人とカメラと写真の歴史 |
年代 | 歴史的事項 | 技術者 | カメラとレンズ | 写真家 | |
海 外 | 国 内 | ||||
1954 | 4月3日フォトキナでウイリー・シュタインが設計したライカM3登場。 トライX発売。 ビオゴン21mm,f:4.5画角90°が発表。 5月25日キャパはドアイタンでベトミンの地雷を踏んだ。左手にはコンタックスが握られて、首にかけていたニコンは爆風で飛ばされていた。 茶屋薫重のメタル・フォーカルプレン・シャッターが特許権を確立。 |
ウイリー・シュタイン(Willi Stein) 茶屋薫重 |
ライカM3 | ニコンS2 | |
1955 昭和30 |
ミランダT | ||||
1956 | 6月15日エルンス・ライツ二世死去。 カール・ツァイスがフォクトレンダーを買収。 スタイケンが選んだ写真による「ファミリー・オブ・マン」展覧会が開催。 |
ライカMP | 奈良原一高 「人間の土地」 |
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1957 | アサヒカメラの「ニューフェイス診断室」がスタート。ドクター貫井提吉、浮田裕吉、小穴純、木村伊兵衛の顔ぶれ。 Adam Wagner, the true disciple of Barnack; Stein was a bit of a maverick. But Leitz accepted Stein's M3 over Wagner's IIIg as the wave of the future, and, when his Leica H was not produced, Wagner left Leica in 1966. |
アダム・ワグナー (Adam Wagner) |
ライカVg | ニコンSP | 浜谷浩 「裏日本」 |
1958 | ライカM2 | キャノンYL ズノー |
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1959 | 奈良原、東松らによる写真家集団[VIVO]が発足。 レオタックス社の倒産後、債権者によってライカM3にせまろうという「レオタックスG」が発売された。 |
更田正彦 | ライカM1 | ニコンF キャノンP レオタックスG |
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1960 | 土門拳「筑豊の子供たち」100円で出版、10万部を売る。 | ローライマジック | オリンパスペン | 東松照明「家」 | |
1961 | キャノン7 | ||||
1962 | 日本のカメラ生産台数が312万台となり、西ドイツ(258万台)を追い抜いた。 | コンタフレックススーパーB | |||
1963 | 1956年早稲田の理工を卒業したばかりの米谷美久がペンについでペンFを開発。 | 米谷美久 | オリンパスペンF トプコンREスーパ キャノンデミ |
土門拳 「古寺巡礼」第1集 |
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1964 | |||||
1965昭和40 | 川田喜久治 「地図」 |
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1966 | 福島辰男の指導する全日本学生写真連盟がキャンペーン「状況」を出版。 | ホロゴンウルトラワイド ローライ35 |
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1967 | ライカM4 | ||||
1968 | カメラ毎日6月号が「現代の写真」特集で、若い写真家たちに共通する日常へのまなざしを「コンポラ写真」として提示。70年代の写真表現を決定付けた。 高梨、多木、中平らによって「PROVOKE」が発足。 |
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1969 | |||||
1970 | 中平卓馬 「来るべき言葉のために」 |
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1971 | ライカM5 | ニコンF2 | 午腸茂男「日々」 荒木経惟「センチメンタルな旅」 |
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1972 | ライツとミノルタが技術提携。 | オリンパスOM1 | |||
1973 | ツァイスとヤシカが業務提携 | ライツミノルタCL | |||
1974 | 木村伊兵衛死去。 | コンタックスRTS | |||
1975 昭和50 |
内田康雄 | ピッカリコニカ | 須田一政 「風姿花伝」 |
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1976 | 第1回木村伊兵衛賞に北井一夫が受賞。 アサカメ3月号で中平卓馬が「ブレボケは様式ではなかった」と断言。 |
ライカR3 | 北井一夫「村へ」 | ||
1977 | 季刊「カメラレビュー」創刊。写真の時代からカメラの時代への変曲点となる。 | ライカM4−2 | ジャスピンコニカ | ||
1978 | |||||
1979 | 前『カメラ毎日』編集長山岸章二死去。 | 山岸章二 | |||
1980 | ライカM4−P | ニコンF3 | |||
1981 | ソニーが磁気記録方式による電子スチルビデオカメラ「マビカ(試作機)」を発表。 | ||||
1982 | |||||
1983 | ヤシカが京セラに吸収合併され、コンタックス・ブランドが生き残る。 谷口吉生設計の土門拳記念館が生地酒田に開館。 |
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1984 | ライカM6 | コンタックスT | |||
1985 昭和60 |
5月号で「カメラ毎日」休刊。 | ミノルタα7000 | |||
1986 | キヤノンから電子スチルビデオカメラ「RC-701」が世界で初めて市販。 | ||||
1987 | ハネウェルがAF特許でミノルタを提訴。 | ||||
1988 | 初の常設写真部門を持つ川崎市民ミュージアムが開館。 | ニコンF4 | |||
1989 | |||||
1990 | 10月、心不全で土門拳(80才)死去。 | コンタックスT2 | |||
1991 | |||||
1992 | ミノルタ165億円をハネウェルに支払い特許和解。 | 柴田敏男 「日本典型」(17回木村伊兵衛賞」 |
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1993 | |||||
1994 | 尾辻克彦「ライカ同盟」出版。このころからカメラが病気になった。 | コンタックスG1 | |||
1995 | |||||
1996 | ニコンF5 コンタックスG2 コンタックスAX |
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1997 | |||||
1998 平成 10 |
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1999 | 安原に触発され、各社がレンジファインダー・カメラやレンズを販売し始める。 フォクトレンダー・ブランドが復活。 |
安原伸 | 安原一式 ベッサL |
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2000 | デジタルカメラの生産額が銀塩式カメラの生産額を逆転。 Dr.オグラ(小倉磐夫)69才で死去。 |
小倉磐夫 | |||
2001 | 2000年木村伊兵衛賞に、3人の女性が同時受賞という事件発生。 | ベッサT | |||
2002 | ライカM7 |
■■年表1:創世記(〜1910)■■ |
■■年表2:バルナックのカメラから(1911〜1953)■■ |