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□WIZ世界の生活考□

 当サイトで公開している『WIZARDRY RPG OutLaws Edition』でのセッションから派生した考察です。
 かなり以前に当サークル内部で交わされた放談を元に再編集を行なっています。

 

□WIZ世界の食生活考(1)

 そろそろ本格的に日常生活のガイドラインを作らないといけないと思う、今日この頃。
 もっとも、架空世界での生活風景を演出する上では、生活の基本である「食」という問題は決して避けられない要素である訳で、GM担当としてはこの描写の手を抜くとその世界の魅力そのものが激しく減じると思っているのです。
 この世界にはどんな食材があり、どんな調理方法でどんな料理が食べられていたのか?
 良い機会なので、ちょいとまじめに考えてみましょう。

 まずはオリジナルのコンシューマ・ゲームとしてのWIZから、基準となりえるキーワードを探してみます。
 舞台として想定されているであろう年代を推定するには、数多く登場しているアイテムが指標となります。その幾つかは、現実世界の物品の名称と同期していますので。
 ざっと見回してみると、実在のそれと同じ名称の武具が幾つか見つかります。その中でも特に使用された時期が狭いものを拾い出します。

・ クレイモア(Claymore) : スコットランド高地人(ハイランダー)たちによってチューダー朝時代(ヘンリー7世即位:1485年)〜ジャコバイトの乱(1745年)あたりまで使用された。
・ フランバージ(Flamberge) : 主にドイツ傭兵ランツクネヒトたちによって使用された両手剣。ランツクネヒトのもっとも活躍した時期は1486年のマクシミリアンI世の正式採用から1570年シュヴェンディ発議による軍人服務規程の成立まで。
・ 村正(Muramasa Blade!) : 千子村正の在銘時期は応永年間(1394〜1428年)。
・ プレートメイル(Plate Mail) : 従来の鎖鎧(Hauberk)から、各部を装鉄して強化したプレートメイルが多用されるようになるのは百年戦争前期(1337〜1360年)以降。
・ マスケット(Musket) : 大口径火縄銃。1530年頃にイタリアで作られたものが原型となる。1567年にスペインのネーデルラント総督アルバ公がオランダ独立運動の制圧のために正規軍による大量運用を行ったことによって欧州諸国に広まった。

 ざっと眺めると1500年代、16世紀あたりが公約数になりそうです。
 さらに視点を転じて、実際のゲーム中に登場した食べ物を注目してみると、決定的なものがあります。#6BCFに登場する「焼きトウモロコシ」がそれです(ジャイアントマウンテンでドワーフの鍛冶屋スミッティが売っている)。トウモロコシは新大陸原産の植物で、当然コロンブスの新大陸発見(1492年)以前には旧大陸文化圏には存在しないものです。

 これらを鑑みて、16世紀前後の食べ物、食生活を基準とすることにします。
 16世紀がどんな時代かといえば、日本史を例にとると室町時代後期。ちょうど応仁の乱(1467〜77年)が終結し、俗に戦国時代と呼ばれる時代です。ヨーロッパではルターが「95か条の論題」を教会にぶつけ、宗教改革の嵐が吹き荒れる頃(1517年)。日本においては、荘園制度が崩壊して農村が地力を増し、米作と畑作の二毛作が普及していきます。畑作によって作られた商用作物が流通して市場が活性化していく頃。一方、ヨーロッパにおいても四圃式農法(農地を四つに分け、穀物に根菜類や牧草の栽培と休耕をまじえて農地を交代していく)が採用され、収穫能力が飛躍的に向上していく時期です。

 主食はやはり穀物で、ヨーロッパ全域でもっとも普及していたのは小麦で、小麦を挽いて粉にしパンが作られました。パンの起源は古く古代エジプトと言われています。もっとも上質の白パンを作るには、細かくて白い小麦粉を製粉する必要があり、手間が掛かります。そこで、製粉しなくても調理できる碾き割りの大麦、小麦、カラス麦の粥は庶民に愛食されました。なおイギリスの朝食に今でも登場するオートミールは、カラス麦の粥のことです。さらに土地の貧しい地方では、粟や蕎麦などの粥も食べられました。
 第三の小麦の食べ方として上げられるのは、パスタでしょう。イタリアにおいては12世紀頃にはパスタの原型の調理法が確認されています。初期のパスタは生地を薄い帯状に引き延ばし、それを重ねた中に刻んだ肉や野菜を詰めるローマの「ラガナ」のような生パスタ(ラビオリやトルテッリ)でしたが、それとは別にマカロニ、糸状のバーミセリ、トリアといった乾パスタも登場するようになります。もっとも当時(14〜15世紀)のマカロニは現在のような形ではなく、小麦粉を練って成形し茹でて料理するもの全般を指したようです(マッケローニ:maccheroni)。
 パスタといえば、トマトでしょう。トマトはアンデス原産のナス科の植物で、インカの人々によって大きな実をつける栽培種が改良されていました。その栽培種はスペイン人の手によって16世紀にはヨーロッパに持ち帰られました。しかし、ヨーロッパに原生している同じナス科のベラドンナと似ているため長らく食用としては用いられませんでした。ようやく18世紀ごろに当時スペイン領であったナポリで食べられるようになります。流入時期的にはセーフですが、食用として考えると微妙な立ち位置。
 また、冒険者に必携である携行食を忘れてはいけません。いわゆる固パン、ビスケットがそれに相当します。フランス語でビスケットのことはビスキュイ(biscuit)で、bisは「2」、cuitは料理と同義で、この場合は「焼く」との意。つまり「二度焼き」となり、二度焼いて水分を抜いた乾パン状の保存食を指します。

 副食となるおかずとしては何を食べていたのかと言えば、現在と違いハウス栽培や冷蔵庫、冷凍庫がある訳ではないので、年がら年中食べ物が溢れているわけでもなく、四季に応じた食材が食卓に並んでいました。

 副食の首座ともいえるのは豆類です。インゲン豆、サヤエンドウ豆、そら豆、エジプト豆、レンズ豆といった多彩な豆類が畑で栽培されていました。春作(初春に種蒔きし、初夏に収穫する)や冬作(秋に種を蒔き、冬に収穫)。時には粉にして小麦粉に混ぜて、パンにされることもあったようです。
 実際にエネルギーの豊富な豆類は中世半ばの人口増加を支える一方で、豆が窒素を貯えることから農作物の収穫の増加にも大いに貢献したと言われます。フランドル海岸地帯に広がる粘土質の土壌では、15世紀には30〜40%の土地に豆科植物が植えられていたといいます。力のつく豆の食事は、聖職者や農民のお決まりの食べ物であったと言えます。

 他の野菜類はどのようなものがあったのでしょうか。1421年1月にマルセイユの農夫が、修道院に以下のような野菜を納める契約をしていたという史料があります。

・ キャベツ : 10〜2月
・ ポロねぎ : 11〜2月
・ ほうれん草 : 8〜9月、2〜3月
・ ハーブ : 3〜6月
・ ひょうたんの実 : 6〜8月
・ タマネギ : 1〜12月
・ パセリ : 1〜12月

 地中海沿岸だからこそこのような通年的な収穫が見込めたのでしょう。さらに北であるパリではどのような野菜が食べられていたのか、パリのある家長の季節ごとの指示から以下のように推測できます。

・ 1月は「薄葉(植え替えたキャベツ)」のポレが、少なくても復活祭(4月、春分の日の後の最初の満月の夜の直後の日曜)まで食べごろ。
・ 2月はほうれん草が出てきて、ビートがそれに続く、氷が張らなくなると間もなく、新しいポレを味わうことができるようになる。
・ 3月はパセリの種を蒔かなければならなず、パセリは10日ほどで芽を出す。
・ 4月は最初のキャベツを収穫できるが、霜にあたっているため、柔らかくてすぐに煮える。その後たくさんのキャベツが出回るようになる。
・ 8月末には白キャベツ、ブドウの収穫が終わる頃に結球キャベツ(あるいはロレーヌ・レタス)ができる。結球部分をとって植え替えると、そこから「薄葉」キャベツができる。しかし8月を過ぎたらすぐ、いわゆる「復活祭の」キャベツの種を蒔かなければならない。というのも、復活祭の頃に食べられる野菜と言ったらキャベツくらいしかないからである。

※“ポレ”とは、緑の野菜を粗みじん切りした一種のピュレのこと。後に青物全般を指すようになる。

 以上のように、野菜としてはキャベツに大きく依存していたことが分かります。これは庶民だけでなく貴族階級も同じことで、プロヴァンスのトレにある教皇庁付属学校の支出を見ると、毎日の食事で葉物植物と根菜が占められていたようです。ここの寄宿舎の生徒たちは1年間に125日、つまり1年の1/3にのぼる日々の食事で、キャベツのポタージュを食べていました。それに加えて、ポロねぎのスープ(19日)、ほうれん草のスープ(40日)、ハーブのスープ(29日)、その他には、そら豆、エジプト豆、レンズ豆、タマネギ、ひょうたんの実(アフリカ原産のウリ科植物)のスープ、カブのスープなども出されていました。

 一方で食用肉も季節によって市場に出回るものが違いました。南フランスの都市カルバントラの肉屋の会計簿からその消費量を覗うと以下のようになります。

・ 子羊 : 3月に大量に出回り、屠殺される家畜の94%を占める。4月(51%)、5月(38%)と急速に低下し、6月には店頭から姿を消す。
・ ブタ : 春と夏はほとんど出回らず、11〜12月にかけてピークを迎える(15%前後)。

 なぜブタが冬にか出回らないかというと、雪に覆われる冬の間にすべての家畜の餌を確保できないためです。そのため、冬前にブタを屠り、ハムやソーセージなどの保存食を作る習慣がありました。各農家では、聖マルティンの祝日(11月11日)の頃、一家総出でブタの解体をしました。この日は、その年にできたワインを試飲する日でもありました。
 解体された肉はまず、生ハムや塩漬けに加工します。屑肉は腸に詰めて、チョリソーなどのソーセージを作り、解体のときに出る血も腸詰にしてモルシーリャという血のソーセージにします。皮はラードでカリカリに揚げます。見かけや歯ごたえが揚げ煎餅に似たこの皮はチチャロンといい、スペイン文化圏で広く食べられていました。豚足や内臓は、豆や野菜と煮込んでコシードという料理に使います。丸ごと1頭のブタをすっかり食べつくすために、さまざまな手をかけました。

□WIZ世界の食生活考(2)

 今回は“中華料理”に踏み込んでみましょう。
 まずは、プレイヤーS氏からリクエストのあったラーメンについての検証。

 中国に西アジアから回転式石臼による製粉法が伝わったのは、前漢時代(前202〜後8)頃。はじめは小麦粉を水団状にして食べていたようですが、後漢(25〜220)頃には細長くひも状にしたいわゆる“麺”が現れます。「胡食」と呼ばれた小麦粉料理は、シルクロードの起点である長安を中心に唐代に発展し、宋代には中国全土に普及しました。
 当初、西から伝わったのは、窯で焼く平焼きの発酵パンの類であったと思われますが、なぜか中国ではいつしか蒸しパン型の饅頭に置き換わっていたようです。使い慣れた「せいろ」を使いパン生地を蒸す方が、風土に合っていたのかもしれません。そのおかげで、包子や麺など非常に多くの中国独自の小麦粉料理が編み出されました。
 日本語で「麺」というと細長いものと決まっていて、小麦粉で作られるうどんや素麺だけでなく、蕎麦も合わせて「麺類」と称されます。しかし、本来の字義での「麺」とは基本的に小麦粉を指し、小麦粉を使った食品は餅と総称します。日本で言うところの細長い麺は、中国ではふつう麺條などといいます(ただし、地域によっては単に麺と呼んだりもする。非常にややこしい)。
 細長い麺は、基本的に三種類に分類できます。

・ 手延べ式 : 棒状にした生地を引っ張って二つ折りにすることを繰り返す。一本が二本に、二本が四本にといった作業を繰り返す手延べ式の代表が拉麺。拉とは手で引っ張ることを意味する。異説もあるが、この拉麺が日本のラーメンの語源とも言われる。
・ 切り麺式 : 生地を薄くのしてから包丁で細く切る。手打ちうどんと同じ方式。中国では切麺と呼び、いろいろな種類がある。
・ 押し出し式 : トコロテン式に型に嵌めて押し出す。日本ではあまりなじみが無いが、リョクトウの澱粉で作る春雨や米粉で作るビーフンなど、押し出し式の麺の種類は多い。朝鮮半島で冷麺などに使うあのコシの強い独特の麺も、そば粉と澱粉で作る押し出し麺である。中国やアジアでは小麦粉以外の材料から麺を作るときの製法だが、イタリアのマカロニやスパゲッティは原理的にはこの押し出し式で作る。

 これら中国の麺が日本のうどんと口当たりが違うのは、かん水を加えて麺を作るためです。かん水のアルカリ性によって麺質が収縮強靭になり、特殊な風味となるためです。かん水を使うようになったのは、宋代(960〜1279)からといわれています。
 これらの麺類を使った料理は、それこそ数限りないヴァリエーションを誇ります。その中で主だったものを下記に紹介します。

・ 湯麺(タンミェン) : 熱湯で茹でた麺にスープをかけ具を入れたもの。ラーメンはこの一種。焼き豚を入れた叉焼麺(チャーシャオミェン)などもある。
・ 伊府麺(イーフーミェン) : 切り麺の一種で、水の代わりに卵だけで粉を練って作り、玉にして油で揚げる。この揚げてふわっとした麺を茹で戻してから広東風のスープで煮込んで食べる。名の由来は、伊という人物の家(府)で作られた料理方法だからと言われている。
・ 涼麺(リャンメェン) : 冷水で洗い、水を切って十分に冷やした麺。豚肉、キュウリ、卵、エビなどの具を乗せ、少量の冷たいスープを掛け、ラー油、酢を加えて食べる。
・ 炒醤麺(チャオチャンミェン) : 麺に種々の具と炒醤(豚挽き肉、みじん切りのネギ、生姜を一緒に炒め、酒、味噌と少量のスープを加えたもの)を乗せて、箸でかき混ぜながら食べる。
・ 什景炒麺(シーチーチャオミェン) : 蒸した麺を熱湯で戻し、水を切って、静かに麺の表面に焦げ目が付くくらい焼く。上に五目炒菜(豚肉、シイタケ、竹の子、金糸玉子、ネギなどを炒め、とろみをつける)を掛け、酢を沿えて食べる。
・ 坦坦麺(ダンダンミェン) : ゴマ風味のスープに麺と炒めた豚挽き肉、ザー菜のみじん切りを入れてラー油を掛けた四川の麺料理。

 個別の料理の起源までは追えませんでしたが、中華麺としては材料的に問題なさそうです。ただし、件の「ラーメン」に関しては微妙。

 ラーメンそのものの起源は、明確には判明しておらず、上記のかん水を使った中華麺を使用した醤油味スープの「支那そば」が関東大震災(1923年)後に流行したことまでは確認できました。その当時の具としては、海苔、鳴門巻き、ほうれん草などが使われていたようです。
 豚骨だしのものとしては、「長崎ちゃんぽん」がその起源ぽいです。明治23年に長崎で華僑の料理人が、同郷人のために開いた中華料理屋で出した料理がその原型であるという説があります。
 いずれにせよ、ラーメンそのものは比較的新しい食べ物のようです。

 次は、以前セッション中に登場した四川風中華料理屋のメニュー「麻婆豆腐」の件ですが、その後の調べで時代考証に誤りがあったことが判明しました。

 麻婆豆腐の起源は、清朝の同治年間(1862〜1875)で、四川省成都の城外市に豆腐料理店を構えた陳というおばさんが創作した料理であるという説が有力です。この陳おばさん、顔に痘痕があったらしく常連からは「麻婆」と呼ばれていたようです(「麻」は痘痕を指し、「婆」は小母さん、奥さんの意)。これが料理の名の由来となります。
 城壁の外に店を構えるだけに、この店は庶民向けの一膳飯屋であり、安い食材を使った料理を出していました。使い古した油をたっぷり鍋に入れて熱し、ありあわせの野菜をみじん切りにして、豆腐と一緒に鍋に放り込む。そして高熱で炒める。味付けは胡麻油、唐辛子、ニンニク、胡椒、山椒、その他の香辛料をどっさり入れます。こうして四川人の喜ぶ「激辛料理」が誕生したようです。
 設定年代である16世紀をはるかにオーヴァーしています。したがって、本件は時代考証的にアウトとなります。

 もっとも四川料理そのものの起源は古く、紀元前8〜3世紀にかけて栄えた「巴」と「蜀」に端を発します。「巴」の国は現在の重慶を都とし、「蜀」の国は現在の成都に都を置きました。「巴」は平地で五穀を耕し、山野で家畜を飼育し、茶と蜜柑を栽培して、岩塩を精製して塩として使いました。「蜀」は河に堰を作って魚を飼育し、平原で果実を栽培して、桑畑を切り開きました。その後、前3世紀の秦による中国統一を経て、後漢末、三国時代(220〜280)を迎えて「蜀漢」の中心都市としてと、成都はにわかに栄え、四川料理は洗練されたものとなります。
 この後漢時代の四川省には、すでに西域からキュウリや胡桃、大豆、ニンニクなど、多くの食材が輸入されていたようです。「蜀漢」によって平定された後、社会が安定して栄えたこともあり、四川料理は豊富な食材を使うことによって、バラエティに富んだものとなったようです。
 四川料理の特色は、よく知られているように唐辛子や山椒、胡椒などをふんだんに使っていることです。
 味付けの特色を上げると、「麻」(痺れる)、「辣」(唐辛子の辛さ)、「咸」(塩辛い)、「酸」(酸っぱい)、「苦」(苦い)、「香」(香ばしい)の七つの味覚を身上としています。その他にも「酥」(サクサクしている)、「鮮」(新鮮さ)、「嫩」(柔らかい)なども重要な要素で、さらにもうひとつ「煮崩れていない」という点も大切にされます。
 典型的な例としては、「干焼魚翅」(フカヒレの姿煮)と「家常海参」(ナマコの唐辛子炒)が上げられます。とろ火でじっくり加熱し、汁気がなくなるまで煮詰めたり炒めたりしても、ぷるぷるとした状態で原型を留めています。

□WIZ世界の食生活考(3)

 いろいろと調べていくうちに面白くなってきました。
 今回は蕎麦の起源と食器に注目していってみましょう。

 まずは蕎麦について。
 栽培ソバの起源地は、中国雲南地域です(野生種はカシミール、ネパールを中心としたヒマラヤ地方、中国南部の雲南地域からタイの山地にかけて東西に細長く分布するが、栽培種と同じ二倍種は中国雲南地域のみに原生している)。
 栽培ソバには二種類あり、日本、ロシア、中国、ヨーロッパ、アメリカ、カナダ、南アメリカ、アフリカなどで栽培されている普通ソバ(F.esculentum Moench)と、ロシア、中国、ヒマラヤ地域で一部栽培されているダッタンソバ(F.tataricum Gaertn)があります。ダッタンソバは普通ソバに比べて苦味が強いのでニガソバともいい、食用以外にも飼料として利用されています。名称の由来は中世の頃、韃靼人(モンゴル系)によってヨーロッパに伝わったため。
 中国南部の雲南地域で野生種から栽培種が成立したことから、中国における栽培はかなり古いと思われますが、史料上では6世紀の農政書『斉民要術』の巻頭雑説に初めてその名がみられます(ただし、本文には記載なし)。また日本には中国から朝鮮半島経由で伝わったとされています。日本の記録では『続日本紀』に、養老6年(722)に旱魃が起き、将来に備えてソバ栽培を奨励したとあります。
 ヨーロッパの記録としては14世紀にドイツで見出され、17世紀頃にヨーロッパ各地に伝播しています。
 ソバは冷涼な気候でも良く育ち、生育期間は2〜3ヶ月と短く、早生の夏ソバと晩生の秋ソバの二毛作が可能。土壌をあまり選ばなく、適応性が高いために、いろいろな作付け体系に取り込まれていきました。
 用途としては多彩で、蕎麦や菓子としての利用以外としては、普通の脱穀で実が砕けるので、一度水に浸し、蒸熱してから乾燥、脱穀するパーボイル的な方法でソバ米にして、煮食する。あるいは米と混炊して食べることもあります。また蒸留することによって最近流行のソバ焼酎も作られます。ソバを蜜源植物とした蜂蜜は、暗褐色で独特の風味があることで知られています。幼植物は野菜としても食べられ、茎葉は緑肥や青刈り飼料とされます。ドイツではビール醸造のほか蒸留酒の原料としますが、ヨーロッパやアメリカでは主としては乳牛、ブタの飼料とされているようです。

 お次は食器に移ります。
 ヨーロッパでは古代から長らく手食文化が広まっており、フォークが食事用の食器になるのは18世紀半ばとかなり後になってからとなります。それ以前は、フォークは主に厨房での調理用として用いられていました。
 現在の主な食器である、ナイフ、フォーク、スプーンの内、もっともヨーロッパで古くから個人用として使われているのは、ナイフです。食べ物を切るために使われたと思われる小型の石片ナイフが各地で発見されています。次がスプーンで、古代ローマ時代にはスープを飲むための器具として使用されています。しかし、一般に広まるようになるのは、14〜16世紀まで待たなくてはなりません(地域格差が大きい)。最後がフォークとなります。10世紀にヴェネツィアの総統にビザンチン帝国から嫁いできた貴婦人が食事の際にフォークを用いたことがスキャンダルになったという説話が残っています(なおその貴婦人は後に流行り病で亡くなり、庶民は天罰を受けたと噂したというオチが付く!)。
 なぜ手での食事がスタンダードであったかというと、教会の指導によるところも大きく、曰く「神の恵みに触れることができるのは、神の作りたもうた人間の手だけである」といった感じです。
 いずれにせよ11世紀ごろにはイタリア中部のトスカナ地方では、食事にフォークが使われていたようです(ナポリ北のモンテカッシーノ修道院に残る写本にフォークを使った食事をする人物が描かれている)。イギリスにフォークが紹介されたのは、1608年に旅行家トーマス・コリアットがイタリアからフォークを持ち帰ったことによります。ただし、当時はフォークを使うことが喜劇にされる始末で、一般に普及するのは名誉革命(1688年)以後となります。フランスへフォークが伝わったは、アンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ドゥ・メディシスが嫁入り道具の一つとして持ち込んだ(1518年)のが最初と言われています。ただし、その後のフランス絶対王政の主催者であるルイ14世(在位1643〜1715年)は、手食文化に固執していたようです。一般普及は18世紀以後となります。

 中世での食卓で用いられる食器は主に3つで、切り分けられた肉を載せる肉切り皿(タイヨワール)と、スープやピュレを入れる深皿(エキュニル)、そしてワインや水を入れる盃(ゴブレット)でした。
 タイヨワールは円形か四角形をしたプレートで、その上にトランショワールと呼ばれる固くなった厚切りのパンが置かれます。そのトランショワールの上に、大皿に盛られた煮たり焼いたりした肉や魚が切り分けられて配られます。肉や魚を食べ終わって、まだ肉汁や脂が染み込んだままのトランショワールは、施し物として貧しい人に与えられたり、飼い犬に投げ与えたようです。庶民たちの食卓では、タイヨワールは用意されず、直接トランショワールを使い、またそのまま最後に食べられたことでしょう。

 なお、東洋の箸はどうかというと、起源はやはり中国で戦国時代(前403〜221年)に南部で使い始められたという説が有力です。なお、その普及に影響を及ぼしたのは儒教であり、礼儀作法の経典である「礼記」に箸の使い方が書かれています。日本に箸が伝わったのは6世紀中ごろで、やはり朝鮮半島経由で、当時交流のあった百済からとされています。一般的な普及は奈良時代(8世紀)と想定されており、平城京跡からは大量の箸が発掘されています。

 さて、WIZの世界に当てはめるとどうなるかですが、モノがある以上は肯定的に受け止めたいと考えています。侍や忍者という概念が王国群(=ヨーロッパ)に持ち込まれている以上は、箸文化も伝播していてもおかしくは無いでしょう。したがって、箸もokとしたいと思います。

□WIZ世界の食生活考(4)

 今回は、料理の味付けに欠かせない調味料。特に香辛料と呼ばれるスパイスについて考えます。

 なお、料理にこだわりのあるキャラクターCの持参している“マイ一味”であるところの唐辛子(ピメント:piment)は、南米原産ですが、現地民の間で栽培し、日常的に調味料として使用していることが、コロンブスの口述を記録した1493年日付のピエトロ・マルティーレの書簡から確認できます。彼ら征服者の手によって唐辛子はヨーロッパへと持ち帰られました。さらに1542年バーゼルで刊行された書籍に紹介記事が記載されていることが確認できました。したがって、設定的にはokです。
 また、セッション中で彼の手によって料理されたカレーも検証してみました。カレー粉の材料は多岐に及びますが、その主なものとしては、ニンニク、生姜、唐辛子、パセリ、ミント、芥子、ウコン、クミン、コショウ、カルダモン、丁子、ナツメグ、キャラウェイなどが上げられます。
 この内、ヨーロッパ原産でないものは、生姜、唐辛子、ウコン、コショウ、カルダモン、丁子、ナツメグです。唐辛子は先ほど確認したので、他のものの流入時期を確認してみます。

・ 生姜(zinger) : インド、中国では古代から知られていた香辛料。アラビア経由で伝播し、2世紀にはアレキサンドリアで薬種として扱われていた記録を確認。問題なし。
・ ウコン(turmeric) : ターメリック。インド原産。1450年頃、フランクフルトで販売されていた薬種リストにて確認。問題なし。
・ コショウ(pepper) : 胡椒。インド原産。紀元前4世紀、テオフラトゥスの『植物誌』9巻に「ナガコショウ」とともに紹介されている。問題なし。
・ カルダモン(cardamon) : ショウズク。南インド原産。アラビア経由で伝播し、アモムム(amome)という名称で176〜180年頃にはアレキサンドリアにてインド産の香辛料として商われていた。問題なし。
・ 丁子(clove) : クローヴ。モルッカ諸島原産。中国では前漢時代(紀元前202〜紀元8年)には、薬種として扱われていた記述がある。一方、ヨーロッパに伝播したのは4世紀頃。問題なし。
・ ナツメグ(nutmeg) : ニクズク。モルッカ諸島近くのバンダ諸島原産。ヨーロッパにおける文献上の最古の記録は、1195年頃に書かれた戴冠を前にした神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世の1191年4月のローマ入城の模様をあらわした詩。文中に上げられた香料のひとつに数えられている。問題なし。

 以上のようにカレー粉の元となるすべての香辛料が、王国群(=16世紀のヨーロッパ)において入手可能であることが、確認されました。という訳で、時代考証的には問題ありませんでした。

□WIZ世界の食生活考(番外編1)

 今回は食生活からちょっと脱線して、日々の生活サイクルと照明、そして外食について検証してみることにしましょう。

 まずは、順序を変えて照明関係から検証しましょう。
 電気やガスといった光源のない時代、明かりを取る手段は太陽の自然光か燃える炎しかありませんでした。したがって、日の落ちた後の夜間の光源は、火に依存します。
 もっとも原始的な方法としては、薪による焚き火であり、それを屋内に持ち込んだのが暖炉や窯となります。小さな農家では、暖炉がそのまま窯としても用いられることもあったでしょう。
 燃える薪を携行できるサイズに縮小したのが松明となります。火勢の強さに比例して光度も増しますが、延焼の可能性もあり、屋内での使用には向きません。もともと松明の燃料は、日本語の宛て字の示すとおり松脂であったり、西洋では獣脂であったりするため、火勢による煙と煤、燃える脂の匂いも大きな問題となります。
 となると、屋内の照明としてはランプもしくは蝋燭という選択肢になります。どちらも古代ローマでは良く使われていたようです。ランプは主に灯油としてオリーブ油を使ったオイル・ランプで灯心には槇肌(古い麻綱を解したもの)または亜麻を使いました。蝋燭は、最初期のものとして作家小ブリニイの手紙から、1世紀頃には亜麻の糸に松脂を塗ったものが使用されていたことが判明しています。また、2世紀には同じく作家のアピュリーアスが自作の風刺詩の中で、蜜蝋と獣脂でつくった蝋燭について触れています。
 時代が下り、想定している年代である16世紀になると、室内照明の主力は蝋燭となっています。簡単な蝋燭は布製のねじり芯をいくども獣脂に浸して作りました。高級なものは、芯が中に固定された流し型に蜜蝋や獣脂を注いでつくる既製品が出回るようになります。

 一方、日本ではどうであったのか。ついでに調べてみました。
 平安時代まで、灯油すらも輸入品で高価なものでしたが、平安末期には灯油の国産化が始まります。発祥の地は京都の大山崎町と言われ、同じ地の八幡神社に灯油献進を名目に荏胡麻油の生産が始められたとされています。やがて、大山崎の油商人は鎌倉末期から、八幡神社の庇護の下で座(いわゆるギルド)を結成し、油商売を独占していきます。遅れて、安土桃山時代になると菜種油が盛んに作られるようになり、悪臭がしないことから人気を得ます。やがて、製法が各地に伝えられ、広まっていきました。
 なお、菜種油はもともと食用油で、上等なものでした。そのために高価で、さらに時代が下ってしまいますが、文化5年(1808年)で一合が41文でした。おおよそ一合で3日はもつと考えると、照明の費用は一日約14文。当時の職人の日給は、だいたい400〜500文程度と考えると、結構な額になります。
 もっと安い油としては鰯などの魚油がありました。だいたい菜種油の半分程度の値段ですが、灯すと悪臭がひどく、室内で何時間も灯すとエライことになったようです。
 蝋燭は油を灯した行灯の4〜5倍の明るさを持ちます。しかし、国産化は油よりもかなり遅く、室町後期の天文年間(1532〜54)頃まで待たなくてはなりませんでした。当時の材料は木蝋で、ハゼノキになる実から作られました。江戸時代に入ってからは、広く作られ流通しましたが、かなり高く百匁蝋燭で1本200文もしたようです(百匁蝋燭とは1本の目方が百匁、つまり370g)。

 いずれにせよ、洋の東西を問わず生活の中心は、やはり自然光のある日中であり、庶民としては夜に明かりを灯して散財するよりは、日暮れと共に早寝する方を選んでいたようです。

 次に生活のスタイルを見てみましょう。
 一日の基準は、大きくは太陽の運行によって、細かくは教会の儀礼を告げる鐘の音によって決められていました。聖職者の一日は真夜中に始まり、農村の人々の一日は夜明けと共に始まります。
 聖堂参事会や修道院では下記のような区切りで鐘が撞かれました。

・0時   : 朝課の鐘
・3時  : 讃課の鐘
・6時  : 一時課の鐘、私誦ミサ
・9時  : 三時課の鐘、盛式ミサ
・正午  : 六時課の鐘
・15時  : 九時課の鐘
・18時  : 晩課の鐘
・21時  : 終課の鐘

 なお、現在と同じ1日を24時間に分割する24時間制を取ってはいるものの、日の長さによって時間の長さが変わるため、夏季と冬季では鐘の鳴る間隔は変わります。
 また城塞都市の場合、一時課の鐘とともに市門が開かれ、晩課の鐘とともに閉じられました。

 食事については、中世期を通じて基本的には一日二食が普通でした。主要な食事は午後早々に取る正餐で、もっとも量もたっぷりとしていて、形式も整えて行いました。夕食は、食べ物よりも飲み物にウェイトを置いていたようです。それ以外にも、必要に応じて軽食が取られました。朝食は、パンとエール程度で、ミサの後に一人で取ります。夜遅くまで起きているときは、夜食を食べます。夜食は、教会の糾弾する悪の七徳のひとつである“大食”に通じるとして、あまり認められることはありませんでした。

 外食についてですが、WIZで外食といえば、お馴染みの「ギルガメシュの酒場(Gilgamesh's Tavern)」が上げられるでしょう。ここで酒場と当てられている「Tavern」とは、実は“食事がメインの酒場”を指し、より正確を期するならば、呑み喰い処、つまり今でいう“居酒屋”がそれに当たります(なお、宿屋を兼ねる酒場は「In」、酒を飲ますだけの酒場は「beerhouse」、いずれも1066年のノルマン・コンクエスト以降)。
 実際、12世紀頃のロンドンには、家庭の台所設備では料理できないような手の掛かった品まで出す惣菜屋とも言うべき店も出現しています。カンタベリー大司教トーマス・ベケットの助祭でベケットの伝記も書いているウィリアム・フィッツスティーヴンが、テムズ川の堤の上に設営されたそれら惣菜屋の様子を伝えています。
「季節によっていろいろな店がテムズ川の堤の上に立ち並ぶ。焼肉、揚げた肉、茹で肉、大小の魚、貧乏人用の固い肉に金持ち用の柔らかい肉、鹿だって鳥だって並んでいる。突然家にお客が来ても、材料を買いに出て、料理し、旅に疲れたお客を待たせる必要はない。テムズ川の堤に飛んでいけば、何でも手に入るのだから」
 これら惣菜屋の料理の中には、完全に調理されたものもあれば、温めたり、オーヴンに放り込むだけで食べられる半完成品もあったようです。13世紀にはパリにもこのような惣菜屋が出現したようです。
 このような惣菜屋の料理はいくらくらいであったのでしょうか。1363年のメニューを見ると、ローストマトンの肩肉または脚は2ペンス半、去勢した食用雄鶏を詰めたパイは7ペンス、焼いたガチョウ1羽も7ペンス。50年後の価格もほぼ同じで、焼いたガチョウは同じ7ペンス。しかし去勢した食用雄鶏のパイは8ペンスに値上がりしています。ブタの丸焼きが8ペンス、ローストピジョンが3羽で2ペンス半、焼き鳥が10羽で1ペンス。去勢した食用雄鶏を材料持込でパイに焼いてもらう場合は、2ペンス半かかったようです。当時のレベルで、高収入な職人の部類に入る石工の日当が1日3ペンスであることを考えると、かなり割高であったようです。
 もっとも客の注文に合わせた料理を出す現代的なレストランが成立したのは、かなり遅く、フランス市民革命(1789年のバスティーユ監獄襲撃が嚆矢となる)以降で、それまでのパン屋は菓子を作れず、パイ料理屋は煮込み料理を出せないといった同業組合(ギルド)による規制がありました。革命と前後して組合が崩壊したことによって規制は撤廃され、それまでのように酒場や宿屋は仕出屋や惣菜屋から料理を取り寄せずに、自由に料理することができるようになります。同時に、貴族に仕えていた大勢の料理人の失職が、パリを美食の都へと押し上げました。

□WIZ世界の食生活考(番外編2)

 この世界の冒険者以外の住人たちの収入はどれくらいだったのか?

 参考までに手元にあった資料から、1416年ヘンリー5世がカレーの街の守備隊に支払った明細の一部を抜粋してみます。

◇役職 : 日当  (日本円換算)
・ 守備隊長 : 6シリング8ペンス (81,000円)
・ 騎士 : 2シリング (19,000円)
・ 騎兵 : 12ペンス (9,400円)
・ 騎馬弓兵 : 6ペンス (4,700円)
・ 弩兵 : 8〜10ペンス (6,200〜7,800円)
・ 大工 : 12ペンス (9,400円)
・ 石工 : 12ペンス (9,400円)
・ 鉛管工 : 12ペンス (9,400円)
・ 瓦職人 : 12ペンス (9,400円)
・ 砲手 : 12ペンス (9,400円)
・ 砲手の助手   : 6ペンス (4,700円)

 出典は『中世騎士道事典』(原書房)の「Pay」の項で、注釈に「今日の価値に換算するならば、これらの金額は40倍に数える必要がある。」とあります。ただし、本書の原書の初版刊行は1968年で、その当時のレートと現在のレートを考慮すると、2005年現在では約400倍となります。

 WIZ世界の想定レートは、だいたい1GP=100〜200円としています。間をとって1GP=150円と換算し、それを上記の日本円換算に逆に当てはめてみます。

◇役職 : 日当 (日本円換算)
・ 守備隊長 : 540GP (81,000円)
・ 騎士 : 126GP (19,000円)
・ 騎兵 : 62GP (9,400円)
・ 騎馬弓兵 : 31GP (4,700円)
・ 弩兵 : 41〜52GP (6,200〜7,800円)
・ 大工 : 62GP (9,400円)
・ 石工 : 62GP (9,400円)
・ 鉛管工 : 62GP (9,400円)
・ 瓦職人 : 62GP (9,400円)
・ 砲手 : 62GP (9,400円)
・ 砲手の助手 : 31GP (4,700円)

 今度は城塞都市に住む一般庶民の生活を考察してみます。
 手に職をもった職人である大工を想定してみます。年間365日(グレゴリオ暦)の内、安息日と風雨の日は休むとして、だいたい60日ほど休むと考えます。
 住居は組合(ギルド、ツンフト)から提供された一軒家で切妻造りの2階建て。食事は一日三回。以上の想定で、ざっと試算しています。

例)とある大工の場合(夫婦、子供1人)

・ 1日の手間  : 65GP
・ 労働日数  : 305日
・ 年収  : 19,825GP

□年間の出費

・ 食費(パン代)  : 11,490GP
・ 塩、香辛料、油、燃料など  : 4,560GP
・ 道具、家具代  : 820GP
・ 衣類費  : 820GP
・ 交際費(祭礼、布施など)  : 650GP
――――――――――――――――――――
・ 年間出費  : 18,340GP
     
・ 年間貯金  : 1,485GP

 以上のように、けっこうギリギリの生活であったと思われます。


<参考文献>

『おもしろ大江戸生活百科』北村鮭彦著(新潮文庫)
『お江戸の意外な「モノ」の値段』中江克己著(PHP文庫)
『剣豪 その流派と名刀』牧秀彦(光文社新書)
『西洋騎士道事典』グラント・オーデン著、堀越孝一訳・監修(原書房)
『図説西洋甲冑武器事典』三浦權利著(柏書房)
『武器甲冑図鑑』市川定春著(新紀元社)

『おいしい古代ローマ物語 アキピウスの料理帖』上田和子著(原書房)
『香辛料の世界史』リュシアン・ギュイヨ著、池崎一郎、平山弓月、八木尚子共訳(文庫クセジュ)
『食の世界地図』21世紀研究会編(文春新書)
『常識の世界地図』21世紀研究会編(文春新書)
『台所の文化史』モリー・ハリスン著、小林祐子訳(りぶらりあ選書、法政大学出版局)
『中華料理四千年』譚璐美(文春新書)
『中世の食卓から』石井美樹子(筑波書房)
『中世のパン』フランソワーズ・デポルト著、見崎恵子訳(白水uブックス)
『中世ヨーロッパ食の生活史』ブリュノ・ロリウー著、吉田春美訳(原書房)
『中世ヨーロッパの生活』ジュヌヴィエーヴ・ドークール著、大島誠訳(文庫クセジュ)
『日本大百科全書』(小学館)
『ヨーロッパの祝祭典 中世の宴とグルメたち』マドレーヌ・P・コズマン著、加藤恭子/山田敏子訳(原書房)