語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-4-30 計67語
新着語
千々石ミゲル、中国のプリニウス、知難行易、中国の末法思想、朝鮮の朱子、チュード湖氷上の戦い、超個の人、柱頭の怪物、中道、中国のルソー、忠実なエッケルマン、嘲笑に値するか、貯蓄、超越論的仮象、超越論的真理、

小さな神(477)
 カール・セーガンは『惑星へ』のなかでこう書いている。いったいどうして、科学を検討し、「これはわれわれが考えたものよりすぐれている! 私たちの預言者たちが言ったものよりも、宇宙ははるかに大きく、もっと壮大で、もっと繊細で、もっと優美なものだ」と結論した大宗教がほとんどなかったのだろう。そうする代わりに、彼らは、「いやいや!私の神は小さなもので、私は神がいまのままでいてほしいのだ」と言う。新旧を問わず、現代科学によって解き明かされる宇宙の壮大さを強調した宗教があれば、在来の信仰がほとんど得ることのできなかった崇敬と畏怖を引き出せるかもしれない。」

チェルシー窯(262)
 イギリスではじめて磁器が焼かれたのは、ロンドン郊外のチェルシーの窯であった。1745年のことである。…土質が磁器の製造に適していなかったイギリスでは、牛馬など動物の骨灰を混ぜるボン・チャイナの製法によって、独特の硬質磁器を創り出すことに成功した。

チェルビダッケ(154)  
 戦後から1954年までフルトヴェングラーの後を継いでベルリン・フィルを指揮した ルーマニア出身の指揮者。その後のカラヤン時代には不当に無視され、決してベルリンの 舞台に立つことはなかったが、38年後に和解し、再び共演した。その時の曲目はブルッ クナーの七番。  

チェルヌィシェフスキー(422)
 『罪と罰』と『戦争と平和』の各章は、同じ雑誌「ロシア報知」の同じ巻に掲載された。だが両作品とた読書界で大成功を収めたにもかかわらず、最も先進的な青年たちが好んで読んでいたのは…雑誌「現代人」であり、そこにはチェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』が発表されていたのである。ニコライT世の時代にはありえなかったことがアレクサンドルU世の時代には実現した。逮捕拘束中の人間が書いた小説が出版されたのだ。…小説は自分の生を歩み始め、やがてロシアの思索的な青年で『何をなすべきか』を読んだことのない者は皆無になつてしまったのである。この書物はロシア文学の謎である。そこには作家としての才能の大きさを示す痕跡は何もないのに、この先まるまる半世紀にわたって青年たちの知を支配し続けたのである。
…革命とラフメートフ−−それこそが、作者が巧妙に題名の中に盛り込んだ 「何をなすべきか?」 という質問への回答であった。ラフメートフという 「特別な人間」、鉄のごとき禁欲主義者のイメージは、何十年にもわたって青年たちの想像力を支配するようになった。たとえばレーニンの兄アレクサンドル・ウリヤーノフはこの書を革命の福音書と捉えた。そして弟のレーニンは、この兄の愛読書を読んだとき、「この本は自分を耕してくれた」 と宣言したのである。つまり
『何をなすべきか』が未来のポリシェヴィキ・ロシアの指導者を革命家に仕立て上げたのであった。


力への意志(155)ニーチェ  
 力の、力との関係は意志と呼ばれる。力の意志というニーチェの原理は、意志が力を欲 すること、支配したいと欲求することを意味しない。ニーチェの語る力の意志は、作り出 すこと、与えることに存する。  

地下ループ線(166)  
 ナポリ地下鉄新線では、標高差をかせぐために地下でループしている。乗りに行っても 実感はできないだろう。

チキソトロピー(169)  
 高分子にせん断応力を加え、応力の増大によって近接分子間の粘度が低下したり、速度 勾配が増大したりする物性。たとえばチキソトロピー的挙動を示す接着剤は、はけ塗りで 大きなせん断応力が発生するのでなめらかに塗れるが、面に塗られて応力が除去されると 粘度が増大するので、垂れたり、垂直面で相手の板がズレ落ちしたりすることがない。 これと逆の特性がダイラタンシー。生クリームを作るとき、ゆっくりかき混ぜても、永久 に泡立たないが、高速でかき混ぜると空気と二次結合が進んで粘度が増加するのがダイラ タンシー。

知行合一(453)
 王陽明の立言の宗旨(本旨)は、知行合一の本体を指ししめすにあって、知にたいする行の優位を強調するのではけっしてない。これは読書による定理の先取りを原理的に否定する彼の立場からは、理すなわち何をなすべきかを知ることこそ、決定的な重要性を帯びてくることからしても明らかであろう。知行合一とは、知と行が本来的に一つの渾然たる心(主体)のはたらきの抽象された二側面であること、理との関連でいえば、心が本来的に理を直観定立すると同時に、理によってみずからの意志を規定するものであることをいう。つまりは「心即理」の意味にほかならない。いわゆる知や行はこの心の本体に復帰、ないしは実現する工夫(実践的努力)としてのみ意味を持つ。

痴愚神礼賛(450)
 1538年、エラスムスは友人たちに囲まれて死去。遺骸はパーゼルの大聖堂へ葬られ、遺産は孤児や苦学生に分け与えられた。
 1542年、パリ大学神学部は『痴愚神礼讃』を禁書とする。
 1554年、教皇ユリウス三世は、『痴愚神礼讃』『格言集』『新約聖書注解』を禁断書とする。
 1558年、教皇パウルス四世はエラスムスを、第一級の異端者と断じ、その全著作を禁断書とする。


筑豊のこどもたち(170)  
 1959年末、土門が私の机の上にドカンと、引き伸ばした数百枚の写真をのせた。巻 き紙に毛筆でコメントが書いてある。これを読めばわかる。ともかくザラ紙に刷って1冊 100円で売る。そう言って土門は忙しそうに撮影旅行に行ってしまった。編集構成を無 理に押しつけられた私(亀倉雄策)こそいい迷惑である。……これが土門拳のあの赤い表 紙に「るみえちゃん」の表情を飾った写真集の誕生物語であった。  

チクロンB(52)
 扉には「消毒室」とかかげられていた。衣類を脱がされた250人が連れ込まれ鍵が下 ろされる。それから一、二缶のチクロンBが壁の隙間から注ぎ込まれる。死に至る時間は 天候によってことなるが十分以上かかることは希であった。 「労働は自由への道」と門に掲げられたアウシュビッツ/ビルケナウ収容所でヘスが殺人 を合理化した初期の方法。

チザルピーナ(384)
 イタリア語で「アルプスのこちら側」という意味。1796年のナポレオンのイタリア遠征以降、北イタリア地方はオーストリア皇帝軍とフランス共和国軍の戟場となった。96年の有名なローディの戦いでナポレオンが勝ってミラノに入城し、そこにチザルピーナ共和国を作るが、ナポレオンがフランスに帰ると、またオーストリア軍が勢力を盛り返した。

チザルピーノ(172)
 ベンドリーノの後に製造されたイタリア製ふりこ型電車。CISALPINO。フィンランドやス ペインにも同型車両が輸出されている。電気機関車でなく、電車というのが軽快なスタイ ルの理由。

知識と刑罰(290)
 フーコーの視点の新しさは、直接の権力の行使である刑罰と、権力とは一見かかわりがないように見える科学的知識の伝達の間に共通の「母胎」があると考えた…にある。これは、資本主義的生産関係を維持していくうえで、国家の抑圧装置(=刑罰)だけでなく、国家のイデオロギー装置(=知識)が作用している点を指摘したアルチュセールの考え方に通ずるが、フーコーの場合、知識と刑罰が監視と訓練による同一の技術によって律せられている点を強調する。

知識ベース(113)  
 人工知能研究ではプロセス知に近い概念として経験知識を扱う。専門家は教科書的な知 識以外に、言語記述しがたい経験知識を持つという仮説をもとに、エキスパート・システ ムの能力向上のためにこの経験知識を計算機処理可能な形で外在化したもの。  しかし専門家は、その知識を答えることができない、無意識に活用する。知識情報を仮 定して、問題解決する機械を製作し、その能力の欠陥を専門家に修正させるという方法で 知識獲得も試みられた。しかし獲得された知識があまりにも個別的、場当たり的に大量蓄 積されるという結果となった。

知覚の流動モデル(296)
 見るということは、基本的には視点を動かしつつ見ることだ。視点を動かすことによって見えるものは、一種の流動パターンであろう。知覚のスナップショットモデルに対立する概念。

千々石ミゲル(ちぢわ)(547)
 この旅行は少年たちにとって戦場に赴くのと同じぐらい必死だったのだ。そして彼等はその必死な体験のなかで西欧を目撃したのである。基督教の過ちではなく、基督教徒と称する人々の悪しき面をその普き面と共に旅の途上で目撃した筈である。帰国後の少年たちの運命がそれを暗示してくれる。さきにもふれたが四人の彼等のうち伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチニョは終生、ヴァリニャーノが願っていたように聖職者として神に身を捧げた。だが千々石ミゲルは一度は有馬神学校に復学したものの、まもなく基督教を棄てている。棄教の動機や心理は軽々しく断定はできないが、私には少年使節として長い旅の問、彼が見たことが働いているような気がしてならぬのだ。

チッカリング(226)
 コンサートを救う残された唯一の方法は、考えうるかぎりの最高の感触環境を再創造するしかないとね。自分の持っているピアノの感触と相関させて創るのだ。もう何年も使っていないピアノがある。世紀の変わり目に製造された…アメリカでできた最後のクラシック・ピアノ、チッカリングというやつ。……そこにぼくは(グールド)タッチとタッチの深さの関係を発見して、後でぼくのスタインウェイにもかなり音の修正を可能とする根拠になったピアノだ。

知的でない人(479) 
 こういう(普通の)人は、私の周りにも掃いて捨てるほど居るが、彼らと重なりながらもやっぱり違う一群の人々が、やはり私(中島義道)はとても嫌いである。それは、知的でない人、知的向上心のない人と言っていい。知的でない人とは、人類の膨大な知的遺産を知りたいという情熱を抱かない人。具体的に言うと、大学の文学部や理学部などで扱っている古典的教養としての哲学・文学・芸術・科学に対して、飽くなき知識を求めようとしない人。それを知らないことを全身で恥じない人。限られた人生において、そのひと滴しか知ることができないことに絶望しない人。未来に地上に生息し、自分の知らない膨大なことを知りうる人間に対して嫉妬を感じない人……である。

チーナカ豆(202)  
 死霊第七章「最後の審判」では、過誤の人類史を問うて、食われたものが食ったものを 審判することから始まる。イエスはイエスに食われた魚から、釈迦は釈迦に食われたチー ナカ豆から指弾される。

知難行易(543)
 『孫文学説』は伝統的に広く受け入れられてきた「知るは易く行うは難し」(知易行難〉とする考え方を否定し、それを転倒させた形の「知るは難く行うは易し」(知難行易)とする考え方を主張した実践行動理論である。彼はそのことを飲食、金銭の効用、文章を作ること、家屋建築、造船、築城、運河の修築、電気の利用、化学知識、進化論など多くの具体例をあげて実証し、道理(真理)を正確に認識すれば、これを行動に移し大きな成果をあげることは容易だと説く。彼によれば知行合一説と、そこからみちびかれた「知りて行わざるは、是れ知らざるとなす」とする学説は、いたずらに難題を強いるものであり、人間性にもとるというのである。これは実践を軽視したのではなく、問題の正確な認識と科学的真理の習得こそ行動への出発点であること、革命事業もまたそうであることを力説したものと見るべきであろう。

血の圧力(278)
 1939年、北大の小熊捍は「ポーランドにおけるドイツの侵略も、アルバニアにおけるイタリアの攻撃も、要するに発展途上における民族が、自然に与えられたところの血の圧力でなくて何であろう。」「われわれはそこに、如何にすれば自分の属する民族が強化されるかという命題を出すにちがいない。」「遺伝の研究こそは民族強化に最も端的な効果をもたらすものである。」と書いている。

知能(233) J・グールド
 我々はこの驚くほど複雑で多くの側面をもつ人間の能力に対してインテリジェントという言葉を与える。そして、この速記法的記号は具体化され、知能は単一の実態として、いかがわしい地位を得ることになる。ひとたび知能が実態となると、科学のおきまりの手順として、知能の存在する場所や、その物理的基質が探し求められる。脳は知力の存在する座であるので、知能もそこに存在するに違いない…。

血の粛清(421)
全レーニン党の壊滅の原因となった1935年から1938年の事件は、彼(スターリン)の統治の最大の謎として残された。なぜ彼はあのよう不可解な残酷で自らに屈服した党を撲滅したのか。最も頻繁にくりかえされる説明は−−スターリンの異常さ、彼は精神分裂症気味であったということだ。
 彼は旧い党の撲滅を考えながら、彼に最も大きな影響をあたえた二人の先達、レーニンとトロツキーの助言を求めたはずである。そしてトロツキーの著作の中に、この二人の師の完璧な答えを見出すことができた。「レーニンは再三いわゆる古参ポリシエヴィキを嘲り、革命家たちは五十歳で先祖のところへやるべきだ、とまで言っていた。この楽しくない冗談には重大な意味があった。どの革命の世代も、ある境界までくると、彼らがその双肩に担ってきた思想がその後発展する際の障害となる」
 彼は統一された従順な党をつくろうという巨大な課題に直面していた。これはすでにレーニンによって提示された課題である。現実には、レーニンはそれをやりとげることができなかった。今こそ彼はそれをやりとげることを決意したのだ。

血のニコライ(420)
 ロシア革命は「血の日曜日」の名称で知られる不可解な出来事から始まった。…モスクワの秘密警察本部長になっていたズバートフ大佐、このかつての社会主義者は、警察の援助で労働者にはたらきかけることで、社会主義者たちと闘うというファンタスチックな実験を考え出した。そこで警察は労働者の同盟をつくり始めた。…そして1905年、ズバートフの労働者同盟の中にガボン神父が現れる。この敗戦(日露戦争)と困窮の苦しい時期に、皇帝に請願に行くことを、労働者たちに呼びかけた。…労働者の行進は1月9日と定められた。数千人の忠誠な労働者たちが、教会の旗や、皇帝の肖像や、イコンを捧げて皇帝に直訴に行く。この行進の考えそのものは、「民衆と皇帝」というニコライの密かな夢想を具現するものだった。…広場の入口に軍隊が待ち受けていた。行進は解散を命じられた。だが人々は信じなかった。皇帝が彼らを待っていると、ガボンが約束していたからである。銃声がひびき渡った。千人以上が殺された。…その夜、ガボンは労働者たちに言った。「血で結び合わされた兄弟たちよ……罪なき血が流された!…復讐しようではないか。彼らに死を、民衆に呪われたツァーリに」。

チャアダーエフ(422)
 貴族で美男子で、ナポレオン戦争で勇猛に戦った近衛軍の花形だったチャアダーエフは、アレクサンドル一世の治世に目覚ましい出世を遂げた。ぺテルブルグの若者たちの偶像となったこの名だたるダンディは、…不意に退官願いを出したのであった。そしてこの24歳の退役近衛騎兵大尉は、なんと神秘派の哲学者に変身したのである!
1838年、この神秘派の哲学者は突然、…時代の従順なる沈黙を破る一文を発表した。それが「哲学書簡」であった。
 ロシア史を振り返ってチャアダーエフは恐ろしい診断を下す。
本当の宗教性は、悲しいことにわれわれが常にその中で暮らしてきた、そして明らかに今後も暮らしていこうとしているような、息苦しい雰囲気とはかけ離れたものである。つまりわれわれは西欧と東洋の間にあって、いずれの習慣もとことん身につけることはできなかったのだ。われわれは中途半端な存在だ。われわれは孤立している。
…仮にわれわれが前進するとしても、それは何か奇妙な、曲がりくねったような前進ぶりである。仮にわれわれが成長するとしても、決して花開くことはないだろう。われわれの血には、何かしら本当の進歩を妨げる要素が混じっているのだ。


チャイナドレス(414)
 この種の婦人衣服は後世、漢民族のあいだに普及し、世界じゅうからチャイナ・ドレスの典型のように印象されるようになったが、本来は漠族の固有のものではない。かつての漢族の婦人衣服は身うごきとともに揺れるような寛衣で、体に密着したものではなかった。これに対し、漠族がのちに「旗袍(チーパオ)」とよんだ女真人の婦人服はこの北方民族がウツクとよんできたもので、皮膚に貼りついたようにぴっちりしており、帯を用いず、タハンとよぶ一種のボタンでとめていた。ついでながら、ボタンも漢民族の固有の衣服にはなかった。

チャイニーズ・ゴードン(59)
 チャールズ・ジョージ・ゴードンは、少壮軍人として中国に出征するが、太平天国の乱 を多国籍の「常勝軍」を指揮して鎮圧しチャイニーズ・ゴードンと呼ばれることとなった 。無私で清貧な紳士として植民地経営に携わり、大英帝国のヒーローとなるが、ハルツー ムでイギリス総督として民兵の槍により倒れる。アラビアのロレンスとは逆の意味でのパ クス・ブリタニカの体現者であった。

チャイニーズ・レストラン・シンドローム(324)
…世界中のどんな小さな街にも中華料理店があり、おおむね旨しく食べられるからなのだが、その理由を考えるとグルタミン酸ソーダに行き当たる。街の小さな中華料理店で、…少し汚れた白衣を着た料理人が大きなオタマをふるっていたはずである。オタマが大きな缶に突っ込まれ、かなりの量の白い粉を掬い上げる。その大きな缶に入った白い粉こそ化学調味料、すなわちグルタミン酸ソーダである。…米国で[チャイニーズ・レストラン・シンドローム(中華料理店症候群)]という症状が話題になり、それを恐れる人たちが増えた。一般的に言われる症状は中華料理を食べたあとの倦怠感、胃腸の不快感、ほてり、頭痛などで、その原囚はグルタミン酸ソーダの大量摂取による中毒症状だという説がある。これは必ずしも臨床データに基づいた医学によって検証されたわけではないのだが、多くの人が実感している…。

茶谷シャッター(287)
 フィルム画面の長辺を走るライカ方式に対し、短辺を走ればシャッター速度が上がると考えられるから、縦走りシャッターのアイデアはいろいろあった。…ゴールドバーグの近著などには、この縦走りシャッターをコパルタイプ・フォーカルプレーンシャッターとしてある。しかしコパル以前に基本原理を考案したのは関西のエフシー製作所の茶谷薫重前社長だという…。茶谷の卓抜なアイデアは踏切の遮断機の昇降からきているという。茶谷個人名の10件の特許と多くの実用新案からなる縦走りシャッターの発明は、実用化という段階でマミヤを経由してシャッター専門メーカー、コパルの手に委ねられる。…そのコパルは数年後、独自の実用新案を出して、ロイヤリティーを払わなくなった。茶谷は10年間訴訟で争うが体力負けしてしまう。

中間変種(207)p.57
 「種の起源」に対する典型的な反論は、「もし第一に種がほかの種から徐々に変化して生まれたものだとしたら、なぜその中間段階の形態をもっとたくさん目にしないのだろうか。なぜ自然界は混沌とした状態でなく、相互にはっきり区別できる種というものからなっているのだろうか。」である。ダーウィンは変種を生み出すのと同じ力が、変種を滅ぼす、ある変種はほかの変種よりも適応性がある、いま見ることができる動植物は競争の勝者であり、中間変種はいなくなると説明する。自然選択と絶滅は手に手をとって共に進む関係にある。

中国の大航海時代(437)
 15世紀の初めの30年間に明の大海軍船隊は7回、中国の宗主権を主張するためにシナ海、東南アジアをこえてインド洋に派遣される。これらの中国の大航海、遠征隊の規模は極めて雄大で、ヨーロッパの大航海、大遠征(コロンブスの船隊やヴァスコ・ダ・ガマの船隊〉の規模の数十倍、数百倍であったように記録されている。たとえば明の永楽三年(1405〉に鄭和は第1次の大航海に出発し、…インドの古里〈カリカット)まで遠征するが、船隊の規模は極めて大で、巨船六十二艘、乗り組んだ将兵の数は2万7千8百余と記録されている。『明史・鄭和伝』によれば、巨船は南京の宝船廠で建造され、その大きさは現在の商船に換算すると約八千トン、ヴァスコ・ダ・ガマの旗艦が120トンにすぎなかったから、正にそのけた違いの戚容を世界に誇っていたわけである。
 宦官の出の鄭和は前後6回にわたって明の大航海を指揮したが、彼の父マハッジはメッカに巡礼したことのある色目人であり、鄭和自身もイスラム教徒であった。…明の大船団は、東からふくモンスーンにのって、シナ海を越え、インド洋を巡航し、遂にはアデンや東アフリカのマガトクソにまで到達し、各寄港地で中国の宗主権を主張するのである。



中国のプリニウス(545)
 南方は、星宿論で彼が「中国のプリニウス」と呼んだ『酉陽雑俎』の著者段成式(Wiki→だん せいしき、803年? - 863年?)は、中国・唐の詩人。斉周臨?(りんし、山東省)の出身。)が持っていた科学的な観察眼を、ダーウィンのそれと比較しようとしているのである。南方の発掘したこの『酉陽雑俎』はまた、『ネイチャー』に出した星宿論と保護色論というこつの記念すべき出発点で大々的に取り上げられただけではなく、この後も彼の多くの論文のなかで重要な役割をはたしていく。たとえば、「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」では、シンデレラの物語の最古型がこの『酉陽雑俎』に見られることを指摘しており、南方の説話研究の中でも特筆すべき大きな発見のひとつとなっているのである。従来『酉陽雑姐』は、長い間、いわゆる正統的な漢学者からは無視され続けてきた本であった。特に、江戸時代に漢学の入門書として普及した江村北海の『授業編』が、楊慎の『丹鉛総録』に従って、これを「百虚ニシテ一実ナク、引拠ニソナフベキ書ニアラザル」と極めつけたことによってかなりイメージを損なったらしい。

中国の末法思想(542)
 道綽が『安楽集』で強調したのは、龍樹、曇鸞の難易二道説をふまえて、仏教全体を聖道門と浄土門の二つに分け、聖道門をさしおいて浄土の一門を時機相応すなわち末法の時代における根機の劣った者にふさわしい教えと見たことである。末法とは、中国になって正法・像法とともに三時説を形成した一種の仏教歴史観で、釈尊の教えが正しく行なわれている時代が正法であるが、やがて正しい教えがかくされて正法に似た教えが行なわれる像法の時代が続き、さらに時代が経過すると、教えは名だけで、教えのとおり修行する者やさとりを得る者がいなくなる末法の時代が到来するという。
 特に北周武帝の排仏(574)を契機として、中国の仏教界全体に末法到来の気運が急速に意識されるようになった。道綽(善導の師)は、慧思と同じ三時の年数をとり、それに『大集月蔵経』の仏滅後第四の五百年(正法五百年、像法千年を過ぎた末法に当たる)の説を重ね合わせ、末法の今こそ仏の名号を称える時であるとして、ただ浄土門に帰すべきことを強調したのである。道綽の所説には、曇鸞と同じように道教的要素が残っているが、ただ曇鸞には見られなかった中国成立の「疑経」も多く用いている。 疑経の内容は、道教や俗信関係との接合を試みたもの、護国の趣意を示したもの、特定の教義信仰を宣揚したものなど多種多様であるが、いずれも仏教を中国の一般社会に流布・浸透せしめるために作られたものと見てよい。この点で、疑経こそが中国の民衆仏教の実態・特色を語るものであるという見方も出てくる。いずれにせよ、道綽が疑経を大胆に用いているのは、浄土教の中国化を一段と進めたものとして注目される。

中国のルソー(509)
 最初、フランスでは暴君が専制し貴族が権力を握っていて、その状況は現在のわが中国とあまり違わなかった。かの老先生は憤懣を吐き出してこの「民約論」を作ったのだが、それから数十年もせぬうちにフランスは続けて何回も革命をやって、ついに民主国を作りあげた。それは全くこの「民約論」のおかげなのだ。…わが中国に一人のルソーも出なかったのが残念です。…出たよ出たよ、明末清初の中国に一人の大聖人が現れた。孟子以来第一の人物で、彼の学問も品行もルソーより何倍も高く、新学・旧学を問わず、この老先生に話が及べば崇拝しない人はいない。
 それは黄梨洲先生だ。名は宗義、浙江余銚県の人で、その方の書かれた『明夷待訪録』という本の原君・原臣の二篇は、『民約論』ほど完全ではないけれども、民約の道理はその中にちゃんと含まれている。本ができたのも『民約論』より何十年も早いのだ。


忠実なエッケルマン(496)
 1823年、ヨーハン・ペーター・エッケルマンは初めてゲーテを訪ねた。風采のあがらない人物(31歳)で、ハノーヴァーに近い地から徒歩でワイマルにやってきたのだった。…この新来の彼の崇拝者が現在自分の求めている助手として適任であることを感じ取ったのであろう。
 こうしてゲーテには自分の対話録をこのエッケルマンによって残そうという気持が育ち、その刊行を提案するに至った。対話録が意識的にゲーテの仕事の一端となったのである。…エッケルマンに有利な地位や新聞雑誌などへの執筆の依頼があると、ゲーテはそれは君自身の勉強のためにならないからと抑圧した。それゆえエッケルマンの生活は貧しく、婚約者との結婚も十年余延ばさなければならないほどだった。しかしエッケルマンは一言の不満も洩らさず堪え抜いた。それほどにゲーテへの敬愛は深かった。


中世の崩壊(71)
 一般に中世から近代への移行で人間精神が目覚めたとされる。その移行前の数百年間、 思考を停止していたかのごとくである。13世紀から16世紀の間に西欧世界はエントロ ピーの分岐点を経験した。中世のエネルギー基盤は木材であった、人口増加とこの木材の不足が、石炭の活用を促し、これが近代の扉を開くこととなった。

中道(511)
 思うに、シッダッタは青年時代の生活における快楽主義を斥け、出家して、禅定や苦行にいそしむ宗教生活に入ったが、その場合、かれは当時の宗教修行についてみずから考え正すところがあった。一つは二人の仙人で代表される禅定をつねに修する修禅主義であり、他の一つはこれから述べる苦行主義についてであった。修禅はその後、仏教にも採用され、仏道修行の基本となったが、インド宗教界に広く行われていた禅定至上主義の面はシッダッタによって斥けられた。また断食などによる苦行主義と欲楽にふける快楽主義の二つも、シッダッタによって斥けられ、いわゆる苦楽の二辺を離れる中道こそが、仏道実践の基本理念として掲げられることになった。

柱頭の怪物(514)
 私たちの祖先の心をあれほどまでに奪った、向い合った獅子、首を絡み合わせた鳥、双頭の鷲なとの象徴的意味を採る必要は、もうないだろう。聖ベルナルドゥスの言ったことは尤もである。柱頭に見られる怪獣どもが−−幾つかの例外は別として−−何の意味をも表わしていない。 …我が柱頭の怪物どもを、あの大学者のように笑うべきものとは判断しない。逆にそれらは、すばらしく詩的で、何千年もの間に次々とそれを伝えた四つも五つもの民族の夢で満ち満ちているように−−事実そうなのだが−−見えるのである。それらは、ロマネスク教会に、カルデヤとアッシリヤ、アケメネス朝のペルシャとササン朝のペルシャ、ギリシャ系のオリエントとアラブ系のオリエン卜を、導入しているのである。アジヤの全体が、キリスト教社会にその贈物をもた
らしたのである。


中東の天才(427)
 科学界での剽窃の代表選手としては、「中東の天才」エリアス・アルサブティがいる。彼は1975年、ガン検出に有効な検査法を開発したと宣伝してイラク政府に接近した。社会主義バース党の支配化にあったイラクではギャンブル並みの成果主義が横行していて、全面的に信頼されたアルサブティはバグダッド大学医学部の五学年に編入された。アルサブティの研究室には「アル・バース特殊タンパク質研究所」という看板がかかげられ、バース党がもたらした革命社会の成功事例として宣伝された。しかし、アルサブティはガンの検診法を利用して賄賂を受け取っていた事実が露呈すると、砂漠を越えてヨルダンに逃亡した。その後、ヨルダン政府を騙して米国へ留学してしまう。1977年に米国に渡った後のアルサブティは、11誌の科学雑誌の審査委員と6つの研究機関の責任者たちを次々と騙していく。

チュード湖氷上の戦い(529)
 十字軍はノプゴロドとフィンランド湾の中間に位置するヴォド地方を占領した。彼らは、ヴォドの人びとに租税を課し、コポリャの町に要塞を建て、ノプゴロドに迫った。切迫した事態を前にして、ノプゴロドの市民たちは、アレクサンドル・ネアスキーを、ふたたび迎え入れることにした。公はただちに反撃を開始した。1241年の秋までに、ヴォド地方から、侵略してきたカトリック教徒たちは追い出された。そして、1242年、映画『アレクサンドル・ネフスキー』で有名な、ドイツ騎士修道会との「氷上の戦い」が行われた。
 チュード湖「氷上の戦い」は、スケールの点からみると、それほど大きなものではなかったと思われる。しかし、その歴史的意義は少なくない。なによりも、この戦いによって、ドイツ騎士修道会が東への展開を完全に断念したことは重要である。その結果、東北部における「(カトリック)ヨーロッパ」とギリシア正教会世界との境界線がほぼ確定した。

チューブ(142)
 世界初のロンドンの地下鉄は1863年に開業している。すなわちモータもエンジンも 発明されていない時期であった。だから蒸気機関車が車両を牽引した。チューブと呼ばれ るシールド工法はその後1890年以降建設され、1908年には現在のロンドン地下鉄 のほとんどは開通していた。

中立説(218)p.174
 木村資生が唱えた中立説によれば、DNA上の突然変異(塩基配列の置換)はランダムであり、それが集団に広がって定着するかどうかも偶然であり、従って確率論的にみれば塩基の置換速度は相同なDNAではほぼ一定と考えられる。また機能に関係する突然変異は多くの場合生存に不利な変異であり、自然選択により淘汰されてしまうが、機能に無関係な突然変異は淘汰圧がかからず、塩基の置換速度は非常に速くなる。ミトコンドリアDNAは重要な機能を担っていないらしく、木村の説が正しいとすると非常に速い一定速度で変化していくと想定されるので、人類の系統のような比較的短い時間の系統を推定する指標としては大変都合がよいと一応は考えられる。このような背景理論を基にレベッカ・キャンはアフリカのイブ(ミトコンドリアのイブ)を20万年前の一人の女性に求めた。

チューリップ狂(251)p.253
 17世紀のオランダはチューリップ狂の時代であった。投機の対象としてチューリップの球根が取引され、ついには球根一つをペリット単位で分割して、複数の人間が所有するような事態になった。

チューリング・テスト(484)
 チューリングは、コンピューターの考える能力を試すためのテストを、1950年に提案した。このテストは、人工知能の試金石として、「チューリング・テスト」と呼ばれており、次のような単純明快なものである。ある人が、話題を適当に選んで未知の相手と筆談のやりとりをする。現代的には、電子メールかチャットを使えばよい。未知の相手は、人間かもしれないし、コンピューターかもしれない。コンピューターが相手であることが見破られなかったら、そのコンピューターのプログラムはチューリング・テストに合格とする。つまり、人間と自然に会話するプログラムができたときを、人工知能の一つの到達点と見なそうというものだ。

超越論的仮象(488)
 〈経験的仮象〉や、単に推論形式に関わる〈論理的仮象〉については、我々の注意が鋭くなりさえすれば、全面的に消滅する。これに反して、超越論的仮象の場合はそうはいかない。 超越論的仮象は、仮象であることがすでにあばかれ、またそのとるに足らないものであることが、超越論的批判によって明らかに見抜かれても、それにもかかわらず、依然として仮象であることをやめないのである(例えば、「世界は時間的な始まりを持つ」という命題における仮象)。
…、〈超越論的仮象〉は、純粋理性そのもののうちに源泉を持っとカントが考えている点である。カントはここで、根源的な誤謬の原因を「理性」そのもののうちに認めた。
   (1)心理学的仮象/純粋理性の誤謬推理〈パラロギスムス〉
          自我・霊魂の不滅性などをめぐる問題群
   (2)宇宙論的仮象/純粋理性の二律背反(アンチノミー〉
          世界の有限/無限・自由と必然・絶対的存在者などをめぐる問題群
   (3)神学的仮象/純粋理性の理想(イデアル〉
          神の存在証明などをめぐる問題群


超越論的観念論(488)
 空間あるいは時間において直観されるすべてのもの、つまり、我々にとって可能的な経験のすべての対象は、現象以外のなにものでもない。言いかえれば、単なる表象以外のなにものでもない。この表象は、我々の〈思想〉以外のところには、それ自身で基礎づけられるような存在をもってはいないのである。私はこの学説を、超越論的観念論となづける。超越論的な実在論者は、我々の感性の変様をそれ自体で存在するものにしてしまい、だからたんなる表象を事象そのものにしてしまうのである。
 カントによれば、超越論的には、時間・空間は、単なる表象の形式にすぎないのだが、経験の次元においては、我々の主観とは無関係といってもいい形で確実、客観的なものとしてある、ということなのである。


超越論的真理(488)
【真理の「普遍的基準」など存在するか】真理が認識とその対象との合致にあるなら、このことによってその対象は他の諸対象から区別されなければならない。ところで、真理の普遍的基準は、すべての認識について、その対象の区別なく妥当するようなものであるはずである。
【カントが主張する「超越論的真理」とは】しかし、明らかなのは、この基準にあっては、認識のすべての内容が捨象されているのに、真理はまさしくこの内容に関わるのであるから、認識の内容の真理の基準を問うのは、まったく不可能であり不合理であるということである。こうした要求はそれ自身において矛盾したことなのである。
 真理は、一方でその事態、その事象に特有のことを述べるから有意義であり真理でありうるのに、あらゆるものに通用するような真理は、その特有さを切りすてなければ成立しえない。あらゆるものの根元的真理、あらゆる認識に通用する真理など、実は自己矛盾を含むものであり、はっきりいえば、インチキである、とカントは主張しているのである。


 ■ 超広軌(48)
 スティーブンソンが採用したのは、すでに炭坑で使われていた1435mmゲージ。こ れに対してブルーネルはスピードこそ鉄道の命であり、そのためには軌間は広い程よいと 主張。2136mmの超広軌でロンドンから鉄道を敷設。この二つのゲージはブリストル 北東のグロスターで接触。イギリス国内のゲージ統一という軌間戦争となり、結果として その時点で延長距離の長いスティーブンソンが勝つ。技術的に優れていることが勝利につ ながらないという技術標準化の初期の事例である。

長期持続(311)ブローデル
 運命は人の意志とはほとんだ関係なくできあがっており、風景はこの人の後ろに、また前に、長期持続という無限パースペクティヴを描き出している。…最終的に勝ちを収めるのは、つねに長期の時間である。…長期の時間はたしかに人間の自由と偶然そのものの余地を制限する。」「「人間が歴史を作る」と言ったとき、マルクスは、半分以上間違っていました。歴史が人間をつくる、このほうが確かです。人間が歴史に耐えるのです。」

長距離思考(249)バックミンスター・フラー
 使いうるデーターが示す綜合的な発展が予想させるものの具体的な細部を、どの程度有効に解釈しうるか−−その結果得た結論は、約25年先をそれなりに正しく予想することは可能であるということだった。それは、産業的には、ひとつの道具を使いこなす期間にだいたい相当するように思われる。平均して、ほとんどの発明という金属は、約25年間で世界に溶け込んでゆくようだ。それが過ぎるとこの金属は、新しい、普通はもっと有効な使われ方で、再び流通するようになる。

■超個の人(524)
 超個の人は、既に超個であるから個己の世界にはいない。それゆえ、人と言ってもそれは個己の上に動く人ではない。さればと言って万象を撥って、そこに残る人でもない。こんな人はまだ個己の人である。超個の人は、個己と縁のない人だということではない。人は大いに個己と縁がある、実に離れられない縁がある。彼は個己を離れて存在し得ないと言ってよい。それかと言って、個己が彼だとは言われぬ。超個の人は、そんな不思議と言えば不思議な一物である。
 この超個の人が本当の個己である。『歎異紗』にある「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鴛一人がためなりけり」と言う、この親鸞一人である。また『百条法話随聞記』にある「この界にわろき者はわれ一人、地獄へ行くもわれ一人、浄土へまいるもわれ一人、一切みな一人一人と覚えにける」というこの一人である。真宗の信者はこの一人に徹底することによりて、日本的霊性の動きを体認するのである。…これは実に親鸞聖人の個己の霊性の上に生じた出来事であった。超個己の人−−この場合では弥陀の本願−−は、いつも個己の霊性を通して自己肯定を行ずるものである。…平安時代までの日本人の夢にだもうかがい知らなかった境地であった。「皮膚脱落してただ一真実のみあり」というこの一真実が即ち一人なのである。この一人は大地によりて象徴せられるが、いちばん手近なのである。大地の具体性が即ち一人の具体性−−他のものではどうしても置換えられぬ性格−−である。


嘲笑に値するか(496)
 ゲーテだけが笑わなかった。ゲーテはこの新来者をかばってこう言った。「まず相手が嘲笑に値するかどうかを吟味するがいい。誰の気持をも損ねない誠実な人を嘲笑するのは悪魔的な業だ」と。

朝鮮の朱子(538)
 李滉(りこう)。1501〜1570年。はじめて朝鮮独自の朱子学を定立し、「朝鮮の朱子」「東方の小朱子」と呼ばれる朝鮮第一の名儒。彼は朱子が幾分あいまいなままに残しておいた理気の関係をより明確にし、のちの主理派の理論的基礎を築いた。彼によれば、理と気は不可分の関係にあるものの截然と異なった二物であって、理は気の存在以前に存在し、気が消滅したのちにも存在し続ける。そして、理に動静があるから気に動静が生じるといい切って、事物の運動の根拠を理に求め、理は気の統率者であり、気は理の兵卒だと断言した。こうした立場から、徐敬徳の気一元論、気不滅論を批判した。また、「伝習録論弁」を書いて王陽明を攻撃し、朝鮮儒学界における最初の批判者となった。

超努力の原理(83)
 グルジェフの[覚醒的生き方]のために弟子を指導する方法論。 ある男が悪天候のなかを25マイル歩いて体も冷え切った空腹状態で家にたどり着き、そ れから家に入る前にあと2マイル歩こうと心に決めたとすれば、それが超努力である。 人間には彼自身が気づいているよりもはるかに膨大なエネルギーがある、つまり人間は余 備の生命を貯えた巨大なダムを持っていることを根本的に仮定している。

直流送電(334)
 電気照明の急速な普及は、電気供給システムの拡張を必要とした。しかし、エジソンのシステムは、直流送電であったため、電線の抵抗による電圧降下が生じ、実用的な送電範囲がおよそ1キロメートル以下と制限されていた。そのため中央発電所は人口の密集地に設置されるほかなく、居住地域での大型蒸気機関の駆動による煤煙や騒音への苦情は絶えなかった。

著作権(384)
 ドニゼッティが生涯に78曲ものオペラを作曲し続けたのは、著作権の成立していないイタリアで、昔ながらに一曲作ってはそれを劇場に買い取られ、出版権も同時に取られてしまい、自分には何も残らず、自転車操業のように次から次へと作曲しなければならなかったからだ。…ロッシーニがイタリアにおいて得た報酬は、当時の人気歌手でのちにロッシーニの妻となったイザペソラ・コルブランよりも少なかった。
…1808年、ジョヴァンニ・リコルディ(1785−−1853)がドイツのブライトコップフ・ウント・ヘルテル社で修業して、その楽譜印刷の技術を導入し、リコルディ社を設立した。リコルディは1825年にスカラ座の所有する楽譜の全部を買い取り、オペラの楽譜出版およびレンタル業を始めた。…楽譜は全曲を通して1冊で売ることはなく、各ナンバーのピースで売っていた。よって出演者は、自分の歌うナンバーのピースだけを購入して練習していたのである。…一方、オーケストラのスコアは、マエストロ用に一冊フルスコアがあるだけであとはパート譜のみだが、これは絶対に販売せずに全部レンタルだった。現在でもイタリアではまだこのシステムがとられている。


チョソンクルシ(25)  
 朝鮮文字。ハングルのこと。  

貯蓄(492)
 たしかに資本主義は不平等を生み、よくないけれども、その資本は美徳である貯蓄の累積なのであるという考えをもつ限りにおいて、社会主義者を除いて、資本主義否定は生まれることがなかった。資本主義の弊害を強く主張する人間も、貯蓄、節倹、美徳観のうえに立っていたからである。ケインズは、このような考え方は一般的に妥当しないのであって、有効需要の不足している経済のもとでは、貯蓄は有効需要の削減であり、不況深化であり、社会はそれによって富の削減を被るということを主張したのである。貯蓄は必ずしも投資にならない。投資する人間と貯蓄する人間は違うではないか等々である。このことが貯蓄美徳観を否定し、累進課税を強化させ、福祉国家への道を急がせた。

チョムスキー革命(263)
 行動主義は、その理論的達成によって、えたいの知れないココロそのものを直接とりあげて、とりとめもない議論に明け暮れる心理学を解体するはずであった。ココロの現象と深いかかわりを持つ言語学が、行動主義の考え方に強くひきよせられ、その直接の影響下に置かれないはずはなかった。チョムスキー革命の最大のねらいは、この行動主義の最も重要な拠点の一つとなった言語学を解体することであった。
…miindへのこの決然たる排除宣言が行われてからおよそ三十年の後、チョムスキーはかれの言語学の基礎をすべてこのmindの上に置き、言語の原理は有形のことばそのものからではなく、こころ(精神)から引き出そうとした。

チョムスキー革命(484)
 単語と意味との関係は恣意的であって、そこに必然的な法則性は存在しない。従って、語源を追い求めても、その先には言語の多様性を生み出すような自然法則に行き当たらないのである。
…このような言語学が直面していた困難な状況の中で、言語の多様性という謎に初めて一つの説明を与えたのは、チョムスキーの生成文法理論であった。「種の起源』から百年後のことである。チョムスキーは、単語ではなく文の構造に着目した。そして、人間の言葉には、文の構造に一定の文法規則があり、それが多様に変形されうることを明らかにした。多様性の中から本質を見抜く力は、偉大な科学者に与えられた天分である。多様性の中に規則性を発見したという意味で、チョムスキーはダーウィンと同じくらいに決定的な革命を、しかもダーウィンとは違った意味において成し遂げたのである。

チリの強み(358)
 チリの価格競争力を支える他の要因として、それぞれのワイナリーが比較的大規模で、それらが少数の財閥によって運営されていることがあげられます。これは結果として規模の経済性を生み、マーケティング上の競争力を保持するためにも重要なことです。もうひとつのチリの強みは、現代的なワイン生産がカリフォルニアやフランスからの投資・技術移転によって行なわれていることです。自国ではほとんど研究開発を行なわなかったものの、輸入された最先端の技術が用いられており、しかもその技術供与先の市場を狙った商品開発が行なわれています。ボルドーのシャトー・ラフィットやカリフォルニアのロバート・モンダヴィの投資を見ても明らかなように、世界の高級ワイン生産者はチリの潜在力を確信しており、この投資熱はしばらくやみそうにありません。…しかしながら、すべてが順風満帆な訳ではなく、チリの葡萄栽培に関して、農薬の過剰使用や収量過多等、さまざまな批判が世界的に起こっているのも事実です。

チンギス西征の原因(411)
 チンギス・ハーンの中央アジアおよび西アジアの侵略は、1219年の秋から1227年の初めまで約7年間にわたって行なわれた。…当時ホラズムは中央アジア最大の回教国であり、戦闘的な権力者ムハマッドに依って領土は広められ、国力は充実していた。…1218年にチンギス・ハーソは100頭の路舵をもった隊商をホラズム帝国へ送った。ホラズムと通商の道を拓くためであった。ホラズムの東北国境の城市オトラルの守将イナルジュックは隊商の全員を捕えて殺した。そこでチンギス・ハーンは使者をホラズム王アラジン・ムハマッド(ジェラル・ウッディンの父)に送って抗議したが、ムハマッドはまたその使者を殺した。こうした事件がもとになって、チンギス・ハーンの西征の軍は起こされたのであった。…双方の誤算と誤解にもとづいた事件が世界帝国の成立のきっかけとなった。

珍器製造所(168)  
 からくりや儀右衛門が1873年芝に開設した機器製造所。そこで製造された水揚機械 、無鍵錠、火吹き火鉢、等のからくりは、自筆の「諸器械便利考」にスケッチとして残さ れている。1975年には新橋に「諸器械製造所」として移転、鉄製旋盤まで製造した。 これは池貝が1905年、アメリカ導入技術で旋盤を製造しこれを東京高等工業学校に納 入して、日本の工作機械の出発といわれる以前の話である。

賃金の上昇(430)スミス
 社会全体の利害とそれぞれの階級の利害の対立に関し、スミスの考えを裏づけているものは、経済社会の「発展的状態」と「停滞的状態」と「衰退的状態」についての構想である。…労働の賃金の上昇をもたらすものは、国民の富の現実の大きさ如何ではなく、富の恒常的な増加である。だから労働の賃金は、もっとも富裕な国においてではなく、もっとも繁栄しつつある国々、いいかえると、もっとも急速に富裕に向かいつつある国々において最高になる。
…たとえその国の富がきわめて大きいとしても、その国が長いあいだ停滞的であるなら、そこでの労働の貨銀が非常に高いと思ってはならない。貸銀の支払にあてられる基金、すなわち、住民の収入と資本は、最大の規模に達することがあっても、もしそれらが数世紀にわたって同一、またはほとんど同一の大きさのままであるとするなら、年々雇用される労働者の数は、つぎの年に必要とされる労働者数を容易に充足するだろ。…シナは、長らく、世界でもっとも富裕な、すなわちもっとも肥沃で、もっともよく耕作され、もっとも勤勉で、そしてもっとも人口の多い国の一つであった。だがこの国は長いあいだ停滞状態にあったようだ。シナにおける労働の低賃金と労働者が家族を扶養していくことの困難さについては、旅行者の説明は一致している。


沈黙の塔(130)  
 シリア砂漠の隊商都市パルミュラの広大な遺構にある墳墓の谷の死者のアパート群。1 基で500人程度の死者を収容できる10数mの塔が林立する。土葬が普通である時代に パルミュラは死者のために贅沢をするだけの経済力を持ち、特に女王ゼノビアの頃最盛期 を迎え、ローマに反逆して滅ぶ。

賃労働と資本(448)
 マルクスが彼の経済学的諸発見を最も広汎な労働者大衆のまえに説明したこの著述の『導きの糸』は、ブルジョアジーとプロレタリアートとの階級利害は宥和しないということである。換言すれば、ブルジョアジーの転覆のみが、プロレタリアートの独裁獲得のみが、賃銀奴隷状態を打破しうるという理論である。…資本の廃棄とは、機械の廃棄、大産業の廃棄を意味するのではなくて、賃労働という社会的関係の・生産手段の資本制的私有の・廃棄を意味するのである。



【語彙の森】