語彙の森DICTIONARY out of focus
更新日 2017-7-25       計87語
新着語
ヴァン・ディーメンス・ランド、ヴェリコフスキーのアイデア、海の浜辺に、ウェルキンゲトリクス、ヴェンデ十字軍、美しい乙女、浦上四番崩れ、ヴァレンヌ逃亡、ヴァルミの戦い,ヴォルフスシャンツェ、

ヴァイシェーシカ哲学(392)
 この哲学体系は、西暦紀元前2世紀に、西北インドを支配したギリシア系のパクトリア王国の勢力圏内で、インド古来の哲学的思考とギリシア哲学とが正面から出会ったところから生まれたものである。この哲学体系を構想した最初の人力ナーダは、ウルーカ(ふくろう)という綽名をもっている。おそらくまちがいなく、ギリシア人哲学者たちから、「あなたは知恵の女神のお使いであるふくろうのように聡明だ」といわれたことに由来するものと思われる。このカナーダが創ったものは、強い公理体系志向で貫かれたものとしては、インドで最初の本格的哲学体系であり、それを奉ずる有力な学派が形成された。このヴァイシェーシカ学派は、そののちのインド哲学諸派に多大な影響を及ぼしたということで、非常に重要である。
 さて、その哲学を一口でいえば、徹底した実在論哲学である。すなわち、すべては知られるものでありかつ言語表現されるものであり、また逆に、知られるもの、言語表現されるものはすべて実在である、というのがその根本的な主張である。つまり、この場合の実在論とは、観念論との対比でいわれる実在論ではなく、唯名論との対比でいわれる実在論なのであり、したがって、素朴実在論ではなく、きわめて形而上学的な実在論、換言すれば観念実在論(実念論)なのである。
 ところで、「知られる」というのは、「知覚される」だけではなく、「推理される」ということも含む。ヴァイシェーシカ哲学に長らく接していると、たとえばバークリー僧正の、「存在するとは知覚されることである」というかの有名なテーゼが、なんとも窮屈に思えてしかたがない。もっとも、これはバークリー僧正にだけ限った詣ではなく、どうも西洋哲学は、一般に、「知識」としては「知覚」のことしか問題にしない傾向にある。知覚が知識の第一の源泉であるというのはインド哲学でも広く認められていることだが、知識の源泉が知覚「だけ」というのは、なんとも偏狭な考えのように思えてならない。論理学者以外の西洋哲学者は、推理、推論にほとんど関心がないのである。


ヴァイツゼッカー(154)
 現統一ドイツの初代大統領。ワイマール共和国、ナチス時代、東西分裂、冷戦そしてベ ルリンの壁崩壊まで、常に歴史の表舞台で自己の信念に忠実に生きた政治家の理想像とさ れる。父はナチス時代に外交官を務め、自身もモスクワ侵攻の最前線に行く。これらの事 実を隠すことなく語るが、決して良心にやましいことはないという毅然とした姿勢は、自 己弁護とは感じられない。ひるがえって日本には、このように過去を語る指導者を持たな かったそのことが、いまだに戦争の歴史を清算できない原因なのか。ドイツ教養主義の正 統的知識人である。

ヴァイローチャナ(376)
 この経典(理趣経)を説いた説者はヴァイローチャナ仏です。この経典では「毘盧遮那如来」と音写して訳されています。読誦のときには「ひーろーしやーだーじょーらい」と漢音で読むことになっています。このヴァイローチャナということばは、インド一般では古から「太陽の光り照らす作用」を表しますが、ここでは「仏の真実の智慧の光がすべてのものを照らすはたらき」であるとして、それを人格的に象徴したものになっています。つまりインド一般の太陽の呼称をここへとり入れて、特別な根本的な仏さまの名前としているわけです。
 …大日如来の観念は、すでに密教以前に準備されていたもので、それを説いている前段階の経典として「華厳経」が考えられます。『華厳経』の中心の仏は、毘盧遮那仏といわれますが、それは先ほどの「ヴァイローチャナ」の音を写しているだけなのです。奈良の東大寺は、『華厳経』を奉じて、その学問を伝えている根本の道場です。だから、奈良の東大寺の大仏さまは毘盧遮那仏なのです。


ヴァグネリアーナー(188)
 ワグネリアンは英語である。ドイツ語ではワグナー崇拝者はワグネリアーナーになる。

ヴァージナル(57)
 小型のハープシコード。イギリスで発展。処女(ヴァージナル)が演奏するとされているがコーティザン(高級娼婦)などもソネットとともに弾いていた。

ヴァスバンドゥ(443)
〔アサンガの〕弟ヴァスバンドゥはチベットでは聖アサンガの双子兄弟であるとも、法のうえでの兄弟であるともいわれているが、聖なる国〔インド〕の学者のあいだではそのように伝えられていない。すなわち、かれの父となれる人は三ヴェーダ〔の知識〕をもつバラモンであり、阿闇梨聖アサンガが出家したあとに〔ヴァスパンドゥ〕が生まれ、この二人の阿閣梨は同じ母をもっ兄弟であると〔伝えられている〕。…聖アサンガの作った『五部〔瑞伽師〕地論』を見て大乗を理解せず、〔アサンガがその教説を〕最高神のところで聴聞したことを信ぜず、゛ああ、アサンガは森林で十二年間三昧を修行したのに、いまだ三昧を完成せず、大象の背にも重荷となるような教説を作ったものよ゛と叫んだ。

ヴァラナスィ(230)
 ヒンドゥーの最高の聖地であるガンガーのガート(沐浴場)。高齢まで生きたひとは火葬して灰を流すが、子供や若死した人はそのまま水葬される。日本ではかってベナレスと記述された。インドの地名呼称は近年、現地発音に対応して見直しが図られている。
    ボンベイ→ムンバイ    マドラス→チェンナイ


ヴァリアント(289)
 本来「派生・変種」とでも訳すべきものですが、構造主義の手法では収集された「現象の痕跡」という意味で用います。…「外部世界の実在」は問題にしないという意味で、すべての観察可能な現象は「ヴァリアント」だと言っているわけです。私たちは「ヴァリアント」以外のものを観察することはできません。

ヴァルカニゼーション(141)
 グッドイヤーが偶然発見した加硫。ローマの火の神ヴァルカンから名付けた。

ヴァルトブルグ城(180)
 テューリンゲンの森、アイゼナッハの山上の城。1067年にシュプリンガー伯爵が建 てる。タンホイザーの歌合戦の舞台である。13世紀にヴォルフラム・フォン・エッシェ ンバッハやヴァルター・フォン・フォーゲルワイデらのミンネゼンガーが活躍。

ヴァルミの戦い(523)1794年9月20日
 プロシア軍は、いまなにものを相手にしようとしているのか完全に知らなかったので、彼らはデュムーリエをとらえたと思い、その退路を断ったと思っていた。亡命貴族たちの言うところの浮浪者、仕立屋、靴職人のこの軍隊は、大あわてでシャロンやランへ逃げこんでしまうものと想像していた。大胆にもこの連中が例のヴェアルミの水車小屋に陣どったのをみて、いささか驚いたのである。
 プロシア軍の兵士たちは確固とした足どり、固い表情で丘をのぼってくる。個々の兵士はいかに確固としているにせよ、戦線全体はぐらついていた。ときおり空隙ができ、またそれを埋める。というのは、左のほう、デュムーリエの陣から撃ちだす弾丸の雨に見まわれたからだ。ブラウンシュヴァイクはこの無謀な殺戮を中止させた。そして引きあげのラッパを吹かせた。才知あり経験を積んだ将軍は、正面に対した軍隊のなかに、宗教戦争以来ほとんどみかけたことのない現象、すなわち狂信者の軍隊をみてとったのであった。そして、いざというときは、これは殉教者の軍隊となる。
 九月二十日、ヴァルミの勝利により確立された共和国は、二十一日、パリの国民公会によって正式にその成立が宣言された。


ヴァレンヌ逃亡(523)
 (逃亡前夜)、ルイ十六世は長いあいだためらっていた。彼はイギリス史にとりつかれていた−−ことにチャールズ一世とジェームズ二世との運命(ともに十七世紀のイギリス国王。チャールズ一世は清教徒革命において死刑となり、ジェームズ二世は名誉革命で追放された)に。彼がくみとった教訓は、人民にたいして武器をとらないこと、そしてまた、フランスの国土からけっして去らないこと、この二つだったのである。
…1791年6月20日深夜逃亡。wy …1793年1月、国王判決。死刑賛成387票対追放もしくは留保づきの死刑賛成334票。わずか53票の差、執行猶予をつけた46人をひくと、7票の僅少差。議長のヴェルニヨが悲痛な声で、公会の名においてルイ・カペーの死刑を宣告したのは九時。このあとドセーズ、トロンシェ、マルゼルプの3人の弁護人の最終弁論。国民投票を要求したが、公会はこれをしりぞける。国王処刑は、ヴェルニヨの予言どおり、反フランス大同盟結成の口実となる。その中心には、「これでヨーロッパでの白紙委任状が手にはいった」と喜んだイギリスの宰相ピットがいた。
…10月16日 王妃処刑。妃は有罪であった。彼女は外国軍をよびよせたのだ。この16日、ヴァンデの広範囲にわたる動揺は、実際行動となってあらわれてきた。反乱軍がロワール河を渡ったのだ。この巨大な、絶望的な軍隊は、これまで以上の能力でもって西部を席巻した。それはどこへ向かうのか。ナントか、それともパリか。まさに王妃の首が革命広場で落ちた時刻、カルノー、ジュールダンは全軍のなかばをひきい、密かに行動をおこした〔そして背後はからっぽ!〕。どこへ?ワッチニーの高原に向かって。


ヴァン・オルディネール(97)
 並酒。フランス庶民が日常的に呑むワイン。ヴァン・ド・ペイ(地酒)とはニュアンス が違う。

ヴァンダンジュ(319)
 ワイン用ぶどうの摘み取り作業。メートル・ド・シェ(醸造責任者)は、夏が過ぎてぶどうの房が大きくなってくると、毎日、糖度計でぶどうの糖を計り、ヴァンダンジュ(摘み取り)のタイミングを計る。

ヴァン・ディーメンス・ランド(558)
 ヴァン・ディーメンス・ランド。1642年にオランダ人アベル・タスマンによって発見され、十八世紀の終わりまでテラ・アウストラリスの一部だと考えられていた島だ。ジョンは、島から流刑地の印象を取り除くためにあらゆることをした。そして、ロンドンに島の改名を申請した。ヴァン・ディーメンス・ランドに代わって、島は将来タスマニア島と呼ばれるべきである。なぜなら、商人、職人、町の入植者たちは、自身のことを誇りをもってタスマニア人と呼び、古い名前を嫌っているからだ。


ヴァンフリート館(180)(188)
 ワグナーがコジマと住んだバイロイトの館。ちなみにワグナーはベニスで死んでいる。 マンの「ベニスに死す」はマーラーをモデルにしたといわれるが、ワグナーをモデルにし たらどんな展開になったのだろう。   ヴァンフリート館は、パトロンであるルートヴィッヒ二世がワグナーのために建てたが 「狂気(ヴァーン)」「安らぎ(フリート)」という名前は誰がつけたのか。  

ウイザード  

ヴィシュヌ神(177)
 現代ヒンドゥー教での最高神は太陽神であるヴィシュヌと、人間の生死・運命に関わる シヴァである。ヴィシュヌは10の化身を持ち、魚や亀としても表現されるが、特にラー マやクリシュナが人気が高い。ラーマ王子の冒険物語が「ラーマヤナ」である。  

ヴィッテルスバッハ家
 バイエルン王国の公爵家。姉の見合いの席上、その相手であるフランツ・ヨーゼフに見初められたのが、末娘のシシィ。后妃エリザベートである。

ウィトゲンシュタイン家(98)
 オーストリア・ハンガリー帝国の銀行家、鉄鋼等産業で巨利を得て、ウイーンの芸術的 パトロンであったウィトゲンシュタイン家に1889年、ルートヴィッヒは生まれる。同 性愛的で禁欲的な軍務、大学、放浪の中で「哲学の問題をすべて解決した。」と宣言する。

ヴィトローナ(285)
 研究ノートを繰ってみると、ストロボをカメラの中に組み込んでみよう、という発想は1967年頃から出てきている。実はそれよりさらに数年前に、ドイツのフォクトレンデルというメーカーから、ストロボを組み込んだカメラ。「ヴィトローナ」が発表されている。しかし、大きく重いカメラで、電源はカメラの下にグリップとして取り付けられていた。…商品として全く注目されないですぐに消えてしまった。

ヴィニフレッド・ワグナー(188)
 ワグナーとコジマの一人息子、ジークフリートの妻。ナチス時代のバイロイトの女帝。  

ヴィラ・アドリアーナ(65)
 ハドリアヌス帝がローマ帝国内を旅行して見たすばらしい建物や景観をローマ郊外のテ ィボリに再現した別荘。中でもカノーポはエジプトのセラピス神殿とその門前町を再現し たものだがその環状列柱にはギリシャ・ローマ的な彫像が立つ。ルートビッヒU世に似た 感性を持った皇帝が、それ以上の財力で作った隠れ家。

ヴィラ・ヨヴィス(135)
 カプリ島の断崖に立つテイベリウスの別荘。ゼウス別邸。アウグストゥスの後継者ティ ベリウスは2度出奔する。一度目はアウグストゥスの時代に、権限と責任を放擲してロー ドス島に引きこもる。怒ったアウグストゥスも、後継者としてティベリウス以外考えられ ずこれを呼び戻す。2度目は皇帝になってからで、今度はその権限と責任を放棄すること なく、このヴィラ・ヨヴィスに閉じこもり、死ぬまでここからローマ帝国を統治した。

ウィリアム・ゴーガス(223)p.326
 4世紀の構想とアメリカによる最後の8年間の工事でパナマ運河は完成した。バルボア、フンボルト、レセップス等の登場人物が去った後、最後の成功者の名は逆に記憶に残らない。ルーズベルトが承認した工事であるが、現地の最後の責任者は工兵少佐のゲソルズ。真に記憶されるべきは軍医ウィリアム・ゴーガス。運河の完成は彼によるマラリアと黄熱病への対処がなければありえなかった。そしてこのゴーガスが野口英世をかの地に派遣することになる。

ウィリアムズ・シンドローム(292)
 絶対音感を持つ音楽家の脳の非対称性に関するシュラウクの研究に対して、オリバー・サックスは「左右の非対称はウィリアム・シンドロームの子どもたちの脳と非常に酷似している。」とのコメントを「サイエンス」誌に寄せている。ウィリアムズ・シンドロームとはイデオ・サヴァンと呼ばれる知能発達障害の一種で、絵や言葉、年代の記憶やカレンダー計算など、類いまれな記憶や計算能力を持つことで知られ、絶対音感を持つ子どもも非常に多いといわれている。

ウィリアム スミスの業績(499)
 ウィリアム・スミスの業績のすばらしさは、彼が作成した1815年の地質図と、英国地質学調査によって作成された現代の地質図を比較してみれば一目でわかる。細部にいたるまで……普通の人では目にとまらないところまで……よく似ているのは、スミスの仕事がいかに正確で、先見の明に富んでいたかの証拠である。だが、これら二枚の地質図には大きな違いが一つある。現代の地図は何千人分もの労力をかけて作られたのに対し、およそ200年前のウィリアム・スミスの地図は、たった一人の人間のたぐいまれな献身と不屈の決意によって、ほぽ15年の歳月を費やし、ほとんど独力で作りあげたものなのだ。

ウィリアム・マイナー博士(340)
 OEDの用語の収集を20年間にわたって行い、最大の編集協力者といわれたが、その間、どのような人物か編集者は知られなかった。
 「アメリカ人の殺人犯がオックスフォード英語辞典の編纂に協力」という書きだしで、八段組みのページ全体にわたって書かれている。「英語辞典の謎に満ちた貢献者は、ブロードムア刑事犯精神病院に幽閉されている資産家のアメリカ人外科医であることがわかった。彼は精神が錯乱している状態で殺人を犯したのである。辞典の編纂主幹であるサー・ジェームズ・マレーは、仲間の学者の家を訪問するつもりで出かけたが、着いたところは病院であり、そこで驚くべき話を聞くことになった。それはアメリカの南北戦争の時期に始まる物語で、そのアメリカ人は当時、北軍の軍医だった。…」


ウィリアム・モリヌーズ(225)p.45
 独身者ジョン・ロックにおいてホモソーシャルな「友情」は人生において最も価値あるものとして情熱を傾けたものであった。60歳のロックはアイルランドの36歳のモリヌーズへ熱烈なる心情を吐露する。

ウイリー・シュタイン(61)
 ライカM3の主任設計技師。それ以前がバルナックタイプと呼ばれるなら、1954年 フォトキナで突然発表されたこの画期的なM3もシュタインタイプと呼ばれてしかるべき か。  

ウイルキンス教授(498)
 J・ワトソンやF・クリックとともに、DNAの二重らせん構造を決定した功績によって、1962年に生理学・医学部門のノーベル賞を授与された、ロンドン大学キングス・カレッジのM−H−F・ウィルキンス教授は…DNA研究史の上で、わずかに、しかもきわめて一面的に紹介されてきたにすぎない。
…イギリスには、たくさんのノーベル賞受賞者がいる。彼らが、学問の合間に存在のあかしとしてときどき出す「声明」などというものは、あまり意味があるとは思えません。要は「行動する」ことが肝心です。私には、インテリのおしゃべりにつきあっている暇はないのです。

ウイルスの幾何学性(407)
 …ウイルスは生物と無生物のあいだをたゆたう何者かである。
 科学者は病原体に限らず、細胞一般をウエットで柔らかな、大まかな形はあれど、それぞれが微妙に異なる、脆弱な球体と捉えている。ところがウイルスは違っていた。それはちょうどエッシャーの描く造形のように、優れて幾何学的な美しさをもっていた。あるものは正二十面体の如き多角立方体、あるものは繭状のユニットがらせん状に積み重なった構造体、またあるものは無人火星探査機のようなメカニカルな構成。…そこには大小や個性といった偏差がないのである。なぜか。それはウイルスが、生物ではなく限りなく物質に近い存在だったからである。ウイルスは、栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。つまり一切の代謝を行っていない。ウイルスを、混じり物がない純粋な状態にまで精製し、特殊な条件で濃縮すると、「結晶化」することができる。これはウエットで不定形の細胞ではまったく考えられないことである。…この点でもウイルスは、鉱物に似たまぎれもない物質なのである。ウイルスの幾何学性は、タンパク質が規則正しく配置された甲殻に由来している。ウイルスは機械世界からやってきたミクロなプラモデルのようだ。
 しかし、ウイルスをして単なる物質から一線を画している唯一の、そして最大の特性がある。それはウイルスが自らを増やせるということだ。ウイルスは自己複製能力を持つ。ウイルスのこの能力は、タンパク質の甲殻の内部に鎮座する単一の分子に担保されている。核酸=DNAもしくはRNAである。ウイルスが自己を複製する様相はまさしくエイリアンさながらである。ウイルスは単独では何もできない。ウイルスは細胞に寄生することによってのみ複製する。ウイルスはまず、惑星に不時着するように、そのメカニカルな粒子を宿主となる細胞の表面に付着させる。その接着点から細胞の内部に向かって自身のDNAを注入する。そのDNAには、ウイルスを構築するのに必要な情報が書き込まれている。宿主細胞は何も知らず、その外釆DNAを自分の一部だと勘違いして複製を行う一方、DNA情報をもとにせっせとウイルスの部材を作り出す。細胞内でそれらが再構成されて次々とウイルスが生産される。それら新たに作り出されたウイルスはまもなく細胞膜を破壊して一斉に外へ飛び出す。


ウイングレット(179)  
 小さい羽根。主翼の端部に上向きに設けられた補助翼。大型の鳥の風切り羽根にヒント を得て、翼端部に発生する渦を利用して揚力と推力をかせぐ。  

ヴィンチ村(84)
  フィレンツェの西42キロ、アルバーノ山の西斜面の城邑。1952年4月15日、公 証人セル・ピエロとカテリーナの間の庶子としてレオナルド・ダ・ヴィンチが誕生した。 

ウインドローズ(179)
 滑走路は最多風向に合わせて作られる。建設前に風を16方位に分けて測定した発生頻 度がバラの花のように見えることから名付けられた風配図。飛行場の滑走路番号はこの風 向角度で呼ばれる。

ウィーン世紀末(480)
 ウィーン世紀末の輝きは、哲学・文学・物理学・法学・経済学・精神医学など諸学問それに音楽・絵画・工芸・建築などあらゆる芸術が一体となったものである。しかも、それぞれの分野の人間関係は驚くほど近く緊密なものであった。
すなわち、アントン・ブルックナーがルートヴィヒ・ボルツマンにピアノのレッスンをしていたこと、グスタフ・マーラーがフロイト博士のところへよく心理学の問題をもっていったこと、ブロイアーがブレンターノのかかりつけの医者であったこと、また、青年フロイトが青年ヴィクトル・アドラーと決闘したこと。…要するに、後期ハプスプルク朝のウィーンでは、この町の文化的指導者の誰もが、何の困難もなしに互いに知り合うととができたのであり、活動した分野が、芸術、思想それに公務とまったく異なっていたにもかかわらず、彼らの多くは、実際親しい友人であった。
 そればかりではない。フロイトはプレンターノの講義に出ていたし、フロイトとシュニッツラーは友であった。富豪ヴィトゲンシュタイン家にはプラームスなどの一流音楽家が招かれ、建築家アドルフ・ロースはヴィトゲンシュタインの知人であり、クリムトはヴィトゲンシュタインの姉妹をモデルにした有名な油絵を描いている。マーラーの妻であったアルマは、一時クリムトやココシュカの恋人であった。だが、ウィーン時代を通じて完全な「場外」にいたヒトラーは、こうした学問芸術の新しい運動を知る由もなかった。


ウィーン爆撃(323)
 1945年3月12日、ナポリの空軍基地を飛び立った米英連合軍は、ウィーンのもっとも美しい中心地帯に爆弾の雨を降らせた。ブルク劇場、マリア・テレジアの銅像の横にある国立美術史博物館、聖シュテファン寺院、国立オペラ劇場などが一斉に破壊された。…このとき、140のオペラのセットと、16万着の衣装、多数の歴史的に貴重な楽器や楽譜が灰燼に帰した。

ウイーン・フィル(120)
 「よく聴けよ、聴け! 今や時期は到来した。楽人たちは眠ってばかりいるときではな い。寝床でヴァイオリンを弾いているときではない。アポロの息子たちよ、一同に会して 偉大なる仕事をはじめようではないか。」その当時ウイーン宮廷オペラの第一楽長であっ たオットー・ニコライが書いた檄文。最初の演奏会は1842年、ベートーベンの第7番 とレオノーレ3番が演奏された。

ヴェクサシオン(29)
 いやがらせという意味を持つサティの作品。演奏には12時間から24時間かかる。サ ティが楽譜の注釈に840回演奏することと書いたのでこういうことになった。  

ヴェサリウス(190)
 16世紀の解剖学の始祖。人体構造学を著す。

ヴェリコフスキーのアイデア(557)
『衝突する宇宙』は1950年4月に、権威あるマクミラン社から出版された。この本はす寸さま成功を収め、…40年たった今でも、まだペーパーバックで版を重ねている。その書評は広範囲にわたったが、絶賛と辛嫌な批判の真っ二つに割れた。…その理由の一端は、ヴェリコフスキーのアイデアとその発表の仕方にあった。と同時に、この本に対する賞賛の嵐と、それに歩調を合わせた積極的な販売政策も相当、反発に火をつけるもとになった。
…まえがきで、−1940年の春、私に次のようなアイデアが浮かんだ。聖書の随所にある記載で明らかなように、エクソダス(大脱出)の期間に、現実に自然界の大変動が起こったのだ。そして、そのような大変動が、出エジプトの時期を決めることになった。本書の歴史的・宇宙的な記述は、地球上に存在する数多くの民族の歴史的文献に載っている出来事に基づいている。
 ヴェリコフスキーは精神分析家として、ウィーンでヴィルヘルム・シュテッケルに教育を受けた。彼は、オイディプス伝説に興味をもつようになり、この伝説が紀元前14世紀のエジプトの王アクナートンの話と似ていることに気がついた。そこから、彼の研究はシュメール、ヒンズー、中国、マヤ、アステカ、アイスランド、エジプト、へブライの伝説、叙事詩、史実の比較へと移っていった。彼はこれらの聞に類似点を見出し、次のように考えた。このようにまったく異なる、また地理的にも遠く離れた人々が同じ出来事に言及し、それらを記憶しているということは、それがおそらく実際に起こったことで、しかも同一の事件だということである。

ヴェリズモ(333)
 verismo(伊) 現実派。ゾラやフローベルなどの文学上のリアリズムの影響を受けて19世紀後半のイタリアに起こったオペラの運動。コロラトゥーラのアリアなどの特徴は失われ、ヴァグナーの無限旋律よりもさらに民族的色彩の濃いレチタティーヴォが好まれた。カヴァレリア・ルスティカーナや道化師がこの運動の最初の結実である。

ヴェルサイユ条約第231条(501)
 大戦後のヴェルサイユ講和条約は、戦争責任をめぐる論争をさらに激化させた。戦勝国側が、ヴェルサイユ条約第231条で大戦は「ドイツとその同盟国の攻撃によって引き起こされ、彼らこそが連合国が蒙った多大な損失に責任を負うべきだと断定して、賠償請求の根拠にしたからである。ドイツ側は、ヴェルサイユ条約が交渉もなしに一方的に押しつけられたものとして、その不当性を糾弾し、とりわけこの戦争責任条項を強く非難した。
 ドイツ外務省には、条約に反駁する資料を集め、反対キャンペーンを支援するために戦争責任課が設置され、またヴァイマル共和同時代のドイツ外交の最重要課題は、ヴェルサイユ条約の様々な規制を「修正する」ことにおかれた。 こうした動きは外交史では修正主義と呼ばれ、ドイツは他の敗戦国の先頭に立って修正主義外交を展開した。一方、戦勝国側は条約の正当性を主張して、ドイツ側と論戦を繰り広げた。国民感情を背景に、自国の名誉や利益を背負った激しい応酬、特に賠償問題をめぐるフランス・ドイツの対立は、1920年代の国際社会を不安定にする要因の一つになった。

ウェルキンゲトリクス(535)
 中でも(紀元前)52年のウェルキンゲトリクスを首謀者とする全ガリアの蜂起は、カエサルにとっても乾坤一擲の戦いであった。八年にわたるガリア戦争で、カエサルはわずか四、五万の軍団兵と、ほぽ同数の援軍とでもって、三百万の敵とわたり合い、百万人を殺し、百万人を捕虜とし、八百の町を陥れ、三百の部族を屈服させたといわれる。
…部族で最高の権力を握っていた青年、ウェルキンゲトリクスは−−彼の父ケルティッルスは、かつてガリア全土を牛耳っていたが、王位を求めたという理由から、国家当局の手で殺されていた−−自分の隷属者をよび集め、彼らを簡単に煽りたてた。
 ガリア人全体の自由のため武器をとれと鼓舞激励し、大勢を集め、先に彼を町から追放していた反対派の人々を国家から放逐する。
…他の最高司令官なら、逆境によって権威を失墜するが、彼はあべこべに敗北を蒙ってから、日に日に威信を高めた。同時に一般兵卒は、彼の保証から、他の部族も味方につくという希望を抱くに至った。
…その翌日ウェルキングトリクスは、戦術会議を召集し、彼がこの戦争を引き受けたのは、個人的な利益からではなく、全ガリア人の解放のためであったと釈明する。「運命とあれば、これに従わねばならぬ。予のことは、お前らに一任する。予を殺してローマ人に償いをするなり、生きたまま引き渡すなり、どちらでも好きなようにするがよい」と。


ヴェルチンジェトリックス(23)
 カエサルのガリア戦記7年目にして初めてであった強力なライバル。反ローマでガリア をまとめた指導者。紀元前52年ディジョン近くのアレシアに8万の兵とともに篭城し、 これをカエサルの5万の軍勢が囲み、このカエサルをさらに26万の全ガリア連合軍が囲 む。このアレシア攻防戦はカエサルが内外に34万の敵を迎えての完勝となったが、一人 ヴェルチンジェトリックスのみが自ら進んで虜囚となり、ローマで死刑。

ウェルニッケ脳症(TV)
 記憶を持続できなくなる。数時間で記憶を失うが、発症前の記憶は保持している。発症 後は本人にとっては現在しかなくなり、時間の持つ意味を失う。 過去は梅毒等により発症したが、厚生省がビタミン剤を保険の適用から除外したことに より、輸液栄養剤からビタミンが除去され、これを投与された患者がビタミンB1不足に より発症するという薬害となった。

ヴェンデ十字軍(529)
 1147年3月、ペルナールはフランクフルトで開催された帝国議会で再度、エルサレム十字軍への参加を説得した。しかし、ザクセンを中心とするドイツ北部の諸侯はなおこれに従おうとはしない。彼らは、むしろ彼らのフロンティアに暮らす北のスラプ人たちを攻撃することに関心を示した。
エルサレムまで出かけるよりも、自分たちの利害と直結するヴェンデ人のもとに十字軍として出かけるほうが、はるかに合理的であった。問題は、それが十字軍たりうるか、否かである。これを決定したのはベルナールであった。彼は、ザクセン大公たちの希望を受け入れて、彼らの軍勢をバルト・スラプ人、つまりヴェンデ人に向け、これを討伐することに同意し、独自の判断のもとに、この北へ向かう兵士たちにも「罪の赦免」をあたえた。つまり、彼はこれを十字軍に仕立てあげたのである。
…ヴェンデ十字軍そのものは、このようにして特段の成果をあげることなく終わった。オボトリート人の君侯であるニクロートは、依然としてリューベクの東部を支配下におきつづけた。偶像や異教徒の寺院、それに彼らの聖域は残り、一片の土地もキリスト教世界のものとはならなかった。


ヴォカティオ(429)
 この『未完のロマ書講解』では、罪人に対する神の側の働きとして、「招き」(ヴォカティオ)があげられているが、これは重要な視点である。なぜなら、招きは従前の照明にかわる働きをするものと受けとれるからである。人間の魂は神的光に照らされて真理を認識するにいたる、という考えは、ストア派、グノーシス、マニ教、新プラトン主義など古代の哲学、宗教に見い出せるものであり、アウグスティヌスの初期の著作にもよく出てくる。ところが、照明説の問題は、照明を受けた人間の意志の働きが考慮されず、また人間の罪が不問に終わる傾向にある。…ヴォカティオ(招き)は人間が要求することのできない神の恵みの行為である。そして、この神の招きがキリストと結びつくことにより、神の恩恵が明らかになり、また人間の罪が問題とされるのである。このようにアウグスティヌスは詩篇とパウロ書簡の研究を重ね、恩恵思想を形成していく。…アウグスティヌスによると、神は罪の塊からあわれみの器と怒りの器を作る。あわれみの器は一方的な神の恵みによる。神の人間に対する招きも神の恵みの業である。このように、アウグスティヌスは神の恵みが人間のすべての業に選考して働くこと、人間は神の恵みがなければ意志することさえできないことを表明するのである。

ウォード氏の箱(206) p.67
 博物学への一般的関心の増大により、1930年代にウォードが考案した輸送用温室が、家庭用の温室や、鑑賞用水槽として発展していき、それらはさらに、ヴィクトリアン・ケースと呼ばれるような家庭用の豪華な博物展示ケースとなっていった。

ヴォルフスシャンツェ(513)
 「ヴォルフスシャンツェ(ヴォルフシャンツェの表記もある)=狼の砦」はこれまで数多く紹介してきたヒトラーの城砦のなかでも、おそらくこれほどその名にふさわしい場所はないだろう。というのも、まさにここが、独裁者ヒトラーが第二次世界大戦中のほとんどの期間をすごし、戦争を指導した総統本営であったからである。そして、この本営は分厚いコンクリートでかためられ、多数の警備兵に守られた、まさに城砦そのものであった。
 ヴォルフスシャンツェがもうけられたのは、東プロイセンの首都ケーニヒスペルクの南東100キロにある小さな町、ラシュテンブルク郊外のゲルリッツの森であった。…第一次世界大戦では1914年8月、ドイツ軍がロシア軍に壊滅的な打撃をあたえた「タンネンベルクの戦い」の舞台となったことが知られる。…それは世間から隔絶された、ひとつの秘密都市のようなものであった。総面積は250ヘクタールで、まわりは鉄条網と地雷原でかこまれていた。

ウォルポール書簡集(225)p.131
 1937年にイエール大学出版局から出版が開始されたこの書簡集はその後36年間に36冊も発刊された。それも500ページをこえる大冊がほとんどである。ウォルポールは、18世紀のイギリスのスキャンダルを猟犬のように追い、書簡を書きつづけた。これが私邸「ストロベリー・ヒル」のゴチック風建築で建築史に奇妙な刻印を残し、「オトラント城奇譚」を書いた趣味と友情に生きたウォルポールである。

ウォーレス線(206) p.176
 ウォーレスは「マレー諸島探検」で、独自に進化論を発想するが、それは生物相の時間的、地理的分布の相関であった。その原点が、バリ島とその東のロンボク島との間に、オーストラリアと東洋の動物相との境界があるというウォーレス線の発見である。

右岸のワイン(320)
 右岸のワインといえば、サンテミリオンやポムロルが有名だが、それ以外の地区には知られざる逸品も少なくない。日本でも人気のあるプピーユのあるコート・ド・カスティヨンは、サンテミリオンの東側に隣接している。サンテミリオンは、丘の上にたつサンテミリオンの町を中心に、それほど大きくない緩やかな起伏の丘が続いているが、カステイヨンに入ると、ひとつひとつの丘がさらになだらかな傾斜を持つものに変わる。プピーユは、カスティヨン地区の南西部、サント・コロンブ村にあり…。


ウースペンスキー(83)
 1949年に死んだロシア人超能力思想家グルジェフは、自分の教えの精髄として「ベ ルゼブルの孫への物語」を執筆したが、あまりにも晦渋で、理解を得られがたかったが、 彼の思想の代弁者としてウースペンスキーがいる。

ウゾ(316)
 ギリシャの夜は、この火酒で始まると言っても、言いすぎではないだろう。アニスの強烈な匂いと、とろりとした癖のある甘みは、メキシコのテキーラとも、日本の焼酎とも違う、独特の味わいをもつ酒である。透明な瓶を傾けてコップに移し、上から水を注ぐと牛乳のように白濁する。葡萄の搾りかすを蒸溜して造られるこの酒は、しかしほかのギリシャのワインとはまるで異なった味がする。男たちは、生のまま、舐めるように時間をかけて味わう。夜の扉を開く酒、暮れていく時を味わう酒がウゾだ。

ウソで固めた70年(351)
 佐藤和夫(千葉大助教授)著,「東欧の豊かさ日本の貧しさ」,リベルタ出版,1990年,は悪あがきのように書く。「89年まで存在した社会主義は、ひどい政治弾圧や非効率的な経済運営のために消滅した。しかしながら、そのようななかでも、人々は競争主義からまぬがれ、さまざまな社会保障のために食っていけなくなる不安を持たず、ゆったりした人間関係を持ちえたことは、やはり否定しようがない事実であり、成果である」
「ひどい政治弾圧」は、東欧でもおぞましい密告制度を伴ったはずだ。そんななかで、どうして「ゆったりした人間関係」を持ちうるのか。…いま旧ソ連国民の多くが「ウソで固めた70年」と苦渋をこめて革命以来の歴史を振り返る時、それは人間関係を含めているのではないか。

嘘の臭い(479)
 他人の幸福を第一の動機にしている人の身体には、巧妙な嘘の臭いが付きまとっている。正しいことをしているのだから賞賛されるはずだという思い込みにまみれている。彼(女)に向かって、「じつは自分の幸福のためでは?」という疑惑を向けたとたん、目を吊り上げて憤慨し、それを「侮辱」ととらえるのだから、始末に負えない。こういう人が、私はとても嫌いである。本当は自己愛に基づいているのに、他人の幸福を求めているふりをしているからではない。そうではなく、いかなる行為にせよ、それを目指す自分の動機のうちに渦巻いているであろう欺臓や醜さを直視しようとしないからである。

嘘発見器(434)
 嘘を暴くために科学技術に目を向けたのはアメリカだけである。ポリグラフは医療技術を利用した平凡な機械にすぎず、使われている生理学機器はどの先進国でも一世紀前から入手できた。にもかかわらず、それに尋問という新たな目的を与えた国はアメリカ以外にない。嘘発見器がアメリカで歓迎されたのは、この装置が20世紀の重要なプロジェクトのひとつで一定の役割を果たせると期待されたからである。そのプロジェクトとは、集団生活の根幹にかかわる道徳的な問題を−−どぅやって公正な社会を実現するかという問題を−−法的に解決することが目的だった。
 アメリカ人は日々のおこないによってみずからの価値を証明するだけでは満足できずにいる。アメリカ人はそこに承認を求める。たいていは隣人から、いつもは指導者から、ときには自分自身から。簡単に言えば、アメリカ人は感傷的な唯物主義者なのである。G・K・チェスタートンが生み出した司祭にして探偵であるブラウン神父は、はじめてアメリカの嘘発見器を目にしたとき、吹き出しそうになっている。「心臓の鼓動から何かを証明しようとする者がアメリカ人以外にいるだろうか。彼らは、婦人が顔を赤らめたら自分に恋していると思い込む男と同じくらい、感傷的な人々にちがいない」。


疑う自由(158)ファインマン  
 疑いは科学にとって価値であることは明らかです。疑う自由こそ科学にも科学以外の分 野にもたいへんに重要なことだと僕は信じます。それは苦闘によって勝ち取られたもので す。疑いや不確かさが公然と認められるうになるにはたいへんな苦闘があったからです。 もし何か不確かなことがあれば、それを改善する機会があるというものでしょう。僕は未 来の世代のためにこの自由を要求していきたいと思います。

有頂天(443)
 (ヴァスバンドゥの『倶舎論』によれば)人間より一段と高い位にある生きものは天である。天の原語はデーヴァであるが、この場合の天は、もともとは天空に住む生きものを意味することばであり、副次的にその生きものが住む場所をも意味する。さて天は大きく地上に住む天(地居天)と天空に住む天(空居天)とにわけられる。このうち地居天とは須弥山の中腹までに住む四大王衆天とその頂上に住む三十三天とである。須弥山はそのふもとから中腹にかけて四つの層からなるでっぱりによってとり固まれ、その最下層から上に向かって順次、(各)神(と)四大天王が住む。四大天王とは持園、増長・広目・多聞の四天をいい、…須弥山の頂上は正方形の広場となっており、そこに三十三の天が住む。その主が広場の中央の殊勝殿に住む帝釈天である。…三十三天の住む須弥山の頂上から無限の空間が広がっている。仏教的宇宙観によれぱ、そこは空虚な空間ではなく、数多くの諸天の住む場所である。…梵衆天から色究竟天までの十七天は色界すなわち、清らかな物質からできた世界に属する。色界は別名、「禅」あるいは「静慮」の世界ともいわれる。…色界の上に無色界の世界が展開する。無色界とは、色すなわち物質・肉体的なるものはなにもなく、ただ精神的なるもののみが存在する世界である。この無色界はさらに空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定との段階にわかれる。この四つは順次、色界の禅よりもさらに心が治まった「定」( サマーディ)という精神状態の深まりゆく過程といえよう。最上層の非想非非想天を、存在(有)の最高の頂という意味で、有頂天とよぶことがある。

美しい乙女(531)
 エンマ・ハート(本来はリヨン)嬢のことで、1761年(一説には1764年)に生まれた。素性は賎しかったが多くの男の思いものとなり、最後にウィリアム・ハミルトンが甥のグレヴィル卿より得て1791年に自分の妻とした。エンマはナポリの宮廷で王妃カロリーナの親友となり政治的な役割まで演じたがその後1798年に有名なネルソン提督の愛人となり、数奇な生涯を送って1815年に■美しい乙女(531)
エンマ・ハート(本来はリヨン)嬢のことで、1761年(一説には1764年)に生まれ
た。素性は賎しかったが多くの男の思いものとなり、最後にウィリアム・ハミルトンが甥のグレヴィル卿
より得て1791年に自分の妻とした。エンマはナポリの宮廷で王妃カロリーナの親友となり政治的な役
割まで演じたがその後1798年に有名なネルソン提督の愛人となり、数奇な生涯を送って1815五年に
カレカレーで貧困の中に死んだ。カレーで貧困の中に死んだ。


ウッダーラカ・アールニ(445)
 ウッダーラカ・アールニは「ウパニシャッド」においてもっとも高名な思想家の一人である。ウッダーラカの思想の特徴は、ここにあらわれているように、この現象世界の諸存在はことばによる表示にすぎず、その本質は唯一の実体である「有」にほかならないとするものである。そしてこの「有」という原理からどのようにして現象世界が成立するかがのべられる。その「有」がアートマンにほかならない。ここで有名な「おまえはそれである」という名言がのべられる。…この微細なるもの、この世のすべてのものはそれ(「有」)を本質としている。それは真に存在するものである。それはアートマンである。シュヴェータケートゥよ、おまえはそれである」と〔ウッダーラカは言った〕


自惚れた奴隷(408)原口統三
 現代人は自分の膚の感覚を信用しなくなってしまった。本当に明晰なものは自己の裡に住んでいるのに、彼等はそれが外から与えられると思いこむのだ。現代人は契約の中に明晰さを見出す。而も彼等を安心させるのは、契約を作ったのも彼等だと考えられるからだ。人間によって生み出されたものが、人間を支配する。現代人は自惚れた奴隷である。ニーチェ以来人類は「貪欲」を肯定している。

ウパニシャッド (445)
 インド最古の聖典である「ヴェーダ」は、多神教を背景として、神々に対する讃歌、祭祀や儀礼においてとなえられる祭詞・呪句、祭官によって詠唱される歌詠、祭祀の説明、祭祀に閲する秘密の教説や、限られた人びとにのみ伝えられる哲学説などをふくみ、その内容はきわめて豊富である。…全知・全能な唯一の最高神を想定するものではない。…しかし、見られる思想は帰一的なもので、一元論である。…そのうちで、「ヴェーダ」の最後尾に位置し、一般的にいうならば、古代インドの秘密の哲学説を内容とするのが「ウパニシャッド」である。これは「奥義書」 と訳されることが多く…。

ウフィツィ美術館(65)
 アルノ川ヴェッキオ橋際にあるかってのメディチ家の事務所であった美術館。Ufficiと はオフィスという意味。ボッティチェッリの「春」がある。  

ウプネカット(445)
 ショーペンハウアーが読んだ「ウパニシャッド」 …はムガル王朝の…サンスクリット原典から翻訳させたぺルシア語訳をさらにラテン語に重訳したものであったことは有名である。それは『ウプネカット』 とよばれ、…。重訳であったこと、そして訳語、が難解であったことなどにより、とかく誤解を招きがちのものであった。しかしショーペンハウアーは、自分とこの『ウプネカット』の出合いを、「それ(ウプネカットのこと〉はわたくしの生の慰めであった。そしてわたくしの死の慰めとなることであろう」(『パレルガ・ウント・パラリポメナ』)と述べている。

宇摩のやまじ風(330)
 日本三大局地風の一つ「宇摩のやまじ風をご存じだろうか。石鎚山に連なる法皇山脈を吹き下ろす突風は、日本海に低気圧がおりる毎月2月から6月頃に発生するらしく、季節がら直撃をくらう歩き遍路も少なくない。
…場所はちょうど64番前神寺から65番三角寺にかけての遍路道にあたる、愛媛県は土居町ならびに伊予三島市辺り。…右の山裾から、あるいはどこからか、うなる風音に少し遅れて身動きできないほどの風圧がかかる。


生まれは尽きた(511)
 さらにまた、アーナンダよ、修行者は無所有の領域の想いを作意せず、想いがあるのでもなく・想いがないのでもないという領域の想いを作意せずして、ただ一つ、無相なる心統一(無相心定)によって作意する。無相なる心統一によって、かれの心は勇み、喜び、安定し、解脱する。かれはこのようにさとる。
『この無相なる心統一もまた体験されたものであり、思念されたものである。およそ、体験され思念されたものはすべて無常であり、消滅する性質のものである』とさとる。かれがこのように知り、このように見るならば、かれの心は愛欲の汚れから解脱し、生存の汚れから解脱し、無知の汚れから解脱する。解脱したとき、『解脱した』という智が生ずる。すなわち『生まれは尽きた。清らかな行いは完成した。なすべきことはなしおえた。もはや再び輪廻の生存を受けることがない』と。
そして、かれはこのようにさとる。『たとい愛欲の汚れによって、どれほど心の煩わされるものがあろうとも、それらはここに存在しない。たとい生存の汚れによって、どれほど心の煩わされるものがあろうとも、それらはここに存在しない。たとい無知の汚れによって、どれほど心の煩わされるものがあろうとも、それらはここに存在しない。しかもなお、心の煩わされることが存在する。すなわち、この生命を間接原因とする六つの感官をそなえるところの身体そのものについてである』と。
そして、かれは『愛欲の汚れに関して、この想われるもの(愛欲の汚れ)は空である』とさとる。『生存の汚れに関して、この想われるもの(生存の汚れ〉は空である』とさとる。『しかもなお、空でないことがある。すなわち、この生命を間接原因とする六つの感官をそなえるところの身体そのものについてである』とさとる。
かくて、およそ、そこにないものは、そのことによって、それは空であると等随観する。しかも、ま
だそこに残っているものがあるならば、その存在しているものを、これは存在すると等随観する。


海の静寂(186)
 風の静けさと重苦しい気分を自然の効果を出しながら表現したシューベルト少年期の作 品。ディスカウが特に絶賛してやまない。現在ディスカウの録音はない。  

■海の浜辺に
   静かに目覚めよ!
   このインドの人類の海の岸辺に
   ここに立ち両手を拡げ、人なる神を私は拝む
   私は寛容な調べにあわせ、この神を敬う
   深く瞑想に耽るこの山々!
   川なる数珠を持った大平原!
   ここに見よとこしえに清らかな大地を!
   このインドの人類の海の岸辺を!


浦上四番崩れ(527)
 いかに信仰を秘匿しても、浦上全村がキリシタンであったのだから、気づかれないはずはなかった。寛政二年の一番崩れ、天保十三年の二番崩れ、安政六年の三番崩れといわれるキリシタン検挙事件はこうして起った。三番崩れで、七代目惣頭吉蔵が捕えられて殉教し、その後まもなく安政の開国、宣教師の渡来があって吉蔵を最後に惣頭は選任されなかった。そして最後の大崩れである四番崩れが、1867年に勃発、徳川幕府はその解決を見せないで倒れ、明治政府にその解決が引きつがれて、内政外交上の大問題化するにいたる。

ウラジオストック(44)
 「東方の支配者」という意味。

ウラジミール・ウリヤノフ(421)
 その頃シベリアの流刑地に一人の革命家が住んでいた。彼はコーバ(後のスターリン)より8歳年上で、コーパの人生にきわめて大きな役割を演じることになる。この事命家はウラジーミル・ウリヤノフと呼ばれた。20世紀はレーニンという革命家の変名で彼を記憶することになる。この二人の境遇はまったく似たところがなかった。四等文官(帝政ロシアではこれは将軍の位に相当した)の息子で、世襲貴族のレーニンは、ロシアの知識人の家庭に育った。
一方、ソソ(スターリンの幼名)は酔いどれ靴職人の子で、父からは殴られただけだし、生活ではひどい貧しさ以外何も
知らなかった‥…・。それにもかかわらず、おかしいほど似ていた。子供の頃レーニンはきかんきで、向こう見ずだった。……これはコーバも同じだ。レーニンは短気で、怒りっぽく、それでいて驚くほどがまん強く、閉鎖的で、冷淡にもなりうる。コーバもそうだ。二人とも詩人気質をもっていた。二人と革命家になるつもりはなかった。レーニンは兄の死後に革命家になった。兄はアレクサンドル三世暗殺未遂事件に加わったために絞首刑にされた。


ウラジミール街道(428)
 一条の道がどこまでも続き、陰うつな曇り空が、押しつぶすように大地にのしかかる。…そして果てしもない荒野が広がり、…かたわらに墓標がひとつ。死のような静寂。異常な憂愁。…そのころ(19世紀)「ウラジミール街道を行く」というロシア語は、シベリア流刑を意味した。モスクワのはずれに「ウラジミール関門」と呼ばれる2本の高い石柱があり、ここからシベリアへの長い道が始まるのである。

ウルガタ訳聖書(449)
 (15世紀の)神学部の教育研究の柱は何かといえば、第一には四世紀の聖ヒエロニユムスを中心として完成されたラテン語訳聖書−いわゆるウルガタ訳(Versio vulgata)、第二には権威ある神学説の集大成ともいうべきパリ司教ペトルス・ロンパルドゥスの『神学命題集』であった。

ウルク書板(80)
 BC6千年〜1千年紀にチグリスの下流域で活躍したシュメール人がBC3500年頃 、楔形文字を発明した。これが最古の文字といわれる。ウルク神殿跡から発見された粘土 板はウルク書板と呼ばれるが帳簿の一種であった。

ウルトロン50ミリF2(192)
 ヴィテッサ用のレンズ。透明感と明晰性にプラスして、なんとも表現しようのない魅力 を兼ね備えた名レンズ。レチナのヘリゴンと共通した明晰さをもつが、どこか世界最古の 光学機器メーカの風格を感じさえする。レチナのクセノン50ミリF2とは宿命のライバ ルかと思われる。

ウルフィラのゴート語訳聖書(410)
 ローマ−ゲルマン対立のもっと深い理由は、信仰の相違、つまりゲルマン人が381年のコンスタンティノープル公会議で最終的に異端とされたアリウス派で、ロ−マ人の信ずるアタナシウス派ではなかったことだった。アタナシウス派つまり正統信仰では、キリストが受肉によって人間となったことを認めるが、同時に本質において神であるとする。アリウス派ではキリストは神の被造物で、神と同じ本質をもたないと説く。この信仰がゲルマン人に伝わったのは、つぎのようないきさつからだった。四世紀の中頃、西ゴート人ウルフィラが、コンスタンティノープルでアリウス派に改宗し、聖書のゴート語訳をつくってゴート族に宣教した。そこからアリウス派は言葉の似ている他の東ゲルマン諸部族につぎつぎとつたえられていった。

ウルボロス(187)
 ここに自らの尾を噛むドラゴンがいる。アンドロギュノスのように自ら生殖して自らを 食べて自らを殺す。永遠の循環。無限のオートエロテイシズムである。

ウルライカ(61) UrLaica。
 原形ライカ。1913年オスカー・バルナックによって2台作られた。

美わしきバスク(307)
 サンチャゴ巡礼、カミノ・デ・フランスの北ルート、ピレネーをロンスボー(ロンセルバイェス)で越えて、最初の村がブルゲテ村だ。「美わしきバスク」 牛の首の鈴が小川の流れる音がやさしい。その小川で釣り糸を垂れたのはヘミングウェイの「日はまた昇る」の主人公と友達だ。がっしりした石積みと白壁の町並。これほどきれいな村を私は他に知らない。ピレネーを下る一本の道はパンプローナに入る。

運河マニア(499)
 イギリスにとっても、運河建設の魅力はやがて執着へと変わっていった。国を巻きこんでのブームは「運河マニア」と呼ばれたが、その発端となったのがこの風変わりな男だった。1759年、ブリッジウォーター公爵は全長約70キロの人工水路を完成させた。閉門を備えたこの運河によって、ランカシャーに所有していたワーズリー鉱山の石炭を直接マンチェスターまで運ぶことができ、さらに水路はマージー川までつながっていた。石炭価格の大半はイギリス各地への輸送費が占めていたので、運河を使うことで石炭の価格を半分まで下げることができた。
 ジョサイア・ウエッジウッドは、壊れやすい陶器が穴ぼこだらけの道路を運ぶあいだに粉々に割れたという報告を受けずにすむようになった。…最初から運河の最大の荷は石炭になるだろうと見越していたブリッジウォーター公爵は先見の明があった。石炭を山積みにした艀を一頭の馬で引いていくだけで、泥道を四輪馬車で運んだときの8O倍も運ぶことができた。一頭の馬の背に積んだ場合との比較ではなんと4OO倍にもなった。イングランドの炭鉱所有者のあいだで、あっというまに運河熱が広まった。
(注)偶然にも、公爵の親戚にあたる第八代ブリッジウォーター伯爵もこの物語に関連するが、それはまったく異なる形だった。聖職者の彼は、人類が神によって創造されたという考えの熱烈な支持者だった。1829年、彼はそのことを証明する論文のために賞金を出した。スミスと同世代ないし後継の地質学者たちは、そのコンテストに参加した。


ウンター・デン・リンデン(180)  
 菩提樹の下の意。ブランデンブルグ門から続く菩提樹の並木道。別にウンターリンデン 美術館があって、グリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画が見られる。この分かりに くさがウンターリンデン美術館はベルリンにあるという誤解を長く私に与えた。美術館は コルマールにあった。  

運動と感覚のホムンクルス(38)
 1950年にカナダのペンフィールドが人間の脳への電気刺激実験によって、大脳皮質の各 部位が運動や感覚にどう関わるかを示した図。

運動の否定(381)中村元
 運動の否定の論理(ナーガールジュナ「中論」第2章)は「中論」の論法の基礎とみなされるべきものである。……まずこの第2章の第1詩をみると、 「まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。さらに(すでに去ったもの)と(未だ去らないもの)とを離れた(現在去りつつあるもの)も去らない」とあるが、厳密にいえば、「己に去られた(時間のみち)(世路) は去られない。未だ去られない(時間のみち)も去られない。現在去られつつある(時間のみち)も去られない」という意味である。
●すなわち「行く作用の止ったもの」であるから作用を離れたものに作用のあるはずはない。したがって、すでに去られたものが、さらに去られるということはありえない。
●また(未去)も去らない。(未去)とは行く作用の未だ生ぜざるものであり、去るという作用をもっていないからである。
●さらに「(現在去りつつあるもの)去時)が去る」ということもありえない。何となれば(現在去りつつあるもの)(去時)は己去と未去とを離れてはありえないものであり、普通に人々は(現在去りつつあるもの)(去時)なるものが存在すると思っているが、〈現在去りつつあるもの)を追求すれば己去か未去かいずれかに含められてしまう。


運命の聖槍(323)
 ヒトラーはウイーンに入ると、旧王宮の宝物館を訪れ、ハプスブルグ家に伝わる「運命の聖槍」を持ち出し、ひそかにニュールンベルグに運び込んだ。これは、ゴルゴダの丘でローマ兵がキリストの胸を刺し貫いた聖なる槍の穂先で、この槍を手中におさめた者は、世界の運命をにぎるという伝説がある。西暦800年のカール大帝の西ローマ皇帝即位からヒトラーまで45人の皇帝や権力者がこの運命の槍をにぎったが、ワグナー最後のオペラ「パルジファル」でも、この槍は超能力を発揮する。ヒトラーは青年時代、ウイーンで浮浪者だったとき、この神秘の槍の穂先の前に立ちつくし、いつまでも見入っていた。




【語彙の森】