安井仲治が撮った「命のビザ」のユダヤ人                2001-1-8 


■安井仲治(1903−1942:享年38歳)は、戦前戦後を通じて最高のアマチュア写真家として、近年その評価が高い。しかし私の愛読する平凡社版の世界写真全集・別巻(昭和34年)にその写真が採録されている日本人写真家の中で収録枚数の最も多いのは木村井兵衛の5枚を越える安井の8枚だから、決して忘れられた写真家ではなかったのです。
その代表作は下の「窓」です。西欧からもたらされる新しい写真表現を巧みに自分のものにし、当時の生ぬるいサロン的写真に対して、強烈なイメージの実験者として走りぬけた。

■今日、彼の写真集(岩波書店:日本の写真家 9)を眺めていて、大変なことに気付いた。大変なことでもないかもしれないが、大事なことであるとは思う。それは、上の「窓」を含む「流氓ユダヤ」シリーズに写された人たちは、あの「命のビザ」の杉原千畝が書いたビザで、アメリカ方面に亡命する途中で日本に滞在したユダヤ人ではないかと思われるということ。杉原は本国の訓令を無視して6000人以上のユダヤ人のために不眠不休でビザを書き続けたことで日本のシンドラーと呼ばれる。これが事実であれば、これらの写真は安井の写真であるという以上に、一級の歴史資料ということになる。

■写真集の解説によれば、「1941年、安井は丹平写真倶楽部の……とともに、ポーランドを脱出してアメリカに向かう途中に神戸に居留していたユダヤ人たちを撮影し、同年5月の丹平写真倶楽部展に共同制作として発表した。」とある。年譜によれば撮影したのは3月16日で、場所は神戸山本通り2丁目のユダヤ人協会である。

■一方、「下山二郎:ホロコースト前夜の脱出(国書刊行会)」によれば、リトアニアのカナウスで杉原がビザを書いていたのは1940年7月31日からリトアニアがソ連に併合されようとしている9月1日の約1ケ月である。そして「1941年の早春、リトアニアから脱出したユダヤ人の集団が、ぞくぞくと敦賀に到着した。そのたびに…神戸のユダヤ人たちは、敦賀港まで出向き、憔悴した難民を出迎え、神戸へ案内したのだった。」とある。よって安井の撮影時期とは矛盾がない。この当時、日本を経由してアメリカに渡る亡命ルートは限定されているから、私の推論もあながち的外れではない。

■以上のような視点で安井の作品を眺めると、上の平凡なスナップと思われる写真が逆に非常に生彩を帯びたものとなる。そしてこの年、日本は太平洋戦争に突入し、また安井自身は翌年病死することになる。




【カメラの触感】