| 年表 ヴェルディ 対 ワグナー |
| ■ヴェルディは有名になってからも、自分の家族や過去や個人的な生活をほとんど語らなかった。のちに「国民的作曲家」として有名になると次々に伝記が書かれたが、ヴェルディの人格はすでに偉人化されていたため。幼年期のわずかなエピソードは美化され、その多くは信憑性が疑われる。 | ■ |

【ヴェルディがリコルディに宛てた手紙】
悲しい、悲しい、悲しいことです!ワーグナーが亡くなりました
昨日手紙でそのことを読んで、何と言うか、ぞっとしました。議論は不要です。ひとりの偉人が亡くなったのです!
彼は芸術の歴史に非常に強力な刻印を残した人でした
<引用>小畑恒夫:ヴェルディ,音楽の友社
| 西暦 | 年齢 | ヴェルディ | ワグナー |
| 1813 | 0 | 10月10日、酒場をかねた宿屋を経営していた父カルロ・ヴェルディ、母ルイージャ・ウッティーニの長男としてタロ県ブッセート郊外のレ・ロンコーレに生まれる。 | 5月22日、演劇好きのライプチヒ警察署書記カール・フリードリヒ・ワグナーとヨハンナ・ロジーネの9番目の子として誕生。 11月23日、父フリードリヒはチフスのため43歳で死去。 |
| 1814 | 1 | 5月4日、バレッツィ夫妻の長女マルゲリータ(将来の妻)生まれる。 | 母ヨハンナは年下の舞台俳優ルートヴィヒ・ガイヤーと再婚。リヒャルトの父親もガイヤーではないか、そのガイヤーはユダヤ人ではなかったかとする憶測もあり、これを後にニーチェが公表する。 |
| 1815 | 2 | ||
| 1816 | 3 | 妹ジュゼッパ生まれる。知恵遅れで、17歳で夭折する。 | |
| 1817 | 4 | ||
| 1818 | 5 | ||
| 1819 | 6 | ||
| 1820 | 7 | ||
| 1821 | 8 | 村のサン・ミケーレ教会で、高齢のオルガニスト・バイストロッキに代わってミサのオルガンを弾いた。 | 9月30日、義父ガイヤー、42歳で死去。ガイヤーの弟カールの縁で、ルターの故郷アイスレーベンの私立学校に入学。 ウェーバーの「魔弾の射手」がベルリンで初演。 |
| 1822 | 9 | 今度はライプツィヒのワグナー方の叔父アドルフの元に送られ、さらに母のいるドレスデンに戻され、クロイツ教会付属学校に編入。 | |
| 1823 | 10 | バイストロッキの死去によりオルガニストに任命。この仕事による年収は100リラほどになった。このころのブッセートは人口2000人ほどで、ナポレオンの2人目の妻マリア・ルイージャに与えられたパルマ公国の属していた。 | |
| 1824 | 11 | ||
| 1825 | 12 | ブッセートの富裕商人アントーニオ・バレッツィはジュゼッペの音楽的才能を愛し、これを支援、市立音楽学校教師プロヴェージのレッスンを受けさせる。生涯の支援者で、義父になる。 | 家庭教師がピアノの手ほどきをしたが、訓練を嫌い、同様に絵画の訓練も受付けなかった。 |
| 1826 | 13 | ||
| 1827 | 14 | 母とともにライプチヒに転居。 | |
| 1828 | 15 | シェークスピアの影響を受けた、2年がかりの大悲劇「ロイバルト」を完成,、姉たちに嘲笑される。現在のシヨット版ワグナー全集の「作品番号1」である。 | |
| 1829 | 16 | このころからピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲などを作曲する。 | |
| 1830 | 17 | バッハがカントルを勤めていた聖トマス教会付属学校に入学。当時まだ真価を知られていなかったベートーヴェンの「第9」に熱中し、全曲のピアノ編曲版を作曲。 | |
| 1831 | 18 | バレッツィの支援によってモンテ・ディ・ピエタ(抵当銀行)のミラノ行き奨学金(年額300リラ)を申請。 | 2月、ライプツィッヒ大学に入学、音楽美学を専攻するが、学生組合「ザクソニア」の一員として放埓な生活を始める。聖トマス教会のカントルであるヴァインリヒから和声学と対位法を学ぶ。 |
| 1832 | 19 | 6月22日、ミラノ音楽院に願書を提出。ピアノと作曲の実技試験を受け、不合格となる。ブッセートの天才はミラノでは凡人にすぎなかった。ミラノに留まり、やむなくラヴィーニャの個人レッスンを受ける。 | ウイーンからプラハに、完成したばかりの「交響曲」をもって旅行。プラハの学生オーケストラによって初演。 プラハ訪問の目的であったパハタ姉妹に失恋し、オペラ「婚礼」の台本を書き始めるが、途中で破棄。 |
| 1833 | 20 | 7月26日、師プロヴェーシが死去。その後任にヴェルディを押す一派と反対派との長い抗争が始まる。ミラノのアマチュア合唱団の偶然の指導で頭角を現し、そのきっかけとなった劇場支配人マッシーニの知己を得る。 | 1月、ゲヴァントハウスで「交響曲」が演奏されたとき。同じ演奏会の独奏者としてクララ・ヴィークが出演していた。ヴュルツブルグ市立劇場の俳優兼演出家であった兄アルベルトの紹介で、同劇場の合唱指揮者の職を得る。夏にオペラ第2作「妖精」の作曲に取り組む。 |
| 1834 | 21 | 姉ロザーリエは当時、ライプツィッヒ歌劇場の花形女優となっており、「妖精」の上演を働きかけるが実現せず。ソプラノ歌手シュレーダー=ドブリアンを聴き感動する。6月にラウベが発行する機関紙「優雅な世界」に匿名論文「ドイツのオペラ」を発表。7月マグデブルグのベートマン劇団の指揮者の職を得て、女優ミンナ・プラーナーと知り合う。 | |
| 1835 | 22 | 7月、ラヴィーニャの証明書をもって3年の個人レッスンを終える。師からは音楽の基礎と厳格な対位法を学ぶる | 2月3日ミンナと婚約。 |
| 1836 | 23 | 3月5日、ブッセート市の音楽教師に就任。年収657リラ。5月4日、新婦の誕生日にマルゲリータと結婚。 | ゲヴァントハウスの指揮者としてメンデルスゾーンが着任したので、「交響曲」の楽譜を送るが黙殺される。 3月29日、ベートマン劇団に強引に自作「恋愛禁制」を上演させるが、失敗に終わる。ミンナがケーニヒスベルグと契約したので、ワグナーもこれを追いかける。 11月24日ミンナと結婚。 |
| 1837 | 24 | 3月26日、長女ヴィルジーニア誕生。この頃オペラ「ロチェステル」のパルマでの上演をめざす。 | 5月ミンナの逐電を追って、ドレスデンに向かう。直後にリガの劇場から声がかかり、ミンナと妹アマーリエを伴う。 |
| 1838 | 25 | 7月11日、長男イリチオ誕生。8月12日、長女ヴィルジーニア夭折。 | 5月、「リエンツィ」の台本が完成し、作曲に着手する。 |
| 1839 | 26 | 2月6日、マルゲリータと長男イリチオを伴い、ミラノに旅立つ。10月12日、長男イリチオ夭折。11月17日、「サン・ボニファーチョ伯爵オベルト」がスカラ座で初演。(14回上演でまずまずの成功) ピアッツアが自作台本「ハミルトン卿」を「ロチェステル」に翻案し、さらにソレーラが手を加えて「オベルト」になったと考えられている。支配人メレッリ、プリマドンナ、ストレッポーニがオベルトを見出した。 | 7月9日、債権者を逃れて、ロシアを密出国し、ピラウ港からバルト海を経て北海の暴風の中を24日がかりの漂流でロンドンにたどり着く。ドーヴァーを渡り、ブーローニュ・シュル・メールに到着。たまたまマイヤベーアが逗留していることを知り、「リエンツィ」を見てもらい、推薦状を得る。9月17日パリ到着。 |
| 1840 | 27 | メレッリと3本のオペラを1本4000奥リラで契約。6月18日、マルゲリータ死去。9月5日、ブッファ「一日だけの王様」がスカラ座で初演。(1回上演でオベルトに差し替えする大失敗。ただしオベルトは17回上演の成功) | 日銭かせきの仕事と、知人をたよって借金生活。11月に「リエンツィ」完成するが、上演のチャンスは得られない。 |
| 1841 | 28 | 失意のなか、メレッリから渡されたソレーラの台本の「行け、我が思いよ、金色の翼に乗って」に天啓を受ける。 | 「さまよえるオランダ人」の台本アイデアだけが売れるという屈辱。翌年別の作曲家によって「幽霊船」として上演される。 |
| 1842 | 29 | 3月9日、「ナブコドノソール(ナブッコ)」がスカラ座でストレッポーニ主演で初演。(圧倒的な成功) ヴェネツィアのフェニーチェ劇場が関心を示す。有名になりミラノのマッフェイ夫妻のサロンに出入りする。ロッシーニに面会する。 | 春、パリでの成功を断念し、「リエンツィ」を採用すると言ってきたドレスデンに移る。10月20日、もともとパリ上演を目指してグランド・オペラ風な「リエンツィ」がティヒャチェクとドブリアンという最高の配役によりゼンパー・オパーで初演。初演の大成功によって、ザクセン宮廷劇場指揮者となる。 |
| 1843 | 30 | 2月11日、ソレーラ台本の「第一回十字軍のロンバルディア人」がスカラ座で初演。(27公演の成功) | 1月2日、ドレスデンで「さまよえるオランダ人」をワグナー自身の指揮で初演。大喝采を受けたが、暗鬱な音楽はは理解されなかった。次の作品「ヴェーヌスベルグ」に取り掛かるが、宮廷指揮者としての仕事に追われて進まなかった。 |
| 1844 | 31 | 3月9日、ユーゴー原作で、新人脚本家ピアーヴェによる「エルナーニ」がフェニーチェ劇場で初演成功。ヴェルディの名声は高まり、後に「苦役の年月」と自嘲する多忙な生活が始まる。4月に同郷のムッツィオを弟子に取る。5月8日、故郷ロンコーレに農地を購入。 11月3日、「二人のフォスカリ」がローマのアルジェンティーナ劇場で初演。地味な内容で成功とは言えないが、後年のヴェルディの特質である「父性重視」と「心理葛藤」が現れている。 |
少年期に崇拝していたウェーバーの遺骨が客死したロンドンから18年ぶりにドレスデンに戻った。ワグナーはいまやウェーバーと同じ宮廷指揮者であり、追悼の音楽を作った。 |
| 1845 | 32 | 12月からたった1ケ月で作曲した「ジョバンナ・ダルコ」が、2月15日、スカラ座で初演成功。この仕事の金銭問題でメレッリと亀裂が生じ、この後、オテロまでヴェルディの新作がスカラ座で上演されることはなかった。 8月12日、カンマラーノ脚本の「アルティラ」がナポリのサンマルコ劇場で初演。失敗にはならなかったが、各地の再演は失敗する。 |
10月19日「ヴェーヌスベルグ」を「タンホイザー」に改題して、兄アルベルトの娘ヨハンナ・ワグナーをエリザベート、ドブリアンをヴェーヌスという配役で、ドレスデン宮廷劇場で初演。シューマンは「天才の片鱗」を見、まだ学生だったハンスリックは感銘を受けたが、一般的な喝采は得られなかった。メンデルスゾーンも明確な反対者であった。 |
| 1846 | 33 | 3月17日、病気の衰弱のなか作曲されたソラーレ脚本の「アッティラ」がフェニーチェ劇場で初演。エツィオの「お前は世界を取れ、だがイタリアは私に残せ」が熱狂をもって迎えられる。医師から6ケ月の休養を命ぜられる。ストレッポーニ引退。 | 4月5日、現在のドレスデン・シュターツカペレで当時真価を知られていなかったベートーベンの第九を演奏。観衆の中に、16歳のハンス・フォン・ビューローがいた。 「ローエングリン」に着手する。 |
| 1847 | 34 | 3月14日、二重唱を150回練習させるほど熱を入れたピアーヴェ脚本の「マクベス」がフィレンツェのペルゴラ劇場で初演成功。愛国物からの脱皮した。 6月にロンドンに移り、苦心の末作曲したマッフェイ脚本の「群盗」を7月22日ハー・マジェスティ劇場で初演。2日指揮しただけで、ロンドンを去り、パリでストレッポーニと同棲を始め、2年もミラノに戻らなかった。 11月26日、「…ロンバルディア」訳案の「イエルサレム」をパリ・オペラ座で初演。レジヨン・ドヌール勲章を得る。 |
11月4日メンデルスゾーン死去。 |
| 1848 | 35 | パリ、2月革命、ウイーン、3月革命を受け、ヴェネツィアも共和制に移行、その影響で3月「ミラノの5日間」と呼ばれる革命が起きたが、短期に鎮圧される。参加した弟子ムッツィオも亡命。 4月5日ミラノに入ったヴェルディの気分は高揚していたが、自分の財産管理への関心は捨てていない。5月25日、ロンコーレの土地を売って、生涯の棲家となるサンタアガタに土地を買い、パリに戻った。嫌いなルッカとの契約による「海賊」を10月25日トリエステのグランデ劇場で初演。3回打ち切りの失敗。 |
1月、母ヨハンナ死去。パリ2月革命。4月「ローエンク゜リン」完成。6月、ドレスデンに「祖国協会」という革新団体ができ、これに参画、要注意人物とみなされるようになる。8月、ワイマール宮廷指揮者となったリストと親交を深める。11月「ジークフリートの死」の台本を書き上げる。 |
| 1849 | 36 | リコルディの斡旋で「レニャーノの戦い」を1月27日アルジェンティナ劇場で初演。この「イタリア万歳」で始まる愛国的オペラはガリバルディーらによる解放区ローマで成功を約束されていた。 9月、ストレッポーニを伴ってブッセートに現れる。 12月8日、カンマラーノ脚本の「ルイザ・ミラー」をサン・カルロ劇場で初演。20回公演となる。 |
5月3日ドレスデンで市民蜂起、ワグナーも参加するが、プロイセンからの援軍で鎮圧され、逃亡。ワイマールのリストをたより、リストが調達した偽パスポートを持って、チューリッヒに逃げる。これ以降、官憲からの御尋ね者となる。6月にパリで「ローエングリン」の上演を目指すが成果なく、チューリッヒに戻る。9月にミンナも合流。11月に論文「未来の芸術作品」を発表。 |
| 1850 | 37 | ピアーヴェは同時に2本の脚本を書かなければならなかった。リコルディとの契約には「スティッフェーリオ」を当て、11月16日トリエステのグランデ劇場で初演。牧師の妻の不倫というテーマは理解されなかった。しかしフェニーチェ劇場分のユーゴー原作の「王は楽しむ」は、検閲を通らず難産となる。 | 個人的な怨恨が含まれるメンデルスゾーンやマイヤーベアを槍玉に挙げた論文「音楽におけるユダヤ性」を発表、ワグナーの反ユダヤ性として現在まで批判されることとなる。 ゲーテの誕生日、8月28日、ワイマールでリスト指揮の「ローエングリン」を初演。否定的な批評が多かった。 |
| 1851 | 38 | 国王の放蕩とせむしの道化の復讐というテーマは、検閲を経て、「呪い」「ヴァンドーム公爵」とタイトルを変え、最終的に「リゴレット」として3月11日、フェニーチェ劇場で初演成功。人気オペラとなる。直後にストレッポーニとサンタアガタに移り住む。ヴェルディと父の不仲を悩みながら、6月母ルイージャ、63歳で死す。 | 「歌劇」との決別を宣言、「祝祭劇」を構想。 |
| 1852 | 39 | 7月17日「トロヴァトーレ」の台本を完成することなく、カンマラーノが死去。フェニーチェ座との約束のオペラをパリで評判となったデュマ・フィスの「椿を持つ女」とする。 | |
| 1853 | 40 | 1月19日、「トロヴァトーレ」をアポロ劇場で初演。エルナーニ以来の大成功で、その後3年で世界で229回公演された。 3月6日、「トラヴィアータ」をフェニーチェ劇場で初演。中年で肥満したプリマドンナ、ドナテッリに似合わないテーマ。初演は失敗に終わる。収入の安定を得、サンタアガタの農園経営も順調。 パリ、オペラ座との契約のグランド・オペラ作曲のため、11月にパリに移る。 |
2月、「指輪」四部作の台本を自費出版。5月、チューリッヒでオール・ワグナー・プログラムの演奏会を開催、若きマチィルデ・ヴェーゼンドンク夫人が感動して、近づく。 ヴェーゼンドンクからの支援でイタリアに旅し、ラ・スペツィアで体調を崩し、嘔吐、下痢のなかで「ラインの黄金」の水のざわめきの分散和音の霊感を得る。 |
| 1854 | 41 | 5月6日、「トラヴィアータ」は若く華奢なスペーツィアの迫真の歌唱を得て、サン・ヴェネデット劇場での第二の初演は大成功となる。 | 5月20日「ラインの黄金」の作曲完了。ショーペンハウアーを読み、その厭世哲学に影響を受ける。 |
| 1855 | 42 | 6月13日、難産だった「シチーリアの晩鐘」はパリ・オペラ座で初演。40回公演の成功となる。 | |
| 1856 | 43 | 3月「ワルキューレ」の作曲完了。10月22日、リスト45歳の誕生日パーティーの余興で「ワルキューレ」第1幕を演奏。リストがピアノを弾き、ワグナーが歌った。 | |
| 1857 | 44 | 3月12日、「シモン・ボッカネグラ」をフェニーチェ劇場で初演。「おどろくべき作品です。ぞっとするほど感動的です。しかしこれを一回聴いて理解できるのはミラノかローマの聴衆だけでしょう」というムッツィオの予言通り、トラヴィアータ以上の失敗。このオペラが理解されるのは20世紀を待たなければならなかった。 | 1月、ヴェーゼンドンクのチューリッヒ「緑ヶ丘」の新しい邸宅の敷地にある古い家を借りる。マティルデとの「隠れ家」となる。12月23日マティルデの誕生日に彼女の詩になる「ヴェーゼンドンクの5つの歌」を贈る。 |
| 1858 | 45 | 「スティッフェーリオ」にこだわりを持っていたヴェルディは「アロルド」に改作し、8月16日、リミニの新市立劇場で初演し成功。 | マティルデとの関係が醜聞化し、チューリッヒを退去する。中立国を去って、ヴェネツィアに逗留し、当局の監視下にあった。 |
| 1859 | 46 | 2月17日、リゴレット以上の検閲によって舞台をボストンにした「仮面舞踏会」をアポロ劇場で初演。観客はVIVA・VERDIと叫んだと伝えられるが、これも伝説のたぐいか。 名宰相カヴールの内政・外交政策で力をつけたサルディーニャ王国が中心となって、オーストリアからの開放戦争が勃発。8月29日、サヴォイアの村落の小さな教会で、ストレッポーニと二人だけの結婚式を上げる。この頃から政治的活動をするようになる。 |
オーストリア軍が北イタリアに派遣する事態となり、ヴェネツィアを退去、戒厳令下のミラノに行く。スカラ座のイタリア・オペラに失望する。結局、安全なルツェルンに戻る。この地で「トリスタンとイゾルデ」を完成。 |
| 1860 | 47 | ガリバルディの「千人遠征隊」が南イタリアを次々に開放、ローマへの進軍を前にカヴールの政治力が勝り、ローマとヴェネツィアを覗くイタリア全土をピエモンテが吸収することになる。 | 1月から2月にパリで「トリスタン」の初演をめざして自作プログラムの演奏会を開催。ベルリオーズは「トリスタン前奏曲」を理解不能と評した。ナポレオン3世がオペラ座で「タンホイザー」上演を勅命。ザクセン王国遺骸のドイツ入国が許可される。 |
| 1861 | 48 | 2月、第一回イタリア国会はヴィトーリオ・エマヌエレ2世を国王とした。ヴェルディもカブールの要請で国会議員となる。 名テノール、タンベルリックの仲介でベテルブルグ宮廷劇場から作品の依頼を受ける。12月6日、ペテルブルグに到着。 |
3月13日、第2幕にバレーを挿入されたパリ版「タンホイザー」は、妨害派のジヨッキークラブによって、3日で中止となる失敗だっが、ボードレールなどのワグネリアンも増えてきた。 |
| 1862 | 49 | 2月、ソプラノの不調で公演を翌シーズンに延期、酷寒の列車旅行でパリに戻る。ロンドンの第2回万博のために「諸国民の賛歌」を作曲。再びベテルブルグを訪れ、11月10日「運命の力」を宮廷劇場で初演。グリンカのロシア民族路線を守ろうとするロシアの作曲家にも大きな衝撃を与える。 | ザクセン王国の追放令が大赦で解除され、13年の亡命生活に終止符。 |
| 1863 | 50 | マドリードを訪問、2月に「運命の力」を再演。改革派ファッチョの「フランドルの亡命者」を擁護したボイートが「売春宿の壁のように汚れたあの祭壇の上に、慎み深く純粋な芸術を築くことになる人物は、おそらくもう生まれたであろう」という詩に、ヴェルディは売春宿の壁にたとえられる。 | ビューローと結婚していたコジマと接近。 |
| 1864 | 51 | パリのエスキュディアの依頼によるフランス語版での「マクベス」の改定に取組む。 | ウイーンでの「トリスタン」の初演準備がすすんだが、初演を前にして債務が膨らみ、ウィーンを脱出。シュトゥットガルトのホテルに滞在中、「バイエルン王国、国王付き秘書官ブフッスターマイスター」がルートヴィッヒ二世の命で面会。ルートビィヒは2ケ月前に18才で即位したばかりであったワグナーは翌日、ミュンヘンで王に謁見。今後、法外な優遇と金銭的支援を得ることになる。 |
| 1865 | 52 | 4月21日改訂版「マクベス」をパリのリリック劇場で初演したが、1週間後に初演されたマイヤーベアの遺作「アフリカの女」の評判の陰に隠れてしまった。年末にエスキュディアと「ドン・カルロス」作曲を契約。 | コジマの三人目の子供は、ワグナーの子としてイゾルデと名付けられた。6月10日、バイエルン宮廷歌劇場で「トリスタンとイゾルデ」をビューローの指揮で初演。この前衛音楽に対する揶揄や妨害にも関わらず、ルートヴィッヒや観客は熱狂した。一方で、ワグナーに対する国庫負担に批判が集まり、年末に王は国外退去を命ずる。 |
| 1866 | 53 | 1月25日ドレスデンで妻ミンナが不幸な結婚生活の果て死去。3月ルツェルン郊外のトリープシェンに家を見つける。コジマと、助手ビューローと、奇妙な三角関係の同居が始まる。さらに10月には新しい助手としてハンス・リヒターが加わる。 | |
| 1867 | 54 | 1月14日父カルロ死去。3月11日、ヴェルディにとって最も巨大で複雑なオペラであった「ドンカルロス」をパリのオペラ座でナポレオン3世臨席で初演。43回公演となるが、真価は理解されなかった。父カルロの末弟マルコの娘フィロメーナを引き取る。 7月21日義父バレッツィ死去年末になってピアーヴェが卒中で倒れ、寝たきりとなる。 |
2月17日、コジマはワグナーにって次女となる子を産んだ。作曲中の「マイスタージンガー」にちなんでエーファと名付けられた。 6月21日バイエルン宮廷歌劇場で「ニュルンベルグのマイスタージンガー」をビューロー指揮、リヒター合唱指揮で初演。、オペラと決別したワグナーがあえて「オペラ」として作曲したこの喜劇は大喝采を博した。11月、故郷ライプツィヒに帰ったとき、ひとりの古典文献学専攻の学生ニーチェが訪ねてきた。 |
| 1868 | 55 | マッフェイ夫人の紹介によりミラノで詩人マンゾーニに面会。ジョヴァンナ・ダルコ以来断絶していたスカラ座とも関係修復。。8月15日ブッセートにヴェルディ劇場完成するが、名前をつけられるのは本位ではなかった。11月13日、ロッシーニ死去。 ワグナー派のボイートの「メフィストフェーレ」がスカラ座で初演され、惨憺たる失敗。 |
25歳になったニーチェはバーゼル大学教授に招聘され、近くのトリープシェンのワグナー邸に通う。6月6日コジマが男子を産み、ジークフリートと名付けたワグナーは、この日を生涯最高の日と呼んだ。 |
| 1869 | 56 | ロッシーニ追悼の13人のイタリア人音楽家によるレクイエムを提案するが、挫折する。親友マリアーニの婚約者である人気ソプラノ、テレーザ・ストルツと恋に落ちる。 スエズ運河の開通を記念して、エジプトの太守はカイロにオペラ劇場を建設、このこけら落としにリゴレットを上演。 |
9月22日、バイエルン宮廷歌劇場で「指輪」の完成前にも関わらず、待ちきれないルートヴイッヒの命で「ラインの黄金」を上演。 |
| 1870 | 57 | ドンカルロの4倍、15万フランで「アイーダ」を翌年1月にカイロで上演する契約を結ぶが、普仏戦争の影響で遅延。 | 6月26日、同様に「ワルキューレ」を上演。ワグナーはこれらを初演と認めなかったが、実はバイロイトの初演より完成度が高かったという証言がある。ベートーベン生誕100年に当たる年であり、「ベートーベン」という論文を上梓。 8月25日、ビューローと離婚したコジマと結婚。12月25日コジマ33歳の誕生日プレゼントとして、寝室下の階段で15人の楽師による「ジークフリート牧歌」を演奏。 |
| 1871 | 58 | 11月にヴェルディから転向したマリアーニ指揮の「ローエングリン」のイタリア初演画行われ、ヴェルディもこれを聴く。12月24日、「アイーダ」をカイロで初演。 | モルトケ率いるプロイセン軍はパリを陥落させ、5月に普仏戦争を講和。4月16日、コジマとバイロイトを訪問し、この落ち着いた風情の町に祝祭歌劇場を建設することを決意する。 |
| 1872 | 59 | 2月、ストルツのためにロマンツァ「おお我が祖国」を追加した「アイーダ」をスカラ座で上演、熱狂をもって迎えられる。熱気用 | ニーチェ「悲劇の誕生」を発表。4月23日、トリープシェンからバイロイトへ転居。ドイツ全国をめぐり、寄付を募るとともに、出演者をスカウト。結局費用の大部分は王の資金に頼った。 |
| 1873 | 60 | 5月22日マンゾーニ死去。この詩人の一周忌に「レクイエム」を演奏することを決意。 | 8月3日、客席数1925席の扇形平土間の祝祭劇場を上棟。9月、ブルックナーが訪問し、彼の第三番交響曲をワグナーに献呈。 |
| 1874 | 61 | 5月22日、ヴェルディ指揮、ストルツ、ヴァルトマン、カッポーニ、マイーニのソリストによる「レクイエム」をミラノのサン・マルコ教会で追悼演奏。 | 4月バイロイトの私邸「ヴァーンフリート館」(妄想と安らぎ)が完成。11月ついに「神々の黄昏」の総譜が完成。その最後に「もうなにも言わない」と書いた。 |
| 1875 | 62 | ||
| 1876 | 63 | 19歳になった養女マリーア(フィロメーナから改名)をブッセートの公証人の息子と結婚させる。 | 8月15日、バイロイト祝祭は「ニーベルングの指輪」(四部作)の初演をもって開幕した。ドイツ皇帝ヴィルヘルム一世以下が列席したが、ルートヴィヒは、まず総練習をすべて見て、初演そのものは見なかった。統一ドイツの一大イベントとして大成功となる。しかし、ワグナーは「私は見えないオーケストラを発明したが、今度は見えない舞台を作りたい」といって、常套的写実的な舞台に失望。しかし、その後、バイロイトでワグナー理想の舞台を自ら見ることはできなかった。またこの祝祭で重要な仕事を与えられなかったニーチェは、来賓に愛想を振りまくワグナーやその音楽に幻滅する。 |
| 1877 | 64 | 各地で指輪上演。しかし莫大な費用のために、バイロイトでの再演はできない。この頃から心臓発作に苦しみ、最後の作品と予感してか「パルツィアァル」を 構想。 | |
| 1878 | 65 | 1月8日、ヴィットーリオ・エマヌエレ2世死去。2月7日、法王ピウス9世死去。リソルジメントの時代は遠い、「みんな死んでいく」と嘆く。 | 1月、ニーチェは「パルツィファル」の台本を受け取るが、すでに反ワグナー感情は高まっており、その後「人間的なあまりに人間的な」でワグナー批判を開始する。 |
| 1879 | 66 | 若い頃、アンチ・ヴェルディの急先鋒だったボイートは、今はヴェルディの偉大さを理解する。そのボイートが「オテロ」の脚本を書く。リコルディとファッチョは、それをぜひヴェルディに作曲させたいと願った。 | 4月、ルートヴィヒ二世は、観客は王一人とした指輪の「隔離上演」を行う。 |
| 1880 | 67 | オテロが進まないので、リコルディはボイートとヴェルディの相互理解を深めるため、シモン・ボッカネグラの改定を両者で行うことを提案。 | 医師の勧めでイタリアを転々とする。10月、ヴェネツィアで「人種不平等論」のゴビノー伯爵と親しくなる。ワグナーの反ユダヤ人観念が、いろいろと問題を起こすようになる。 |
| 1881 | 68 | 3月24日改訂版「シモン・ボッカネグラ」をスカラ座で上演。 | |
| 1882 | 69 | 7月26日、第二回バイロイト祝祭は、「パルジファル」のみの演目で開幕。初演は大成功であった。このとき、ニーチェも、すかっり人間嫌いになっていたルートヴィヒ王も、ビューローもいなかった。 | |
| 1883 | 70 | 2月13日、ヴェネツィアに死す。(心臓発作) | |
| 1884 | 71 | 1月10日ファッチョ指揮で改訂版「シモン・ボッカネグラ」(四幕版)をスカラ座で上演。 | |
| 1885 | 72 | ||
| 1886 | 73 | ||
| 1887 | 74 | 2月5日アイーダから16年、構想から7年の「オテロ」をファッチョ指揮でスカラ座で初演。このときトスカニーニはチェロを弾いていた。それは奇跡のような成功であった。 | |
| 1888 | 75 | ||
| 1889 | 76 | ||
| 1890 | 77 | 11月27日唯一の弟子で指揮者として成功したムッツィオ死去。 | |
| 1891 | 78 | ||
| 1892 | 79 | ||
| 1893 | 80 | 2月9日ボイート台本の「ファルスタッフ」(失敗した「一日だけの王様」以来のブッファ)をスカラ座で初演。ファルスタッフの最後のせりふは「世の中はすべて冗談」であった。 | |
| 1894 | 81 | ||
| 1895 | 82 | ||
| 1896 | 83 | ||
| 1897 | 84 | 11月14日ストレッポーニ死去。ストレッポーニを嫉妬でくるしめたストルツも、60歳を越えている。この後、ヴェルディの死まで、ストルツはヴェルディを支えた。 | |
| 1898 | 85 | ||
| 1899 | 86 | 音楽家のための養老院「カサ・デ・リポーゾ」完成。 | |
| 1900 | 87 | ||
| 1901 | ヴェルディ危篤の報を受けて、スカラ座は1月25日から公演を中止した。ホテル・ミラーンの前の道路にはわらが敷かれ、馬車の騒音が老人の安眠を妨げないようにした。1月27日死去。 2月26日、記念墓地の前に並んだ800人のスカラ座のオーケストラと合唱団はトスカニーニの指揮で「行け、我が思いよ!」を演奏した。 |
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