語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日  2017-7-25 計63語
新着語
図像めくり機、スピノザとカバラ、スピノザの「神即自然」、スピノザの哲学、スピノザの理性、スーフィズム、スゲリウスの周廊、ストレプトマイシン、ストラルドブラグ、ズライカの巻、スペイン内戦、過ぎること、事上磨練、スペイン風邪、


垂迹(177)
 インドの仏や菩薩(本地)が日本の衆生を救うために、仮に神の姿をとって現れること。本地垂迹説。
 
衰退(205)
 スペインの衰退をなすすべもなく見つめていたゴンザレス・セロリーゴは「能力のあるものは何もしようとせず、何かをしようとするものには能力がない」と述べた。 

垂直テイスティング(319)
 同一銘柄を年代別にテイステッングすること。…スーパーセカンドといわれグランクリュ2級の中でも1級に近い評価を受けているサンジュリアンの銘酒、レオヴィル・ラス・カーズの80年代の三つのヴィンテージの垂直テイステイングをした。84年はカベルネ特有の少し青臭いような香り、83年は複雑なスパイス臭、82年は、枯れ草やトリュフのような香りを感じた。カンベルト先生は「キュイル(なめし革)」の匂いがするだろういっていた。

スィメオン(58)(78)
 初期キリスト教の自虐的隠修の一形式となった柱上修行を創始した。4−5世紀のシリアで活動。砂漠での孤独と異なり、天に近く制約された空間でありながら、衆人環視という伝道も兼ねている。彼が死を迎えるまでとどまったカラート・セマーン(シメオンの城)の柱は25mに達し、計27年間も柱上に留まったアトス山では16世紀までこの柱上修行者は見られた。
 
ズィルト島(180)
 ドイツ最北端の島。ハンブルグから直通で3時間。ヒンデンブルグダムという築堤で本土と鉄道で結ばれている。カイトゥムという萱葺き屋根と玄関扉が美しい村がある。
 
スヴァスティカー(380)
 卍は、後代のインドでは幸福のしるし(スヴァスティカー」として、ヒンドゥー教、ジャィナ教、仏教を通じて用いられるが、すでにインダス文明時代の人々がつかっていた。…この卍は、現代インド人の生活一般に普及していて、バスの外側にもしるされ、…ただし、それは卍ではなくて逆マンジであった。この逆マンジは、周知のように、ドイツ、ナチスの標識であった。そして…皮肉なことに、マンジの起源は、ユダヤ人の属するセム族のうちにあったという。ユダヤ人はもともとセム語族の一つであるヘブライ語を話す人々であったから、ナチスの旗印はじつはユダヤ人の周辺から起こったことになるのである。

スヴェトニウス(135)
 現代人の固定的ローマ皇帝イメージを作る元となった[皇帝伝]を紀元150年頃書いた。後世の巷間の噂を集めておもしろおかしく書かれたものであり、ネロやカリギュラの極端なイメージを固定した。
 
数学(68)
 シュペングラー「どの文化にもそれ自体の数学がある。17世紀の幾何学的解析と投影幾何学とのなかには、一つの無限の世界の知性化された同じ秩序が表れている。この秩序こそ、数字付き低音という技巧から発達した和声によって同時代の音楽を、また西洋にだけ知られていた遠近法の原理よってその姉妹芸術である油絵を、それぞれ活気づけ、感動させ、それに沁みこんだ秩序である。」
 
過越祭(341)
 もともと過越祭は家畜の無事と繁殖を祈る祭りだった。それが旧約聖書のモーゼの故事とかさねられ、過越祭にユダヤのメシアが來臨するという信仰が生まれた。毎年、春分のころにおこなうこの祭りにむけて、ユダヤのナショナリズムは頂点に達する。…4月6日、木曜日、イエスにとっては床のなかでむかえる最後の朝であった。この日の夕方、過越祭においてもっとも重要な儀式である「晩餐」が始まる。

スキピオ・アフリカヌス(151)
 ハンニバルただ一人勝った戦績を誇る名将。トレッビア、トランジメーノ、カンネと大敗を喫し続けたローマにザマで勝利をもたらした。勝ち続けることより、最後に勝つことに意味があるというのは分かるが、いつ最後なのかだれが最後にやるか。
 
スキーマ理論(62)
 1960年代にミシガン大学のジョン・ホランドは、生殖と交差、それに突然変異が存在すれば、平均値以上の適応度を示すものならどんな小さな遺伝子群でもそのほとんどは指数関数的にその数を増やしていくことを示した。その遺伝子のパターンをスキーマと呼んだ。これを発展させ学習、進化、創造性の緊密な相互関係を解析、例証して「自然のシステムと人工的システムにおける適応」を1975年に出版。これによって遺伝的アルゴリスムを創始した。初の国際会議は1985年に開催され、最適化問題への有力な方法論として脚光を浴びる。
 
スキン・コンタクト(358)
 スキン・コンタクトとはプレスや発酵の前に、通常、不活性ガス下で亜硫酸の添加を行なわずに、18℃以下の低温で4〜24時間、白葡萄を果汁に浸漬することで、葡萄果皮の表層に含まれる芳香・香味成分を抽出し、果実香たっぷりのワインを醸造可能とする技術。
 ボルドー大学教授のドゥニ・デュボルデュー(1949−)は、現在もっとも痛烈な批判にさらされている醸造コンサルタントのひとりです。彼の提唱した「白ワインのスキン・コンタクト」は1980年代前半まであまりばっとしなかったボルドーの辛口白ワインに革命をもたらしました。実際、「シリウス」や「アルファ」といったブランドは、このスキン・コンタクトにより豊潤な果実香を持つようになり、商業的な成功を収めました。しかしながら、…スキン・コンタクトによって果汁のPHが上昇してしまう(酸性度が下がる)ため、ワイン生産者は葡萄が適切な成熟を迎える前に収穫を行なうようになりましたし、また、スキン・コンタクトを行なうためには、果実は腐敗やカビのない、完全にクリーンな状態でなければならず、結果として過度の農薬散布を招きました。一方、このスキン・コンタクトによって抽出された果実香は一般に短命で、そのためこの技術は若いうちに飲まれるべき日常消費用のワインにしか使えないとされています。また、スキン・コンタクトによって増幅された香りは、葡萄畑に本来そなわっている個性、すなわち「テロワール」を覆い隠し、歪めてしまいます。


過ぎること(453)
 天理にはやはり中和〈至当〉のところがあり、『過ぎる』のはつまり私意である。だいたい、七情の感じかたは、多くの場合、『過ぎる』もので、『及ばない』ことは少ない。だが少しでも『過ぎる』と、もはや心の本来的ありかたではなくなる。だからかならず加減してほどほどにしなければならない。

スクタリ野戦病院(439)
 その頃の英国陸軍は40年前のワーテルローの戦いの頃と違って、軍政は紊乱し、装備は時代おくれとなっていた。それに何よりも将兵の士気がまったく沈滞していたという。これに反してクリミア半島のセバストポール要塞を死守したロシアの将軍トートレーベンは智勇優れた名将であり、将兵の士気も高く、よく2年間の龍城に堪えた。…戦況は悪化の一路を辿り、英国陸軍将兵は疲労困憊した。
 ナイチンゲールが黒海入口のボスポラス海峡にあるスクタリの野戦病院に到着した当時、病院の実情は酸鼻を極めていた。病室の床下に排泄物が溜まっていたから病室内には悪臭が立ちこめ、蚤、虱、鼠が病院中にはびこり、衛生状態は最低であった。この不潔極まる病院に一万名を越える傷病兵が収容されていた。しかも介護する人手も、必要な医療設備も薬剤も、つまり一切が不足していた。…クリミア戦争の当時は傷病兵は手当を受けることもなく、苦痛に悶えながら、死を待つばかりであった。


スクーンの石(118)
 旧約聖書の「ヤコブの枕石」をアイルランドに持ち込み、これがスコットランド王家戴冠の座「運命の石」(リア・フェール)となった。イングランドの侵攻により、ウエストミンスターに持ち去られたとされるが、実物はスコットランド側が隠し、ヘブリディース諸島あたりにあるという言い伝えもある。

スケッチ(426)
 彼(安藤忠雄)に限らず、建築家と呼ばれる人々はたいてい旅先でスケッチを描く。カメラも持って行くけれど、写真とスケッチとの違いは当たり前のことだが、写真はファインダーに写ったすべてのものを自動的に記録するのに対して、スケッチは自らの目に映った映像のなかから知覚されたものだけが画に表現される。取捨選択の作業が鉛筆を動かすなかで続けられ、彼が真に見た姿が浮上する。目と同時に手がそれらを憶え、体内に蓄積される。彼が後年自らの建築のアイデアを求めてスケッチを描くときに、そんなふうに手が憶えた一本一本の線が不意に蘇る瞬間もあるのだろう。それは黒澤明が書き溜めたというノートと同じものであり、まさにそんな記憶が創造につながる。

スゲリウスの周廊(514)
 スゲリウスは、芸術を新しい軌道に乗せた偉大な人々の一人であった。彼のおかげで、サン・ドゥニは、1145年以降、若返った美術の光をフランスさらにはヨーロッパ各地に及ぼすための光源の役を務めたのである。フランス美術がサン・ドゥニに負うもののすべてが多少とも認識されるようになったのは、そう昔のことではない。先ず最初に、中央に穹隆支骨をもつ小祭室を放射状に具えた極めて特殊な型の、かの有名なスゲリウスの周廊が、一つの流派をなしていたことがわかった。

スコット隊の不運(134)
 1911年のアムンゼンとスコットの南極における成否の差は、輸送手段としての犬と馬の差という。白川は実際にその上空を飛んで、スコットがロス湾から挑んだ巨大なベアードモア氷河の厳しさと、アムンゼンが通った規模の小さいアクセルヘイバーグ氷河の差を示す。

スコトフォビン(424)
 ヒューストンのベイラー大学…アンガー博士は、…電気ショック実験によって…ネズミの脳内に「暗所忌避記憶」が蓄積されたと考えた。そして、その形態はなんらかの分子に違いないと。学習を施されたネズミの脳から抽出液が取り出された。これを別のネズミの脳に注射する。ネズミは先と同じ実験装置に入れられ、テストを受ける。もちろん、このネズミは電気ショックの仕組みを知らない。アンガー博士の実験によれば、そのネズミたちは、暗い部屋に入るのをことさら避けるようになったというのである。つまり、ある個体から別の個体に記憶物質を移植することに成功したのだと! この実験は一大センセーションを巻き起こした。暗所忌避の記憶を担う物質は、…スコトフォビン(スコト=暗黒、フォビア=恐怖)と命名された。…アンガー博士は、解析に足る量のスコトフォビンを抽出するため、4000匹のラットから脳を集めてきた。そして、ある日「スコトフォビンを単離し、構造を決定、さらに人工合成に成功した」と発表した。人工合成したスコトフォビンを用いれば、記憶物質移植実験をめぐる再現性の問題にも決着をつけることができるとアンガー博士は確信していた。…結局、記憶の物質的基盤を明らかにできる証拠は何一つ得られないまま、アンガー博士は1977年、71歳でこの世を去った。彼の退場と同時に記憶物質スコトフォビンもこの世から姿を消したのである。

スコープス裁判(401)
(アメリカにおけるプロテスタント大分裂を引き起こした)原理主義と近代主義論争…の代表的イメージは、保守的南部の田舎町で起きた事件…「スコープス裁判」であった。…事件は1925年、テネシー州の田舎町デイトンで起きた。高校の生物学教師ジョン・スコープスが、学校で進化論を教えるという罪を犯したのである。同州ではこの年春に公立学校では進化論を教えてはいけないという法律が成立していたので、スコープスの有罪は最初から明らかだった。
しかし、強力なリベラル団体だったアメリカ市民的自由連盟(ACIU)が、各地で相次いで成立した反進化論法に対抗するきっかけとして、この裁判支援を決めた。…弁護側は法廷で、「どのようにして、イブはアダムの肋骨からできたのか」「ノアの洪水の発生年代はいつか」などと質問を繰り返す。…原理主義者は裁判では勝利したが、世論からは、無知で時代遅れで迷信を信じる田舎者という、あらゆる嘲りの言葉が投げかけられた。原理主義−近代主義論争は、事実上、この裁判で決着がついたのである。原理主義者は決定的なダメージを受け、深いトラウマが残った。…テネシー州の反進化論法は1967年に廃止された。


スコーフィールド注釈付聖書(401)
 現代は神の啓示は文書からしかこない。だから、聖書しか、信じるものはないのである。キリストの再臨と千年王国の到来は、それほど先のことではないと考えられた。仏教では、弥勤菩薩が地上に降りてきて、釈迦の救いに漏れた人を救うのは56億7000万年先のこととされるが、原理主義者には、自分の生きているうちにキリストは帰ってきてくれると考える人も少なくない。こうした思想を集大成して、広めたのは神学者のサイラス・スコーフィールドだつた。彼は1909年に、デイスペンセーショナリズムと前千年王国説を敷きにして詳しい注釈をつけた聖書「スコーフィールド注釈付聖書」を発刊した。これがミリオンセラーとなつて、原理主義者に強い影響を与えたのである。こうした思想を持った原理主義者たちは、強い切迫感と危機感でキリスト教会を近代主義の汚染から守ろうとしたのである。

スジャーター(日経97-3-16)
 仏陀にミルクを与えた少女。ボードガヤ(ブッダガヤ)の苦行林での断食苦行に衰えた仏陀に乳粥を振る舞ったという説話が残る。

スシュムナー管(301)
 プラーナとは天地自然に道いてる清澄な「気」て、インドでは「宇宙の風」とも呼ばれる。その気は呼吸によって体内に取り込まれ、「気脈」(ナーディ)を通してすみずみまで送りこまれる。会陰から頭頂にいたる脊髄に沿ったスシュムナー管、その右側を会陰から右鼻孔にいたるピンガラ管。左側を会陰と左鼻孔を結ぶイダー管が最も重要な気脈である。右鼻孔から吸い込んだプラーナをピンガラ管で下降させ、体内を廻らせた後、イダー管にのせて、ゆっくり上昇させる。この吸息−止息−吐息を、左右の鼻孔をとり替えて続けられる。この調息が深められる過程で、右半身に「太陽の力」が、左半身に「月の力」が自覚されてゆくのだ。この二つの力を拮抗させ、高次の制御をはかりながら、その力をスシュムナー管を通して頭頂へと持ち上げる。これが「悟り」である。

事上磨練(453)
「事上磨練」という彼(王陽明)のユニークなテーゼは、彼が一時、静坐を教法として課して、かなりの効果を収めた半面、静を好んで動を嫌う寂静主義の誘惑におちいりやすく、かつ静坐時の収斂を動時にも保持貫徹することが困難であるとの反省にたって提起された。「事上にあって磨練して、工夫を用いてこそ成果がある。もしただ静を好むのであれば、事に遇うとすぐ乱れ、結局、たいした進歩もない。静時の工夫もまた誤り、収斂するようで実は散漫になっているのである」(「伝習録」上)という。陽明学に指摘されている行動的性格は、この事上磨練−致良知の工夫としての格物に包摂される−の強調にもとづくといってよい。陽明学はあくまで生活と密着した「実学」であった。

ススイルカ(428)
 ロシアで最初に「流刑」(ススイルカ)という言葉が用いられるのはドン・コサックの頭目で、伝説的な英雄エルマークの「シベリア遠征」(1581?82年)の翌年に出されたイワン雷帝(在位1547--84年)の勅令である。しかし、実際には、すでにそれ以前のモスクワ大公時代から、政敵に対して適用されており、それは刑罰であるとともに内外政策の一手段、辺境の強化策となっていた。シベリアの登場は無限の流刑植民地をロシアに提供することになったが、その意味で、クロポトキンのいうように、「シベリア流刑史はシベリアの発見とともに始まる」のである。 

鈴田健二(319)
 シャトー・ラグランジュ。サントリーがこのシャトーを買収したのは84年のことだ。それまではサンジュリアンのグランクリュ3級だが、そこで作られるワインはその等級に値しないとまでいわれていた。かなり荒廃したシャトーだったが、すぐに全面的なぶどうの木の植え替えを始め、醸造施設もまったく新しいものにした。翌年からめきめき評価を上げていき、すでに80年代後半には3級のシャトーのトップのひとつとまでいわれるようになった。…その日本側醸造責任者が鈴田健二氏だ。

豆相人車鉄道(138)
 東海道線が御殿場回りだったため、すでに温泉保養地としての地位を確立していた熱海は陸の孤島であった。明治16年に雨宮敬二郎が小田原/熱海間24.8キロを鉄道化した。ただしその駆動エネルギーを人力に依存するという人力車の鉄道版であった。4時間がかりであったが、蒸気鉄道化された後も2時間40分かかったというから、オモチャのようでもあるが実用的に評価された。

図像めくり機(558)
 オーム博士が挙げる「有効な方法」のなかで最も重要なのは、「図像めくり機」と呼ばれるものだった。分厚い本を挟んだ器具で、強力な装置の力を使って本のベlジが実に素早くめくられる。どのぺージにも絵が描いてあり、それぞれが前ぺージの絵とほんの少しずつ違っている。こうして、わずか数秒のうちにすべてのベージを連続して見せられると、それがひとつの動く図像に見えるのだ。オーム博士は論文で、この錯覚は鈍重な者のみならず、あらゆる人間に起きると主張していた。
 オーム博士は、イギリスの歴史における偉大な場面を上映することを提案していた。なによりも平和と秩序に満ちた国家における生活の絵を、「動くパノラマのように」映し出すことが望ましいとしていた。反対に、神の奇跡を映写することを、博士はきっぱりと否定していた。五千人に食べ物を分け与えたり、ハンセン病患者を治したりといった奇跡の場面を上映するなどありえない。なぜなら、それでは神の猿真似をすることになるからだ。
…「図像の制作を除けば、あとの問題はすべて解決しているんですよ。大陸のフォイクトレンダーとかいう会社が、銀板写真で試しているみたいですがね、あれはだめですよ。図像のひとつひとつにおいて、なかの人物が適切な動作の段階で静止して写真に納まる必要があるんですから。それに、ほんの一秒の動画のために、少なくとも十八枚の図像が必要なんですよ。あまりに複雑で、悠長すぎるやりかたです」


スタウディンガー(169)
 巨大分子は低分子の二次結合であるというコロイド科学優位の状況の中で、一次結合による鎖状高分子の存在を確認したドイツ化学者。この高分子説を信奉したカローザスがナイロンを合成する。
 
スタナー(82)
 モデル狩りで有名なラファエル前派が捜し求めた美貌の女性。Stunner。一瞥して気絶してしまうほどの美人。背が高く、蒼白く、ものうい眼差しをしていて、長くふさふさして髪が垂れ、あごがとがっていて、甲状腺が腫れているごとくに喉がふくらんでいるような女である。ダンテ・ガブリエル・ロセッティが母国の先人ダンテの永遠の恋人ベアトリーチェをイメージした[ベアタ・ベアトリクス]はそのようなモデル、結婚してすぐに死亡したシダルの面影を描いたものである。

スダリウム(257)
 十字架を荷うキリストの汗を拭ってやったハンカチは、聖なるハンカチ(スダリウム)となり、その表面にキリストの顔が写しとられた。また汗を拭ったイスラエルの婦人はスダリウムを用いて、重病者を癒す奇跡を起こし、聖ヴェロニカとして列聖された。

スターリン・オルガン(308)
 第二次世界大戦中ソ連が開発したロケット砲「カチューシャ」をドイツ側はスターリン・オルガンと呼んだ。…このスターリン・オルガンは個体燃料であり、液体燃料の分野ではドイツのV2よりはるかに遅れていた。

スターリン裁判(421)
 しかし裁判は、当然のことながら、ヨーロッパの不信を招いた。そしてトロツキーが外国にいて、かなりこの傾向を肋成した。演劇の成否には役者ばかりでなく、観客も加わることを主人は知っていた。彼はスペクタクルを賞賛するような権威ある観客を望んだ。そして重要なことは、その権威ある観客がそれを書いてくれることを。
 彼は自信をもっていた。これまで彼が招いた客はすべて、H・G・ウェルズも、バーナード・ショーも、エミール・リュドヴィグも、アンリ・バルビュスも、ロマン・ロランも‥…・。すべてが大指導者を賞賛し、この国の友となって帰っていった。


ステュクス(40)
 生者と冥界を分ける川。普通は川守りカロンとアケロンの名が有名。
 
スティグマータ(197)
 stigmaは不名誉、傷跡という意味。語源はキリストの磔刑の傷跡stigmata。

スーティラージュ(319)
オリ引き。マロラクティック発酵と呼ばれる二次発酵を行ったワインは、225リットル入りのオーク材で作った樽で熟成させる。樽熟成の間、数ヶ月おきに、オリ引きを行う。…オリ引きは、通常は、ふたりで行う作業だ。ひとりが樽を傾け、もうひとりは樽から注がれるワインをロウソクの炎にかざして清澄度を見る。少しでもオリが混じり始めたら、そこで終わる。

ステファニー・ボーアルネ(417)
 (バーデン公国のカルル・フリートリッヒ)大公の孫でバーデンの王位継承権着であるカルルとステファニー・ボーアルネとの結婚は、ナポレオンの権力の絶頂期1806年におこなわれた。1811年、老大公の死により、その長い統治のあとを受けて、彼らが王位に就いた。1811年大公夫妻に、後にワサの王妃となった娘が生まれた。翌1812年に生まれた第1王子は、生後2週間目の1812年10月16日に死亡したことになっている。この王子が、カスパー・ハウザーと同一人だと思われる。つづく1813年10月21日にもう一人の娘が生まれた。彼女は、やがてホーエソツォーレルンの王妃として嫁いでいった。1817年10月11日に生まれた一番下の子どもも娘だったが、これほハミルトン公爵のもとに嫁いだ。この二人の娘の問にも実は男の子がいた。1816年5月1日に生まれたアレクサンドル王子である。だが彼も兄と同じく、生後間もなく死亡した。誕生後、1年1か月で死んだのである。

ストークリー(132)
 ケンブリッジにある製本屋。中世以来の伝統的革装丁の技術を伝承している。それが保存技能というのではなく、商売として成り立っている。

ストラルドブラグ(497)
 「ガリヴァー旅行記」第三編、ラグナグと呼ぶ空想王国に附する件を読むと、ストラルドプラグと呼ばれる不死の幸福を恵まれた人間についての記述がある。さっそく主人公ガリヴァーは、これら選ばれたストラルドプラグたちに会見を申し込むわけだが、しかし彼がそこに見出したものは、「およそ彼がかつて見たこともないほど醜い、不快な」老人たちであった。不死はえたが、不老をえそこなった人問の悲劇である。「通常三十歳ころまでは挙動すべて常人と同じだが、それからは漸次意気消沈しはじめて、その後はそれが高じるばかり。やがて八十歳に達する。……こうなると、一般老人のもつあらゆる痴愚、弱点を網羅しているばかりでなく、おまけに決して死なないという恐るべき未来からくる、まだまだ多くの欠陥を併せもつことになる。すなわち頑固で、依怙地で、貪欲で、気むつかし屋で、自惚れで、ひどいおしゃべりになるばかりでなく、友人と親しむこともなければ、自然の愛情というものにも不感症になる。ただ嫉妬と無力な欲望だけが燃えさかる。

ストレプトマイシン(500)
 ペニシリンの及ぶ範囲に限界がなかったわけではない。結核菌のように、ペニシリンが効かない殺し屋たちがまだいた。このことが、新しい抗生物質を発見する努力を促した。その最初は、ラトガーズ大学のワクスマン教授によって生み出された。彼は、土嬢中の放線菌がつくる抗菌物質の中から抗生物質(彼による命名)を発見しようとしたのだった。
1944年ワクスマンは、ストレプトミセス・グリセウスを培養してストレプトマイシンを分離し、これがペニシリンには影響を受けない多くの細菌にも活性をもつことを公表した。その細菌の中には結核菌もあった。そして、ストレプトマイシンと他の楽の併用を基礎とする特別の療法の進歩によって、主として青年を毎年何百万人も死に追いやったり無力にさせていた肺結核は、実質的に追放されたのだった。

ストロマトライト(67)
 地球上の酸素の誕生の起源となった生きている岩石。オーストラリアの西海岸シャーク湾のハメリンプールに大規模な群生が見られる。35億年前から原始バクテリアであるラン藻が光合成によって酸素を生み出し、その死骸が珊瑚礁のように岩石化したもの。

スピノザとカバラ(541)
 スピノザは神の特質を述べる際、神に意志、欲望、そして感覚的属性を帰せしめることはなかった。このことはカバラ思想ばかりでなく、中世のユダヤ哲学者マイモニデスのうちにもみられる。スピノザの有名な「限定は否定である」という思想もまた、両者のうちにみられる。しかし神が諸存在の統一、神が内在的であるという汎神論的な思想は、マイモニデスのうちになく、カバラの『光耀篇』のうちに見出される。このため、スピノザの汎神論的思想の出所をカパラに求めるほうがルネサンスのブルーノに求めるよりも無難であると思われる。
 だがスピノザとカバラ思想とのあいだにいかに共通点があるとはいえ、両者の思弁には大きな相違がある。カバラ思想は新プラトン主義に由来する神秘主義を濃厚にうちだしているのに、スピノザには、全然神秘主義的傾向はみられないわけではないが、合理主義に基づく世俗性が表面にでている。両者は汎神論において一致していたが、それにいたる道程あるいは体質において、まったく異なっているのである。

スピノザの「神即自然」(541)
 スピノザの「神即自然」は、神と自然のうちのいずれかに重点をおいて解釈されるという暖昧さをもっている。この意味で、「スピノザの形而上学的な神は、原理的に暖昧である。」この暖昧さにもかかわらず、その神即自然が非人格的・超人格的なものとして理解される点は共通であろう。スピノザの神は、これによって聖書の神からまったく絶縁されることとなった。人聞はあくまで特殊な自然として、全体としての自然に環元され、神と等置される。そして、この自然の全体の中では、すべてが完全なものとみなされる。当然、人聞は自然の必然性によって生きることとなり、目的概念は否定された。この目的概念の否定は画期的なものであり、レーヴィットによれば、スピノザ以後二世紀を経て、ようやくニーチェのとなえるところとなった。

スピノザの哲学(541)
 スピノザの哲学は何よりも救済の哲学である。彼は、諸宗教が人びとに示してきた救済という目標に、あらゆる宗教的伝統の外で、純粋に合理的な方法で到達しようとする。彼の哲学においては、絶対的合理主義とも呼ぶべき徹底的な合理性と深い宗教性とが混然一体となっている。スピノザ主義はまさにその点で、人類の思想の歴史においてユニークな性格を示しているのである。救済は、彼にあっては、知性によってしか得られない。それは真の認識……神への知的愛を生み出す真の認識に存する。(竹内良知)
 スピノザはユダヤ教会から破門されたのちは、いかなる教会にも属さず、また既成の宗教のいかなる信仰ももたない「自由人L として、純然たる哲学者として終始した。彼は同時代人や後世の人たちから無神論者と称された。たしかに教会の信仰の立場からすれば、彼は無神論者である。だが彼は自分自身の哲学的な神に対してはこの上なく敬虔な態度を示し、しかも人間の「救済」というすぐれて宗教的な問題を哲学の根本問題とした。彼の哲学の大きな特色は、この救済を信仰の助けを借りずに哲学だけで独力で、しかも合理主義の道を歩みながら、解決した点であろう。

スピノザの理性(541)
 スピノザの理性は、理性以上のものを求めない。神性は、理性を超えたものでも、理性以前のものでもない。神性は理性そのものなのである。このことから生じるのは、理性の絶対性についての信仰であり、ここにまた、彼の哲学の限界がある。まず第一にいえることは、個体の存在の意義についてなんの解答も与えていないことである。「あらゆる限定は否定である」 は、個体の無意味について語っているが、実存のかけがえのない意味が、それによって失われてしまう。われわれがその一部をなしている神的な理性は、時間を排除しているため、歴史的ではない。時間的な未完結性に示される歴史は、個人の実存が神において消滅するとともに消えてしまう。
 こうして実存哲学者ヤスパースは、「運命を決定する行為の重みは失われた。…スピノザは必然性に耳を傾けるが、実存の活動的歴史性における充実と挫折を経験しない。時間は排除されるだけである。しかもそれは、永遠の認識のために必要な形式のなかでも保持されていない。それゆえ、スピノザは…いっさいを賭し、いっさいを犠牲にしようと欲する深みと偉大さを身につけていない」とし、スピノザは世界の変革を知らないばかりか、未来に生きることも知らない
というのである。

スピリット・オブ・セントルイス号(179)
 自重975kgの機体に825kg(1100リットル)のガソリンを搭載し5800kmの無着陸飛行を行った。ガソリンの消費によって重心が変化することを防止するために機体重心に燃料タンクを設けたので、コクピットの前にタンクを抱える形となり、リンドバーグは前方を潜望鏡によって確認しながら飛行しなければならなかった。

スピンドルトップ油田(423)
 20世紀を動かすのに足りるほど石油が豊富にあることがはじめてわかったのは、まさに20世紀の年初のことだった。1901年1月、テキサス州のボーモントに近い沿岸平野の低山地帯で、…生暖かい緑色の石油の流れが噴出し、じきに50エーカーの人造湖でも持ちこたえられなくなった。このスピンドルトップ油田の出現によって、テキサスの原油価格は1バレル1ドルから、…1バレル2セントという史上最低価格を記録し、…ロックフェラーの権益を打倒した。

スーフィズム(536)
 イスラーム神秘主義がクライマックスに達したのは、十世紀以降に拡大、発展したスーフィズムにおいてであったことについては、さきにふれた。スーフイズムは、イスラーム教の胎内に誕生した、超越的な急進思想であった。その発展のなかで、とくに初期のスーフイズムは、神への神秘的な愛を強調して、イスラーム法学者であるウラマーの形式主義を批判した。しかしこのような神秘主義的な立場は、人間の内面性を強調するあまり、シャリーア(神の法)を無視する傾向を助長し、さきのウラマーからの反論を招くにいたった。
 アル・ガザーリ(1058--1111)はイラン系の出身で、はじめイスラーム神学を学び、のちアリストテレス派の哲学を研究した。やがてバグダードのニザーミーヤ学園の教授に推され、神学と哲学にかんする最高権威として尊敬されるようになった。
…かれは、信仰の種子は個人の心の奥底にまかれていると考えて神秘主義への傾斜を示したが、しかしそれに溺れることはなかった。むしろ神秘主義的な独善を排して、ウラマーたちの正統神学との調和をはかることに意をそそいだ。

スブッラ(23)
 古代ローマの中心、フォロ ロマーナの近傍の下町。ローマ7つの丘に囲まれた窪地。庶民の町であり、ユリウス カエサルも名門とはいえ没落した貴族の子としてこの町に生まれる。
 
ズフマート(68)
 絵画におけるぼかし技法。特にダビンチによる「空間のためになされ、物体的な限界を否認する最初の徴候。」は印象主義の出発点となる。 

スペイン風邪(446)
 そのインフルエンザは、普通の冬の風邪のような顔をしてあっという間に拡がり始めた。流行は1918年3月にアメリカで始まり、アメリカ軍の進軍と共にヨーロッパに飛ぴ火したとされている。しかし軍の幹部は兵士が名誉ある戦死ではなく病気でばたばた発れたのを認めたがらず、これが一因となって、世界的な大問題と認識されるのが遅れてしまった。 … スペイン風邪と命名されたのは、スペインが流行源だったからではない。第1次大戦で中立国だったスペインでは報道管制が敷かれなかったため、大々的に報道されたことが理由である。スペイン風邪の死者数は全世界で5000万を上回った。しかもその約半数が、流行の最初の25週間で発生している。エイズの死者数が2500万に達するのに発生後
25年かかっていることと比べると、スペイン風邪の激甚ぶりがよくわかる。5人に1人が感染し、死亡率は世界平均で2〜2.5%に達したと推定される。通常のインフルエンザの死亡率は0.1%程度だから、おそるべき死亡率と言えよう。
…アメリカでは死者数が50万を数え、第1次大戦の戦死者数の10倍に達した。その結果、平均余命が10年縮まったと言われる。インドの死者数は1700万で、20人に1人が死亡している。これに対して日本は25万人ほどで、死亡率は0.425%にとどまり、アジアでは最も低かった。


スペイン内戦(476)
 スペイン内戦は、右、左大きく揺れる勢力の最終的衝突、というものではなかったかと思う。プリモ・デ・リベラの独裁政治、共和国成立による左派の改革、「暗黒の二年間」の右旋回、再び人民戦線政府による左派の巻き返し。両派の力は拮抗し、そのためどちらの側が政権をとっても不満が渦巻き、社会不安が鎮まらなかった。殊に1936年の選挙で人民戦線が勝つと、敗北した右翼は激しい恨みと不満を持つ大きな勢力として、左右の衝突は一触即発の状態になった。衝突は、…フランコ将軍、モラ将軍などを首謀者とする軍部の武力反乱として、1936年7月17日にモロッコで、18日にはスペイン本土で始った。…スペインはそれから二年八ケ月もの間、激しい内戦になってしまった。スペインバスクでは、四県のうち、共和政府側について人民戦線の活発と共に戦ったのは、ギプスコアとビスカヤだった。そしてフランコ反乱軍の側に立ったのは、ナバラとアラバだった。スペインを二分して戦われたスペイン内戦は、バスクをも二分したのである。

スペキュレーション(148)
 投機。投資はインベストメント。
 
全てが許される(131)
 カミュ「この全てが許されるから真に近代的なニヒリズムの歴史が始まる。ロマン主義的反抗はそこまでいかなかった。要するにすべては許されず、だから傲慢から禁じられていたものを破ることが許されるというのに止まっていた。……イワン・カラマゾフは真理が存在しないとはいわない。真理が存在するにしても受け容れられないものにすぎないという。なぜか?それは不正なものだからだ。……徳が存在しなければ掟も存在せず、全ては許される。」
 
スポンソン(201)
 航空母艦等の対空兵装を設置する円形台座。

スポンドフォロイ(04-1-12)
古代オリンピックに聖火リレーはあったでしょうか」という問題です。正解は、「なかった」なのですが、ただ似たような仕事をした人として、「スポンドフォロイ」(停戦を運ぶ人)がいました。
 
ズマール(191)
 ライカのズ系列の元祖が1933年のダブル・ガウス系のズマールF2。これは開放の解像度がよくないので、1939年に7枚のズミタールF2に置き換わった。その後ズマリットF1.5が1949年に、ズミクロンF2が1953年に出た。

住吉の長屋(279)
 安藤忠雄は1969年に建築事務所を開く。1975−76年大阪の住吉の狭矮な路地に建設した東邸によって脚光を浴びる。…間口の狭い長屋に囲まれた小さな敷地(57.3m)に、コンクリートの単純なファサードと、同じく飾り気のない出入口が、通りのリズムを壊すことなく人目を引く。
 
スムガイド(NHK-TV)
 旧ソ連の化学工業を支えたカスピ海西岸の都市。連邦崩壊とともにアゼルバイジャン共和国に属するが、工場は打ち捨てられ、ロシアの水俣とも呼ぶべき悲惨な公害だけを残す。

住むための機械(280)ル・コルビジュ
 道具的住宅、「住むための機械」は流通貨幣となったろうか?「どのように住む」ための機械か?この解答はあまり確かではない。衛生設備は陽の当たる側になったが、われわれの心の中にある「情」は表現されているだろうか…
…かつては正しい分別をして下さる方々の同意を要求した−この本の革命的な点−「住むための機械」を要求するという考えを、それから私たちはまた、その機械が「宮殿」となり得るのだと主張することで、この生まれたばかりの考え方をひっくりかえしたのだった。


図面(181)
 桜井真一郎の考え。「自分の意図や主義主張を表現できる唯一の手段。図面を見ながら電話で打ち合わせをしたり、膝を突き合わせて確認をしていかないと事が進まないような図面は図面とはいえないものだ。」

ズライカの巻(496)
 1819年に公刊された『西東詩篇』は彼(ゲーテ)の持情詩のうちで最大かつ最高というべき傑作集である。
  東洋は神のもの!
  西洋は神のもの!
  北と南の地も
  神のみ手の平和のうちにやすらっている。
 開巻してすぐに出会うこの有名な数行に、ゲーテは彼の心の深さの精髄を托したのである。巻頭の詩はマホメットの事蹟に倣ってヘジラ〈聖遷、遁走)と題された。もろもろの王権は破れ、国々は土台を揺すぶられている混乱の時代に純粋な東方の雰囲気を味わうべく逃れ出て、歌いつつ恋しつつ若返ろうと歌う。そして十二の長短の巻がつづくのだが、その頂点をなすのは、「ズライカの巻」である。ここでズライカの名をもって呼ばれているのはマリアンネ・ヴィレマーという実在の女性で、ゲーテの愛した女性すべてのうちで、彼女が特殊な位置を占めているのは、彼女もゲーテに誘われて詩才をあらわし、二人の愛がたがいに詩の能力を伸ばし合ったことである。


スラッファの問い(444)
 この人(スラッファ)は北イタリアのトリノに生まれ、1920年頃ケインズと知り合ってのち、…ケインズの招きでケンブリッジ大学へ移って講師となり、…その深い思索力と鋭い批判力は、『論理哲学論考』の主要テーゼの一つだった写像理論(有意味な命題は現実の写像でなくてはならないという説〉、論理的原子論(命題はすべて要素命題から構成できるという主張〉、あるいは命題はすべて「文法」をもたねば意味がなく、その文法は当の命題の表現している事態と同じ「論理形式」をもたねばならないといった主張を、一挙にくつがえすだけの力を発揮した。
…ある日、ウィトゲンシュタインが、命題とそれが表現している事柄とは同じ「論理理形式」を共有していなくてはならぬといい張ると、スラッファは、片手の指先でアゴを外側へこする動作、つまりナポリの人たちにはよく知られていて、嫌悪感ないし軽蔑感といった気持を意味するような身振りをして見せ、それから「これの論理形式って何なのだろう」と尋ねた。これが、命題は文字通りその記述する実在の写像でなくてはならない、とするかれの固定観念を打ち破った。


スワヒリ語(237)p.48
 アラビア語源で「沿岸」を意味する。ザンジバル島とその対岸アフリカ東海岸地方の言語である。バンツー語系であるが、著しくアラピア語の影響を受けている。それはダウ船に乗って交易するアラビア人の文化圏に長くいたことを意味する。

スワンの白熱電灯(334)
 はじめて実用的な白熱電灯を制作したのは、イギリスの技術者ジョセフ・スワン(1828-1914)であった。彼ははじめてフィラメントに炭素棒を用い、白熱電灯の実験に成功した。しかし白熱電灯を実用化するためには2つの条件が必要だった。第一には経営的条件であり、ガス灯照明より安価にすることが必要であった。第二は電気を送るための配送電システムの完備である。この二つの条件をクリアしたのがエジソンであった。1879年10月21日、2年あまりの努力の末、40時間連続点灯に成功し、実用化のめどをつけた。



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