□幻想書館□


<戻る>


□武具雑考□

 項1〜6までは、いぜん某掲示板に投稿した武器に関するコラムを再編集した内容です。項7以降は書き下ろしとなります。

■1.“日本刀”について

 いわゆる日本刀には、エピソードの付加された有名な名物が多いが、実際の戦闘で使用されたモノは少ない。
 しかし、実際に“ものを斬る”という方式で、それら名物の“性能”を実地検証を行った記録も残されている。
 徳川幕府の御試御用首斬り役を請け負った山田家が、編纂し刊行した書籍類がそれにあたる。
 出版したのは、五代目当主の浅右衛門吉睦で、寛政九年(1797年)に刊行された『懐宝剣尺』では計180工にも及ぶ刀剣の評価を行っている。
 当時、かなり評判になったようで、さらに増補して再版されたのが、『古今鍛冶備考』(文政13年=1830年)である。
 それらによれば、最上業物は、古刀では備前小反秀光、関鍛冶の孫六兼元(初代と二代)、兼定(二代、いわゆる之定)、備前長船元重、備後古三原正家。新刀からは、長曾禰虎徹・興正親子、摂津多々良長幸、肥前忠吉(初代と三代陸奥守)、摂津ソボロ助広(初代)、陸前山城大掾国包(初代)、三善長道(初代)などがセレクトされている。

 意外と、一般に名が知られていないモノが揃っている。有名なのは、刀剣の産地ブランド名である「備前長船」と「関の孫六」、あるいは新撰組関係の著作で取り上げられることの多い虎徹と兼定くらいだろうか。

※『懐宝剣尺』『古今鍛冶備考』の二著は柘植平助方理の著作という説も有り。しかし、データの提供は間違いなく吉睦であろう。

■2.“菊一文字”について

 新撰組一番隊組長、沖田総司の愛刀として、よく歴史小説などのフィクション(司馬遼太郎の『新撰組血風録』が初出か?)に出てくる“菊一文字”なる刀だが、実は一振りも現存していない。

 件の“菊一文字”の刀とは、後に承久の変を起こして鎌倉幕府にとっ捕まることとなる後鳥羽上皇が、趣味に任せて御所内に設けた工房で作刀させるために組織した御番鍛冶に選抜された名工の手によるものである。
 特に正月番に選ばれ、御番鍛冶筆頭として重用されたのが則宗で、作刀に十六葉の菊紋を切る特権を許されたとされる。則宗は、福岡一文字派に属すために、下賜された菊紋と自派の一の字を組み合わせた銘を切ったために“菊一文字”と呼ばれることになったという。
 なお“菊一文字”と呼べば、たいがいこの則宗が指されることが多いが、息子である助宗も御番鍛冶の九月番に上げられており、実は候補足りえる。
 余談だが、この後鳥羽上皇、名工に作刀させるだけでは飽き足らず、自ら鎚を振るって刀を打ったともされている。上皇手ずから鍛えた太刀には当然ながら菊紋が象嵌され、院の警護を仰せつかった北面の武士や西面の武士たちに下賜されたとか。これらの太刀は、「菊御作」もしくは「御所焼」とも呼ばれた。

□後鳥羽上皇の御番鍛冶(参考)

正月番 : 備前則宗
二月番 : 備中貞次
三月番 : 備前延房
四月番 : 粟田口国安
五月番 : 備中恒次
六月番 : 粟田口国友
七月番 : 備前宗吉
八月番 : 備中次家
九月番 : 備前助宗
十月番 : 備前行国
十一月番 : 備前助成
十二月番 : 備前助延
閏月番 : 粟田口久国

■3.実戦を経験した名刀

 名刀伝説は数多いが、実戦で使用されたものは数少ない。と、前に書いた。
 がしかし、名刀二振りを惜しむことなく実戦で使った武将がいる。南北朝初期の南朝吉野方の将、新田義貞である。
 新田氏は遡れば、八幡太郎義家の子、義国の裔である。そういう経緯から名物、鬼切安綱を継承していた。さらに義貞は、鎌倉幕府の首府、鎌倉を陥落させた際に北条氏の伝家の宝剣、鬼丸国綱を入手している。
 あろうことか、この義貞。貴重な名刀二振りを、実戦で存分に使っている。しかも、右に鬼丸、左に鬼切という豪華な二刀遣いで、迫り来る矢の嵐をことごとく切り払うという離れ業を演じているのだ。もっとも誇張表現の多い『太平記』からのエピソードなので、どこまで本当なのか疑問ではあるが……。まあ、鬼丸には打ち物疵が幾つも残っているので、本当に使ったのかもしれない。

 鬼の名を冠するこの二刀。やはり鬼に関わるエピソードを持つ。

□鬼丸国綱

 鎌倉幕府初代執権、時政は夜な夜な枕元に現れる小鬼の悪気に当てられ病の床についてしまう。あるときこの鬼丸を枕元に引き寄せた際に、剣がひとりでに抜け、傍に置いていた香炉の脚に象嵌されていた鬼の浮き彫りを斬った。以降、時政の病は快癒したという。
 なお実際には、国綱は五代時頼の代に鎌倉に招聘されている。時代的な矛盾があるために時政が時頼に代わっている場合もある。
 現在もなお実在しており、今は御物となって宮内庁所蔵。

□鬼切安綱

 河内・摂津源氏の祖、源満仲が刀匠安綱に打たせた双剣のひと振り。もう一方は有名な童子切。
 この鬼切は、同じく源氏の宝剣である“髭切りの太刀”と混同されることが多いが、まったくの別物である(“髭切”は奥州舞草鍛冶、文寿の作。惜しむらくは鎌倉陥落の際に焼失)。
 頼光四天王のひとり、渡辺綱の手によって一条戻橋の鬼の腕を落としたことから、「鬼切」の名で呼ばれることになったという。
 こちらも現存しており、北野天満宮所蔵の重要文化財。なお、後に銘が改変されており現在は“國綱”と切られている。

 日本刀のある意味凄いところは、こうした伝承付きの代物が現存していることだろう。
 エクスカリバーやジュワユースあたりが、どこかの遺跡なり教会あたりから発掘されたら、さぞ面白いことになるだろうに。

■4.“物干し竿”について

 佐々木小次郎の愛刀“物干し竿”について。

 巌流開祖、佐々木小次郎が長刀を好んだことは、一般に広く知られている。
 剣豪宮本武蔵のライバルとして語られることが多く、その対比で名が知られている佐々木小次郎だが、実像を知る手掛かりは意外に少ない。というのも、ライバルであるはずの武蔵がひとことも小次郎についての記述を残していないからである(武蔵の著作『五輪書』には記述なし)。
 後に巌流島と改称された船島での決闘(1612年)については、後世のひとが聞きかじりで遺したたものしか存在しない。例えば『二天記』(1775年)であり、こちらでようやく小次郎の佩いていた太刀の長さが、三尺余(90cm)と判明する。ちなみに件の“物干し竿”の異名を付けたのは『本朝武芸小伝』(1714年)が初出で、ここではその太刀は備前長船長光の作とされている。

 備前長船長光、といえば、有名なのは名物“大般若長光”である。しかし、こちらを作刀したのは先代の長光、件の“物干し竿”を打ったのは、子の二代目左近将監長光とされる。将監長光の所属年代は、正応年間(1288〜93年)である。ちなみに、父親である初代長光の代表作“大般若”は、二尺四寸強(73.6cm)。後世に茎が切り詰められての長さだが、標準的な太刀の長さといえる。
 では、長大な太刀は存在し得ないのか、といえば、そうともいえない。少し年代が下るが、同じ備前長船派の刀匠、倫光も長大な太刀、すなわち野太刀と呼ばれる太刀を打っている。倫光の代表作としては、日光二荒山神社に奉納された大太刀で、こいつは刃長四尺一寸五分余(124.5cm)という化物じみた刀身をもつ太刀である。重量は670匁(2.5kg)。作刀は銘から貞治五年(1366年)と分かる。南北朝騒乱の真っ只中である。
 南北朝期の合戦においては、こうした長大な太刀が流行しており、実際の戦闘でも使用された形跡がある。何時頃から流行し始めたのか、明確な記録が無い以上、鎌倉末期にも大太刀が打たれていたとしても不思議は無い。

 蛇足ながら、こうした長大な太刀を携行する際に背負うしかない訳だが、よく漫画などのイラストでは、柄を利き手である右側に出して描かれているが、これは間違い。というか、そんな背負い方したら太刀が抜けない。太刀や刀を抜くときには、まず鯉口を切らないと抜けないので、かならず左手を鞘に添える必要がある。したがって、左手で鞘が掴めるように左側に柄を出して背負うのが正解。

■5.ジークフリードの剣について

 「ラインの黄金」伝説いわゆる「ジークフリード」伝説とも言われる竜退治の物語に登場する名剣で、登場する作品ごとに別名で呼ばれている。

名称 表記 出典
グラム (Gram) 『ヴォルスンガ・サガ(Volsunga Saga)』
バルムンク (Balmung) 『ニーベルンゲンの歌(Das Nibelungenlied)』
ノートゥンク (Notung) 『ニーベルンゲンの指輪(Der Ring Des Nibelungen)』

 一番古いのは『エッダ(Edda)』で謡われた歌謡を散文に書き直した『ヴォルスンガ・サガ』で、これがおそらく原型と思われる。推定成立は9〜12世紀頃あたり。
 ほぼ同年代ながら舞台をドイツに移し騎士物語化したのが『ニーベルンゲンの歌』。推定成立は12〜13世紀頃。
 最後にこれらを元に19世紀、ワーグナーによって楽劇として再編されたのが『ニーベルンゲンの指輪』となる。

■6.デュランダルについて(1)

 デュランダル(Durendal)とは、シャルルマーニュ伝説のもっとも有名なひとつ『ロランの歌』の主人公、ロラン伯の得物。ロランはシャルル大帝十二臣将の筆頭たる勇将で、主君シャルル大帝の甥にあたる。爵位は伯爵ないしは辺境侯。むろん架空の人物で、歴史上のモデルはブルターニュ辺塞国の領主フルオドランデゥスと言われる(エナジール著『シャルル大帝伝』より)。
 で、デュランダルの入手経路については伝説だけに諸説ある。『ロランの歌』においては、天使のお告げを受けた主君シャルル大帝から下賜されている。北欧の散文『カルル大王のサガ』でも、イングランドの鍛冶師が鍛えた三本の名剣の一振りとして登場し、カルル大王(=シャルル大帝)より下賜されている。他にも妖精が鍛え巨人が保有していた、トロイアの英雄ヘクトルの使った剣などの別説もある。もっとも、妖精が鍛えた剣というのは、北欧の民間伝承では割とありふれているし、ヘクトルの剣というのは有名なトロイア戦争(『イリアス』)伝承の箔を借りようとした痕跡だろう。
 柄は黄金造りで、四つの聖遺物が納められていた。聖遺物の内訳は伝承によって異なるが、『ロランの歌』では、“使徒ペテロの歯”“聖バシリウスの血”“フランス守護聖人ドニの毛髪”“聖母マリアの衣片”となっている。なお、この聖遺物を剣に納めるというのは、中世では本当に行われた加護を得るための手段である(中世の武士が神社に武具を奉納したのに似る)。
 このデュランダルの最大の特徴は、“折れない”ことである。
 最期の戦いとなるロンスヴォー峠の合戦にて、瀕死の重傷を負ったロランは、デュランダルを敵に渡さないために、大理石作りの礎石にデュランダルを叩きつけ折ろうとするが、デュランダルはこの礎石を割ってしまう。それだけ堅牢な剣であったということを強調したかったのだろう。

 なお、ロランの持ち物としてもうひとつ有名なのは、その最期をともにした角笛オリファン(Oliphant)であろう。
 精緻な浮き彫りの施された象牙製のラッパであり、水晶や黄金で装飾されていたという。
 十二臣将ことごとくが戦死した最期の戦いにおいて、己の武勇を恃むロランは、最後の最後まで援軍を請うため合図であったこのオリファンを鳴らさなかった。そして、死の直前に武器の代わりに用いて破損してしまう。破損したオリファンは、後に主君シャルル大帝の手によってボルドーのサン=スーラン教会に奉納されたとされる。

■7.デュランダルについて(2)

 デュランダルの由来にて、トロイアの英雄ヘクトルの使った剣という説がある、と書いたが、この説の論拠が見つかった。
 初出は15世紀イタリアの詩人マッテオ・マリーア・ボイアルドの書いた叙事詩『恋するオルランド』であり、そしてその続編として書かれた16世紀イタリアの詩人ルドヴィゴ・アリオストの書いた長編叙事詩『狂えるオルランド』が、どうもその論拠のようだ。
 『恋するオルランド』は未完に終わったが、その翻案として書かれた『狂えるオルランド』は当時大ベストセラーとなった作品で、オルランド(つまりロラン)を主人公にした物語だが、シャルルマーニュ伝説をベースにスポンサーであるイタリア貴族エステ家の起源を描いた全46詩にも及ぶ大作である。今風にいうと一種のファンタジー小説で、時代考証や地理的な精度は非常にでたらめだが、魔法使いや怪獣も登場する大活劇となっている。
 作中でオルランドの手にしているのがドゥリンダナ(Durindana)であり、トロイアの英雄ヘクトルの剣であるとされている。

 『イリアス』で描かれたトロイア戦争が史実である、という明確な裏付けは未だなされていない。現在、イリオス遺跡の第七層が、それに相当する時代とされているが、およその推定年代は紀元前1275〜1240年頃である。
 ユーラシア大陸において初めて鉄器を実用化したのは紀元前15世紀頃に出現したヒッタイト人であるとされている。長く製鉄技術を独占していたヒッタイトだが、紀元前1190年頃にその滅亡によって、エジプト・メソポタミア地方から鉄器文明が広がっていったと言われている。
 つまり、トロイア戦争の時代、まだ地中海文明圏に鉄器は広まっていなかったということである。
 実際、『イリアス』に登場する英雄たちの武具は、ほとんどが青銅製である。例えば、トロイア方の英雄ヘクトルの投槍を防いだギリシャ方の大アイアスの堅牢な楯は、牛革7枚を重ねた青銅の楯であり、ギリシャ方最強の英雄アキレウスが身に着けていた武具もまた青銅製であった。

 ロランに話をもどそう。シャルル大帝(742〜814年)の時代の騎士であるロランはおそらくロングソードを使用していたことだろう。
 青銅は錫を多く混ぜると硬く成形できるが、剛性は低くなる。つまり、衝撃に弱く折れやすいという特性がある。長剣として斬撃に使用するのには無理がある(実際に、どの文明においても実用的な青銅剣は刀身が短いものが多い)。
 やはり、古代英雄の青銅剣を、中世の騎士が使うというのは、少々無理があるといわざるを得ない。

■8.九大英雄について

 前にデュランダルの由来としてトロイアの英雄ヘクトルの剣とした説について書いた。
 では、なぜその由来をヘクトルに求めたのだろうか?
 同時代の英雄ならば、ギリシャ方最強の戦士アキレウスや、智謀に長け、また弓の達人でもあったオデッセウスなどが居る。また、ギリシャ神話には武勲を立てた英雄が数多くいる。それなのに、なぜヘクトルなのか。
 その答えは、中世ヨーロッパに流布した九大英雄にヘクトルが選出されていたからであろう。

 九大英雄とは、中世ヨーロッパにおいて騎士道を体現する英雄として、文学や芸術にたびたび取り上げられた題材のひとつである。
 その初出は、1312年にフランス人のジャン・ド・ロンギュイオンの書いた『九人の英雄伝(The Nine Worthies)』という評伝による。それによれば、キリスト教成立以前の異教徒から3人、旧約聖書から3人、キリスト教徒から3人の合計9人の英雄を選出している。
 以後、詩文や絵画、彫刻などのテーマとして盛んに取り上げられ、今日に伝わっている。その内訳は以下の通り。

□異教徒の英雄

・ヘクトル : ホメロスの叙事詩「イリアス」に登場。トロイアの王子にして英雄。
・アレクサンドロス大王 : マケドニア王。大国ペルシャを征服し、遥かインドまで遠征した。一代でギリシャからエジプト、ペルシャ、小アジアにまたがる大帝国を築き上げた。
・カエサル : ユリウス・ガイウス・カエサル。共和制ローマ末期の武将、政治家。ガリアを征服した後、政敵ポンペイウスを打ち破り、終身独裁官に就任。後の帝政ローマの礎を築く。

□旧約聖書の英雄

・ヨシュア : 「ヨシュア記」に登場。預言者モーゼの後継者。カナンの地を征服したユダヤの英雄。
・ダビデ王 : 「サムエル記」「列王記」に登場。ペリシテ人の戦士ゴリアテを倒し、その武功を認められてイスラエル王となる。 
・ユダ・マカバイ : 旧約外典「マカバイ記」に登場。ユダ・マカベウス。紀元前2世紀頃のユダヤ民族独立戦争の英雄。後のハスモン朝の礎を築く。

□キリスト教徒の英雄

・アーサー王 : 「ブリテン列王伝」に登場。モデルは5〜6世紀に頻発したサクソン人の侵攻からブリテン王国を防衛したブリトン人の武将アンブロシウス・アウレリアヌスという説がある。
・シャルルマーニュ : カール大帝。フランク王国カロリング朝の王。その生涯の大半を遠征に投じ、王国の版図を広げた。800年にローマ教皇レオIII世に推戴され西ローマ皇帝を称した。
・ゴドフロア・ド・ブイヨン : 第一次十字軍に参加したフランス人の騎士。ロレーヌ公爵。常に最前線で戦い、征服したイェルサレム王となる。死後、その武勲は伝説化される。

■9.女性用の鎧について

 瀬戸内海の大三島にある大山祇神社には、日本で唯一現存する女性用の鎧が所蔵されている。それは“紺糸裾素懸威胴丸”と呼ばれている。
 外観からして、やや小型で、胸部が大きく膨らみ腰部が絞られており、ひとめで女性向けに作られたことが判る作りとなっている。

 社伝に拠れば、天文10年(1541年)の大三島合戦に際して大山祇神社の大宮司、大祝安用の娘、鶴が着用したものとされている。
 大祝氏は伊予河野氏の一門に連なる豪族である。当時、瀬戸内海は河野氏が勢力下に治めていたが、周防に本拠を置く大内氏が勢力を拡大し、制海権を巡って幾度も衝突を繰り返していた。
 天文10年の大三島合戦とは、大内方の将、白井房胤を主将とする水軍が侵攻し、これを防ぐために河野氏や来島氏と連合して迎撃した戦である。大内軍の撃退には成功するも、この戦では鶴の兄である安房が戦死している。
 さらに天文12年(1543年)、大内義隆は陶隆房を主将とする大軍を大三島に派遣する。その迎撃に際して、鶴は兄の代わりに陣代として出陣した。激戦の末に多大な犠牲を払い、大内軍を退けたものの、鶴はこの戦で恋人を失い、戦後に彼を追うように入水したとされている。
 が、これは史実を踏まえてのフィクションであろう。この説の元は、大三島大祝氏の末裔である作家、三島安精氏が小説『海と女と鎧』(1966年初版)にて“鶴姫”というキャラクターを創作したのが、その初出ではないだろうか。
 本書の前書きにおいて、「大祝家記」という文書を底本として書かれている、とある。本文中においても度々引用されてはいるのだが、「大祝家記」そのものは公開されておらず、またどこまでが史実でどこからが小説の創作なのかが定かにはされていないため信用度は低い。
 なお、本書を原作として『鶴姫伝奇』(1993年)の題でテレビドラマ化もされている。これらが流布して、いつの間にやら史伝となってしまったようだ。

 では、鶴という女武者はいなかったのか?
 ほぼ同時代、同じ瀬戸内に、同じ名前の女性がいた。彼女は備前児島の常山城主、上野隆徳の妻、鶴である。上野氏は備中の三村氏に属す豪族で、鶴は三村元親の妹である。
 常山城は、天正元年(1575年)に六千の毛利軍(小早川軍)に囲まれ、わずか百余人の城兵で七か月も持ちこたえたが、力及ばずに玉砕した。その際に、鶴は鎧を纏い、白鉢巻して太刀を握り、侍女や城兵らとともに討って出て壮絶な討ち死にを遂げたという。
 今もなお、常山の山頂付近、北の丸址には彼女らを弔う34基の墓「女軍塚」が遺されている。

 もっとも、鶴という女性名は中世においては一般的であり、偶然の一致かもしれない。だが、遺された女性用の鎧には、イマジネーションを膨らませる何かがある。烈女たちの短くも果敢な生き様が偲ばれる。

■10.正宗について

 俗に名刀といえば、おそらく正宗の名が真っ先に挙げられることだろう。
 五郎入道正宗。鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて相模国鎌倉で活動した刀工である。新藤五国光の弟子で、相州伝を確立させた名工として名高い。
 織豊時代に太閤秀吉より粟田口吉光、郷義弘とともに三作と認められ、名刀として高く評価され、続く江戸時代でも多くの大名家において宝剣として珍重された。
 しかし、在銘の作は非常に稀で、また残された銘もすべて書体が異なっていることから、本人の銘ではないとも言われている。太刀のほとんどは磨り上げられて無銘となっており、大半は研ぎ師本阿弥家による鑑定で、折り紙を付けられたものや金象嵌銘を施されたものである。
 このことから、明治29年(1896年)、宮内省御用掛を務めていた刀剣鑑定家の今村長賀によって、正宗の真作は存在せず、本阿弥家によって名刀として捏造されたとする「正宗抹殺論」が唱えられた。
 なお、その後の研究にて正宗の存在を示す史料が見つかっている。それは貞治六年(1367年)に書かれた『新札往来』であり、“近代の太刀、刀の名人”として“新藤五国光、行光、正宗、貞宗”の名が挙げられている。少なくても南北時代中期には相州伝の名工として庶民に知られていたことが明らかになったのである。こうして現在では、この「正宗抹殺論」は否定されている。

 正宗の真髄は、地金の美しさと沸の妙である。硬軟の鋼を組み合わせた地金を鍛え、焼き入れして生み出された激しい刃文の沸出来は実に美しく、相州伝という新たな作風として、瞬く間に全国に広まった。
 この相州伝を継承したのが「正宗十哲」と呼ばれる十名の刀工だが、必ずしも正宗の弟子という訳ではない。ただ、沸の美しさを極めた正宗に多大な影響を受けたであろうことは間違いない。
 確かに、正宗の作刀は実に美しい。
 だが、その切れ味をもって評価されたものは少ない。わずかに籠手切正宗が知られるが、これは弟子の貞宗作の可能性が高い(越前朝倉家所蔵の頃、貞宗作との銘があったが、後に磨り上げられて無銘となったとされる)。
 石田正宗には切っ先近くの棟、物打ちの鎬、茎棟に大きな切り込み傷が残されていることから、実戦で使用されたことは間違いない。だが、その切れ味についての伝承はない。

 実際にそれを使った武士たちの評価はどうであったのだろうか。
 鎌倉時代末期、正和二年(1313年)に幕府が全国の刀工を書きださせた、いわゆる「注進物」と呼ばれる業物六十工の中に、正宗の名はない(十哲のひとり国重の名は見える)。
 さらに下って室町時代、将軍足利義満の命によって刀目利きであった宇都宮三河入道が選んだ「新作物」六十工にもまた、正宗の名はない(十哲のひとり左文字の名は見える)。
 『銘尽』と呼ばれる現存する最古の刀剣書がある。内容は鎌倉時代末期のものだが、現在残っているのは東寺塔頭のひとつ観智院に所蔵されていたため観智院本と呼ばれる、応永三十年(1423年)に写された写本のみである。この末尾に“神代より当代まで上手之事”として四十二工の名を挙げているが、ここにも正宗の名はない。

 これらの事実を重ねると、武器としての正宗はあまり評価されていなかったことが考えられる。
 名工正宗は確かに存在した。しかし、その価値が高められるようになったのは、織豊時代に入ってからであろう。相州伝の特徴は広い身幅に華麗な地金と刃文である。これが豪華絢爛を極めた安土桃山文化の気風と合致したのではなかろうか。
 現在残されている正宗の名物は持主の名が付けられたものが多い。これは家伝の重宝として大切に保管されてきたことを示している。江戸時代には重代の刀を使って試し斬りをすることが度々あったが、正宗を据物斬りに使ったという記録は残されていない(『懐宝剣尺』『古今鍛冶備考』ともに記述なし)。
 今日、正宗と極められた太刀や打刀は、そのほとんどが国宝や重要文化財に指定されている。そのため今後、刀としての真価が試されることはなく、真相を知るすべもまたない。

□正宗十哲(参考)

 山城来国次
 山城長谷部国重
 備前長船兼光
 備前長船長義
 石見直綱
 越中郷義弘
 越中則重
 美濃金重
 美濃志津三郎兼氏
 筑前左文字


<参考文献>

『【絵解き】戦国武士の合戦心得』東郷隆(講談社文庫)
『絵で見る十字軍物語』塩野七生(新潮社)
『剣豪 その流派と名刀』牧秀彦(光文社新書)
『剣の乙女―戦場を駆け抜けた女戦士』稲葉義明、F.E.A.R.(新紀元社)
『幻想生物 西洋編』山北篤(新紀元社)
『聖剣伝説』佐藤俊之/F.E.A.R.(新紀元社)
『魔導道具事典』山北篤(新紀元社)
『魔法の道具屋』Truth In Fantasy編集部(新紀元社)

『イリアス』ホメロス著、松平千秋訳(岩波文庫)
『イーリアス』ホメロス著、呉茂一訳(平凡社)
『海と女と鎧―瀬戸内のジャンヌ・ダルク』三島安精(小峯書店)
『岡山城物語』市川俊介(岡山リビング新聞社)
『ギリシャ・ローマ神話』トマス・ブルフィンチ著、野上弥生子訳(岩波文庫)
『狂えるオルランド』ルドヴィゴ・アリオスト著、脇功訳(名古屋大学出版会)
『五輪書』宮本武蔵/鎌田茂雄(講談社学術文庫)
『ジークフリード伝説―ワーグナーの《指輪》の源流』石川栄作(講談社学術文庫)
『シャルルマーニュ伝説 中世の騎士ロマンス』トマス・ブルフィンチ著、市場泰男著(講談社学術文庫)
『新釈備前軍記』柴田一(山陽新聞社)
『太平記』岩波古典大系(岩波書店)
『中世騎士物語』トマス・ブルフィンチ著、野上弥生子訳(岩波文庫)
『平家物語』(有朋堂文庫)
『平治物語』日本文学大系 第十四巻 「保元物語 平治物語 平家物語」(誠文堂)
『ロランの歌』有永弘人訳(岩波文庫)
『ローランの歌 狐物語』佐藤輝夫(ちくま文庫)

『名物刀剣―宝物の日本刀―』(公益財団法人佐野美術館)
『日本刀 鑑賞のしおり』(公益財団法人佐野美術館)

『銘尽(観智院本)』国立国会図書館蔵