ニコンFの開発設計者はどんな人?                       2001-5-5 


■日本カメラのオンライン連載 ( http://www.nippon-camera.com/rensai/rensai_3.html )でニコンFの設計に携わっていた人の話しが出てくる。月刊日本カメラ92年1月号での「名機を訪ねて」<戦後国産カメラ秘話>連載−1(那和秀峻)の再掲載である。以下は、このインターネット情報を全面的に引用させていただいている。

以下、引用ですが、……でかなり省略しています。詳細は日本カメラを参照願います。

最高級のカメラをめざして
「一眼レフでも最高級になり得る、と信じていました」と語るのは、更田正彦氏(元日本光学工業副社長)。当時、更田氏はカメラを開発する第一設計部の課長だった。「一眼レフでも…」という意味は、それまで一眼レフは距離計連動(レンジファインダー)カメラの補完物でしかない、と思われてきたからだ。……
 ところが、徐々に一眼レフへの要望が高まっていった。報道関係を中心に、135ミリでは足りない、また明るいレンズが欲しいという声が増えていった、と更田氏は当時を振り返る。そこで、SPを始める頃から、一眼レフの話が出るようになった、という。そこで、S2と同じシャッターシステムの一眼レフ、ということで、設計課の数人で検討をした。しかし、優先順位としては、ニコンSPだった。……

フルスペックの一眼レフへ
……日本光学技術陣の意気込みはすさまじく、「一眼レフの決定版」を作るという熱気に燃えていた。このため、制約はほとんどなく、スペック(製品仕様)はフリーだったという。ただ、SPのシャッターを基本にする、という点だけは上層部からの命令があったそうだ。……レンズはもちろん全部新しく設計されたが、独創的なアイディアが盛り込まれた。それまでのレンズはヘリコイドの前に絞りがある構成だったが、ヘリコイドネジを前に出し、絞りを後に持って行くことにした。これは、「なんとか、露出計を連動させてやろうと考えた」(更田氏)からだ。その連動の方法を考えているうちに、ある設計者から、ツメをつけたらどうかというアイディアが出てきたそうだ。このツメの回転運動を直線運動に変換して、ネームプレートの下に取り付けた露出計に連動するようになっていた。

デザイナーとの初の共同設計
ニコンFの誕生には、日本光学技術陣のほかに、社外にもうひとり有力なアドバイザーがいた。1991年に文化功労賞を受けた亀倉雄策氏である。当時、亀倉氏はニコンFのデザイン設計に大きく関わっていた。
……そして、ニコンFのボディデザインには最初から参加した。「工場の隅に部屋を作ってもらい、こっそり行くと、更田さんが試作品を持ってくる」という方式だったという。更田氏の記憶によると、1カ月に2回ぐらい、上の造作や全体の形を、絵や模型を見せて直してもらったそうだ。直線でまとめたら、というのも亀倉氏のアドバイスだという。亀倉氏は「あの頃のカメラはライカの真似ばかりで、だから直線にした」という。三角の鋭角的なペンタカバーも亀倉氏の発案によるもの。


■上の写真が第一設計部の課長としてニコンFの開発を指揮した更田正彦氏で、後に副社長となる。上の文章からは、更田さんが、管理者としてではなく、設計者として開発に関わったと読めることから、同氏をニコンFの設計者と呼んでよいのではないだろうか。もちろん、実際の設計には多くの人が関わっているが、だからといって、同氏の名前を忘れていいということではない。バルナックや、キュッペンベンターに比較して、Fの更田正彦や、M3のウイリー・シュタインなどの名前があまり語られないのは残念である。
 ところで日本カメラの92年の連載には他のカメラの開発当時の話題もありそうで、いずれ図書館で読んでみたい。




【カメラの触感】