二人のドンカルロ
(2006-3-26)


Titian.The Emperor Charles X at Muhlberg (detail) プラド美術館
「エルナーニ」に出てくるドンカルロのモデルであるカルロ5世
■昨日の夜、ムーティのLPでエルナーニを聴いた。ライナーノーツを読んで、モデルであるカルロ5世について知りたくなった。きっとプラド美術館にその肖像画があるに違いないと、プラドのガイドブックをめくった。見つけられなくてウエブを調べたら、テッツィアーノに肖像画があることが分かった。もう一度、ページを丹念にめくって、やっと見つけたのが上の肖像画である。最初に調べて見つけられなかったのは、タイトルに「CharlesX」とあったからだ。チャールズ5世と読んだので分からなかった。カルロとチャールズは何とはなく別人物だと思ってしまう。

■カルロというスペイン語表記は、英語ではチャールズ、ドイツ語ではカール、フランス語ではシャルルとなる。カール大帝がシャルルマーニュと同一人物であるのを以前知って無知を恥じたことがあったが、今度はカルロ・マーニョ帝とスペインでは呼ぶことを知った。我々、日本人の感覚は、カールと、シャルルと、カルロという名前からそれぞれ各国のステロタイプ的な性格を思い描いてしまう。カールというとドイツ軍服姿の頑健な人物、シャルルというと軟弱な宮廷人、カルロというと、ドンジョバンニのような自由人、そしてチャールズといったらダイアナを捨てたあの皇太子といった具合だ。
 そう感じるのは、我々のような外部の人間だけではないのか。ヨーロッパの人達はカルロも、シャルルもその違いを意識しないのではないか。イタリア、フランス、ドイツ、スペイン等の人々には、その各国の発音の違いよりも、ローマ・キリスト教文化共通の素地の方が濃密に蓄積されているのではないか。そうすると、カール、シャルル、カルロという語感に、特別な差異感なくオペラを鑑賞することができることになる。ヴェルディのオペラは、発表当時から、ヨーロッパ全域で受け入れられていった。ヴェルディのオペラが単にイタリア愛国的であったとすれば、各国の王族・貴族があれだけ競って、ヴェルディに作曲依頼をする訳がない。

■ワグナーとヴェルディの違いの一番大きな点は、ワグナーがゲルマン的なものへの強い観念的拘泥を示したのに対して、ヴェルディには自国に対する優越意識的表現が多くないことである。先週、新国立で見た「運命の力」ではスペインとイタリアが舞台で、スペイン貴族とインカの混血末裔が登場する、血族の誇りと絆、そしてそれからの自己解放のドラマだった。また「ナブッコ」とはナブコノゾールであり、新バビロニアのネブカドネザル2世(在位BC604−562)であった。だから「行け、金の翼にのって…」の合唱は、旧約聖書に描かれる「バビロンの捕囚」(BC586−538)の望郷の歌なのだった。ヴェルディのオペラの舞台は、このようにヨーロッパ各国だけでなく、メソポタミア、エジプト、アメリカ、インカにまで及ぶ。イタリアがオーストリアの版図に組み込まれ、これからの独立を目指すリソルジメントの時代を生きたヴェルディにとって、イタリア愛国的作品は、オーストリア官憲による検閲の存在によって、書きたくても書けなかったという面はある。だから、「行け、我が思いよ、金色の翼に乗って…」は、現在も国歌のようにイタリア人は歌っている。そのような「ナブッコ」であっても、すぐにウイーンやパリでも上演され成功しているのは、ナブッコにより普遍的な音楽を聴くことができたからである。

■ヴェルディの作品には二人のドンカルロが登場する。最初に登場するのは「エルナーニ」である。スペイン国王カルロス1世が1519年、選帝候会議で推挙されて神聖ローマ帝国皇帝「カルロ5世」(カール5世)になる。このとき王位を争ったのはフランスの「フランソワ1世」であった。 1479年アラゴンのフェルディナント2世とカスティリアのイザベラの結婚によって、スペインの国家統一がなったが、各国王族との複雑な婚姻関係によって、スペイン王「カルロス5世」自身は、実はスペイン人ではなくオーストリアのハプスブルグ家出身である。だから、このドンカルロにスペイン的なものを求めるのもおかしな話だ。ちなみに劇中のエルナーニはアラゴンのサラゴーサの貴族であるが、カルロに追われて山賊になっているという設定。

■ヴェルディの二人目のドン・カルロは、「ドンカルロス」の主人公の皇太子であり、カルロ5世の孫にあたる。フランス王アンリ2世とスペイン王フィリーペ2世は、彼らの子供を政略的に婚約させた。アンリの長女エリザベッタとフィリーペの息子カルロ皇太子はこうして子供時代に婚約した。当時フィリーペ2世はイギリスの「流血のメアリー」と結婚していたが、このメアリーが死ぬと対英関係維持のために「エリザベス1世」に結婚を申し込むが拒絶される。そこで、イギリスからフランスに乗り換え、息子の婚約者であるフランスのエリザベッタ15歳は1560年、32歳のスペイン王と結婚することになる。ちなみにその前年、アンリ2世は馬上槍試合で不慮の死に会うが、それをノストラダムスが予言していた。アンリ2世にはイタリアのメディチ家から嫁いだカトリーヌ・メディシスとの間には8人の子供があった。国王の死後、国王の母として陰謀の限りをつくした。ユグノーを抹殺しようとした聖バルテルミーの虐殺との関連も噂される。

■一方、ドンカルロスはフィリーペ2世の最初の結婚相手であるポルトガルのマリア(フィリーペの従妹)との子供であった。体躯は小さく、頭だけが大きく背が右に曲がり、足はびっこで、精神も劣弱であったとされる。フランスから来たエリザベッタは母カトリーヌから、エリザベッタの妹、マルグリットとカルロと結婚させるという密命を帯びていた。そのようなドンカルロ皇太子であっても、政略結婚の相手としては魅力があったからである。同じことを考えていたのが、カトリーヌのライバルであるギーズ公であった。アンリ2世の死後、長男のフランソワ2世が王位を継承したが、皇太子時代にスコットランド女王のメアリー・ステュアートと結婚していた。フランソア2世は夭折し、寡婦となったメアリーを、ギーズ公がドンカルロと結びつけ、英西連合によって、フランスのヴァロア王朝を包囲しようとした。結局、このどちらの策略も実現せず、カルロは過食によってか、あるいは父フィリーペがエリザベッタとの不貞を疑って毒殺したかによって23歳で死ぬ。相手のマルグリットは「淫婦マルゴ」とその名を残すほどに奔放な人生を送る。

■話題がそれるが、メアリー・ステュアートはヘンリー8世の最初の妻、スペインのフェルディナンド王の娘キャサリンとの間に生まれた。何度も懐妊したが王子をもうけることはできなかったキャサリンをヘンリー8世は離婚。フランス宮廷に出仕していたメアリーとアンという姉妹がヘンリー8世の宮廷に入り、妹のアン・ブーリンと1533年1月に結婚し、7月7日に女の子を産む。これが後のエリザベス1世。アンもまた、王子を産むことはできなかった。ヘンリー8世は、アンの不貞のうわさによって、1536年、アンを処刑する。その悲劇をモデルにしたのが、ドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」である。
 ともかく当時の王族・貴族は複雑な婚姻関係にあって、ややこしいだけでなく、文化的にも混交していたであろうことを書いたが、「ドンカルロス」や「エルナーニ」を鑑賞する上では、あまり役に立たなかった。


ヘンリー8世の6人の妻(2001年夏:ロンドンみやげのチョコレート)
左端が最初の妻キャサリン、隣が次の妻アン・ブーリン(アンナ ボレーナ)


【いまさらオペラ入門】