ]ほんんとに自分を生かすがよろし。[へ]下手な上手、上手な下手、どちらがよろし。[と]撮れぬものは撮らぬがわろし。[ち]チクリと痛い批評はよろし。[り]理屈倒れも時にはよろし。……[す]まで続き、最後は[京]きようの写真より明日の写真よろし。で終わる。


写真特性曲線(100)
感光材の露光量をEとしてIogEを横軸、写真濃度Dを縦軸に取った曲線。一次の直線領域が、比例部分でこれをラテイチュードと呼ぶ。直線の傾きのtanγをガンマと呼ぶ。ガンマの大きいものを硬調と呼び、明暗の差に比して、大きい濃度差が得られる。 

写真の普及(403)
 ナダールはオペラ座に近いキャブシーヌ大通りにスタジオを設けて、多くの芸術家の肖像を撮影した。同時に彼のスタジオの二階では、1874年に、誕生したばかりの印象派の最初の展覧会が開催されたことでも知られている。
 写真が普及の兆しをみせると、危機感をもったアングルやビュヴィ・ド・シャヴァンヌなど20人ほどの画家が、絵画芸術を写真から護るように国家の保護を求める宣言に署名した。その一方で、印象派の画家ドガはカメラを持ち歩いて、彼のモチーフのひとつである踊り子たちや仲間の姿を写した。そんな一点がベルト・モリゾの客間で、鏡の前で談笑するルノワールと詩人のステファヌ・マラルメを撮影した写真である。鏡にはマラルメ夫人と娘のジュヌヴィエーヴ、それに室内を照らすためのトーチも写っている。


シャトー・オー・ブリアン(49)
グラーブなのに1855年のメドック格付けに例外的に一級に選ばれた。ナポレオン一世の外相タレイランがシャトーのオーナーであったとき、ウイーン会議にこれを持ち込み接待の限りをつくした。フランスを救ったワイン。
 
娑婆即寂光土(161)
「厭離穢土・欣求浄土(えんりえど・ごんぐじょうど)」に対立する概念。穢れ多い現世から死後に美しい浄土に生まれることをこい願う浄土門に対して、この苦しみに満ちた世界にこそ寂光(聖なる輝き)に満ちた浄土を発見すべきだという道元を代表とする聖道門の思想。

シャムロック(281)
 シャムロックはアイルランドの国花で、クローバーの一種であり、わが国ではコメツブツメクサと呼ばれるようだ。シャムロックはアイルランドに住むケルト人の民族意識のシンボルであった。すでにキリスト教伝来以前にドルイド僧の間でも、聖なる植物として崇拝された。聖パトリックとの関わりについては、この植物の葉が三枚あるのを利用して三位一体を説くのに用いたとされることに由来する。…また聖パトリックはシャムロックの葉に似た十字架で蛇を殺したとされることから、この聖人と蛇との関係が生まれた。

■シャラーシカ
(421)
 アメリカで彼(テルミン)は結婚し、五十四番街に六階建のビルを買った。その後彼はモスクワに呼びもどされた。もう1938年は終わろうとしていた。内務人民委員部には昔の彼の知人はもう一人もいなかった。彼は他の国外諜報指導者たちと同様に告訴された。…彼は、もちろんテルミンの才能と仕事を忘れなかった。だからまもなくテルミンはラーゲリから「シャラーシカ」(学者・技師収容所)に呼びもどされた。これは大指導者の驚くべき考案で、逮捕された学者たちが働く秘密研究所である。ここで彼は同じく囚人の偉大なコロレフや有名なツポレフと共に無線操縦の無人飛行機を開発した。次いでテルミンは別な「シャラーシカ」に移され、そこで彼は遠隔盗聴のユニークなシステムを開発している。このシステムは「ブラン」(雪嵐)と名付けられた。この「ブラン」発明のために囚人の彼にスターリン賞が授与された。スターリン時代の生活。名誉から監獄へ、そして監獄から名誉へ、自由へ、畳の生活へ。こうして神人の慈愛によって、1947年、モスクワにスターリン賞受賞者レフ‥アルミンが現われたわけである。

■シャリーア
(209)p.33
イスラム聖法。国家の法よりも超越的なコーランに基づく法。国家が政教分離していないと、政治をシャリーアに基づいて行う。オスマン・トルコ最後の皇帝となるアブドュル・ハミット二世の治世にあっても、蒸気軍艦は合法とされたが、電気はハラム(聖法違反)とされたし、株式会社や銀行もハラムとされた。

シャルガフのパズル(407)
動物、植物、微生物、どのような起源のDNAであっても、あるいはどのようなDNAの一部分であっても、その構成を分析してみると、四つの文字のうち、AとT、CとGの含有量は等しい。(ヒント:ラダー構造)

シャルル5世の常備軍(494)
 もはや封建軍ではない。貴族の召集や諸都市からの民兵も適時利用したが、それは兵力の水増しとして用いられたにすぎない。傭兵隊というわけでもない。かねて有給制の軍隊には、休戦期に盗賊化する難があった。それなら解雇しなければよいと、シャルル五世は
常雇いにした。全軍の核となるべき精鋭として、2千4百人の重装騎兵、6百人の弩騎兵、4百人の弩歩兵、総勢3千4百人だけは解雇しなかったのだ。いいかえれば、常備軍の創設に踏みこんだ。それまでは親衛隊や前線要塞の守備隊など、ほんの一部しか常雇いにされていなかった。いうまでもなく維持費が莫大に−なるからだが、そこは「税金の父」なのだ。先の財政改革が常備軍の創設を可能としていた。


シャルルマーニュ(265)p.18
神聖ローマ帝国の創設者カール大帝はフランスではシャルルマーニュと呼ばれる。なぜフランス語ではシャルルマヘニュという妙に長い長い名前がついているかというと、カルロス・マグヌス、すなわち「大カール」というラテン語表記に由来するからである。

砂利(97)
フランス語でグラーブは砂利を意味する。だからグラーブのワインを砂利臭いという者さえいる。グラーブの畑を掘り起こすと、メドックの最上級の畑のようにまるで砂利の採掘場である。

シャーロッテ・ブッフ(496)
 (ゲーテ)をして彼を全世界に有名ならしめた作品を生ませることになるのである。すなわちシャーロッテ(ロッテ〉・ブッフへの彼の恋である。小説『ウェルテル』に書かれているその恋愛は、主人公の自殺ということは別として大筋ではゲーテの現実の体験の告白である。…ロッテはウェツラルの近郊にある「ドイツ騎士団」の領地の管理者を父とし、ゲーテと知り合ったときは19歳だった。ゲーテのほうでは彼女が好きだという自然の気持に従って彼女に近づいていったのであろうが、それを説明的に言おうとすれば、彼女がすでに他の男性に属している以上、彼がどのような愛の表示をしても求婚の意味に受け取られる悟れはないと思っていたということになる。
 ゲーテは、「自分が忍び難いことのために追い弘われる前に、進んで遠ざかろう」と決意し、ロッテとケストネルに別れを告げることなく、短い手紙だけを残してこの地を去る。生涯に何度かくりかえされる彼の逃走であるが…。


ジャンセニズム(6)
カトリックが堕落し金銭や供物への応報が強く説かれることから、プロテスタントが発生したが、カトリック内部からの反作用がジャンセニズムである。ルターの予定説に近い「神が全てをなし、人間は何もなしえない。」救われるか否かは、信仰の深さとは無関係祈らなければならないと教える。
 
シャンゼリゼ(346)
 極楽浄土。

■シャンティニケトン(554)
 理想主義者タゴールは、40歳になった1901年に、シャンティニケトンという全く広漠とした地に、五人の生徒と六人の先生で私の学校を創立し、1911年には、タゴール国際大学へと発展させていった。タゴールが教育に打ち込んだのは、詩人の気紛れの趣味であるという揶揄が、いたるところで起こったが、タゴールにとっては、それは幼いときからの苦い教育体験の教訓から生み出された結論であり、また彼独自の理念と生を結合させる実践哲学の場でもあった。イギリス植民地下で、自治を、独立を求める民族主義運動が澎湃として全インドに起こり、19世紀末から20世紀初頭にかけてベンガルでもその盛り上りは一頂点に達していた。タゴール自身も農村運動や政治的反対運動の先頭に立つこともあったが、やはり、自分の資質に従って、詩作精神の昂揚と宗教的沈潜への誘いのために、運動の最前線から身を引き、インドの人々の足腰を鍛えるための奉仕の仕事としての教育に専念することになる。
…このシャンティニケトンの森の修養道場の学校の理念は、インド古来の「修業の森」の師弟の関係から来ていた。タゴールはこの数年来、ウパニシャッド時代の共同生活的な人格的師弟関係に結ばれた修業と学習を理想と考え、これを現代インドに再現させようとした。


シャンバラ(369)
 シャンバラについてもっとも詳しく書かれた書物といえば、やはり11世紀初頭に制作されたインド密教最後の教典『時輪タントラ』が挙げられるだろう。それによると、神聖なるシャンバラは七つの大陸に囲まれた中央部にある国であるという。しかしシャンバラは雪をいただいた巨大な山脈に守られ、決して人々の目に触れることはない。シャンバラはちょうど、花びらにつつまれた花芯のようなものだ。中央の花芯を囲む8枚の花びらに当たる部分には、それぞれ12の公国がある。つまり周辺の計96の公国が、すべてシャンバラの王に忠誠を誓っているのだ。シャンバラの首都はカラーバといい、そこにはルビーやダイヤやエメラルドなどの宝石で築かれた豪奢な宮殿がそそり立っている。シャンバラの住民は犯罪や貧困や病とは無縁で、みな百歳以上まで生きるというのだ。彼らのなかには、他人の心を読み取る術、未来を予知する術など、特殊な能力を持っている者も多い。…シャンバラとは仏教の教えを説くために作られた空想の理想郷なのではないかという説も出てきた。たとえばシャンバラは、悟りを開いた者にしかその姿が見えないともいう。

縦深陣地(139)
日露戦争以後、まったく技術革新のなかった日本軍の前にノモンハンで現したソ連軍の陣地形式。縦が深い矩形の陣地。内部は火力を充実し、蟻地獄におちた昆虫のように日本軍を殲滅する。アメリカ軍も採用した近代野戦方式。
 
自由(114)デカルト
他のだれについてもわたしを基にして判断する自由、先に人々がわたしに期待させたような学説はこの世に一つもないのだと考える自由をわたしは選びとったのである。

自由ヴァルドルフ学校(363)
 シュタイナーの教育は、教師の自己教育への道であるといえるだろう。この道を根気良く進むものは、次第に子どもたち自身から授業の仕方を学ぶのである。1919年、「自由ヴァルドルフ学校」は設立された。生徒たちは、どの科目にも芸術的にかかわることができた。絵画や歌などが、とくに下級生のクラスでは、授業全体を貫いていた。伝達される知識は知性だけに訴えるのではなく、本当の意味での「教養」( ビルドウルク)として、子どもたちの感情と意志のいとなみに形成的に働きかけるべきであった。子どもたちは喜んで学校に通った。やがて、街全体から生徒を募るようになり、その数は急増した。シュタイナーが亡くなったとき、生徒数は九百名に近かった。父兄の大半は、とくに人智学を支持する人々ではなかった。ヴァルドルフ学枚は、決して何らかの「世界観」を教え込む学校であってはならなかった。

自由ヴァルドルフ学校(526)
 シュタイナーは次のように述べた。いまだに続いている戦争(第一次世界大戦)の原因は、個々の国家の攻撃性にではなく、各国家の中の政治、経済、文化のそれぞれの利益集団が危険なまでに融合していることにある。この政治、経済、文化(精神)という三つの生活領域を独立した「節」として社会を形成しなければならない。そして、その社会は諸民族を分け隔てるのではなく、相互に結びつけるものでなければならない。
…社会三分節化運動はシュトゥットガルトのタバコ工場ヴアルドルフ・アストリアで、非常に大きな反響を呼んだ。そしていま、自分たちの子どものために、新しい人間的な学校教育を求めたのである。工場の経営者エミール・モルトは、そういった彼らの要望に応えた。資本を投入し、学校の建設用地を調達して、教員養成をシュタイナーに依頼したのである。
 子どもの魂や精神としての本質は、生まれる前の世界から、誕生を通してこの地上にやって来る。そのような子どもが物質の世界で自分の足場を正しく見出し、人生にたいして意欲的にかかわれるように手助けすること、それが自分たちの課題だというのである。成長過程にある人間が、地上の世界への困難な道の途上で通過する諸段階には、それぞれ満たされるべき特定の欲求がある、とシュタイナーはいう。彼が来たるべき学校のために提示した授業計画と教授法とは、正しい教育的手段によって、そのような子どもの欲求にできるだけふさわしいかたちで応えようとするものであった。


終戦連絡事務局(559)
 吉田は外相就任直後から外務省の大改革を行っていた。終戦直前、軍部とともにソ連に講和の労をとってもらうよう動いていたセンスのなさに、今のままの外務省ではダメだと痛感し、局部長以上に辞表を書かせて人事を一新した。そのうえで吉田は、昭和20年12月、次郎を白州次郎を終戦連絡事務局参与に任命するのである。大抜擢だった。「戦争に負けて外交に勝った歴史もある。ここからが正念場だからな」
 終戦連絡事務局(終連)とは、政府とGHQの聞の折衝を行うために新設された役所である。自治権を取り上げられ、自主外交も認められなかった当時にあってみれば、この終戦連絡事務局こそがあらゆる役所の中でもっとも重要な権能を担うことになった。そのため設立に当たっては各省から俊秀が集められた。一方、白洲次郎の名は中央ではまったく無名である。


自由と能力
 すべての人間が自由そのものであることは明白である。そして、良識は世の中でもっとも公平に分配されたものである、というあの有名な主張こそは、単に各人がその精神において同一の種子、同一の生得観念、を所有するということを意味するのみならず、「それは、よく判断し真を偽から区別する能力はすべての人間にあって等しいということを示している」のである。
…デカルトは、すでにストア派の哲学者たちがなしたことではあるが、自由と能力との間の大事な区別をしている。自由であるとは、自分の欲することをなしうることではなく、自分のなしうることを欲することである彼はいう。「完全にわれわれの能力のうちにあるものは、われわれの思惟をおいて他には何もありませぬ。」
…かくして、人間は変わり易い限られた能力をもちながら全体的な自由を行使するのである。ここにわれわれは自由の否定的様相を瞥見する。というのは、結局、もし私がしかじかの行動を遂行する能力をもたない場合には、私はそれをなすことを欲するのを差し他えねばならぬからである。


自由の刑(127)サルトル
 ドストエフスキーは「もし神が存在しないとしたら、すべてが許されるだろう」と書いたが、これこそが実存主義の出発点である。いかにも、もし神が存在しないならすべてが許される。したがって人間は孤独である。人間はすがりつくべき可能性を自分のなかにも自分の外にも見出しえないからである。人間は自由の刑に処されていると表現したい。

収穫逓減の法則(492)
 リカード以来の収穫逓減の法則を考えてみよう。横軸に労働量をとり、縦軸に限界生産物をとることにしよう。労働量を一単位投入したとき、生産量はかなりである。だがもう一単位労働量を投入したとき、生産高はそれほどでもない。周知のリカードの土地収穫逓減の法則である。
この場合なぜ同じ土地に労働量を増やしていった場合に、収穫が逓減するかというと、リカードは土地の基本的な性質から自然の恵みはしだいしだいに少なくなっていくのであると考え、土地収穫逓減の法則という具合にこれを呼んだ。


収穫逓増(62)
 近代経済学理論が現実経済活動に一致しないことが多い。それは均衡を前提にしている静的な理論であるからである。それに対してブライアン・アーサーが「持てるものはさらに与えられる」式に進化、変動、組織化を前提として優位企業が一層優位に立つ考え方で、複雑系科学として確立していく。

宗教(294)ロジェ・カイヨワ
 一つの宇宙を真に理解するためには、その最も基本的な要素とその根本的な構造とを、枚挙することができなければなりません。枚挙しえた場合にのみ、この宇宙を理解しえたということができます。宗教は通常これとは逆の原理を選んでいます。すなわち、無限、連続、およびその結果として、一般の単位で計れないもの、とらええないもの、根本的に異質なあるいは超越的なものを選択しています。

宗教国家アメリカ(401)
 米国はピューリタンの移民の時代から、基本的には宗教国家と言ってもいい。欧州でも日本でも、近代化が進むと社会から宗教の影響が薄れて世俗的になってきたが、アメリカはそうではない。世俗化が進んで、宗教的価値が軽んじられているのではないかという危機感が高ずると、波状的に宗教覚醒運動が起きて、社会の根っこにはその倫理がしっかりと再生する。
現在、アメリカでは、9割以上の国民が神の存在を信じていて、無宗教という人はわずか8%しかいない。…欧州のキリスト教国と比べても、アメリカの特殊性は明らかだ。アメリカ人の70%は死後の世界を信じているが、フランス人は35%。…毎朝、全国の多くの児童が学校で唱える「国旗への忠誠の誓い」では、アメリカは「神の下」にある国とされている。…アメリカ独立革命は、イギリス国教会に反感を持ったピューリタンの末裔が、世俗的な啓蒙主著と手を取り合って戦った革命であって、そこに宗教を否定する要素はまったくなかった。


宗教的教養(493)トルストイ
 つまり自分がその中で育てられ、自分の理性はもう久しい以前からそれをいれなくなっているが、それなしでは全生活が不愉快にみたされるし、それをみとめさえすれば、それらの不愉快はすべてたちどころに消滅してしまう例の宗教的教養の、安全と弁解に類したものとを見いだした。そこで彼は、人間の個々の知識では真理を認識することはできない。真理はただ人々の総合にのみ啓示されるものである。真理認識の唯一の手段は天啓あるのみで、その天啓は教会によって保たれているものである云々といったような、例のありきたりの詭弁をことごとくわがものとした、そして、その時以来もはや彼は、虚偽を行なっているという意識なしに、平然として、礼拝式、追悼式、祈祷式等に参列しうるようになり、精進潔斎もできれば、聖像の前で十字を切ることもでき、人類に利益をもたらすという意識と、喜びのない家庭生活に一抹の慰安を与える勤務的活動を継続することもできたのである。

宗教的両極性(266)ロペール・エルツ(吉田禎吾訳)p.142
 右手の優越は、強いられ、しかも制裁のともなう強制的なものである。これに対して左手は禁じられ、麻痺させられる。したがって、われわれの身体の両側の間に存在するこのような価値と機能の違いは、ひとつの社会制度の性格をきわめて強く表しているのである。だからこの問題を説明しようとする研究は社会学に含まれることになる。もっと正確にいえば、それはなかば美的な、なかば道徳的な要請の起源をさぐることである。われわれの行動を今でも支配している世俗化された理念は、神秘的な形において、信仰や宗教的感情の領域において生まれ発達したのである。したがって、右手が優先されることの説明は、集合表象の比較研究の中に求めなければならない。
ある基本的な対立観念が未開民族の精神世界を支配している。それは聖なるものと俗なるものとの対立である。ある種の存在や物は、その本性により、あるいは儀礼の実施によって特殊の要素がいわば慎浸み込むところとなる。その要素はそれらを神聖にし、他のものから切り離し、それらに卓越した力を与え、他方、それらを一連の規則でしばり、狭く拘束する。相違生む性質を持たない物や人間は、呪力も威厳も持ちあわせず、普通の存在であり、神聖なものに接することを禁じられていることを除けば、自由気ままである。この対立する二つの種類に所属する事物をたがいに近づけたり金堂することは、両者にとってよくないので、たくさんの禁止やタプーが、この二つの世界をたがいに切り離し、両者を同時に保護しているのである。


宗教と音楽(560)
 宗教というものも、音楽というものも、形にはとらえることができない、手にとることができない不思議な存在でありますが、しかもそれは人間の心のいちばん奥深く入って、人を感動させ、人の生命を根本的にゆり動かして変えるほどの力をもっている。そういう不思議な力をもち、しかも、とらえることのできない宗教と音楽との間には、なにか一つの共通性がある。そのへんが音楽と宗教との深いかかわりの理由であろうかと思います。
 キリスト教、あるいはキリスト教の母体となったユダヤ教などを除いた他の宗教の場合では、自に見えない、形にとらえることのできない神様とか仏様を、なんとか目で見える姿に置きかえようとする。…ところが、キリスト教、そしてその母体のユダヤ教は、偶像崇拝禁止がたてまえであります。つまり、人間は神を目で見て、そしてそれに接するということは許されない。人間は目で神と対することができない。では、人聞は神と何をもって相対するか。ここでは、神がことばで語り、人間は耳で聞く。つまり、耳によって神と人間とが結び合うという要素が、ユダヤ教、あるいはキリスト教では非常に重要視される。そのような場合には、美術よりもむしろ音楽がきわだって重要な存在として、クローズアップされるということになるのであります。

宗教都市長崎(547)
 ポルトガルの東洋貿易がオランダに圧迫されて次第に日本でも衰えはじめると、家康は前よりは貿易と布教の不可分問題に悩まなくなった。慶長十五年(1610年)の切支丹大名、有馬晴信と岡本大八事件を契機として彼は基督教禁制の決心をかため、第一回の布告の翌年、金地院崇伝に命じて長文の布告文を作らしめた。
 長崎も混乱と興奮の渦に巻きこまれた。五万の人口のほとんどが切支丹であるこの宗教都市では、棄教する者と信仰を守ろうとする者、隠忍しようと主張する者と為政者に反抗しようとする者の二派に別れた。二月には、京から追われた宜教師が到着すると事態の重大さはますます、は
っきりとした。イエズス会の宣教師は隠忍自重を説いて教会も閉じ、春の復活祭の行事も行わなかったが、フランシスコ会とドミニコ会アウグスチヌス会の宣教師はこれに反対して四十時間の祈祷大会を聞いて気勢をあげた。

宗教の屑籠(256)P.42
 「宗教的たると政治的たるとを問わず、真の思想集団は、その苦難の時期には、むしろ夾雑物を退けて自分を純化して耐えるのが至当。卑怯者の去ることを必要以上に考慮する必要はない。」
「形は人、心は亡者、迷いに迷って、迷いぬいても成仏できぬのが我らの道、迷いながら、恐る恐る近づき、入信した…人々に救いの門を閉ざしてしまうのは、開祖さまの教えにかえって背きます。」
「一つの教義の生命は、雑駁、異質な、それぞれの土地にからむ事情を、どこまで自分のうちに消化する能力があるかにかかっている。この教団の教義を、新興の寄せ屋宗教、宗教の屑籠などと罵っているが、…仏教もバラモン教の教義を否定的に生かしながら登場したもの。ひとたびは厳しく自分と他を区別し、そして次の段階では、異質なものを自分に取り入れて栄えました。」

十字軍(諸侯たちの十字軍)(469)
 第一次の十字軍が「諸侯たちの十字軍」と呼ばれるようになるのも、ドイツの皇帝とフワンスの王を除外するしかなかったからである。…(神聖ローマ帝国の皇帝ハインリッヒ四世)と、ローマ教会は「カノッサ」このかた険悪な関係が続いている。…フランス王フィリップも…不倫をしただけでなく、その相手を王妃にしようとして…法王から破門されていたのである。 
  ヴェルマンドワ伯ユーグ(フランス王弟)
  トゥールーズ伯レーモン・ド・サン・ジル(アデマール司教がつく)
  ロレーヌ公ゴドフロア・ド・ブイヨン(ユースタス、ボードワンらの親族がつく)
  ブーリア公ボエモンド・ディ・アルタヴィッラ(甥タンクレディがつく)
  ノルマンディ公ロベール
  ブロア伯エティエンヌ
  フランドル伯ロベール
(以上の諸侯が、統一なく軍を進める。)


ジュウシチネンゼミ(357)
 素数は…自然界にも姿を現す。たとえば周期的に発生するセミである。とくに注目に催するのがジュウシチネンゼミだ。このセミは昆虫のなかで最長のライフサイクルをもっている。ライフサイクルは地中ではじまり、幼虫は辛抱強く木の根から樹液を吸い続ける。そして17年間待ったのちに、莫大な数のセミの成虫が地表に現れるのである。…生物学者を悩ませた問題は、このセミのライフサイクルはなぜそれほど長いのか、ライフサイクルの年数が素数になっていることに何か意味はあるのか、ということだった。…ライフサイクルの年数が素数であることには進化論的な利点がありそうだ。一説によると、やはり長いライフサイクルをもつセミの寄生虫がいて、セミはその年数を避けようとしているのではないかと言われている。

囚人のジレンマ(290)
囚人のジレンマという事態が興味深いのは、ある利得の構造が与えられたとするならば、二人の行為者の合理的選択によってもたらされる事態が、最善の結果をもたらすものではないということである。

集団発狂(342)
 「昔から言われるように人間は集団で考える。発狂するときはいっせいに発狂する。けれども正気に戻るときは違って、ひりひとりが、しかもゆっくりと正気に戻っていく。」チャールズ・マッカイ「民衆の異常妄想と集団発狂」(1841年)より。

終末の遅延(436)
 「家の主人は、盗賊がいつごろ来るか分かっているなら、目を醒ましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。(マタイ43)」 この譬には「終末の遅延」が前提とされており、「人の子」としてのイエスが復活してから再臨するとき(終末)に至るまで信徒が守るべきいわゆる「中間時の倫理」が勧められている。

重力による光の偏奇(416)アインシュタイン
 アインシュタインは1911年の論文で「空の太陽に近い部分にある恒星は皆既日食中に見えるようになるから、この理論的な結論を実験で試してみることができるであろう。…どんなに証拠不十分に、また奇怪に見えようとも、天文学者諸君にはぜひここにのべた問題を調査していただきたい」と述べた。1914年になってはじめて観測隊をロシアに送ることができたが、…その直後に第一次世界大戦が起こり、観測隊員はロシアの捕虜となってしまい、皆既日食の観測は不可能になってしまった。
…イギリス人は実験的検証を大切に思う人たちである。グリニッジ天文台長はアインシュタインが(一般相対性理論)で予言している光の偏奇を観測するのに絶好な皆既日食が1919年の3月29日に起こることを指摘した。…観測隊を迎えたブラジルの人たちは、…戦争中にドイツの物理学者が言ったことを、その敵国であったイギリスの天文学者が確かめようとしているという事情をなかなか理解できなかった。エディントンを隊長とする日食観測隊は(西アフリカのギニー湾にある)プリンシペ島に向かった。…イギリスが派遣した二つの観測隊の皆既日食観測は、光の偏奇に対して予言した値1.75秒に対して、1.64秒という値を得た。


重力崩壊(165)
星が核燃料を消費していくと、核融合のよる拡張圧力と重力とのバランスが崩れて、極限まで収縮が続く現象。普通の大きさの星は白色歪矮星や中性子星になるが、太陽の8倍以上の重い星は自分の重力をささえきれないので重力崩壊を起こす。ペンローズが考え出し、1968年プリンストン大学のアーチボルド・ホイーラーがこれをブラック・ホールと命名。脱出速度が光速を越える収縮直径でブラックホール化する。 

収斂進化(391)
 ある特定の環境下におかれた生物は、どの種であろうと、その対応策の基本パターンは似通ったものになる。進化の歴史のなかで、何度もくりかえして同じパターンが見られるのもそのためだろう。例えば、特定の体の形がある生息環境に最も適合したものだった場合、それと同様の体の形は、似た環境で暮らす別種の動物のあいだでも何度も現れて進化していく。この現象は収欽進化と呼ばれ、鳥類とコウモリが飛ぶ能力を別々に発達させていったのは、その一例である。

宿命の女(43)
ファム・ファータル。ヴェーデキントの地霊に描かれる「ルル」。画家シュトゥックが描く蛇を巻き付けた裸婦画「罪」等々。ドイツ芸術における愛憎入り交じる女性概念。ヴァンプ(妖婦)も対比される概念。英国のラファエル前派も同様。 
 
シュケリッギ・ヴィッキル修道院(58)
ドルイドの地、アイルランドのキリスト教化は、ケルト文化の破壊ではなく融合的に行われた。そこに島独特の孤島修道が生まれた。アラン島もその一つである。シュケリッゲ・ヴィッキルはアイルランド最西端の海中に突き出した岩山で、霧深く厳しい冬の修行が行われた。最近、ユネスコ世界遺産ではシュケリッゲ・マイケルと表記されている。30年間間違って覚えていたのか?
 
主査(54)
主査と聞いておそらく誰もが連想するのはラインから外されたいわゆる窓際族のはずだ。トヨタもラインから外している。がそうすれば逆にクリエイティブな仕事はむしろ容易になる。トヨタの車両主査制度は昭和28年にスタートした。

朱子の宇宙進化論(538)
 朱子の宇宙進化論については、…要するに、天地の生成のはじめには、ただ気が存在するのみである。それは摩擦をともなうところの不断の回転をなしている。回転が速かになってくると多くの渣Hを生ずるが、それは外に出て散ずるを得ぬ故に、凝固して中央に地を生ずる。これに反して、気の精なるものは外にあって、依然回転をつづける。これが天であり、日月星辰である。故に天地は上と下とにでなく、外と内とにある。朱子が体系化した宇宙論は、おなじ頃のヨーロッパのそれにくらべて、デウスによる創造云々はいま論外として、地動説でなく天動説という点は共通であるが、いわゆる水晶天球説に対して無限宇宙論、という点で顕著な特徴をもつ。朱子の宇宙進化論は、その無限宇宙という考えと表裏一体をなしているのである。

種子の実習(367)
 まず、地面にひざまずく。それから正座して、体を前に倒し、頭がひざにつくまでまげる。腕は後ろにまっすぐに伸ばす。これは瞑想の形である。すべての緊張をとき、リラックスする。おだやかに深い呼吸をする。次第に自分が小さな種子であり、土の中に心地好く抱かれている感覚となってゆく。まわりはすべて暖かく、すばらしい。あなたは今、深い、安らかな眠りの中にいる。
 急に指が動く。芽はもはや種子でいることを望んでいない。成長したいのだ。ゆっくりと、あなたは腕を動かし始め、次に体が起きあがり始め、正座のまま、体がまっすぐになるまで上半身をまっすぐにする。今や、あなたは腰を持ちあげ始め、ゆっくりと、ゆっくりと、ひざを地面につけたまま、ひざから上をまっすぐに伸ばす。
 やっと、完全に土から飛び出す時がやってきた。あなたは片足ずつ、ゆっくりと立ちあがってゆく。芽が自分のスペースを確保してゆくように、バランスを取りながらまっすぐに立ち上がる。自分のまわりの様子を想像する。太陽、水、風、鳥々。さあ、あなたは今や、成長を始めた芽である。ゆっくりと、両腕を空に向かって伸ばしてゆく。それから全身をもっと、もっと伸ばす。あたかも自分の上に輝いて、あなたに力を与え、あなたを引きつけている大きな太陽を抱きしめるかのように。体はますます固くなり、すべての筋肉が伸び切り、自分がどんどん成長し、巨大になってゆくように感じる。筋肉の緊張がますます強まり、ついに、その痛みに耐え切れなくなる。これ以上がまんできなくなったら、大声で叫び、目を開ける。
 この実習を、連続七日間、いつも同じ時刻に行う。RAMの実習の第一段階。


朱子の太極(538)
 朱子学の核というべきこの太極という語の、朱子学に連なる最も古い典拠は、「易」繋辞上伝の次の一文である。…易ニ太極有リ、コレ両儀ヲ生ズ、両儀四象ヲ生ジ、四象八卦ヲ生ズ。
 右の一文に基づいて、みずからの世界観を象徴的な図式(太極図)に凝縮し、それに簡潔な解説(太極図説〉を付したのが、朱子が道学の第一走者と崇敬する周濂渓である。太極は周濂渓にとっては根源的な一気と観念されていたはずだが、朱子はこれを理とみなす。なぜなら、太極が理でなかったなら陰陽・五行以下の気=形而下の存在と同じレベルになって、世界の根源となることはできないからである。
 朱子の創見は、この太極図を存在の構造として捉えなおしたところにある。この図式は、時間の展開につれて存在が形成されてゆく万物生成論として読むのが周濂渓の本意であったはずだが、…朱子における太極は、天地万物がそこより生じた根源であり、同時に天地万物に内在する根拠という、いわば超越=内在の二重の性格を担うのである。


朱子の理気(538)
  気はこの宇宙に充満するガス状の連続的物質。物を形造る基体物質であるが、同時に生命・活力の根源であって、正確には物質=エネルギーというべきであろう。気の思想それ自体は、中国に固有な存在論として古代より連綿とつながるが、とりわけ道教徒や医学者たちによって整備されてきた気論を、自覚的にその思想体系の基底部にすえたのは張横渠ー朱子である。朱子によれば、天地万物の生成と消滅とは、聚・散という気のおのずからなる運動によるという。気が凝縮すれば物が生まれ、その凝縮が解体すれば物は消滅する。そして気の量それ自体は、宇宙全体として増えたり減ったりしない。

主神スヴァンテウィト(529)
 デンマークはヴァルデマール一世のもとで、戦力を高め、レンガ造りの城や塔で身を守ることに成功し、スラブ人たちの海賊的襲撃を撃退しつつあった。1268年、ヴァルデマールは大軍と軍船を集めて、デンマークに近いスラブ人の一大拠点、リューゲン島を襲った。
 これは、ある意味で、「ヨーロッパ」拡大の象徴的な戦いであった。なぜなら、リューゲン島は、ヴェンデ人たちの信仰の中心地ともいえたからである。ここには彼らの主神ともいえるスヴァンテウィトが祭られていた。
 ヴェンデ人たちは、良い神と悪い神の存在を信じていた。悪い神は、彼らの言葉でディアボルつまり黒神と呼ばれた。これに対して、多くの良い神のなかで最善の神は、リューゲン族の神、四つの頭をもったスヴァンテウィトであった。彼らは、毎年、この神の生賛として
一人のキリスト教徒を捧げた、と伝えられている。
こうして、ヴェンデ人たちの信仰の要をなし、隆盛を誇っていたリューゲン島もデンマーク国王の支配下に入り、キリスト教化されることになった。

ジュゼッピーナ・ストレッポ(335)
 青年作曲家ヴェルディをスカラ座に推挙し、「ナブッコ」の初演でアビガイッレを演じたプリマドンナ。1859年、「仮面舞踏会」を初演し、イタリア国家統一運動の完成を見届けた後、12年間も変わることなく献身的に尽くしてくれたストレッポーニとヴェルディは、ジュネーブの聖堂に友人の司祭を訪ね、司祭を伴ってサヴォイの小さな教会に行き、質素な婚礼を挙げた。しかし後に、ヴェルディは「アイーダ」作曲への霊感を与え、アイーダを歌ったボヘミア生まれのソプラノ、テレーザ・ストルツとも恋愛でゴシップの種をまいた。これを苦悩したストレッポーニは、テレーザと会って親友となり、自身の死後は、ストルツがヴェルディの良き伴侶となった。

ジュゼッペ・バルサモ(531)
 私(ゲーテ)が(パレルモ)滞在中始終公開の食卓で、カリオストロのことを、その素性や運命について、いろいろと語られるのを聞いた。バレルモの人々の一致した意見では、この町に生まれたジュゼッペ・バルサモという男がいろいろな悪事をはたらき、評判が悪くて追放されたという話だったが、しかしこの男が果たしてカリオストロ伯と同一人物であるかどうかについては、意見がまちまちだった。 彼を見たことのある二三の人々は、ドイツ人によく知られ、パレルモにも渡ってきているあの銅版図の人物が、彼に違いない、と言っていた。
 彼はまた他人のあらゆる筆跡をまねる自分の非凡の才を、利用せずにはおかなかった(と覚書につづけて書いてある)。彼は古文書を贋造乃至偽造して、そのため二三の財産の所有権で悶着をおこした。彼は審問をうけて投獄されたが、逃亡したので公示召喚をうけた。彼はカラプリアを通ってローマに旅行し、そこで剣帯匠の娘と結婚した。ローマからナポリに帰るときには、ぺレグリニ侯爵と名乗っていた。


主体性が真理である(490)小川圭治
 ここでは「主体性が真理である」とのテーゼがキルケゴールの思想の中心であると考えられている。しかもこの「主体性」とは、ある思想なり信仰なりを、真に自己のものとするということにほかならない。したがってキルケゴールは、「いかにして真のキリスト者となるか」という具体的な課題をめぐって、この思想の主体性を明確にしようとしたのである。この課題をめぐる思想の主体性の問題が、あのギレライエ日記における実存の原体験から、生涯の終わりにいたるまでの多彩な著作活動の全体において示されている。
キルケゴールの思想の中核が、このような意味での思想の主体性にあるとするならば、彼の著作は、いつの時代、いずこの国においても、生きることに困難を見出し、その問いに直面しながら、自己の主体性の回復を求める苦悩する魂に語りかけることをやめないであろう。

主体性批判(267)p.37
サルトルの政治参加(アンガジュマン)の論理を支えるものは、あたかもおのれひとりで判断し、行動することができる主体があるのだという主体性論です。これを批判したのが構造主義の立場なのです。…私たちの自我というものは、こうして作り上げられた他人とのネットワーク情報によってささえられている。…私たちは、無意識的な構造(社会が作り上げてきた儀礼、慣習、ものの考え方)によって規定されている。…フーコーは、…意識する主体と世界に実在する人間との間に切り裂かれた近代の哲学は、デカルトのように「あらゆるものが思考されるものだ」」とは考えられないのだ…。ある民族社会のなかには、一見非合理としか思えない慣習があるのだが、その社会を維持するためにはどうしても不可欠な部分なのだ。…構造主義が何か現状維持のイデオロギーであるかのような批判が起こります。私たちが無意識的な慣習行動(構造)によって規定されていることを認めることは、その構造が変えられないということではない…。

主体としての個人(290)
アルチュセールによれば、主体としての個人は、あらゆるイデオロギーに不可欠な構成要素である。ここで重要なのは、主体的な個人がはじめにあって、その個人があるイデオロギーを選択しているのではなく、個人が主体的であるということは、すなわち個人がイデオロギーの構造のなかにあることを示しているという点である。いいかえれば、イデオロギーを離れて、主体的な個人として存在することはできず、人間が自由であるのはあくまでもイデオロギーのなかで生きている限りにおいてなのである。

出アフリカ(157)
ミトコンドリアのDNA鑑定からアフリカ単一紀元説が有力になっている。とすると現代人の始祖は、ある時あたかもモーゼの出エジプトのようにアフリカを出たはずである。アフリカ大地溝帯で生まれた人はこの地峡にアカバ湾を通してつながる死海地溝帯を通って各地域に拡散していった。
 
出エジプト(6)
モーゼとは[引き出す]という意味。奴隷的境遇のユダヤ人を乳と蜜のあふれるカナンの地に導く。紀元前1290年。これは火山の爆発か、ただの干潮。

主体思想(300)
 朝鮮儒学の影響を受けた日本儒学はやがて元田永孚によって天皇制と結合して国体論を革新し、全体主義的中央集権国家をつくりあげようとした。その過程で日本の国体論は先鋭化の道を歩み、「忠孝一本」と唱えるまでにいたった。そして興味深いことに、この思想は死滅したのではなく、もう一度海峡を渡って朝鮮へと還って行ったのである。日本の国体思想の犠牲になったとされる朝鮮半島で、解放後、国体思想を模倣して<擬似国体思想>とでも呼べるものを作り上げた。だか何よりも、国体論とそれに基づく忠孝の一本化を極端に推進したのは、北朝鮮の主体思想における「社会政治的生命体論」なのであった。人間には「肉体的生命」と「社会的・政治的生命」がある。前者は生物有機体としての生命であって実の父母が生んだものであるが、後者は社会有機体としての生命であってオボイ首領が与えたものであり、こちらこそに真の価値があって永遠であるとする。

シュタイナーの自由の哲学(526)
 シュタイナーは、近代自然科学における観察の鋭さを哲学にいかそうとした。ただ、観察の方向をいわば反転し、内面へと向けたのである。−−シュタイナーがそこで示したのは、およそ次のようなことである。つまり、近代の認識論は、人間の認識には「限界」があることを確認している。しかし、人間が思考を駆使して純粋理念を、つまり感覚に束縛されない理念を知覚するとき、人間は「認識の限界」を踏み越え、理念的精神的世界の自由市民としての自分を見出すことができる、というのである。

シュタイナーの秘儀参入(526)
 教会宗派の教えは、「一つの精神世界を指し示しているが、それは人間が自分の霊的諸力を発達させても到達できないものである。宗教が語ること、宗教が道徳的な戒律として与えることは、啓示として外から人間のもとにやって来る。私の霊的直観はそのことに反発した。なぜなら、私は精神世界を、感覚的に知覚できる他のものと同様に、人間のなかに、自然のなかに体験しようとしていたからである。また、私の倫理的個人主義も、それに反発した。私は、倫理のいとなみが外部から戒律によって保たれるのではなく、神を宿す人間存在の魂と霊の発展の中から生み出されることを望んでいたからである」。
 「私の魂の進化の過程で、認識によるもっとも内的で真剣な祝祭を行ない、ゴルゴタの秘跡の前に立つ、という霊的体験が必要となったのである。シュタイナーの内的体験が、古代の秘儀の場における体験と共通していることは、歴史書を読んでも、シュタイナー自身の霊的研究を見ても窺うことができる。


シュタインメッツェン(418)
 シュタインメッツェンの厳格な規約は中世を通じて入社式の際に口頭で伝承されてきたが、1563年にストラスプールで印刷された『兄弟の書』あるいは『聖ミカエルの日にストラスプール大支部にて公表された、石工の結社の諸規則と規約』のなかである程度公開された。件の文書は三十年戦争の惨禍のなかでカテドラル建設継続の難事を遂行せんとする意図の下に書き下されたものらしい。ピエール・マリエルの要約によれば、同文書の表明しているシュタインメッツヱンの使命は二通りあって、一つは「実践」、もう一つは「思弁」に関わる。すなわち一つは結社員たるにふさわしい人びとに技術の秘密を伝達すること、もう一つは数と言葉の秘教を啓示すること、である。しかし、現実的基盤を具えたすぺての秘教(錬金術、呪術など)がそうであるように、シュタインメッツェンも現実的対応物たるカテドラルそのものを完成してしまうと、秘教の一面の実践的性格(技術の伝承)を失っていちじるしく思弁的な秘教主義と化し去り、18世紀前半には本来の結社は解体して、メンバーはいくつかの薔薇十字団系セクトやフリーメーソン支部のなかに分散的に吸収されていた。

シュタウフェンベルク大佐(513)
 1944年7月20日に、有名なヒトラー暗殺未遂事件が(ヴォルフスシャンツで)起こったのである。ヒトラーを暗殺しようという計画は、それまでに40もあったことが知られている。…フォン・シュタウフェンベルク(大佐)は、最初はヒトラーの成功にめざましい印象をうけた。しかしし、ナチスの権力が拡大するとともに、しだいに懐疑的になっていった。彼はまた、ヒトラーの軍事的決定に批判的で、かつ占領地域での暴政に恐怖を覚えるようになっていった。1942年になると、彼はヒトラーの体制が倒されねばならないと確信するようになった。
 …寝所のなかでフォン・シュタウフェンベルクは、プライヤーを使って、酸のはいったアンプルを壊して爆弾の時限装置をセットしたのである。その後、爆弾を彼のブリーフケースのなかに隠した。…フォン・シュタウフェンベルクは、いつも会議がおこなわれているバラックまで歩いていった。そこで、ヒトラーが新しい予備部隊の情報を解説するよう求めていると聞かされた。フォン・シュタウフェンベルクは、彼のブリーフケースをヒトラーのちかくのテーブルの足の脇におき、電話をかけることを口実にプンカーを出ていった。
 会議室でひとつの爆弾が爆発して、四人が致命傷を負い、その他の人々も軽傷を負った。しかし、奇跡的にもヒトラー自身は、かすり傷を負っただけですんだのである。

主張はない(381)
 そもそも基本的な態度として、(空)の哲学は定まった教義なるものをもっていない。中観派はけっして自らの主張を立てることはしないという。このことはすでにナーガールジュナの明言したところである。かれは発言した。「もしもわたくしに何らかの主張があるならば、しからば、まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存することになるであろう。しかるにわたくしには主張は存在しない。まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存在しない」

シュテーデル美術館(180)
埴谷雄高の「兜と冥府」には、フランクフルトの美術館で謎の微笑をたたえたルクレツィア・ボルジア(?)の絵に出会った印象的な話がでてくるが、なぜか意図的にかその美術館の名前を出していない。埴谷の文章と「歩き方」の地図と比較していくと、これがシュテーデル美術館であることが分かる。

守灯精神(328)
 日本近代灯台の父となるイギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治元年に来日し、9年間で28基の灯台を建設した。その最晩期の作品が尻屋崎灯台で、煉瓦で作られた灯台として日本一高い。
 昭和20年7月終戦間際に米軍機の爆撃を受け、灯室を完全に破壊された。このとき、灯台を守っていた標識技手・村尾常人が機銃掃射を受け殉職した。戦後、破壊された灯室付近で電球のようなものが輝いているのを灯台職員が発見した。この幻の灯火は有名な話で、沖合の船からの目撃がいくつもあった。…いまも、海上保安庁の職員の間では、この幻の灯火は、命がけで灯台を守った村尾技手の守灯精神のあらわれと信じられている。


シュトゥットガルト罪責告白(485)
 ヒトラーの前で、ただ一人、そのおどしに屈しなかったニーメラーだったが、夢では、彼は、ヒトラーに正しく福音を語らなかった責任を神に問われつづけたのだという。
 こうした罪責意識こそ、1945年秩、彼に《シュトゥットガルト罪責告白》のイニシアティヴをとらせた背景だったのであろう。このとき、ドイツの福音主義教会は、世界教会の代表者たちを前にして、ナチ支配下において教会もまた十分に抵抗しえなかった責任を認め、ドイツ国民の罪責に連帯することを告白した。「大いなる痛みをもって、われわれは言う。われわれによって終わることのない苦難が多くの諸国民や諸国のうえにもたらされた。われわれは、みずから弾劾する。」


首都ゲルマニア(513)
 1934年8月にヒンデンブルクが死ぬと大統領職は廃止され、ヒトラーは大統領と首相を合体した「総統」、すなわちドイツの独裁者、ベルリンの主人となった。彼はベルリンの主人となるやいなや、ベルリンの大改造をこころみるのであった。そう、大ドイツの新首都、いや世界首都「ゲルマニア」の建設である。
ヒトラーは建設マニアであったことで知られる。彼がくわだてた建設計画のなかでも最大のものが、この「ゲルマニア」計画であった。…当初、彼はベルリン市当局と議論をくりかえしたが、彼らがヒトラーの計画に理解を示さなかったため、個人的に計画を進めることにした。ヒトラーが白羽の矢を立てたのは、ヒトラーお気に入りの建築家で、のちに軍需相をまで勤めることになるアルベルト・シュペーアであった。


シュトルム・ウント・ドランク(496)
 これらの作品(『ウエルテル』並びに『ゲッツ』)を原稿のうちから知っていて、その一部を自分自身の作品のように思い込んでいた友人たちが、それが自分たちの予言どおり大成功を収めたので、ゲーテを囲んで凱歌をあげ、文学的同志の意識を固めたということである。
 こうしてクリンガーの戯曲から名を得た「シュトゥルム・ウント・ドラング」時代が表面化するのである。その運動のそもそもの由来はハーマン・ヘルダーにちなんで前に述べたが、いまはゲーテの現前の作品に励まされて、この青年たちは情熱、自然、自由、天才主義を呼号し、既存の規範や形式の一切を打破しようとしたのである。その反抗精神はフランスの新しい文学気運が政治的・社会的であるのに比べて、主観主義でもっぱら芸術の分野における爆発であることがドイツ的である。このシュトウルム・ウント・ドラングの中心人物にゲーテはなったのである。

シュトルモビーク(19)
第二次大戦のソ連主力地上攻撃機イリューシンTl−2シュトルモビーク。総重量の15%を装甲に当て、独ソ戦をユンカースと戦う。スターリンはこのシュトルモビークをパンと同じように必要であると断言。その物量により勝利。3万5千機も生産される。

種の起源(207)p.15
ダーウィンの「種の起源」には種の起源のことはほとんど書かれていない。正式な書名は「自然選択、すなわち生存競争における有利な品種の存続による種の起源について」というものだが、特定の種の起源についても、自然選択についても、生存競争で生き残る品種の保存についても、何ひとつ実例はあげられていない。……しかし、ガラパゴスでもどこでも、実際に変化が起こるのを見たわけではないのだ。

シュバリエの色消し風景レンズ(191)
1830年代にダゲールは写真用レンズを探していた。これに協力したのが望遠鏡製作者カルル・シュバリエ。シュバリエは望遠鏡の対物レンズ(凸レンズと凹レンズの貼り合わせ)を逆向きにすると近軸光線で像面湾曲が低減することを発見。レンズの前に絞りを置くのが特徴で、これでコマ収差を除去した。

シュペーア(-TV 1999-12-18)
 シュペーアは「もしヒトラーに友人というものがあったとすれば私をおいていないだろう。」と語った。若くしてヒトラーに認められ、ニュルンベルグ党大会会場の建設と演出や、40万人収容のドイツスタジアム、ベルリン世界都市「ゲルマニヤ」等の建設を行う。そのテクノクラートとしての能力を買われて、1942年に軍需相に登用され、ヒトラーの戦争の軍需面を担う。戦争末期に、ヒトラーから後継者に指名されることを恐れて、ヒトラーと絶縁する。戦犯として1981年に死亡。

シューベルティアーデ(186)
 無名のシューベルトの周りにあつまった20歳前後の理解者であり友人達。ゲーテの詩に作曲した楽譜を、ワイマールのゲーテに送ったのも彼らだか、理解を得られなかった。尊大で人付き合いの悪い宮廷歌手のミヒャエル・フォーゲルに引き合わせることに成功し、このファーゲルによってシューベルトは世にでることになった。

シューベルトのソナタ(297)
 フランツ・シューベルトのピアノ・ソナタを完璧に演奏することは、世界でいちばんむずかしい作業のひとつだからさ。とくにこのニ長調のソナタはそうだ。…四つの楽章をならべ、統一性ということを念頭に置いて聴いてみると、僕の知るかぎり、満足のいく演奏はひとつとしてない。…そのまますんなりと演奏したのでは芸術にならない。シューマンが指摘したように、あまりに牧歌的に長すぎるし、技術的にも単純すぎる。そんなものを素直に弾いたら、味も素っ気もないただの骨董品になってしまう。…それはある種の不完全さをもった作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつける−少なくともある種の人間の心を強く引きつける、ということだ。

儒墨の対立(489)
 燕王噌に限らず、当時の各国の王たちの主たる関心は、どうして賢人を発見して、それを召しかかえ、十分に才能を発揮させるかにあった。燕王の失敗は宰相子之の才能と性格とを正しく理解せず、これを溺愛してしまったためであるというのが、燕の隣国でその国情をよく知っていた中山国がわの批判であった。
 賢者を登用して国政をまかせようという、いわゆる尚賢主義が墨家の政治思想であって、儒家の家族制度をもととした親親主義の政治思想と正面から対立していた。韓非は主要著作である「顕学」篇で、かれは孔子を開祖とする儒家と、墨てきを開祖とする墨家とが、現代もっとも有力な政治思想と認め、思想史を儒墨の対立として理解している。


シューマンのオーケストレーション(75)
 シューマンでいちばん問題になるのは管楽器と弦楽器を常に厚く重ねすぎてしまうこと。普通管だけの練習だと曲はつながらないものなのだが、シューマンはちゃんと曲になってしまうのだ。「これならブラスバンドで済む」と言う楽員の言葉は要を得ている。だからマーラーやワインガルトナーのスコア修正は書き加えるよりも斜線で消してある方が多い。ところがシューマンの求めていたのはまさにそのくぐもった響きであった。
 
趣味(82)
 ハーバート・リードが[美術の意味]のエピグラフにあげていたコンスタブルの言葉。「本当の趣味は決して中途半端な趣味ではない。」 A true taste is never a half taste.

須弥山(143)
 世界の中心の山。その中腹に四天王の住む四天王天があり、山頂は三十三天で、ここに帝釈天が住む。ここまではまだ地上。その上に天界がある。
 

シュラウド(41)
 イエスの死体を包んだ聖骸布。聖遺物として神聖視されるトリノの聖骸布は放射性炭素測定で14世紀頃の作成とされ、その信憑性を疑われている。
 
シューラー(43)
 ヒトラーに思想を提供した男?とされる。ミュンヘンのシュヴァービングで1922年頃ユートピア思想を説く。特にサンスクリット語で「幸福の徴」という意味の「スヴァスティカ」が太陽の車輪、永遠の運動を象徴するものとしてこだわる。ドイツ語でこれをハーケンクロイツと呼ぶ。ヒトラーもシューラーのサークルに出入りしていたとされる。

シュリーマンの業績(452)
 シュリーマンの学者としての業績は今日ではどのように評価されているか。非難と賞讃とがはげしくいりまじった彼の学問的成功は、今日ではほぼ定まったといってよい。その方法の上では粗雑であり、推理にも目標の設定にも科学性を欠いている。彼はホメロスのトロヤという理念にかられて、それを発見するという衝動のままに、がむしゃらに掘った。彼はトロヤその他の発掘において「まるで地下工事者のように、動かされた土の量によって」為された仕事を算定したといわれる。そのために多くのものを破壊した濫掘と、ことに彼の空想的な解釈は、専門学者からその成功を無価値なものとされた理由である。彼の推理は全くホメロスを「福音書のように信じ」その眼鏡を通してみたものであり、事実をまげて解かれたことも多い。

シュレーダー邸(123)
 オランダのデ・スティールが考えた構造ではなく機械のような建築、部品相互が機能を果たす面として現れる。同時代には理解を得られず、現存するのはこのシュレーダー婦人の依頼による個人住宅だけ。

シュレディンガーの猫(242)p.104
 密閉した箱の中に猫と放射性原子核を入れておく。放射性原子核は電子や光子などの粒子をいつでも放出する可能性があり、粒子検出器で確認できる。検出器が粒子を検出すると毒ガスのビンが破壊されて猫が死ぬ。一方で電子の状態は観測によって始めて、特定されるので、観測される前、人間がこの箱を開けて見るまでは、猫が生きているか死んでいるか、二つの状態が共存することになる。その状態とは一体どんな状態なのか。

シュレーディンガー方程式(556)
 デパイ、ゾンマーフェルト、ルンゲは、1911年の論文で、幾何光学は波動光学の特別な場合で、無限に短い波長に対して成立することを示したが、この論文と上記のハミルトンの理論が、シュレーディンガーに波動力学の形成に成功する手掛かりを与えたのである。シュレーディンガーの根本思想は、光学と力学の数学的類似を、それに対応する波動(光波と物質波)間の物理的類似に拡張することにあった。
今日一般にシュレーディンガー方程式として知られているこの式は、ドゥ・プローイの物質波の概念を一般化したもので、数学的に比較的扱いやすい線形微分方程式であり、その解は物理的には定常波に当たる。この定常波こそが、シュレーディンガーにとっては、まったく正当なことに問題の「かなめ」であった。いまや、ボーア−ゾンマーフェルトの理論における定常軌道は、張られた弦や平板が、とびとびの、境界条件によって決められた振動数で振動するのと同じな味で、固有振動として説明される。


シュロギズム(431)
 シュロギズムすなわち三段論法について基本的な事項を述べておこう。「分析論前書」に於いてアリストテレスが言うところによると、三段論法或るいは推論とは、二つのことが前堤として措定される場合に、これら措定されている事柄とは異なった或る別のことが、二つの前掟がしかじかである、というまさにそのことに伴う結果として必然的に生じてくる論埋方式である。…これは何のことか。それは、推論すなわち三段論法とは、三つの命題、つまり大前提、小前提並びに結論から成り、前堤となる二つの命題に於いて語られていること以外の要素が全く入らずに、その二つの命題に導出される形で全く理の当然とLて、結論が成立するということである。

シュワードの愚行(422)
 1867年3月18日、ロシアがみずからの北アメリカの植民地を譲渡するという条約がワシントンDCで締結された。ぺテルブルグの各紙に…アラスカ売却が不利な条件で行われたという趣旨の記事が現れ、そこでは面積3万1205平方キロの島嶼と、54万8902平方キロの北米大陸の一部が、防御施設、兵舎その他の建造物とともに、わずか720万ドルで売却されたという事実が強調されていた。…実際アメリカでは、アラスカ購入の知らせは社会に歓迎されなかったのだ。新聞の見出しは「シュワードの愚行」(当時の国務長官)とか「ホッキョクグマの動物園」とか「シュワードのトランクは氷がいっぱい」といったからかい口調のものであった。有力紙「ニューヨーク・ヘラルド」の報道も、「朝食に魚油を一人約6リットルも飲むエスキモー5万人」を獲得…。

順圧モデル(164)
 気候変動予測のモデル。地表だけの観測データをべースに、運動エネルギーは大気下層の内部で保存されているとする。現在もたいていの翌日予報はこれでいく。これに対して傾圧モデルは上層を含む大気全体のエネルギー保存を考慮し、長期予想に用いられる。

殉教の強要(497)
 白鳥の書いたもので死の不安への言及は一々引用にたえないほどあるが、罪へのおそれはほとんどない。「生きるということ」(33年1月)では青年時代の入信を回想して、「われは生れながらの罪人なりというような感じは、伝統的キリスト教観を受け継いでいない日本人の心に明らかにわかるはずはなかったが、神に救いを求める気持は病中におのずからわき上っていたのである。…人間、重病にでもかかると、どんな神にでも仏にでもすがる気持になるのであろう」と簡単に片づけているし、また離教に到った一つの理由らしいものとして挙げているのかもしれないが、「私など死の恐れから救われんとしてキリストの教えに入りながら、かえって殉教の強要を感ずるようになったりして、死の恐れをいっそう、深くしたようなものであった」とも書いている。

純粋空気(141)
 プリーストリーが酸素を発見したときに名付けた。これが元素であるとしたのはラボアジェで、かれは全ての酸はこれを含むと誤解して酸素とした。プリーストリーはこれだけでなく、二酸化炭素や光合成を観察したが、酸素のようにその本質を理解するにいたらなかった。 

純粋に設計された宗教(477)
 純粋に設計された宗教のもう一つの候補はモルモン教である。進取の気性に溢れた虚言癖のある開祖、ジョセフ・スミスは、偽の17世紀風の英文で書かれた全篇これ嘘の新しいアメリカの歴史を一からでっちあげて、新しい聖典の『モルモン書』をつくりあげることまでやってのけた。けれどもモルモン教は、19世紀にでっちあげられて以降に進化をとげ、いまではアメリカにおけるれっきとした主流宗教の一つとなっている。

純粋法学(186)
 シュンペータの友人ケルゼンが打ち立てた法理論。ウイーン世紀末はこの2人と、さらにミーゼス、ハイエクという法経学者を生む。法が社会や政治や道徳に従属するのではならないことを力説。法をイデオロギーから解放した。
 
純粋理性批判の法廷(487)カント
 人間本性は、その対象がどうでもよいものではありえないようなもろもろの探究に関して無頓着を装うとしても、それは無駄というものである。あのいわゆる無関心主義者たちとても、たとえどれほど彼らが学術用語を通俗的な語調に変えることによって正体をくらますつもりであっても、いやしくも何ごとかを思考するかぎり、彼らがあれほど多くの軽蔑をあびせた形而上学的主張へと逆もどりせざるをえない。とはいえ、この無頓着は、万学の花ざかりのただなかで生じ、しかも、そのようなものが得られるとなればひとが何をおいてもけっして断念するはずのない、まさにそうした知識に関するものであるだけに、注意と熟考を向けるに値する一つの現象である。あきらかにそれは、投げやりの結果ではなく、
もはや見せかけの知識によってはだまされない時代の成熟した判断力の結果であり、理性のあらゆる仕事のなかでももっとも困難な仕事、すなわち自己認識という仕事をあらためて引き受け、一つの法廷を設けよという勧告にほかならない。この法廷は、理性の要求が正しい場合には理性をまもり、これに反してすべての根拠のない越権を、強権の命令によってではなく、理性の永遠不変の諸法則にしたがって拒むことができるものであるが、この法廷こそ粍粋理性批判そのものにほかならないのである。

シュンペータの社会主義感(76)
 十分な発展によって社会主義の経済基盤は作りだされるのであって、未熟な経済はそのための基盤を持たず、そうしたもとでの資本主義の崩壊は「内的必然性にもとづく崩壊でなく、一切の革命的ジェスチャーやきまり文句は単なる知的沸騰にすぎない。」 生産力が高まり資本主義が成熟しきった上での移行によってのみ社会主義化しうる。よってロシア革命の将来は、人間解放の思想であったマルキシズムのもとで、人権が失われ社会主義理念の変質へと進むと見抜いていた。

巡礼(261)
 巡礼の信仰には何の義務も拘束もない。もちろんミサにあずかるのが普通だが、それとて義務ではなかった。宗教的感情がおもむくままに振舞い、内心の満足を得ればそれでよかったのだ。…ところで巡礼も故郷にいるとき、つまり一般教区民でいる時は、それなりの規則的生活を要求される。してみれば、巡礼というのは特別の、一種特権的な状態にほかならない。それはおそらく、権力や共同体の保護を離脱して孤独な身の安全を神と聖者の加護だけに託したことの、つまり神の貧者たることの代償であろう。

巡礼路様式(475)
 美術史的には、コンポステーラへの巡礼路に沿う教会群に、キングスレイ・ポーターの命名する「巡礼路様式」を生んだ。それは、美術様式の統一性を現出するとともに、西欧最初の独創的な芸術である「ロマネスク美術」を開花させる源泉になった。
…このロマネスク美術の誕生こそ、西欧の原像として最初の独創的な芸術を告げるものであった。多くのロマネスク聖堂を彩る絵画や彫刻は、あたかも「中世の青春」を謡歌するように純朴な若々しい生命力にあふれでいる。また人間と自然との力強い交感は「生命の交響楽」を奏でるかのようである。たとえ、ロマネスク美術の影として、技術の未習得や観察上の制約があり、またその怪奇で粗野なデフォルマシオンに困惑するにしても、なぜかいいしれぬ不思議な郷愁に誘われる。一面、この農村的な雰囲気の漂うロマネスク聖堂は、つぎの12世紀に北フランスで開花し、都市的な景観の中にそびえ立つゴシック大聖堂とはいかにも対照的である。

巡礼すればいい(540)
 西国巡礼というのは、観音信仰にはじまるが、観音がさまざまの形に変身して、人間を救うという考えのもとに、かりに三十三の霊場が定められた。が、あくまでもそれはかりにのことであって、実際には「無限」を示す数である。三十三間堂も、千手観音も、そうしたものの現われだが、別の言葉でいえば、観音の慈悲に甲乙はなく、へだてもないという意味で、このことを追及して行くと、しまいには人それぞれによって、どう解釈しようと構わない、信仰の有無すら問わない、ただ「巡礼すればいい」そういう極限まで行ってしまう。
…観音信仰に関するかぎり、もっと鷹揚で、何でも受け入れるといった寛容なものがあり、どこから入って行こうと許されるのだと思う。そのむつかしさは「狭き門」にはなく、広すぎるところにあるのかも知れない。
…観音信仰には、「ただ巡礼すればいい」という寛大な教えがあることを、私ははじめに記したが、そういうものが観音正寺ではほんとうに体験できるからである。それは信じなくても、念仏を唱えるだけで往生するという、法然や親鸞の思想から遠くはない。三十二番へ来て、ようやく私にはそのことがつかめたように思う。

巡礼鉄道(209)
 オスマン・トルコのハミット二世が、軍事的な意図でバルカンからメジナまで敷設した鉄道。これに巡礼鉄道と名付けることによって、世界中のイスラム国家から資金を集めた。アラビアのロレンスが襲うのはこの鉄道。

巡礼の王(515)
 ここ(歓びの丘)に登って、サンチャゴの大聖堂もその町並みも、初めておのれの眼で眺めることができる。諸国から集まって来る巡礼たちは、疲れも忘れて駆け登ったという。先頭を切った者、仲間に先んじて聖都を拝した者は、「巡礼の王」と、もちろん戯れに、呼ばれた。ときおりフランス人の間に見かけるル・ロワ、あるいはレイなど王を意味する姓は、ここで生じたと言われている。

巡礼の制度化(398)
 13世紀には、巡礼の神学として「贖宥論」を中心とする体系が整うことになる。いわゆる「煉獄」の誕生である。古代ローマ以来、死後世界のモデルは「地獄−−天国」という二項体系によっていた。そこに「第三の場所」として、新たに浄罪の場である「煉獄」が設けられた。いわば巡礼者は、その苦行や善行の代価である諸聖人の功徳を分有することによって、煉獄での贖罪を免除ないし軽減される。ここに、一応聖書的な根拠は別として、罪の購いとしての巡礼が制度化されることになる。もはや神のイメージは、これまでの恐るべき審判者ではなく、救済を司る源泉となる贖。

常温核融合(108)
1989年ユタ大のポンズとフライシュマンが、核融合に必要なプラズマ状態さえ未だに安定的に得られない状況の中で、そのような高温は必要ない、常温で核融合が起こると発表したから、これはスキャンダル的事件となった。追試して成功?を発表した学者さえいた。ユタ大の論文はネイチャーの査読に通らないレベルのものであった。研究費欲しさと、名誉欲による詐欺的事件である。
 

生涯(127)サルトル
「君は君の生涯以外の何ものでもない。」この主義がある種の人たちに毛嫌いされる理由が分かる。彼らは自分の悲惨に堪えるのにただ1つの仕方しか持っていない。それはこう考えることである。「周囲の事情が私に不利だったのだ。私は現実の私よりはるかに価値のある人間だった。…私は大した本も書かなかった。そうする暇が私にはなかったのだ。…だから私の中には沢山の素質や傾向や可能性が、活用されずしかも完全に生き残っている。」と考える。

浄化の権化(523)
 三代目ジャコパンをひきいるロベスピエールは、まさに浄化の権化だった。石の人間のようなぎごちない歩きっぷり、落ち着きなく動き、近眼なのによくみよう、人の心の底まで見ぬこうとつとめているような青白い目。−それは人間でなく、生ける原理たらんとする努力のあらわれだ。ロベスピエールは、半分は金、半分は泥で革命の像を鋳造するならば、泥が金に勝ち、像がくつがえってしまうという、基本的には正しい考えにとりつかれていた。
 三代日ジャコバンたちが、ロベスピエールに盲目的に追従する。浄化は浄化をよび血は血を招く。かつてのミラボーと同じくダントンのような天才も、カルノー、カンポンといったひとりだちできる専門家も、ジャコパンには占めうる座席をもはや見いだせない。「だれが知ろう。正義を守れば、たぶんわれわれは滅んでしまう。まずフランスを救おう、あとで正義にもどればいい」

 
蒸気船(107)(108)
大西洋を蒸気機関だけで横断したのは1837年のイギリスのシリウス号。帆船に代わって蒸気船が提案された当初は、いわゆる専門家は「大西洋を横断するのに十分な石炭を搭載できる程大きな蒸気船を作ることはできない。」とこのアイデアを失笑した。1843年になると当時の英国でもっとも大胆に技術者であったブルーネルは、船の推進力は寸法の二乗に比例し、積載量は三乗に比例することを見抜き、この洞察からグレートイースタン号を建造する。しかしブルーネルは鉄道の巨大ゲージで破れたように、今度はスエズ運河の幅の制約によって、この巨大船体の実用価値を失わされた。 

消極的な幸福(521)
 この頃ピエールは、よくアンドレイ公爵との会話を思い出して、彼の意見にすっかり同意した。ただし今はアンドレイ公爵の思想に、いくらか別様の解釈を加えるのであった。幸福はただ消極的なものしか存在しえない、とこうアンドレイ公爵は考えもすれば言いもした。しかしこう言う彼の語調は、悲痛で皮肉な陰影をおびていた。彼はこう言いながらも、別の思想を述べているもののようであった−−つまりわれわれに賦与された積極的幸福の要求は、決して満足せられることはない、ただわれわれを苦しめるために賦与されているにすぎない、というのであった。

状況を引受ける(517)
 生きながら死ぬことを作家が心がけるには及ばないだろう、とサルトルはいった。生きながら古典になることが問題なのではなく、あたえられた状況の特殊性を普遍性へ向って超えることが問題である、−−というサルトルの考えは、おそらく彼が日本の作家にあたえた影響のなかでも、もっとも深いものにちがいない。古典的完成が作品ではなく、状況をそのあらゆる特殊性において引受けることが現代の作家の仕事の意味であり、その意味の証言が作品である。

成就院光宣(562)
 応仁の乱が勃発した要因は複数あるが、直接の引き金になったのは畠山氏の家督争いである。…畠山氏の家督争いがこじれにこじれたのは、義政の無定見だけが原因ではない。弥三郎・政長兄弟を一貫して支援し、義就に徹底的に抗戦した成身院光宣・筒井順永の存在が大きい。軍事的に弱体だった政長は筒井氏の援助がなければ、義就に対抗することは不可能だったはずで、その意味で「光宣こそが大乱を招いた張本人」という尋尊の評価は的を射たものである。

情緒主義(368)
 ラッセルの著作の中で、……理論的倫理学の部分は「情緒主義」 の色合いが強い。情緒主義とは、論理実証主義の代表的な倫理観で、物事の善悪の判断は、主観的な好悪の感情の表明に他ならないとする説である。つまり倫理的判断には認識的性格はなく、真偽の判定はできないとする。倫理的事実を非倫理的事実(情緒という生理的事実)に還元している、という意味では、これはこれでラッセル流還元主義に合致している。しかしこのささやかな還元は、自らの社会的・政治的メッセージと理論哲学との内的つながりを全面否定する、という大きな犠牲を払ってのことだったのである。

焦点合わせ(191)
 無限遠に焦点を合わせた焦点距離fのレンズを距離Lにピントを合わせるためにレンズ系を動かす距離は
       ΔX=f/(L−f)。
ただしLはレンズ前側主点からの距離で、主点の位置が分からないので、フィルム面からの距離をSとして、
       (ΔX)−ΔX(S−2f)+f=0
とする。これらはレンズ系全体を移動させる方法であったが、1900年頃から前玉だけ移動させて焦点合わせする方法が考えられた。トリプレットやテッサーの前玉の屈折率が全体の3倍もあると、前玉の焦点合わせのための移動量が1/9になるからであるが、前側の空気間隔が変化するので収差補正が崩れる。


聖道門の立前(525)
 文字ひとつもわからず、経釈の筋路もわからないような愚かなものにも、称え易いように工夫してくだされた名号であらせられるから、その名号をとなえて救われる浄土門を易行というのである。学問を大切な条件とするのは、聖道門の立前であって、難行と名ずけるのである。浄土門にありながら、学問をしてあやまって浮世の名問利養のおもいにとらわれるものは、この次の此に浄土 へ往生されるかどうか、覚束ないものであるといましめられた大切な証拠の御文もあることである。

承認された自己愛(290)
エリクソンは自己愛を社会化する過程が自我の成長であると考えていた。これは社会的に承認された自己愛=アイデンテイティであり、健全なナルシズムの発達が健全なアイデンティティの形成につながることになる。

常備軍(77)
最初の常備軍はフランスのシャルル7世が1445年に創設した勅令騎士隊。600人単位の20中隊から成っていた。イギリスではクロムウェルが1645年に編成したニューモデルアーミー。それまでの軍は傭兵か、徴兵によるものであった。

消費の創造(507)
 恐慌下の1932年の大統領選挙は、現職の共和党候補フーヴァーとニューヨーク州知事から民主党大統領候補となったローズヴェルトのあいだでたたかわれたが、恐慌を悪化させた張本人であるピッグビジネスや大銀行と同じ利害をもつと見られたフーヴァーは最初から不利だった。
…ローズヴェルトの考え方の根本は、1920年代に経済成長が過大な生産力の拡大によってなされ、他方で、消費購買力が不十分のままに放置されてきたことに問題の根源を見るものだった。ローズヴェルトは、より多く生産すればするほど、大衆の消費が拡大するというこれまでの経済学がおしえる原理を信じておらず、消費を刺激することが繁栄への道だと考えていた。
…そもそも1920年代には、「消費者が支払わなくてはならない価格はほとんど、あるいは全然下がらず、他方で生産費用は大々的に下がったことを同じ数字が証明している。この時期の企業の利潤は莫大なものだ。その結果、膨大な企業利潤は一方で新たな、不必要な工場設備の投資に向かい、恐慌下で遊休を余儀なくされている。

小四の壁(222)p.2
聾児の学力は使用学生三年の水準まではいくが、それから先は高原状態となり、四年レベルの学力を超えないという聾教育現場にある言葉。別の言い方をすると、どんなに潜在能力のある子どもでも、言語という道具なしに小四の壁を突き破ることは難しいということである。

将来は不確実(492)
 流動性選好利子論というものをケインズがとったとき、株価の決定においてすでに述べたように、強気の人もいるし、弱気の人もいる、それゆえに今日の均衡価格があるとケインズは言ったのである。
将来は不確実である。それゆえに今日の均衡、安定があるということが、あの株価決定理論におけるケインズの思想の中心であり、これはベンタム的な功利主義思想からの脱却という十九世紀末におけるケンブリッジの哲学、ムアの思想を受けたケインズ思想の根本であった。人間は将来どうなるかわからない。ことによったら、と考えるがゆえに今日安定しているのであって、自分の将来がどうなるか明確にわかったならば、人聞は今日生きていけないかもしれないのである。


書簡(467)
 この時代、エラスムスにしろビュデにしろ、遠地にある人々との意見交換や論争はほとんど書簡の形でなされており、しかもなかば公開の形をとっていたことを考えると、書簡のもつ意味は現代よりも数倍大きい。使者の携えたユマニストや改革者たちの書簡は各地の同志たちに争って読まれ、コピーが取られた。中にはかんじんの宛先人には原本がなかなか届かず、コピーによって内容を知るというようなこともあった。各地に運ばれる書簡はいわば当時の新聞でもあり、貴重な情報源であったのである。

書字錯誤(227)
サルトリが行ったダ・ヴィンチの筆跡分析は、彼がはっきりと書字錯誤のパターンを明確に示していることが明らかになった。左半球の脳障害や発育上の混乱の後に見られる綴り字の混乱のことである。ダ・ヴィンチは自分の才能の混乱を理由づけようとしてこう述べた。「文学的な能力のないりっぱな科学者の方が、科学的技能がなくて読み書きのできる人よりも好まれてしかるべきだ。」

ジョージ・ペガス・グリーノー(499)
 春の日にスミスの家を訪れたホールとグリーノウの心中には、彼らを迎えた主人を倣慢に無視するだけでなく、もっと暗く恐ろしいたくらみがあったのだ。この訪問とちょうど時期を同じくして、彼らはある計画に着手し、それがやがてスミスを破滅に追いやった。彼らは自分たちで新しい大規模な地質図を作るべきだと決めたのだ。…学会が一団となってその人的資源と専門知識を活かせばいい。正式に認められる立派な地質図(イギリス全土の地質を描いた決定版の地図)を作って、あつかましくも先手を取ろうとした無知な田舎者をこれ以上思い上がらせないよう、止めの一撃を加えなければいけない。
 1819年の春の初め、ジョージ・ペガス・グリーノウは、馬丁や舗装工やモグラ捕りから聞いたことをもとにした……さらに、スミスの仲間にいわせれば、無断でウィリアム・スミスの地図から借用し、ちょうだいし、引き写し、ちょろまかし、剰窃し、要するにデータをごっそり盗んだ……地質学の情報を、細心の注意と優美さでもって地図に書き加えはじめた。イングランドとウェールズの地下の世界が、いまや結成22年になるロンドン地質学会によって公に同定され、出版された。


ジョージ・P・スミスのカメラ(95)
 35mmフィルムサイズのカメラの元祖はバルナックのライカである。1912年アメリカのジョージ・P・スミスは映画の1コマ(18×24mm)2ケ使うカメラを試作した。現在ではライカ版と呼ばれるフォーマットを世界で最初に用いたカメラである。そのころ各国で同じような試みがなされており、フランスでは35mmのステレオカメラも作られた。ライカのドイツでもミニグラフと呼ばれる24×24mmの35mmカメラが1915年に発売されている。ライカはそのような同様な技術的試行の中で設計的に成功したために、元祖と呼ばれる。 
処女降誕(144)
四つの福音書のうち、ルカとマタイはイエスが父ヨゼフを通じてダビデ王の末裔であることを示している。独身主義のエッセネ派では、彼らの子孫を残すための、禁欲的な結婚を書から解釈する。

諸世紀(338)
「私(ノストラダムス)が、この世の奇妙な仕組みに気づいたのは、アジャン市で、ジュール・セザール・スリカゲリの仕事を手伝っていたときのことでした。…この太陽の下に、新しいものは何一つございません。歴史とは、永遠の再出発なのでございます。…そうでございます。すべての出来事は、周期的に繰り返すものでごさいます。過去の出来事の中からその要素だけを抽出していけば、それがそのまま未来の出来事となる理屈でございます。ただこの考えは、キリスト教の教えと相反しますゆえ、私は、すべての数字を入れ換え、自分の考えを隠さなければなりませんでした。…数字を移動させただけでなく、固有名詞の文字を入れ換えたり、他の言葉で代用させたりしたために、私の著作は、非常に抽象的になり、実際に事件が起きた後でなければわからないようなものになりました。」

初代教皇(436)
 「あなたはペテロである。そして、私はこの岩(ペトラ)の上に私の教会を建てよう。黄泉の門もそれに打ち勝つことはない。私はあなたに天国の鍵を授けよう。(マタイ16)」…カトリック教会ではこれを、ペテロが教会の初代教皇としてイエスによって叙任された典拠としている。しかしこの言葉がイエス自身にまで遡るとはとうてい思われない。…マルコ福音書のみならずルカ福音書の文脈にも、このような「教会設立の言葉」は見出されないのである。…「教会」という言葉も福音書ではマタイ福音書のみに用いられている。イエス自身の振舞から見て、彼自身に宗教共同体設立の意図はなかった。イエスが一度も入会儀礼としての洗礼を授けていない事実が、その一つの証拠となる。

初転法輪(143)
釈迦が梵天勧請に応じて説法を始めた、この最初の説法のこと。鹿野苑(サルナート)は釈迦が苦行を捨てたた地であり、最初にここに戻って説法をした。
 
ショート・セール(133)
空売り。将来の株式の下落を予想して、他から株式や資金を借りる。返済するときは、その時の時価でよいので、株が下落していれば、その差額が利益になる。 この逆がロング・セール(空買い)。いずれも現物を所有しない信用取引きで、株が上昇しても下落しても利益を得るしくみ。

商人ヨハン・フィリップ・メラー(530)
 イタリアの旅が、人および芸術家としてのゲーテにどれほど重要なものであったかは周知のことで、この旅行によって詩人ゲーテは完成し、この旅行あって始めてドイツ古典主義の文学は、確立された。それだけに、この旅行ほど必然的な促しによって実行され、同時にまた偉大な収穫をもたらしたものは、他に比類がないであろう。1786年9月3日に、ゲーテがただひとり家令のフィリップ・ザイデルに行先を告げたのみで、早晩滞在先のカールスパートをひそかに抜け出し、追手を恐れるもののごとく商人ヨハン・フィリップ・メラーという仮りの名を用いて、まっしぐらにイタリアの空をさして駅馬車を乗り継いで行った姿は、さながら磁石に吸いつけられる鉄片のようであった。ドイツ人の南欧に対する憧れは、中世このかた気候風土的に、文化史的に、それは実に彼らの宿命なのであるが、この「向日性」はゲーテのイタリアの旅においてその頂点を形作っているものと言ってもよいであろう。

書物としての大聖堂(514)
 ヴィクトール・ユゴーは、光が多くの闇と混じりあった『パリのノートル・ダーム』の章の一つの中で、こう言っている。「中世には、人間がおよそ重要だと思ったことで石で書き綴らなかったものは何もない。」私たちは、この詩人が天才の直観力で感じ取ったものを、苦心して証明した。
 ヴィクトール・ユゴーの言ったことは真実である。大聖堂は書物である。中世美術のこの百科全書的な性格が最も著しいのはシャルトルである。私たちが今日でもなお感じることを、中世の人はどれだけさらに生き生きと感じたことだろう。彼らにとっては大聖堂は、完璧な啓示であった。それは、言葉、音楽、宗教劇の生きたドラマ、人像群の演ずる動かない劇であり、あらゆる芸術がそこで結合しているのだった。


ジョン・ダン(183)
 美術と異なり文学のマニエリスムはイギリスで隆盛を見た。「白骨に絡まる金髪の腕輪」という表現で、エロースと死を歌うジョン・ダンがその代表者。シェークスピアと同時代人で、セントポール大寺院の主司祭でもあった。

ジョン ダンの再評価(441)
 このような時代の混乱と不安をイギリスのマニエリスム詩人ジョン・ダン(1573--1631)は次のように歌っている。
    新しい学問は総てを疑惑の淵に投げ込んだ
    火の元素は消え果て  太陽は見失われ
    大地もまた同じ いかなる人知をもってしても
    何処にそれを探し求めるべきや分からず
    人々はしきりと洩らす、遊星に、あの天空に
    あまりに多くの新しきものを探し求めた時
    地上の世界は脱け殻同然 この世は壊滅し再び原子に戻った
    あらゆるむのは散々になり、すべての正しき結合は失われた
    王と臣、父と子の問の互いの扶助、然るべき関係は
    すべて忘れさられてしまった 世界の均衡は歪んでしまった
    ああ疑うすぺもない あの至高の美、均衡は死んでしまったのだ……
…この詩人の作品もマニエリスム美術と同じく300年間悪趣味として批難され、…今世紀にいたるまで、ほとんどその真髄を評価するものはいなかった。ダンの再評価は、詩人のT ・S・-エリオットが…テクノロジーが極度に発達した文明社会において、知と情の分裂という問題に苦悩する現代人に、知と情が合一し、「思考を一個の薔薇の花の香のように感得する」詩人として紹介したのである。


ジョン・ノックス(118)
16世紀のイングランドの宗教改革者。流血のメアリーによるイングランドの支配下でカトリック化したスコットランドでカトリック打ち壊しをおこなう。このメアリー亡き後メアリー・スチュアートがフランスから戻り、ノックスと宗教論争をおこなう。

ジョン・バック(226)
アメリカでは、ヨハン・S・バッハをジョン・バックと平気で言う人がいて、こちらは目を白黒させられる。
 
ジョン・ハリソン(92)
生涯、海上精密時計を作り続け、月距法で経度法の賞金を狙う王立天文台長マスケリンと競う。経度二分の一度を40日の航海で保証するには、日差3秒を過酷な環境変化の中で保証する必要があった。材料の伸び縮みを木の木目を生かす、複合材でバランスさせる、油を用いず摩擦・摩耗を抑制するなどの数々の工夫を行った。 30kgを越えるH−1の初航海で経度法の基準を満たしたが、完璧主義のハリソン自身が受け取りを拒否して、さらに高精度の開発を約し、さらにH−2〜H−4までのクロノメータを作った。 工学技術が理学知識に勝利した歴史的な開発であったと評価できる。

ジョン・フレデリック・トーマス・ジェーン(423)
 イギリスで生まれた「ジェーン世界の戦闘艦艇年鑑」の創始者。
当初、ジェーンが自分の名前を冠するほどに熱中していたのは、軍艦だけだった。ポーツマスの教区付司祭の息子だったジェーンは、おなじ艦種たとえば、ドイツのヴィクトリア・ルイゼ級巡洋艦に属する軍艦を一隻ずつ区別できるくらい詳細な絵を描くという夢をかなえるために、24歳の年に家を離れた。それには細かい部分まで見分けるたぐいまれな目を必要とするが、それでもロンドンでは夢の仕事は見つからなかった。金がなくなったジェーンは、大好きな船が投錨しているのが見られる、海に面した岸辺に居を移し、物乞いをして飢えをしのいだ。美しくも精密な自作の画集のおかげでジェーンはついに雑誌の仕事を得て…。

 
地雷(102)
1954年5月25日15時、キャパはドアイタンでベトミンの地雷を踏んだ。左足が完全に吹き飛ばされ、左手にはコンタックスが握られていたが、首にかけていたニコンは爆風で数フィート飛ばされていた。その時40才であった。

シリアス・フォト(313)
コマーシャル・フォトに対応する概念。「報道写真」も「ネイチャー・フォト」も依頼された仕事である限りコマーシャル・フォトである。自らの欲求にしたがって、自らがテーマを立てて写真を制作するのがシリアス・フォト。この「シリアス」という態度を、自らを含めて「アマチュア」と読み換える植田正治の意識は秀逸であるとしか言いようがない。

シリコンバレー(256)リーナス・トーバルズ
シリコンバレーで出会う人々は、たいていが自分自身を熱狂的に崇拝していて、自分の仕事、すばらしいアプリケーション、産業界のことしか頭になく、他のものは何も存在しないかのように振る舞う。自画自賛の言辞の繰り返し(ここの人はそれを会話だと思っている。)

シリル・バート卿(557)
シリル・パート卿は、心理学を発展させた重要人物の一人である。…「彼は徹頭徹尾心理学者、であった最初の人物である…」彼の貢献はいちはやく1946年には認められ、ナイトに叙せられた。パートが行なった計量心理学と知能テストに関する研究は、第二次世界大戦後にイギリスの教育当局が「11十テスト」の導入を決めるさいの大きな要因の一つとなった。…彼が出した重要な成果の多くが捏造であったり、少なくとも操作の手を加えたものであったという告発が現われ始めた。…
 知能という問題がもっている社会的な重要性は、ヨーロッパでもアメリカでも等しく認識されてきた。イギリスの学童はもう長年にわたって、十一歳になると知能テストを受けさせられている。これは「11+テスト」として知られているもので、このテストの結果がベースとなって、子供たちが入学できる高校のタイプが決められている。ひとつは大学への進学が可能となるアカデミックなコースであり、もう一つは〈セカンダリーモダーン〉スクールへと進学して、社会的にはより低いキャリアへとつながっていくコースである。テストの結果によって人生が決定づけられてしまうわ子供たちやその家族にかかるプレッシャーはきわめて大きい。

時輪タントラ(376)
 イスラーム教の侵入後に時輪タントラが成立しました(1027年ころ−−1087年ころ)。イスラーム教がインドを席捲したので、それを撲滅するため仏教徒がヴィシュヌ、シヴァとの連合軍を形成するのだといいます。占相学的要素を多分に含み、メッカに言及し、イスラーム教紀元を用いています。1203年に密教の根本道場であるヴィクラマンーラ寺院がイスラーム教徒の軍隊に破壊され、僧尼が諸所で殺戮されました。それとともにインドで仏教は急激に衰滅していきました。ついに、イスラームのインド支配が確立するとともに、仏教はインドからほとんど消え失せてしまいました。ブッダはヴィシュヌ神の化身の一つとして、辛うじて余喘を保ったのです。

シルヴァプラナ湖畔(155)
 ニーチェが1881年スイスのシルス・マリアに滞在中、この湖畔で<永劫回帰>の啓示を受け、ツァラトゥストラの霊感を得る。

シルクロードの死(411)
 オスマン皇帝スルタン・スレイマンが「幾多の国の君主、三つの大陸と二つの海の支配者」と誇ったのも決して騎慢の言葉ではなかった。…ヨーロッパとアジアの交通路、すなわちシルク・ロードの西方関門は完全にオスマン・トルコに制せられたのである。
…15世紀のヨーロッパは、新しい時代の門口に立っていた。…ところが強大なオスマン帝国による東西貿易の閉鎖は、かつての経済的動脈であった地中海の機能を扼殺してしまう結果をもたらしたのである。そこでヨーロッパは…シルク・ロードに取って代わる新しい東方交通路、すなわち海路の開拓をする…を選んだ。

知ることを敢えてせよ(487)
 思想的に成熟をとげたカントは、有名な『啓蒙とは何か』(1784)という論文の冒頭で、啓蒙をつぎのように定義する。「啓蒙とは、人聞が自分自身に責任のある未成年の状態から抜け出ることである。未成年の状態とは、他人の指導を受けずに自己の悟性を使用する能力のないことである。自己に責任があるとは、未成年状態の原因が悟性の欠乏にあるのではなく、他人の指導を受けずに悟性を使用する勇気に欠乏にある場合のことである。知ルコトヲ敢テセヨ!自己自身の悟性を使用する勇気をもて!というのが、したがって、啓蒙の標語なのである」

知るの次なり(508)
【子日はく、蓋し知らずして之を作る者あらん。我れは是れ無きなり。多く聞きて其の善き者を択びて之に従ひ、多く見て之を識す、知るの次ぎなり。】
孔子は謙虚であった。「あるいはじゅうぶんなもの知りでもないのに新しい創作をする人もあるらしいが、わたくしはそんなことはない」。古注…は「当時には穿鑿してでたらめに書物を作る者がたくさんいたから、このように言ったのだ」という。…自分が創作者ではないこと、要するにたくさんの見聞をもとにして学びつつあるものだということを言おうとしたのである。「たくさんのことを聞いてそのなかの善いものを選んでそれに従い、たくさんのものを見てそれをおぼえるようにする」。そのようにして学びつつあるのが今の自分だという。創作のできる知者ではない、「知者の次ぎぐらいのものだ」


シレノスの箱(450)
 アルキピアデスは、ソクラテスの知恵を讃えながらも、ソクラテスがもったいぶらず愚人のように見られていることを、表面には醜怪なシレノス神を刻み、なかには高貴なものを収めた小箱、シレノス箱にたとえている。この佯狂の哲人のたとえは、ピコ・デッラ・ミランドラによっても、ギヨーム・ピュデによっても用いられ、多くのユマニストによって好んで活用されたが、ラプレーも『第一之書ガルガンチュワ物語』序詞で、これをきわめて巧みに用いている。

白い闇(372)高群逸枝(広野海岸にて)
 行つても行つても海岸の道は続いてゐる。「此所に泊りませう」私は遂々ある木蔭の草原に疲れた身体を横にして了つた。そして凝乎と海の光景をしみぐとした瞳で挑めまわした。夕方である。此辺り波が烈しいので飛沫が銀の煙をなし濠々と立ちこめてゐる為め水平線も判然とはわからない。すぐ足の下に浪が狂つてゐる。闇は次第に迫る。白い閻だ。見る見る限界は狭められ見る見る真つ白な闇が幕の様にたれ下る。闇の上に星が浮かぶ。お! 天の川! 行く方も分らずその白いものドン底になだれ落ちさうだ。お爺さんは早や横になつて了つて居る。海と夕やみと、七十三の萎びた老人の亡骸の寝姿と−私は静かな落ちついた心で「死」を考へた。

白の発見(332)
 有機EL材料は、それぞれ固有の色を発する。しかし白だけはまだ得られていなかった。白を出せればRGBを自在に表現できるはずだ。…白を筆者(城戸淳二)がつくったのは、山形大学に助手として採用されて3〜4年目の1993年のことである。…青色のポリマーというのは、励起エネルギーレベルが非常に高い。そこに緑色の色素を混ぜるとどうなるか。発光色の異なる色素が混じっていると、エネルギーレベルの一番低い色になるというのが常識であた。…ある日、赤をつくろうとした。ふつうは青色のポリマーのエネルギーが赤色に移って赤く光るのだが、その効率があまりよくなかった。このため青色がちょっと光って、赤も少し光ってくれてという具合になったおかげで、なんと白っぽい光が出てきたのだから驚いた。そこで緑をちょっとだけ混ぜて、白色ができたのである。
 要するに緑と赤の濃度をものすごく低くしてやれば、青も光るのだ。距離の離れた分子間ではエネルギーのやり取りが押さえられる。


白バラ抵抗運動(43)
ドイツ国内におけるナチスに対する最もよく知られた抵抗運動。ミュンヘン大学生ショル兄弟が「白いバラ」と題するパンフでヒトラーを悪の独裁として批判、抵抗。1943年大学本部でパンフを撒き散らし、処刑。マンの息子のゴーロ・マンは「ドイツにおいて抵抗運動を行ったのが彼らだけだったとしても、彼らの行為はドイツ語を話す人たちの名誉をいくばくかを救うのに十分であったろう。」と書く。
 
ジロンドにおける特級銘柄の格付け(97)
ナポレオン3世がパリ万博にフランス・ワインの最高品を展示すべく、1855年に、ボルドー商工会議所に対して、ボルドー・ワインの格付けを命じた。その当時はメドックのワインが商品価値が高かったため、結局、現在まで、それぞれのワインの位置づけを決定することとなる「メドック格付け」となってしまった。 今から見ると、とっくの昔に時代遅れになってしまった境界線、今日では現存しない所有関係、商売上の張り合い、と多くが根拠なく矛盾に満ちた基準に基づいてつくられたものである。

辛亥革命(543)
 辛亥革命とはいったい何であったのか。この革命は260余年にわたる満州族の中国支配と二千年におよぶ皇帝支配を打倒することに成功した。しかし、すでに述べたように、その実現のためには、袁世凱に代表される旧勢力との妥協という致命的な代償を支払わねばならなかったのである。袁の登場は旧勢力の復活であり、北洋軍閥支配の開始であった。この時点における革命の課題がブルジョア的変革であったとすれば、辛亥革命はあまりにも不徹底であり、率直にいえば、完全に失敗したと認めざるをえない。
 思えば、彼(孫文)が興中会の結成によって革命運動に足をふみ入れてから25年の軌跡は、失敗につぐ失敗の連続といってよかったが、ことに辛亥革命・第二革命・第三革命・広東軍政府樹立とつづいた政局激動の中で十分なリーダーシップを発揮することができず、いずれも不本意な結果に終ったことは彼の政治生命にとって大きな打撃であった。このままでは、辛亥革命の元勲としての虚像はなお残るものの、孫文の存在自体が過去のものとなりかねない。真の革命運動を再出発させるにはなにを、いかになすべきか、それがこの時期の孫文にとって解決すべき最大の課題であった。


進化論とキリスト教(553)
 進化論が有力になるとともに、キリスト教の側からも、あえて妥協しようとする傾向、があらわになってきた。一言でいえば、進化それじたいを神の計画に包含してしまうことだ。神ははじめから自然を、そして生物を、進化するものとして創造したとする解釈が提唱されだした。じつはこの考えじたい、かならずしも近代以降の独創ではなく、すでに萌芽が創造説のなかに存在していたとみなすことができる。中世のはじめ、キリスト教神学の基礎をすえたとされる人物に、アウグスチヌスがいた。アウグスチヌスによれば、神が創造したものは、いまとおなじ姿をした生物ではなくて、そういう生物を作りだす成因にほかならないという。要するに生物になるもとこそ、創造の対象だったのであり、中世最大の哲学者といわれるトマス・アクイナスも同様な考えを継承した。こういう主張をもう少しおしすすめるならば、その成因のなかに、種を形成する原因になる力をふくめることも、あながち無理ではなくなってくるわけだ。

進化論の祖(553)
 アナクシマンドロス(BC610--547?〉は、大むかし地表の湿った泥のなかに、最初の原始的な生命がひとりでにわきだし、それがしだいに変化して動物と植物を生み、その最後に水中でくらしていた魚の一種が、陸上へあがって皮をぬぎ、人間になったととなえた。かれはしばしば「進化論の祖」とよばれることがある。
 エムペドクレス(BC493--433?)も、古代の進化論者にかぞえられることが多い。大むかし動物のさまざまな器官がべつべつに、地中で生じて地上にあらわれ、さまよいつつ出会った同士が結合をつづけ、じつにおびただしい各種各様の生物を出現させたというのが、かれの学説であった。そしてそのうち生存に適したものが残り、他は絶滅して現在の生物界が形成されたという。この発想のなかに、後世の進化論における適者生存説の芽ばえがみられるという評価もなされている。


新幹線(128)
静岡県函南町にある地名。戦時中に新丹那トンネルの工事関係者が住みついたことから名づけられた。新幹線という呼称が、現在の新幹線以前の弾丸列車計画時代に既にあった証拠。
 
人工生命(62)
ヒッピー上がりのクリス・ラングトンがゲームの画面の中に生命を見て、これを人工生命と名づけた。セル・オートマトンとして形式化される格子の状態の遷移をコンピュータ進化として記述して生命の創造(自己増殖)を再現しようとした。 これによってクラスT〜Wまでの転移により、秩序から複雑性へそしてカオスにいたる。
 

人格と本質の相違(83)
グルジェフの最も基本的な概念。赤子は[本質]つまり世界に対する実体的反応しか持っていない。成長に従って他人に対する反応として[人格]が形づくられる。これを契機に[本質]の発育が止まって、人格がそれにとってかわる。「あなたが自分自身の中で[意志]と呼ぶものは[人格]から来ているものにしかすぎない受け身なものである。本物の意志とは[本質]のなかにのみ宿る。」

進化の強い証拠(253)
生体構成分子の光学的特性の普遍性も進化の強い証拠である。有機分子は非対称なので、互いに鏡像関係にある二つの型、すなわちD(右旋)型とL(左旋)型がありうる。どちらの型も試験管内では等量が合成されるし、機能的にはまったく等価である。つまり、片方が優越しているということはない。それにもかかわらず、地球上の生物には片方の型しか見られないのである。アミノ酸はすべてL型、DNAと糖類はすべてD型である。これは、現生生物の共通祖先がたまたまそのような特性をもっていたからだと考えなければ説明ができない。

進化論の欠陥(79)
大野乾は学界でどのように評価されているか分からないが、以下の議論はシンプルでおもしろい。「ダーウィンの自然淘汰による適者生存説は生存という言葉が示すように、生物にだけしか適応しない。……つまり、生物独特の法則に従って、外の現象とは独立に変遷を重ねてきたと考えがたい。この地球で30億年位前に起こった、最初で最後の生命の誕生については自然淘汰説はまさに無用の長物である。この説は生命誕生後にしか適応しないからである。……自然淘汰はすでに獲得した機能の現状維持にしか役に立たないし盗作は創造なくしてありえないとしたら、本当に重要である原始遺伝子の機能獲得という創造には何が関与しているのであろうか。」

蜃気楼(462) 
 「竜宮」とはなにか。南方によれば、秀郷の竜宮は、琵琶湖底であった。インド、アラビア、東南欧、ペルシア等には、竜や大とかげが宝ものを伏蔵しているという話が多い。また、「船で運ぶ無量の珍宝財宝が難破のため多く海に沈む」ことから、海底に財宝ありという想像が生まれたのもふしぎはない、とする。
 現在、海底資源の開発がさかんにいわれていることと考えあわせると、竜宮説話は必ずしも「蜃気楼」ではないかもしれない。ちなみに、蜃とは大きな姶のことで、蛤が見る夢を蜃気楼、すなわち竜宮図絵とするのだそうだ。


神宮司駅(NHK-TV 1999-12-18)
山形新幹線がはじめてのミニ新幹線として実現したときに、半可通の多くは福島・山形間は3本レールだと主張した。しかし在来線と新幹線が同じ軌道を走る山形新幹線は2本レールである。だから秋田新幹線も同様だとおもっていたが、TVで神宮司駅構内の3本レールを写した。神宮司は大曲の一つ秋田よりの駅である。大曲から新庄方面の狭軌在来線の車両運用のためであるうか。ところで、大曲は新幹線唯一のスイッチバック駅である。
 
神経膠細胞(195)
グリア細胞と呼ぶ。脳が神経細胞だけでできていると、いたるところの接触点で興奮が伝達されてしまう。グリアは神経細胞を包んでシナプスでのみ神経細胞が接触するようにしている。脳は神経細胞とグリアと血管から成り立つ。
 

神経ダーウィニズム(195)
進化論的認識論という考え方がある。「認識」も自然選択と同様の過程によって進化する。認識を選択するのは経験である。認識は種であり、経験は環境である。認識は経験によって選択され、現実に合わない認識は絶滅する。(設計も認識であるので、この考えは設計論にも適用できる。)この進化論的認識論の生物学版がエーデルマンの「神経ダーウイニズム」で、個体における脳の構造変化そのものが自然選択によって規定されると説明する。

新ゲルマニア(353)
 私が何よりも興味をおぼえたのは、まだだれも書いたことがない新ゲルマーニアの物語だった。これは1世紀以上も前に、エリーザべ卜・ニーチェの助力によって南アメリカ中央部に築かれた、人種差別主義者の移住地である。その共同体は、エリーベトが夫のベルンハルト・フェルスターと分ちもっていた反ユダヤ主義、菜食主義、民族主義、ルター主義の信念を反映し、実現していた。エリーザベトの夫は当時もっとも悪名高い反ユダヤ主義の扇動家だったのである。のちにエリーザベトはこうした考えを、反・反ユダヤ主義者で反国粋主義者で、みずからアンチ・クリストを宣言していた(兄)ニーチェにも植えつけようとした。その成果のほどは、いまだにニーチェの名からファシズムの汚名が完全に払拭しきれていないという事実をみれば、明らかである。

人工知能(227)
最初の人工知能プログラムは大学レベルの微積分ができた。しかしプログラマー達が高校の代数に取り組んでみると、マシンにはその方が難しかった。小学校の数学−数の概念−は一層の難問だった。そして度もの積み木の世界は、ほとんど太刀打ちできないしろものだった。

信仰の悲しみ(404)
正二は性懲りもなく日比谷公園に足を向けた。「なんだ、あれは?」 その日正二がみたのは、公衆便所から出てくる眩い光に包まれた数人の女性の行進だった。さっそく、正二はスケッチブックに鉛筆を走らせた。それが、二科第5回展に入選した「信仰の悲しみ」の下絵だった。
「‥私は先日来、極度の神経衰弱になり、それは狂人とまで云はれる様な物でした。併し私はけっして狂人でないのです。真実、色々な暗示又は幻影が目前に現れるのです。…女が三人又は五人、私の目の前に現われるのです。…下絵はできたが肝腎の絵具もカンバスもない。正二はそれらを買う資金調達の手段として、七月のなかばに『関根正二小品画会』を発足させ、会員を募集したのだが、入会者はひとりもなかった。


新ゴールドベルク(226)
グールドのゴールドベルク変奏曲の録音は1955年に行われた。1967年にステージから去り、50歳になったら録音もやめるといってその50歳、1982年に再びゴールドベルクをヤマハのCFで録音し、その年の死去する。

真言立川流(379)
 空海の真言密教(東密)の中に突如として立川流が出現するのは平安時代末期である。そしてこの法流を興したのは…京都の醍醐寺に住していた左大臣阿閣梨仁寛(−1114頃)だといわれている。しかし法流として活動が始まるのは、醍醐寺を舞台にしたある事件により、仁寛が流罪となって以降のことである。立川流はのちに東密の中で、性愛の秘儀化が進み、そのことが表だつにつれ、邪教というレッテルをはられ異端視されるようになる。…公家文化中に入り込んだ正純な密教が、末法思想を媒介として、立川流を生み、庶民に伝播しょうとした矢先に弾圧され抹殺されたともいえよう。
 立川流は陰陽思想を中軸にすえながら、正しい密教の教理を曲解したものといわれている。しかも阿と吽、理と智という対立概念は究極のところ男女両性(両根)を意味するものと見なし、その両方には機能があると見なすことによって理智不二、金胎不二という密教教義の根本を男女二根交会であると結論づけている。そしてこれらの男女の性的行為そのものを通して、不二冥合すなわち煩悩即菩提を説明する。さらにこれらの境地が最終的には即身成仏の境地と同じであると説くのである。冥合という呼称について、伝統的な解釈では二つの対立概念が「融合」するものと理解されている。


真言密教(376)
 「真言」とは、まことのことば、サンスクリット語でマントラといいます。マントラとは、もとをたどればヴェーダに由来することばで、ヴェーダ聖典の神々を讃えた文句、あるいは祀りの際に儀式のうちに使われる文句のことです。「密教」というのは、秘密の教えということです。今まで説かれた仏教の教えというのは、だれにでも説かれた、凡夫にもわかるような教えでした。しかし、仏さまのほんとうの思惟は、凡夫にはなかなかうかがい知ることのできない高い奥深いところにある。…修行がすすんだあとで教える奥深い教えである」という立場で、だいたい七世紀以後におこった新しいかたちの仏教が、みずからを密教と称した。…この時代はちょうど社会全体としてヒンドゥーイズムの時代で、ヒンドゥー教がさかんになったため、仏教もおのずとその影響を受けざるをえなかった。

人材のロングテール(468)
 「人材のロングテール」が存在する。資格や経歴を持つ人々に限らず、技能とアイデアと人助けの時間のある、さまざまな分野の多くの人材がそこにいる。上司の命令よりも自分の情熱に従いたいプロや、なにかに貢献できるアマチュアの隠れた能力を表に出すことが、オープンイノベーションの真の力なのだ。
 このモデルが強力なのは、それがすでに僕らの周りに存在する「隠れたエネルギー」(作家のクレイ・シャーキーは、これを「知力の余剰」と呼んでいる)を利用しているからだ。これは、究極のマーケットソリューションだ。オープンイノベーションのコミュニティが、隠れた供給(その分野でいまだ雇われていない人材)と隠れた需要(通常の手法で作るとコストがかかりすぎる製品)を結びつけている。


人種不平等論(110)
ゴビノーの著作。人種というのものは不平等で、その才能は不平等にできている。北欧人のみが高度の文明を作った。比較文明論を創始したゴノビーは、それによって人種差別理論の創始ともなった。

真実収集者(420)
 死ぬ前にわたしは彼を訪ねた……その頃(スターリン時代)は空中に革命の思想が漂っていて、臨終の枕許に司祭の代わりにチエキストが来るような時代だった。しかし結局は、無神論者でも自分の心を楽にしなければなりません。でも、真実のみを語るように決められている機関以外に、いったい誰に話したらいいのです。そこでチェカーにチェキスト・司祭の特殊任務班がつくられたわけです。彼らは『真実収集者』というような呼び方をされたはずです。

信じられないほど美しい広場(18)
 海岸から6マイルの所に、ピサの人たちが奇跡の場所と呼んでいる信じられないほど美しい広場を、ピサは誇りにしている。その広場は華麗な大聖堂や洗礼場、そして有名な斜塔に囲まれ、それらすべてが12世紀から14世紀のピザン・ロマネスク様式白い大理石で彩られている。……1991年、地面がずぶ濡れになるほどの激しい雨で塔がまっすぐになり、地中のコンクリートブロックに結合された傾斜鋼ケーブルで一時的に安定したことが報告されている。

神人共働説(467)
 「私たちの知恵は、それが真実また真正の知恵といわれるにふさわしいものであるかぎり、ほとんどすべて、二つの部分からなる。すなわち神を認識するとき、私たち人間は各自、みずからを認識するのである。(カルヴァン:キリスト教綱要) …神の認識と人間の認識は、もはや分かちがたく結ばれて、知恵の二つの部分にとどまらず、ひとつの真理、実在をめざすものとなる。ところでこの神と人との認識という表現は、べつにカルヴァン固有のものではない。
 人間あるいは自己とは何か、を知ることによって神を知り、神を知ることによって自己を知ることは、十六世紀ユマニストたち一般の課題だったのである。…エラスムスにしても、同様の課題をかかえていたのであった。神秘的傾向の強いいわゆる「近代的敬虔」から出発したエラスムスは、自分を無と感ずる。しかし彼は神の思想とともに働くことのできる自由意志の存在を積極的にみとめ、この神人共働説の一点で改革者たちと一線を画すようになったのであった。


神殿騎士団事件(494)
 ありがたい十字軍の申し子であるとはいえ、こちらのフランス王としては、常に喉元に短剣をあてられている気がしたに違いない。もうひとつの不都合は金を持つ点だった。僧院を建て、それも城砦まがいの施設に仕立てとできたのも、その資金力ゆえの話なわけだ。神殿騎士団がどうして金持ちだったのかといえば、それまた十字軍熱の賜物だった。聖地奪還に加われば、死後の天国行きが約束されるといわれても、遥か遠く東方パレスチナまで、誰もが簡単に出かけられたわけではない。出かけられない向きは、かわりに喜捨いたしますから、自分たちの分も頑張ってくださいと、こぞって神殿騎士団に寄付寄進を行ったのだ。
 かくて肥え太り、そのままヨーロッパに戻るや、神殿騎士団は高利貸しのような真似を始めた。いうまでもなく、あまり褒められた業ではない。ところが、これを歓迎する向きもあった。上得意の借り手が王侯貴族、わけでもフランス王家だった。
、フィリップ4世はローマ教皇との戦いに決着をつけた直後の1307年春、神殿騎士団を背教行為の嫌疑で調査する旨を表明する。調査は口実で、本当の目的は修道会が有していた、莫大な資産の没収だったろうとされる。
数々の異端の証拠が得られたとして、ほどなく断罪の運びにもなった。神殿騎士団総長ジャック・ドゥ・モーレーの火刑は、1314年3月19日のことだった。


人生(496)
 彼は旅行については「われわれが旅行をするのは書くためではなくて、旅行をするためである」と言った。まことに彼の言うとおりであるが、これを人生のあり方にあてはめてみると、われわれが生きるのは、実は何かを成就するためにということではなく、ただ生きるために、ということになろう。有用なことをしとげるのは結構なことであり、それでその人の生は有意義だったということになろうが、たとえ成就にまで至らなくとも、一日一日を充実して生きれば、その人はりっぱに生きたことになる。われわれは結果にだけ支配されるべきではない。この考え方はかなり突飛に聞こえようが、ゲーテの気持ちを突きつめれば、こういうことになってくると思う。

神聖娼婦(418)
 もう一人はフェニキアのティルスにいた魔術師シモンである。グノーシス的魔術の雄シモン・マグスは、かつてティルスの娼家にいたヘレナという娼婦を請け出して、彼女が肉の女ではなく、自分の頭のなかから生れたエンノイア (思想)であると称して、常時一緒に連れ歩いていたという。しかも彼は、この母なるソフィア(知の女神)と同一視された卑しい素姓の女の加護の下に、空中から次々に天使や人造人間を作り出すすぺに通じていた。…わがカリオストロもまた、ローマの街頭で拾った美人女中ロレンツァ・フェリチアーニを押し立てて諸々方々に潜り込み、彼女に売笑を強いる一方で、空中の精霊や天使と自在に会話を交す秘法を身に着けていた。カリオスト口はまさにピュタゴラスやシモン・マグスの再来であり、ロレンツァ・フェリチアーニは源泉をトロイのヘレナにまで遡る蒼古たる神聖娼婦のいまに見る化身なのである。

人生の意味(517)
 人間(の意識〉が自由であるということは、必ずしもその人間の生涯に意味をあたえるということではない。個人の自由に固執するか、自由を犠牲にしても人生に意味をあたえるか、いずれかを択ばなければならない状況もあり得る。
 どうせ死ぬならば、意味のある死を死ななければならぬ、という立場から、マティユーに入党をすすめる。彼自身はマジノ線の前に送られるかもしれない。しかしそれはみずから引受けた危険であるから、無意味ではない。「今何がおころうとぼくの人生の意味を奪うことはできない」と彼はいう。


人生の高(516)
 伊丹も三島もソクラテスも、いろいろな方向の「人生の極み」を経験していたことは間違いないが、彼らの死亡年齢の遣いは私には、否定主義(人間の種々の方向への快楽的解放を否定する立場)の度合いの強さに比例しているように思える。
つまり、「人生とはどういうものか?」(人生の高)と「自分とはどの程度ものか?」(自分の高)について、納得の境地に達する年齢と、その人の死亡年齢とが相関するように思えるのである。
同性愛者でもある三島由紀夫がその点であらゆる方向の極みの達成が一番はやく、グルメの伊丹十三がその次で、七十歳で幼子を抱えていた否定主義的倫理教師(つまり人間のあらゆる方向への快楽の追求を限定する否定的な教師)のソクラテスが一番遅かったのではないか。


人生の目的(521)
 以前彼(ピエール)がたえず苦しみ求めていたもの、すなわち人生の目的は、いま彼にとって存在しなかった。彼の尋ねあぐんでいるこの人生の目的は、一時的に存在しなかったのではない。もはやそんな目的などはないし、またありえるものでもないということを、彼ははっきりと感じた。そして、この目的がないということは、彼に完全な喜ばしい自由の意識を与えた。今の場合この意識は、彼の幸福をつくりなしているものであった。
 彼は目的をもつことができなかった。なぜといって、彼はいま信仰をもっていたからである。それは何らかの法則や言葉や思想に対する信仰ではなくて、常に感知しうる生きた神に対する信仰であった。以前、彼はみずから課した目的のなかに神を求めていた。この目的の探求は要するに神の探求にほかならなかった。ところが、捕われの身となっているうちに、とおい昔に乳母が言って聞かせた言葉、 「神様は、ほらあれです、そこにでも、どこにでもおいでになります」と言ったことを、言業や理屈でなく直感をもって忽然と悟ったのである。彼は捕われの身となっいるうちに、カラターエフの内部にひそんでいる神のほうが、フリーメーソンの認めている宇宙の建築者よりも、はるかに偉大で、無限で、とうてい捕捉しがたいものだということを知ったのである。


神聖不可侵な党派(455)
 〈神〉の神聖不可侵性は守らねばならないんだ。あやまらない党というものはありえないが、あやまってはならない党派というものもまたあるのだ。おれはだから革命後にアナーキストを弾圧したレーニン、そしてトロッキーを追放したスターリンは正しかったと今も考えている。ハンガリアの労働者や学生の蜂起を戦車でおしつぶしたソピエト・ロシアの軍事方針もまたやむをえないものと了承する。…党を守るために裁判所ですすんで自己批判して裁かれていった党員たちの方が偉いのだとおれは思う。それが党派たるものの時に甘受せればならぬ運命であり、党派なるものの鉄則なのだ。…しかし、おれがもし、ジノヴィエフやプハーリンのような立場に立たされれば、やはり党の方針転換を非難すろよりは、自分のいたらなさを批判し党の意向を掬んで、みずからを罰するだろう。それは自分に主体性がないからではなくて、なによりも革命とその政権とを尊重するからだ。

シンセシス(488)
(カントは第一版で)「総じて、綜合(シンセシス)というのは、盲目ではあるが、心の欠くべからざる機能である構想力の働きによるのである。」第二版で「構想力は、対象をその対象が現前していなくても直観において表象する能力である。」  (これは総合=構想力=設計ということではないか
 ハイデッガーの言うところを簡単に解説しておこう。
「構想力」は、形而上学において上級認識能力である「理性」や「知(悟)性」にくらべて、伝統的に下級認識能力と位置づけられてきた。その下級認識能力を頂点に掲げるならば、すべては混乱に陥るのではないか。さらに、感性と悟性の根本に、構想力があるとしてしまうと、カントの基本的立場である二元論は、構想力一元論へと転化してしまう。
 へーゲルによれば、「超越論的構想力」は、一方では〈直観的〉活動であると同時に、その内的統一はまったく〈悟性そのものの統一〉なのだから、次のようにはっきり言うことができる。
「したがって超越論的構想力は、それ自身まったく直観的知性そのものなのである。」

深層構造(263)
チョムスキーが、革命を行うには、革命の対象とともに、そのための装置が必要となる。
…その装置の第一は、現実にある言語の外に別の言語−−これは考え方によればすでに言葉ではないのであるが−−を設け、ことばの現象は、すべてそこへもどして、あるいはそれと関係づけることによって説明することにした。すなわちそれというのは深層構造(ディープ・ストラクチャー)のことである。実際にあらわれる言語は、単に表面にあらわれた現象にすぎないのであって、じつは、その背後の奥底の深いところには、人間の言ったことではなく、考えたことにより近い、なにかことばの原型のようなものがあると仮定する。

深層の歴史(311)ブローデル
ところで、歴史によって、ほぼどこにでも同じ気候、同じ季節のリズム、同じ植生、同じ色彩、そして地質の構造がそこに加われば、うるさいほどよく似た、同じ風景を見出すことはどうでもよいことではない。
小さな違いを別にすれば、地中海世界の東西南北において、同じ気候のもとに同じ生活様式が見られること、これこそは各地の人々や社会の表面的な違いを越えて深層に横たわる地中海世界の生活の仕方の構造といえるものである。しかもコムギとオリーブとワインの三位一体は、古代ローマ時代から16世紀を経て現在にいたるまで、大筋においてほとんど変わっていない。こうした地理的環境や生活様式が「ほとんど動かない歴史」と名付けられる、深層の歴史という別名を持つ長期の歴史である。


身体メカニズム(215) p.122
身体のメカニズムはあまりにもうまく働いているので、ほんのささいなつまづきがあっても、われわれは驚いてしまう。だが実際はその逆であるべきだ。たとえ数分でも生きのびることは、とてつもない偉業と言えるのだ。……「生命を維持するための細胞や器官はしっかりと確実に設計されていたほうがいい。なぜなら、生きるという作業はとてつもなくたいへんだからだ。」

死んだっていい(273)指輪物語
フロドに対するガンダルフの諭し「死んだっていいとな! たぶんそうかもしれぬ。生きている者の多数は死んだっていいやつじゃ。そして死ぬる者の中には生きていてほしい者がおる。あんたは死者に命を与えられるか?もしできないのなら、正義の名においてそうそうせっかちに死の判定を下すものではない。それもわが身の安全を懸念してな。…」

人智学の誕生(526)
 シュタイナーが神智学協会に参加したことは、意外に思われるかもしれない。神智学者として指導的立場にあった人々、たとえばブラヴァツキー夫人やアニー・ベザントは、それぞれ本当に意味深い人物であったにもかかわらず、彼らの降霊術や霊媒を用いた活動や、思想的にあまり完成されたものではなかった出版物のために、いわゆる教養人から不信の目で見られていた。
…シュタイナーはこれからの自分の活動のモチーフを初めて公に宣言したのである。それは、「自然科学の基盤のうえに、魂の探究のための新しい方法論を見出すこと」であった。シュタイナーは、その際の自分の試みは「神智学的」である、それは西洋の文化衝動の意味においてはっきり述べている。この講演は、聴衆の間に大きな戸惑いだけでなく、大きな関心をも呼び起こした。シュタイナーは後にそれを「私の人智学の基礎をなした講演」と呼んでいる。


神的認識(488)
 〈神〉的認識(ここでは認識することが対象を産出することであり、そのために認識と対象との一致は初めから保証されていて、認識が誤謬におちいる可能性は一切存在しない)との対比において、人間による〈有限的〉認識を問題にしてきた。
この場合、カントは〈人間〉的認識の真理性の保証を神に求めることはしなかった。最終的な根拠だけは神に頼ろうとする「機械仕掛けの神」を、カントはもっとも不合理なものとしてしりぞけた。神的知性によってではなく、人間の知性(悟性)によって成立する現象に、認識の対象を限定することによって、人間的認識の客観性を保証することになった。この場合、我々の認識の真理性を罪証するのはもはや神ではなく、我々自身なのである。 

信念の更生(393)
 オムスクでのドフトエフスキーは、シラーに対する憧れ、フーリエ流の社会主義など、これまで彼が抱いてきた理想が、ロシアの民衆からどれだけ遊離し、孤立していたかという実感をもった。…「あの当時、わたしは何ものにも目を閉ざし、理論とユートピアを信じていました」「空想ゆえに、理論ゆえに処罰されたのだということを承知しています」
 彼は『聖書』をとおして、民衆がよりどころとしている精神の何たるかを徐々に考えはじめるようになるが、それは「信念の更生」、ロシアの民衆を通しての復活と呼ぶにふさわしいドラマである。彼は確信に満ちたつよい調子で手紙に書いている。 「わたしが知ったのはロシアそのものではないとしても、わたしはロシアの民衆を深く知ったのです」「思想や信念は変わるものです。人間全体も変わるものです」


真の天才(342)
 IBM社のディック・ガーウィン博士。ガーウィンはポスドク時代、1951年の夏休みに水爆第一号を自作した。物理と防衛関係で伝説的な人物。シカゴ大学でエンリコ・フェルミに学んだ。アインシュタインと並ぶ20世紀物理の巨人、そのフェルミがガーウィンを、「私が知るかぎりただ一人の真の天才」とほめ上げている。

神秘への道(486)
 私は次第に、神秘的文書には、ただその外面からしか立ち向かうことができないこと、そしてまた神秘的原現象とでもいうべきものに対して、その周辺をめぐることはもちろんできるのであるが、高い城壁のようにその秘密を包んでいる円周を跳び越えることは、どうしてもできないということを悟るようになったのである。
 ただ真に出離した者のみが、出離ということの意味を理解することができ、また自己自身を完全に離れて空しくなった蝉脱者のみが「神以上の神と一体になること」 の準備ができているのであろうという洞察に達したのである。すなわち私は神秘説への道は、自分自ら経験して悩み抜くこと以外にはない。しかし、どうすれば神秘家になるのであろうか。どうすれば人は単に思い誤ったのではない、真実の出離の状態に達するのであろうか。幾世紀もの隔たりによって偉大な先師達と分けられている者にとっても、神秘への道はいまでもなお存在するのであるか。

シンフォニー(354)
 1830年頃、ローマでは「シンフォニー」という言葉は、幕があく前に劇場のオーケストラが作り出すある種の雑音と称される「前奏曲」という言葉と同じ意味に使われている。もっとも、こういうものに関心を示す人間は誰もいないが。 …1803年に作曲されたベートーベンの第3交響曲が、リストの弟子でありアンチ・オペラ運動家のジョヴァンニ・ズガンバディによって、ローマで初演されたのはようやく1866年になってからのことであった。

■新仏教
(378)
 新仏教の祖師たちの主張は破天荒ではあったが、単なる気まぐれな思いつきではなかった。法然や親鸞や日蓮の思想は、確かに端々に恣意的で常軌を逸した解釈が顔をのぞかせている。だがその一言一言は、その信仰者であるか否かを問わず、いまなおそれを読むものの心を揺さぶる。…それは、彼らの思想が書斎での思索から紡ぎだされたものではなく、現実との絶え間ない対話と格闘の中で生まれたものだったからである。…さらに彼らはその信念を貫き通すために、それぞれの立場から伝統教学そのものを読み替えてしまうという、知的冒険に挑んでいったからである。 その行為は、…命を懸けたものとならざるをえなかった。彼らは本覚思想のように匿名性の陰に隠れることなく、みずからを仏の真意の発見者と位置づけた。…仏教の真実を見出そうとする命を賭した挑戦によって、彼らは学者の立場を超えて、幾多の歳月を超えて人々の魂を揺さぶり続ける真の宗教者、真の思想家となることができたのである。

■神仏混合
(147)
 空海が導入した密教は大日如来を中心にして生命が産出する曼荼羅の諸相、すなわち自然神崇拝であるという意味で、日本古来の自然神と結びつき、仏は神と共存することになる。自然にも、わが心にも流れる生命よ、この生命を生きよう、この生命の哲学が、日本人の中心的世界感であろう。
 
ジンプリチシムス(43)
 
進歩家ブラームス(120)
1933年シェーンベルグが発表した論文。ブラームスは単なる古典復活的ロマン派にとどまらず、その後のウイーン音楽の展開に大きな影響を及ぼした。シェーンベルグの音楽はブラームスを継承するところから発展した。
 
シンポジウム(135)
ギリシャ、ローマ時代の[饗宴]。

シンボル体系(219)p.123
われわれが文化、文明、伝統などと呼ぶもの、より具体的には言語、経済、宗教、科学、法律、社会制度など、これらはすべて脳の産物である。これらをまとめてシンボル体系と呼んでよい。シンボル体系はアナロジーという脳の機能によって成立する。人はこうしたシンボルを扱う動物として特徴づけられる。

神武東征(505)
 「古事記」中つ巻は、イハレビコ(神武天皇)の物語から始まる。…高千穂の宮がある日向国を出たイハレビコは東に向かう。…なぜ大和国の目と鼻の先にある白肩の津(現在の東大阪)までたどり着きながら、そこからぐるりと紀伊半島を迂回して熊野に向かっている。
 物語に登場するクマには「隈」、つまり世界のすみっこという意味がかけられており、そこは人間の力のおよばぬ混沌とした土地というイメージがあった。その辺境の地・熊野でイハレビコは正気を失い、太刀の霊力でよみがえっているところに意味がある。つまり熊野を経由することで、イハレビコは神の御子から聖なる天皇へ脱皮を遂げたということなのだ。そのときに、タカクラジという、神と人間の世界をつなぐシャーマンの力を借りていることに注目したい。神の子であったはずのイハレビコは、この時点でみずからの力で再生できない人間の天皇になった。


真理(267)p.43
フーコーはこう述べています。「ニーチェは、真理とは最も深みのある嘘だと述べた。このニーチェの立場に近くもあり遠くもあるカンギレムなら、おそらく、真理とは、生命の長大な暦の上での最も新しい誤りだといっただろう。」カンギレムは、…真理と称されるものは、何回でも訂正され、塗り替えられる誤りにすぎないのだというのです。

人類多元論(553)
 人類は数種か一種かということは、近頃人類学者によって大いに議論されてきた問題で、彼らは人類多元論者と一元論者に分けられる。進化原理を承認しない者は個々の種を連絡のない創造物か、ある様式で特異な実体と考えねばならぬ。進化原理を承認する博物学者は、若い人たちの大多数は承認しているが、すべての人種は単一の原始祖先から由来したと思っていることは確かだろう。その人たちには相互間の差異の大きいことを表現するため、人種を種として記名するのを適当とする者もあれば、そう考えない者もある。現存人種は体色、毛、頭骨形、体の比率など多くの点で異なっているが、構造全体を考慮すれば酷似している点もおびただしい。それらは重要でないか、風変りな性質のものが多いので太古に別々の種、別々の人種によって関連なく獲得されたものとは思えない。ごくかけ離れた人種の聞の精神的類似点についても、同様のことが十分、いやもっと声を大にして発言できる。
 諸人種間の多数の些細な体構造、精神能力などの類似性は他と無関係に獲得されたとは思えないから、これらと同じ形質を所有した祖先から遺伝されたものにちがいない。次第に地上を拡散してゆく大昔の人の原始状態が、これである程度推察できるのである。
 数少ない粗野な技芸と不完全な言語能力しか持たぬ始祖を、人と呼んでよいかどうかは用いる定義に基づくことである。ある高等サル様の動物から現代人までの目立たぬほどの連続的移行線上で「人」と呼ぶにふさわしい点を、どこに定めるかは不可能である。

神話(359)
 こうした人気者のヒーローたちは、文字どおり神話である。というのも彼らは実体がないか、もしくは完全に架空の人物だからである。文化の神々も例外ではない。アンディ・ウォーホルとジェフ・クーンズは、芸術家が有名になるためには、きわだって独創的でなくてもよいことを示した。カールハインツ・シュトックハウゼンの名は、彼が作曲した音符を耳にしたこともない音楽好きにさえ知れわたっている。彼らの名声は、彼らがつくりあげるどんなものよりも、彼らが象徴する神話のなかに見いだされる。





【語彙の森】