語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-8-31 計111語
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都市の偉大さ、堂上華族、突然変異説、動物の心東北の鉄道、土宜法竜、徳道上人、ドゥルイデス、刀剣騎士修道団、東西の宗教改革、どうでもいい、トルストイを生んだ二家族、トルストイ「戦争と平和」、

ドイツ的自由の墓掘り人(485)
 アブッシュの「ある国民の誤った道」は、初期東ドイツの歴史像、少なくとも宗教改革史観に決定的な刻印をあたえたといわれている。メキシコ亡命中に書かれ、敗戦の翌年には東ベルリンで出版された。ドイツ史において野蛮なナチズムの到来を助けた転換点はどこにあったか、という視点のもとに分析したものだ。宗教改革と農民戦争は「ドイツ的自由の墓掘人」というタイトルをつけられ、ルターは「ドイツ反革命の最大の精神的指導者」とされていた。…マルクス主義者たちは、、帝政時代いらい、とくにナチ時代において、ナショナリスティックなルター像と対決しなければならなかった。またドイツの労働運動を通して、ルターは、ミュンツァーや農民戦争の敵とみなされてきた。こうした中でエンゲルスの『ドイツ農民戦争』にあらわれる解釈は、東ドイツの公式史観を規定してきたといってよいであろう。

ドイツ人にあるまじき才能(356)
 ドイツ人にオペラ(または音楽そのもの)は書けっこないと言われていた18世紀、その中で当時最も有名だったドイツ人は、今は抹殺されてしまったアードルフ・ハッセ(1699--1783)である。…ハッセの活躍はイタリアの巨匠たちと並ぶというか、ときにはそれ以上のこともあった。彼はイタリア・オペラの大家としてイタリア各地でときにイタリア人以上に歓迎された作曲家であった。まさに豊穣の作曲家であった。…その彼がドイツ人の書いた歴史の上でなぜ抹殺されたのか。理由はひどく簡単に見える。ハッセはドイツ人にあるまじきイタリア・オペラの大家だったからである。

ドイツの原イメージ(188)  
 マンのファウスト博士での表現「聖血への巡礼の群れ、少年十字軍、血を流す聖餅(ホ スチア)、飢饉、農民一揆、戦争、ケルンのペスト、流星、重大な前兆、聖痕のある尼僧 たち……」これそがドイツの原イメージであり、かつロマン主義的ドイツの、それ以上に 西欧精神の根底にねむるある種の情熱の原イメージであるかもしれない。  

ドイツの醜態(119)  
 ウイーン宮廷に受け容れられなかったモーツァルトが、その死の年にレオポルド二世が ベーメン王となるプラハでの戴冠式のために、宮廷から委嘱されたのがオペラ・セリア[ ティートの仁慈]だ。皇后はこれを聴いてドイツの醜態と言った。ウイーンがイタリア・ オペラの支配下にあった美意識の次元を象徴する。

トインビー批判(110)  
 バクビー「トインビーのしたことは、文明の比較研究に大きなあだとなった。ひどく思考の足りない、非科学的なやり方で研究を企てたため、文明比較論全部の試みを失墜させ る傾きがあった。」  P.ソーロキンは、文明の実在を疑ってかかり、文化の永続性を掲げているので、文明 の世代などという生物学的比喩はナンセンスと考えた。-  トインビーの文明世代区分の根拠がぐらつく中で、コルボーンは同一文明サイクル説で 解決。しかしこれを受け入れるとトインビーのルネッサンス説も同時にその論理性を失う 。

統一科学論(506)
 ウイーン学団の…カルナップにとってもノイラー卜にとっても、一切の言明が、経験的事実について発言している総合的命題と、経験的内容を含まずシンタックスの規則にもとづく演算のみにかかわる分析的命題とのいずれかに分けられる、というラッセル− ウィトゲンシユタインのテーゼは、およそ科学論を展開する場合の共通の出発点である。カルナップは、総合的命題を定立することを職能とする科学を経験科学、分析的命題を定立することを職能とする科学を形式科学として対比し、そして経験科学を、物理科学・生物科学・心理学・社会科学に大きく四分して考える。形式科学が論理学と数学から成ることはいうまでもない。
…物言語は相互主観性と相互感覚性の度合いが高いから、物言語そのもの、あるいは物言語に還元可能な言語のみによってあらわされたプロトコル文は、その真偽の決定が普遍的になされ得るであろう。命題が、物言語ないし物言語に還元可能な言語のみを用いたプロトコル文によって構成されるなら、経験科学の普遍性が確保され、諸科学の言語は統一され得ると考えた。


ドウィモルデーネ(272)指輪物語
 「ドウィモルデーネに、ロリエンに、人間の足跡の印されることは稀だった。
      かしこに長く明るくただよう光を生命短い人の目が見たためしは少ない。
  ガラドリエルよ!ガラドリエル!あなたの泉の水は澄みわたり、あなたの白の手の星は白い。
       ドウィモルデーネに、ロリエンに、
    木の葉と土地は汚れず、損われず、生命短い人間の思いをこえて美しい。」
(註;ドウィモルデーネはまぼろしの谷を意味するローハン語で、ロリエンをさす。)


ドゥオーモ  <Duomo>
 初代ミラノ公ガレアッツォ・ビスコンティによって1386年に造営開始。 1572年に献堂式。西正面のファサードは未完成のまま放置されていたがナポレオン の命で19世紀になってようやく完成した。北方ゴシックを基本構想としているが、トリ フォリウムを持たない側廊は高く、身廊と一体化しているので、横幅が広く、ゴシックが 一般に持つ上方への志向より、平面的広がりが強く感じられる。穹りゅうを支える52本 の大積柱が圧倒的な存在感を持つ。バロック化したゴシックという感じ。

投企(447)p.18
 人間がまず先に実存するものだということ、すなわち人間はまず、未来にむかってみずからを投げるものであり、未来のなかにみずからを投げるものであり、未来のなかにみずからを投企することを意識するものであることをいおうとするのだからである。
…この投企に先立って何ものも存在しない。何ものも、明瞭な神意のなかに存在してはいない。人間は何よりも先に、みずからかくあろうと投企したところのものになるのである。みずからかくあろうと意志したもの、ではない。…いわゆる意志よりもいっそう自発的なある選択のあらわれにほかならないである。



刀剣騎士修道団(529)
 1199年、殺害されたベルトルトにかわって、ユクスキュルの司教に任命されたのは、プレーメン大司教の甥で大聖堂参事会会員、プクスへーフデンのアルベルト(1165頃〜1229九年)である。この司教こそ、バルト海地域のキリスト教化のために、きわめて効果的な組織原理と方法を取り入れた人物にほかならない。その原理と方法とは、恒常的十字軍としての騎士修道会の設立と武力によるキリスト教化の徹底である。
 おそらく、1202年のことだといわれている。この年、アルベルトはリーガへの司教座の移転と同じくらい重大な決定を下した。彼は、武力を背景とした伝道を成功させるべく「リヴォニアのキリスト騎士修道会」、いわゆる「刀剣騎士修道会」を設置したのである。…騎士修道会はいつのまにかアルベルトの統制を雌れて、自立した勢力として活動し、エストニア人はいうまでもなく、リーヴ人やレット人に対してもしばしば武力を行使し、彼らを搾取していた。


東西の宗教改革(528)
 一向一揆の主体となった本願寺教団が掲げていたのは、親鷺を開祖とする真宗の信仰である。親鷺の教義は現世の権力を相対化し、内面の信仰をそれより重視する点で反権力的要素が強いとされる。
 鎌倉新仏教においては堂塔建立や寄進などの外面的功徳よりも内面の信仰を、学問や困難な修行よりも念仏などの平易な行を重んじ庶民的とされる。…こうした鎌倉新仏教という捉え方は明治時代になって、当時日本に流入したキリスト教に帰依したプロテスタントらにより創られたものである。日本のプロテスタントらは、自国にその信仰の源流を求め、例えば内村鑑三は日蓮をルターに対比し、植村正久も法然をルターになぞらえて描くなど、ヨーロッパのプロテスタントの枠組みを用いて、法然・親鷲・日蓮らが理解されるようになった。そしてこの考え方が原勝郎の著名な論文「東西の宗教改革」により、学問的に定着したのである。


透視図法(389)
 レオナルドの『受胎告知』にはレオン・バッティスタ・アルベルティが『絵画論』で解説した透視図法が取り入れられている。1420年に建築家フィリッポ・ブルネッレスキが考案した、物体を三次元に描く方法がベースになっている。切り込みを入れて印を付けた透視図が『受胎告知』の右下部に見られる。水平方向の中心に広がる道に記された直角の印は、キャンバスの下側から7分目のところにある。

堂上華族(559)
 近衛家は藤原鎌足を始祖とし、平安時代以降、摂政関白を輩出してきた五摂家の一つ。天皇家から養子を迎えたことがある唯一の家系である。同じ華族でも明治以降の論功行賞で爵位をもらった「新華族」とは格が違い、平安時代から続く「堂上華族」 (三位以上および四位、五位のうち昇殿を許された公卿を指す)として明治以前から貴族社会の頂点に君臨してきた。余談ながら、(白州)次郎の家のあった伊丹は江戸時代近衛家の領地であり、現在の伊丹市の市章は近衛家の家紋をかたどったものである。


闘争の解決(454)
 闘争を解決するものは、法ではなくて生産であり、統制する奸智ではなく、創造する科学である。ここに、かつての荒野にいろどる豊かな稔りがあって、なにゆえに人は一粒の穀物をめぐって争う必要があろうか。飼いならされた家畜の群れがここにあって、なにゆえに、人は弓と槍をもって、食事のたびごとに、荒野をかけずりまわる必要があろうか。必要なものは、ただ慈悲心だけであり、闘争心ではない。礼譲と自己の自発的抑制であって、法や規範ではないのだ。(富田の遺構より…ユートピア法学

東大工学部航空学科(19)
堀越次郎…三菱航空機 ゼロ戦/雷電/烈風
本庄季郎…三菱航空機 一式陸攻/中攻(96陸攻)
土井武夫…川崎      飛燕
菊原静夫…川西飛行機 二式大艇/紫電改
久保富夫…三菱航空機 新司偵
東大ではないのは
小山 悌…中島飛行機 隼/疾風  


頭端式(150)  
 ヨーロッパの終着駅の構造。行き止まりのホームが改札口に向かって櫛の歯のように並 ぶ。日本では上野駅がこれに倣って設計されていた。

動的平衡(407)
 シェーンハイマーは、この自らの実験結果をもとにこれを「身体構成成分の動的な状態」と呼んだ。…シェーンハイマーは重水素を用いて脂肪の動きを調べてみた。
 「エネルギーが必要な場合、摂取された脂肪のほとんどすべては燃焼され、ごくわずかだが体内に蓄えられる、と我々は予想した。ところが、非常に驚くべきことに、動物は体重が減少しているときでさえ、消化・吸収された脂肪の大部分を体内に蓄積したのである。
それまでは、脂肪組織は余分のエネルギーを貯蔵する倉庫であると見なされていた。大量の仕入れがあったときはそこに蓄え、不足すれば搬出する、と。同位体実験の結果はまったく違っていた。貯蔵庫の外で、需要と供給のバランスがとれているときでも、内部の在庫品は運び出され、一方で新しい品物を運び入れる。脂肪組織は驚くべき速さで、その中身を入れ替えながら、見かけ上ためている風を装っているのだ。
…かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでにあなたの内部には存在しない。肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる。私たちが仮に断食を行った場合、外部からの「入り」がなくなるものの内部からの「出」は継続される。身体はできるだけその損失を食い止めようとするが「流れ」の掟に背くことはできない。


どうでもいい(521)
 彼(アンドレイ)の言葉にも、言葉の調子にも、ことにその眼つきにも−−冷淡な、ほとんど敵意をいだいているような眼つきにも−−生きた人間にとって恐ろしい、この世のすべてから隔雌してしまったような心持ちが感じられた。見うけたところ、彼はすべての生あるものを理解するのに骨が折れるらしかった。…もし彼が生きることを考えていたなら、こんな冷やかな侮辱的な調子で、こんなことは言わなかったに違いない。自分がもし死ぬということを知らなかったら、どうして女の前でこんなことを言うのを、むごたらしいと思わずにいられよう? これに対する証明はただ一つしかない。つまり彼にとってはどうでもいいのである。そのどうでもいいというわけは、ほかにもっと重大なあるものを発見したからである。

道徳(131)  
 カミュ「真の道徳はニーチェにとっては明晰さと切り離すことができない。彼は世界を 中傷するものを容赦しない。その中傷のなかに恥ずべき逃亡の趣味を嗅ぎ分けるからであ る。……ソクラテスが明らかにし、キリスト教がすすめている道徳的行為は、それ自身のうちの退廃のしるしがある。それはまったく空想的な調和の世界の名において情念と共感の世界に非難を浴びせる。」

動物の心(553)
 人の身体には下等動物由来の明白な証跡があることを見てきたが、人の精神は動物と全く異なっているからあの結論はどこか間違っていると主張されるかも知れない。人以外の生物が心的能力を持たず、人の心は下等動物のものと異質であるということであれば、高い資質は次第に発展してきたのであるとは信じられないことになる。しかしそのような根本的差異は存在しないのである。下等魚類のヤツメウナギ、またナメクジウオと高等サル類の心的能力関の距離は非常なもので、人と高等サル類の隔たりより大きいが、それでも無数の中間段階で埋めつくされている。

東方宣教の聖書(437)
 聖フランシスコ・デ・サピエルの書簡をよみ、聖人が、…日本人は自力で培われて往く希望がある。…と述べていることを知っている。そして「マグナ・カルタ」とよばれる、鹿児島から1549年11月5日づけで、ゴアにおくられた東方宣教の聖書ともいわれる大文章を知っている。その文章は十六世紀の日本と日本人を客観的にしかし愛情の眼をもって描写し、……此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者は無いと考えられる。日本人は、総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交って頗る感じがよい。彼等の名誉心は、特別に強烈で、彼等に取っては、名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は、一人もいない。…日本人の生活には、節度がある。ただ飲むことに於て、いくらか過ぐる国民である

東北の鉄道(546)
 東北の人たちの鉄道への思いは、秋田内陸縦貫鉄道(鷹巣ー角館間94.2キロ)の例にも表れています。この路線も三陸鉄道と同様、第三セクターの経営になってから、国鉄時代の阿仁合線と角館線(接続すれば鹿角線となる予定だった)をつなげました。国鉄時代に新線が実現せずに盲腸線になっていた路線をつなげて、営業キロを延ばしたのです。同じく第三セクターの阿武隈急行(福島ー槻木閥、54.9キロ)も、国鉄時代の盲腸線で全国有数の赤字線でもあった丸森線(槻木ー丸森間)を福島まで延伸させました。東北以外の地域なら、国鉄の赤字路線にしても第三セクターにしても「経営が苦しいなら路線を廃止してしまえ」という議論になりそうです。

ドゥホボール教徒(493)
 ドゥホポール教徒というのは、十八世紀にウクライナに生れたキリスト教団に属する信徒で、神を自らのうちにのみありとし、一切の宗教的集団も、教会も、儀式も、経典も認めず、従ってまた政府、軍隊など人為的な権威にも服せず、さらに禁酒、禁煙、菜食を硬く守っている信徒である。…彼らの信条はこれだけを見ても、晩年のトルストイが提唱したいわゆるトルストイ主義の主張と全く合致し、まさにそれを実践しているものだった。トルストイがドゥホポール教徒と初めて知合ったのは1894年、彼が66歳のときだったが、爾来彼は彼らの行動を援助し、親交を保って来ていた。が、徴兵、納税、出奴制などすべての政令に徹底的に反抗する彼らの頑強な信念は、時の政府の流刑・投獄などの強行手段を以てしでも遂にこれをまげさすことが出来ず、結局、一万に近い信徒たちはカナダに移住させられることになり、トルストイはその渡航費の一部として『復活』をドゥホポール教徒たちに進んで提供したのである。

東洋の怠惰(303)ヘルマン・ヘッセ
 こんなにも大きな魅力で私たちを呪縛するあの東洋の芸術の背景をなすものは、東洋の怠惰である。つまりひとつの技にまで高められ、洗練された形式を整え、美的なよろこびを生み出す無為の生活様式のせいなのである。
 そうたっぷりと時間があるのだ! この人たちはひとりの美女の美しさを表現したり、あるいはひとりの悪漢の卑劣さを描写したりするための新しい比喩を考え出すのに、一昼夜をかけることができるのである! そして正午に始まった物語が夕方にようやく半分まで語られたときに、聞き手は身を伏せて祈祷をし、アラーに対する感謝の心をもってまどろみを求める。


ドゥルイデス(535)
 ドゥルイデスがまず第一に、人を説得したいと思っていることは、魂はけっして滅びず、死後一つの肉体から他の肉体へ移るという教えである。この信念こそ、ガリア人をして死の恐怖を忘れさせ、武勇へと駆りたてる最大の要因と考えている。これ以外にも、たとえば天体やその運行について、世界やその広さにつき、万物の本性につき、不滅の神々の威力や権能について、彼らは考察し若い修業者に教えこむのである。
 ドゥルイデスの教義は、まずプリタンニアで発見され、そしてそこからガリアに移入されたと考えられている。それで今日でも、この教義をいっそう深く研究しようと志す者は、大抵プリタンニアに渡って、修業を積むのである。


トゥール・ポアティエ間の戦い(515)
 もとよりカール大帝の存在は、歴史上の事実として巨大であった。彼が大陸西ヨーロッパに築き上げた統一と秩序は、比較的すみやかに解体したとはいえ、その解体を通じて以後の中世史を強く規定している。彼の政策が、終始イベリア半島のイスラム勢力と深くかかわっていたことは、いまさらいうまでもあるまい。そもそも彼の血統は、イスラムとの対抗のなかで地歩を固めてきたのである。711年、ジブラルタル海峡を渡ったイスラム勢はグァダレーテ河畔の合戦に西ゴート軍を粉砕するとまたたくまに半島の主要部を制圧した。地中海岸とピレネーの北側が危険にさらされるのは、時間の問題にすぎなかった。719年にはニームが、翌720年にはナルポンヌが、725年にはカルカッソンヌ、さらにブルゴーニュのオータンが、731年にはボルドーとトゥールが攻撃を受けている。これらはまだ征服戦というより季節的な威力偵察、いわば恐怖の定期便にすぎなかったが、732年10月には太守アブド・エル・ラーマン麾下の大軍がガリア(フランス)の心臓部に進出し、トゥールとポアティエ間の一地点でフランク軍と衝突した。
西欧の運命を変えたとも言える732年の合戦の詳細は、同時代の史料が皆無でよくわからない。事件にいちばん近い記録が、イシオドールス・パケンシスの『トレド年代記』で、それまでに20年、つまり一世代に近い年月が流れている。事件の重大な意義は、きわめて緩慢に認識されたのである。ただここで、イシオドールスがフランク勢を欧州軍と呼んでいることは、注目されてよい。実際にアブド・エル・ラーマンを:撃破したのは北方の一王国軍で、戦闘ももとより一局地戦であったにもかかわらず、ここで救われたのは西欧キリスト教世界であることが意識されているからである。イスラムの聖戦に直面して、西欧ははじめて一つの世界の意識を独得した。これを機に、1492年グラナダの陥落まで長くつづく再征服(レコンキスタ)の律動が生ずる。

トゥーレ結社(361)
 黒魔術の技術と儀式に最も精通する男、ディートリッヒ・エッカルトが中心人物であった大規模なオカルティストのサークル、トゥーレ(極北の地)結社。…エッカルトは後に「ヒトラーに続け!・彼は踊る、だが笛を吹いているのは私だ!」 「私は『秘密の教義』を彼に授け、ビジョソへの心の眼を開かせ、悪魔と交信する手段を教えた」 「私のために悲しむな。私は他のいかなるドイツ人よりも多大な影響を歴史に与えているだろうから」1923年3月、イペリット・ガスに侵されて、、ミュンヘンで死に瀕しながらこう語った。ナチ党結成者7人のうちの一人だったこの堂々たるバイエルン人は…。この老練な軍人の闊達な表情の奥底に、熱烈な悪魔崇拝者の姿が隠れているのに気づいた者はいない。

登録カースト(62)
 不可触賎民は1949年発布のインド新憲法17条によって廃止を宣言された。それはまた前不可触賎民を保護・地位改善のために、かれらが前不可触賎民であることを公式に登録するというあらたな分類を生み、それらの人は登録カーストと、実質的に前不可触賎民であることを示す呼び方をされた。

トカイ・フリウラーノ(358)
 葡萄品種名に関する混乱がその典型的な例で、「チリ産のソーヴィニヨン・プランと表示されたワインのほとんどは、実際にはトカイ・フリウラーノ(ソーヴィニョン・ヴェール)種から造られている」というのは広く知られていますし、1996年にフランスの葡萄分類学者たちがチリで行なった調査によれば、「チリでメルローと呼ばれている品種の多くは、カルメネール種である」ということです。チリにヨーロッパ系葡萄品種がもたらされたのは19世紀中頃のことで、当時のボルドーではまだカベルネ・ソーヴィニヨンやメルローの栽培比率が現在はど高くありませんでした。また、どの葡萄品種を植えるかということが、ワインの質にそれほど決定的な要因となるとは考えられていなかったため、葡萄品種の特定作業はあまり行われておらず、ひとつの区画に複数の品種が混植されていました。チリ向けの苗木がこうした混沌とした状況のなかで輸出されたために、チリでソーヴィニョン・ブランであると考えられていた葡萄品種がDNA鑑定の結果、実はそうではなかったということが発覚するようになってきました。

特殊創造論(62)
 キリスト教ファンダメンタリズムによる神による創造論。ルイジアナ州は学校で進化論 を教えるとき、それと同等に創造科学を教えなければならないと州法で定めた。

徳道上人(540)
 養老年間(8世紀)に大和の国の長谷寺に徳道上人と呼ばれる坊さんがいた。ある時、病を得て死に、冥土の入口で閻魔王に会い汝は本土へ返って諸人を救うため三十三ヵ所の観音霊場をひろめよといわれ、その証拠として三十三の宝印を与えられて蘇生した。
上人は蘇ったのち、実行にうつったが、誰れもその話を信用してくれない。落胆した上人は、宝印を中山寺に埋め、そののちかえりみる人もなかったが、平安朝のころ、花山院によって堀り出され、はじめて巡礼が一般にも行われるようになったという。この伝説は、巡礼が盛んになるまでに、多くの屈折を経たことを物語っているが、民間に行渡ったのはそれからのちの鎌倉時代から室町へかけてで、その間には天台座主行尊(1055一1135)、三井寺の覚忠(1118一1177)などの功績もあった。

土宜法竜(どきほうりゅう)(544)
 日本の仏教界で、当時最高の学識ある高僧であった土宜法竜に対して、「仁者、欧州の科学哲学を探りて仏法のたすけとせざるは、これ玉を淵に沈めて悔ゆることなきものなり。小生はなはだこれを惜しむ」と批判した。このことは、南方が、西欧の近代科学および哲学を学ぶことによって、そこから得た知的武器をもって、仏教教理を再解体し、再構成したのだという、かれの自負を語るものである。
 南方の比較学は、日本の民俗学の中で異彩を放つ。南方における比較の焦点は、南方が土宜に語った、因果律の問題にかかわっている。物の世界では、「同じ原因は、必ず同じ結果を生ずる」ということが、南方の時代には、信じられていた。しかし、民俗学の対象である「事」の世界で、はたして同じ法則が働いているものかどうか、が南方の知りたかったところである。
 今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みあるが)縁が分からぬ。この縁を研究するがわれわれの任なり。しかして、縁は因果と因果の錯雑して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり。南方は、土宜法竜以外には、このようなかれの構想を決して語っていないのである。

徳山村のおばあちゃん(285)
 岐阜県と福井県の県境、ダムで沈む自らのふるさと徳山村をピッカリコニカで撮り続けた増山たづ子さん。…「ここが無くなってしまうかと思うと、昭和16年に召集で南方に征き、20年5月29日にインパール作戦に参加して、一小隊の半分が英軍の戦車にふみにじられて行方不明になりました夫が、横井さんや小野田さんの事もありますので、夢に見たであろう故郷が無くなってしまったら、どう説明していいか分かりませんし、写真で見て貰えば分かりますので、どこを見ても懐かしい所ばかりなので、数だけで三万枚写しました。これから写す写真は、つらい写真ばかりになり、家を壊したり、焼いたりするのを写さなければなりませんが、これも大事な故郷のお葬式ですので、最後まで写し続けたいと思います…」

都市の偉大さ(560)
 こういうふうに都市は汚かったわけですが、にもかかわらずある意味では非常に人間的なところがありました。レオーネ・パッティスタ・アルベルティという15世紀イタリアの建築家の有名なことばがあります。それは、都市は曲りくねっているのがいいのだというわけであります。つまり、曲りくねっていればいるだけ都市の偉大さが増す、また同時に、歩くたびに新しく景色が開けて楽しいというのであります。
 ついでに申しますと、パリが今日のように幾何学的、合理的な都市の姿をとったのは、19世紀の後半にオースマンというセーヌ県知事の構想によるもので、近代合理主義精神の産物といえると思います。オースマンのパリ改造は時の皇帝ナポレオン三世の後楯によるものでして、パリ市民がしばしば暴動を起こしやすい原因は、道路が曲りくねっていて見通しが利かない上に、狭いためにバリケードを築きやすいところにある、彼らの暴動を防ぐには都市の風通しと見通しをよくしなければいけない、という意図から出たものだといわれております。


トスカヴェングラー(359)
 ヒトラーとスターリンは、指挿の芸術を育てた伝統、そして希望まで破壊してしまった。…1945年以降、一見とどまることのない、あふれる才能が、渇いてしまったことは否定できない。そして天賦の才能がないので、大望を抱く人は、最後の柱石、トスカニーニとフルトヴェングラーの影響を受けたくて、二人の特徴を真似るようになった。トスカニーニ・クローンとフルトヴュングラー・コピーたちは、次の波が彼らの正反対の特徴を混ぜ、トスカヴエングラー・スタイルに結実させるまで、しばらくの間あふれていた。カラヤンが、おそらく、この醜い雑種の生みの親だった。極度の便宜主義者だった彼は、フルトヴエングラーのなめらかな柔軟さと、熱烈な超俗性を称賛したが、前任者の音楽的痕跡を取り除くため、トスカニーニの厳密な完全主義をベルリン・フィルに、つけ加えようと試みた。

トスカニーニ・サウンド(359)
 トスカニーニ・サウンドの隠された要素は、彼の死後30年間、トスカニーニ家にあった。ニューヨーク公立図書館が彼のスコアを安い金額で手に入れ、研究者たちはついに調査できるようになった。元のテキストから、彼がどんなに離れていたかということは、一目瞭然だった。彼のスコアの多くは、曲のテクスチェアを破壊させ、その欠かすことのできない音色を変える赤ペンでいっぱいだった。ドビュッシーの〈海〉では、現実に、フルスコアの2頁も、グリーンのインクで書き直し、実際のテキストの代わりに、自分のコピーをスコアに貼りっけてあった。(海)はトスカニーニのトレードマークだった。…彼が指揮したものは完全にドビュッシーのものではなかった。…ベートーヴェンでさえも彼の世話をこうむった。…オーケストラのインパクトを強めるため、そしてトスカニーニ・コンサートの興奮を盛り上げるため、彼はクライマックスのパッセージで楽器を余分に入れることを習慣的にした。ベートーヴェンは聴覚障害者で、彼の曲がどう聞こえればいいかなどは、わかるはずがなかった、とトスカニーニは言った。あきらかに、トスカlニーニの頭のなかでは、分裂が起こっていた。テキストの侵すべからぎる尊厳性を是認しながらも、彼は、聖職者と創造者の代理として、編集する絶対の権利を当然と考えた。

トスカネッリ(41)
 地図製作者。コロンブスが大西洋横断で使用する地図を作成。  

ドストエフスキーの死因(422)
 「故人(ドストエフスキー)は、ヤムスカヤ通りとクズネチヌィ横丁の角にある建物の三階に住んでいたが、…建物の薄暗い殺風景な階段を三階までのぼった後、作家の部屋ではなく、向かいの11号室に入るならば、われわれは、ドストエフスキーが危篤の状態にあったまさにその時期に、ここで起こった驚くべき事件を知ることになるだろう。
 1880年に入って、ドストエフスキーが、アリヨーシャ・カラマーゾフがテロリストになるという『カラマーゾフの兄弟』の続編を構想していたとき、新しい住人であるオリーブ色の顔をした黒髪の若い美男子が入居してきた。彼は、7部屋からなるこの巨大なフラットの中でも、ちょうどドストエフスキーの部屋と壁を挟んで隣り合う部屋に落ち着いた。こうして作家の部屋の壁の向こう側に、最も危険なロシアのテロリストの一人が暮らすことになったのである。それは、「復讐の天使」というあだ名を持ち、「人民の意志」の「偉大なT・K」のメンバーであり、メゼンツォフ憲兵隊司令官暗殺の共犯者であり、皇帝に対するここ最近のあらゆる暗殺の企てに関わっていた、まさにあのアレクサンドル・バランニコフであった。…12月、バランニコフは、マーラヤ・サドーヴァヤ通りで、ようやく自分が必要としているものを見つけた。メグデン伯爵夫人の家で、地下の部屋に住む入居者を募集していたのである。ミハイロフスキー調馬場では、毎週日曜日の行事として近衛軍の衛兵整列が行われていたが、そのミハイロフスキー調馬場から冬宮へと皇帝が帰宅する際通過するのは、まさにこの道り、マーラヤ・サドーヴァヤ通りであった。
…1月25日、バランニコフらはマーラヤ・サドーヴァヤ通りのチーズ店の地下から通りの下に地下道を掘り始めた。この後、前日逮捕された党員のフリデンソンを訪ねたバランニコフも逮捕され、深夜になってバランニコフの家宅捜索が行われた。そのまさにそのとき、隣部屋のドストエフスキーの肺動脈が破裂し、出血が始まった。…翌26日、バランニコフを訪ねた党員ニコライ・コロトケヴィチが逮捕され、またこのときドストエフスキーの死の始まりとなった決定的な出血が起こった。

兜卒天(381)
 一部大乗教徒は現世を穢土であるとして、彼岸の世界に浄土を求めた。阿しゅく仏の浄土たる東方の「妙喜国」、弥勧善薩の浄土である上方の「兜率天」(とそつてん)などが考えられ、これらの諸仏を信仰することによって来世にはそこに生まれることができると信じていたのであるが、後世もっとも影響の大きかったのは阿弥陀仏の浄土である極楽世界の観念である。阿弥陀仏の信仰は当時の民衆の間に行なわれ、諸大乗経典の中に現われているが、とくに主要なものは左の浄土三部経である。…『仏説無量寿経』二巻、『仏説観無量寿経』一巻、『仏説阿弥陀経』一巻。

特許制度(136)  
米国旧特許庁の玄関には、自らも特許を持っていたリンカーンの「特許制度は天才の火 に利益という油を注いだ」(The fuel of interest to the fire of genius) という言葉 が刻まれている。

突然変異説(553)
 変異が生じる原因を問わないとしても、ダーウィンの理論には疑問が残された。それはケルビンの批判であるが、ダーウィンのいうように小さな変異に選択が作用したとして、種が変るまでにはかなりの長時間が必要になってしまうのではないかということである。あるいは当時一般に信じられていた遺伝理論(両親の性質が半分ずつ子どもに伝えられるという考え−−融合遺伝という)にもとづくと、わずかな変異は累積されないで消えてしまうのではないかという疑問も生まれた。これらの疑問に一つの解答を与えたのがド・フリースの突然変異説であった。ド・フリースはそれより以前に「細胞内パンジェネシス説」というものを提唱していた(1889)。これはダーウィンのパンジェネシス説を発展させたものである。このパンジェネシスにはそれぞれの生物種特有のものがあり、細胞の核内にその代表が存在する。代表のパンジェネシスは分裂し増殖して核から出て細胞質に入り、活動する。このパンジェネシスが分裂増殖するとき、何らかの原因でもとと異なるものができることがあり、これが変異の原因であるという。

トートロジー(195)  
同義反復  

ドナートゥス(116)  
 中世に最もよく使用されたラテン語の教則本。グーテンベルグの1440年頃の活版印刷発明当初シュトラスブルグで印刷。

ドナトゥス論争(429)
  アウグステイヌスがヒッポ教会の教師に着任したとき、北アフリカで大きな勢力を誇っていたドナトゥス派と呼ばれるキリスト教の一派があった。ドナトゥス派はアウグスティヌスを30年の永きにわたる論争に巻き込んだ。この派の起源は四世紀初めにまでさかのぼる。…ディオクレティアヌスはキリスト教会を迫害した最後のローマ皇帝であった。彼の激しいキリスト教徒弾圧の期間(303--305)中に、教会は多くの殉教者、棄教者、裏切者を出した。…アフリカの司教の中から百人ほどの裏切者が出たといわれている。この後、ガレリウス帝により寛容令が出され、キリスト教徒の活動が認められ自由になると、裏切者で教会の職務に復帰する人が現れた。問題になったのはこの人々である。裏切者の司教が施す洗礼、正餐署、司教叙品などのサクラメント(秘跡、典礼)は有効か無効か、という問いが提起された。
(反対派の)ドナトゥスの就任とともに混乱の度合いを増した。…ドナトゥス派は、普遍的教会とは聖なる教会である、と考える。教会の普遍性とは地上に遍く存在するということではなく、その聖さにある。聖さこそ教会の特性である。教会は聖でなければ教会ではない。…教会の聖さを裏切りによって汚した者は教会に属するものではない。したがって、彼らの施すサクラメントは無効である。裏切者を許容したものも同罪で、聖徒の資格を失い、その教会は教会として認められない。カトリック教会(ドナトウス派の教会と区別する意味で便宜的にこのように呼ぶ。一般的には、いわゆる正統的教会を指す)から真の教会ドナトゥス派に移ることは改宗を意味し、洗礼を受けなおす必要がある。こうしてドナティストは、聖さを保っている彼らの教会のみを普遍的教会の名に値し、そのサクラメントのみが真かつ有効であると主張し、カトリック教会を攻撃した。
 ところで分裂はこの一致をこわす。ゆえに、分派行動は神の教えにも、教会の性格にも反する態度である。ここにドナティストの問題がある。彼らは聖さを重んじ、聖なるものが罪あるものとともにいることはできないと主張する。アウグスティヌスによると、それは不寛容である。寛容でない態度は愛の欠如を意味する。不寛容は謙遜の欠如、高慢のあらわれでもある。高慢なものは自己中心で、自己主張はするが、他者のことを配慮しない。不寛容は主イエスの模範に反する。

とねりこ
 信濃平野の稲田の脇にならぶハゼ木もトネリコだと弓納持くんのお父さんが教えてくれ た。  

ドーパミン(38)
 これが欠乏するとパーキンソン病になり、これが過剰になると精神分裂病を引き起こす と推測される神経伝達物質。

ドーピング(326)
 半導体デバイスをつくるとき、半導体に導電不純物を加えてキャリアを注入することをドーピングという。シリコンの場合、第V族の元素であるアルミニウムやガリウムを少し混ぜてやると、電子が一個足りない状態(つまり正孔を多く持つ状態)ができるので、プラスの電気が多いp型になる。逆に第W族のリンやヒ素をドーピングすると、電子を多く持ったn型になる。

トープラッハ(120)  
 マーラーの作曲小屋があった南ティロルの地名。イタリア語ではドビアーコ。この小さ な小屋で大地の歌、No,9、No,10を作曲。  

トマス・アクイナス(1225頃〜1274)
 神学大全。アリストテレス哲学を受容して中世キリスト教神学に革新的役割を果たす。

トーマス・ミュンツァー(187)  
 ルターとともにドイツ農民戦争を指導。エックハルトらの神秘主義と千年王国論を結合 し、「人間がついに神の意志の感性にまで入り込むのでなければ、彼が真に再び父なる神 もしくは聖霊を信じることは不可能である」として、聖書にのみ依拠するルターと決別し た。農民軍を指導した1525年フランクハウゼンの戦いに壊滅し、斬首される。

トーマス・ヤング(66)  
 シャンポリオンに先立ってヒエログリフの解読に挑戦。1814年にロゼッタ石にプト レマイオスの7文字を識別し、今一歩でその栄誉を得られるまでの推論を行った。このこ とで、後々までシャンポリオンの成果はヤングの剽窃であるとの議論が続く。  このヤングはヤング率(縦弾性係数)のヤングである。その他にも光の波動説を提唱し たり、カリグラフィの大家であったり、おもしろい多能の人。

富の基本的部分(430)
 スミスは『国富論』全篇をあげて、金・銀を「富」と考えることがいかに根拠のない俗見であるか、したがってまた、金・銀を獲得することを目的として輸出を奨励し輸入を人為的に抑制するような経済政策が、いかに、「事物自然のなり行き」を無視し、人間の神聖な自由を侵すものであるかを強調している。結局、金・銀は、鋳貨としても地金としても、財貨の交換なり流通の媒介具として有用であり価値があるだけであって、それ白身なんら「富」の基本的部分ではなく、まして「重商主義」の論者の主張するように、唯一の「富」でもなく、「富」の代表的形態でもない、とスミスは信じていた。そこで…「富」とは金・銀ではなく「生活の必需品と便益品」、つまりさまざまな意味での消費財だということになる。

富の物理的構成要素(249) バックミンスター・フラー
 富の物理的構成要素、つまりエネルギーは減少することはあり得ず、その形而上的な構成要素、つまり専門知識はふえるだけである、ということだ。ということは、われわれの富というものは、使うほどふえるということになる。つまり。エントロピーとは逆に、富はふえるだけである。

ドミネ・クォ・ヴァディス(177)  
 ネロの迫害を逃れてアッピア街道を急ぐペトロは、イエスをビジョンする。その時ペト ロが思わず放った言葉。「主よいずこにいきたもう。」イエスの答えは「再び十字架に架 かるためにローマに戻るのだ。」 最後の晩餐でイエスに「今夜にわとりが二度鳴く前に三度私を知らないというだろう」 と言われた迷える人、十二使徒の一人ペトロはローマで殉教し、教会の礎としての岩(ペ トラ)と呼ばれることになる。彼の墓の上にバチカンがある。

富永仲基(139)  
 内藤湖南によって発掘された大阪の醤油問屋の息子。山片蟠桃とならぶ町人学者。日本 の大乗仏教のお経はインドで生まれたものではない、お釈迦さん自身が説いたものではな いと主張。シルクロードあたりでつくられたことを実証。

ドミンゴ・エスカルラッティ(356)
 彼の重要な職の一つに、ポルトガル王ジョアン五世の王女でまだ幼いマリア・パルバラとその弟のドン・アントニオの音楽教育という仕事があった。これはスカルラッティにとっては運命の出会いともいうべきものであった。というのも、9年後の1728年にこのマリア・パルバラがスペイン皇太子フエルナンドに嫁いだとき、彼女は自分の幼いときからの音楽教師ドメーニコ・スカルラッティを一緒にマドリードに連れていったからでぁる。彼女はスカルラッティを師としてその人柄を愛し、その音楽、特にクラヴサンの演奏を愛した。以後彼は一生をこの王妃のために捧げ、名前もドメーニコ・スカルラッティからスペインふうのドミンゴ・エスカルラッティに変えた。そして彼女のために、彼女を喜ばせるために、彼が生涯に書いたクラヴサンのためのソナタは五百曲以上を数え、いかに王妃の信頼と尊敬が厚いもので、いかにスカルラッティの敬愛の気持が深かったかを物語っている。
…だが、一人の音楽家が一人の女性のために生涯をかけて五百曲以上ものピアノ曲(ソナタ)を作り続ける。それは音楽史上における稀有の事件である。


土門の戦争責任1(211)P.164
 「聖戦」終了後の五年間、彼はかつての報道写真に何が最も欠けていたかを考えていたと思う。その結論が「リアリズム」であった。土門は戦後、報道写真という言葉を意識的に避けていたと言われている。それは何より自分の過去に対する訣別のためだったのではないだろうか。……長谷川明の評言である。

十夜ケ橋(330)
 とよがはし。昔から遍路は橋の上では杖をつかない。…「橋の下にお大師さんが寝ておられるから」と言い…。たしかに愛媛の大洲市に伝説のもとになったとされる十夜ケ橋という地名も橋もあるにはある。修行中の空海が行き暮れて、近在の民家に宿を請うたがことごとく断られ、独り野宿した史跡である。

豊田・プラット協定(220)p.98
 自動ヒ替装置付力織機の開発は豊田を世界的な織機メーカに成長させた。日本の綿業発展に対して一方的な紡績機供給者であったイギリスのプラット・ブラザース社はこれに眼をつけ、豊田の特許を買いたいと申し入れてきた。ついに本家においついたという技術ナショナリズムをくすぐる大事件であった。昭和4年に結ばれた協定により、佐吉・喜一郎親子は100万円を手にし、これを自動車事業の立ち上げに使った。

トライフル(262)
 これはスポンジ・ケーキにジャムをはさみ、そのうえにゼリーとぶどう酒を加え、さらにうえからカスタード・クリームをかけたもの。わたしはイギリス料理を食べたあとで、このトライフルと紅茶を味あわないことには、食事そのものが終わった感じがしない。

ドラヴィダ人の宗教(380)
(インド大陸に最初に進出した)ドラヴィダ人の宗教は、…幾多の農耕社会におけると同様に、彼らの共同社会の守護神として女神を崇拝していた。また性器崇拝、蛇神および樹木の崇拝をも行なっていた。(次に)インドに侵入したアーリヤ人は、最初のうちはこれに嫌悪の情をいだいていたが、…それらはとくにシヴァ神崇拝の中に摂取され、…また現代にいたるまで、ヒンドゥー教の信仰の中にも生きてはたらいている。蛇神崇拝の変形である竜神崇拝は、仏教とともに日本にも渡来した。四国讃岐の金毘羅信仰の金毘羅(Kumbhira)とは、もとはガンジス川のワニのことである。

トラウマ  

とらぬ狸の皮算用(424)
 モンサント社という、バイオテクノロジー企業がある。…「ラウンドアップ」という強力な除草剤も開発していた。これを撒くとペンペン草も生えない。もちろん農作物自体にも作用して枯らしてしまう。そこで、モンサント社はラウンドアップに耐性を持つ遺伝子を大豆に組み込んだ。こうすれば、その大豆を畑に播いて、ヘリコプターから「ラウンドアップ」を振りまいておけば、農作業はまったくの手間いらず。これで、モンサット社は自社の除草剤と遺伝子組み換え大豆をセットにして販売することができる。…(そうしないことには商売にならないから)、遺伝子組み換え大豆に一年しか使えないような細工(不稔性)をした。こうすれば、農家は毎年、種をモンサット杜から買わざるを得ない。とらぬ狸の皮算用とは、まさにこの時点でのモッサット社のためにあるような言葉だった。…モンサント社は、遺伝子組み換え大豆の世界戦略では失敗したが、そんなことくらいではちっとも懲りていない。さまざまな食用作物の遺伝子を組み換え、除草剤耐用種子を作り出し、「ラウンドアップ」とセットで儲けようとしている。

■トランクの中の曲
 作曲家が書いたスコアが歌われずお蔵入りした際に使われる19世紀初頭の歌手たちの慣習。歌手は曲が気に入らないと作曲家に書き直しを要求するのは当然だし、それを拒絶されても、ほかの作曲家にそのオペラのために新しい曲を書いてもらうことさえあった。当時の有力な歌手は、だれでもこうしたアリアの束をどこへ行くにも持ち運んで、必要に応じてトランクから出していたのだ。

トランスラティオ(261)
 中世、寺々は聖遺物が伝わった由来を記録していた。奇跡によって発見したいきさつ、遠方から携え帰った次第、時には盗んで来た経緯を記録した。聖遺物というものは、その圧倒的多数が聖者の遺骸ないし断片だから、入手して改めて葬ったわけで、この種の記録を「移葬記」(トランスラティオ)という。

トランジ(111)  
 中世の信仰、たぶんメメント・モリ的な厭世観が生んだ墓石彫刻。死者が死体となって 腐敗していく有様をリアルに描写。カトリーヌ・ド・メデイチもそのような墓を残した。  

トランセプト(405)
 内陣と外陣の間に、身廊に直交して短い廊がとられることが多い。この廊をトランセプト(袖廊)といい、トランセプトと身廊の交わる部分を交差部(外陣に含まれる場合が多い)という。したがって、トランセプトをもつ教会堂の平面は、西側に長い腕をもつラテン十字形となる。

トランスツェンデンタール(488)カント
 「超越論的」と「先験的」は、まったく同一の言葉、transzendentalの訳語である。日本語訳になると、先験的と超越論的では、ずいぶん感じが違うが、とにかく同じなのである。そして、このトランスツェンデンタールは、『純粋理性批判』のもっとも中心的な術語であり、だから、きわめて多様な使われ方をする。この言葉のもっとも正統的な使われ方と思われる箇所をあげておこ「私は、対象に関する認識ではなくて、むしろ我々が一般に対象を認識する仕方に関する認識を
超越論的と名づける。」
 そもそも一般に、我々が対象を認識するとはどういうことなのか、それの根本的な条件や構造はどういったものなのか、という次元の議論のことを〈超越論的〉と呼ぼう、というわけである。これは具体的な経験に〈先だっている〉から、意味的に〈先験的〉とも訳されることになった。まあ、感じとして言えば、「あれやこれやの具体性を超えて、そもそもその本質は」、と問つまり、〈そもそも性〉という感じで押さえておけばいいだろう。


トリパリウム(93)
 ラテン語で「三本の杭のついた拷問の道具、鼻輪をつけるために牡牛を固定する道具」 、フランス語のTravail(労働)の語源。すなわち望まないことを強制されるというのがフ ランスの労働感である。

トリプレット(191)  
 後に反射防止膜を発見するクック社のデニス・テーラーは1893年、全く新しい3枚 玉レンズを考案。クックのトリプレットである。向き合った凸レンズの間に凹レンズを入 れるのが特徴。フォクトレンダーのハーティングは、両側の凸レンズをダブレットにして ヘリアーF4.5を作った。

ドリボ=ドブロウォルスキー(334)
 AEG社はドイツ・エジソン社を母体とした直流技術メーカであった。同社の電気技師ドリボ=ドブロウォルスキー(1862-1919)は1889年、3相交流を採用することで、ブラシなしでしかも自動スタートする誘導電動機を開発し、これがエジソンの直流システムを駆逐し、3相交流発電・送電が普及するきっかけとなった。…こうした状況のなかで直流メーカのエジソン社は、ついに1892年に交流メーカのトムソン・ハウストン社と合併し、GEとして再出発することとなった。

■トリミング
(403)
 彼(ブレッソン)はシャッターを切るのとほぼ同時に構図を構成する。それは反射神経のスピードで行われる。」 「私たちは絶えず構図を頭に描いておく必要がある。けれどもシャッターを切るときの構図は直感だ。なぜなら私たちの相手は、関係性を絶えず揺り動かし、消滅する瞬間なのだから。黄金分割を探りあてる唯一のコンパスは写真家の眼だ。」
 こうして一度撮影された写真は、ある種絶対的なものである。手練をへて限のなかにコンパスを持つにいたった写真家が選んだ構図、フレームに手を触れてはならない。それが自分の限に自信をもつ彼の信念であった。「よい写真を多少なりともトリミングするのは、フレームの比率を必然的に壊すことになる。構成力の弱い写真を暗室の引き伸ばし機であれこれ再構成して救い出せることも滅多にない。写真家の限に映ったヴィジョンの全容が損なわれるからだ。」
一枚の写真のフレームを変更するトリミングは厳禁だ…。

■トルストイ「戦争と平和」(518)
 『戦争と平和』の大作は偶然の機会から生れ出たものといえる。ほかでもない、最初トルストイは、自家の一門にあたるトルベツコーイ公爵などが連坐した、十二月党(デカブリスト)の革命運動に興味を感じて、この運動を主題とした長篇小説『十二月党員』に着手したが、これに関する種々な文献や歴史を調べているうちに、彼の興味はいつしかその革命家たちの過去にさかの.ぼって、そこにより多くの芸術的感興を発見し、ついに最初の計画を放擲して、ナポレオン戦争時代をとりあつかった長篇歴史小説の創作にうつった。彼は最初この物語を『一八0五年』と題して、1865年から66年へかけて、雑誌『ロシヤ報知』へ連載したが、その後しだいに感興が増して、次へ次へと事件を押し進めていった。かくして1869年いよいよ彼の労作は終りをつげ、題も『戦争と平和』と改められた。
トルストイは、歴史上の英知傑士をむしろ名声や栄誉のむなしい傀儡として、虚偽な外面的欲望や目的に支配されている哀れむべき不具者として、読者の眼前に照らし出している。この点、ホメーロスの叙事詩などにあらわれた絶対的英雄崇拝と、正反対の極にたつものといわねばならぬ。


■トルストイを生んだ二家族(518)
 この英雄否定の叙事詩、すなわち批評家オフシャニコ・クリコーフスキイの言葉をかりれば「否定的叙事詩」の興味の中心をなしているボルコンスキイ公爵家およびロストフ伯爵家の二家族が、文豪トルストイを生み出した二家族、すなわち、ヴォルコンスキイ公爵家およびトルストイ伯爵家にほかならぬのは、あまねく世に知れわたった事実である。わが家の歴史に深甚な興味をいだいた作者は、種々な文書や周囲の人々から蒐集した事実を、歴史の背景のうえに再現しようと決心したのである。
文豪の父ニコライ・イリイッチは、トルストイの小説中のニコライ・イリイグチ・ロストフと同様、軽騎兵の将校として1812年の戦役に従い、平和締結後退職した…。文豪の母方の祖父ヴォルコンスキイ公は、すなわち、作中のボルコンスキイ老公爵である。


■奴隷
(24)
 アリストテレスは奴隷と家畜を比較して「有用さにおいては両者の差は少ない。奴隷も 家畜も彼らの肉体によってわれわれ人間に有用であることでは同じである」と書いた。

ドレイ・カイル(85)
 1934年69判のスーパイコンタに搭載されツァイスの精密技術の評価を高めた距離 計。カイル(くさび)2ケのプリズムをレンズの回転でギャを介して回転させファインダ ー画像を平行移動させる。

奴隷的意志論(189)  
 エラスムスの自由意志論では、人の行為のはじめと終わりとは、もっぱら神の手にあり、 中間の行為の展開における第二原因としてわれわれの自由な努力があると考える。これに 対して、ルターはその奴隷的意志論で、妥協の余地のない、神の予定と人間の無力が明確 でなければキリストの十字架は無意味であると考える。

奴隷のテスト(421)
 …ユダヤ人コムニストたちも容赦なく制裁された。パレスチナ共産党のリーダーたちが次々と逮捕された。パレスチナ共産党の中央委員エフライム・レシンスキーは、スパイ行為を認め、仲間の名を言わせるための残酷な拷問を加えられ、発狂して頭を壁に打ちつけ、「もう忘れた名はないか〜 もう忘れた名はないか〜」と叫び立てた。
 コミンテルンの幹部たちは次々と消え去った。残ったのは仲間を裏切ることができた者、つまり従順な奴隷のテストに合格した者だけだった。ユーゴスラヴィア共産党の指導者M・ゴールキチも消えた。ゴールキチを売り渡したのは後にユーゴスラヴィアの大統領になったヨシフ・チトーだった。チトーは1938年にモスクワに釆た。彼は800名のユーゴスラヴィアの著名な共産党員が逮捕されているのを知った。…彼は親しい仲間ばかりか、かつての妻を裏切ることになった。彼女はゲシュタポのスパイとして逮捕された。その時チトーは釈明の手紙を主人に書いた。…これはチトーの杷憂だった。彼はためらうことなく近親者を裏切って、テストに合格した。


トレヴィシック(48)
 スティーブンソンに先立って1904年鉱石10トンと70人の人間を乗せて時速8K mで蒸気機関車を走らせたのは天才肌のトレヴィシック。歴史は愚直な努力家スティーブ ンソンに軍配を上げた。

ト連送(201)  
 日本海軍の信号。ト・ト・ト・ト…。「全軍突撃せよ。」トツレは「突撃準備隊形つくれ」  

トロア条約(494)
 なんたる皮肉か。フランス王家の命運を握るのは、フランス王国の行方になどあまり関心がないという、ブールゴーニュ派の政府なのだ。(発狂してしまった)シャルル6世の名前を自由に使える状況であれば、どんな条約も結び放題になる。そういう相手と同盟して、イングランド王へンリー5世にかなえられない望みはない。1420年、アングロ・プールギィニョン同盟はトロワ条約を発表した。
 シャルル6世の王位は崩御のときまで認められる。シャルル6世は王女カトリーヌとイングランド王へンリ-5世の結婚に同意する。この婚姻に基づいて、へンリー5世はシャルル6世の「息子」となり、「フランスの相続人」となる。シャルル6世の死後においては、イングランド、フランス両王国は統合され、へンリー5世とその後継者に支配される。それぞれの王国は以後も独自の権利、独自の自由、独自の慣習、独自の法を尊重される。そのときまで、へンリー5世はシャルル6世の摂政として、フランス王国を統治する。同じく、そのときまでノルマンディ公領は公の資格で保有する。…これらがトロワ条約の主な内容である。
(さらに皮肉なことに)イングランド王は直後に病に倒れ、そのままパリ郊外で死没する。享年35歳の若すぎる死だった。シャルル6世のほうは、まだ生きていた。53歳という、この時代では異例の天寿を全うしたのが、同年10月21日だった。この二ヵ月にも満たない日数のため、へンリー5五世はフランス王になれなかった。念願の英仏二重王国も成立しない。


トロル(272)指輪物語
 ファンゴルン「だがトロルというのは本来偽物でな、大暗黒時代に敵が作ったエントのまがいものにすぎん。オーク鬼がエルフのまがいものであるのと同じことよ。」

と私は考える(488)カント
 私の出来事には、必ず、「私は………と考える」という意識がくっつくということ。英語で考えるともう少し分かりやすいが、私に去来するあらゆる思い、出来事には、I think that …というフレーズが頭につく、ということである。
 私はこれを純粋統覚と名づけて、経験的統覚から区別する。また、根源的統覚とも名づけるが、その理由は、この統覚が、もはや他の統覚から導出されえず、逆にあらゆる他の諸表象に伴う「私は考える」という表象を生みだす自己意識だからである。


ドンジョン(185)   
 中世の城の外観を特徴つける物見櫓。ノイシュヴァンシュタイン城の外観に顕著に表れる。


【語彙の森】