□幻想書館□


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□TRPG用語の無駄知識□

□第1講 <依代>

アルカード 「まさか、この少女が。」
テン 「そのまさかですね。おそらく、世界の均衡を守る者の<依代>です。」
アルフレッド 「だとすれば、この子はどうなる?!」
ジュウロウタ 「講釈は、あとだ。来るぞ!」

  などと言う会話が、TRPG中、よくある事と思います。この<寄代>という語は、民俗学の学術用語です。この語を提唱したのは折口信夫(1887〜1953)という学者です。民俗学者・折口信夫は1915年「髯籠の話」と言う論文を『郷土研究』と言う雑誌に発表しました。この論文において提出された概念が<寄代>です。
  神が降臨する為の目印それが<寄代>(よりしろ)で、人間の側から呼べば<招代>(おぎしろ)となります。そして、神が降臨する土地が<標山>(しめやま)です。
  もっとも、これ以前にも「神が寄りつくもの」を示す語は、古くから「霊代」(たましろ)の語があるし、柳田國男は「依坐」(よりまし)「神代」(かみしろ)の語を用いています。これらの語は定着せず、折口信夫の<寄代>の語が定着しました。折口信夫が詩人であり、歌人としても名が知られた人物であり造語が非常に上手かった、ということもあるでしょう。異界からの来訪者を意味する<まれびと>なども折口信夫の造語です。折口信夫の論文はネタの宝庫です。

 「髯籠の話」の要旨は「祭りの時に空高く立てた棒の先に付け髯籠が神を迎える手段である事を指摘した。そして、これを全国各地の祭りや行事と比較してゆきます。」
本文を挙げてみます。

  「元来空漠散漫たる一面を有する神霊を、一所に集注せしめるのであるから、適当な招代がなくては、神々の憑り給はぬはもとよりである。此理は、極々の下座の神でも同じ事で、賀茂保憲が幼時に式神が牛馬の偶像を得て依り来るを見たと言ふ話、さらに人間の精霊でも瓜・茄子の背に乗って、始めて一時の落ちつき場所を見い出すと言ふなども、同じ思想に外ならぬ。」

  としています。
  目に見えない神を依りかせるには、<招代>が必要です。この<招代>という概念は招く側から考えた語です。つまり、召喚者の側から見れば<招代>、招かれる神の側から見れば<寄代>なのです。<招代>の語はマイナーなので、たまに使うと新鮮でしょう。<招代>の正しい使い方は、「私はこの体を<招代>として神を降臨させるのだ!」となります。<依代>になると「神は私の体を<寄代>として降臨されるであろう!」となります。
  また、陰陽師が式神を召喚するのにメジャーな形代や呪符なども下等精霊が寄りつくための<寄代>となります。お盆の時に胡瓜や茄子でつくる牛や馬も寄代としています。
  こう考えると、ダンジョン内で石像が動き出すという現象は、この<寄代>理論と密接な関係があるのかも知れません。

 それでは、第一講はこのへんで。

□第2講義 <言霊>

アルカード 「テン。お前が唱える呪文とは、一体、なんなんだ?」
テン 「これは、エクセルム卿。たまには、難しい御質問を・・・。わかりやすくいうならば、文章に潜む力を発動させる事、とその一部は規定できるかと思う。我々の国では<言霊>と言う。」
アルフレッド 「難しい話は、抜きだ。理屈は知らないが、呪文は俺らの役に立つ、それで良い。考えるのは止め!」
ジュウロウタ 「お前はもう少し、物事を考えた方が良いのではないかな?ローザス卿。西方の魔女の一件もあるしな。」

  今日も何処かの酒場で、生真面目な「騎士」や「君主」あたりが、「魔術師」や「僧侶」「司教」あたりに突如としてこんな質問をしているでしょう。それを脳みそまで筋肉の「戦士」が止め、それを「盗賊」がからかう。こんな光景が繰り広げられていることでしょう。
 TRPGのルールブックの魔法の説明でたまに目にする<言霊>の語。これは、奈良時代まで遡れる古い大和言葉です。『万葉集』巻13-3254(日本の古典に出てくる歌には 、それぞれ番号が付けられています。これを国歌大観番号と言います。図書館で『万葉集』を開けば、歌の上に番号がついています。)に、「敷城島の日本の国は言霊の幸はふ国ぞま幸くありこそ」とあります。歌意は、「日本の国は言霊が幸をもたらす国です。私のこの言挙げによって御無事でおいで下さい」といったものです。ここには、言葉を口に出したならば、そこには「霊」の存在が内在しており、それが発動し、実体となる、という信仰が見て取れます。言葉や文章に霊魂が内在と考えるからこそ、<言霊>なのです。すなわち、口に出したから本当になる、のではなく、霊のこもった言葉や文章を口に出す事によって、その霊が発動するから本当になるのです。
  今回も登場・折口信夫は、「言霊信仰」という文章で、「ことだま」は、「言霊」と書かず、「文章精霊」「詞章精霊」と書いた方が誤解が少ないだろうとし、「それは(「言霊は、」引用者注)咒文に潜んでいる霊魂で、単語にあるものではなかったのである。後世の咒文を見ると、それが行なわれる場合には、嘗て持っていた全体の意味を含み、また、におわしている。即、詞は断片化していても、完全な意味を持つものと考えられた。<中略>これを唱えると、その詞章の表現している通りの結果が現れる。霊魂の存在をそこに考えるわけである。」としています。そして、結論的に四つの意味を考えています。

1)古来伝誦の古語・古詞の内には、不思議な威力が潜在してゐて、それの発揮する機会はそれを唱えると同時であること。
2)それは対者を屈服せしめる勢力の源となること。
3)咒術の媒介として、特殊の関連を持った詞章があると考えたこと。
4)卜占の威力も、この信仰によって行なわれるものとしたこと。

  の4つです。
  1)3)などが、TRPG世界の魔術理論にも当てはまりそうです。「治癒」の呪文には、それに対応する詞があって、それを唱えることで、その詞に潜む霊が発動して、「治癒」の効果があらわれる、という構造です。2)などは、名を呼ばれる事で、呪文にかかる、支配される、という話をよく聞きます。名は、その個人全体を現す呪術的な指標となるからでしょう。4)については、辻に立って、通り行く人びとの言葉から占を行なう、「辻占」の事を指すのでしょう。
  この理論でいけば、一般的に使われる「言霊」の意味との違いがすぐにわかると思います。一般的には語に宿り、発した言葉によって、それが現実となる「語」の威力と考えられていますが、折口信夫説では、どんな「語」でも良いのではなく、特定の神聖な言葉が連なって文章を造り、それが一定のリズムで唱えられた時、文章精霊が発動するのだ、としています。また、この文章が短くなって、一つの語で全体を示すようにもなってゆく。TRPG内で魔術師が戦闘中に使う呪文は、これでしょう。戦闘中、「雷撃」の呪文を唱えるとして、「天空をかける雷〜」から始まって「雷」のいわれ、来歴等を盛り込んだ呪文を朗々と詠唱されたら、それだけで戦闘が終了してしまいます。そこで、その重要な部分のみをもって全体を示すようになる。これを「らいふ=いんできす」(life-index)といいます。通常は「生命指標」と訳されます。本来の意味は、個人の状態等がその人の装身具等の破損によって左右されたり、する現象を指します。すなわち、その人の生命や状態を指し示す物体の事です。転じて、一部をもって全体を指す様なものをも、さすことがあります。?  話が変っていますね。
  話が別のファンタジー現象に遷る前に、第二講は、このへんで。

□第3講義 <聖(ひじり)>

ギャルポ「みなさん、美味しい穀物食べてますか?ギャルポです。」
アルフレッド「テン。また変なのが来たが、お前の知り合いか?」
アルカード「西方の人間では無さそうだ。」
テン「彼は、<聖>という職業のノームです。東方では、結構有名な職業なのですが・・・。各地を巡って自らを高め、人びとを救おうとしている人びとですね。」
ジュウロウタ「でも、彼は異色だぜ。類は友を呼ぶな。」

 厳しい修行の結果、超自然的な力(<魔法>と言う言葉でファンタジー世界では括られます。)を「験」と言います。それを修めたものと言う意味で「修験者」です。また、超自然的な力を身に付けた人間を「験者」とも呼びます。

 聖とは、各地を巡行して廻る東方の僧であり、独自の情報網と集団を形成しています。また、彼らは心霊術と法術の双方を行使しする魔法のスペシャリストでもあります。
 司教のように教会の任命制ではありませんが、先達と呼ばれる師について修行を重ねています。
 彼らは自己を高め、恵まれぬ人々を救うことを目的として活動しています。しかし、最近では権力と密着する聖の集団も出現しているようです。それでも、彼らの持つ知識と技術は各地の村々で感謝の念をもって迎えられることでしょう。

 との解説が、WIZ_OEにあります。では、実際にどのようないでたちをしているのか、春桜庵主人所蔵の「修験者」の画像で観たいと思います。詳しい説明は省きます。この写真は、2003年の春、奈良県の西大寺で撮影したものです。

 上の写真は、修験者の行列です。採灯護摩を行なう為、行列を組んでいます。

 彼らは定期的に集会を開き、今後の方針等について話し合います。<行者講>という名で呼ばれたりもします。この集会の決定事項は、会の約束ではなく、神前で行なう事により、神との契約とのなり、破る事は許されません。行者講の際に、始祖である<神変大菩薩>の像をかける事もある様です。

 アップにすると、こんな感じです。頭襟と錫杖、結袈裟が特徴です。

 この身に付けているもの一点づつに魔術的、宗教的な意味があり、自ら修験者である事を証明する為、あるいは相手が同門である事を確認する為、説明をすること、あるいは求めることがあります。山伏問答等といわれます。失敗すると、疑いの目でみられます。

 「勧進帳」で有名な安宅の関での弁慶の行動は、これに近いものがあったでしょう。

 また、勧進とは、大きな社寺を再建、修理する為に寄付金を募って歩く事をいいます。権力と密着するタイプです。

 これが、説明にある、このグループの先達のトップです。これから、採灯護摩とよばれる儀式を行なう所です。見えにくいですが、手に持っているものが<柴打>(銘ではない)とよばれる両刃または片刃の短剣の、いわゆるマジックソードです。これを発動体にして儀式を進行させています。

 四方、中央、鬼門に矢を放ち、結界をはります。4方と中央はそれぞれ<五大明王>とよばれる仏たちが守護します。すなわち、東方<降三世明王>南方<軍荼利明王>西方<大威徳明王>北方<金剛夜叉明王>中央<大日大聖不動明王>です。

 山の神に儀式で使う木や水を授与して欲しい、と述べます。そしてその木で採灯護摩を行なう事により衆生の煩悩を焼きつくす事を述べ、「エイ、エイ、ア・バン」のかけ声で斧を降り降ろします。

 結界の作法が終了すると、祭壇の灯明から灯が採られ、点火されます。

□第4講 <魔術師もお腹が空く…魔法体系成立に関する一考察>

アルカード 「魔法には様々な系統があるが、似たものも多いよな。」
アルフレッド 「難しい話は、抜きだ。理屈は知らないが、呪文は俺らの役に立つ、それで良い。考えるのは止め!」
ジュウロウタ 「前にも、そんなことを言ってなかったか?」
テン 「御指摘、もっともですね。これは、魔法と言うものが体系付けられる過程において起こることなのです。」

 様々なRPG他のファンタジー世界には魔法なるものが複数系統存在するのが普通である。大別すると、<魔術><神聖魔法><精霊魔法>というのが一般的であろうか。これらの系統は特徴的なものも多いが、似通ったものも多い。これは、力の源による分類であるとされる。と、すれば力の源には、出来る事と出来ない事があるのだろうか。

 魔法は、儀礼である。所作や言葉によって現世には存在し得ない力をそこに発生させるのである。ある系統の魔法が使えるという事は、即ち、その儀礼に習熟していると言える。各系統には、その系統の魔術体系の考える世界観が存在する。魔法発動のシステムは、その世界観の一表現であると言って良い。言葉、身体、心によって、その世界を構成するものの一部である力を引き出すのである。つまり、同じ炎によって敵を攻撃する魔法であっても、その根源は<精霊界><神秘なる力><魔界><神々の世界>などさまざまなのである。そして、言葉では力の根源から求めるものが現実世界に表れる理由あるいは表れる事を象徴的に表現し、体でも同様の事を象徴的に表現する。心では、魔法によって求めるものが現実となる事を観ずる。

 魔法体系ごとに世界観が違えば、それに伴って、その世界観にあった規制も存在する。その規制にあわないもの、使用頻度の少ないものは自然、消えていった。<禁止された魔法>や<失われた魔法>と呼ばれるものはこうして誕生する。魔法体系の特徴は即ち、それぞれの体系の魔術の背後にある思想の顕現であるとも言える。

 おそらく、本来魔法は、バラバラに存在したのであろう。つまり、「電撃」「加速」「治癒」などというように単体で存在したはずである。古代の魔術師たちは、その独立していた魔法を、自分達の世界観にあう形で再構成し、論理化し、体系づけたはずである。しかし、世界観や思想に合ったもののみを残しても、使い道がない。魔術師といえども、飯を喰わねばならず、求められない魔法ばかり知っていても仕方がない。自然、各魔術体系に求められる魔術が組み込まれ、さらに魔術体系は特徴的になってゆくのである。例えば、多くの場合、ファイアーボール等の派手な攻撃魔法は<神聖魔法>系には多く見られない。しかしながら<魔術>系にはお馴染みの魔法になっている。仮に魔法体系が位置付けられる段階において<神聖魔法>にファイアーボール等が求められていたならば、「神の焔」とでも位置付けられ、存在したであろう。多くの世界では求められず、「癒し」の力が求められたのであろう。逆にいえば、どの体系にもある魔術はそれだけ人々が求めたという事になるのである。無論、他系統との差別化を行なう為に魔法体系を特徴的なものにするという場合もある。

 魔術体系が確立し、固定化すると、新たな魔法を発見製作してゆくよりも他系統の魔法を覚える、という事も行なわれて来る。幾つもの系統の魔法が使える職業と言うものは、本来、一つの系統の魔法に習熟していたのだが、人々の求めに対応して、他系統の魔法を習得する事により、足りない部分を補ったとも言える。その他、様々な理由があるのはもちろんである。例えば、行政権力の影響と言うものも考えられる。行政側としては、修道僧やら吟遊詩人やら何者だかわからない人間が行政地域内をウロウロされるのは好ましくないと考える。すると、行政側は大きな組織、魔術学院や教会等に管理権を与え、あるいは団体が行政に求め、管理するようになる。修道僧やら吟遊詩人やらは、本来はその様な団体とは無縁であるはずなのだが、行政地域内で商売や何ごとかを行なう為に団体に出入りするようになる。自然、そこで教えている初歩の魔法は習得するであろう。また、団体もそれを教える事で金を取ろうとするのである。これも、魔法を習得する職業成立の1ケースであると言える。蛇足であるが、日本においては江戸時代、占い師や門付け芸人の支配権は土御門家が所有していたらしいと言う研究がある。

 このような段階になると、魔法を使う人間ですら、魔法の背後にある世界観を理解できなくなる。素質があり、手順を踏んだ儀礼を行なえば、魔法が発動するからである。知っているのは、塔の書庫に籠って、毎日研鑽を積んでいる魔術学院の先生等のみであろう。

 最後に言っておきたいのは、魔法は冒険者が使うもののみであると言う事は決してない。豊作を祈る魔法、疫病を退治する魔法。家を堅牢にする魔法、船の航海安全を祈る魔法、安産祈願等、生活に密着したものも多いはずであり、冒険者の魔法使いや僧侶も知っているはずである。村の人々はその様な魔法を求めているかもしれない。しかしながら、それを表に出すシーンがTRPG中に存在する頻度が少ないだけなのであり、ルール制作者側もルール化しないだけなのである。そんなものをいちいちルール化していたら、どれほどのルールブックの厚さになろうか。キャラクターによってであるが、プレイ中に子の様なシーンを混ぜてみると新鮮である。しかしながら、それをやり過ぎて、当初の目的であるダンジョンや村に辿り着かず、日常生活のみで1セッションが終わってしまっても、当方は責任を負うものではない。