語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-8-31 計110語
新着語
大学とスコラ、ダーウィンの祖父、ダーウィンの厭世思想大日に祈れ、第一北上川橋梁、大乗仏教の密教化、タクシス郵便、タンネンベルクの戦い、ダーニーリーン、魂の空間、歎異抄、旅、大地の霊、 短刀への賛歌、第三のローマ帝国、大西洋革命、魂の神髄たる愛、


第一北上川橋梁(546)
 新幹線のようなスピード重視の新しい路線を「フル規格」で敷く場合、自然の地形を無視してなるべくまっすぐ、最低限通るべき駅以外をショートカットした路線をつくることになります。東北新幹線の一ノ関ー水沢江刺間に全長3868メートルと日本一長い第一北上川橋梁がかかっているのも、七戸十和田ー新青森聞に全長2万6455メートルと日本一長い陸上鉄道トンネルの八甲田トンネルがあるのも、このためです。

第16バイエルン予備歩兵連隊(513)
 (若き)ヒトラーにとって戦争は、目的もなく退屈な日常から解放してくれる、冒険のようなものであったのだろう。じつはこれはドイツ国中、いやヨーロッパ中の青年に共通するものだった。
ヨーロッパでは1870年の普仏戦争いらい大きな戦争はなく、戦争の惨禍は人ぴとの記憶の底に沈みこんでいた。このため、各国では若者が陸続と軍隊に志願していった。ヒトラーもそのひとりであった。彼はドイツ人でないにもかかわらず、嘆願書を提出してまで、ドイツ軍にくわわろうとしたのである。彼の嘆願は認められ、八月一六日にヒトラーは第一六バイエルン予備歩兵連隊「リスト連隊」に入隊した。二ヵ月の訓練ののち、連隊は西部戦線へと出発した。
…戦場でのヒトラーは、周囲から変人と見られることもあったものの、兵士としてはきわめてまじめで勇敢であった。その結果、伍長勤務上等兵にまで昇進し、鉄十字章も受章している。しかし、1918年10月には、イープル南方で毒ガス攻撃を受けて目をやられた。その結果、ドイツの敗戦を病院のベッドの上で迎えている。


ダイアン・アーバス展(269)p,186
 70年代前半。ちょうど、ダイアン・アーバス展がニューヨーク近代美術館で開かれ、同館でピカソ展以上の最大の入場者数を記録、一つの神話が誕生するのがこの時代の真っ只中だった。

第一結集(けつじゅう)(511)
 ゴータマ・ブッダが入滅されるや、その年ただちにマハーカッサパ(摩詞迦葉〉を長として、5OO人の仏弟子が集まって教説の結集(サンギーティ〉が行われた。結集というのは、仏弟子がこれまで記憶してきた教説を編集会議の席上誦出して全員の確認を求め、それによって仏説と決定することを内容とした、いわゆる仏典編集会議ともいうべきものであった。この年の結集を仏教史上、「第一結集」とよんでいる。
このときの結集において、ブッダの説かれた教法(ダンマ)は25年間ブッダに近侍したアーナンダが主として誦出し、教団の規律(ピナヤ)は戒律に造詣の深いウパーリが請出したという。


第一次世界大戦(501)
 日本は、大戦勃発時のヨーロッパの参戦国をのぞけば、日英同盟を理由にかなり早く、また積極的に参戦した国だが、実戦は中国のドイツの租借地青島とドイツ領南洋諸島占領の二ヶ月程度しかなく、損害もごく軽微で、その後は地中海での船団護衛ぐらいが主任務であった。…参戦国としての当事者意識の希薄さ、戦争の実感の欠如が根底にある。…2011年に出版されたソンドハウスの第一次世界大戦史には、日本は「参戦国中最小のコストで最大の利益を得た」国と記されている。

対位法(120)  
 ウイーンにおいてバッハよりヘンデルが愛好されたのは、ウイーン人が音楽を感覚的に 和声的に捕らえる傾向から複雑な複音楽を敬遠したため。

対位法ラジオ(226)
 録音の仕事に加えてグールドは数多くの「対位法ラジオ」というべき放送を開拓している。カナダ放送でソナタ形式の音声入り通奏低音に、列車や海の響きを使ってナレーションを行うなど、無数のラジオ、テレビジョンの番組に出演している。

対応主義的真理概念(488)
 哲学史上、「真理」の定義として、もっとも基本的なものは、対応説的真理概念(真理とは事物とその認識との合致である)である。ある事物と、その事物についての認識が合致したとき、真理である、というわけである。
 しかし、真理をこう考えると、カントが言うように、人々は、「みじめな循環論法」に陥る、というのである。なぜだろうか。よく考えてみよう。
 「雪が白い」という認識が、対象と一致しているかどうかを確かめるためにはどうしたらよいだろうか。そう。対象を調べてみればよい。
   A:対象を調べてみた。
   B:どうだった?
   A:うん、やはり、雪は白い。
さて、これで、「雪が白い」という認識と、雪が白いという対象とは合致したことになるのだろうか。よく考えてみよう。これは、認識と対象を比較検討しているように見えて、残念ながら、認識と認識との比較検討にしかなっていないのである。対象を調べてみて分かったこと、それはすでに、対象についての認識になってしまっているのである。われわれの認識の手を離れた、無垢の対象のあり方をわれわれは決して知ることはできない。


大学とスコラ(560)
 ボロ ニア、 パリ、それからモンペリエ、 サレルノ、 ナポリというところなどは、 みな12世紀、13世紀にできているということがわかります。…こういう大学は、それではその同時代の施設たるスコラ(学院)とどう違うのかと申しますと、先ほどスコラには立派な教室や図書館もあったと申しました。…大学には最初の頃、固有の建物はございませんでした。イタリアではよく広場を使って大学の授業が行なわれておりましたし、パリなどでは街角を使ったり、人通りの多い橋の上を使ったりしていて、そこに教師が立って講義をしようとすると、それを中心にして学生が集まる。
、大学発生のそもそもは固定した場所はない。立派な設備のあった学院に較べると、大学はあまりにも見すぼらしい間借りの教室や街角に立つことから始まるのですが、ただ、精神的にスコラとは違う。スコラ(学院)のように与えられた知識を吸収し、すぐ世の中に役に立つということよりも、何かもう少し程度の高い学問を自分たちで研究しよう、と考えた人々、かりに世の中にすぐ役に立つとしても、従来、学院で教えられまた、ているような程度のものでは満足しないという人々、こういう人々の集まりから大学が始まったのだといわなければなりませんでしょう。

代官(120)  
 フーゴー・ヴォルフのオペラ。コレヒドール。若い頃共に学んだマーラーがウイーン宮 廷歌劇場指揮者になって、不遇なヴォルフのこの新作を上演するといってヴォルフを期待 させたが、なかなか上演できず、これが理由で精神に異常をきたす。1898年、ヴォル フは友人たちの前で、自分が宮廷歌劇場の総支配人に任ぜられ、マーラーを即刻解任する ことを宣言。その後入退院を繰り返し1903年42歳で死亡。

大恐慌(446)
 1925年1月2日、ニューヨーク・へラルド・トリピューン紙の一面には、…次のような記事が載っている。「アメリカは、産業史上かつてないほどの繁栄の時代を迎えている。この繁栄に影を落とすようなものは、現時点では一つも見当たらない」。その時点で大暴落を予測することは、誰にとっても不可能だったにちがない。…大手格付会社の経営者であるジョン・ムーディーがこう書いている。「あらゆる先進国に新しい時代が訪れようとしている。(中略)われわれが生きているこの近代工業文明がついに完成の域に達しようとしていることに、ようやく世界は気づき始めたところだ」
…エール大学の教授であるアーピング・フィッシャーが、「株価は恒久的に続く長期安定期に達した」との有名な予言を行ったのである。それは、なんとも聞の悪いことに、株価が1929年のピークを打つ直前だった。

退屈(297)
 この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。…僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はそのふたつを区別することができない。

大洪水の穴(129)  
 ウルの遺跡でウーリーが試掘した穴。ウルの歴史が何層にもわたって積み重なっている こと、その中間層に大洪水の後を発見。ノアの大洪水の原型であるシュメールの大洪水の 跡である。

 ■ダイコティック・リスニング・テスト(175)  
 両耳に同時に情報を与えて、それぞれの認知度を調べる。言葉や数字は右耳が勝り、音楽は左耳が勝る。左右脳の機能分担を調べる初期の方法。

第三のローマ帝国(522)
アレクサソドル一世は、トルコをめぐっては、ロシアの伝統的な夢を抱いていた。それは南進してトルコ帝国の首都コンスタンティノープルを占領することであった。「第二のローマ帝国」をもって任ずるロシア帝国の君主としては、「第二のローマ帝国」の都は、じぶんの都のようなものであった。「侵略」でなく「回復」のつもりであった。これはナポレオンにとっては困ることであった。

大自然の病院(319)
 遍路となって四国をめぐるのは理屈抜きの、ただ大師を慕っての素朴な信仰である。そしてへんろ道をたどる中で大師のおかげをいただき、心身の毒素が浄化されていく、いわば四国は大自然の病院といっても過言ではない。

対称(294)ロジェ・カイヨワ
 ギリシャヤ人たちが使っていたような古い意味での<対称>は、部分と全体とのあいだの節度、つり合い、調和、見事な均衡という概念に一致する言葉でした。現代でも、建築家たちの専門用語では、ごく最近までこの語源をよりどころにして、対称はすべての大きさが一様にそろって均整のとれた形を意味していました。

対称型レンズ(191)  
 レンズの前に絞りを置くとタル型の歪曲となり、逆に絞りをレンズの後ろに移すと糸巻 き型の歪曲になる。よって絞りを中心として同一のレンズを対称に置くと、歪曲が打ち消 し合う。現代でも製版やPPCのレンズに使われている。

 ■大乗仏教(147)  
 釈迦の思想はあまりに否定に傾きすぎるように思われる。ショーペンハウエルは仏教の 中に意志否定の哲学を見た。宇宙は盲目の意志から成り立っていて、そういう意志に左右 される人間は盲目の意志の奴隷にすぎない。大乗仏教が現れたのは、この否定哲学から人 生肯定にかえろうとしたからであろう。ショーペンハウエルからニーチェへの思想の動き に似ている。

大乗仏教(381)
 近代の研究者は、たいてい、大乗仏教は、従来の仏教とは全く異なったものであると解している。たとえば戦前の西欧における随一の中観派研究者であったスチェルバツキーは、従来の仏教、すなわちブッダによって説かれた教えは徹底的な「多元論」であり、これに対して『中論』などの大乗仏教は「一元論」であり、「同一の宗教的開祖から系統を引いていると称する新旧二派の間にかくもはなはだしい分裂を示したことは宗教史上他に例をみない事例である」と述べている。それは大多数の西洋の学者の意見であり、一般に大乗仏教は「仏教」ではあるかもしれないが、「プツダの教え」とは非常に異なったものである、と考えられている。しかしながら『中論』(ナーガルジュナ)を始めとし、一般に大乗仏教の経典や論書はみな自己の説がプッダの真意を伝えているものであると説き、しかも自説の存在理由をブッダの権威の下に力強い確信をもって主張している。

大乗仏教の密教化(536)
 釈迦によってはじめられた原始仏教は、紀元前後のころ大乗仏教へと展開し、やがて土着のヒンドゥー教と融合しつつ新しい仏教運動をおこすことになった。それが密教の流れである。
 この大乗仏教の密教化の試みは、すでに紀元後の段階ではじまっていたが、それが体系的に整備されたのが七−八世紀のころである。すなわち、まず七世紀に『大日経』がつくられ、八世紀になって『金剛項経』が成立した。この密教の二大経典はただちに漢訳されて中国に流伝し、それが空海の手守へてわが国に広く紹介されたことはよく知られている。
『大日経』と『金剛項経』のほかに、 もう一つ逸すべからざる重要な密教経典がある。それが後者の『金剛項経』の系譜に属する『理趣経』である。この『理趣経』では、人間の欲望が積極的に肯定され、性欲ですら清浄な菩薩の境地をあらわすものだと説かれているからである。欲望も宇宙生命の現実的な表現であるから、本質的に清浄であると考えるのであって、人間と宇宙との神秘的な合一を男女両性の交渉をもって表現し、それを「大楽」もしくは「適悦」と称している。この密教の「大楽」思想は、チベットに伝えられて新たな展開を示すことになった。日本の密教は「性」の問題を形而上学の枠にはめて観念化し、ロゴスの言語で教義化した。これにたいしてチベットの密教は、同じ「性」の発動を官能のレベルで受容し、それを昇華し純化する過程に心理、生理的な関心を示したといっていいだろう。


大聖堂(280)ル・コルビジュ
 ゴシックの建築は、球、円錐、筒などを根底としていない。教会堂の身廊だけが単純な形を示す。ただし二次的には複雑な幾何学(尖弓状の交叉十字)である。それゆえに大聖堂は大変美しいとはいえず、その埋め合わせを主観的な造形外の要素に求めることになる。大聖堂は難問の解決案という意味では興味を惹くが、問題設定がまずかったのだといえる。なぜなら初原的な形を用いていないからである。<大聖堂は造形的な作品ではない。ひとつの劇である。重力との闘いといった情に訴える種類の感覚によっている>

大西洋革命(522)
 このアメリカ独立革命は、啓蒙主義思潮の生み出した、人間の最終的解放としての「自由」「天賦人権」の観念の下に闘われたものであっただけに、それはただちに広い国際性をもつこととなった。アメリカ独立とフランス革命との関係は早くから注目されているが、最近では特にこの両者を綜合的にとらえ、さらにその他の諸民族の革命を一つながりのものとみて、それらを世界史的規模における「大西洋革命」と称する見解が現われているのはきわめて興味深い。
…伝統的な旧制度に対する民主主義運動の突破口が、アメリカ独立戦争によって開かれた後、80年代にはいると、アイルランド、イギリス、オラン夕、ベルギー、スイスと、民主主義運動は飛火のように、西ヨーロッパの各地に燃えうつってゆく。そして、そのいずれもが抑圧された後をうけて、フランス革命が勃発するのである。


胎蔵界曼荼羅(301)
 七世紀に集大成された「大日経」という経典にもとづいて描かれたもの。「胎蔵」はサンスクリット語の「ガルバ」、ガルバとは、母親の胎内、つまり子宮を指す言葉、あるいは、蓮華がその種から発芽し、花開く、そのありさまも、胎蔵の意味だとされている。
 このことを象徴するように、中心部には真っ赤な蓮華が花開く。中心に座す大日如来を取り囲んで八仏が静かに誕生する。


タイタニックの生存率(345)
 イギリスの報告書が計上した711名の生存者のうち、203名が1等、118名が2等、178名が3等、212名が乗組員だった。概数で示せば、1等で男33%、女97%、2等で男8%、女86%、3等で男16%、女46%が助かっている。1等と2等の子供は全員生きのびた。3等では、少年27%、少女45%が救出された。乗組員も24%が命拾いし、甲板部では65%、機関部では22%、客室係はわずか20%しか助かっていない。全体的にみれば、生存率は32.3%である。したがって、クイーンズタウンから出航したとき乗っていた人間の三分の二以上が、平時に海で起こった空前の災難、海運史上最大の事故のために、落命したことになる。68
年が経過して、この憂鬱な記録は塗り替えられることになった。1980年4月、フィリピンでタンカーと衝突したフェリーが沈み、4375人の命が奪われたのである。(この事故には何のドラマもロマンも記録として伝えられていない。

タイタニックの四人組(345)
 この船は、自分の限界をわきまえない男、資金繰りに困った自分と自分の造船所の業績をあげるためなら何でもする男(ベルファストの造船会社、ハーランド・アンド・ウルフ社の会長ビリー卿)が思いつき、提案し、計画し、建造した。彼は、無頼漢の中の無頼漢モーガン(USスチールを創設し、鉄道事業も支配していたアメリカ最大の投資家)の「たが」を何の心構えもできていないイギリスにたいしてはずしてみせ、彼自身のもっとも重要な顧客をモーガンが売り飛ばすのに手を貸した。そのホワイト・スター社はビリー卿の要請とモーガンの資金とイズメイの同意で「オリンピック」クラス建造を依頼したが、同時期とそれ以前の時期に、同社は危うい企業倫理といい加減な航海倫理をかいまみせていた。世襲制でたまたま社長になった男(J・ブルース・イズメイ。遭難時、救命ボートで脱出し、査問委員会で、「自分は一介の乗客であったにすぎない」と主張した)は、モーガンの富と権力に幻惑されたビリー同様、意志の弱い人物だった。そして、ホワイト・スターの首席船長(これ以前にも数々の事故歴を持つエドワード・ジョン・スミス)は、乗客を快適にさせるショーマンだったにとどまらず、世界最大の船舶をまるで巨大な快速モーターボートのように動かしたがる目立ちたがり屋だった。スミス、イズメイ、モーガン、ビリーの四人組についてはこれくらいでいいだろう。彼らの前でタイタニックは沈没することになったのである。

大胆な発言(TV)
 大胆な発言は容易だが、後始末に苦労する。ヒラリー・クリントンの大統領選挙戦略の微妙な変化に対する論評。

■大地の霊(524)
 天に対する宗教意識は、ただ天だけでは生れてこない。天が大地におりて来るとき、人間はその手に触れることができる。天の暖さを人間が知るのは、事実その手に触れてからである。大地の耕される可能性は、天の光が地に落ちて来るということがあるからである。それゆえ宗教は、親しく大地の上に起臥する人間−−即ち農民の中から出るときに、最も真実性をもつ。大宮人は大地を知らぬ、知り能わぬ。彼らの大地は観念である、歌の上、物語の上でのみ触れられる影法師である。それゆえ平安の情緒は宗教とかなりに隔たりのあるものである。仏教者という人々のあいだでも、宗教は出世の媒介にこそなれ、自分の心の奥へ分け入る枝折にはならなかった。南都北嶺の仏教、いずれも人間的真実性を欠いている、直接に大地に触れていないからである。四百年の冬眠はずいぶん長いが、歴史的・政治的・地理的諸条件は、それを余儀なくせしめた。


ダイナマイト(343)
 私は私の運命を知っている。いつの日にか私の名前には、何かとてつもなく巨大なものへの思い出が結びつけられることになるであろう。かつて地上に例を見なかったほどの危機、このうえなく奥深い良心の対立相克、そのときまで信じられ、求められ、神聖化されて来たいっさいのものごとに敵対して呼び出された一つの決断、そういうものへの思い出が結びつけられることになるであろう。私は人間ではないのである。私はダイナマイトだ。 (フリードリヒ・ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私は一個の運命であるのか」)

大日に祈れ(459)
 聖ザピエル師が教えられたデウスという言葉も日本人たちは勝手に大日とよぶ信仰に変えていたのだ。陽を拝む日本人にはデウスと大日とはほとんど似た発音だった。デウスと大日と混同した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りあげはじめたのだ。言葉の混乱がなくなったあとも、この屈折と変化とはひそかに続けられ、お前がさっき口に出した布教がもっとも華やかな時でさえも日本人たちは基督教の神ではなく、彼等が屈折させたものを信じていたのだ」

第二登(285)
 「ヒマラヤの未踏峰のどれかを、誰かがはじめて登頂に成功したとする。彼、またはその隊が、登頂記録をいっさいまだ発表していないとしても、つまり、どのルートのどこに、どんな危険があるか、というような情報が、まだ何もわかっていなくても、誰かがその頂上に立った、という情報があるだけで、第二登以降ははるかに容易に頂上に立つことができるものだ。」と西堀栄三郎先生は話してくださった。


 ■対側支配(175)  
 人間の体は感覚、運動のほとんどが、右脳は左半身と関連し、左脳は右半身と関連する こと。首の左の総頸動脈が右脳を潅漑し、右が逆になっているためである。人間だけか?  

ダイダロス(145)  
 アポロドーロスの偉大な建築家、神像の発明者。ジョイスは主人公スティーブン・ディ ーダラスという名をこのダイダロスから取り、精神の父祖として自らの芸術家としての生 き方の原点として描いた。ダイダロスの子はイカロスである。

第二次世界大戦(154)  
 ローズベルト大統領の、この戦争を後世どう呼ぶのかという問うに、チャーチルは「ア ンネセサリー(無駄多き、無益な)ウォー」と答えた。戦前はヒトラーに脅迫されすぎ、 戦中はドイツの抵抗運動を無視したからであるという。

第二パンゲア(391)
 地球は変貌した。地球上の生物がほとんど死滅した大量絶滅から1億年。プレートテクトニクスのたえまないプロセスによって、大陸は移動しつづけた。そしていま、わたしたち人類が姿を消してから2億年の月日がたち、地球はまったく異なる顔を見せている。世界はめぐりめぐって出発地点にまた戻ってきた観がある。二畳紀から三畳紀の大半にかけての数百万年のあいだ、太古の地球にはパンゲアと呼ばれる超大陸が存在した。
 それから数億年後、分裂していた大陸は再び一つになり、巨大な超大陸「第二パンゲア」となる。この超大陸は北はかつての北極から南は赤道まで、北半球のほとんどをおおっている。過酷な砂漠がどこまでも続き、大陸の端の山脈や海岸線まで来てやっと終わるほどだ。逆に大陸周縁の海岸毒は定期的にハリケーンに見舞われるため、湿度がかなり高くなっている。第二パンゲアの周囲には大海原がひたすら広がるばかりである。


大脳の一側優位性(252)
 ゲシュヴィントとガラパルダによる著書「大脳の一側優位性」におけるサヴァン症候群を説明するための要点はつぎのとおりである。
(1)人間の脳は、胎児期ですら左右対称ではない。すべての人間には左半球、ことにその側頭葉が優勢であるという非対称性があり、、それは遺伝形質ではななく、人体の基本的事実である。
(2)一側優位性とは、機能によってどちらかの半球が優勢になるということである。たとえば左半球は、言語と手先の器用さに関して優勢であり、右半球は、空間認知や音楽の才能に関して優勢である。
(3)優位性は大脳皮質に限定されたものでなく、皮質下にも反映されている。
(4)胎児において、左半球は右半球よりもあとから発達する。それゆえ、左半球のほうが出生前のさまざまな危険にさらされやすい。
(5)出生前の危険のうちの一つは男性に関するもので、テストステロンが体内を循環して大脳皮質の発達を遅らせ、左脳のニューロン構築を損傷する。その結果、ニューロンの移動が起こり、右脳が大きくなって、右脳優位がもたらされる。…女性胎児も、母体からの循環によっていくらかテストステロンを受けるが、そのほとんどすべてが胎盤内でエストラジオールに変えられるため、男性退治の場合のようにテストステロンが循環して大脳皮質に影響をおよぼすことはない。
(6)こうして右脳に優位が移動すると、変則的な優位性となり、右脳に関連した才能(サヴァンが示すような種類の才能)が発達する。同様にこの右脳優位は、読字障害、言語発達遅延、自閉症、どもり、活動過剰など、男女の比率に差がある障害に関連している。また一般に左利きの男性に多いことの理由である。
(7)脳の一部(左脳)に発達障害あるいは損傷があると、他の部分(右脳)が補償して発達し、「優位性の病理」が生まれる。
(8)テストステロンは他の組織の発達にも影響をおよぼす。生体免疫機構も影響を受け、男性の場合は、ある種の免疫病にかかりやすくなる。


ダイバーシティ(299)
 多様性。要求される機能を遂行するために異なる手段を持つこと。例えば、異なる物理法則を利用する、あるいは同一の問題を解くのに異なる方法を用いること。冗長化の方法。

大パリニッバーナ経(日経97-3-30)
 死出の旅へと歩みを進める釈尊の姿を伝える「最も人間味に富んだ経典」と言われる。 チュンダがささげたキノコ料理で腹をこわした釈迦はクシナガラで20年身辺で従ったア ーナンダに臨終の床を用意することを命じた。村上元の日本語訳は「ブッダ最後の旅」

タイマー機雷(212)
 米軍は日本内海に機雷を投下したが、その機雷には20年8月以降自爆するようにタイマーが取り付けられていた。それは米軍が日本に上陸するときに触雷しないようにするためであった。兵の消耗の防止を優先課題として兵器開発している米国の総合力である。

大満州国(414)
 大汗ホンタイジの即位後の最初のしごとである朝鮮への出兵の…この朝鮮国王にあたえた理由書は、漢文で書かれている。女真、朝鮮、そして大明帝国は、それぞれ民族と言語を異にしている。が、三国の外交文書はみな漢文であった。この漢文のなかで、大汗ホンタイジは、自分の国のことを女真とはいわず、またヌルハチが称した後金国とも称していない。異様な国名を称している。…「大満州国貝勒(ベイレ)書を朝鮮国王に致す」

ダイヤー(109)  
 工部大学校の校長としてグラスゴーから招かれたお雇い外国人。25歳で来日。給与は 伊藤博文よりも高かった。実地訓練と理論の両輪による理想の教育実験を実践し、成功す る。

第六天魔王(378)
 無住の『沙石集』の冒頭の説話、「大神宮の御事」の一部である。…なぜ伊勢では三宝(仏教)の名を忌み、憎が社殿に近づくことを許さないのか。……遠い昔、まだ日本列島が姿を現さなかったころのことである。大海の底に大日如来の印文があるのを見つけた天照大神が、鉾を下ろしてそれを探ってみると、鉾の先からしたたった滴が露のような形をなすに至った。ときにこの様子を天宮からみていた第六天の魔王は、この滴がやがて国土となって仏法が広まり、そこに住む人々が迷いの世界を離れて悟りをひらく兆しがあることを察知し、それを妨げるために天から下ってきた。このときアマテラスは…「私は三宝の名を口にすることも、この身に近づけることもしない。どうぞ心安らかに天にお帰り下さい」…この約束があるために、わが神宮では仏法が社殿に近づくことを許さないのである。…ちなみに第六天魔王とは、仏法の流布を妨げようとする邪悪な存在である。仏教を嫌う織田信長が、「第六天魔王」を自称した。

ダーウィンの厭世思想(553)
 ダーウィンによると、生物の個体はおのおのの意志と無関係に、それぞれ運命をきめられてしまう。この原則が人間にも適用される。となると個人の主体的な努力、よい人生を送ろうとしておこなうすべての行為が、究極的にはいっさい意味をもたないことになるわけである。人間をそのなかにふくむこの世界は、はなはだ不条理で残酷なのだ。にもかかわらず人間自身はそれに気づかず、みずからの運命をみずからの手で開拓しようと、むなしい苦心を重ねていることになる。文学者の一部が、とくに顕著にこういう立場を体現した。その代表が自然主義とよばれる。イギリスのトーマス・ハーディの作品には、善意の主人公が理想をもって努力したものの、先天的な性格が環境にあわなかったため、あわれな末路をとげるという悲劇が、くりかえし主題としてとりあげられた。フランスではエミール・ゾラなどが、類似の傾向をしめした。

ダーウィンの祖父(553)
 エラズマス・ダーウィンは、そういう進化論者のひとりだった。しかもこの分野では、イギリスにおけるもっとも早い先駆者であった。かれの主張は、ラマルクの学説とよく似ているといわれる。しかし年代的にみるならば、ラマルクよりもエラズマスのほうが前なのであった。…かれの姿は孫のチャールズのかなたに、おぼろに見えかくれするだけである。エラズマスの影がうすれている一因は、チャールズがその影響を否定したからにちがいない。チャールズによれば、祖父の主張は事実よりも思弁が多すぎるという。だがある意味で無理ないことながら、チャールズには進化論者としての自己の独創性を、ことのほか誇示する傾向があったことをわりびかなければなるまい。

ダーウィンの月(206)p.317
 ダーウィンが20年もかかって苦闘していたことを、ウォーレスは一週間でやってのけた。しかしウオーレスは、進化論の同時発見を否定するだけでなく、同時発表という栄誉さえ放棄して歴史における位置づけを自ら決定し、自らダーウィンの月を自称した。
……私はかなり以前より、思いついたアイデアによってではなく、それから生まれた行為によってのみ、賞賛なり非難なりを受けるべきだと考えるようになっていました。


ダーウィンの番犬(206)p.13
 1859年に「種の起源」が出版された翌年のオックスフォード集会で、ダーウィンを擁護して、反対派のウィルバーフォース主教を論破したハクスリーは、自らダーウィンの番犬と称していた。ウィルバーフォースが墓穴を掘ったイギリス的ユーモア「……ならばあなたの祖先というサルは、母方ですかそれとも父方ですか。」に対して、ハクスレーは「ご質問が私に卑しいサルを祖父にもちたいのか、それとも、すぐれた才能と大きな影響力もちながら、それを厳粛な科学的議論をひやかすためだけに用いる人間を祖父にもちたいのか、と問うならば、私はためらうことなくサルを選ぶと断言いたします。」

ダーウィン・フィンチ(207)p.28
 ガラパゴス諸島には13種のフィンチが生息している。ビーグル号航海記には4種が採録されているが、持ちかえられた標本を専門家が整理すると、ガラパゴスのみの独自種が多種確認され、現在にいたるまで、進化研究の格好のテーマとなった。……ただしダーウィンは、「種の起源」でフィンチを扱っていない。……2種のフィンチは小枝を道具として、木の幹の中の昆虫の幼虫をほじり出す。葉を食べるフィンチもいる。カツオドリの血を吸うフィンチもいる。イグアナのダニをとるフィンチもいる。サボテンを食べるフィンチもいる。ガラパゴスのフィンチは、どれをとっても風変わりな特殊化をとげており、それぞれの生態に適したくちばしをしている。自然が作り出した工具をそれぞれ持っている。

タウシュベツ川橋梁(328)
 上士幌と十勝三股をつなぐ士幌線は、音更川の渓谷に沿って敷設された。近くの川から豊富に採れる石材と砂を利用するためで、また、ゆるやかに谷間が弧を描くアーチの姿が渓谷美と調和すると考えられたため、コンクリート製のアーチ橋にこだわった。最大の長さをもつものは、総長130メートルのタウシュベツ川橋梁と言われる。しかし、この橋は全容を滅多に見ることのできない幻の橋だ。ふだんはダム建設で生まれた糠平湖のなかに沈んでいて、冬季など水位が下がったときだけ姿をあらわすのである。

タウルス急行(44)
イスタンブールのアジア側のハイダルパシャ駅からバグダットまでの、本当のオリエン ト急行。トルコのタウルス山脈を越て走る。途中のシリア第二の都会アレッポで「……ア レッポへの旅で私が一番感銘を受けたのは要塞である。ピラミッドを別にすればこれは人 間が作ったものとしては地上最大のものだろう。」という言葉は気になる。イラク国境の 町モスルはティグリス川に面している。対岸にあるアッシリア帝国の首都、古代都市遺跡 ニネヴェのアクセス点である。

タウング・ベビー(63)
 レイモンド・ダートが1924年に南アフリカのタウニングの石灰石採石場で発見した 300万年の猿人の幼児の化石。アウストラピテクス・アフリカヌス(アフリカの南のサ ル)と名付けた。さらに1974年ジョハンソンらがエチオピアのハダールで[ルーシー ]と呼ばれることになる成人女性の骨格を発見し、アウストラピテクス・アファレンシス (アファール猿人)と名付けた。今のところこの個体が最古の人類化石とされている。た だしこれらが現代のホモ・サピエンスの直系の先祖であるかいなかは、まだ議論が別れている。リーキーはアウストラピテクス属は後の絶滅した他の人類の始祖であると主張して いる。すなわち彼の両親がケニアのオルドヴァイ渓谷で発見した200万年前のジンジャ トロプス・ボイセイ(ホモ・ハビリス)の系統が現代の人類の系統であると主張。

高千穂製作所(95)
1938年、ライカスタイルで4×5cm版のオリンパス・スタンダードによってカメ ラ参入を目差すが、10台製造で、戦時経済により製造不能となった。 高千穂は日本の神々の山である。オリンポスはギリシャの神々の山である。オリンパス と名付けられた意味が分かった。

高橋財政(507)
 1929年にはじまった世界大恐慌は、日本ではどのようだったのか。「昭和恐慌」と呼ばれたこの時期、デフレ政策を展開し、ちょうどアメリカのフーヴァーに似た役割を演じたのが井上準之助であり、金本位制を離脱して赤字財政を組み日本経済をいち早く恐慌から脱出させたのが、高橋是清だった。
…1920年代に生きた日本のエリートたちの多くは、他の主要先進国のエリートと同様、世界標準のシステムと当時考えられた金本位制に、速やかに復帰することをめざして行動した1927年の日本独自の金融恐慌の勃発も、もとはといえば、金本位制復帰に備えて、不良債権化しつつあった震災手形の後始末、救済策を議論する国会が発端だった。1927年に時の蔵相片岡直温の失言に端を発し、激しい昭和金融恐慌が起きた。
…昭和恐慌について高橋は、「生活に必要な物資の欠乏に基づくもの」ではないとして、「生産品はむしろ供給過大にしてその結末に窮し、生産設備の大部分は休止しおるの有様である」とする。そもそも近年生産技術の発達進歩が非常であって、それを各国民、各階級間に分配利用するための設備と用意がともなわないために、「消費者は十分にその余慶に浴するを得ず」、いいかえると「生産と消費との聞に均衡を失する」にいたった結果だ。
…恐慌対策のために歳出が巨額に達したが、その費用の一部を増税によってまかなったらどうかとの議論がある。しかしながら、「現内閣が時局匡救、財界回復のために全力を傾注しつつあるこの際、増税によりて国民の所得を削減し、その購買力を失わしむることは、せっかく伸びつつある萌芽を剪除するの結果に陥るので、相当の期閉までこれを避ける」のがよい。

ダキニ天(379)
 まず立川流の本尊について、その本尊としてまつるダキニ天は閻魔天の眷属であるが、いってみれば小さな夜叉神である。その神が何を食べるかというと、「一切の生類の肉をもって食とせり」というがごとく、人間の肉も食べるし肝も食べると説く。ただダキニ天が人肉を食することは、それはど珍しいことではなく、…海が請来した両部曼荼羅の胎蔵界曼荼羅羅の外金剛部院の南に、ダキニ天が描かれているが、三尊の坐像のうち中央の一尊は人間の足首を右手でしっかりとにぎりしめ、うす笑いをうかべ食べている。…心定はダキニ天がただ単に人肉を食べるはかりではなく、…「其の中に殊に愛する食あり。人身の頂の十字の所に六粒のあまつひあり。是れを人黄と名く。此の人黄は是れ衆生の魂塊なり。或は出入の息 なりと成て人の命をたもち、或は懐妊の種とくだりて人身をつくる」。ダキニ天が美味として好むのは人間の頭上の部分で、そこには六粒の人黄が集積しているからだという。

タクシス郵便(533)
 それまでは国王、教会、大学、肉屋のギルドなどの非定期的な騎馬の飛脚が各都市間を行き来し、民間一般の通信も扱っていたが、公益郵便事業だけに専念するドイツのタクシス家による独占企業が、1516年に神聖ローマ帝国の承認を受けて馬車便業務を開始した。タクシス郵便といわれるこの独占企業は、プロイセンやナポレオンによって国営郵便が始まるまで、数百年にわたる中欧の独占企業だった。
 郵便馬車は通信業務だけでなく、人も運ぶようになる。17世紀後半になると馬車製造の技術が進歩して、昔の無蓋馬車や箱馬車とちがって鋼鉄のパネを車台にとりつけるようになり、座席にクッションも敷いたので飛躍的に旅行が楽になった。ロンドンを起点として1673年に人ものせる郵便馬車が走り始め、ドイツ・オーストリアではタクシス郵便が六人乗りの郵便馬車を各都市間に走らせるようになる。有蓋、窓ガラスと荷台付きの立派なものだ。これが鉄道の登場する19世紀半ばまでの主要交通機関である。

タケミカヅチ(505)
 相撲は…神社などで神に捧げられる儀式、つまり神事であった。その起源となったのが、天つ神タケミカヅチと、国つ神タケミナカタとの一戦だといわれている。勝者タケミカヅチが、その後武神として崇拝されるようになり、鹿島神宮に…祀られている。敗者タケミナカタもまた、狩猟の神として諏訪大社に祀られる。

田窪少年(211)
土門拳の「室生寺」は1954年出版された。何十枚も室生の村人を撮影したが、写真集に使われたのは、この少年の釣りをする後姿だけであった。しかし土門と村人の交流は門前の定宿の橋本屋を中心に長く続く。

ダグラス・ダンカン(103)
「ライフ」のカメラマンで、朝鮮戦争からベトナムで活躍。彼に触発され、キャパが再 び戦場に赴くことになり、そのまま帰ることがなかった。ニコンを世界に広めた写真家。 昭和25年、稲村隆生の元に友人がニッカに85mmのニッコールをつけて訪ねてきた 。そのときたまたま、当時日本人としてただ一人の「ライフ」カメラマンであった三木淳 とダンカンが同席していて、三木のライカVFにこのレンズを付け替えて、ダンカンに見 せ、撮影したプリントを翌日見せると、多いに気に入り、ニコンの大井工場を訪問し、5 0mmF1.5、80mmF2、135mmF3.5を借用。その一週間後朝鮮戦争が勃 発し、ダンカンはマッカーサーとともに2台のライカVFにこのニッコールの50mmと 135mmをつけて従軍。ニューヨークに送られた写真は、4×6版で撮影したのかとい われたほどのシャープさであった。その後、マイダンスも使い出し、過酷な環境で使える のはニコンだけという定評を生み出すことになる。 ダンカンは昭和40年ニコンFの20万台目のモデルを贈られた。

ダーク・レディ(57)
シェークスピアの描く愛と欲望の世界は実際の女性遍歴が背景にあるとされる。その相 手の女性をダークレディと呼ぶ。彼のソネットの多くはこのダークレディにささげられて いる。修道院の尼僧にして悪名高き娼婦ルーシー・モーガンも、その一人と目される。

 ■ タコマ・ナロウス橋(18)
振動学でおなじみのシアトルとタコマを結ぶ橋。自励振動と説明されることが多い。実 際は横風によるカルマン渦列が橋の捻れを増幅し1940年完成後7ケ月で破壊にいたる 。設計者はモイッシフ。トラス橋で再建。

タージ・マハル(230)
外観はモスクだが墓である。ムガール帝国第5代シャー・ジャハン帝が妃のムムターズ・マハルの為に作った。アグラ市のジャムナ川沿い。

タスターギ研究(240)p.113
国政府機関が40年にもわたって行った黒人男性を対象とする人体実験。「ニグロの未治療梅毒に関するタスキーギ研究」 1972年に発覚し、米国医学界最大の恐怖と呼ばれることになった。
無料の食事と無料の医療検査と埋葬保険を与えられた約600人の貧しい黒人男性が、ペニシリンの発明後も、これによる治療を受けることなく、実験台となった。


タストヴァン騎士団(49)
シュヴァリエ・デュ・タストヴァン。1934年設立のブルゴーニュワイン普及団体。 タストヴァンとはソムリエが首にぶら下げている灰皿のような形のワイン鑑定器具。

多世界解釈(242)p.66
多世界解釈は宇宙全体を量子力学で考えたらどうなるかという問題意識から出発した。量子力学がこの世の根本原理だとしたら、宇宙全体がシュレディンガー方程式に従う。コペハーゲン解釈では、電子を表す状態とは切り離したところに観測者を置き、観測者は共存する無数の電子の状態の中から一つを選び出してくると考えた。しかし観測者も電子で構成されているので、観測者を量子力学の対象の外に置くのは不自然である。多世界解釈によれば、電子は人間によって観測されたりされなかったりするのとは関わりなく、それぞれの共存度をもつ各世界にいる。そして、各世界の電子は観測された以後も、相変わらず共存していると考える。

多層飛行甲板(201)  
初期の航空母艦における問題点は、発艦と着艦を平行に行わせることにあった。英国の最初の空母フューリアスは最初、中央に艦橋を持ち、前甲板と後甲板で着発艦を分担しよ うとしたが、煙突の熱気流によって着艦が非常に困難で、失敗作となった。これを教訓に 次のアーガスではフラッシュ・デッキ、イーグルではアイランド・タイプと実験を繰り返 し現代空母の原型が作られていった。これらの経験を経てフューリアス(22450トン 33機積載)は2層甲板という新たなアイデアを盛り込み、日本海軍にも影響を及ぼし、 赤城、加賀では3層甲板で建造された。煙突の熱気流対策は、赤城では下向き煙突、加賀 では艦尾まで誘導煙路をもつ煙突を用いた。しかし、いずれも失敗作となり、全通甲板に 大改装された。  全通甲板で同時発着艦を実現するのは1955年米国のフォレスタルのアングルド・デ ッキ。これが現代のエンタープライズ型につながっていく。

ダダ(403)
 シュルレアリスムはダダイスムからの発展といわれるが、ダダとシュルレアリスムの精神はあきらかに別のものである。ダダは 「精神の状態」 と定義され、シュルレアリスムはダダの要素を継承しつつ、積極的にあるものを創造しょうとした。そしてダダからシュルレアリスムへの橋渡し役をつとめたのは、まちがいなくアンドレ・ブルトンだった。

正しい精神の現在(486)
 この状態、その中ではもはや何ら特定のことが考えられず、計画されず、希求、願望、期待されない状態、どんな特殊の方向に向かっても目指して行かないものでありながら、しかも確固不偏の力の充実のゆえに可能なものに対しても、あるいはまた不可能なものに対しても巧みに対処する術をわきまえている状態−−この状態こそ、真底からして無心無我なのであって、師範によって本来的に「精神的」と呼ばれたものであった。それは実際精神の目覚めた状態にみちみちているゆえに、「正しい精神の現在」ともいわれるのである。その意味は、精神がどこにも、どんな特殊の場所にも執着しないがゆえに、どこにでも現在するというのである。

立花隆(362)浅羽通明
 奇妙なことに、東大仏文でメーヌ・ド・ビランを卒論に選び、後に哲学科で学び直し、自ら「基本的に哲学的人間」だと語る立花隆の文章で、現象学、ソシュール言語学、言語論的転回や言語ゲーム論、構造主義や記号論といった知見が語られる場面は、まったくといっていいほど見当たらないのだ。パラダイム転換、エピステーメーという言葉を立花は好んで用いるようだが、それぞれ科学的常識を覆す大発見、知識の体系といった内容へ漆小化され、それらの概念を唱えたトマス・クーンやミシェル・フーコーの思想はまるで汲みとられていない。あれほどの読書量、博識を誇り、知の全体像を語りたがる立花隆にして、これはいかなることなのだろうか。まさか、ロラン・バルトが『神話作用』 で、プロレスの神話学的解釈を展開したのを読んで、構造主義者たちを「品性と知性と感性が同時に低レベルにある」連中だと見て切り捨てたわけではあるまいに。

竜飛(174)太宰治(津軽)
不意に鶏小舎に頭を突込んだ。……落ちついて見廻すと鶏小舎と感じたのが、すなわち 竜飛の部落なのである。……ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あ とは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。 読者も銘肌せよ。諸君がきたに向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、 さかのぼり行けば、必ずこの外ケ浜街道に至り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼ れば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに諸君の路は全く尽きる のである。

 ■田中敬一(90)
鳥取大学教授。地方大学のハンディを越えて、ひたすら高倍率と細胞内部の立体構造観 を目指し、走査型電子顕微鏡の利用技術の世界的権威となる。染色糸の二重螺旋も早い時 機に撮影に成功し、その論文別刷りはワトソン、クリックからも請求があった。さらに日立那加工場とともに当時世界最高倍率の80万倍電界放射式電顕を開発。

タナク(6)  
ユダヤ教では旧約聖書とは呼ばない。ただ聖書でよい。旧約聖書とは配列が異なり、ト ーラー(律法)、ネビィーム(預言書)、ケトゥビーム(諸書)から構成され、これをタ ナクと呼ぶ。

タナトス(177)  
フロイトが性本能、自己保存本能を含む生の本能を指していうエロスに対比される自己 破壊に向かう死の本能。

田辺朔郎(328)
 田辺は、工部大学校の学生時代に大津−京都間の疎水調査を行い、琵琶湖疎水の建設計画を卒業論文にまとめた。そして、若干23歳で、京都府知事北垣国道から、琵琶湖疎水工事の主任技師に任命されたのである。この10年がかりの総合開発プロジェクトは明治27に完成した。のちにこのプロジェクトは、先進性を認められ、イギリスの土木学会から、初代会長を記念した「テルフォード賞」を贈られた。田辺に与えられた国際的な名誉である。

谷川多佳子(114)  
波文庫の「方法序説」の翻訳者。平易な表現で、哲学を一般読者に近づけた。すべて の哲学書がこのような表現になれば、日本人の論理思考構造の革新につながる。

谷山=志村予想(357)
 みごとな予想でした。どの楕円方程式にもーつのモジュラー形式が付随しているというのですから。しかしはじめのうちは無視されていましたね。あまりにも時代に先駆けていたからです。…あっちには楕円の世界、こっちにはモジュラーの世界。この二つの世界はそれぞれ精力的に研究されてはいたが、あくまでも別の世界だった。楕円方程式を研究している数学者はモジュラー形式のことには詳しくなかっただろうし、その道もl亭えたでしょう。そこに谷山=志村予想が登場して、完全に別の二つの世界に橋が架かっているという壮大な推測をしたのです。
(1)もしも谷山=志村予想が証明されれば、すべての楕円方程式はモジュラーでなければならない。
(2)もしもすべての楕円方程式がモジュラーなら、フライの楕円方程式は存在しえない。
(3)フライの楕円方程式が存在しなければ、フェルマーの方程式は解をもたない。
(4)ゆえに、フェルマーの最終定理は成り立つ!


ダーニーリーン(529)
 1219年、ヴァルデマール二世は、…エス卜ニア北部のフィンランド湾に面したレーヴァル(タリン)地方に上陸した。エストニア人の抵抗は頑強だった。ある伝承によれば、ヴァルデマール二世は、退却せざるをえないと判断したほどだが、その時、奇跡が起こったという。白い十字のついた赤い旗が上空から舞い降りてきたのである。デーン人たちは、これを神の援助の印と考えた。兵士は息を吹き返し、…勝利はついにデンマーク軍のものとなった。この時の旗のデザインが、そのままデンマークの国旗となり、今日にいたっている。
 デンマーク軍はトーンペアの丘の上にあった古い要塞を破壊し、ただちに新しい要塞を構築した。…この要塞は、エストニア語で「デーン人の町、要塞」を意味するダーニーリーンと呼ばれることになった。今日のエストニアの首都タリンの名は、これに由来する。タリンは、ドイツ式にレーヴァルとも呼ばれ、後にハンザ同盟に加入し(1285年)、ロシアと西欧の中継港として大いに栄えることになる。


種板(313)
ネガフィルムのこと。

楽しみ方(303)ヘルマン・ヘッセ
 そこに集う人びとの憑かれた目つきや、熱に浮かされたようなゆがんだ顔が頭にこびりついて、悲しく不快な気持ちになります。それに人びとはオベラハウスでも、コンサートホールや画廊でさえも、このように病的で、永遠の不満に駆り立てられ、結局、楽しむことにうんざりするというような楽しみ方をしているのです。

楽しむ能力(303)ヘルマン・ヘッセ
 ひとつの色をもつ表面に当たる光が及ぼすさまざまな効果を一度でも観察したことのある人は、眼というものが、いかにほどよい楽しむ能力を持つものであるかを知っています。…とりわけ私たちの眼は、現代人の濫用され、酷使された眼でさえも、その気になりさえすれば無尽蔵の受容の能力をもっているのです。

タバコ巻き(148)  
鉄総裁の石田禮助が国会で、命がけで輸送と安全を確保している国鉄職員の給料がタ バコ巻きの公社と同じではおかしいといって物議をかもした発言。

(527)
 浦上キリシタンの総流罪が行なわれることになるが、「厳刑は行なわない」という会議所の多数意見にもかかわらず、各配流地ではひどい拷問が行なわれ多くの死者が出る。
1869年7月28日、長崎府を廃して長崎県が置かれた。渡辺昇は明治元年5月8日「耶蘇宗徒御処置取調掛」を命ぜられ、…キリシタン取締りに従事していたが、ここにキリシタン大検挙を行なうために長崎に下った。
1870年1月1日浦上キリシタンの戸主700名に出頭命令が出た。一村総流罪という、その「旅」は近代日本の歴史に特筆さるべき残酷物語ではあった。しかし「旅」に出る人びとの心は明るかった。神と信仰に背くことを人倫の極悪と観じ、おのが信念と神への忠実さを貫ぬくために殉教の旅に出ることは、彼らに残されたただ一つの、幸福への活路であったのだ。


旅の王権(265)p.120
膨大な官僚群を必要とせず、巨大な国家組織をもつことのなかった中世成立期のゲルマン諸国家においては、近代的な意味での首都はいうに及ばす、ローマ帝国時代のローマのような古代的な意味での首都も存在しえなかった。…国家には、場所としての政治的中心は必要ではなかった。王がいるところが政治的中心であり、王の移動とともに「首都」は移動したのである。

多仏を説く(511)
 仏になる以前をポサツというが、ボサツはすべて本願をたて、その本願が完成されるための修行をなし、本願と修行が自利と利他のニ面において完全に充足することによって仏となる。仏となっても仏の地位に満足せず、あくまでボサツのときの本願と修行の完成に生きねく。このような仏やボサツは、けっして架空のものでなく、大乗仏教徒自身の、あるべきすがたと信じられた。多数の仏がたてられたのは、部派仏教時代にゴータマ・ブッダ、があまりにも神格化されすぎたので、あらためて人間ブッダの人格を見直して、ブッダも求道者として真理をさとった仏の一人であるとした。そして、そのような歴史上のブッダ(応身)の把握とならんで、真理そのものを名づけた仏(法身〉、みずからの誓願と修行によって報われた仏(報身)などの仏陀観をたてた。たとえば大日如来は法身、阿弥陀仏は報身というごとくである。しかも、前述したごとく、ゴータマ・ブッダが探究した真仏を大乗仏教徒たちは、各自の立場から大日如来とか阿弥陀仏というように名づけた。つまり、浄土信仰に生きる人びとにとって、真仏とは阿弥陀仏であり、華厳信仰の人びとにとっての真仏は、ビルシャナ仏であるという具合に。こうして大乗仏教は部派仏教の釈尊一仏信仰の枠を越えて、多仏信仰を打ち出した。しかしながら、複数の仏が同時に同一人にとって信仰の対象となるというのではなく、「わたくしにとっての真仏は、ただ阿弥陀仏である」というように、一仏信仰を本旨とするものであった。

ダフネ島(207)p.387
ガラパゴス諸島の小島。プリンストン大学のグラント夫妻らは20年以上にわたってこの島のフィンチのくちばしについて18000羽の個体識別を行い、その結果、進化が目に見えるかたちで進行していることを証明した。

タブラ・ラサ論争(225)p.19(239)p.37
(225)においては、この言葉は周知のものとして扱われる。この言葉の響きにだけ反応してしまった私には何も分からない。それが今日、(239)を読んでいて、何が話題だったかがわかった。tabla rasa=「白紙」という意味だった。
イギリス経験論の祖ロックは「人間知性論」で次のように述べている。「…そこで、心は言ってみれば文字をまったく欠いた白紙(タブラ・ラサ)で、観念はすこしもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるのか。…これに対して、私は一語で経験からと答える。この経験に私たちのいっさいの知識は根底をもち、この経験からいっさいの知識は究極的に由来する。…」


ダブル・ガウス・レンズ(191)  
ガウス型はメニスカスの凸を前に凹を後ろにした構成。ガウスが望遠鏡用として考案し たものだが、これを2組対称構成にしたもの。現代の明るいレンズは大半、この構成にな っている。ツァイスのパウル・ルドルフは自己のアナスチグマットに満足せず、このダブ ル・ガウスに着目し、バリッド・サーフェスと呼ぶ凹レンズの前の貼り合わせ面を設け、 プラナーを作った。

タボール派(485)
 フスの殉教後、この運動の大憲章になったのは、《プラーハの四カ条》である。それは、神の言葉を自由に宣教すること、パンのみでなく、信徒にも盃(葡萄酒) を用いて聖餐式を行なうこと、聖職者の世俗的な支配と所有とを止め、使徒的清貧による生活を行なうこと、公共的犯罪を−− たとえ聖職者によるものであれ−−世俗的な司直の手に委ねることなどであった。プラーハの外でも、同じような改革を要求する多くの説教者たちが活躍した。これらの説教者たちは、多くの場所で、世俗の権力から迫害された。しかし、民衆は彼らに忠実に従い、礼拝のために《山の上》 に集まった。南ボへミアでは、彼らは、聖書のタボール山にちなんで名づけられた都市を建設した。初期においては、このタポール派の人びとは、いっさいの世俗的な支配=服従関係を否定し、租税や利子をも廃止するなど、ラディカルな社会改革を行なった。

卵白帽子騎士団(97)
コマンドリー・デュ・ボンタン。ブルゴーニュのタストヴァン騎士団のメドック版。

魂の空間(526)
 ルドルフ・シュタイナー自身がずっと後になって語ったところによれば、彼は七歳の頃、ある決定的な体験をもったという。地上の世界とは異なる世界から、最初の精妙な印象が彼の前に現われた。その世界は「見る」ことも「聞く」こともできるものなのだが、そのためには肉眼や物質的な耳とは別の眼と耳をもちいねばならない。少年はこの時点から、単なる樹木や石とだけではなく、その背後に隠れている霊的な存在たちとも、魂を通して触れ合うようになった。これらの存在は、物質的な環境のなかにではなく、ある内的な「魂の空間」に現われた。このような事柄は周囲の人々には理解されえないことを少年は感じ、それについては沈黙を守ることにした。

魂の神髄たる愛(520)
 アンドレイ公爵は、細い針か木っぱのようなものでできた、一種の不思議な透きとおった建物が、顔の真上に築き上げられるのを感じた。彼は(ずいぶん苦しかったけれど)、この建物が倒れないように、じっと一生懸命に平均をとっていなければならないような気がした。しかし、それでも建物はついに倒れた。そして再びそろそろと、規則正しい音楽のささやきにつれて、築き上げられるのであった。「延びる! 延びる! うんと延びる、どこまでも延びる!」とアンドレイ公爵はひとりごちた。このささやきに耳を傾け、このひろがり高まっていく針の建物を感じるとともに、公爵は時々ちぎれちぎれに、蝋燭の焔をとりまいている赤い輪を見たり、油虫のがさがさはう音や、枕や顔にぶつかる蝿のうなりを聞いたりした。
『そうだ、愛だ(と再び彼はきわめて明瞭に考えた)、しかしその愛は何かを得るためでもなければ、何かの目的のためでもなく、何かの理由によるものでもない。それは俺があの時はじめて味わった愛だ。俺は瀕死の瞬間に自分の敵を見たが、やはりその男に対しても愛を感じた。俺は魂の神髄たる愛の感情を味わったのだ。
…彼は初めて彼女の魂を思ってみたのである。彼女の感情、苦痛、差恥、悔恨を理解したのである。彼は今はじめて自分の拒絶の残忍さをはっきりとさとった。彼女との絶縁の冷酷さを知った。


魂の笛(297)
 私が猫を殺すのは、その魂を集めるためだ。その集めた猫の魂を使って特別な笛を作るんだ。そしてその笛を吹いて、もっと大きな魂を集める。そのもっと大きな魂を集めて、もっと大きい笛を作る。最後にはおそらく宇宙的に大きな笛ができるはずだ。しかしまず最初は猫だ。猫の魂を集めなければならない。それが出発点だ。かくかように、ものごとにはすべからく順番というものがある。順番をきちんと正確に守るということは、つまり敬意の発露なんだ。

ダミアン・ゴンザ(409)
 …カムチャッカに漂着した日本人を救助・保護し、ロシア人に日本語を教える日本語教師として優遇するという施策でした。助けられた日本人の多くが、心ならずもロシア語を学ばせられ、ロシア女性と結婚し、異国の地で一生を終えました。そのとき、かれらはロシア正教会の洗礼を受けたのです。記録によると、17世紀末に大阪のデンベイら13人、18世紀に入り、紀州のサニマら10人、薩摩のゴンザ・ソウザら17人、陸奥の竹内徳兵衛ら11人、伊勢の大黒屋光太夫ら17人と漂流民がつづいています。ゴンザは世界初の露日辞典の翻訳・作成者として有名です。ただ、その辞典は薩摩方言でした。

タムバレイン大王(57)
シェイクスピアと同時代で、彼に最も影響を与えた物語り作家が、カンタベリーのマー ロウである。そのマーロウは新時代ルネッサンス精神の体現者として、中央アジア・スキ タイの羊飼いがペルシャを打ち破って世界帝国を築いた姿を描く。これが力と美の世界を 描いた[タムバイレン大王]。普通はチムール帝国を築いたチムールと呼ばれている。

タムルード(27)
モーゼの十戒をユダヤ教徒としての身の処し方を規定したのまが律法(トーラー)。 さらにそれを律法学者(ラビ)が何百年もかけてミシュナを書き、それを発展させて民 族離散(ディアスボラ)後の口伝律法として編纂したのがタムルード(法典)。

堕落(184)サルトル  
彼の堕落は月並ではある。しかし、私が為には、その月並であることこそが、却って疑 わしくも思われる。それは、私が彼の姿に或る種の衰弱を認めるからである。そしてその 衰弱は、嘗ての放恣な生命力の残滓と、その将来に於る蘇生の予兆を暗示せずには置かぬ からである。…それは、より甚だしい堕落から月並な堕落へと衰弱してしまったかに見え る。

ダーラニー(376)
 真言密教の独自の特徴の一つは、ダーラニー(dharani陀羅尼)を唱えることです。ダーラニーは大乗の典籍のなかで大きな、また重要な部分を占めています。当時の民衆は、祈願、招福、除災の呪句を大いに尊重していたので、仏教はそれらを無視できませんでした。それらは仏教の本来の立場には合致しないものでしたが、ダーラニーは精神統一をはかるための手段であるとして正当化されたのです。

ダリエン(118) (223) 
7世紀当時のパナマ地峡の呼び名。ここにスペインの大略奪の後、最初に目を付けたのは、当時新大陸に権益 を持たなかったスコットランド。パナマで荷物を西海岸から東海岸に移動できれば、喜望 峰ルートに勝てると判断。ダリエン計画と呼ばれる開拓に送り込まれた数千人はそのままジャングルにうち捨てら れた。

ダリユの階段(257)
ルーブル美術館のコの字状の建物は、その正面がシュリー翼、左側がリシュリュウ翼、右側がデゥノン翼である。テゥノン翼を入ると最初に目に入る大階段がダリユの階段、その踊り場にサモトラケのニケが展示されている。ロードス人がアンティオコスを撃破した感謝の印として、サモトラケ王がBC190頃、勝利の女神ニケの像である。

ダルガーノの指文字(222)P.82
聾者用の指文字には、英国を中心として発展した両手式と米国の片手式がある。元々指文字は修道院の沈黙の戒律の中で使われてきてきたが、聾者専用に始めて両手指文字を最初に考案したのが英国のガルダーノの指文字であった。彼の指文字は左手の掌の各部分をアルファベットに対応させ、右手でこれを指さすものである。よって暗闇でも触覚によって交信することもできるものであった。この方式自体は普及しなかったが、指文字の発展に寄与した。

タルコンデーモス印章(66)
ヒッタイト聖刻文字解読のキーとなった楔形文字とヒッタイト文字の両方が刻まれた印 章。忘却されていたヒッタイト文明はトルコのボガズケイの遺跡にヤジリカヤ(刻文の石 )を発見に始まる。北シリアのカルケミシュが中心地。

タワーの実験(87)
1883年イギリスの機械学会誌に発表された滑り軸受の摩擦の実験報告。すべり面に 給油するためにジャーナル上部の小孔をあけたら油が吹き出した。これにレイノルズが着 目して、軸受スキマによるクサビ油膜圧力発生が軸を支えていることを説明。

タンクレディ(469)
 第一次十字軍には、親王の意味でもある「プリンチベ」と呼ばれていてもその実態は、イタリア語ではボスを意味する「カーポ」と呼んだほうが似合う男がいた。その人の名は、プーリア公ボエモンドという。この時代はノルマン民族が大活躍した時代でもあるが、一部は北に進んでイギリスを征服し…、別の一部は地中海に進出して、…地中海の中央にもノルマン王朝を打ち立てた、アル夕ヴィッラ家に属す男たちである。…ボエモンドに引き抜かれた精鋭のナンバーワンが、ボエモンドの甥でもあり、この時には二十代に入ったばかりというタンクレディだった。
 タンクレディは、三十六歳で死んだ。…今なおヨーロッパ人は、それもとくに南欧の人々は、タンクレディという名を耳にするだけで、ほとんど自動的に、信義に厚くそれでいて若々しい、永遠の若者を想い起すのである。


ダンケルクの奇跡(513)
 彼らはベルギーに侵入して連合軍を引きつける一方で、はるか南、アルデンヌの森から、集結した戦車部隊によって一大突破作戦を開始したのである。前進するドイツ軍戦車隊の行く手をはばんだのは、連合軍ではなかった。敵はドイツ軍司令部(そしてヒトラー!)だった。彼らは連合軍の反撃を心配して、戦車部隊の進撃をストップしようとしたのである。
…連合軍はしだいしだいにダンケルクの海岸に追いつめられていった。このとき奇跡が起きた。ドイツ軍機甲部隊の進撃が停止されたのである。またも弱気となったドイツ軍司令部(そしてヒトラー!)の介入であった。
 26日夕刻、ダンケルクからの撤退、「ダイナモ」作戦が発動された。連合軍は輸送船、軍艦、客船、はてははしけからヨットまで使って、ダンケルクの浜辺から将兵を脱出させた。6月4日朝、ダンケルクはドイツ軍の手に落ちたが、このときまでに、なんと35万人もの連合軍将兵が、ダンケルクからイギリスへと脱出したのである。


ダンス・マカブル(111)  
生きた骸骨。中世の踊る骸骨図。何を目的にするか?  

単線並列(172)  
ヨーロッパの複線の考え方。形態は複線だが、運用は単線2本として扱うので、どちら 側が上りという概念がない。よって鈍行が走りながら対向車線を特急が追い越していった り、ほぼ同時に同方向に2本の列車が2車線を使って運行されるということがある。

炭素サイクル(247)
炭素は有機化合物として生命を支える重要な元素である。約46年前に誕生した原始地球の大気の主成分き二酸化炭素であり、酸素は少なかった。この二酸化炭素を光合成で吸収し、酸素を放出することで植物が生育し、その死骸が体積して炭酸塩の堆積岩となり、これが化石燃料となって採掘、燃焼されることで、再び二酸化炭素を放出するというサイクルを描く。すなわち化石燃料が生成できる以上の速度で化石燃料を採掘すると地球生命の維持は不可能となる。

痰壷のさとり(210)
横浜二中(現翠嵐高校)時代の土門拳は画家を目指していた。一時ゴッホにこったが、じきに飽きた。「ゴッホの絵は本質的につまらないのじゃないかという批判が自分の中に沸いてきて、ぼとはぼくなりに、いわばゴッホを捨てた。」
三年生の秋、上野に展覧会に行った帰りに、神奈川駅で赤い痰壷を見た。新鮮で美しいものに見え、そこに在るということは絶対で、在ることの確かな手応えを実証していた。後日、自分の作画精神を強いていえば、この若き日の赤い痰壷に行き当たり、いわば痰壷のさとりであると述べている。


ダンディ(267)p.177
ダンディは、たえず世間からずれていく。ダンディは奇人ではない。あくまでも社会のルールのなかにあって、しかも絶えず、ずれていくのだ。ケンプの本(「ダンディ−−ある男たちの美学」)から引用しておこう。
「ダンディは、教条と押し付けを拒み、多数に対して単独を、過剰に対して希少を、つらい労働に対して余暇を、利益に対して無償を、富裕化に対して豪華さを、心情吐露に対して控え目を、家計のうっとうしいやり繰りに対しては羽目をはずすことを対置したのである。」


短刀への賛歌(523)1794年7月15日マラー殺害
マラーを殺害したシャルロッテ・コルデは)いろんな書物や思想を渡り歩いて、しかも純な魂はいささかもそのために傷つけられない、彼女はそういう人種のひとりだった。彼女は、善悪を教える書を読んでも、子どものような無垢のモラルを失わなかった。異様な天賦の賜物である。
子どものようなというのは、とりわけ、銀の鈴をころがしたような、子どもっぽい声の抑揚にそれがうかがわれた。このようにひきのばされた幼年期は、またジャンヌ・ダルクの特異性でもあった。ジャンヌ・ダルクはいつまでも小娘で、けっして女にはならなかった。
…そしてジロンド派と王党派も、シャルロット・コルデのうちに殉教者を見いだす。アンドレ・シェニエは彼女にその賛歌をささげた。おお、徳よ! 地上のただ一つの望み、短刀は、汝の聖なる武器なのだ。
この賛歌は、時代と民族を越えてたえずつくりかえられ、ヨーロッパの果て、プーシュキンの「短刀への賛歌」のうちに姿をあらわす。


単独者(131)
カミュ「シュティルネルは「わが主義はいかなる根拠の上にも立たない」といいえたの である。彼をどんな名で呼ぶこともできない。彼は単独者である。……そこで個人主義が 頂点に達する。シュティルネルのいう善とはなにか?「私の利用しうるもの」である。正 当に許されているものは何か?「私に可能なことすべて」である。」

歎異抄(525)
 ひそかに、愚かな案をもって、昔、親鸞聖人が御存命の頃と、なくなられた後の今とを思いくらべてみるに、このごろ先師聖人の口ずからお伝えなされたまことの信心とは「異」った説のおこなわれていることが「歎」かわしい。これでは後から道をまなぶものが、教義を相続してゆくうえに疑いをいだき惑いはしないかと案じられる。
…そうであるから、本願を信じさえすればそれ以外の善根をつみかさねる必要はない、本願の念仏よりもすぐれた善根はないからでゐる。また、わが身の悪をふりかえってみて、これでは救われないのでないかと不安を感じておそれるにもおよばない。弥陀の本願で救われないほどの悪はないからでゐる。ただ本願を信じ念仏をもうして救われてゆくのであると、聖人は仰せられた。
…奥書…
右にかかげたところの歎異抄という聖教は、わが親驚聖人の一流においては大切な聖教である。宿世の善根もなく、いまだ仏法に真摯単なこころがけのない人々には、無頓着に、この聖教を拝見させてはならない。…釈蓮如…御判…


タンネンベルクの戦い(529)
 一般に「タンネンベルクの戦い」といえば、第一次世界大戦の際に、このタンネンベルク近郊で行われた、ドイツ軍とロシア軍の激突を指す。この1914年8月の戦闘がドイツ側全面的勝利に終わったことは周知の通りである。
 そのほぼ500年前に、ほぼ同じ場所で戦われた、もう一つの「タンネンベルクの戦い」があった。それが、この戦いである。というよりも、二十世紀の「タンネンベルクの戦い」は、多分に500年前の戦いを意識して、ドイツ人によってつけられた名称であった。
 最初の「タンネンベルクの戦い」は、1410年7月15日に行われた「中世史上、最大の会戦」である。その規模を見ても、戦死者の多さやその結果の波紋の大きさを考えても、これは紛れもなく、歴史に残る大会戦であった。
 通説では、数の点ではポーランド・リトアニア連合軍側が優位にたち、大砲を含む装備と
経験および紀律の点ではドイツ騎士修道会軍が勝っていた、とされている。
タンネンベルクの戦いは、精強を誇ったドイツ騎士修道会の完敗に終わった。



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