山岸章二の写真を見たい                                                                        2001-11-18 


1978年7月20日、前年「カメラ毎日編集長を辞めフリーとなった山岸章二が死んだ。青山の事務所で自死したのだ。その通夜のことだ。山岸の死は、表面上、自死ではなく心不全として公表した。これに対して、夜間、写真家の濱谷浩が電話で抗議の意を表明してきた。日本で初めて写真関係者が自死したのではないか、そのことの意味を考えることが大事であり、自死を発表すべきだ、という要旨だった。いわんとすることは、写真というものも、命を賭してたずさわっている人間がちゃんといるのだ、という「写真というジャンルの重み」と真剣度を考え直せる機会であるのに、なぜ隠すのか、ということだった、と記憶する。

■上の文章は「なぜ未だプロヴォークか:西井一夫,青弓社,(1996)」のP.13から引用した。高校生の頃から、アサヒカメラとカメラ毎日の両方を見ていたが、1960年代前半の編集方針は似たりよったりで、どちらかと言えば、商業的に成功しているアサヒカメラをカメラ毎日が追っかけていた感じである。それが1970年前後から、カメラ毎日は、積極的に若手の作品を掲載し始めた。
1968年6月号は「現代の写真」特集で、若い写真家たちに共通する日常へのまなざしを「コンポラ写真」として提示し、70年代の写真表現を決定付けた。その年、高梨、多木、中平らによって「PROVOKE」が発足している。このような旧来の(ようするにアサヒカメラ的な)写真に対する挑戦的な編集を行ったのが、山岸章二であった。

■その頃の大学の写真部では、アサカメ派とカメ毎派の権力闘争(それほど大袈裟ではないが)があって、結局はアサカメ的正統写真派の上級生と、技術的には未熟だけれど、時代をどう見て生きるかの方が大事だという下級生との対立であった。全日本写真連盟もその方向を大きく変えていった。結局は1970年の安保闘争という政治状況を強く反映していただけのことだった。

■山岸の写真を見る目、写真家を見出す目は業界でも高く評価されていた。しかし、写真より文章の方が過激になっていき、写真はどんどんブレ・ボケ・ザラザラになっていく。写真が1枚では表現できず、何枚かの羅列によって、執拗なほのめかしが何かに見えてくるのだが、このような写真は、アマチュア写真愛好家が1枚でマネしようもないもので、読者が減っていく。広告のページも減っていく。

■その後、1980年頃になって、写真は社会に対する影響力をまったく失っていくのだが、アサヒカメラは、その読者を写真よりカメラの方に目を向けさせることに成功して、現在まで生き長らえている。一方、カメラ毎日は、山岸の死後、再びアサヒカメラを追随したが、結局1985年5月号で廃刊されてしまう。

■考えてみれば、写真雑誌が、「アサヒカメラ」、「カメラ毎日」で、カメラ技術誌が「写真工業」というのも変だった。今まさに、アサヒカメラはカメラ雑誌になった。カメラ毎日が、1980年以降、写真雑誌であり続けることができれば、今もっと多くの新しい写真と写真家を知ることができたはずだ。これと山岸の死亡理由との関係はわからない。もし、彼の写真を見ることができたら、何か言えるかもしれない。



【カメラの触感】