WIZARDRY RPG
− OutLaws Edition −
■データセクション■
アイテム解説 <世界の財宝編>
■武器(Wepon)■
アステカ帝国の生贄の儀式で使用された黒曜石のナイフ。アステカ帝国では、太陽が消滅するという終末信仰が広まっており、人間の新鮮な心臓を神に捧げることで太陽の消滅を先延ばしできると信じられていた。太陽の神ウィチロポチトリに捧げられた生贄は、神官たちの手によって生きたまま胸を切り開かれ、心臓を摘出された。
□ペイガンゴールデンナイフ (Pagan’s Golden Knife)
柄頭に神像の飾りが施された黄金作りの儀礼用ナイフ。南米プレインカ時代に栄えたシカン文化の遺品でトゥミ(Tumi)と呼ばれる。
オスマン帝国の秘宝。黄金作りの柄には巨大なエメラルドが3つ飾られ、鞘には大小さまざまなダイヤモンド、中央部には籠に盛られた果物の七宝細密画が飾られている。柄頭にはロンドン製ゼンマイ式時計が嵌め込まれている。オスマン帝国スルタン・マフムート1世がイラン・アフシャール朝の君主ナーディル・シャーに贈呈するために作らせたといわれる。しかし、この短剣を贈る前にナーディル・シャーは暗殺され、トプカプ宮殿の宝物庫に納められることになった。
レコンキスタの英雄エル・シッドの剣。名前の由来は“炎の剣(del latin titio)”の意。ムーアのコルドバで鍛造されたダマスカス鋼製の長剣である。エル・シッドがバレンシアでモロッコ王ユスフの将軍ブカルから勝ち取ったとされる。
サフラン色の死神。“サフラン色”とは剣身に施された金象嵌を示している。ブリタニア侵攻の際にユリウス・カエサルの佩用していた剣で、ブリトンの伝説上の武将ネンニウスに鹵獲されたとイングランドの司祭ジェフリー・オブ・モンマスの著した偽史書『ブリタニア列王史』に記述がある。後世ネンニウスはブリトンの英雄とされ、チューダー朝の時代、この剣はロンドン塔にて保管、展示されていたとされる。
シャルルマーニュの騎兵刀。アッバース朝のカリフ、ハルーン・アル・ラシッドから贈られたとされる。中世においては“神の鞭”と呼ばれ恐れられたフン族の王アッティラの帯剣とも信じられていた。1000年に神聖ローマ帝国皇帝オットー3世がシャルルマーニュの墓を開けた際に発掘され、以後歴代の神聖ローマ皇帝の戴冠式に用いられた。
シャルルマーニュの剣。その名は“喜び”を意味する。一説には騎士ロランの剣デュランダルの姉妹剣として製作されたとされる。1270年のフランス王フィリップ3世以降、歴代のフランス王の戴冠式に用いられた。
□シュチェルビェツ (Szczerbiec)
ポーランド王国の戴冠宝具。“ギザギザの剣”という意味である。天使によってポーランド王ボレスワス・フローブルィに与えられ、1018年のキエフ攻略の戦勝記念にキエフ城門に叩きつけた際に刃がギザギザになったのが名の由来とされる。実際には剣の装飾や構造から、本来はヴィエルコポルスカ公ボレスワス・ポボジュヌイの帯剣で、その後ポーランド王ヴワディスラフ1世に受け継がれたものと推測されている。
□越王勾践剣 (Sword of Yuewang Goujian)
春秋戦国時代後期の越王、勾践が所有していた八振りの名剣。荊州江陵の陵墓よりその内の一振りが出土している。青銅剣だが、表面に硫黄を多く含んでおり、二千年を経てなお腐食せずに鋭さを維持していた。剣の両面には菱形の連続紋が施され、ターコイズ、青水晶、ブラックダイヤモンドが象嵌されている。剣身の鍔元には鳥蟲書という書体で「越王勾践自作用剣」と刻字されている。
□呉王夫差矛 (Spier of Wuwang Fucha)
春秋戦国時代後期の呉王、夫差が所有していた矛。荊州江陵の陵墓より出土した。青銅製の矛だが、表面に硫黄を多く含んでおり、二千年を経てなお腐食せずに鋭さを維持していた。矛の剣身には鳥蟲書という書体で「呉王夫差自作用ニ」と刻字されている。
■貨幣(Coin)■
タカラガイの貝殻。タカラガイの貝殻は丸みを帯びて光沢があり、陶磁器のような質感をもつ。地域によってはこの貝殻を通貨として利用したり、装身具や宗教的なシンボルとして用いたりしていた。その美しさから蒐集品としても人気があり、好事家に珍重されている。
偽造された銅銭(私鋳銭)もしくは粗悪な銅銭。私鋳銭を製造するには、種銭と呼ばれる銭を型に鋳型を造る。この種銭の善し悪しが私鋳銭の品質を大きく左右する。その品質は様々であり、劣悪なものから本物と見間違えるほどの高品質なものも含まれる。中国では官の取締を避けるために意図的に古い王朝の私鋳銭が作られて流通することもあった。中世日本においては、鐚銭4文で宋銭1文に相当するとして流通した。
□宋銭 (Songqian)
中国の北宋代に鋳造された銅銭。建国当初の宋元通宝に始まり、歴代の改元の度に、その年号を付けた新銭を鋳造したため、太平通宝、淳化元宝、至道元宝、咸平元宝、景徳元宝、祥符元宝といった銅銭が作られた。宋銭は、金や西夏、日本、東南アジア諸国でも広く使用され、遠くはペルシアやアフリカ方面にも及び、ほぼアジア全域で流通した。単位としては、銭一枚を一文、銭千枚を銭貫で束ねたものを一貫と呼ぶ。
□銀錠 (Yin−Ding)
中国で用いられていた秤量貨幣としての銀貨。古くは銀鋌、元朝以降は元宝とも呼ばれた。古代では分銅型であったが、納税や高額の取引に使用される際に、上に何重にも積み重ねるため、倒れにくいように独特のお椀型に形状が変化していき、それに伴って銀錠と呼ばれるようになった。元朝では、貨幣を元宝と呼び刻印したため、銀錠も元宝と呼ばれた。モンゴル帝国の領土拡大とともにユーラシア大陸の東西を横断して、中東やインド、ヨーロッパまで流通した。
□エレクトロンコイン (Electrum Coin)
琥珀金貨。紀元前7世紀頃、アナトリア半島のリディア王国において創られた世界最古の鋳造貨幣。最初はパクトロス川の河床から得られた砂金の塊の片面に、獅子紋や重量などの極印を刻印した打刻貨幣だったが、後に重量を均一化させるために鋳造硬貨となった。なお、琥珀金(electrum)とは金と銀の自然合金のことである。金と銀は性質が似ており親和性が強く、固溶体となった自然合金として産出することが多い。
金貨。純度の高い上質な金貨としては、ローマ帝国のアウレウス(Aureus)金貨、東ローマ帝国のノミスマ(Nomisma)金貨、イスラム圏のディナール(Dinnar)金貨が知られる。当然ながら信頼性が高く、高額取引などで重宝された。
■鉱物(Material)■
□コール (Coal)
石炭。古代の植物が腐敗する前に地中に埋もれ、長期間に渡って地熱や地圧を受けて変質したもの。紀元前300年代には古代ギリシアや中国において燃料として使用されていた記録が残されている。中国では宋代より大々的に燃料として用いられるようになり、その強い火力によって中華料理の炒め物が発達した。イングランドでは豊富な石炭資源が埋蔵されており、一部は地表に露出していたため14世紀頃から燃料として用いられていたが、やがて18世紀の産業革命によって木炭に代わる工業用燃料として大量に消費されるようになった。
□パイライト (Pyrite)
黄鉄鉱。鉄と硫黄からなる硫化鉱物の一種。主に六面体や八面体、正十二面体の結晶形を示す。鉄より硬く、ハンマーなどで叩くと火花を散らすため、ギリシア語の火(pyr)から名付けられた。真鍮色の金属光沢を持つため、金と間違えられることが多く、「愚者の金(fool’s gold)」とも呼ばれる。
□グアノ (Guano)
鳥糞石。島の珊瑚礁に、海鳥の死骸、糞、エサの魚、卵の殻などが数千年から数万年の長期間にわたって堆積し、化石化したもの。語源はケチュア語の「糞」の意。グアノには降雨量、湿度の低い乾燥地帯に形成された窒素を含有する窒素質グアノと、熱帯や亜熱帯など比較的降雨量、湿度の高い地域に形成され、降雨によって窒素分が流出してリン酸分が濃縮された燐酸質グアノの二種類がある。いずれも良質の有機肥料であり、インカ帝国では沖合の島々から定期的に採掘して、重用していたとされる。
岩塩。岩塩の多くは無色または白色に近い淡い色をしているが、産地や地層によっては青色、桃白色、鮮紅色、紫色、黄色などの様々な色を有することがある。こうした結晶の色は、ミネラルやイオウ、有機物などの混入よるものである。塩は人間の生存に必須であるため、古くから重要な交易品として取引されてきた。
□ソルトピーター (Saltpeter)
硝石。火薬、染料、肥料など窒素を含む製品の原料として用いられてきた。特に中世後期以降、火薬製造における酸化剤として重視されてきた。また、食肉保存において食中毒の原因となる細菌の繁殖を抑えるために、塩漬け加工の際に塩とともに肉にすり込むことが古くから行われてきた。硝石はイベリア半島、イタリア、エジプト、アラビア半島、イラン、インドなどで天然に産出する。硝石を産出しない北西ヨーロッパでは、家畜小屋の床下や土壁の中に浸透した家畜の排泄物が微生物の作用によって硝酸カリウムになったものを抽出して硝石を得ていた。
□アイアンサンド (Iron Sand)
砂鉄。岩石中に含まれる磁鉄鉱などが風化などの過程で母岩から分離し、集積したもの。風化、堆積の過程の違いによって、残留鉱床あるいは漂砂鉱床を成す。漂砂鉱床は海岸あるいは川岸などに堆積したものである。中国地方に産するものは主に山砂鉄で、残留鉱床である。古くは製鉄の主原料であった。日本刀などたたら吹きによって製鉄される玉鋼の原料となる。
砂金。砂状に細粒化した自然金。山肌に露出した金鉱脈が流水で洗われ下流の川岸の砂礫の間に沈殿したもの。大がかりな選鉱施設が不要で、採取方法が簡単なことから、古くから個人単位での採取が行われてきた。中世日本の東北地方では、北上川流域をはじめ多くの川で豊富な砂金が採れた。陸奥平泉を本拠とした奥州藤原氏は、その砂金を使って北宋や沿海州と交易を行い、富み栄え、その評判は黄金の国ジパングの伝説となった。
□マーキュリー (Mercury)
水銀。常温常圧で凝固しない唯一の金属で、銀のような白い光沢から名付けられた。古代において辰砂(硫化水銀)などの水銀化合物は、その特性や外見から不死の薬として珍重されてきた。特に古代中国では不老不死の霊薬、仙丹の原料となると信じられていたが、その強い毒性からそれを服用した多くの皇帝が死に至っている。多くの金属と合金しアマルガムを成すことから、中世の錬金術における重要な素材として利用された。
□アイアンインゴット (Iron Ingot)
鉄の地金。鉄は道具の材料として、人類にとって最も身近な金属素材である。鉄の製錬は製鉄と呼ばれ、鉄鉱石中の酸化鉄から酸素を除去して鉄を残す一種の還元反応によって行われる。この工程には千数百度の高温状態を長時間保持することが必要なため、古代文化における製鉄技術の有無は、その文化の技術水準の指標にひとつとされる。青銅に比べて強靭かつ安価に製造できることから、製鉄技術の伝播は鉄器時代をもたらした。
鉛の地金。柔らかい金属であり、紙などに擦り付けると文字が書けるため、古代ローマでは羊皮紙に鉛で文字を書いたことから鉛筆の起源となった。低融点で柔らかく加工しやすいこと、高比重であること、比較的製錬が容易であることなどから、古代から広く利用されてきた。火縄銃が発明されると、質量が大きく加工しやすいことから銃弾の素材として用いられた。
□ブラスインゴット (Brass Ingot)
黄銅の地金。黄銅は真鍮とも呼ばれる。銅と亜鉛の合金で、適度な強度と展延性をもつため扱いやすく楽器や給水管、弾薬の薬莢などの素材として広く利用されている。金に似た美しい黄金色の光沢を放つことから金の代用品にもされ、“貧者の金”とも呼ばれる。また史書に記された幻の金属オリハルコン(Orihalcon)の正体と目されている。
□ブロンズインゴット (Bronze Ingot)
青銅の地金。銅と錫の合金。添加する錫の量によって色合いと強度が変わる。錫の量が少ないと赤銅色、多くなると黄金色となり、一定量を超えると白銀色となる。錫の添加量が多いほど硬度は上がるが脆くなるので、実用的な青銅器は黄金色の青銅が利用される。しかし、大気中の酸素などによって徐々に酸化していき、表面に緑青(錆)が生じ、やがて青緑色のいわゆる青銅色となる。青銅は加工性や錆に強く耐久性に優れることから、より安価で硬度の高い鉄が普及するまではもっとも広く利用された金属だった。
□カッパーインゴット (Copper Ingot)
銅の地金。語源はラテン語のクプルム(cuprum)で、キプロス島にフェニキアの銅採掘場があったことに由来する。自然銅として存在することから、先史時代から使われてきた金属である。幾つかの地域でそれぞれ独立して溶錬法が発明され利用されてきた。単体では柔らかく展延性が高いことから、やがて錫の合金である青銅や亜鉛との合金である真鍮が発明され、一般的な用途として利用されるようになった。文化的な役割として、その価値から貨幣として用いられるようになる。
銀の地金。銀は光の反射率が金属中最大であり、美しい金属光沢を有する貴金属である。金とともに、中世ヨーロッパでは新大陸発見まで慢性的な不足品であり、そのため高価であった。宝飾品などとして利用する場合、純銀では柔らか過ぎて傷つきやすい上、酸化しやすくすぐに黒ずむ性質があるため、他の金属(主に銅)と合金して利用される。
金の地金。金は化合物ではなく単体で産出されるため精錬の必要が無く、装飾品として人類に利用された最古の金属である。しかし産出が限られていることから、有史以前から貴金属として扱われた。銀や銅と共に貨幣用金属のひとつであり、貨幣(金貨)として使用されている。金の長い年月を経ても変化しないという性質は神秘性を産み、不老不死との関連として錬金術や煉丹術の研究対象とされた。
□プラチナインゴット (Platinum Ingot)
白金の地金。白金は単体では白い光沢をもつ金属として存在する。古代エジプトやプレインカ文明においては貴金属として装飾品に用いられていた。スペイン人による南米への侵略の際に、当時ヨーロッパで珍重されていた銀と勘違いされて略奪され持ち帰られた。しかし、銀よりも融点が高い白金は銀用の加工設備では溶かすことができず、大量に廃棄されたという。
□ミスリルインゴット (Mithril Ingot)
真銀の地金。ミスリルは真銀とも呼ばれる希少な金属である。銅のように打ち延ばせ、ガラスのように磨け、銀のような美しさだが、黒ずみ曇ることがない。ドワーフ族の鍛冶師はこれを鋼より強靭にかつ軽く鍛えることができた。かつてモリア鉱山でのみ産出したが、あまりにも深くまで鉱床を掘り下げてしまい、地中深くに封じられていた災禍王ディスペラントに遭遇し、モリア鉱山は壊滅した。それによってミスリル採掘は頓挫し、非常に希少で高価なものとなってしまった。
■宝飾品(Jewel)■
□トートイスシェル (Tortoiseshell)
鼈甲。ウミガメの一種、タイマイの甲羅の加工品。背と腹の甲を構成する最外層の角質からなる鱗板を10枚程度に剥がして得られる。色は半透明で、赤みを帯びた黄色に濃褐色の斑点がある。黄色の部分が多いほど価値が高い。工芸品の素材として珍重されている。
□コーラル (Coral)
宝石珊瑚。深海に生息し、樹枝状の群体を作る。イタリアでは古くから地中海の紅い珊瑚を使った工芸が発達し、船乗りや妊婦の厄除けの護符として珍重されている。
□オックスブラッド (Oxblood Coral)
血赤珊瑚。日本の土佐沖で採取される赤珊瑚は、深く黒味のある赤から血赤珊瑚と呼ばれ、最高品質とされる。
象牙。ゾウの長大に発達した切歯(門歯)である。材質が美しく加工も容易であるため、古来より工芸品の材料として珍重されている。
□アンバー (Amber)
琥珀。天然樹脂の化石。バルト海沿岸で多く産出するため、ヨーロッパでは古くから知られ、宝石として珍重されてきた。色は黄色を帯びた飴色のものが多い。漢字の“琥”の由来は、中国において虎が死後に石になったものだと信じられてきたことに由来する。漢方薬の素としても用いられた。
□ラピスラズリ (Lapis Lazuli)
瑠璃。深い青色から藍色の宝石で、しばしば金色の斑点状の粒を含んで夜空のような輝きをもつ。古代エジプトやシュメール、バビロニアなどで宝石として、また顔料ウルトラマリンの原料として珍重されてきた。ラピスはラテン語で“石”の意で、ラズリはトルキスタンにあるラズワルド鉱山(Lazhward)が起源で、それがアラビア語に入って“群青の空の色(lazward)”を意味し、ラピスラズリは“群青の空色の石”という意味になる。
□トルマリン (Tourmaline)
電気石。結晶を熱すると電気を帯びるためそう呼ばれる。無色、紫色、青色、緑色、黄色、褐色、赤色、ピンク、黒色など多彩な色合いがあり、当初は別々の宝石と考えられていた。語源はセイロン島の現地語であるシンハラ語で黄色い宝石を指す“トルマリ(turmali)”から。
ウィグルのホータン(和田)地方で採取される翡翠。漢の武帝代に大月氏に使者として赴いた張騫が発見したとされる。軟玉の一種であるが、軟玉の中では比較的硬い。透明感のある乳白色の羊脂玉は、中国では硬玉より価値が高いとされる。他にも白玉、黄玉、碧玉、墨玉など様々な色彩のものがある。
古代生物アンモナイトの化石が遊色効果をもった結晶質となった宝石。オパールのような虹色、特に緑色や赤色が見られる。ロッキー山脈の東斜面のみ産出する。アメリカ先住民の間では、護符として用いられた。
□ターコイズ (Turquoise)
トルコ石。青色から緑色の色合いをもつ不透明な宝石。古代からペルシアで産出し、装飾品に利用されてきた。語源はフランス語の“トルコの石(pierre turquoise)”で、十字軍遠征によってトルコを経由してヨーロッパにもたらされた。
□ブラックパール (Black Pearl)
黒真珠。インド洋や太平洋の赤道付近に棲息する黒蝶貝の産する真珠。本真珠に比べやや小玉で、深みのある黒い光沢をもつのが特徴である。
□ブラックオパール (Black Opale)
黒蛋白石。不透明な黒の地色上に、青や緑、黄色、橙など様々な色彩の輝き(遊色)を見せる。特に赤、鮮やかな緋色の遊色を見せるのが視覚的に強烈で、かつ珍しく最高級品とされる。
□デマントイドガーネット (Demantoid Garnet)
柘榴石の変種。ウラル山脈でのみ産出する薄黄緑色の非常に希少なガーネット。ダイヤモンドより光の分散度が高く、“ホーステイル”と呼ばれる細かい毛状のインクルージョンを持つのが特徴。ダイヤモンドのような光沢を持つことからデマントイドと名付けられた。
□カシミールサファイア (Kashimir Sapphire)
コーンフラワーブルー、ベルベットブルーなどと形容される上質な濃青色のサファイア。インドのカシミール地方で産出したが、数年で枯渇したため非常に希少である。
□パパラチアサファイア (Padparadscha Sapphire)
サファイアの変種で桃色と橙色の中間色のもの。シンハラ語で「蓮の花」を意味する。スリランカでのみ産出するが、希少であり幻の宝石とされる。
□ピジョンブラッド (Pigeon Blood Ruby)
鳩の血を意味する最高品質の赤色のルビー。ミャンマーのモゴク鉱山でのみ産出する希少なルビーである。
□トラピチェエメラルド (Trapiche Emerald)
一見スターに見まがう黒い筋の6本入ったエメラルド。中南米でサトウキビを絞る圧縮機の車軸に似ていることから、この名が付けられた。コロンビアのムソー鉱山でのみ稀に産出した。トラピチェ自体が希少で、なおかつ宝石にできる上質の石はその数少ない石の中でも極めて限られているため非常に高価である。
□パライバトルマリン (Paraiba Tourmaline)
ブラジルのパライバ鉱山で産出した特異なネオンブルー、あるいはネオングリーンの色合いをしたトルマリン。しかし数年で枯渇し、その鮮烈な色合いから希産宝石として珍重されている。
□アレキサンドライト (Alexandrite)
金縁石の変種。ウラル山脈東側のエメラルド鉱山で発見された。太陽光の下では青緑色、夜の人工照明下では赤色と色変化をおこす性質から珍重された。産出量が少なく、また大きな石が取れない上、青緑から鮮紅へと美しく色変化する石はさらに稀で、非常に希少な宝石である。
□玉璧 (Yu−Bi)
古代中国で祭祀用あるいは威信財として用いられた玉器。多くは軟玉で作られた。形状は円盤状で、中心に円孔をもち、表面には彫刻が施された。古代の夏代においては、神権の象徴として扱われていた。璧は日月を象徴する祭器として、玉器の中でも最も重要視され、春秋戦国時代から漢代にかけて盛んに用いられた。
□和氏璧 (Heshi−Bi)
中国の春秋時代に楚の卞和が山中で発見した原石から磨かれた玉璧。最初、楚の脂、に献上されたが雑石と見做され捨て置かれていたが、文王の代になってようやく磨かれ名玉となった。暗闇で鈍く光り、置いておくと夏は涼しく冬は暖かくなり、虫除けにもなったとされる。やがて趙の恵文王の手に渡り、秦の昭襄王が15の城と交換を持ちかけたため、“連城の璧”とも呼ばれる。
東坡肉(豚角煮の一種)を模した玉髄の彫刻。あまりに豚肉にそっくりなため「豚肉の化石」と誤認したという逸話がある。
虫が止まった白菜の形に彫刻した翡翠。原石は半分が白、半分が緑のヒスイ輝石で、原石の色目分布を活かした玉器工芸「俏色」の傑作品。葉の上にはバッタとキリギリスが彫刻されている。盆景として、四枚の花弁を象った琺瑯の小さな植木鉢の台上に飾られる。
□ラ・ペレグレーナ (La Peregrina)
50.56カラットの洋梨型をしたクロチョウガイ真珠。鳩の卵ほどのサイズがある。1500年代にタヒチ湾で発見され、スペイン王フェルナンド5世に献上された。以後スペイン王家に伝わり、1554年にフェリペ2世がイングランド・チューダー王家のメアリー1世と婚約した際にペンダントにして贈った。メアリー1世は殊の外、この真珠のネックレスを気に入り、幾つかの肖像画に着用した姿が遺されている。
35カラットの巨大なオパール。アステカの神殿に安置されていた。表面には太陽神の顔が彫られていることから“アステカ太陽神”と呼ばれる。
□ラスポリサファイア (Ruspoli Sapphire)
135.8カラットのブルーサファイア。菱形をした四角柱の形状をしている。伝承ではベンガルで発見されたとされる。
□ブラックプリンスルビー (Black Prince’s Ruby)
317カラットの巨大なルビー。14世紀半ば、エドワード黒太子がスペイン王ペドロから贈られたとされる。以後、ヘンリー5世がアザンクールの戦いに王冠の中央に付けて出陣し、危ういところとルビーの輝きで助けられ勝利を収めたと伝えられ、以来イングランド王の王冠に付けられて幾度もの戦争を潜り抜けてきた。永らくルビーと信じられてきたが、実際にはルビーではなくレッドスピネルである。かつてレッドスピネルはルビーと混同されることが多かった。
353.5カラットの巨大なルビー。ティムール帝国を建国したティムールが、1398年にインドへ遠征し、デリーを占拠した際に手に入れた。ティムールの死後、ムガル帝国5代皇帝シャー・ジャハンの手に渡った。永らく世界最大のルビーと信じられてきたが、実際はルビーではなくレッドスピネルである。かつてレッドスピネルはルビーと混同されることが多かった。
964カラットの巨大なエメラルド。緑柱石の結晶形である六角柱の形をしている。征服者エルナン・コルテスがアステカ帝国のテスココ宮殿より略奪した。カスティーリャ女王イサベル1世にちなんで名付けられた。
□スプーンメーカーズ・ダイヤモンド (Spoonmaker’s Diamond)
86カラットの巨大なダイヤモンド。オスマントルコ帝国の至宝のひとつ。名前の由来には幾つかの説があるが、最も有名なのはイスタンブールの貧しい漁師が海岸で見つけ、街角の宝石商に持ち込んだがガラス玉と鑑定され、代償にスプーン3本と交換された。後に宝石商が目利きに鑑定させたところ正真のダイヤモンドであったと発覚したという。
□ブリオレット・オブ・インディア (Briolette of India Diamond)
90.38カラットの巨大なダイヤモンド。ブリオレットシェイプにカットされたインド産のカラーレスのダイヤモンド。最初の所有者はフランス王ルイ7世の妻であったアリエノール・ダキテーヌともいわれる。その後、息子のイングランド王リチャード獅子心王に相続されたが、第三次十字軍からの帰路で神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世に捕えられた際に身代金となったという。
137カラットの巨大なダイヤモンド。鮮やかなイエローダイヤモンド。インド原産でトスカーナ大公メディチ家伝来の宝石。
182カラットの巨大なダイヤモンド。ペルシア語で「光の海」の意味を持つ。非常に稀な淡いピンクダイヤモンドである。最も古い起源をもつダイヤモンドのひとつ。ゴルコンダ鉱山から採掘され、ムガル朝の皇帝に所有され、孔雀の玉座に嵌め込まれたとされる。
186カラットの巨大なダイヤモンド。元はペルシア語で「光の山(クーヘ・ヌール)」を意味する。多くの伝説に彩られた世界最古にして最大のダイヤモンドともいわれる。伝説ではカーカティーア朝の時代に発掘され、ヒンドゥー寺院のシヴァ神像の第三の眼に嵌め込まれていたという。幾多の王朝の王侯たちがその所有を争った流転の宝石である。
ムガル朝の皇帝シャー・ジャハンの所有していたダイヤモンド。ゴルコンダ近くの鉱山で発見され、発見当初は787.5カラットの巨大な原石だったとされる。内部に多くの傷があり、ヴェネツィア人の研磨師がカットに失敗して280カラットまでサイズが減ってしまった。卵を半分にしたようなローズカットをしていたとされる。ペルシア王シャー・ナーディルのインド侵攻の際に多くの財宝とともに略奪された。後にシャー・ナーディルが暗殺された時に行方不明となった。
□インペリアルタリスマン (Charlemagne’s Talisman)
皇帝の護符。西ローマ帝国皇帝シャルルマーニュの遺品。エメラルド、ガーネット、真珠などで飾られた黄金の枠に、大粒のサファイアが埋め込まれたペンダント状の護符。中央のサファイアは“皇帝の石”と呼ばれ、表裏に2つ嵌め込まれており、その間には聖十字架の木片と聖処女の髪が収められているという。アッバース朝のカリフ、ハールーン・アッ・ラシードが、フランク王国のシャルルマーニュに贈ったものとされる。シャルルマーニュが崩御すると遺体とともにアーヘン大聖堂に埋葬された。
□ヘレネアクセサリー (Helen’s Accessory)
イリアス遺跡より発掘された黄金の装飾品で、プリアモスの財宝(Priam’s Treasure)の一部。2つのティアラ、細いヘッドバンド、4つのペンダント、6つのブレスレット、56個のイヤリング、8,750個の小さなボタンと指輪を含む黄金の装飾品である。トロイア戦争の原因となった絶世の美女ヘレネの装飾品と云われる。
□クィーンズネックレス (Queen’s Necklace)
王妃の首飾り。フランス王ルイ15世が寵姫デュ・バリー夫人のために発注した首飾り。540個ものダイヤモンドからなる豪華なものだったが、ルイ15世の急逝によって契約が立ち消えとなってしまった。そのため、宝石商はルイ16世の王妃マリー・アントワネットへの売り込みを考えた。その仲介としてラ・モット伯爵夫人が立てたが、夫妻はこれを着服し、首飾りは解体され売り払われた。詐欺事件に巻き込まれたマリー・アントワネットは被害者にもかかわらず誤解から評判を落とし、革命の遠因となったとされる。
□アーケンストーン (Arken Stone)
アーケン石。エレボールの底根で発見された白く輝く大きな宝石で、“山の精髄(the Heart of the Mountain)”とも呼ばれている。ドワーフ族の王家ドゥリン一族の家宝として伝えられてきたが、火竜スマウグがエレボールを襲った際に、他の財宝と共に奪われた。見るものを魅了し、独占欲を駆り立てる魔力をもつ。
□シーイングストーン (Seeing Stone)
パランティア(palantir)。エルフ語で“遠くから見張るもの”の意。外観は黒い水晶の玉のように見える。石の表面に映像を映し出し、思念を伝えることによってパランティア同士は通信することができる。また、単独でも距離的、時間的に離れた事物を映し、精神集中することによりその焦点をある程度制御することができる。
□金印 (Jinyin)
金で作られた印章。皇帝が冊封国の王を臣下として認める証として、その定められた地位に応じて与えた印綬。日本では、九州志賀島で発掘された後漢光武帝が倭奴王に授けたとされる「漢委奴国王印」が最も有名である。
□伝国璽 (Yun−Guoxi)
中国の歴代王朝および皇帝に代々受け継がれてきた玉璽。秦の始皇帝の時代に霊鳥の巣が見つかり、そこに宝玉があった。これを瑞兆とした始皇帝は、李斯に命じて「受命於天既壽永昌」と刻ませ、形を整え、皇帝専用の璽としたという。秦以来の歴代王朝に受け継がれたが、五代十国時代の946年に後晋の出帝が遼の太宗に捕らえられた時に紛失したとされる。
■香料(Perfume)■
□ミルラ (Myrrh)
没薬。ムクロジ目カンラン科コンミフォラ属の樹木から分泌される赤褐色の植物性樹脂。古くから香料として使用された。殺菌作用を持つことも知られており、鎮静剤や鎮痛剤としても用いられる。古代エジプトにおいては、ミイラを作る際の防腐剤として利用された。
□フランキンセンス (Frankincense)
乳香。ボスウェリア属の樹木から分泌される樹脂。古くから樹脂の塊を焚いて香として、水蒸気蒸留によって得られた精油は香水に用いられた。香以外にも漢方薬としても利用されている。古代エジプトでは神々に捧げるための神聖な香として用いられた。東方の三博士がイエス・キリストに捧げた贈り物の中に乳香があり、古代ユダヤにおいても珍重されていたことが分かる。
□白檀 (Sandalwood)
インド原産の爽やかな甘い芳香が特徴の熱帯性常緑樹で、香木として利用される。特にインドのマイソール地方で産する白檀が最も高品質とされ、老山白檀という別称で呼ばれる。沈香とは違って熱を加えることなく十分に芳香を放つため、仏像や数珠などの仏具としても用いられる。
□シベット (Civet)
霊猫香。ジャコウネコの分泌物で、香料として使用される。エチオピアではジャコウネコの香嚢にヘラを差し込んでペースト状の分泌物を掻き出して採取する。こうして取り出された霊猫香は黄白色をしており、空気に触れると徐々に黒っぽくなり粘性が増してやがて酸敗してしまう。香料として使用する場合はエタノールに溶解させてチンキ剤として用いる。花の香りをより高め、また長持ちさせる効果があり、香水に少量使用される。
□ムスク (Musk)
麝香。雄のジャコウジカの腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥した香料。生薬としても用いられる。
□アンバーグリス (Ambergris)
龍涎香。マッコウクジラの腸内に発生する結石であり、香料の一種である。灰色、琥珀色、黒色などの様々な色をした大理石状の模様をもつ蝋状の固体であり、芳香がある。マッコウクジラから排泄された龍涎香は、水より比重が軽いため海面に浮き上がり海岸まで流れ着くが、このような偶然によってしか入手できなかったため、非常に貴重な天然香料である。
□沈香 (Agalloch)
東南アジアに生息する沈香木などが、風雨や病気、虫害などによって空洞化した内部に樹脂が蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったもの。代表的な香木のひとつ。沈香は香りの種類、産地などを手掛かりとして、幾つかの種類に分類されるが、その中でも特に質の良いものは伽羅と呼ばれ珍重される。
東大寺正倉院に収蔵されている香木。天下第一の名香と謳われる。正倉院宝物目録での名前は黄熟香で、“蘭奢待”という名は、その文字の中に“東大寺”の名を隠した雅名である。その香は「古めきしずか」と言われる。
□反魂香 (Fanhun−Xiang)
焚くとその煙の中に死者の姿が現れるという伝説の香。西海聚窟州にある返魂樹という木は、楓または柏に似た花と葉をもち、香を百里先に聞き、その根を煮てその汁を練って作ったのが反魂香である。それを豆粒ほど焚いただけで、病に果てた死者を生き返らすことができるという。前漢の武帝が李夫人を亡くした後、道士にこの香を作らせ、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたとされる。
■織物(Fabirc)■
□メリノーウール (Merino Wool)
イベリア半島で品種改良されたメリノー種ヒツジから採取した羊毛の毛織物。カスティーリヤでは、ローマ時代に品種改良されたタランティーネ種とイベリア半島に土着していたウールタイプのヒツジを交配して改良を行いメリノー種が生み出された。理想的なウール(緬毛)だけを産するメリノー種は毛織物産業を通じてスペインの黄金時代を築いた。スペイン王家は国費を投じてメリノー種の飼育を行い、国外への持ち出しを禁じていた。
□チンツ (Chintz)
更紗。インド起源の木綿地の文様染め製品。更紗の特徴はその鮮烈な色彩や異国風の文様とともに、木綿という素材を用いること、及び「織り」ではなく「染め」で文様を表していることにある。
□カシミア (Cashmere)
カシミアヤギから採れた毛を織った毛織物。名称はインド北部高山地帯のカシミール(Kashimir)地方の旧い綴りに由来する。毛質は細く、柔軟で独特のぬめりがある。保温性と保湿性に優れ、生産量が少ないことから、高級素材の代表とされる。
絹織物。蚕の繭からとった動物繊維をほぐして生糸にし、それを織った布。しなやかで強く美しい光沢があるため、繊維の中でも最も珍重されてきた。絹の生産は紀元前3000年頃の中国で始まったとされる。他の地域では絹の製法が分からず、非常に古い時代から絹は中国から陸路でも海路でもインド、ペルシア方面に輸出されていた。そのルートがいわゆるシルクロードである。
□ダマスク (Damask)
ダマスク織。緞子。裏地のある絹の織物で、織り方にパターン化された模様を伴う。イスラム織物の根幹を成す織物技術である。名称は、中東の都市ダマスカスに由来する。イスラム支配下のイベリア半島からヨーロッパに製法が伝わり、フランスやイタリアでも織り機で編まれた。
□レース (Lace)
手芸によって編まれる糸を用いて透かし模様の布状にしたものの総称。ニードルレースやボビンレースなど様々な技法がある。中世ヨーロッパでは「糸の宝石」と呼ばれるほどに珍重された。フランドルやヴェネツィアでボビンレースが考案され、生産されるようになる。特にヴェネツィア製のレースが流行し、ヨーロッパ各国の貴族に愛用された。
□ベルベット (Velvet)
天鵞絨。平織か綾織の経糸にパイルを織り出したパイル織物の一種。柔らかで上品な手触りと深い光沢感が特徴で、ドレスやカーテンなどに用いられる。縫いずれし易く、きれいに縫製するには高度な技術が必要である。
□西陣織 (Nishijin−Ori)
京都の先染め織物。平安時代から黒門長者町付近に織物職人が集まっていたとされる。西陣とは、応仁の乱の際、西軍が本陣を置いた地域を指す。応仁の乱後、各地に離散していた職人が戻り、この地で織物作りを再開した。江戸幕府が成立し、治政が安定すると富裕商人の支持を受けて、元禄から享保年間に最盛期を迎えた。
□ペルジアンカーペット (Persian Carpets)
ペルシア絨毯。かつてペルシアと呼ばれていたイラン周辺で生産され続けている絨毯。床面の敷物だけでなく、壁飾りやテーブルクロスとしても用いられている。主に羊毛や綿で作られる。唐草文様、アラベスク文様、忍冬文様、円形文様、幾何学文様などが複雑に織り込まれている。現存する最古の手織り絨毯としては、アケメネス朝ペルシアで制作されたとみられるものがアルタイ山脈のパジリク古墳群から発見されている。
□タペストリー (Tapestry)
壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物の一種。綴れ織りの一種で、太い横糸を縦糸で包み込むことで、縦糸を見えなくして横糸だけで絵柄を表現する。縦糸には普通木綿の糸や亜麻(リンネル)の糸が使われ、絵柄を作る横糸には羊毛(ウール)や木綿のほか、絹糸、金糸、銀糸などが使われる。十字軍が手織り絨毯を持ち帰ったのが始まりで、華やかな絨緞を靴で踏むのは忍びないことから壁にかけたところ、部屋の装飾になるだけでなく、壁の隙間風を防ぎ、断熱効果が認められたことから各地でタペストリーの生産が始まった。特にフランス北部のアラスが有名で、現在でも上等なタペストリーの代名詞として知られる。
□アポカリプス・アンジェ (Apocalypse d’Angers)
アンジェの黙示録。ヨハネの黙示録を主題とする7枚1組のタペストリー。現存する中世ヨーロッパの作品で、最も古く、最大の規模を誇る。アンジュー公ルイの注文により、国王シャルル5世の宮廷画家ジャン・ド・ブリュージュが下絵を描き、ニコラ・バタイユの工房で織られた。1枚に黙示録の物語が上下二段に7場面ずつ、計14面表されている。本来90場面あったとされるが、現存するのは約70場面のみである。
□バイユータペストリー (Tapisserie de Bayeux)
ノルマンコンクエストを物語として描いた刺繍画。ノルマンディ公兼イングランド王ウィリアム1世の王妃マティルダが、征服を記念してノルマンディ地方のバイユー大聖堂に寄進したものとされる。タペストリーと呼ばれているが、技法的には織物ではなく刺繍作品で、亜麻の布地に青、茜、黄色などの染色された毛糸で刺繍されている。
ヴァヴェル城のタペストリー。ポーランドのヤギェウォ朝によって収集されたネーデルラントやフランドルで製織された365枚にも及ぶタペストリー群。王室の住居であるヴァヴェル城の内部を飾るために収集された。ポーランド王ジグムント2世の意向によってポーランド王室の象徴となった。描写される情景の題材としては、聖書や神話(ギリシア神話やローマ神話)、歴史的な英雄の伝記(スキピオ・アフリカヌスやハンニバル、ユリウス・カエサル、アウグストゥスなど)、風景や動物の情景などが描かれている。
□ダーム・ア・リコルヌ (La Dame a la Licorne)
『貴婦人とユニコーン』。15世紀にフランドルで作られた6枚からなるタペストリー。背景の千花模様に若い貴婦人がユニコーンとともにいる場面が描かれ、それぞれが「味覚」「聴覚」「視覚」「嗅覚」「触覚」の五感を表し、最後の1枚が謎に包まれているが「我が唯一つの望み」と題され「愛」ないし「理解」と解釈される。伝来は不明だが、フランス王シャルル7世の廷臣ジャン・ル・ヴィストの発注によるものと推測されている。
■食器(Tableware)■
□ピューターウェア (Pewter Ware)
白目製の食器。錫を主成分とした鉛との合金。青灰色の光沢をもち錆びず適度な硬さがあり加工しやすいことから、銀器に次ぐ高級食器として使用された。しかし、酸性の食品を盛ることによって、鉛が溶けだし鉛中毒を起こすこともあった。18世紀になるとイングランドにて鉛の代わりにアンチモンを加える改良がなされた。
□シルバーウェア (Silver Ware)
銀器。銀製の食器。銀には抗菌作用があり、また美しい光沢をもつことから古くから食器として重宝された。銀は青酸カリやヒ素化合物などの毒に反応し色が変わることから、中世の王侯貴族は毒殺を防ぐために銀器を愛用した。また銀器は空気中の硫黄分によって黒く変色するため、常に手入れをして磨くことが必要なことから、経済力や使用人の躾が行き届いていることを誇示することにもなった。
□玉器 (Yu−Qi)
翡翠製の器。中国では翡翠を玉と呼び、古くから実用品や装飾の材料として用いていた。ほとんどの玉器は軟玉で作られている。古代中国においては特に白色のものが好まれた。清代に入るとミャンマーから硬玉が輸入され、鮮やかな緑のものが好まれるようになった。
ササン朝ペルシア時代に作られたガラス器。シルクロードを渡り、唐や日本にも伝播した。正倉院所蔵の白瑠璃碗が有名である。
□ローマングラス (Roman Glass)
ローマ帝国内で作られたガラス器。1世紀初頭に吹きガラスの技術が発明され、ガラス工芸が大きく発展した。成分としてソーダガラスを主とし、鉛ガラスはほとんどない。カメオ、ゴールドサンドイッチ、ミルフィリオなど多くの製法が開発された。帝国の外、東アジアまで輸出された。神話の情景をカメオに彫った「ポートランドの壺」が有名である。
□ヴェネツィアングラス (Venetian glass)
イタリア北部の都市ヴェネツィアで作られたガラス器。8世紀ころから製造が始められ、当時最も進んだ技術を持っていたアンティオキアから職人を招聘し、発展したとされる。国を挙げた産業として振興され、秘密保持の目的から1291年にすべてのガラス工房をムラーノ島に移住させた。ルネサンス期にはその繁栄は頂点に達し、エナメル装飾を施した絵付けガラスや透明度の高いクリスタルガラスの製品が作られ、王侯貴族の間で高く取引された。
漆器は、木などの食器に漆を塗り重ねて作られた工芸品。漆を表面に塗ることで器物は格段に長持ちする。中国では先史時代から作られ、時代を追うごとに洗練された装飾の技法が生み出された。唐代には金銀の薄い板を文様の形に貼り付け、さらに漆を塗り平坦に研ぎ出す技法「金銀平脱」が、宋代には異色の漆の層を重ね、適宜の色が出るまで彫り込む「紅花緑葉」といった彫漆技法が、明代後期にはさらに表現が緻密となり、文様を彫り込んで金箔や金粉を塗りこむ技法「沈金」が生まれた。漆の処理技法は、朝鮮や日本、東南アジアにも広く伝わった。
□日本漆器 (Japanese Lacquer Ware)
漆器は、木などの食器に漆を塗り重ねて作られた工芸品。漆を表面に塗ることで器物は格段に長持ちする。日本では縄文時代から作られ、時代を追うごとに洗練された装飾の技法が生み出された。唐から輸入された貝殻の内側の光沢をもつ真珠層を切り出して彫刻に嵌め込む技法「螺鈿」と、漆で文様を描き、金粉などを降り掛け、文様部分に固着させる技法「蒔絵」を組み合わせ、平安時代から急速に技術が向上し、高度な工芸品が作られた。室町時代後期には輸出品として海外に輸出され、遠くヨーロッパでは高級品として人気を博した。
□高麗天目茶碗 (Kourai Tenmoku)
朝鮮半島で焼かれた日常雑器を日本の茶人が賞玩し茶器に見立てたもの。ここで言う“高麗”は朝鮮渡来の意であり、ほとんどの高麗茶碗は高麗時代ではなく朝鮮王朝時代のものである。千利休の提唱したわびさびを重んじる茶道の流行によって、唐物から高麗物や和物の茶器が良しとされるようになった。
□灰被天目茶碗 (Haikatsugi Tenmoku)
南宋代に茶洋窯(福建省)で作られた天目茶碗。黒釉と黒褐釉が見事に発色し、左右に掛け分けられた斜めの釉境が窯変により銀色を呈し、虹を思わせる釉景色を作り出している。これにより「虹天目」とも呼ばれた。
□禾目天目茶碗 (Nogime Tenmoku)
南宋代の建窯(福建省)で作られた天目茶碗のうち、黒釉に茶色や銀色の細かい縦筋が無数に見られるものがあり、日本ではこれを稲の穂先の芒(禾)に見立て禾目天目と呼ぶ。
□木葉天目茶碗 (Konoha Tenmoku)
南宋代に吉州窯(江西省)で作られた天目茶碗の一種。ケイ酸分を多く含む実物の木の葉を黒釉上に置いて焼成し、釉化して木の葉の文様を表す木葉天目は、この窯の特異な作品である。南宋の滅亡とともに技術が失われ、珍重された。
□油滴天目茶碗 (Yuteki Tenmoku)
南宋代に水吉鎮にある建窯(福建省)で焼かれた天目茶碗。高台周辺を除いて全体に掛けられた漆黒の釉、その内外面の黒い地に銀色に輝く斑紋が浮かび上がる。「油滴」の名はその美しさが油の滴のようであるところからという。「油滴」は「曜変」に次ぐものとされている。
天目茶碗のうち、最上級とされるもの。「曜変」とは「窯変」「容変」を意味し、漆黒の器で内側には星の様にも見える大小の斑紋が散らばり、斑紋の周囲は藍や青で、角度によって虹色の光彩が輝き、「器の中に宇宙が見える」とも称される。南宋代に建窯(福建省)で、ある時期に数えるほどわずかに制作されたが、その後二度と作られることはなく、現存するのはたった3点のみである。
□マヨリカウェア (Maiolica ware)
イタリアの錫釉陶器で、ルネサンス期に発祥した。白地に鮮やかな彩色を施し、歴史上の光景や伝説的光景を描いたものが多い。その名称は中世イタリア語でマヨルカ島を意味する。マヨルカ島はバレンシア地方からイタリアにムーア人様式の陶器を輸出する際の中継点であった。ルネサンス期には、「マヨリカ」といえばラスター彩を意味し、イタリア産のものとスペインからの輸入ものを含んでいたが、その後ラスター彩かどうかに関わらずイタリア産の錫釉陶器全般を指すようになった。
□ラインストーンウェア (Rhine Stoneware)
ドイツ、ライン河畔のラインラント諸都市で作られた岩塩によって施釉するb器。ローマ帝国の陶器技術が伝えられ残存、発展したものとされる。中世末期からケルンを中心に実用陶器としてストーンウェアが多量に焼成された。
□粉青沙器 (Buncheong ware)
李氏朝鮮時代初期に朝鮮半島で生産された磁器の一種。粉青沙器は灰色の胎土の上に白土を用いてさまざまな技法で装飾を施した陶器の総称である。日本では、この種の器が高麗茶碗として珍重された。
□宋胡禄 (Sawankhalok Were)
タイのサワンカローク周辺で作られた陶器。宋胡禄とは産地であるサワンカロークの音訳である。元は素焼きの器に梨地の白化粧を施し、鉄絵で飾り絵を描いたものを指したが、後にタイで産出される陶器全般を指すようになった。13世紀頃にスコータイ王朝のラームカムヘーン王が中国の陶工を招聘して生産を始めた。15世紀頃には中国の商人によって、日本へと持ち込まれ、当時流行し始めた茶道の茶器として重宝された。
□ラスターウェア (Luster ware)
中世イスラム陶器の一種。ラスターとは光沢を意味する。9世紀にダマスカスで生まれ、ヨーロッパではイスラム文化と共にイベリア半島に伝わって、12世紀ごろから盛んに作られるようになった。透明な釉薬をかけて焼いた陶器の表面に、酸化銅の粉末と黄土を練り合わせたもので絵付けをしたもの。偶像崇拝を禁じているイスラムでは、主に草花、文字、幾何学模様などが書かれた。
ルネサンス期のイタリア・フィレンツェを支配していた銀行家メディチ家が生産した疑似磁器。1574年頃、フィレンツェの工房で作られた。石灰泥と白泥土とフリット(ガラス質)を混ぜ、鉛を含む釉を着けて、中国の青花磁器を模倣したものだった。しかし、東洋から磁器が大量にヨーロッパに入ってきて競争に負けたこと、焼成の難しさなどの理由から、生産は十年ほどで中止された。
□イズニクウェア (Iznik ware)
オスマントルコ帝国時代にイズニクで生産された陶器。イズニクの陶器は胎土の表面に白土の化粧土を施し、下絵を着彩したうえに透明の釉薬を塗り焼成したもので、14世紀頃から作られるようになった。模様はこの頃モンゴル帝国を通じて西アジアに盛んに輸入されるようになった中国の染付の影響を受け、白地の美しさを生かしたコバルトブルーで描かれるようになり、15世紀以降はターコイズブルーや緑、紫、赤などの多色着彩を行うようになって、模倣を越えた独自の発展を遂げた。
□高麗青磁 (Goryeo Celadon porcelain)
高麗時代の朝鮮半島で生産された青磁器。「翡色」と呼ばれる澄んだ青緑色の気品に満ちた青磁釉で、高麗特有の象嵌技法によって装飾が加えられているのが特徴である。
□李朝白磁 (Joseon White porcelain)
李氏朝鮮で生産された白磁器。15世紀前半にはすでに雪のように白い上質の白磁が完成されていた。15世紀後半にはコバルト顔料を用いて青花磁器の焼造が始まった。後にコバルト顔料の入手が困難になると、鉄絵具で鉄砂の技法が盛んに行われた。
□デルフトウェア (Delft ware)
ネーデルラントのデルフトで16世紀から生産されている陶器。白色の釉薬を下地にして、スズ釉薬を用いて彩色、絵付けされる陶器である。1512年にアントワープで制作され、以後南部から北部へと生産が広まった。しかし、優れた陶器の多くはデルフトで生産されている。中国から輸入した青花(白地に青の磁器)の影響を受けて、白地に青の絵付けを特徴とした。
□龍泉窯青磁 (Longquan−yao Celadon porcelain)
南宋の処州(浙江省)の龍泉窯で生産された青磁器。青緑色の美しい釉色の砧青磁を完成した。国内向けの日用雑器ばかりでなく、宮廷用に釉薬の厚い青磁も焼いており、周辺アジア諸国にも青磁を輸出していた。日本では鎌倉から室町時代にかけて唐物として伝来し珍重された。
□古伊万里 (Imari porcelain)
肥前国有田で生産された磁器の総称。製品の主な積み出し港が伊万里であったことから伊万里焼と呼ばれた。文禄・慶長の役で連れてきた李氏朝鮮の陶工によって、日本で初めての磁器生産が有田で始まった。佐賀鍋島藩では藩窯による管理を行い、将軍家や大名への贈答品として品質の高い高級磁器「鍋島焼」を生産した。明が滅亡すると中国磁器の輸出が途絶え、ネーデルラント東インド会社からの買い付けで、ヨーロッパ向け輸出用の鮮やかな色彩で描かれた染付の磁器「柿右衛門」が大量に生産された。
□定窯白磁 (Ding−yao White porcelain)
定窯(河北省)とは宋代を代表する白磁窯である。唐末期に開かれ、北宋代に白定と称される象牙質の白磁を焼成して隆盛した。
□リモージュエナメル (Limoges Enamel)
リモージュ琺瑯。フランスのリモージュで製作された琺瑯製品。初期の作品では偽クーフィー様式が見られ、アキテーヌ地域では長期間に亘って使用された。主にシャンルヴェ技法で有名になり、15世紀からはグリザイユ技法を用いた色彩豊かな作品で高く評価されてきた。しばらくすると、シャンルヴェ技法が普及し大量生産されるようになるが、最高品質の製品はモサン渓谷地域で製作され続けた。
□耀州窯青磁 (Yaozhou−yao Celadon porcelain)
北宋の耀州窯(陝西省)で製作された青磁器。黄味をおびたオリーブ色の青磁釉で、浮彫の花文があるのが特徴。
□景徳鎮青白磁 (Jingdezhen bluish white porcelain)
宋代、江西省景徳鎮で微量の鉄分を含む釉薬で焼かれた磁器。文様部分に釉薬が溜まって他の部分よりも青く見えることから青白磁(影青)とも呼ばれる。
有線七宝焼きの一種。明代の景泰年間(1450〜1456年)に最盛期をむかえ、当時は青いものが多かったために「景泰藍」と呼ばれた。その技巧が精緻をきわめ、評価が高かった。古い中国七宝の別名としても使われる。
□汝窯青磁 (Ru−yao Celadon porcelain)
北宋後期の汝窯(河南省)で製作された青磁器。汝窯は宋代に優れた青磁を焼いた窯であり、五名窯の一つとして製陶の中心であった。汝窯磁器の釉色は極めて独特であり、緑がかった青色に控えめに輝く淡いピンク色の光沢を帯びている。「雨過天晴雲破処」とも称される最高級の青磁とされる。
□景徳鎮青花 (Jingdezhen underglazed blue porcelain)
青花とは、磁器の加飾技法の1つで、白地に青(藍色)で文様を表したものを指す。日本では染付とも呼ぶ。釉下彩とは、磁器に釉薬を掛ける前の素地に文様を描く技法である。呉須と呼ばれるコバルトを主成分とする絵具が使われる。一般的には、磁土を一度素焼きしてから、呉須で図柄を描き、その上から透明釉を掛けて再度焼成する。呉須は焼成後、青(藍色)に発色する。
■宗教祭具(Ritual Utensil)■
□インドゥルゲンティア (Indulgentia)
贖宥状。カトリック教会の発行した罪の償いを軽減する証明書。免罪符とも呼ばれる。元々、キリスト教では洗礼を受けた後に犯した罪は告解によって許されるとしていたが、時代が下ると罪の償いとして、教会が行う施しや聖堂の改修などへの寄進を救済への近道として奨励するようになった。中世において、贖宥状の販売は教会の重要な収入源であった。やがて、ルターによって批判され、宗教改革のきっかけとなり、トリエント公会議によって贖宥状の売買は禁止された。
マニ車。転経器とも。円筒状で側面にマントラが刻まれており、内部にはロール状の経文が収められている。マニ車を右回りに回転させることによって、回転した数だけ経を唱えるのと同じ功徳があるとされている。
干し首。装飾用に加工された人間の頭部。かつて首狩りを実践していた部族の風習として干し首が作られていた。敵の霊魂を束縛することによって、製作者への奉仕を強制するものであると信じられていた。やがて、他部族との交流を行うようになると、珍奇な名物品として交易用としても作成されるようになった。
栄光の手。絞首刑となった犯罪者の手を乾燥させ酢漬けにして燭台とした黒魔術の道具。同じく処刑された犯罪者の脂肪で作られた蝋燭をこの燭台に設置して灯すことで、悪魔の加護を受けることができるとされた。
エナメルで装飾された小さな十字架の首飾り。高級品は黄金の土台の上に金線を融着させ、その上に粉ガラスを置いて熱して研磨する有線七宝の技法エマイユ・クロワゾネで作られた。エマイユ・クロワゾネは王冠や聖遺物容器の装飾にも用いられ、ビザンツ美術の傑作とされる。
聖なるパイプ。アメリカ、カナダのインディアン部族が使う儀式の道具。アメリカインディアンは大自然のすべての事象は「大いなる神秘」のもとにあると考えている。日常のすべてがこの「大いなる神秘」との対話であり、聖なるパイプと煙草は、そのための大切な道具である。インディアンはパイプで煙草を吹かすことによって「大いなる神秘」と会話するのである。現在、一般的に喫煙道具として用いられているパイプは、このインディアンの儀式用道具から宗教的な意味を除いたものである。パイプの火皿で最も価値があるとされるのは、赤い石「カトリナイト(Catlinite)」を削ったもので、この石はミネソタ州の特定の場所でしか採れない。カトリナイト製の火皿は、大平原地域全域で重要な交易品として使用された。
□サバジオスハンド (Sabazios Hand)
サバジオスの手。古代の小アジアで信仰された豊穣神サバジオスの聖印。青銅製で親指と人差し指、中指を上にあげた右手を模している。さらに聖獣である蛇や蔓草や木の実などがまじりあった装飾が施されている。サバジオスはギリシア神話のディオニソスやゼウスと同一視され、小アジアからギリシア、イタリアにかけて信仰を集めた。
古代中国の殷代に作られた青銅製の方形の酒器。四方に羊を象った酒器であることから名づけられた。殷の青銅器文化は精緻な装飾文様や鋳造技術を持ち、その文化は周辺の地域にも伝播した。
ウルの旗章。紀元前2600年頃のシュメールの古代都市ウルの王墓遺跡から発掘された工芸品。横長の箱状で、前後左右それぞれの面にラピスラズリ、赤色石灰岩、貝殻などを瀝青で固着したモザイクが施されている。大きな面の一方には戦車と歩兵を従えた王が敵を打ち負かす“戦争の場面”、その反対側の面には山羊や羊、穀物の袋などの貢納品が運ばれ王と家臣が宴会を楽しむ“饗宴の場面”が描かれている。旗章と呼ばれているが、その実際の用途は明らかになっていない。
黄金の薔薇。金の装飾品で、ローマのカトリック教会の教皇が伝統的に祝福する贈与品。教会や聖地、有力な王侯貴族に敬意や愛情の証として授与された。黄金の薔薇は四旬節の第四日曜日「薔薇の主日」に教皇によって祝福される。シクストゥス4世の時代より前は、黄金製の一輪の薔薇をわずかに赤く染めたものだったが、それ以降は茨の枝に多くの花と葉が付けられ、ルビーや貴重な宝石が薔薇の中心部や花弁に飾られるようになった。
ロタールの十字架。神聖ローマ帝国皇帝オットー3世がケルンで作らせたとされる。神聖ローマ帝国のレガリアとして、アーヘン大聖堂で行われた皇帝の戴冠式に用いられた。黄金で作られた十字架で、表面にはイエスの磔刑像が施され、裏面にはローマ皇帝アウグストゥスのカメオがはめ込まれている。名称は裏面に西ローマ皇帝ロタール1世の印璽がはめ込まれていることに由来する。
聖遺物箱。聖遺物(relic)とはキリスト教のカトリック教会において、イエス・キリストや聖母マリアの遺品、キリスト受難に関わるもの、または諸聖人の遺骸や遺品を指す。その聖遺物を保管するために収める箱のことで、金銀細工で作られることが多い。
□ラ・マジェステ・ド・サント・フォア (La Majeste de Sainte Foy)
聖女フォアの遺物像。コンクにあるサント・フォア大修道院付属教会に安置された聖女フォアの遺骨の一部を納めた聖遺物箱。聖女フォアは、303年頃にローマの神々に祈りを捧げることを拒否して殉教した12歳の少女であったとされる。もともと殉教の地アジャンに安置されていたが、コンクの修道士の聖遺物略奪によってコンクにもたらされた。このような人形型の聖遺物箱は「栄光像(majeste)」と呼ぶ。
□仏舎利 (Sarira)
入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨や遺灰である真舎利の代用品。仏教伝来後の中国では、多くの僧が真舎利の奉納されたインドやタイに赴き、仏舎利塔の前で供養した宝石などを「真舎利の代用品」として持ち帰り、自寺の仏塔に収めた。この宝石を真舎利の代用として奉納する手法は古くから日本でも行われてきた。
入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨や遺灰。インドを統一したマウリヤ朝のアショカ王は、寺院に奉納されていた真舎利を発掘し、細かく破砕して小分けにし、周辺国を含めて8万余の寺院に再配布したとされる。
仏舎利を納めた仏塔。北宋の大中祥符四年(1011年)に作られ、南京の長干寺の仏塔に納められたもので、銀板に金を塗り、さらに瑪瑙玉、硝子玉、水晶玉を多数はめこんだ他に例をみない豪奢な逸品である。北宋代、インドのアショカ王が仏舎利を8万4千基の塔に分骨させたという故事から、仏舎利を納めた仏塔を寺院に奉納することが流行していた。
□モザイクスカルマスク (Mosaic Skull Mask)
アステカ神話のテスカトリポカ神の仮面。人間の頭蓋骨を基材にしたターコイズと亜炭のモザイクで作られた仮面。目は貝と黄鉄鉱で作られ、頭蓋骨の上に直接嵌め込まれている。頭蓋骨の後頭部は切り離され、革が張られている。高位の神官か皇帝が儀式で着用したものとされる。
翡翠片を繋ぎ合わせたモザイクの仮面。古代マヤ文明の王侯の陵墓に収められていた副葬品。パレンケ遺跡から発掘された7世紀に在位したパカル王の副葬品が特に有名である。
□グリークゴールデンマスク (Agamemnon’s Golden Mask)
アガメムノンの黄金仮面。ミケーネで発掘された竪穴墓から発見された伝説上の古代ギリシアの武将アガメムノンの副葬品とされる。アガメムノンはトロイア戦争におけるギリシア軍の総大将として知られる。
□ペイガンデイティマスク (Golden Mask of Pagan Deity)
異教神の仮面。アステカ神話における穀物の神、シペ・トテックを象った黄金仮面。死と再生の神で、自らの皮を剥いで人々に食料を与えるという。発芽するトウモロコシを表している。春分の祭りでは、この神に捧げるために生贄の生皮が剥され、司祭がそれを着て豊作の儀式を行ったとされる。
□ムーンゴッドゴールデンマスク (Sican’s Great Golden Mask)
プレインカ文化のロロ神殿から発掘された副葬品の黄金製大仮面。金の含有量の多い金銀銅の合金(トゥンバガ)でできており、朱で赤く彩色されている。目の部分には涙を表したエメラルド製ビーズが吊るされている。月の神シカンの姿を模しているとされる。
□ファラオゴールデンマスク (Golden Mask of Pharaoh)
古代エジプト王、ファラオの黄金面。副葬品として王のミイラに被せられたマスクであり、生前の王の顔に似せて作られたとされる。純度の高い黄金製で、貴石であるラピスラズリに似せた青色ガラスで着色されている。第18王朝のファラオ、ツタンカーメンのものが特に有名。王家の谷のツタンカーメンの墳墓を発掘した関係者が、発掘作業後に次々に急死したことから、盗掘者に呪いをもたらすという俗説が語り継がれている。
古代中国、秦から漢代にかけて貴人の副葬品として納められた玉の衣。ウィグルのホータン(和田)地方で産出する軟玉(ネフライト)、和田玉の玉片を金糸でつづり合わせて作られる。故人の身分によって用いられる糸が変わり、金縷玉衣・銀縷玉衣・銅縷玉衣などに分類される。『後漢書』劉盆子伝には当時の人間が玉衣の遺体保護・防腐能力を信じていたであろう記述が残されている。
水晶の髑髏。ベリーズ南部の古典期遺跡ルバアントゥンで発掘された実物大の精巧な頭蓋骨を象った水晶の彫像。製造方法や利用目的などは判っていない。
□ホーリーマンディリオン (Holy Mandylion)
自印聖像。聖骸布のひとつ。磔刑に処せられたイエス・キリストが、奇跡によって布に自身の顔の像を写したものと伝えられるイコン。伝承によれば、イェルサレムの敬虔な女性ヴェロニカが、十字架を背負い刑場へと歩くキリストを憐れみ、汗を拭うために自身のヴェールを差し出した。キリストが汗を拭ってヴェールを返すと、そのヴェールにはキリストの顔が浮かび上がったとされる。古くから多くの複製が作成されているが、伝承にある原本たるイコンの所在は不明となっている。
聖骸布。キリスト教の聖遺物のひとつ。イエス・キリストが磔にされて刑死した後、その遺体を包んだとされる布。縦4.36m、横1.1mの杉綾織の亜麻布である。生成りに近い象牙色の布の上に、痩せた男性の全身像がネガ状に転写されているように見える。裏には当て布が当てられ、はがすと人物の姿は見られず、血の染みのみが見られる。布上に残された全身像の痕跡から、頭を中心に縦に二つ折りにして遺骸を包んだと見られ、頭部、手首、足、脇腹部分には血痕が残っている。
ロンバルティアの鉄王冠。中世前期に作られた最も古い王冠のひとつであるとともに、キリスト教の聖遺物でもある。イタリアのモンツァ大聖堂に保管され、はじめランゴバルト王国の、後に中世イタリア王国の王権の象徴とされた。この王冠は黄金のサークレットの内側に幅1cmほどの鉄の輪を取り付けた構造になっている。この鉄の輪は、キリストが磔にされた際に使用された釘(聖釘)を叩き伸ばして細い帯状にしたと伝えられており、このことから「鉄王冠」と呼ばれ、また聖遺物とされている。
神聖ローマ帝国の皇帝冠。962年のオットー1世の戴冠式のため西ドイツで制作され、以後1806年の神聖ローマ帝国の解体まで、歴代皇帝の戴冠式に用いられた王冠。特徴的な八角形のフープ王冠で、ビザンチン皇帝の王冠やアーヘンに在るシャルルマーニュのパラティーノ礼拝堂の形を参照したとされる。王冠はサファイア、エメラルド、アメジストを含む144の貴石とほぼ同数の真珠で飾られている。また4面のプレートには七宝エナメルの碑文と聖書の人物や場面の絵画表現が刻まれている。
□マジャル・セント・コロナ (Crown of St.Istvan)
聖ステファンの王冠。ハンガリーの聖冠とも呼ばれる。ハンガリー王国初代王にして聖人に列聖されたイシュトヴァーン1世の遺物。戴冠式において、聖母マリアと王冠との契約を守るため、忠誠を誓ったという。以来、聖なる象徴としても信仰を集めている。
銀のリュトン。古代ペルシアからギリシアを含むバルカン半島一帯に掛けて用いられた角杯に似た容器。角状または鹿や山猫、羊、山羊など、その地で神聖視されていた動物の頭部を模した形の杯で、上部に大きな注入孔、底部または突端部に小さな流出孔がある。古代ではこのリュトンを通ったワインなどには、神聖な力が宿ると信じられていた。
髑髏杯。人間の頭蓋骨を材料として作られた盃。チベット仏教およびヒンドゥー教のタントラにおいては知恵や知識の象徴とされ、宗教上の儀式に用いられた。彫刻や貴金属や宝石などによる装飾が施されていた。
聖杯。最後の晩餐でイエス・キリストが用いたとされる杯。磔刑にかけられたイエスの血を受けたことにより、あらゆる傷や病を癒す奇跡の力を授かったという。中世の聖杯伝説では、病んだ漁夫王を癒すためにアーサー王の円卓の騎士がこれの探索を行ったとされる。
聖櫃。十戒の石板を収めていた契約の箱。神の啓示を受けた預言者モーゼの指示によって作られた。アカシアの木で作られ、表面は装飾を施した黄金で覆われた。前後に二本の担ぎ棒と下部四隅に脚が取り付けられ、上部には智天使の黄金像が二体飾られた。永らくイェルサレム神殿に安置されていたが、ユダ王国の衰退とともに失われてしまった。
□シュメリアン・クレイタブレット (Sumerian claytablet)
シュメールの粘土板。メソポタミア地方で栄えた古代文明シュメールの遺跡で発掘された粘土板。楔形文字(cuneiform)で記述されている。本来シュメール人によってシュメール語記録のために発明され、メソポタミア全域で用いられた。やがて近隣の他民族にも借用され、アッカド、バビロニア、エラム、ヒッタイト、アッシリアでそれら民族固有の言語を書くのにも用いられた。
□ファイストス・クレイディスク (Phaistos Claydisc)
ファイストスの円盤。クレタ島南岸のファイストス宮殿の内部で発見された直径16cmほどの粘土製の円盤。紀元前1600年代の火災によって焼き固められている状態で発掘された。両面に解読不能な絵文字がらせん状に記されている。両面に45種類、合計241の文字が記されている。各文字は正確に同じ形状をしており、印章のようなもので記録されたと考えられている。しかし、同じ文字が記された粘土板はまったく見つかっておらず、古代ギリシア語と音節が合わないことから、未だ解読されていない。
□ロンゴロンゴタブレット (Rongorongo Tablet)
ポリネシアのイースター島で発見された文字あるいは原文字ともみられる記号体系ロンゴロンゴで記された木片。ロンゴロンゴの記された24の文字板が発見されている。口伝の伝承では、ホトゥ・マトゥアという名の、島社会の伝説的創始者が、67の文字板を故郷から持ってきたという。島内部で独自に発達したものとされ、ごく少数の伝承者のみが使用できる神聖な文字であった。本土からの奴隷狩りや疫病によって伝承者が失われ、未解読文字となった。
インカ帝国で使われた紐に結び目を付けて数を記述する方法。ケチュア語で結び目を意味する。単色もしくは複数に彩色された紐で作られ、様々な形の結び目がついている。単なる記号以上の複雑な体系を持ち、言語情報を含んでいる。人口や農作物、家畜などの統計や裁判の判例などを記録していたとされる。
釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもの。古いものは紀元前4世紀に遡るとも考えられている。また仏足石は釈迦のものとは限らず、ヒンドゥー教のシヴァ神の足跡も信仰の対象とされている。足裏に千輻輪宝、金剛杵、双魚紋などの図があることもある。古代インドでは像を造る習慣がなかったため、このような仏足石を用いて釈迦を表現したとされる。
ピラミッドの頂点に置かれたキャップストーン。ベンベンとは、古代エジプトのヘリオポリス創世神話において、原初の水“ヌン”から最初に顔を出し、神が最初に降り立った原初の丘を指す。その原初の丘“ベンベン”を模して作られた石造りの四角錐で、ピラミッドやオベリスクの原型ともいわれる。表面は鍍金され、太陽光を受けて発光するかのように輝いていたとされる。
□ロゼッタストーン (Rosetta Stone)
エジプトのロゼッタで発見された石版。紀元前196年にプトレマイオス5世によってメンフィスで出された勅令が刻まれた石碑の一部。暗色の花崗岩でできた石柱であり、碑文は三つの文字、古代エジプト神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)、ギリシア文字で記述されている。遺失していたヒエログリフの解読方法の鍵となった。
□ディスティニーストーン (Stone of Destiny)
運命の石。リア・ファル(Lia Fail)とも呼ばれる。トゥアハ・デ・ダナーン神族がアイルランドにもたらした石で、王都タラに安置された。正統な王が戴冠式でこの石の上に立てば、叫び声を上げて予言すると言われる。スコットランド王家の守護石スクーン石(Stone of Scuin)との類似性が認められる。
ムスリムの聖宝。メッカに在るカアバ神殿の東隅に据えられた要石である。直径およそ30cmの黒曜石で、中世に受けた損傷で割れて幾つかの破片となっている。破片は銀の枠でまとめられ、銀の鋲で固定されている。イスラムの伝承では、アダムとイブにどこに祭壇を築き神に犠牲を捧げればよいかを示すため、天から降ってきた石とされる。大洪水で失われたが、大天使ガブリエルがその所在をアブラハムに示し、黒石とアダムの祭壇の場所が再発見された。アブラハムは息子イシュマエルに石を埋め込むために寺院の再建を命じ、作られたのがメッカのカアバ神殿であるとされる。
□ハンムラビコード・ステラ (Stela of Hammurabi Code)
ハンムラビ法典の石碑。古代バビロニア王ハンムラビの発布した法典が刻まれた石碑。玄武岩の石柱にアッカド語を楔形文字にて記録している。聖書の律法以前に作られた最も旧い法令集ともいえる。ハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」の記述で知られるが、実際にはいわゆる同害報復を要請するもので、無限報復を禁じるものである。現代の倫理観や常識をそのまま当てはめることはできないが、条文は男女平等や人権擁護と同じ指向性をもっており、身分差別を除いて人種差別や宗教差別を排除した公平、公正さに優れた法であった。
ルーン石碑。ルーン文字で銘が刻まれた石碑。中世以降に見られ、700年から1100年頃のヴァイキング時代に最も多く作られた。スカンジナビアではおよそ6千ものルーン石碑が確認されている。最も多いのが記念碑であり、次いで死者を追悼するためのもの、個人の業績を記すものなどがある。個々の石碑から多くのことを知ることはできないが、各地の碑文を蒐集することによって、言葉や詩文の発達、血族関係や命名の習慣、移住、神話の叙述、地名、ヴァイキングの遠征や交易について、またキリスト教の伝播の軌跡などが読み取ることができる。
マウリヤ朝第三代王アショカが建立した石柱。プラークリットによる詔勅が碑文として刻まれている。マウリヤ朝は南アジアの広い地域を征服し、アショカ王はカリンガ戦争で多くの犠牲を出したことを反省し、仏法のために勤めるようになった。自分の子孫が同じ過ちを犯さぬように、法勅を領内各地の岩や石柱に刻んだ。この碑文の置かれている場所は古代の通商路や巡礼地と一致するといわれる。砂岩でできており、柱の上には獅子や象、瘤牛、馬などの動物からなる柱頭が置かれていた。
□大秦景教流行中国碑 (Daqin−Jingjiao−Xingzhong−Zhongguo−Bei)
明末に長安の崇聖寺の境内で発掘された古碑。ネストリウス派(景教)の教義や中国への伝来などを刻す。唐代、建中2年(781年)に伊斯が建立した。431年にエフェソス公会議で異端として禁止されたネストリウス派は、西アジア、中央アジアに伝播し、当時西方に拡張していた唐に伝来した。その後、中央アジア出身の官人、伊斯が長安の大秦寺にこの碑を建立し、景教の教義や中国伝来の歴史を残した。
太陽の石。アステカの暦石。古代アステカ王朝6代皇帝アシャヤカトルが作らせたとされる。巨大な玄武岩に直径約3.6mの円形で中央の太陽神の周りに複雑なモチーフが施されている。文様は宇宙が今まで経て来た4つの時代を示しているとされる。カレンダーは1年365日を正確に示しており、アステカ人は暦に従い農耕と生け贄の儀式を行っていた。
□摩尼宝珠 (Mani)
竜王あるいは摩竭魚の脳内にあるとも仏舎利の変化したものともいわれる珠玉。これを得ればいかなる願いも叶うという。
□如意宝珠 (Cintamani)
仏教において霊験を表すとされる宝珠。地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、如意輪観音などの持物、三昧耶形とされる。これを手に入れるといかなる願望も成就し、財宝や衣服、飲食が得られるだけでなく、病気や苦悩を癒すという。また悪を除去し、濁った水を清らかにし、災禍を防ぐ功徳があるとされる。
□ノクテラコッタ (Nok Teracotta)
ノク文化のテラコッタ像。ノク文化はギニア湾岸のナイジェリア中部ジョス高原を中心に紀元前10世紀から紀元6世紀頃に栄えた鉄器文化である。ノク文化の土偶の種類は人物の頭部、全身像、象、蛇、サルなどの動物や家畜などがあるが完全なものはなく、おそらく呪術的な儀礼の際に破壊されたと考えられている。
□遮光器土偶 (Shakokidogu)
縄文時代に作られた土偶の一種。目に当たる部分がイヌイットの雪中行動をする際に着用する遮光器のような形をしていることから名付けられた。主に東北地方の縄文時代晩期の遺跡から発掘されることが多い。四肢など体の一部が欠損、切断された状態で発見されることが多いことから、多産や豊穣を祈願するための儀式において土偶の体の一部を切断したのではないかと考えられている。
□マザーゴッデス・イドール (Idol of Mother Goddes)
地母神像。ヴィレンドルフのヴィーナス。オーストリアのヴィレンドルフ付近の旧石器時代の遺跡から発掘された小像。この地方では産出しない石灰岩を彫刻して作られており、ベンガラで染められていた。写実的ではなく理想化された女性の姿を表しており、像の女陰、乳房、膨張した腹部は、多産や豊穣の象徴を意味している。
古代エジプトにおいて死者に代わって賦役労働に従事すると信じられていた副葬品の小人形。石製、木製、陶製、稀には象牙製のものもある。ひとつだけの場合や、1年分365個など多く副葬する場合もあった。第18王朝のファラオ、ツタンカーメンの副葬品のように人物彫刻として美術的に優れたものもある。
□タナグラ (Tanagra Figurine)
ギリシアのボイオーティア地方タナグラで紀元前4世紀後半から副葬品として作られたテラコッタ人形。型に粘土を入れておよその形を作り、型から出した後に彫刻して仕上げる。タナグラのほとんどは女性像であるが、男性像や少年像も見つかっている。ほとんどは普段着の姿を模しており、帽子や花輪、扇子などを装飾していることもある。1860年代の終わりまではあまり見つかっておらず、注目もされていなかったが、ヨーロッパの中流階級で写実主義の美術品として人気を博し、多くの人形が発掘され流通した。
唐代の彩陶の総称。日用品や部屋の装飾品よりも主に埋葬品として使用された。唐代の陶器の釉薬の色彩は非常に多く、クリーム色、赤褐色、薄緑、深緑、藍色、紫などがある。中でもクリーム色・緑・白の三色の組み合わせ、あるいは緑・赤褐色・藍の三色の組み合わせを主としていることから三彩と称されている。唐三彩はシルクロードを渡り、13世紀から15世紀半ば頃にかけてシリアやキプロス、イタリアに伝来した。また、日本(正倉院三彩)や他の東アジアにも陶芸品の影響を与えた。
踊るシヴァ神像。シヴァ神が丸い炎の中で片足を上げて踊っている姿の彫像。シヴァ神はヒンドゥー教学上の破壊神であるが、民間信仰ではそれにとどまらない様々な性格を持ち、それに従って様々な異名を持つ。その一つが“舞踏の王(ナタラジャ)”で、シヴァ神の活動は強く激しく宇宙の律動と繋がっており、それを象徴的に表しているという。
□グエノル・ライオネス (Guennol Lioness)
バグダッド近郊の古代メソポタミア遺跡で発見された石灰岩製の彫像。雌ライオンの頭部をもった筋骨隆々な人間を模った擬人化像。個人収集家アラステア・ブラッドリー・マーティンに購入されたことからグエノル(マーティンのウェールズ語読み)の名前を冠する。2007年12月サザビーズのオークションに出品され、当時彫刻作品としては最高額である5,720万ドル(約65億円)で落札された。
古代中国で死者を埋葬する際に副葬された彩陶の人形のうち、兵士や馬を象ったもの。秦の始皇帝陵に埋納されたものが特に有名である。始皇帝陵からは約8000体もの俑が発見されており、兵士の俑にはどれひとつとして同じ顔をしたものはない。指揮官、騎兵、歩兵と異なる階級や役割を反映させた造形は、始皇帝麾下の軍団を写したものである。兵馬俑の軍団は東方を向いており、旧六国を威圧したものとみなされている。
□ガンダーラ石仏 (Gandhara’s Buddhist Statue)
ガンダーラ地方で作られた石仏。ギリシア、シリア、ペルシア、インドなど近隣の様々な美術様式を取り入れた仏教美術として有名である。インドで生まれた仏教は当初、仏像そのものの偶像を崇拝することを否定していたが、この地でギリシア文明の影響を受けて仏像が初めて作られた。5世紀にエフタルの侵入によってガンダーラの繁栄は終わりを告げた。
□金剛力士像 (Wooden Vajradhara Statue)
奈良東大寺南大門に置かれた金剛力士像。大仏師運慶が中心となり、快慶、定覚、湛慶ら一門の仏師を率いて制作した木像。建仁3年(1203年)に、わずか69日で造られた。門に向かって右に吽形、左に阿形を安置するが、これは一般的な仁王像の安置方法とは逆である。運慶の作風は、男性的な力強い表情が特徴的である。また、様々な変化をつけた衣文、量感に富む力強い体躯なども特色として挙げられる。
□木造弥勒菩薩半跏像 (Wooden Maitreya Statue)
京太秦にある広隆寺が蔵する弥勒菩薩像。宝冠弥勒とも呼ばれる。飛鳥時代に創建された際の本尊であった。広隆寺は秦氏の氏寺であり、作風が新羅風であることから朝鮮から伝来したとも言われる。
□乾漆八部衆立像 (Dry lacquer Statue of the eight Devas)
奈良興福寺所蔵の八部衆立像。光明皇后が母橘三千代の一周忌に発願し、建立した西金堂に安置されていた。像造は百済からの渡来人将軍万福、彩色は秦牛養とされる。なお、五部浄像は大破し、胸から上の部分のみ現存する。また、阿修羅像は日本屈指の著名な彫像である。
黄金仏。タイのワット・プラヤーグライに安置されていた仏像。スコータイ時代に黄金で鋳造されたとされる。当時、地域の覇権を競っていたビルマ軍による略奪から逃れるために、全身に漆喰を塗り、普通の仏像であるかのように偽装されていた。
エメラルド仏。タイのワット・プラケーオ寺院に祀られている仏像。エメラルドで作られたとされるが、実際にはヒスイ製である。タイのみならず東南アジアの上座部仏教徒たちから尊崇され、巡礼を受けている。伝説によれば、インドラ神とその眷属ヴィスカンマが作ったとされる。パガン朝時代にスリランカより取り寄せられたが、その後諸国を流転し、最終的にはアユタヤへと伝わった。
シヴァ神の象徴とされる性器像。豊穣多産のシンボルとして寺院などに安置され崇拝されている。リンガとヨーニと呼ばれる二つの部分からなり、内側が受け皿状の円形のヨーニの中心部に丸い円柱のリンガが置かれる。ヨーニは女性器の象徴で、リンガは男性器の象徴であり、性交した状態を示す。
■珍味(Delicacy)■
□トラピストビール (Trappists Beer)
トラピスト会修道院で生産された上面発酵ビール。ヨーロッパでは飲用に適した水を確保することが難しかったため、代わりとなる飲料が発達した。修道院では中世から保存の利く飲み物としてビールやワインなどが作られ、修道士や訪れる巡礼者に振る舞われてきた。11世紀ころにベルギーのシメイに在るスクールモン修道院で作られたものが始まりとされる。トラピストビールは上面発酵のエールで、瓶詰後にも発酵熟成が継続されることが特徴である。そのため瓶のサイズや製造からの日数、年数により同じ銘柄でも味が異なってくる。
□僧坊酒 (Souboushu)
大寺院で醸造された日本酒の総称。高品質の酒として高い評価を受けていた。『延喜式』(927年)には宮内省造酒司(みきのつかさ)の御酒槽の仕組みが記されており、現代の日本酒とそれほど変わらない製法で酒が造られていたことが分かっている。平安時代の中期以降、官衙の衰退により技術や人員が朝廷の外に流出し、その受け皿となったのが大和や河内などの大寺院だった。寺院で造られた酒は“僧坊酒”と呼ばれ、高品質の酒として知られていた。代表的な僧坊酒としては、奈良の「南都諸白」(菩提山正歴寺の「菩提泉」や多武峯妙楽寺の「大和多武峯酒」など)、河内の観心寺の「観心寺酒」や金剛寺の「天野酒」、越前豊原寺の「豊原酒」、近江百済寺の「百済寺樽」などが名高かった。
□老酒 (Laojiu)
中国の黄酒(Huangjiu)を長期間熟成させたもの。飲用にしたり調味料として用いたりする。糯米と麦麹、酒薬から造られる。越州紹興地方で作られる紹興酒が代表的である。紹興の古い習慣では、女児が産まれると誕生三日目を祝って贈られた糯米で黄酒を造り、1カ月後の満月の日に親戚を集めて祝宴をし、密封したその甕を埋める。その娘が嫁ぐときに甕を掘り起こし、甕に彫刻を施して彩色したものを花彫酒と呼んで持たせたという。紹興酒は熟成した年数(陳年)によって味が変わる。熟成期間が長いと色は濃く、旨味は深く、酸味は少なくまろやかになる。中には40年、50年と熟成されたものもある。
葡萄酒。ワインは極めて歴史の古い酒のひとつであり、コーカサス山脈の南麓周辺では紀元前8000年頃から醸造され飲まれていたとされる。その後、オリエント一帯に伝播し、フェニキア人によって古代ギリシアへと伝わり、ローマ帝国の拡大と共に西欧にも広がった。中世ヨーロッパにおいてはキリスト教儀式の重要な道具となったことから、僧院によってブドウ栽培とワイン醸造が主導され、多くの産地が拓かれた。冷暗所で静かに保存され熟成を重ねたワインは、オールドヴィンテージと呼ばれ、好事家には高額で取引されている。
□サンケンシップワイン (Sunken Ship Wine)
沈没船から引き揚げられたワイン。難破して沈没した船に積まれていたスパークリングワインが、海底で奇跡的に熟成を重ねたもの。海底の環境が、ワインを劣化させる陽光を遮り、保存に適した水温を維持し、ボトル内のガス圧と同じ水圧を持ち合わせるといった最適な保存環境であった場合、数十年から百数年という長期間にわたってほぼ完璧な保存状態が維持されることがある。そのように沈没船から稀に引き揚げられたワインは、好事家たちに高額で取引されている。
□チクル (Chicle)
噛むことで口当たりを楽しむ嗜好品。アカテツ科のサポジラから採れる樹液を煮て作る天然樹脂である。中央アメリカのアステカ族やマヤ族の間では、この樹脂の塊を噛む習慣があり、やがてヨーロッパからの移民にもその習慣が広まった。
□デーツ (Date)
ナツメヤシの果実。北アフリカや中東では主要な食品のひとつである。ナツメヤシはヤシ科に属する常緑の高木で、北アフリカや西南アジアのペルシア湾沿岸が原産と考えられている。メソポタミアや古代エジプトでは紀元前6千年代には既にナツメヤシの栽培が行われていたとされる。聖書の生命の樹のモデルはナツメヤシとも云われている。イスラム諸国では伝統的にラマダン期間中の日没後、牛乳と共に最初に取る食事とされる。また乾燥させると長期保存が可能なため、サハラ砂漠の遊牧民やオアシスに住む者たちにとって大切な食糧であった。カロリーも高いため、主食として食されてきた。
□ペミカン (Pemmican)
新大陸のカナダおよびアメリカに先住するインディアンたちの伝統的な食品であり、携行食、保存食の一種。クリー語で脂肪を意味する言葉(pimihkan)が語源とされる。加熱して溶解した動物性脂肪に粉砕した干し肉やドライフルーツなどを混ぜ、密封して固めることで保存性を高めた食品である。毛皮交易の際の携帯保存食として広く利用された。ペミカン用の肉としてはアメリカバイソン、ヘラジカ、アカシカなどの肉が使われた。ドライフルーツは、クランベリーやサスカトゥーンベリーがよく使われた。チェリー、スグリ、セイヨウカマツカの実、ブルーベリーが使われたペミカンは、インディアンたちの冠婚葬祭など特別な場合に食べられた。また脂肪分の少ない肉と骨髄の脂肪で作られたペミカンは最上級とされた。
□キャビア (Caviar)
チョウザメの卵の塩漬け。高級食材として知られる。主な産地はカスピ海とアムール川だが、ヨーロッパの沿岸河川でも採られる。カスピ海のチョウザメの種類によって卵の粒の大きさと価値が異なる。ベルーガ、オシェトラ、セヴルーガなどから採取されるが、特にスターレットはめったに取れないため、そのキャビアはロシア皇帝への献上品とされた。
□トリュフ (Truffle)
西洋松露。セイヨウショウロ科のキノコの総称。高級食材として知られる。ギリシア・ローマ時代から食されていた。ローマ帝国滅亡後、しばらく忘れ去られていたが、14世紀頃のフランスでまた食されるようになる。フランス産のペリゴール・トリュフ(黒トリュフ)とイタリア産の白トリュフが特に珍重される。トリュフ狩りには犬や豚を用いる。なお犬や豚はトリュフの匂いを非常に好むため、見つけたらすぐに採らなければならない。
□フォアグラ (Foie gras)
高級食材のひとつ。ガチョウやアヒルなどにたくさんの餌を与え、肝臓を肥大化させて得る。古代ローマにおいて、干しイチジクをガチョウに与え飼育し、その肝臓を食べたのが始まりとされる。ローマ帝国崩壊後、これらの技法は衰退したが、ルネサンス期に復興し、富裕層の食材として用いられるようになる。
□エルヴンウェファー (Elven Wafer)
エルフの焼き菓子。レンバス(Lembas)。エルフ族の携行保存食。粗挽きの粉を焼いて作った非常に薄い焼き菓子。一枚食べるだけで一日活動できるだけの活力が付き、走りながら食べることもできるほど扱いやすく、非常に美味である。軽く持ち運びに適し、また葉に包まれたままで割れなければ何日でも効能が落ちない。大変貴重なもので、レンバスの貯蔵については、王妃が管理することが定められていたという。
■美術品(Artwork)■
□ローマンスカルプチャー (Roman Sculpture)
大理石の彫像。ローマではギリシアとは異なり、実在の人物の肖像彫刻が発達した。一方で、ギリシア彫刻の模刻も大量に制作された。ギリシア時代の巨匠の原作のほとんどは失われたが、ローマ時代の模刻を通してその作風を知ることができる。
□クリスエレファンティン (Chryselephantine Sculpture)
金象牙彫刻。人物像などの本体を象牙彫刻で作り、髪や衣装などを金細工で表現した彫像。古代ギリシアの彫刻家ペイディアスによってパルテノン神殿に献納されたアテナ・パルテノス像はこの方式で作られたとされる。
□グリークスカルプチャー (Greek Sculpture)
大理石の彫像。古代ギリシアの哲学者達は、美術を「熟練した洞察力と直感を用いた美的な成り行き」として定義している。そこで、絶対的な美の基本は見るものをどれくらい感動させられるか、という点にある。その結果、古代ギリシアの芸術作品は、完璧な美を備えている神々の姿をとった彫刻が多い。
□パルテノンマーブル (Parthenon Marbles)
古代ギリシア・アテナイの丘に建つパルテノン神殿を飾っていた諸彫刻。1800年、イングランドの外交官であった第7代エルギン伯トマス・ブルースが、オスマン帝国駐在の特命全権大使としてイスタンブールに赴任すると、パルテノン神殿の調査を始めた。神殿彫刻に関心を抱いたエルギン伯は、当時のスルタン、セリム3世から許可を得て、多くの彫刻を切り取って本国に持ち帰った。そのため、エルギンマーブルとも呼ばれる。彫刻の輸送で巨額の負債を抱えたエルギン伯は1816年に政府に寄贈し、その後大英博物館に展示されるようになった。
□カエサル・アウグストゥス (Caesar Augustus of Prima Porta)
プリマポルタのアウグストゥス像。古代ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの彫像。大理石製。プリマポルタにある皇妃リウィアのヴィラ跡から発掘された。アウグストゥス像は数多く作られたが、その中でも特に保存状態が良く、ほぼ完全な形で発見された。彫刻としての評価も高く、ローマ美術の代表作に挙げられる。
□ネフェルティティバスト (the Bust of Queen Nefertiti)
ネフェルティティの胸像。古代エジプト王国のファラオ、アメンホテプ4世の正妃ネフェルティティを模った彩色石灰岩彫刻。古代エジプトの芸術作品の中で、最も有名なもののひとつ。ナイル川湖畔のアマルナにある彫刻家トトメスの工房跡で発掘された。石灰岩を芯として彩色された化粧漆喰が被せられて作られている。完全に左右対称となっているが、右目には黒い石英の瞳が象嵌されているも、なぜか左目には施されておらず石灰岩の眼窩がむき出しになっている。
□ウィングドヴィクトリー (Winged Victory)
サモトラケのニケ像。ギリシアのサモトラケ島で発掘された勝利の女神ニケの彫像。大理石製。頭部と両腕部が欠落しているが、優美で躍動感に満ちた翼を広げた女性という特徴的なモチーフから、ギリシア文明の彫像の中でも高い知名度を誇る。
□ヴィーナス・デ・マイロ (Venus de Milo)
ミロのヴィーナス像。ギリシアのミロス島で発掘された美の女神アフロディーテの彫像。大理石製。両腕部が欠落している。また、発見時には碑文が刻まれた台座があったが、その後紛失している。欠落した両腕を復元しようと、さまざまな説が唱えられているが、定説は定まっていない。一説によれば、パリスの審判の際の林檎を手にしていたとされる。
古代ギリシアの大理石製の彫像。ギリシア神話のトロイアの神官ラオコーンとその2人の息子が海蛇に巻き付かれている情景を彫刻にした作品である。古代ローマの博物学者プリニウスによると、この彫像の作者はロードス島出身のアゲサンドロス、アテノドロス、ポリュドロスの三人の彫刻家であるとしている。『博物誌』によると、この像はローマ皇帝ティトゥスの宮殿に置かれていたとされる。1506年にローマ皇帝ネロの大宮殿ドムス・アウレアの近くから出土した。ローマ教皇ユリウス2世が入手し、ヴァチカン宮殿の庭園に置いた。発掘に立ち会ったミケランジェロに多大な影響を与えたと云われる。
ルネサンス期フィレンツェの芸術家ミケランジェロ・ブオナローティの彫刻。旧約聖書におけるイスラエル王国二代王ダヴィデを題材としており、巨人ゴリアテとの戦いに臨み、岩石を投げつけようと狙いを定める姿の大理石像。ルネサンス期を通じて最も卓越した作品のひとつであり、人間の力強さや美しさの象徴ともみなされる作品である。
ルネサンス期フィレンツェの芸術家ミケランジェロ・ブオナローティの彫刻。イエス・キリストの亡骸を抱きながら悲嘆に暮れる聖母マリアの大理石像である。4作品が制作されたが、サンピエトロ大聖堂のものを除き、未完成に終わった。サンピエトロのピエタは、古典的な調和、美、抑制というルネサンスの理想の最終到達点ともいうべき完成度を誇り、ミケランジェロの数多い作品の中でもとりわけ洗練され、精緻を極めた最高傑作である。
□フォージドペインティング (Forged Painting)
贋作絵画。オリジナルとは別の作者によって模写、模作され、作者の名を騙って流通する絵画。人気の出た画家の作品は需要が高まり、その作品を求める購買希望者を騙して金銭を得るために、作品を模した模写、複製が出回ることがある。ごく稀にだが、優れた技術と表現力をもった贋作者の作品は、時としてオリジナルを上回る価値を付けられる場合がある。
□パネルペインティング (Panel Painting)
板絵。木製の板の上に描かれた絵画。キャンバスが普及する16世紀半ばまでよく用いられた。板絵の歴史は非常に古く、古代ギリシアやローマでも一流の芸術品と見なされていた。またビザンチン美術のイコンも板絵である。13〜4世紀のイタリアでは板絵が全盛期を迎えており、特に祭壇画など宗教的な題材を扱ったものはほとんどが板絵に描かれていた。15世紀頃になると、ルネサンスの影響により宗教を題材としない絵画も多く描かれるようになった。
□山水画 (Shanshui−Hua)
自然を題材とした画の総称。現実の景色の再現を意図した作品もあるが、型による山岳、樹木、岩石、河川などの添景を、再構成した「創造された景色」が多い。宋代以降、士大夫(文人)が自ら筆をとった画、すなわち文人画が重要な位置を占めるようになった。中国の文人には、伝統的に老荘思想に基づく隠逸への志向があった。文人にとっての山水画とは、単なる風景画ではなく、彼らが理想とした、俗世間を離れた理想郷を表したものであった。
□道釈画 (Daoshin−Hua)
道教と仏教に関する人物画の総称。魏・晋代から描かれるようになり、唐代に隆盛となった。初めは山水画より優位におかれ、呉道玄のように道釈人物画にすぐれたものが最高位におかれた。鎌倉末以降の日本でも多く描かれた。水墨画形式が多く、出山釈迦、維摩、羅漢、達磨、寒山拾得などが題材にされた。
□フレミッシュペインティング (Flemish Painting)
フランドル絵画。15世紀頃のネーデルラントの経済的な繁栄を背景にフランドルで発展した絵画。徒弟制度と工房を活用した制作手法によって多くの芸術品を生産することが可能で、諸国の王侯貴族からの直接注文、公開市場のどちらにも良質な作品を供給することができた。ファン・エイク兄弟が確立した油彩画の技法はイタリアルネサンスにも大きな影響を与えた。また、バロック期にかけてルーベンスらが活躍した。
□イタリアンペインティング (Italian Painting)
イタリアでは、古典古代の文化復興運動としてルネサンスが、13世紀終わりに勃興し、15世紀初めから16世紀半ばにかけて最盛期を迎えた。ルネサンス期にイタリアで描かれた絵画作品は、芸術分野以外でのルネサンス運動、例えば哲学、文学、建築、神学、科学など様々な要素を反映している。さらには当時の社会情勢も、絵画作品へ大きな影響を与えた。特にフィレンツェでは、ジョット、マサッチオ、ブルネレスキ、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロら、錚々たる芸術家を輩出している。またヴェネツィアでも同様に、ベッリーニ一族、マンテーニャ、ジョルジョーネ、ティツィアーノ、ティントレットらが活躍した。
□瀟湘八景図 (Xianxiang−Bajing−Tu)
中国の山水画の伝統的な画題。瀟湘は湖南省長沙一帯の地域。洞庭湖と流入する瀟水と湘江の合流するあたりを瀟湘といい、古来より風光明媚な水郷地帯として知られる。北宋時代の高級官僚、宋迪はこの地に赴任したときにこの景色を山水図として画いた。後にこの画題が流行し、やがては日本にも及んだ。
救世主や聖人、天使、聖書における重要な出来事や例え話、教会史上の出来事を描いた絵画。その形状は板絵のみならずフレスコ画、写本挿絵、モザイク画など多様である。その起源はキリストが布で顔を拭った際に、その布にキリストの顔が写ったという奇跡(自印聖像)という。イコンは偶像崇拝にあたるのではないかという神学上の議論からイコノクラスム(聖像破壊運動)が起きたが、最終的には信仰の対象ではなく信仰の媒介として認定された。様式化され写実的な描写に乏しいとされるものが多いが、末期には古代ギリシア文化の復興を受けて写実的なフレスコ画なども多く描かれた。
□マミーポートレイト (Fayum Mummy Portrait)
ミイラ肖像画。古代エジプト末期頃から死者のミイラとともに埋葬された埋葬者の肖像画。木の板に描かれた伝統的な絵画作品で、自然主義的な作風は後世に高く評価されている。エジプト各地で発見されているが、ファイユームのハワーラとアンティノポリスから出土したものがよく知られ、「ファイユームのミイラ肖像画」と呼ばれることもある。ミイラ肖像画はエジプトがローマ帝国の属州だった紀元前1世紀頃から発展した風習である。その後、コプト美術のみならずビザンチン美術や西洋美術にも影響を与えた。
南宋末元初の僧、牧谿の傑作。法諱は法常だが、号の牧谿と呼ばれるのが通例である。南宋の首都臨安にあり、西湖畔の六通寺に住み活動した。独特な技法により描かれる、見る者に湿潤な大気を実感させる水墨画は評価が高く、作品が伝来した日本の水墨画に大きな影響を与えた。
□紅白芙蓉図 (Hongbai−Furong−Tu)
南宋の宮廷画家、李迪の作。李迪は南宋の孝宗、光宗朝から寧宗朝の前期に活躍した画院画家で、花鳥画を得意とした。本図は酔芙蓉を写したものと思われる。写実的で細緻な表現は秀逸であり、南宋院体花鳥画の最優品である。各幅に「慶元丁巳歳李迪画」の落款があり、慶元3年(1197年)の作だとわかる。
□マドンナ・メット・カノン・ジョリス・ファン・デル・パーレ (Madonna met kanunnik Joris van der paele)
フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクの描いた油彩画。『ファン・デル・パーレの聖母子』。オーク板に油彩で描かれた板絵。ブルッヘの聖ドナトゥス協同教会での墓碑祭壇画として制作依頼されたもの。複雑で精緻な空間描写、寓意的表現がなされ、中東の絨毯が描かれたルネサンス期の絵画の中でも白眉とされる。後の装飾写本にも大きな影響を与えた。
□ヴェネレ・ドルミエンティ (Venere dorminente)
『眠れるヴィーナス』。33歳で夭逝したヴェネツィア派の天才画家ジョルジョーネの代表作。キャンバスに油彩で描かれている。背景に描かれている丘に溶け込むような輪郭をもつ裸婦の肖像画である。ジョルジョーネは独特の詩的な作風の画家として知られる。ただ一人の裸の女性を主題に選んだことは絵画史上の大変革であり、後世の絵画に多大な影響を与えた。
□ラファエロカルトン (Raphael Cartoons)
ラファエロ・サンティが描いたヴァチカン宮殿システィーナ礼拝堂の特別な儀典のときにのみ内装に飾られるタペストリの制作用下絵(カルトン)。原寸大で10点のカルトンが描かれた。『福音書』と『使徒行伝』のエピソードをモチーフとして、ローマ教皇レオ10世の依頼で描かれた。このカルトンをもとにした版画も流通し、後世の芸術家たちに多大な影響を与えた。
フィレンツェの画家サンドロ・ボッティチェリの絵画。木板にテンペラで描かれた板絵。六人の女性と二人の男性が描かれ、春に成長を遂げる世界のアレゴリーとされる。トスカーナ大公コジモ1世の宮殿ヴィッラ・カステッロに飾られていた。ボッティチェリはフィレンツェ派の代表的な画家で、メディチ家の保護を受け、宗教画や神話画などの多くの傑作を残した。
□瀟湘臥遊図巻 (Xiaoxiang−Woyou−Tujuan)
北宋末の文人、李公麟の作として伝世した宋代水墨山水画の名品。清の乾隆帝が愛蔵した四名巻のひとつであった。筆者は南宋の乾道6、7年(1170、71)の章深などの跋文より李公麟ではなく、同郷の舒城の李という画家であることがわかる。景勝の地として名高い瀟湘の山川をきわめて微妙な水墨の濃淡により大観的に見事に描いている。
□清明上河図 (Qingming−Shanghe−Tu)
中国北宋の都、開封の都城内外の殷賑の様を描いた画巻。北宋末期の画家、張択端の作品。清明の時節、都の東京開封府の内外の人士が行楽して繁栄する様子を描いている。季節は春たけなわであり、その絵画的な精細描写の価値とともに、当時の市街図や風俗図として、極めて資料的価値も高いものである。明代以降、この画巻の名声を受けて画題や構図などを継承し、同名の画巻が数多く描かれた。
□マドンナ・デル・グランデュカ (Madonnna del Granduca)
ルネサンス期の芸術家ラファエロ・サンティの描いた油彩画。ラファエロは生涯に数多くの聖母子像を描いたが、中でも傑作として名高いのが、『大公の聖母』と呼ばれるこの作品である。トスカーナ大公であったハプスブルク家のフェルディナント3世が所蔵し、公務で出向する際や私的な旅行でさえ、片時も手放さなかったとされる。
イタリアルネサンスの万能人レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油彩画。『モナリザ』の名で知られる。上半身のみが描かれた女性の肖像画。モデルはフィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンドだとされている。ポプラ板に油彩で描かれた板絵。謎めいた画題の不確かさ、スケールの大きな画面構成、立体描写の繊細さ、だまし絵めいた雰囲気など、さまざまな点において斬新であり、今なお人々を魅了し続けている。
□ウラジミールテオトコス (Theotokos of Vladimir)
ウラジミールの生神女。ロシア正教会で最も有名な生神女のイコンであり、世界中の正教会で広く崇敬され模写され続けている代表的な生神女マリヤのイコンのひとつ。カトリック教会でも用いられていることがある。母である生神女マリヤと子であるイイスス・ハリストスが頬を寄せ合って描かれているエレウサ型(慈憐の意)の形式である。正教会の伝承では聖ルカによって描かれたとされる。1395年、ティムール朝の侵攻がモスクワ大公国に迫る中、ヴァシーリー1世はウラジミールからこのイコンをモスクワに借り受けた。ヴァシーリー1世をはじめとしたモスクワの住人がこのイコンに夜通し祈り続けると、翌朝ティムール朝の軍は引き揚げていたという。この奇跡がきっかけでこのイコンはモスクワの生神女就寝大聖堂に納められることとなった。
□ニュルンベルクエッグ (Nuremberg Egg)
ニュルンベルクの時計職人ピーター・ヘンラインの発明した懐中時計。ヘンラインはゼンマイバネを用いた円筒形の懐中時計を発明し、その形状から“ニュルンベルクの卵”と呼ばれた。
□マリー・アントワネット (Marie Antoinette)
黄金の懐中時計。天才時計職人アブラアム・ブレゲの手がけた最高傑作の時計。フランス王妃マリー・アントワネットの発注により制作されたが、完成を待たずにアントワネットはフランス革命によって処刑され、ブレゲ自身も制作中に亡くなったが、弟子たちが仕事を受け継ぎ完成させた。この時計にはクリスタル製の透明な文字盤が嵌め込まれていて内部機構を楽しめるようになっており、その内部機構には当時最新鋭の技術が組み込まれている。
望遠鏡。口径の大きな対物レンズと口径が小さい接眼レンズを組み合わせることによって、物体像を拡大して観測できる。1608年にネーデルラント人レンズ職人ハンス・リッペルスによって、対物レンズが凸レンズで、接眼レンズが凹レンズであれば正立像が得られるガリレオ式望遠鏡が発明された。1611年に凸レンズを接眼レンズにした倒立像だがより高い倍率を得られるケプラー式望遠鏡がドイツ人の天文学者ヨハネス・ケプラーによって発明された。ケプラー式は不便で高価なため、17世紀の間は一般に正立像を得られるガリレオ式が用いられた。
□候風地動儀 (Houfeng−Dedong−Yi)
後漢の政治家、科学者、詩人であった張衡の考案した世界最古の地震計。銅製で外形は酒瓶に似ており直径は八尺ほど。円筒の周囲八方向に突起した竜が配置され、そのそれぞれの口には球を含んでいる。円筒中にある都柱が地震に従って動き、発生方向の1つの竜の口から球が転落する。その下で口を開けて上を向いた蟾蜍の口の中に入り、大きな音を発し震央の方角を知らせるようになっていた。
□アストロノミカルクロック (Astronomical Clock)
天文時計。太陽、月、十二宮の星座、時には主要な惑星の相対的な位置など天文学的な情報を示すための特殊な装置と文字盤を備えた時計。ヨーロッパでは14世紀頃には機械式時計が存在していたとされる。この頃、天文学者や占星術師はアストロラーベを使って太陽や月、恒星などの運行を測っていたが、これを機械化して自動的に動作する模型を作ろうとした。1350年代にパドヴァの天文学者ジャコポ・デ・ドンディ、ジョバンニ父子によってカピタニアート宮殿に初の天文時計が設置された。初期は時計台に置かれる大型の物がほとんどだったが、やがて技術が進んで小型化し、展示品として見栄えがいい置時計も作られるようになった。
□プラネタリウム (Planetarum)
天体運行を計算するために作られた古代ギリシアの歯車式機械。天文学と数学の理論に基づいて製作されており、紀元前150から100年頃に作られたと推測されている。30以上の精巧な青銅製の歯車を組み合わせ、クランクを回転させると機構が太陽、月やその他の惑星の位置を計算する。機械の目的が地上にいる観測者を基準とした天球上での天体の位置計算のため、天動説に基づいている。現存するものは、地中海のアンティキティラ島沖の沈没船から回収された錆びて破損したものが唯一で、同様の複雑さを持った技術工芸品は、その1000年後まで現れることはなかった。
□インペリアルイースターエッグ (Imperial Easter Egg)
金細工師ファルベジェ家によって作られた宝石装飾の施されたイースターエッグの内、ロマノフ朝ロシア皇帝のために作られたもののこと。皇帝アレクサンドル3世やニコライ2世が皇后や母后であるマリアとアレクサンドラのために金細工師ピーター・ファルベジェに特注で作らせた。美しく精巧な工芸品で、多くのものにはサプライズと呼ばれる独創的な仕掛けが施されている。十月革命まで毎年のように発注され、合計58個が作られたとされる。
孔雀の玉座。当初ムガル朝の玉座として、後にアフシャール朝のナーディル・シャーからパフラヴィー朝のモハンマド・シャーに至るイランのシャーたちの玉座として用いられた。孔雀の玉座の名は、その背面に描かれた二羽の孔雀に由来する。その尾は広げられ、全体にサファイア、ルビー、エメラルド、真珠など様々な宝石が散りばめられている。ムガル朝のシャー・ジャハンのために製作され、帝都デリーの謁見の間に置かれていた。後にアフシャール朝の侵攻によって略奪されて以来、イランの玉座となる。
□アマティ (Amati)
イタリアの弦楽器職人アマティ一族の製作した弦楽器。アンドレア・アマティはクレモナを拠点とし、近代的なヴァイオリン族の楽器の原型となる形を与えた。息子のアントニオ、ジロラーモ兄弟も楽器職人として成功し、アマティ一族の名を上げた。孫のニコロは一族で最も優秀な職人とされ、クレモナをヴァイオリンの一大生産地にした。多くの弟子を育て上げ、アントニオ・ストラディバリやアンドレア・グァルネリなどの名工を輩出した。
□グァルネリウス (Guarnerius)
イタリア北西部クレモナ出身の弦楽器職人グァルネリ一族の製作した弦楽器。ニコロ・アマティの直弟子であるアンドレアを始め、息子のピエトロ、ジュゼッペ兄弟、孫のピエトロやバルトロメオが知られる。特に一族の中でも最も名声の高いバルトロメオ・ジュゼッペ・アントーニオ・グァルネリの製作したヴァイオリンは「グァルネリ・デル・ジェス(Guarneri del Gesu)」と呼ばれる。
□ストラディバリウス (Stradivarius)
イタリア北西部クレモナで活動した弦楽器職人アントニオ・ストラディバリの製作した弦楽器。ヴァイオリンやヴィオラ、チェロ、マンドリン、ギターなど約1100から1300挺の楽器を製作したとされる。ストラディバリの製作した弦楽器には、ラテン語にて“アントニウス・ストラディウァリウス・クレモネンシス”というラベルが張られている。ここから彼の手による弦楽器は「ストラディバリウス」と呼ばれる。ストラディバリウスは演奏家や蒐集家の羨望の的であり、高額で取引されている。
□螺鈿紫檀五弦琵琶 (Raden−Shitan−Gogenbiwa)
正倉院に収蔵されている五弦琵琶。唐代に聖武天皇に献上された。南インド産の紫檀に螺鈿細工を施したもので、インドから中央アジアの亀茲国経由で唐に入り、日本にもたらされたとされる。世界で唯一残る古代の五弦琵琶。五弦琵琶が廃れた理由としては、四弦琵琶より音域が狭く、演奏法が難しかったからとされる。
□葉二 (Ha−Futatsu)
竜笛の名器。管弦の名手である博雅三位が朱雀門の鬼と互いの笛を交換して得たとされる。笛には葉が二つ付いており、ひとつは赤くひとつは青かったため“葉二”と名付けられた。
■書籍(Books)■
□グーテンベルク・バイブル (Gutenberg Bible)
15世紀にドイツのヨハネス・グーテンベルクが活版印刷技術を用いて印刷した世界初の印刷聖書。当時最も広く流通していたラテン語聖書「ヴルガータ(Vulgata)」をテキストとしている。羊皮紙に印刷されたものと紙に印刷されたものがあり、180部が印刷されたと考えられている。グーテンベルクは1439年頃にヨーロッパで初めて活字による印刷を行った。金属活字、油性インク、木製印刷機を組み合わせて実用的な印刷システムを発明したことによって、本の大量生産を可能にし、印刷革命が始まった。
□ヒストリアイ (Historiai)
『歴史』。ハリカルナッソスのヘロドトスが記した歴史書。アケメネス朝ペルシアと古代ギリシア諸都市国家間の戦争を中心的主題として、ペルシア建国および拡大、オリエント世界各地の歴史、風俗や伝説をちりばめた地誌でもある。後にアレクサンドリアの学者によって9巻に分けられ、各巻には学芸の女神ムーサたちの名前が冠された。
□史記 (Shiji)
中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された歴史書。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。この『史記』の記述方式が、その後の中国諸王朝の正史記述の雛形となった。歴史的価値だけでなく文学的価値においても高い評価を得ている。
□ヒストリア・レグム・ブリタニアエ (Historia Regum Britanniae)
『ブリタニア列王伝』。中世イングランドの聖職者、歴史家であるジェフリー・オブ・モンマスがラテン語で書いたブリテンに関する偽史書。ホメロスの『イーリアス』に登場するトロイア人たちの子孫がブリテン国家を建設するところから、7世紀のアングロサクソン人によるブリテン支配までの、2000年間のブリトン人王たちの生涯を年代順に物語っている。“アーサー王物語”などブリテンの話材の核となっている。
□ヴルガータ (Vulgata)
ラテン語訳聖書。1545年に始まったトリエント公会議においてラテン語聖書の公式版として定められた。4世紀の神学者ヒエロニムスによる翻訳とされる。382年に時の教皇ダマスス1世の命によりローマで新約聖書から翻訳を始め、386年にパレスチナに移り旧約聖書の校訂に取り掛かった。意味の明快さと文体の華麗さにおいて従来のラテン語訳をはるかに凌ぐ出来であった。中世初期には西欧の全域で広く用いられた。
□レゲンダ・アウレア (Legenda Aurea)
『黄金伝説』。ジェノヴァの大司教ヤコブス・デ・ウォラギネによるキリスト教の聖人伝集。イエス・キリストや聖母マリア、大天使ミカエルの他、100名以上にものぼる聖人たちの生涯が章ごとに紹介され、その分量は『旧約聖書』と『新約聖書』を足した量に匹敵する。最初の章ではキリストの降誕と再臨が記されており、『新約聖書』の続編として読むこともできる。中世ヨーロッパにおいて聖書に次いで広く読まれ、文化や芸術に大きな影響を与えた。
『百詩篇』。フランスの占星術師ミシェル・ノストラダムスの著作である予言書。四行詩と散文による序文から成る。ノストラダムスは元ペスト医で、やがて占星術師として活動し、1550年から67年まで翌1年を予言した『暦書』(Almanach)を刊行して名声を得た。この『百詩篇』は出版当時から遠い未来までの予言を収めたと称される予言書で、多くの信奉者によって今日に至るまで様々に解釈されている。
□ヴィタエ・パラレラエ (Vitae Parallelae)
『対比列伝』。『プルターク英雄伝』とも呼ばれる。ローマ帝国の著述家プルタルコスが記した古代ギリシア・ローマの著名人の伝記集。人となりや言動の似た人物を二人一組で対比させてゆく伝記22編と、セットだが対比ではない単独伝記4編からなる。著作は文学的にも優れているが、史料としても評価が高く、古代ギリシア・ローマ史研究の第一級史料として扱われている。
□開皇律令 (Kaihuang−Luling)
隋の文帝が、581年に制定、公布した律令。律令とは、律(刑法)と令(行政法、民事法)からなる法典。開皇律令は高度に体系化、整備された内容をもち、律令のひとつの完成形とされる。後続の唐代にも幾度か律令が制定、公布されたが、これらも開皇律令をおおむね踏襲している。律令を運用していく中で、律令に規定していないことや現実にそぐわない状況が生じることがある。そのため、律令の規定を補足・改正する格や律令や格を実際に施行する上での細則である式が制定された。唐の太宗が制定した貞観格式が最初の格式である。
□ゲオグラフィア (Geographia)
『地理学』。ローマ帝国五賢帝時代のギリシア人学者クラウディオス・プトレマイオスの著作。プトレマイオスは数学、天文学、占星学、音楽学、光学、地理学、地図製作学など幅広い分野にわたって業績を残した。この『ゲオグラフィア』に収められている地図は、世界で初めて経緯線を用いたものであり、古代の地理に関する知識を集成したものである。後世の大航海時代にも影響を及ぼし、クリストバル・コロンの西回り航路のヒントとなった。
□ゲオグラフィカ (Geographica)
『地理書』。ローマ帝国ティベリウス帝代の地理学者、歴史家、哲学者であるストラボンの著作。全17巻。その範囲として西はイタリア半島西岸のトスカーナ、南はエチオピアに及ぶ。地中海沿岸諸都市のみならずエジプト、クシュなど内陸にも旅し、その見聞を記した。地中海沿岸の都市の詳細な叙述で知られ、地域の記載のみならず歴史やその都市の伝説にまで触れて、当時の歴史や地理を知る上で重要な書物である。
□ペリプルス・マリス・エリュトゥラエイ (Periplus Maris Eryhtraei)
『エリュトゥラー海案内記』。古代インド洋近辺における海洋貿易についてギリシア語で記された航海案内書。紀元前40年から70年頃に成立したと推定され、ローマ領エジプト州に住んでいたギリシア人航海者によって著されたと思われる。インド洋に吹く季節風を利用した遠洋航海を行う貿易業者のために書かれた。当時、ローマ帝国と南インドのサータヴァーハナ朝間では季節風貿易が行われており、アラビア半島から東南アジアに至る広い地域の各港での交易品や各地の特産品などについて記述されている。
□コメンタリ・デ・ベッロガリコ (Commentarii de Bello Gallico)
『ガリア戦記』。共和制ローマ末期の政治家、軍人のガイウス・ユリウス・カエサルが記したガリア戦争の遠征記録。全8巻からなり、紀元前58年から同51年にかけて8年間にわたるガリア、ゲルマニア、ブリタンニアへの遠征について記述している。文中の所々にガリア人、ゲルマン人の風俗についての記述がある。続編として、ルビコン渡河以降のローマ内戦を記録した『内乱記』があり、当初はひとまとめにされていたと推測されている。簡潔明瞭かつ洗練された文章はラテン語文学の最高傑作とも評される。
□ガレノスメディカルブック (Galen’s Medical Books)
ローマ帝国、マルクス・アウレリウス帝時代のギリシア人医学者ガレノスによって記された医学書。ガレノスは自身の臨床経験と多くの解剖によって体系的な医学を確立し、古代における医学の集大成をなした。ローマ帝国滅亡後、東ローマ帝国やイスラム諸国に伝わり、イスラム医学(ユナニ医学)の基礎となった。
□プラトニック・コーパス (Platonic Corpus)
プラトン名義の著作を集成した全集叢書。ローマ帝国ティベリウス帝の廷臣にして文法学者トラシュロスが編纂した哲学者プラトンの全集。トラシュロスは当時伝わっていたプラトンの著作群から真作と考えた36篇を抜き出し、ギリシア悲劇の四部作形式にならい、9編の4部作集にまとめた。
□アリストテリアン・コーパス (Aristotelian Corpus)
アリストテレス名義の著作を集成した全集叢書。ペリパトス派の第11代学頭ロドスのアンドロニコスがアリストテレスの著作群の中から講義、研究文献を抜き出して編纂した。アンドロニコスは各著作を論理学、自然学、形而上学、倫理学、政治学に分類した。
ローマ帝国五賢帝時代のギリシア人学者クラウディオス・プトレマイオスの著した天文学書(幾何学書)。プトレマイオスは数学、天文学、占星学、音楽学、光学、地理学、地図製作学など幅広い分野にわたって業績を残した。プトレマイオスの手による原典は失われたが、12世紀頃にアラビア語写本からラテン語訳されて再発見された。本書にて書かれた天動説は、惑星運動を説明するモデルとして1000年以上に渡ってアラブおよびヨーロッパ世界における天文学の基礎知識として受け入れられた。
□イーリアス (Ilias)
古代ギリシアの詩人ホメロスによる長編叙事詩。題名は「イーリオス(トロイア)についての歌」の意。ギリシア神話を題材として、トロイア戦争十年目にあるきっかけで生じたギリシア方の英雄アキレウスの怒りからイーリオスの英雄ヘクトルの葬儀までを描いている。古代ギリシア最古の叙事詩にして最高のものと評価されている。ホメロスが『イーリアス』を作ったのは紀元前8世紀半ば頃であり、当初は口承にて伝えられていたが、紀元前6世紀後半のアテナイで文字化され、紀元前2世紀にアレキサンドリアで今日伝わる形にまとめられたとされる。
□メタモルポーセース (Metamorphoseon libri)
『変身物語』。古代ローマの詩人オウィディウスによるラテン文学の名作。15巻で構成されており、ギリシア・ローマ神話の登場人物たちが動物、植物、鉱物、星座などに変身していくエピソードを集めた物語である。中世文学やシェイクスピア、グリム童話にも大きな影響を与えた。ナルキッソスが呪いにより自己愛に取り憑かれて水仙になる話、そのナルキッソスを愛するエコーが木霊になる話。蝋で固めた翼で空を飛んだイカロスが墜落死する話、アポロンに愛されるもゼピュロスの嫉妬によってアポロンの投げた円盤に当たって死んでしまったヒュアキントスがヒヤシンスになる話など、非常に有名なエピソードが収録されている。
□ダス・ニーベルンゲンリート (Das Nibelungenlied)
『ニーベルンゲンの歌』。中高地ドイツ語で1200年から1205年頃に書かれた叙事詩。ネーデルラントの英雄、竜殺しのジークフリートの非業の死と、ブルグント国王の妹でジークフリートの妻クリームヒルトの復讐劇を描いている。元となったジークフリートの物語は北欧神話のシグルズの物語と起源を同じくし、後半のクリームヒルトの物語は12世紀末にドナウ川流域で作られたブルグント族の滅亡をうたった叙事詩に由来する。
□デカメロン (Decameron)
フィレンツェの散文詩人ジョヴァンニ・ボッカッチョによる物語集。1348年に大流行したペストから逃れるために邸宅に引きこもった男3人、女7人の10人が退屈しのぎの話をするという趣向で、10人が10話ずつ語り、全100話からなる。内容はユーモアと艶笑に満ちた恋愛話や失敗談などが語られる。
□カンタベリー・テールズ (The Canterbury Tales)
『カンタベリー物語』。イングランドの詩人ジェフリー・チョーサーによる物語集。カンタベリー大聖堂への巡礼の途中、たまたま宿で同宿した様々な身分、職業の者が、旅の退屈しのぎに自分の知っている物語を順に語っていく枠物語の形式をとっている。ジャンルは騎士道物語、ブルターニュのレー、説話、寓話、ファブリオーとさまざまである。中英語で書かれている。
□ロマン・デ・ローズ (Le Roman de la Rose)
『薔薇物語』。中世フランスの教訓寓意詩。1230年頃にギョーム・ド・ロリスによって書かれた第一部は宮廷趣味の恋愛作法を幻想的に描き、1270年頃にジャン・ド・マンによって書かれた第二部は、愛欲的恋愛観を社会批評を交えて展開する。様々な知識や教養を盛り込んだ百科全書的な恋愛作法の書として広く読まれ、後代に大きな影響を与えた。
□パフュームドガーデン (The Perfumed Garden)
『匂える園』はムハンマド・イブン・ムハンマド・アル=ナフザウィによって書かれたアラビア語による性典である。正式な題名は『官能の悦びの匂える園(al−rawd al−atir fi nuzhati’l khatir)』。ハフス朝君主アブー=ファーリスの命によって編纂されたという。本書には、魅力的な男女となるために必要な資質や、性交時の技巧(インド由来の珍妙な体位を含む)、性の健康に関する知識、性病の治療法などが解説されている。また、これら解説の合間に、娯楽的な挿話が全体的な流れを補うように挟み込まれている。
□金瓶梅 (Jing−Ping−Mei)
明代の長編小説。蘭陵笑笑生の作とされる。中国四大奇書のひとつ。『水滸伝』の武松の虎退治のエピソードから分岐した派生小説。題名は物語の中心となる3人の女性、潘金蓮、李瓶児、春梅の名前から取られている。富裕な商人、西門慶による多くの女性との放埓な色事が描かれた猥書である。北宋末が舞台だが、緻密かつ巧みに描写される風俗や生活は明代後期の社会風俗が反映されている。
□カルミナ・ブラーナ (Carmina Burana)
『ボイレン詩歌集』。ドイツ南部バイエルン選帝侯領にあるベネディクト会のボイレン修道院で発見された詩歌集。約300編の古歌が収録されており、ラテン語、古イタリア語、中高ドイツ語、古フランス語などで書かれている。歌詞の内容は若者の怒りや恋愛の歌。酒や性、教会の風刺など世俗的なものが多い。
□リブレ・サンクティ・ヤコブス (Liber Sancti Iacobi)
『聖ヤコブの書』。ローマ教皇カリストゥス2世による著作とされていた写本。中世ヨーロッパにおける最大の巡礼地スペイン、ガリシアの聖地サンディアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブの墓への巡礼の案内書である。聖ヤコブの奇跡や巡礼地の地理案内、現地の風俗などについて記されている。楽譜付きの祈祷書が含まれており、中世音楽の多声音楽の代表的な作品として知られる。
□フロス・デュエラトールム (Flos Duellatorrym)
『戦いの花』。イタリアの剣術家フィオレ・ディ・リベリの剣術書。リベリはフェラーラのニコロ3世の宮廷剣術指南に任命された。イタリアの傭兵隊長にして剣豪であったジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(黒隊長ジョヴァンニ)をモデルに素手の組討ち、短剣、長剣、長柄武器などの用法を記した実戦的なもので、1410年に出版された。
□アピキウス (Apicius)
『アピキウスの料理帖』。ローマ帝国時代の料理のレシピ集。ティベリウス帝時代の美食家、料理人のマルクス・ガビウス・アピキウスの著作と伝わるが、様々な時代や土地の料理が収録されていることから、その名を仮託したものと推測される。古典ラテン語よりは俗ラテン語に近い言語で書かれている。古代ローマ人がいかに食材の組み合わせに贅の極みを尽くしていたか、その豊かな食文化を今日に伝えている。
『年代記』。フランスの年代記作家ジャン・フロワサールによる年代記。全四巻からなり、1322年から1400年までの百年戦争前半における出来事を記録している。14世紀におけるイングランド、フランスにおける騎士道文化を記した文化的傑作とも評価されている。
□タリーヒ・ジャハーン・グシャー (Tarikh−i Jahan−gusha)
『世界征服者の歴史』。モンゴル帝国の歴史家、政治家のジュワイニーによって記された歴史書。全三巻。モンゴル帝国の成立から1257年まで収録している。散文ながら折々に韻文や詩文を取り混ぜ、アラビア語やペルシア語による技巧を凝らした語彙や文体を用いている。『集史』と並びモンゴル帝国の重要な史料である。
『世界の環』。1220年代頃にアイスランドのストゥルラの息子スノッリが編集したと言われるノルウェー王のサガ集の総称。スウェーデンの伝説上の王家ユングリング家に始まる16編のサガで構成される。神代の物語から始まり、12世紀の歴史まで記されている。
□レラシオン・デ・ラス・コサス・デ・ユカタン (Relacion de las Cosas de Yucatan)
『ユカタン事物記』。フランシスコ会修道士ディエゴ・デ・ランダの著したマヤ文化の記録。誤りが多いもののマヤ文字とスペイン語のアルファベットを対照させた表を作成し、後にマヤ文字の解読の手掛かりとなった。ランダはユカタン司教を務め、マニでインディオたちの異端審問を行い、多くの絵文書を焚書して土着宗教の根絶を図った。そのため、マヤの絵文書はわずか4点のみしか現存していない。
□東鑑 (Azumakagami)
吾妻鏡。鎌倉時代に成立した歴史書。鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝から六代将軍、宗尊親王まで六代の将軍記といった構成で、治承四年から文永三年まで87年間の鎌倉幕府の事績を編年体で記す。成立は1300年頃、幕府中枢の複数の著者によって編纂されたと推測される。全52巻。編纂当時の幕府首脳である北条得宗家の側からの記述であり、得宗家の事績を顕彰するために曲筆が多いことで知られる。
『神学大全』。イタリアの神学者、哲学者、トマス・アクィナスの著した神学書。特徴として、当時の神学において用いられていた『命題集』や『注解』にばらばらに記されていた内容を分類し、体系的に整理しなおしたことが挙げられる。また司教座聖堂附属学校や大学において盛んに行われた討論や解釈の成果が反映されている。三部構成からなり、第一部で神による創造を、第二部で神へと向かう人間の運動を、第三部で道標となるキリストについて描くという構想に基づいてキリスト中心の救済史的な世界観を築いている。
□アポクリファ (Apocrypha)
外典。旧約・新約聖書の正典に加えられなかったユダヤ教、キリスト教の文書。ユダヤ教においては、ヤムニア会議で正典と見なされずに除外されたものを指す。キリスト教においての正典、外典の位置づけは諸教派によって異なる。なお、カトリック教会ではトリエント公会議において聖書の正典、外典の定義が再確認された。
イスラム教の聖典。イスラムの信仰では、唯一神から最後の預言者として任命されたムハンマドに対して下された啓示として位置付けられている。アラビア語で読誦して音韻を踏むように書かれている。クルアーンという名称は、アラビア語で“詠唱すべきもの”を意味する。ムハンマドは文盲であったため、当初、啓示は暗記によって記憶され、口伝で伝承された。やがて記憶を留めるためにクルアーンを書物(ムスハフ)にまとめられた。三代目カリフのウスマーンがクルアーンの正典化を命じ、650年頃にザイド・イブン=サービトを中心に編纂されたのが、標準クルアーン(ウスマーン版)とされた。
□マレウス・マレフィカルム (Malleus Maleficarum)
『魔女に与える鉄槌』。ドミニコ会の修道士で異端審問官であったハインリヒ・クラーマーによって書かれた魔女に関する論文。魔女の妖術の存在を疑う人々への反論と妖術使いは男より女が多いという主張、および魔女発見の手順とその証明の方法について記されている。魔女狩りの教本として広く普及した。
□プセウド・ディオニシウス・アレオパギタ (Pseudo Dionysius Areopagita)
『偽ディオニュシス文書』。『使徒行伝』に登場するアテナイのアレオパゴス評議所の評議員アレオパゴスのディオニシスによるものとされた神学文献群。後世、別人によるものと判明したため、“偽”という接頭辞を付けて呼ばれるようになった。ディオニュシオス文書群は『天上位階論』、『教会位階論』、『神名論』、『神秘神学』の四つの著作およびいくつかの書簡から成っている。ディオニュシスは人間の魂がいかにして神に至るかを位階によって設定した。位階には天使の位階と教会の位階があり、特に『教会位階論』は教会秩序の理論的な支柱として大きな役割を果たした。トマス・アクィナスの師として知られる神学者アルベルトゥス・マグヌスが本書の注釈書を書き、ドイツ神秘主義に影響を与えた。
□プロディギオルム・オステントルム・クロニコン (Prodigiorum ac Ostentorum Chronicon)
『怪奇と不思議の年代記』。アルザス出身の文献学者、モラリストのコンラッド・リュコステネスの著作。自然界に生じる様々な驚異について千点を超える木版画で紹介した図鑑の一種。ギリシア・ローマ時代から同時期までの異常現象やその予兆、奇形生物や怪物などが描かれている。この時代、宗教改革期の混乱の中で、世の終末を告げる異兆としての奇形の誕生に関心が集まっており、本書は同時期に活動した占星術師ノストラダムスにも影響を与えたとされる。
□ヴァティシニア・スンミス・ポンティフィシーブス (Vaticinia de Summis Pontificibus)
『全ての教皇に関する預言』。『教皇預言書』、『教皇図』とも呼ばれる。ニコラウス3世から始まる歴代のローマ教皇たちを予言したものという体裁で、30組の挿絵と文章が記されている。中世イタリアの神秘思想家、神学者であるフィオーレのヨアキムの著作として信じられていた。成立はコンスタンツ公会議と同時期にあたり、本来は対立教皇ヨハネス23世までを記し、あと10枚は未来を表していた。だが、後の時代になると図版の解釈が独り歩きし、当初から離れた解釈をされるようになった。
□リベル・サクレ (Liber Sacer)
『聖なる書』あるいは『ホノリウスの誓いの書』。古代ギリシアの数学者、天文学者であるエウクレイデスの息子、テーベのホノリウスによって書かれたと称される降霊術の手引書。93章からなり、様々な呪いの方法や霊を強請し命令する方法、魔道儀式についての教示、天界についての情報などが記されている。後世、テーベ人ホノリウスの伝説はローマ教皇ホノリウス3世と同一視されるようになり、『教皇ホノリウスの奥義書』という魔術書が作られた。
□経典 (Sutra)
仏教において釈迦が説いた教えを記録した聖典のこと。経典とは本来、律蔵、経蔵、論蔵の「三蔵」の内、釈迦の口説文献を指す言葉だったが、やがて大乗仏教経典群が数多く追加されていき、仏典すべての総称として用いられるようになった。大きく原始仏典と大乗仏典に分かれる。原始仏典にはパーリ五部および漢訳の阿含経典群があり、その一部は釈迦尊の言葉を比較的忠実に伝えているといわれる。大乗仏教の代表的な経典としては、般若経、維摩経、涅槃経、華厳経、法華三部経、浄土三部経、金剛頂経などが挙げられる。言語的にはパーリ語、サンスクリット語、漢語、チベット語、モンゴル語、満州語のものがある。また、経・律・論および、その注釈書などは、大蔵経もしくは一切経と呼ばれる叢書にまとめられた。
□コーパス・ユーリス・シヴィリス (Corpus Iuris Civilis)
『ローマ法大全』。東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が編纂させたローマ法の法典である。ユスティニアヌス帝の名を取って『ユスティニアヌス法典』とも呼ばれる。東ローマ帝国は後世に付けられた呼称であり、本来の国号はローマ帝国である。そのため、古来の共和制ローマ以来の法律も継承されて運用されていた。数百年にわたって制定されてきた複雑な法律を整理して、集大成させた。以後、東ローマ帝国の基本法典として用いられ、後に西欧各国の民法に多大な影響を与えた。
□永徽律疏 (Yonghui−Lushu)
後世に『唐律疏義』とも呼ばれる。唐の高宗代、永徽3年(653年)に編纂された唐律の注釈書。長孫無忌らによって編纂された。唐律疏義は魏晋南北朝以来の律を集成しそれに注釈(疏)を付した内容となっている。その内容から「疏は律の後に在り、律は疏を以って存す」と称され、中国のみならず東アジアでの律令体制の重要典籍となった。
□ナチュラリスヒストリエ (Naturalis Historie)
『プリニウスの博物誌』。ローマ帝国ウェスパシアヌス帝に仕えた政治家、軍人、博物学者であるガイウス・プリニウス・セクンドゥスの記した百科全書。全37巻。地理学、天文学、動植物や鉱物などあらゆる知識に関して記述されている。古くから知られていたが、特にルネサンス期に活版印刷で刊行されて以来、知識人たちに愛読された。
□イル・ミリオーネ (Il Milione)
『東方見聞録』。ヴェネツィアの商人、冒険家のマルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述をルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記。全4巻。ポーロは中東から中央アジアを経由して中国に至っており、その往路で遭遇したことや、元帝国クビライの宮廷で見聞したこと、日本やインド、東南アジア諸国に係る伝聞などを記述している。後に多くの言語に翻訳され、後の大航海時代に大きな影響を与えた。
□エイリーク・サガ・ラウダ (Eiriks Saga Rauda)
『赤毛のエイリークのサガ』。アイルランド人のサガのひとつ。赤毛のエイリークのグリーンランド入植とソルフィン・カルルセフニのヴィンランド探検を中心に扱うサガである。『グリーンランド人のサガ』とともに、ノース人によるアメリカ大陸の植民地化の文献資料であり、これらふたつは「ヴィンランド・サガ」と呼ばれる。
□秘談抄 (Hidanshou)
室町幕府三代将軍足利義満の刀剣係だった宇都宮三河入道根重の著。全五巻。応永年間(1394〜1427年)に書かれ、後世の刀剣書に大きな影響を与えた。宇都宮三河入道は、義満の命によって将軍家から下賜するにしかるべき刀を選定しており、備前、備中の業物の刀工60名を選出している。これらの刀は“可然物(しかるべきもの)”と呼ばれた。
『医学典範』。中世ペルシアの知識人イブン・スィーナーが記したユナニ医学の代表的な医学書。ギリシア人医学者ガレノスの理論を継承し、ユナニ医学の体系化を目指して執筆した。当時におけるギリシア・アラビア医学の集大成で、ラテン語に翻訳され中世ヨーロッパ諸国では『カノン』の名前で知られ、医学校の教科書として使用された。
□マテリアメディカ (De Materia Medica Libriquinque)
『薬物誌』。古代ギリシアの医者、薬理学者、植物学者であるペダニウス・ディオスコリデスの記した本草書。ガレノス医学と並び、1600年頃まで西洋医学・薬学の基本文献として用いられた。西ローマ帝国の衰退とともに失われたが、ルネサンス期にアラビア語写本からラテン語訳されて再発見された。西ローマ帝国皇女アニキア・ユリアナに献呈された写本が現存しており、491枚の羊皮紙製フォリオである。これには写実的な美しい彩色図が多く収められている。
□デ・オラトーレ (De oratore)
『弁論家について』。共和政ローマ末期の政治家、文筆家トゥッリウス・キケロの弁論術、修辞学の著作。キケロは祖先に顕職者を持たない無名家の出身ながら、法律家として名を上げ、やがて政界に進出して執政官まで上りつめた。また、キケロはカエサルと並ぶラテン語散文の名手であり、その完成者といわれる。彼の著作は多岐にわたり、演説や書簡でも知られている。その著書『義務について』はラテン語のテキストとして広く採用され、後世の多くの文筆家たちに多大な影響を与えた。
□三事忠告 (Sanshi−Zhonggao)
元代の官僚、儒学者の張養浩の著した政治指南書。張養浩が県令となったときに著した『牧民忠告』、御史となって著した『風憲忠告』、大臣となって著した『廟堂忠告』の三部を合わせて名付けたもので、明の洪武22年、広西按察司僉事の揚子宏はこれを刊行して『為政忠告』としたが、42年後の宣徳6年に、河南府長官の李驥がこれを重刻して『三事忠告』と改名した。それぞれ、地方行政官、法務官、大臣に宛てる忠告といった形式で書かれている。
□デ・レボルティオニブス・オルビウム・コエレスティウム (De Revolutionibus Orbium Coelestium)
『天球の回転について』。ポーランド出身の天文学者、カトリック司祭であるニコラウス・コペルニクスの著した天文学書。第五ラテラン公会議において教会暦の改良が議論され、このときコペルニクスは1年の長さと月の運動の知識が不十分で問題解決ができず、太陽系の構造を根本から考え直すことによって、地動説を再発見した。後にヨハネス・ケプラーがケプラーの法則を、アイザック・ニュートンが万有引力の法則を発見し、地動説が確定することになる。
□デ・コンソラティオネ・フィロソフィアエ (De Consolatione Philosopiae)
『哲学の慰め』。西ローマ帝国の政治家、哲学者アンキウス・マンリウス・セヴェリヌス・ボエティウスの著した哲学書。ボエティウスはローマ貴族の家系に生まれ、アテナイに留学してギリシア哲学を修めた。帰国後、東ゴート王国テオドリック王に仕官し、執政官となるが、政敵によって反逆罪に陥れられ、死刑に処せられた。死刑直前の獄中で書かれたのが本書である。基本的に自身と擬人化された哲学との対話形式で記され、その合間に詩文が挟まれているのが特徴である。キリスト教には言及せずに自然哲学や古代ギリシアの学派のみに依拠して宗教的な問題に答えている。中世以後、さまざまな類書をもたらし、ダンテやボッカチオにも影響を与えた。
南宋代の儒学者、朱熹が『論語』『孟子』『大学』『中庸』のいわゆる四書に注釈を施した注釈書。『論語集注』『孟子集注』『大学章句』『中庸章句』の4編から成る。朱熹はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒学を、性即理説、仏教思想の論理体系性、道教の無極および禅宗の座禅への批判とそれらと異なる静座という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想にまとめ、朱子学として体系化した。
□ラ・シャンソン・ド・ローラン (La Chanson de Roland)
『ローランの歌』。11世紀末頃に成立した古フランス語による武勲詩。シャルルマーニュの甥で十二臣将の筆頭騎士ローランを讃える叙事詩。ノルマンディー地方で用いられたアングロ・ノルマン方言の古フランス語を用いて書かれている。レコンキスタ初期の戦いとも云える、シャルルマーニュ率いるフランク王国とイベリア半島のイスラム帝国(アッバース朝)との戦い(ロンスヴォーの戦い)を描いた物語である。騎士道が隆盛した中世において、盛んに語られた騎士道物語のひとつ、“フランスの題材(カロリング物語群)”の中心的な内容として語り継がれた。
□カンタール・デ・ミオ・シッド (Cantar de mio Cid)
『わがシッドの歌』。1207年頃に成立した中世スペインの叙事詩。11世紀後半のレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の騎士エル・シッド(本名ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール)の活躍を描いている。内容は史実と創作が入り混じっている。カスティーリャ王アルフォンソ6世との確執や、王からの追放後のモーロ人との戦い、バレンシア征服の戦いなどが描かれている。中世の詩人トルバドゥールによってその武勲詩が語り継がれている。
□ラ・ディヴィナ・コメディア (La Divina Commedia)
『神曲』。フィレンツェの詩人、政治家のダンテ・アリギエーリの代表作。地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る長編叙事詩。暗い森の中に迷い込んだダンテは、そこで古代ローマの詩人ウェルギリウスと出会い、彼に導かれて地獄、煉獄、天国と彼岸の国を遍歴して回る。当時の文芸作品としては珍しくラテン語ではなくトスカーナ方言で書かれている。
□ストゥルティティアエ・ラウス (Stultitiae Laus)
『愚神礼賛』。ネーデルラント出身のルネサンス人文主義者デジリウス・エラスムスのラテン語による諷刺文学。痴愚の女神モリアー(Moria)が聴衆を前に大演説会を開き、聖書やギリシア・ローマの古典からおびただしい引用、縦横に繰り出される警句とともに人間社会の馬鹿馬鹿しさや繰り広げられる愚行を饒舌に風刺している。ヨーロッパ各国で翻訳され、何十もの版を重ね大ベストセラーとなったが、王侯貴族や教皇をも対象にした過激な諷刺内容から教会より敵視され、しばしば発禁処分を受けた。
□三国志演義 (Sanguozhi−Yanyi)
明代に作家、羅貫中によって著されたとされる長編小説。後漢末と蜀、魏、呉による三国時代を舞台とする通俗歴史小説で中国四大奇書のひとつに数えられる。三国時代を舞台とする説話、講談は古くから在り、すでに北宋代には蜀漢の劉備を善玉、魏の曹操を悪役とする設定で定着していた記録がある。それまでの講談や説話の設定を踏まえながら、陳寿の『三国志』の史実から巧みに逸話を取捨選択し、高い物語性を維持した洗練された文章によって人気を博した。
□白氏文集 (Baishi−Wenji)
唐代の詩人、白居易の詩文集。数次の編集を経て、最終的に75巻本として完成した。白居易は多作な詩人であり、詩と文の総数は約3800首と唐代の詩人の中で最多を誇り、詩の内容も多彩である。若い頃は「新楽府運動」を展開し、社会や政治の実相を批判する「諷喩詩風」を多作したが、江州司馬左遷後は、諷喩詩はほとんど作られなくなり、日常のささやかな喜びを主題とする「閑適詩」の制作に重点が移るようになる。このほかに「長恨歌」「琵琶行」の感傷詩も名高い。
□李太白文集 (Li−Taibai−Wenji)
唐代の詩人、李白の詩文集。30巻。李白は唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされ、“詩仙”と称される。李白の詩は、漢魏六朝以来の中国詩歌の世界を集大成したものとされる。「蜀道難」「将進酒」「廬山の瀑布を望む」「横江詞」などに見るダイナミックでスケールの大きい豪放さ、「玉階怨」「静夜思」の清澄で繊細な世界、「山中にて俗人に答ふ」「月下独酌」「山中にて幽人と対酌す」などに見える飄逸で超俗的な雰囲気など、詩の内容は多彩で変化に富んでいるが、総じて変幻自在で鮮烈な印象をもたらす点が特徴的である。得意とする詩型は、絶句と雑言古詩であり、とりわけ七言絶句に優れる。
□素女経 (Sunu Jing)
古代中国の仙道、房中術に関する有名な性書。漢代に成立した性典で、作者は不明だが伝説では黄帝紀元の素女とされている。音楽が巧みな伝説の神女、素女は、玄女とともに黄帝の性生活を指導する役割を担い、質問と返答の形式で合理的な性技を教えていたとされる。『素女経』や『玄女経』のような古代房中術の指南書は、遣唐使によって日本にも持ち込まれた。永観2年(984年)に渡来人系の医師、丹波康頼が著した『医心方』房内篇には、『素女経』『玄女経』『彭祖経』や『玉房秘訣』などの古代房中術専門書の逸文が含まれている。
□古今和歌集 (Kokin−Wakashu)
略名は『古今集』。紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人の撰者によって編纂された勅撰和歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂されたものである。仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)に奏上された。以後の勅撰和歌集のひな形となり、この古今集を暗唱することが、貴族にとって教養としてみなされるようになる。中世以降、その講義や解釈はやがて“古今伝授”と呼ばれ、相伝される秘伝となった。
□リブレ・ヴェルメール・デ・モンセラート (Llibre Vermell de Montserrat)
『モンセラートの朱い本』。中世の歌曲集。14世紀の写本で、スペインのバルセロナ郊外モンセラート山の黒い聖母像で知られるモンセラート修道院に伝来するもので、修道院に参ずる巡礼者たちによって歌い踊られたであろう10曲の歌謡が収録されている。詩はカタルーニャ語とラテン語からなる。素朴ながら力強い旋律は、非常に魅力的なものである。
□カンティガ・デ・サンタ・マリア (Cantigas de Santa Maria)
『聖母マリア頌歌集』。カンティガとは、中世イベリア半島における単旋律の歌曲で、頌歌ともいう。レコンキスタのただ中、カスティーリャ王アルフォンソ賢王の命によって編纂された。この手稿本はガリシア語による聖母マリアによる救済とその奇跡の讃歌を中心をした詩に、ネウマ譜によってつけられた400曲以上の音楽と、細密画を含む。詩はトラバドール抒情歌の歌詞を持っているが、音楽はさらに古いとされる。
□ディフェンスパラドックス (Paradoxes of Defence)
『防御の背理』。イングランドの剣術家ジョージ・シルバーの剣術書。シルバーはイングランド流剣術“ディフェンスサイエンス(Science of Defence)”の達人で、当時流行していたイタリア流やスペイン流のレイピア剣術に対してイングランド伝統のブロードソードとバックラーを用いた剣術の優位性を説いた。イングランド流剣術は自由農民ヨーマンたちを中心に長らく伝承されてきたが、宮廷剣術として流行したイタリア流剣術に押され衰退していった。
□ル・ヴィアンディエ (Le Viandier)
『料理書』。フランスの宮廷料理人タイユヴァンことギヨーム・ティレルの料理書。タイユヴァンはフィリップ6世、シャルル5世、シャルル6世に仕え、当時のフランス宮廷料理の集大成として本書を記した。またそれまで低かったフランス南部ボルドー産の赤ワインの評価をブルゴーニュ産のそれと同等に高めることに大きな影響を与えたことでも知られる。
□エティモロギア (Etymologiae)
『語源論』。中世初期の神学者、セビリア大司教イシドルスの著作。全20巻にわたる中世最初の百科事典。ゴート語の影響を受けた俗ラテン語で記述されている。イシドルスは古代から彼の時代に至るまでの、聖俗両面にわたる、あらゆる学問体系を集約した。この著作のおかげで多くの古典時代の著作の記述が断片的に散逸を免れた一方、この著作が原著作よりも重んじられることが多かったために、原著作で散逸してしまったものが多い。ルネサンス期まで継続した人気をもち、多くの写本が作られた。
□ゲスタ・ダノルム (Gesta Danorum)
『デンマーク人の事績』。中世デンマークの聖職者、歴史家サクソ・グラマティクスの著した歴史書。先史時代から12世紀後半までのデンマークの歴史についてまとめられている。主にラテン語の散文で書かれているが、補説として詩が挿入されている。全16巻で、大きく2つに分けられ、前半が北欧神話について、後半が中世デンマークの歴史について語られている。なお、本書の3巻から4巻で語られているデンマークの王子の物語は、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の基になったとされる。
□ラジヴィウクロニクル (Radzivill Chronicle)
『ラジヴィウ年代記』。古東スラヴ語で13世紀に書かれた年代記。キエフ・ルーシの歴史を綴った『原初年代記』の異本である。リトアニア大公国の貴族ラジヴィウ家が居城としていたネスヴィジ城に保管されていたことからこう呼ばれる。5世紀から13世紀初めにかけてキエフ・ルーシとその近隣諸国の出来事が600以上の挿絵で表現されている。他の東スラヴ語の写本と比べ、その量と内容の豊かさが際立っており、キエフ・ルーシの歴史の重要な史料である。
□アル・カーミル・フィイール・ターリフ (al−Kamil fial Ta’rikh)
『完史』。ザンギー朝やアイユーブ朝に仕えた歴史家、イブン・アル・アスィールの著作。イブン・アスィールはイスラム世界を代表する歴史家のひとりである。天地開闢から1231年までの世界史の通史を扱った編年体の歴史書である。多くの地理書や地方史書などを参考にしてイスラム世界全体をひとつの舞台として描いており、それまでハディース形式を模倣することが基本とされていたイスラム世界の歴史学に大きな変革を与えた。信憑性の低いハディースに疑義を呈したり、問題のある君主に対して強い批判を示すなど、以後のイスラム世界の歴史書に大きな影響を与えた。
□ニューコンティネンツコデックス (New Continent Codex)
マヤ、アステカなど新大陸諸文明の絵文書。イチジクなどの木の繊維や樹皮、鹿皮などを利用して両面に石灰を塗って屏風折りにしたものに硬い筆記用具で線描し、鮮やかな彩色を施した絵文書。スペインによる新大陸征服後、布教のために訪れた宣教師たちによって焚書され、多くの貴重な絵文書が失われた。
プラーナ文献。サンスクリット語のプラーナム・アーキヤーナム(PuraaNamaakhyaanam)、すなわち“古き物語”を意味する一群のヒンドゥー聖典の総称。内容は、ヒンドゥー教諸神の神話や伝説、賛歌、祭式など、また宗派神崇拝のための斎戒儀礼や巡礼地の縁起、祖霊祭、神殿・神像の建立法、カースト制度、住期の義務、さらには哲学思想、医学、音楽など、ヒンドゥー教のあらゆる様相を示す百科全書とも言うべき広がりを見せている。
□資治通鑑 (Zizhi Tongjian)
北宋代の学者、政治家である司馬光が英宗の詔により編纂した編年体の歴史書。書名は神宗による命名である。収録範囲は周代の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まり(紀元前403年)から北宋建国の前年(959年)に至るまでの1362年間で、全294巻にも及ぶ。名宰相司馬光の名と相まって、高い評価を受けてきた。
□大鏡 (Ookagami)
平安時代後期、白河院政期に成立した紀伝体の歴史物語。五部構成。作者は不明だが、摂関家に近い官人であったと推測されている。文徳天皇即位から後一条天皇の万寿二年に至るまで14代176年間の朝廷の歴史を、藤原北家、特に左大臣道長の栄華を中心に、大宅世継と夏山繁樹という長命な老人が雲林院の菩薩講で語り合い、それを若侍が批評するという対話形式で書かれている。
□スードエピグラファ (Pseudepigrapha)
偽典。旧約聖書の正典、外典に含まれないユダヤ教、キリスト教の文書。ヘブライ語あるいはアラム語で書かれている。古代教会においては、本来の「著者名を偽った書物」という意味から「内容も不確かな書物」へと語義の解釈を拡大していったため、偽典には異端という否定的な意味合いが強く含まれていた。
『驚異の書』。1520年代にフランスで刊行された編者不明の予言集。古今の著名な聖人たちの予言を集めたアンソロジー。異教徒の脅威、反キリスト、世界最終皇帝、天使教皇などの伝説に触れており、中世の終末論を総括している。世界最終皇帝をフランス王とし、それを補佐する天使教皇もリモージュから現れるとしているのが特徴である。何度も再版され、同時代の占星術師や神秘思想家に大きな影響を与えた。
□レメゲトン (Lemegeton Clavicula Salomonis)
『ソロモンの小鍵』とも呼ばれる魔道書。魔神や精霊などの性質やそれらを使役する方法が記されている。全5部からなるが、もともと別個に成立したものを後から合本したことから、相互の関連性は薄い。特に「ゴエティア(Goetia)」というかつてソロモン王が使役したとされる魔神についての書が特に有名で、しばしばこれ単独で『レメゲトン』と呼ばれることがある。
□セーフェル・ラズィエル・ハマラク (Sefer Raziel HaMalakh)
『天使ラジエルの書』。中世ユダヤの魔術書。伝承によれば天使ラジエルがアダムに開示したものとされる。元はヘブライ語やアラム語で記された書物だが、カスティーリャ王アルフォンソ賢王の命によりラテン語に訳された。詳細な天使学、黄道十二宮の魔術的用法、ゲマトリア(数秘術)、“神”の名、防護の呪文、護符の書き方などカバラ的な魔術が書かれている。ルネサンス期の代表的な魔術書のひとつとされる。
キチェ族の伝承や来歴について書かれた神話。マヤ族の宗教を知る上で貴重な資料のひとつ。太陽や月の神話、人類創生神話などが記されている。本来はマヤ文字により記されていたが、原本は失われている。記録上最古のものはチチカステナンゴのサン・トマス寺院でドミニコ会修道士フランシスコ・ヒメーネスにより発見されたラテン文字表記によるキチェ語写本である。
□山海経 (Shanhai−Jing)
中国の地理書。戦国時代から秦、漢代にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地誌とされる。著者は禹の治水を助けた伯益に仮託されるが、実際には多数の著者の手によって書かれて成立したとされる。内容のほとんどは各地の動物、植物、鉱物などの産物が記されているが、その中には空想的なものや妖怪、神々の記述も多く含まれ、そこに古代中国各地の神話が伝えられていると考えられている。
□イル・プリンチペ (Il Principe)
『君主論』。フィレンツェの政治家、思想家のニコロ・マキャヴェッリの著作。歴史上の様々な君主および君主国を分析し、君主とはどうあるものか、君主として権力を獲得し、また保持し続けるにはどのような力量が必要かなどを論じている。その政治思想から現実主義の古典として位置づけられる。
□韓非子 (Hanfei−Zi)
戦国時代末期の法家、韓非の思想書。分かり易い説話から教訓を引き、徹底的に権力の扱い方とその保持について説いている。当時の王権は特定の士大夫や王族に壟断されることが多く、分断され乱脈化した君主の権力を法によって一元化し、体系化することにより強国になるべきとしている。その思想は秦の始皇帝によって高く評価された。
□小右記 (Shouyuuki)
平安時代中期の公卿、藤原実資の日記。「小右記」とは小野宮右大臣の日記という意味。全61巻。全文は漢文で書かれている。具注歴の余白に書かれた日記で、天元元年頃から書かれていたらしいが、現存するのは天元五年から長元五年の部分のみである。全体的に辛口で、特に時の一上であった左大臣道長に対して批判的である。約55年間の長期にわたる記述が残されており、摂関時代の朝廷の状況や有職故実についてよくわかる。
□北山抄 (Hokuzan−shou)
平安中期に成立した私撰の儀式書。四条大納言、藤原公任の撰。全10巻。書名は公任が晩年に京都北山に隠棲したことに由来する。祖父実頼の『清慎公記』や大叔父師輔の『九暦』などの日記、源高明の『西宮記』など先行する著作を参考に小野宮流、九条流両方の要素を取り入れた内容になっている。『西宮記』と同様に有職故実の先例を記した書として公家社会では後世まで重視された。
『旅行記』。マリーン朝のベルベル人の探検家、イブン・バットゥータの記した旅行記。バットゥータは約30年をかけて、北アフリカ、アフリカの角、西アフリカ、東ヨーロッパ、中東、南アジア、中央アジア、東南アジア、中国といった非常に広い地域を旅している。その後、マリーン朝スルタン、アブー・イナーン・ファーリスの命を受けて、学者であるイブン・ジュザイイが口述筆記を行い、旅行記として編纂された。原稿は『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』と題されたが、『旅行記』の名で広く知られている。
□大唐西域記 (Daitang−Xiyu−ji)
唐代の僧、玄奘が記した見聞録、地誌である。全12巻。玄奘が詔を奉じて撰述し、一緒に経典翻訳事業に携わっていた長安会昌寺の僧、弁機が編集した。玄奘は陸路でインドに渡り、巡礼や仏教研究を行い、経典や仏像などを持って帰還した。持ち帰った経典の翻訳事業を太宗に願い出た際に、許可の代わりに西域の詳細な報告書の提出を命じられ、編纂された報告書が本書である。中央アジアからインドに亘って玄奘が歴訪した110ヵ国および伝聞した28ヵ国について地理、民族、言語、風俗、物産などを記している。
明代の医師、熊宗立による漢方医学書。熊宗立は漢方医学の代表的な医学書『八十一難経』の注釈書を執筆したことでも知られる。元代の孫允賢が書いた『医方集成』を増補した熊彦明の『医方大成』を更に熊宗立が平易化、再構成したものと言われている。
『大著作』。イングランドの司祭、学者であるロジャー・ベーコンの著作。当時としては珍しく理論だけでなく経験知や実験観察を重視したため、「驚異博士」(Doctor Mirabilis)とも呼ばれた。ベーコンは当時の最先端知識であるイスラム科学や哲学に親しんでおり、近代科学を先取りして経験と観察の重要性を認識していた。この著作において、数学、光学、化学に関する記述が含まれ、宇宙の規模についてまで言及しており、さらに驚くべきことに後世において顕微鏡、望遠鏡、飛行機や蒸気船が発明されることまで予想していた。
□キタブ・フィ・マーリファト・アル・ヒヤル・アル・ハンタシーヤ (Kitab fi Ma’rifat al−Hiyal al−Handasiyya)
『巧妙な機械装置に関する知識の書』。アラブ人の博学者アル・ジャザリーの著した機械装置の解説書。50の機械装置の詳細とその組み立て方を解説している。ジャザリーは水力で駆動し、自動的に動く多数のオートマタを発明した。特に4体の人形からなる楽団オートマタはプログラムによって楽器演奏を行う最初期のロボットともいえる。またジャザリーの手掛けた城時計と呼ばれる天文時計は、世界初のプログラミング可能なアナログコンピューターのひとつと言われる。時を刻む以外に、黄道十二星座と太陽と月の軌道や月相を表示したという。著書には自身の発明を細密画によって描写しており、中世イスラム美術としても高く評価されている。
□レ・ヴィテ (Le Vite dell piu eccellenti pittori,scultori,e architettori)
『画家・彫刻家・建築家列伝』。イタリア人画家、建築家のジョルジョ・ヴァザーリが記した芸術家の伝記。芸術文学の古典として最も有名で、最も研究された本とされる。初版は1550年にフィレンツェのロレンツォ・トレンティーノによって出版され、メディチ家のトスカーナ大公コジモ1世に献呈されている。主にフィレンツェ出身の芸術家を賛美しており、第2版ではヴェネツィア出身の芸術家も加えられた。それぞれの伝記にはもっともらしい逸話や噂話が挟みこまれ、芸術家たちの横顔を活き活きと描いている。本書はイタリアルネサンスの基礎資料として重要な役割を果たした。
『黒き地の書』。『金属貴化秘宝大全』とも。アッバース朝の哲学者、学者のジャービル・イブン・ハイヤーンの著作。ジャービルはイスラム科学の元祖とされる。その著作はラテン語に翻訳されてヨーロッパに伝わり、錬金術に多大な影響を与えるとともに、近代化学の基礎ともなった。ヨーロッパではラテン語名ジーベル(Geber)の名で呼ばれる。ジャービルは化学、薬学、冶金学、天文学、哲学、物理学、音楽などの幅広い学問に精通し、多くの著作を遺した。特に化学、薬学の分野の業績は高く、塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法など現代の化学工業の基礎となった。この書名は、錬金術(Alchemy)、ひいては化学(Chemistry)の語源となった。
□リブレ・デ・フィギュール・ヒエログリュフィカ (Le Livre des Figures Hieroglyphiques)
『象形寓意図の書』。フランスの錬金術師ニコラ・フラメルの著作。フラメルは異国人から入手したギリシア語とヘブライ語で書かれた『アブラハムの書』にある錬金術の奥義とされる7枚の寓意図を、20年以上の研究によって解読し、水銀から金銀をつくりだしたとされる。フラメルは錬金術の技術によって財を成し、教会や病院、礼拝堂などへ多くの援助を行った。パリのサン・ジノサン墓地に寄進したアーケードに彫刻された錬金術の寓意図は後世にも頻繁に引用されている。原本はラテン語で書かれたとされるが、フランス語版しか現存せず、後世に作られた偽書とも疑われている。
□淳化閣帖 (Chunhua−Getie)
宋の太宗の勅命によって淳化3年(992年)に完成した集帖。10巻。翰林侍書の王著が勅命を奉じて、内府所蔵の書跡を編纂したものとされる。拓本としては極少数下賜されただけで、初版の原版が焼失したらしく、多数の再版が後世まで制作された。この集帖の所収は、漢・魏・六朝・唐までの広範囲に及ぶ。
□イル・リブロ・デル・コルテギアーノ (Il libro del cortegiano)
『宮廷人』。イタリアの外交官、作家のバルダサーレ・カスティリオーネの著作。上流階級の社交術や教養を説いた書として、ヨーロッパでは永らく教養人の規範とされた。1506年5月のウルビーノ宮廷の4日間を描写するという設定になっている。ウルビーノ公や公妃、その廷臣たち、詩人、学者など20人あまりの人物が登場し、宮廷人の要件は何か、宮廷人の備えるべき教養、宮廷の女性について、愛についてなどをテーマに様々な対話が繰り広げられる。
□アストロノミア・ノヴァ (Astronomia Nova)
『新天文学』。ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーの著した天文学書。本書には「ケプラーの法則」第一、第二法則が収められている。惑星軌道が楕円であり、太陽の位置は楕円の中心ではなく焦点のひとつであるという、この「ケプラーの法則」は、天動説に対する地動説の優位を決定的なものとした。ケプラーは数学的な裏付けをもった物理モデルの先駆者となり、古典物理学の成立に大きく寄与した。
□ポルトラノチャート (Portolan Chart)
『羅針儀海図』。港や海岸線を写実的に描いた航海用の地図。1300年代、イタリア、スペイン、ポルトガルで製作されたのが始まりである。航海の過程で成立した経験的図法で描かれた。地図上にはコンパス・ローズと呼ばれる方位盤から引かれる32本の羅針方位線が網目状に張り巡らされ、それらの方位線を基準に羅針盤を使えば、航路に必要な方角を地図から読み取ることができる。大航海時代、スペインやポルトガルは国家機密としてこれらの地図を管理していた。大西洋やインド洋の海岸線を描いたものは、後発の海洋国であるイングランドやネーデルラントにとっては計り知れない価値があった。
□マクァシッド・アル・ファラシファ (Maqasid al−falasifa)
『哲学者の意図』。ペルシアのイスラム神学者、神秘主義者であるアブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ガザーリーの著した哲学の解説書。ガザーリーはスンナ派がイスラム世界で多数派としての地位を確立する過程で、最も功績のあった人物の一人とされる。本書はイブン・スィーナーの思想の入門書として最も優れたもので、ラテン語に翻訳され中世ヨーロッパのスコラ派哲学者に広く読まれていた。そのため、ヨーロッパではアルガゼル(Algazer)のラテン語名で知られ、長らく哲学者として見なされていた。
別名『処世修養篇』。明代末期の著作家、洪自誠の著した随筆集。その内容は通俗的な処世訓を、儒仏道の三教一致の立場から説く思想書である。菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、「汪信民、嘗って人は常に菜根を咬み得ば、則ち百事做すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、節を撃ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる。
□レ・モルト・ダルチュール (Le Morte d’Arthur)
『アーサー王の死』。ウェールズ人の騎士トマス・マロリーによって、1470年頃に書かれた長編物語。アーサー王の出生から始まり、円卓の騎士の活躍、聖杯探索の冒険、湖の騎士ランスロットと王妃グィネヴィアの不義、それをきっかけとした内乱とカムランの戦い、アーサー王の死までを含む、中世アーサー王文学の集大成とも云える作品である。騎士道が隆盛した中世において、盛んに語られた騎士道物語群のひとつ、“ブルターニュの題材”として語り継がれた幾つもの異本やロマンスを統一性をもった散文として集約している。
□アルフ・ライラ・ワ・ライラ (Alf Layla Wa Layla)
『千夜一夜物語』。八世紀頃に中世ペルシア語からアラビア語に訳されたインド説話の影響の強い説話集。妻の不貞を見て女性不信となったシャフリヤール王が、国の若い女性と一夜を過ごしては殺していたのを止めさせるため、大臣の娘シェヘラザードが自ら王の元に嫁ぐ。シェヘラザードは毎夜、王に興味深い物語を語る。王は続きの話を聞きたいがために二百数十夜に渡ってシェヘラザードを生かし続け、ついに殺すのを止めさせるという物語が主軸となっている。
□ラーマーヤナ (Ramayanam)
古代インドの長編叙事詩。ヒンドゥー教の聖典のひとつであり、『マハーバーラタ』と並ぶインド二大叙事詩のひとつでもある。サンスクリット語で書かれている。全七巻。成立は紀元3世紀頃で、詩人ヴァールミーキが、ヒンドゥー教の神話と古代の英雄コーサラ国のラーマ王子の伝記を編纂したものとされる。ラーマ王子が誘拐された妻シーターを奪回すべく大軍を率いて、ラクシャサの王ラーヴァナに戦いを挑む姿を描いている。『ラーマーヤナ』は絵画、彫刻、建築、音楽、舞踏、演劇など様々な分野で、インドのみならずインド文化圏の東南アジア一円に深く浸透し、影響力を及ぼしている。
□カーマ・スートラ (Kama Sutra)
古代インドの性典で、推定で4世紀から5世紀にかけて成立したとされ、現存するものとしては最古の経典である。『アナンガ・ランガ』『ラティラハスヤ』と並んでインド三大性典のひとつとされる。著者はヴァーツヤーヤナで、正式な題名は『ヴァーツヤーヤナ・カーマスートラ(Vatsyayana Kama Sutra)』。カーマ(性愛)はダルマ(聖法)、アルタ(実利)とともに古来インドにおける人生の三大目的とされてきたが、ヴァーツヤーヤナはカーマの重要性を説き、情欲を目的としたものではないとしている。求愛や誘惑の方法、性行為の技法や体位などを解説している。当時のインドの人々の風俗を知る上で重要な史料でもある。
□水滸伝 (Shuihu−Zhuan)
明代に施耐庵あるいは羅貫中によって、それまでの講談を集大成して創作されたとされる長編小説。中国四大奇書のひとつに数えられる。北宋末期、汚職や不正がはびこる世の中で、様々な事情から世間からはみ出した108人の好漢が、数多くの戦いを経て梁山泊と呼ばれる自然の要塞に集結し、悪徳官吏を打倒し世直しを目指す物語である。題は「水のほとりの物語」を意味し、主人公たちの本拠地である梁山泊を指している。反権力的な傾向からしばしば禁書とされたが、広く愛読されている。
□平家物語 (Heike Monogatari)
日本の作者不詳の軍記物語。鎌倉時代に成立したとされ、伊勢平氏正盛流の六波羅家、平家の栄華と没落、武士階級の台頭について描かれている。当初は同時代の『保元物語』や『平治物語』と同様に『治承物語』と呼ばれていたと考えられている。盲目の僧である琵琶法師(検校)が日本各地を巡って口承で伝えてきた語り本系統、読み物として増補された読み本系統の二系統の写本が遺されている。
□源氏物語 (Genji−Monogatari)
平安中期に成立した長編物語。女性作家、紫式部の記した54帖からなる王朝物語。母系制が色濃い平安朝中期を舞台に、天皇の親王として出生し、才能、容姿ともに恵まれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生を描いている。後に各帖より数場面を絵画化し、その絵に対応する物語本文を書写した詞書を添えた絵巻物も制作された。
□孫子 (Sun−Zi)
春秋時代の思想家、孫武の兵法書。武経七書のひとつ。古今東西の兵法書の中で、最も著名なもののひとつ。孫武は戦争の記録を分析、研究し、戦争の勝敗は運ではなく人為によることを知り、勝利を得るための指針を理論化した。全般的な特徴として、非好戦的、現実主義、主導権の重視が挙げられる。戦争は、国家にとって存亡に係わる深刻な状況であり、戦争に至る前の戦略、政略を重視している。春秋時代、孫武によって原型が著され、戦国時代に子孫の孫ピンにより肉付けがなされ、戦国末期から秦漢にかけて多くの手によって改訂が加えられたものを、後漢末期の武将、曹操(魏の武帝)が『魏武注孫子』として整理し、今日に伝わっている。
□シャンティコデックス (Chantilly Codex)
『シャンティ写本』。14世紀末にアヴィニョン教皇庁を中心に流行したアルス・スブティリオル様式の曲を含む中世音楽の写本。全部で120曲の多声音楽が収録されており、そのほとんどはフランスの作曲家の曲である。収録された曲は当時最も人気のあった舞曲が多く、バラード、ロンドー、ヴィルレー、イソリズムの手法によるモテなどである。モテの幾つかはリズムが非常に複雑で、難解かつ厳格な記譜法で書かれている。
□キタブ・アル・アガニ (Kitab al−Aghani)
『歌の書』。ムスリムの学者アブル・ファラジュの著作。音楽家イブラーヒム・マウシリーのまとめた100首の詩と楽譜をもとに、古代からアッバース朝に至るアラブ人の詩歌の集成と詩人、音楽家の伝記を編纂した。詩、アラブ音楽、詩人、音楽家を中心とした逸話や風俗が盛り込まれた百科全書的な内容で全21巻の大著となった。執筆には50年を要し、完成した本はハムダーン朝のサイフ・アッダウラに献上された。
□ニュルンベルクマニュスクリプト (Manuscript of Nurnberg)
『ニュルンベルク手稿』。ドイツの剣術家ヨハンネス・リヒテナウアーの武術の要点を記した手稿。中世の神聖ローマ帝国のいたるところで教えられた戦闘技術“ドイツ流剣術”の基本となった。その武術は特定の武器に限られたものではなく、長剣、剣と小楯、短剣、小刀などの武器の用法や、甲冑戦闘、平服戦闘、騎乗時の戦闘、組討ちなど、様々な技法に及ぶ。やがて、その教えを継承した弟子たちによって『リヒテナウアーの友(Gesellschaft Liechtenauers)』と呼ばれる剣術家集団が結成され、15世紀には剣術家の同職組合、聖マルコ兄弟団(Marxbruder)が設立された。
明の武将、戚継光が著した兵書。戚継光は倭寇およびモンゴルと戦い、戦果を挙げた武将である。嘉靖39年(1560年)に初版され、これを十八巻本という。また、後に手を加え万暦16年(1588年)に出版されたものを、十四巻本という。十四巻本は、嘉靖40年(1561年)に倭寇との戦場で入手した『陰流之目録』を載せていることで知られる。簡明、明快な著述で、戦略、武器および徒手での格闘、兵士の選抜、訓練、武器、陣法、軍律、行軍、旅営、兵法など多岐にわたって書かれている。特に倭寇討伐で効果を上げた武器や戦術が詳述されている。また、戚継光は倭寇との戦いで得た日本の陰流剣術の目録を研究し、倭刀を用いた『辛酉刀法』を著している。
□オペラ (Opera)
『作品』。ルネサンス期の代表的な宮廷料理人バルトロメオ・スカッピの料理書。イタリアルネサンス料理の金字塔ともいうべき“作品”で、イタリア各地域の食文化の集大成である。スカッピはイタリアを3つの地域に分類し、各地域の特産品を用いたその地域ならではの郷土料理を紹介した。
□ウェストマーチレッドブック (Red Book of Westmarch)
『西境の赤表紙本』。ホビット庄の名士ビルボ・バギンズ、フロド・バギンズ、そして彼らに仕えた庭師サムワイズ・ギャムジーによって書かれた中つ国第三紀末の歴史および指輪戦争に関する重要な史料集。西境の区長を勤めた髪吉家に所蔵され、赤革で装丁されていることから名付けられた。全5冊からなり、1冊目は元々ビルボの日記兼備忘録で、彼の冒険の記述が書かれた後、甥のフロドが引継ぎ指輪戦争の記録が書かれた。残りの3冊はビルボが裂け谷で収集した上古から第二紀までのエルフの記録を翻訳した歴史資料からなる。5冊目は髪吉家に所蔵された後に付け加えられたもので、ホビット族の系図や事跡などが記されている。
□イルミネイテッドマニュスクリプト (Illuminated Manuscript)
装飾写本。中世においては、聖書などの写本には、文字だけでなくしばしば優美な装飾画が描かれた。細密画(miniature)と呼ばれる挿絵は、単体で芸術作品としても鑑賞できるものもあった。写本は主に修道院で写本修道僧によって書写され、制作に時間がかかり非常に高価なものであった。ルネサンス期以降、活版印刷が行われるようになっても、写本工房では装飾を施した写本が作り続けられ、高値で取引された。
□装飾経 (Soushoku−Kyou)
仏教の経典のうち、料紙に美麗な装飾を施したものを指す。紫、紺などの染紙を用い、金銀泥で経文を書写したもの、料紙に金銀泥などで下絵を描き、金銀の箔を散らした上に書写したものなどがある。桓武平氏六波羅流、いわゆる平家一門が厳島神社に奉納した平家納経が特に有名である。この経典に施された装飾は絢爛豪華で、平家一門の栄華を今に伝えている。
□シャー・ナーメ (Grand Shah Nameh of Shah Tahmasb)
『シャー・タフマースブの偉大なる王の書』。サファヴィー朝の王タフマースブ1世の工房で名匠ビフザードなどによって共同で描かれた装飾写本。250以上もの極彩色のミニアチュールを含む巨大な写本であり、写本芸術の最高峰とされる。『王の書』とは、叙事詩人フェルドウスィーがペルシア語で作詩したイラン最大の民族叙事詩で、その内容は古代ペルシアの神話、伝説、歴史の集大成である。
□ファブリカ (De Humani Corporis Fabrica)
『人体の構造』。ブリュッセル出身の医師、解剖学者であるアンドレアス・ヴェサリスの著した解剖書。原書はラテン語で全7巻からなり、本文と索引を含めて700頁を超える大著である。当時の医学界ではローマ帝国時代のガレノスの学説が主流だったが、ヴェサリスはそれに疑問を持ち、実際に遺体の解剖を通じて詳細な解剖図譜を作成し、ガレノスの誤りを明らかにした。本書の解剖図はルネサンスの影響を受けて芸術的要素が強く、骨格像や筋肉像が風景の中で自在なポーズをとる様は迫力に満ちている。
『最高の栄誉』。スイス出身の医師、錬金術師であるパラケルススことテオフラトゥス・フォン・ホーエンハイムの著作。パラケルススは、これまで金を作ることが主流だった錬金術の目的について、普遍医薬(万能薬)や医薬品を生成すべきと主張し、自身が“アルカナ”と呼ぶ自然の事物の深奥に宿るエッセンスが普遍医薬に到達できると考えた。本書では、第五精髄(quinta essentia)や秘薬の生成法が書かれている。
□リプリースクロール (The Ripley Scrolls)
イングランド出身のアウグスティノ会修道士、錬金術師ジョージ・リプリーの記した錬金術書。主にイタリアで錬金術を学んだ後、エーゲ海南東端のロードス島に滞在した。この頃、異教徒と戦う聖ヨハネ騎士団のために、彼は錬金術で黄金を作り、毎年10万ポンド以上を援助していたといわれている。このスクロールの謎めいた一連の絵の中で、“賢者の石”がどのように作られたのかを示していると考えられている。
明代の医師、本草学者である李時珍の著作。本草学史上において、もっとも分量が多く、内容が充実した薬学書。全52巻にもなる大著で、収録された薬種は1892種、図版1109枚、処方11096種に上る。李時珍は本書の編纂に約27年の歳月を掛け、800種以上の文献を参考にしたとされる。薬種ごとに名称の考証、産地の注解、それまでの文献の誤りを訂正、製造方法、処方などの項目をつけている。
□デ・インシグニス・エト・アーミス (De Insigniis et Armiis)
『紋章論』。イタリアの法学者、フランチェスコ会修道士バルトールス・デ・サクソフェラートの著作。後期注釈学派を代表する法学者で、「バルトールスの徒にあらざる者は法律家にあらず」とまで言われた碩学であった。本書は1350年代に書かれた最も古い紋章法律学の著作である。当初、王侯だけが用いていた紋章だが、十字軍遠征以降、貴族や騎士、果ては商人や組合などにも独自に用いるようになり、紋章の重複を避け、管理する必要が生じた。12世紀初頭には各地域の王家が私設した紋章官が管理を行っていたが、15世紀にはイングランドの紋章院のような公的機関が創設された。
□貞観政要 (Zhenguan Zhengyao)
唐代に歴史家呉兢が編纂したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」の意である。全10巻40篇からなる。古来より帝王学の教科書とされ、後世の歴代王朝の君主たちに愛読された。また、日本や朝鮮、女真、西夏など周辺諸語にも訳され、大きな影響を与えた。
『歴史』。中世イスラム世界を代表する歴史家、思想家、政治家イブン・ハルドゥーンの記した歴史書。ハルドゥーンはイスラム世界最大の学者とも呼ばれる。文明とは何か、歴史を学ぶとはどういうことかが、詳細に述べられている。序論は歴史学の真価と方法論の評価、それまでの歴史家の誤りを指摘する。第一部は文明とそこに現れる本質的性格。第二部はアラブ人の歴史、およびシリア人、ナバタイ人、ペルシア人、エジプト人、ギリシア人、イスラエル人、トルコ人、ローマ人の歴史。第三部はベルベル人およびザナータ族の歴史である。後世、序論と第一部が独立した書物として読まれ、『歴史序説』とも呼ばれる。
□リベル・ロガエス (Liber Loagaeth)
『ロガエスの書』。イングランドの錬金術師、占星術師のジョン・ディーによってエノク語で書かれた未解読文書。『エノク書』とも呼ばれるが、旧約聖書偽典『エノク書』とは別物である。水晶球を用いた天使との交霊実験によって生み出されたエノク語文献のひとつ。ディーの助手を務めた霊媒師エドワード・ケリーによって書き留められた。エノク語とは水晶球の中に現れた天使が用いた奇妙な言語である。この文書は49×49の升目の多数の文字表で構成されている。
□ビラール・ド・オヌクール・ポートフォリオ (The Prtfolio of Villard de Honnecourt)
『画帖』。フランスの建築家ビラール・ド・オヌクールの描いたゴシックを扱った最古の文献。ビラールはフランス南部のオヌクール出身で、シトー会修道院で建築家としての教育を受け、ヨーロッパ各地を遍歴し、幾つかの聖堂の工事に携わったとされる。この遍歴の中で興味を抱いた建築物、彫刻や動植物などをスケッチしたのがこの『画帖』である。その興味の範囲は建築のみならず美術、幾何学、工学、薬学など幅広く、その採録図柄の広さからゴシックの百科全書とも評される。
明代の文人、文徴明父子が嘉靖16年(1537年)に第一巻を作り、以後、名跡を得るごとに順次模刻し、20年間で完成した。10巻。第1巻の王義之の小楷を除く他は、文徴明とその子文彭と文嘉が真蹟から鉤模し、章簡父などの名手に刻させたという。模者・刻者ともに精良なため、明代を代表する名帖とされている。
□シデレウス・ヌンキウス (Sidereus Nuncius)
『星界の報告』。イタリアの物理学者、天文学者ガリレオ・ガリレイが著した天体の観察記録書。ネーデルラントで発明された望遠鏡の内容を示し、それを元に作られた望遠鏡を図説している。その望遠鏡を用いて月を観察し、月面の起伏を発見する。さらに天の川が無数の星々から成ることを見出し、さらに木星の周囲をめぐる四つの衛星を発見するに至った。後にガリレオは、これらの観察記録に基づいて、地動説を提唱することになる。
□カンティーノ・プラニスフィア (Cantino Planisphere)
『カンティーノ世界図』。ポルトガル王ジョアン2世の命によって製作された世界地図。測量また天測による経緯度の世界を作図しようとした最初の世界地図である。特徴としては、インド洋の陸封を解放し、ヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰経由インド航路発見の成果が反映されており、また西インド諸島、ブラジル、更に中国まで描かれている。更に1494年に結ばれたトルデシャリス条約線も示されている。当時、ポルトガルの国家機密であったが、フェラーラ公爵エルコレ1世・デステの密偵アルベルト・カンチーノによって複製が持ち出され、その名を冠して呼ばれることになる。
□ルバイヤート (Rubaiyat)
セルジューク朝ペルシアの学者、詩人のウマル・ハイヤームの四行詩集。ルバーイとはアラビア語で四行詩を意味する。ハイヤームは数学と天文学に通じた学者で、セルジューク朝スルタンのマリク・シャーに招聘され、暦法改正に携わり、ジャラーリー歴を作成した。また詩人としては、無常観が言葉の端々に表れるペルシア語による四行詩を多数詠い、後世に高く評価されている。
□ファーストフォリオ (First Folio)
イングランドの劇作家、詩人のウィリアム・シェイクスピアの戯曲全集。正式な題は『ウィリアム・シェイクスピアの喜劇、史劇、悲劇』。シェイクスピアはイングランドルネサンス演劇を代表する作家である。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、最も優れた英文学の作家とされる。ロンドンで新進の劇作家として約20年の間に「ハムレット」「マクベス」「オセロ」「リア王」の四代悲劇をはじめ、「ロミオとジュリエット」「ヴェニスの商人」「真夏の夜の夢」「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残した。この全集はシェイクスピアの死後7年目に出版され、当時未発表であった18作品を含む36作品が収載されている。
□イ・モーディ (I Modi)
イタリア・ルネサンス期の有名でありながら本物が失われた性愛芸術の本。オリジナルの版は、銅版画家マルカントニオ・ライモンディによって制作された。彼の16枚の性交体位図は、ジュリオ・ロマーノがマントヴァに新しく建てられたフェデリーコ2世・ゴンザーガの宮殿パラツィオ・デル・テの建築家の立場で制作した一連の性愛図に基づいている。ローマ教皇クレメンス7世によってライモンディは投獄され、銅版画の複製品はすべて破壊された。その後、詩人ピエトロ・アレティーノは銅版画を解説するための16篇の露骨なソネットを書いた。それらのテキストとイメージは、歴代の教皇によって再三弾圧、押収されたが、模写された複製が幾度となく出版されている。
□メモワール・ドゥ・ヴィドック (Memoires de Vidocq)
『ヴィドック回想録』。フランスの犯罪者、警察密偵のウジェーヌ・フランソワ・ヴィドックの回想録。ヴィドックは元歩兵で脱走の罪で入獄したことをきっかけに、脱獄と逮捕を繰り返し多数の重犯罪者と知り合い、暗黒社会の裏表の情報、犯罪の手口の詳細を知り、脱獄と変装のプロとなった。出獄するとパリ警察の密偵として、徒刑場で得た情報をもとに数々の手柄を立て、ついには国家警察パリ地区犯罪捜査局を創設して初代局長となった。密告とスパイを常套手段とし、犯罪すれすれの摘発方法を用いて成功した。その一方で、入手した犯罪者と犯罪手口を分類して膨大なカードを作り、各地の警察に配備するという科学的捜査方法を確立した。後に捜査局を辞して個人事務所を開設し、世界初の探偵となった。
□コデックスマネッセ (Codex Manesse)
中世ドイツの代表的な宮廷詩人ミンネゼンガー140人の詩歌を収録した彩色写本。最も総合的に収集された中世の詩集として、また宮廷詩人を描いた美しい挿絵でも知られる。チューリッヒのマネッセ家の注文により製作された。王侯を含む宮廷詩人を描いた137枚の細密画が含まれ、貴族は馬上槍試合に参加した際の紋章をあしらった完全武装した姿で描かれている。図案は詩人の名前をモチーフとしたり、その詩のイメージで描かれている。
□ダイ・ヴィッテンベルク・ナイチンゲール (Die Wittenbergisch Nachtigall)
『ヴィッテンベルクの鶯』。中世ドイツの帝国都市ニュルンベルクのマイスタージンガー、ハンス・ザックスの詩集。マイスタージンガーとは中世ドイツの手工業ギルドのマイスター称号で、手工業の親方として活動しながら詩歌の腕を磨いた。ザックスは宗教改革の指導者マルティン・ルターの思想に深く傾倒しつつ、多数の詩を発表した。この『ヴィッテンベルクの鶯』は寓意版画の挿絵入りで出版された後、幾度も重版され、ザックスの名はドイツ中に知れ渡った。後世リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に登場する親方のモデルとなった。
□フィロソフィーア・デ・ラス・アルマス (Pshilosophia de las armas)
『哲学の武器』。スペイン流剣術“デストレーサ(Destreza)”の創始者とされるジェロニモ・サンチェス・デ・カランザの剣術書。カランザはイタリア人剣術家カミッロ・アグリッパの構築したフェンシング理論を継承し、さらに深化させた。スペイン流剣術の特徴として、科学的な理論に基づいた指導が挙げられる。初めに理論を学び、徹底した型稽古によって効率的に技術を習得できる。ステップは円運動を基本とし、剣と腕を真っ直ぐに突き出して構える独特の構えが特徴である。当時、ヨーロッパ最強の剣術として恐れられた。
□兵法家伝書 (Heihoukadensho)
剣豪、柳生宗矩によって著された兵法の伝書。同世代の剣豪、宮本武蔵の著した『五輪書』とともに、近世武道書の二大巨峰とされる。江戸幕府三代将軍、徳川家光のために兵法指南役、柳生宗矩が確立した柳生新陰流の兵法思想を記した武道書。「進履橋」「殺人刀」「活人剣」の三部構成になっており、「進履橋」は父石舟斎から相伝された技法「習い」を目録として示し、「殺人刀」「活人剣」は宗矩が独自に体得した兵法の理である「習いの外の別伝(心法等)」について説いている。
□万川集海 (Bansenshukai)
伊賀国の郷士、藤林左武次保武が著した忍術書。書名は「細い川もたくさん集めれば海になる」という意味でつけられた。戦乱が落ち着いた徳川時代に大成した忍術の技術書で、甲賀伊賀の各流派を超えて一子相伝とされた忍びの技術をまとめたことから、写本や類本が各流派にまたがり残っている。
□アナレス・デ・クアウティトラン (Anales de Cuauhtitlan)
『クアウティトラン年代記』。1563〜70年代頃、メキシコ盆地北西部のクアウティトランで作成されたナワトル語で記された文書。トルテカ帝国の約900年にもわたる歴史が年代記(シウポワリ)形式で記されている。「五つの太陽の伝説」で知られるチマルポポカ絵文書とともにトルテカ帝国の詳細を知る貴重な文献とされる。
□トロ・コルテシアノ・コデックス (Codex Toro−Cortesianus)
マヤ文明の絵文書。かつてトロアノ絵文書、コルテシアノ絵文書と分かれて呼ばれていたが、実際はひとつの写本だったことが判明し、統合された。征服者エルナン・コルテスが略奪し、スペイン王室に献上したものとされる。全112頁とマヤの絵文書では最長である。内容は365日の日付と儀式、種蒔きや猟などの周期を記した暦である。19世紀に『ポポル・ヴフ』をフランス語訳したブラッスール・ド・ブルブール司祭がこの文書を解読し、“ムー(Mu)”と呼ばれる王国が大災害により陥没した伝説を読み解いた。ムー大陸伝説の根拠とされたが、現在では誤読であったと証明されている。
『賢者の極み』。アラビアの魔術書『ガヤート・アル=ハーキム(Ghayat al−Hakim fil−sihr)』のラテン語版。アラビア魔術と占星術を統合、総説した書。カスティーリャ王アルフォンソ賢王の命によりアラビア語からスペイン語に翻訳された。その後、アラビア語、スペイン語の両写本に基づいたラテン語版が作られた。アンダルシアの数学者マスラマ・アル=マジュリーティーの作とされる。ラテン語版は広く流布し、ルネサンス期の自然魔術の典拠のひとつとなった。
『死者の書』。古代エジプトで死者の冥福を祈り、副葬品として納められた葬祭文書。パピルスなどに、主に絵とヒエログリフで、死者の霊魂が肉体を離れて死後の楽園に入るまでの過程を描いている。
□バルド・トゥ・ドル・チェンモ (Bar do thos grol chen mo)
『死者の書』。チベット仏教ニンマ派の仏典。ニンマ派の開祖パドマサンバヴァが著して弟子が山中に埋めて隠したものを後代にテルトン・カルマ・リンパが発掘した埋蔵経典の一部。臨終のときから四十九日間(中陰)に渡って死者の耳元で読み上げられる枕経である。チベットでは古くから死後も、耳は機能し続けていると信じられていた。死者が死に際して解脱が達成できなかったとしても、輪廻する際により良い方へと導く方策が書かれている。
□マッパムンディ・フラ・マウロ (Mappamondo di Fra Mauro)
『フラ・マウロの世界地図』。ヴェネツィアの修道士フラ・マウロの製作した旧世界の地図。直径2mほどの正円の羊皮紙に描かれ、木枠に嵌められている。15世紀後半に復興するプトレマイオス地図学以前の中世地図製作の偉大な記念碑的な存在とされる。アジア、ヨーロッパ、アフリカが描かれており、特にアフリカに関してはかなり正確に描かれている。この地図には地理学上の知識が反映されており、既存の文献だけではなく、船乗りや旅行者の口承を参考に作成されたと推測されている。
□アカルラベース (Akallabeth)
『滅亡せる国』。中つ国の西の大海に浮かんだ島国、西方国ヌーメノールの興亡を記した歴史書。ヌーメノールは第二紀32年に建国され、至福の国アマンから訪れるエルフと交易を行ってその教えを受け、また東方の中つ国へ航海して勢力を拡大し、繁栄した。やがて中つ国の覇権を巡ってサウロンと争い、これを打倒して捕虜とした。しかし、サウロンの口車に乗せられ、不老不死を勝ち取るためにアマンへと攻め入ったことにより、全能神イルーヴァタールによって滅ぼされ、第二紀3319年に海中に没したとされる。
『ギガス写本』。中世期の現存する最大の写本。中には悪魔の大きなイラストがあり、その製作にまつわる伝説から悪魔の聖書(Devil’s Bible)とも呼ばれる。13世紀初め、ボヘミアのベネディクト会修道院で作られたと推測されている。ヴルガータ版聖書を含み、他にも様々な歴史的文書が含まれており、すべてラテン語で書かれている。高さ92cm、幅50cm、厚さ22cm、重さ75kgで、その大きさからギガスと呼ばれる。
『死霊秘法』。アラビア語の原題は『アル・アジフ(Al Azif)』。アラブ人の妖術師アブドル・アルハズラットの記した魔道書。複雑かつ多岐にわたる魔道の奥義が記されている。アルハズラットはアラビア南部の砂漠にある無名都市の廃墟で人類より古い種族の秘密の年代記を発見し、得た知識をもとに本書を執筆したとされる。本書を執筆後、アルハズラットはダマスカスの路上で、白昼に衆人環視の中、見えざる魔物に生きたまま貪り喰われたという。表題はギリシア語に翻訳された際に与えられた。そのあまりにも恐ろしく冒涜的な内容から幾度となく禁書として指定され、執拗なまでの焚書処分を受けおり、完全な写本はごく希である。
□ヴォイニッチ・マニュスクリプト (Voynich Manuscript)
未解読の文字が記され、多数の奇妙な挿絵が描かれている古文書。特殊な文字によって何かの詳細な説明らしき文章が多数並んでおり、緻密な植物や花を思わせる彩色画が描かれている。植物の絵が多いが、それ以外にも、銀河や星雲などの天体図に見える絵や、精子のように見える絵、複雑な給水配管のような絵、プールや浴槽に浸かった女性の絵などの不可解な挿し絵が多数描かれている。精緻に描かれた植物は実在しないものであり、どのような意図で書かれた文章なのか、その内容は解明されていない。
□ナグ・ハマディ・コデックス (The Nag Hammadi Codices)
『ナグ・ハマディ写本』。エジプトのナグ・ハマディ村近郊の洞窟から発掘された初期キリスト教の文書。羊の革で製本された写本で、13冊からなる。写本の多くはグノーシス派の教理や神話論に関する文献である。後世、異端として排除されたグノーシス派の教理や神話論などを知る上で、貴重な原資料である。コプト語で書かれているが、ギリシア語から翻訳されたものがほとんどである。新約聖書外典とされる『トマスによる福音書』が含まれていることで知られる。
□デッドシースクロール (Dead Sea Scrolls)
『死海文書』。死海の北西にある遺跡ヒルベト・クムラン周辺で発見された972の写本群の総称。主にヘブライ語聖書(旧約聖書)と聖書関連の文書からなる。ヘブライ語聖書の最古の写本を含んでおり、宗教的にも歴史的にも大きな意味をもつ。内容としては、四割が「ヘブライ語聖書正典本文」、三割が「旧約聖書外典」と「偽典」と呼ばれる文書群、残り三割がこの写本を記した集団の規則や儀式に関わる文書からなる。
□シルマリルリオン (The Silmarillion)
『シルマリルの物語』。エルフ族に伝わる創生神話。全能神イルーヴァタールによる世界アルダの創造と、アルダの支配権を争う神格ヴァラールと冥王メルコールの戦い、エルフ族、人間族、ドワーフ族の誕生、エルフ族の中つ国から至福の国アマンへの移動、至宝シルマリルを巡るノルドール・エルフの中つ国帰還とベレリアンドでの戦い、人間族の英雄ベレンとエルフ族王女ルーシエンの物語、火竜殺しの英雄トゥーリン・トゥランバールの勲し、半エルフの英雄エアレンディルの航海、ドゥーネダイン族の王国ヌーメノールの繁栄と没落などが語られている。
□ダ・ヴィンチ・マニュスクリプト (da Vinci’s Manuscript)
ルネサンス期の万能人レオナルド・ダ・ヴィンチが約40年間にわたって書き綴った手稿。文章や図、デッサンや注釈からなり、その内容は数学、幾何学、天文学、植物学、動物学、解剖学、光学、水力学、建築学、土木工学、軍事技術など非常に多岐にわたって記されている。書き残した全手稿のうち約3分の2が失われ、現存するのは約5000ページと言われている。
敦煌の莫高窟から発見された文書群の総称。莫高窟の崩れた壁の中に封じられていた大量の経典や写本である。総数で3万とも4万ともいわれる。大半は漢語の仏典であるが、その他にチベット語、サンスクリット語、ソグド語、西夏語、ウィグル語などの諸言語の文献やゾロアスター教、マニ教、景教などの経典なども含まれる。この文献群は、失われた言語や宗教を知る上で非常に貴重なものである。
『海洋の書』。オスマン帝国海軍の提督ピーリー・レイースの記した航海案内書。ピーリー・レイースは優れた地図製作者として知られる。本書はエーゲ海から地中海全域にわたる諸海域について、海域ごとに200図以上の詳細な航海地図と海域の航行法、地誌、歴史について書かれており、地理書、歴史書としても優れたものである。
□タブラ・スマラグディナ (Tabula Smaragdina)
『エメラルド碑文』。錬金術師の祖ヘルメス・トリスメギストスの著した錬金術奥義書。伝説によるとヘルメスによってエメラルドの板に刻まれたもので、ギザの大ピラミッドの内部にあった墓から、アブラハムの妻サラによって発見されたとされる。実物は現存しておらず、その翻訳と称される文章のみが残されている。12世紀にアラビア語からラテン語に翻訳されヨーロッパにもたらされた。これに記された錬金術の基本原理「下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし」の一節が有名である。
『ケルズの書』。8世紀に制作された聖書の手写本。『ダロウの書』『リンディスファーンの福音書』とともに三大ケルト装飾写本のひとつで、世界で最も美しい本とも呼ばれる。豪華なケルト文様による装飾が施された典礼用福音書で、四福音書が収められている。聖コルンバの偉業を称えるためにスコットランドのアイオナ修道院で制作が開始され、ケルズ修道院で完成した。当初は貴金属製のカバーが取り付けられていたが、1007年に盗難にあってカバーは失われてしまった。
書聖、王義之が書いた書道史上最も有名な書作品。353年、3月3日に名士41人を別荘に招いて、蘭亭に会して曲水の宴が開かれ、その時に作られた詩集の序文の草稿が蘭亭序である。王義之はこれを書いたときに酔っていたとされ、後に何度も清書しようと試みたが、草稿以上の出来栄えにはならなかったと伝えられる。唐の太宗は王義之の書を愛し、その真蹟をことごとく蒐集した。崩じた際、自らの陵墓である昭陵にこの蘭亭序を他の作品と共に副葬させたという。
□マッパムンディ・ピーリー・レイース (Piri Reis Mappa Mundi)
『ピーリー・レイースの地図』。オスマン帝国海軍の軍人ピーリー・レイースの作成した世界地図。当時知られていた最新の地理知識によって製作された航海地図である。インド洋を描いていたと思われる右半分は失われ、大西洋を中心に描いた左半分のみ現存している。残存断片には、イベリア半島とアフリカ大陸北西部、南北アメリカの東海岸、および南アメリカから伸びる陸地が描かれている。クリストバル・コロンがアメリカ大陸を発見し、アメリゴ・ヴェスプッチが南アメリカを調査してから間もない時期に描かれたにも関わらず、アメリカ大陸を詳細に描いており、コロンやヴェスプッチの原図が失われた現在では、アメリカ大陸を描いた最古の地図である。なお、地図に描かれた南アフリカの南から伸びた陸地は、この時代には未だ発見されていない南極大陸の北岸とも見て取れることから、オーパーツとも云われる。
□トレ・リッシュ・ウール・デュ・デュック・ド・ベリー (Tres Riches Heures du Duc de Berry)
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』。美本蒐集家として有名なベリー公ジャン1世が作らせた豪華な装飾写本。フランドルのミニアチュール画家リンブルク兄弟によって制作された。兄弟の死によって一時中断したが、ジャン・コロンブが完成させた。時祷書とはキリスト教徒が用いる聖務日課書で、祈祷文、賛歌、暦などからなる。この時祷書は国際ゴシックの傑作であり、最も豪華な装飾写本として評価されている。
□コロネーションゴスペルス (Vienna Coronation Gospels)
ウィーン戴冠式福音書。アーヘンのシャルルマーニュの宮廷で8世紀後半に制作された福音書。800年のクリスマスの日の戴冠式で、シャルルマーニュが誓いを立てたときに使われた福音書である。1000年に皇帝オットー3世がシャルルマーニュの墓を開けた際に発掘された。福音書の写本は金と銀のインクテキストを含む深紅染の羊皮紙で構成されている。表紙は1500年頃にアーヘンの金細工師ハンス・フォン・ロートリンゲンによって、神が皇帝の衣装を着て玉座に座り、聖母マリアに祝福を与える姿を金細工で表現したものが制作された。
□コンスティトゥートゥム・ドナティオ・コンスタンティニ (Constitutus Donatio Constantini)
コンスタンティヌスの寄進状。8世紀中頃に偽造された偽書。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が教皇領を寄進した証拠とされ、教権の重要な根拠のひとつであった。『偽イシドールス教令集』に収録されていた。8世紀当時、東ローマ帝国からの独立性を主張するために作られたと考えられている。800年のフランク王国シャルルマーニュの戴冠もこの偽書を根拠として行われた。中世におけるローマ教皇と神聖ローマ皇帝との叙任権闘争の際にも根拠とされ、また東方教会との対立問題ではカトリック教会の独立性を主張するために引用された。15世紀にイタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラが古いラテン語の文法とは異なる点があることに気づき、偽作説を唱えた。
■薬種(Spices & Herbs)■
□シナモン (Cinnamon)
熱帯に生育するクスノキ科の常緑樹の樹皮から作られる香辛料。原産地は中国南部からベトナムにかけた地域。生薬として用いられるときは桂皮と呼ばれる。薫り高く“スパイスの王様”とも呼ばれる。独特の甘みと香り、かすかな辛味があり、南アジア、中東、北アフリカでは料理の香りづけに頻繁に用いられる。
□ピメント (Piment)
唐辛子。ナス科の多年草の果実から作られる香辛料。メキシコ原産。1492年にクリストバル・コロンが西インド諸島で発見したが、唐辛子を胡椒の一種と勘違いし、これが現在に至る名称の混乱(唐辛子=Red Pepper)を招いた。15世紀後半には南欧を中心に自給可能な香辛料として広まった。
□シュガー (Sugar)
砂糖。甘みをもつ調味料。糖の結晶。サトウキビの茎を細かく砕いて汁を搾り、その上澄み液を煮詰めて結晶を作る。サトウキビの原産地は南太平洋の島々で、そこから東南アジアを経てインドに伝わったとされる。紀元前5世紀頃には東インドでサトウキビから砂糖を作る方法が発明されたと考えられている。サトウキビはインドからペルシアを経て中東に伝わり、十字軍遠征を通じてヨーロッパにもたらされた。中世後期にはシチリアやバレンシアが砂糖の生産地となり、大航海時代にはカナリア諸島やマディラ諸島、アゾレス諸島で砂糖の生産が始まった。新大陸発見後はカリブ海域で大規模な農場が開発され、アフリカから運ばれた黒人奴隷によって大量生産が行われた。
□クローブ (Clove)
丁子。フトモモ科のチョウジノキの開花前の花蕾を乾燥させた香辛料。モルッカ諸島原産。インドや中国では紀元前から殺菌、消毒剤に使われていた。ヨーロッパには中国商人が絹など共にセイロン島経由でもたらし、珍重されるようになった。大航海時代になると、胡椒やナツメグともにスパイス貿易の中心的な商品となった。
□ナツメグ (Natumeg)
ニクズク。ニクズク科の常緑高木の種子中の仁から作られる香辛料。モルッカ諸島近くのバンダ諸島原産。また種を包むように取り巻いている仮種皮を天日で乾燥させるとメース(mace)という香辛料になる。肉料理や魚料理の臭みを消すために用いられる。また生薬としても用いられ、気管支炎、リウマチ、胃腸炎の薬として処方される。
□ジンジャー (Zinger)
生姜。ショウガ科の多年草。野菜として食材に、生薬としても用いられる。インド、中国では古代から知られていた香辛料。中世ヨーロッパでは胡椒に匹敵するほど需要があり、高額で取引された。
□ペッパー (Pepper)
胡椒。コショウ科の蔓性植物の果実を原料とする香辛料。インド原産。収穫のタイミングや製法の違いにより、黒胡椒、白胡椒、青胡椒、赤胡椒と四種類に分けて用いられる。古代から調味料として用いられ、紀元前からオリエント地方を経由してヨーロッパに輸入されていた。胡椒の抗菌、防腐、防虫作用は古くから知られており、冷蔵技術が未発達であった中世ヨーロッパでは、料理に欠かせないものとして珍重された。インド航路が発見されるまで、香辛料で最も高価なものであり、貨幣の代用として用いられることもあった。
□エルゴット (Ergot)
麦角。バッカクキン科バッカクキン属に属す菌類で、いくつかのイネ科植物の穂に寄生する。ライ麦をはじめ小麦、大麦、エンバクなど多くの穀物に寄生する。麦角菌が作る菌核は黒い角状なため、麦角と呼ばれるようになった。麦角の中に含まれるアルカロイドは様々な毒性を示し、麦角中毒と呼ばれる食中毒症状を歴史上しばしば引き起こしてきた。麦角アルカロイドは循環器系や神経系に対して様々な毒性を示し、手足が燃えるような痛みや血管収縮による手足の壊死をもたらし、脳への血流不足から精神異常、痙攣、意識不明、さらに死に至らしめることもあった。中世ヨーロッパでは麦角汚染されたライ麦パンによる麦角中毒による騒ぎがしばしば起きている。当時、麦角中毒は正体不明の疫病とされ、主に聖アントニウス会の修道士が治療に当たっていたため、「聖アントニウスの火」と呼ばれ怖れられていた。
トリカブト。キンポウゲ科トリカブト属の植物。全草に毒があり、特に根の毒性が強い。北東アジア・シベリア文化圏を中心に矢毒として用いられた。漢方ではトリカブトの塊根を附子と称して薬用に用いられ、強心剤や鎮痛剤として利用される。
□檳榔 (Binglang)
太平洋、アジアおよび東アフリカの一部でみられるヤシ科の植物。種子はビンロウジ(檳榔子)と呼ばれ、嗜好品として、噛みタバコに似た使われ方をされる。ビンロウジを噛むことはアジアの広い地域で行われている。ビンロウジを細かく切った、あるいはすり潰したものをキンマ(コショウ科の植物)の葉に包み、少量の石灰と一緒に噛む。噛むと唾は赤い色に変わり、それを吐き出す。依存性があり、使用すると酔ったような興奮を催す。石灰を含んでいるため赤くなった唾液と共に歯にこびりつき、歯が褐色に変色する。
□タバコ (Tobacco)
煙草。ナス科タバコ属の多年草。南米アンデス山脈原産。葉の成分として有毒で習慣性の強いニコチンを含む。葉を乾燥して発酵させたものを巻いた葉巻や刻んだものをパイプやキセルに詰めて火をつけ煙を吸う。喫煙以外にも葉を石灰とともに噛む噛みタバコや、粉末状にして嗅ぐ嗅ぎタバコなどの摂取方法がある。古くからアメリカ先住民の間で喫煙の習慣があったが、クリストバル・コロンの新大陸発見とともにヨーロッパへと伝播し、その後わずか百年ほどで急速に世界に広まった。
王国群においては、主にホビット族によって栽培されている。生産、加工されたタバコは広く流通しており、ホビット族以外では人間族やドワーフ族を中心に消費されている。なおホビット族は、自らが喫煙習慣を発明したと主張している。
□ジギタリス (Digitalis)
キツネノテブクロ。オオバコ科の植物でヨーロッパ原産。全草に猛毒がある。暗く寂れた場所に繁茂することから魔女の用いる不吉な植物とされていた。しかし、古代から切り傷や打ち身の薬草として用いられていた。近代に強心剤としての薬効が発見され、以降は鬱血性心不全の特効薬として利用されている。
大麻。麻の花冠、葉を乾燥させたもの。葉や花冠に含有されるカンナビノイドには陶酔作用があり、薬用や嗜好品として古くから用いられてきた。中国最古の薬学書『神農本草経』にも薬草としての記述がある。また中近東では中世期に大麻の喫煙習慣が広まった。十字軍の時代、暗殺教団(Assassin)の指導者“山の老人”が大麻によって若者を洗脳し、十字軍の要人暗殺に仕向けたという伝説があった。
嗜好品としての大麻は、主に東部教国を中心に喫煙習慣が広まっている。
□コーヒー (Coffee Bean)
アカネ科コーヒーノキ属の常緑樹。種からコーヒーの原料となるコーヒー豆が採れる。コーヒー豆を焙煎し挽いた粉末から湯や水で抽出した飲料。語源はアラビア語のカフラ(qahwa)で、元はワインを意味する言葉だったが覚醒作用のあるコーヒーに充てられた。最初はエチオピアなどで葉や豆を煮出したものが宗教的な秘薬として用いられたが、焙煎によって嗜好品として普及した。中東からトルコを経由して、ヨーロッパ全土に伝播した。
主に東部教国で広く飲用されている。冒険者などを通じて王国群にも伝わり、最近では“夜霧の都”などの大都市でコーヒーハウスが開業し、飲用の習慣が広がり始めている。
□コカ (Coca)
コカノキ科コカ属の常緑低木樹。南アメリカ原産の樹木。葉から麻薬であるコカインが抽出できる。原住民インディオは主に高山病対策として葉を茶として飲用する、葉を直接噛むなどして、嗜好品や薬用として利用している。
□ダチュラ (Datura)
朝鮮朝顔。ナス科の植物で原産地は南アジア。全草に強い毒性がある。古くから薬効が知られ、明代の医学書『本草綱目』にも鎮痛剤として用いた記述がある。世界初の全身麻酔手術に成功した華岡青洲は、本種を主成分として精製した麻酔薬を使用したとされる。
□霊芝 (Lingzhi)
マンネンタケ科の万年茸。成長し乾燥させたものを霊芝として用いる。子実体は木質で食用には適さず、適当な大きさに切って熱湯で煎じて抽出液を服用したり薬用酒とする。後漢代の『神農本草経』に延命の霊薬として記述されて以来、中国では様々な目的の薬用として用いられてきた。
阿片。芥子の実から採取される麻薬。芥子の未成熟果の表皮を傷つけると染み出す樹脂を集め、乾燥させたものから不純物を除いたものが阿片である。摂取すると鎮痛や陶酔といった作用があることから麻酔薬として用いられるが、大量に摂取すると昏睡や呼吸抑制を引き起こす。中東では古くからその薬効が知られていた。しかし、過度の服用は幻覚症状などを引き起こし、中毒に至る恐れがある。
□茶 (Tea)
ツバキ科ツバキ属の常緑樹。原産地はインド、ベトナム、中国西南部とされるが詳細は不明。葉や茎を発酵させた飲料。発酵のさせ方によって種類があり、大きく分けると緑茶、白茶、黄茶、青茶、紅茶、黒茶の6種に区分される。中国で喫茶の風習が始まったのは古く、その時期は不明である。喫茶文化が体系化されたのは唐代で、陸羽によって『茶経』が記された。その後、栽培が普及し、南宋代にはチベットや金への重要な輸出品となった。日本にも唐代に伝来したが、一般に広まったのは室町時代以降である。ヨーロッパに伝わったのは、ネーデルラントが日本の茶をジャワ経由で輸出したものが最初で、最初は薬として珍重された。後に嗜好品として普及し、イングランドやアイルランドでは清教徒革命後に喫茶の習慣が確立した。
□ペヨーテ (Peyote)
烏羽玉。サボテン科ウバタマ属の植物。メキシコ中部原産。メスカリンを含み毒性がある。インディアンたちは地上部分を塊根から切り離して乾燥させたものを噛んだり煎じて飲むことによって幻覚などの精神的効果を得て、宗教的な儀式に用いていた。
□高麗人参 (Renshen)
朝鮮人参。ウコギ科の多年草。原産は遼東から朝鮮半島にかけての地域とされ、中国北東部からロシア沿岸にかけて自生する。本種は元来“人参”と呼ばれ、中国、朝鮮、日本では古くからよく知られた薬草だった。名称の由来は、枝分かれした根の形が人の姿を思わせることからとされる。なお、野菜のニンジンは、セリ科でまったくの別種である。
□カカオ (Cacao Bean)
アオイ科カカオ属の常緑樹。収穫した果実から果皮を除いて発酵させ、取り除いた種子がカカオ豆でココアやチョコレートの原料となる。原産地であるメソアメリカでは紀元前から栽培され、オルメカ文明、マヤ文明、アステカ文明などの諸文明で利用されてきた。クリストバル・コロンがホンジュラスで発見してヨーロッパに持ち込んだが、その当時は利用方法が不明だった。後に征服者エルナン・コルテスがアステカで利用法を知り、以後砂糖や香辛料を加えたチョコレートは貴族などに歓迎され愛飲されるようになる。
マンドレイク(Mandrake)とも。ナス科の植物。古くから薬草として知られ、魔術や錬金術の原料としても用いられた。根茎が幾枝にも分かれ、個体によっては人型に似る。幻覚、幻聴を伴い時には死に至る神経毒が根に含まれる。根茎は人のように動き、引き抜くと悲鳴を上げて、まともに聞いた人間は発狂して死んでしまうという伝説がある。
□冬虫夏草 (Dongchong−Xiacao)
蛾の幼虫に寄生するキノコの一種。漢方薬などの素材として用いられる。チベットで古くに、この菌が冬は虫の姿で過ごし、夏になると草になると考えられたことから名付けられた。チベット高原やヒマラヤ地方の高山地帯で、草原の地中に穴を掘って暮らす大型のコウモリガの幼虫に寄生し、夏に採取される。中国では冬虫夏草の子実体を菌核化した宿主をつけたまま採集して乾燥し、漢方薬の素材として珍重してきた。
□キニーネ (Quinine)
キナの樹皮に含まれるアルカロイド。マラリア原虫に特異的な毒性を示すため、マラリアの特効薬として用いられた。アカネ科キナ属の植物は南米アンデス山脈に自生する植物で、原住民のインディオはキナの樹皮を解熱剤として用いていた。大航海時代にヨーロッパにもたらされたが、偶然からマラリアの治療効果が発見され、医薬品として利用されるようになった。
媚薬。主に性欲を高める、恋愛感情を起こさせるなどの効果がある薬。古代から中世にかけて、リンゴやザクロ、イチジクなどの果物や、サフランやコショウなどの香辛料など刺激成分の含まれる食材が媚薬となると信じられていた。当然ながら精神を自在に操ることができるほどの薬効成分は発見されておらず、架空の存在である。
□サテュリオン (Satyrion)
ローマ帝国ネロ帝の側近であり、文筆家でもあったペトロニウスの著した小説『サテュリコン』のなかで紹介された媚薬。催淫剤となり、一説によるとランの一種で、一対に分かれた根の大きい部分が男性を、小さい部分は女性に効果があるとされる。またエリュトライコンと呼ばれるその種子は、甘みのある白い物質を含んでおり、ワインに混ぜると性欲を高める効果があるという。
□クラーレ (Curare)
南アメリカの原住民が狩猟で用いていた矢毒の総称。大航海時代の征服者や探検家たちに恐れられた。アマゾン河流域の複数のツル科植物(ツヅラフジ科コンドロデンドロン・トメントスムやフジウツギ科のストリキノス・トキシフェラなど)がその毒源である。成分はいずれもアルカロイドで、骨格筋を弛緩させ麻痺させる。したがって矢を射られた動物は痛みの症状は示さず呼吸麻痺で死亡する。後にクラーレの成分は筋弛緩薬として応用されるようになった。
□カンタレラ (Cantarella)
イタリアの貴族ボルジア家が暗殺に用いたとされる毒薬。「あの雪のように白く、快いほど甘美な粉薬」とも形容される。砒素やツチハンミョウの粉末カンタリスが原料であるとされるが、その組成は不明である。政敵を次々に謀殺した教皇アレクサンデル6世やその息子チェーザレは、誤って自ら服用して急死したとされる。
□ウィッチオイントメント (Witch’s Ointment)
魔女の軟膏。様々な生薬を練り込んだ軟膏。魔女がサバトの饗宴で用い、容易に性的絶頂を得られるとされた。本来はキリスト教普及以前の民間伝承薬だったが、教会による異端排斥の過程で、悪魔崇拝に結び付けられて貶められた。材料は諸説があるが、コウモリの血液やマンドラゴラ、毒せり、白スイレンなどが含まれていたとされる。
古代中国に生息していた鴆という鳥の羽から採取された毒。鴆は鷲ぐらいの緑色の羽毛、銅色の嘴を持ち、毒蛇を常食とするために全身に猛毒をもつという。鴆の羽毛から採った毒は鴆毒と呼ばれ、古来より暗殺に用いられた。鴆毒は無味無臭かつ水溶性で、鴆の羽毛を一枚浸した毒酒で、気付かれることなく相手を毒殺できたという。鴆毒の毒消しには犀角が有効であるとされ、毒殺を恐れた中国歴代の皇帝や貴族たちは、犀角で作られた盃を競って求めたという。
□パナシア (Panacea)
万能薬。全ての病気や怪我に効果があると称される薬。1928年に細菌学者アレクサンダー・フレミングがアオカビから発見した抗生物質ペニシリンは肺炎や破傷風などの感染症の特効薬として効果を発揮し、当初は医師や研究者の間で万能薬として期待された。以後様々な抗生物質が発見、実用化されることによって、主に子供や老人の感染症による死亡率を著しく減少させ、人類の平均寿命を大幅に伸ばすこととなった。
□ソーマ (Soma)
ヴェーダなどのインド神話に登場する神々の飲料。なんらかの植物の液汁と考えられるが、正体は不明である。ゾロアスター教の神酒ハオマと同起源の存在。神々はこれを飲用して英気を養い、詩人は天啓を得るために使ったとされる。高揚感や幻覚作用を伴うが酒ではない。ソーマは神々と人間に栄養と活力を与え、寿命を延ばし、霊感をもたらす霊薬という。甘露アムリタ(Amrita)と同一視された。
煉丹術によって作り出された不老不死の霊薬。仙丹。黄金はその不朽性から人間を不老不死にできる素材とされ、水銀などとの化合物から作られた丹薬が作られた。実際には水銀化合物は有害な代物で、不老不死を望んだ皇帝たちがそれらを服用して命を落としたことが史書に残されている。
□竜骨 (Long−Gu)
竜の骨。漢方薬の材料として用いられた。実際に流通していたのは、大型哺乳類の骨の化石だった。鎮静作用や収斂作用があるとされる。
□ベゾアール (Bezoar)
動物の消化器などで見つかる結石。語源はペルシア語で解毒を意味する。毒に浸せば解毒すると考えられていた。東洋においても牛黄と呼ばれる漢方薬として用いられた。
□フィロソファーズストーン (Philosopher’s Stone)
賢者の石。錬金術で鉛などの卑金属を金に変える際の触媒となると考えた霊薬。エリクサーの原料ともされる。多くの錬金術師たちがこれを精製しようと実験を繰り返した。
□ライノサラスホーン (Rhinoceros horn)
犀角。インドサイまたはスマトラサイの鼻角。工芸品や漢方薬の材料として珍重されている。黒色のものを上等とし、烏犀角という。犀角は鴆毒の毒消しと信じられており、鴆毒での毒殺を恐れた中国歴代の皇帝や貴族たちは競って犀角の杯を求めた。漢代に鴆が絶滅した後も、毒消しや鎮静剤としての薬効が信じられ続けている。
□リュンクリウム (Lyncurium)
大山猫石。リグリア石(Ligurian stone)とも呼ばれる。柘榴石、あるいは黄琥珀に似るという。オオヤマネコの尿が結晶した石とされる。結晶のうち最良のものは灰色をしていて、精神錯乱やてんかんに効く薬になると信じられていた。
一角獣の角。中世期、ユニコーンの角には、解毒作用があると信じられていた。実際に流通していたのは、北海に生息するイッカククジラの角(牙)であった。角は解毒薬や解熱剤、疱瘡の特効薬として珍重された。
カリブ海にある西インド諸島で信仰されるブードゥー教の司祭ボコによって用いられる毒薬。埋葬された死体を掘り起こし、この毒薬を用いることによって甦らせ、農場の奴隷として使役するという。西アフリカの少数民族に伝わる伝承が、奴隷貿易によって西インド諸島に持ち込まれた。呪術に用いられるこの毒薬にはフグ毒であるテトロドトキシンが含まれており、対象者を仮死状態にして脳障害を起こし、思考能力を失った人形のような人間ゾンビを作り出すとされる。
ミイラの粉末。ミイラとは古代エジプトで行われていた遺体を人工的に乾燥して保存したものである。オシリス神話の来世、復活信仰から死体を保存することを目的に作られた。ミイラは死体から内臓を摘出して何十日にもわたって天然炭酸ナトリウムに浸し、布で何重にも巻いて作られる。取り出された臓器は、カノプス壺と呼ばれる壺に収められともに埋葬された。その神秘性からか、中世期にはミイラの粉末は不老長生の秘薬となると信じられ、墳墓からの盗掘が頻繁に行われた。
■園芸種(Flowers)■
□オーリキュラ (Auricula)
厚葉桜草。サクラソウ科サクラソウ属の園芸植物。ヨーロッパの山岳に広く分布するプリムラ・アウリキュラをベースに、プリムラ・ヒルスタなど、同系統のプリムラを交配して作られた園芸品種で、プリムラ・プベケンスと呼ばれる交配種の一群。そのなかでも、花弁の数が6枚から8枚、全体的に花が円で構成されていること、雄しべが突出しない短柱花であることを満たしているものだけが、“オーリキュラ”と呼ばれる。
□モーニンググローリー (Morning Glory)
朝顔。ヒルガオ科サツマイモ属の一年性植物。日本で最も発達した園芸植物。江戸時代に二度流行し、品種改良の進んだ古典園芸植物でもある。ヒマラヤからネパールにかけての地域ないし熱帯アジア原産とされる。蔓性で、真夏に開花する。日本への伝来は奈良時代末期に遣唐使がその種を下剤や利尿剤の薬種として持ち帰ったのが初めとされる。
□パンジー (Pansy)
スミレ科スミレ属の園芸植物。1800年代に北欧で、アマチュア園芸家が大きく鮮やかな群生のスミレを作るために、野生のサンシキスミレとビオラ・ルテカ、近東のビオラ・アルタイカを交配して作られた。花が人間の顔に似て、8月には深く思索にふけるかのように前に傾くことからフランス語の思想(pensee)にちなんで名づけられた。
□マリーゴールド (Marigold)
キク科コウオウソウ属のうち園芸植物として栽培される植物の総称。名前の意は「聖母マリアの黄金の花」で、聖母マリアの祭日に咲くため名付けられた。原産はメキシコで、死者の日の祝祭を彩る花として知られる。16世紀初頭にスペインに輸入され、ヨーロッパに帰化した。
□クリサンセマム (Chrysanthemum)
菊。キク科キク属の多年草。中国の栽培キクはチョウセンノギクとハイシマカンギクの雑種として作られ、唐代に盛んに栽培、鑑賞されるようになった。宋代には劉蒙が『菊譜』を著し、多数の園芸品種が育成されていたことが知られる。日本には奈良時代に薬草として中国より伝来し、平安時代には観賞用として栽培されるようになった。
□ピオニーフラワー (Peony Flower)
芍薬。ボタン科の多年草。シベリア、中国、モンゴルの原産。牡丹が樹木であるのに対して芍薬は草本である。初夏に大型の紅、白色などの牡丹に似た花が咲く。牡丹が「花王」と呼ばれるのに対し、芍薬は「花相(花の宰相)」と呼ばれる。中国では宋代に育種が始まり、日本でも江戸時代に鑑賞、品種改良された古典園芸植物である。
□カーネーション (Carnation)
麝香撫子。ナデシコ科ナデシコ属の多年草。原産は南ヨーロッパおよび西アジアの地中海沿岸といわれている。イスラム世界ではバラやチューリップと並んで、愛好された観賞用植物であり、アラベスクの意匠にもしばしば使用されている。
□コットンローズマロウ (Cotton Rosemallow)
芙蓉。アオイ科フヨウ属の落葉低木。中国名は木芙蓉。中国原産で、中国、台湾、日本の九州、四国に分布する。落葉広葉樹の低木で幹は高さ1〜4mほどになる。夏から秋にかけてピンクや白い花をつける。朝咲いて夕方にしぼむ1日花で、長期間にわたって毎日次々に開花する。
□ローズ (Rose)
薔薇。バラ科バラ属の園芸植物。チベット周辺、中国の雲南省からミャンマーにかけてが原産地でここから中近東、ヨーロッパへ伝播した。古代ギリシア、ローマでは、バラは女神アフロディーテもしくはウェヌスと関連付けられ、鑑賞だけではなく香りも愛好され、香油も作られた。中世ヨーロッパではバラの美しさや芳香が「人々を惑わすもの」として教会によって禁じられ、修道院などで薬草として栽培されるにとどまった。イスラム世界では、白バラはムハンマドを表し、赤バラが唯一神アッラーを表すとされ、愛好された。十字軍以降、中近東のバラがヨーロッパにもたらされ、再び人気を取り戻して栽培されるようになった。
□ピオニー (Peony)
牡丹。ボタン科ボタン属の落葉低木。中国名も牡丹。原産地は中国西北部。花を観賞するために栽培されている。落葉広葉樹の低木で高さ0.5〜1.8mほど。幹は直立して枝分かれする。根の樹皮部分は消炎解熱、止血鎮痛などの薬効があり漢方薬の材料になる。盛唐期以降、牡丹の花は「花王」として愛好された。
□クロッカス (Crocus)
アヤメ科クロッカス属の園芸植物の総称。観賞用のハナサフラン。原産地はヨーロッパ南部や地中海沿岸から小アジア。薬用やスパイスとして用いられるサフランが晩秋に咲くのに対し、鑑賞用のクロッカスは早春に咲く。花はほとんど地上すれすれに咲き、黄、白、薄紫、紅紫、白に藤色の絞りなどがある。
□アネモネ (Anemone)
牡丹一華。キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。ヨーロッパ南部から地中海東部沿岸の原産で、語源はギリシア語で「風」(anemos)を意味する。美少年アドニスが流した血よりこの植物が生まれたとする伝説による。オスマン帝国で栽培され、園芸化された。
□グラジオラス (Gladiolus)
アヤメ科グラジオラス属の園芸植物の総称。原産地はアフリカ、地中海沿岸など。赤、黄、橙、白などの花を開花する。葉が剣(グラディウス)のようなので因んで名付けられた。
□ヒヤシンス (Hyacinthus)
風信子。ツルボ亜科ヒアシンス属の球根性多年草。地中海東部沿岸からイラン、トルクメニスタン付近の原産で、オスマン帝国で栽培され、園芸化された。16世紀前半にはヨーロッパにもたらされ、イタリアで栽培された。名前は、ギリシア神話の美青年ヒュアキントスに由来する。
□ノーブルオーキッド (Noble Orchid)
中国春蘭。東洋蘭のひとつ。単子葉植物ラン科シュンラン属の蘭。地生ランであり、春に花茎を伸ばし、その先端に一輪の花を咲かせる。古来から中国では蘭を高貴な花として栽培、鑑賞することが行われてきた。特に清代より野生株から花形の良いものを選別し、それらに命名して栽培し、その優劣を競うことが行われるようになった。
□ダリア (Dahlia)
天竺牡丹。キク科ダリア属の多年生草本植物の総称。名前はスウェーデンの植物学者カール・フォン・リンネの弟子アンデシュ・ダールにちなんで付けられた。メキシコ原産で1789年にスペインのマドリード王立植物園に導入された。以降、ネーデルラントやイングランドの園芸愛好家たちによって品種改良が行われ、多種多様な品種が作られた。
□ジャパニーズアイリス (Japanese Iris)
花菖蒲。別名、ハナアヤメ。アヤメ科アヤメ属の多年草。ノハナショウブの園芸種であり、比較的水捌けの良い場所を好む。花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数ある。系統を大別すると、品種数が豊富な江戸系、室内鑑賞向きに発展してきた伊勢系と肥後系、原種の特徴を強く残す長井古種の4系統に分類でき、江戸時代に日本で栽培、育種、改良された古典園芸植物でもある。
□ラナンキュラス (Ranunculus)
花金鳳花。キンポウゲ目キンポウゲ科の植物の一属。キンポウゲ属の植物は約500種あるが、“ラナンキュラス”と呼ばれているのは、中近東からヨーロッパ南東部にかけての地中海性気候の地域に分布するラナンキュラス・アシアティクスを中心に改良された園芸品種である。オスマン帝国で栽培され、園芸化された。
□マドンナリリー (Madonna Lily)
ニワシロユリ。ユリ科ユリ属の植物。バルカン半島や中東が原産地。フランス、イタリア、ウクライナなどのヨーロッパ地域などに帰化している。古代から3000年以上栽培されており、多くの文化にとって大きな象徴的な価値をもっている。古代ミノア文明のクノッソス宮殿のフレスコ画に描かれている。カトリック教会において、白百合は純潔を象徴しており、受胎告知の場面では大天使ガブリエルが聖母マリアに白い百合を手渡している。またフランスではニワシロユリを様式化したフルール・ド・リースが王権の象徴として採用されている。
□チューリップ (Tulip)
鬱金香。ユリ科チューリップ属の植物。中近東ではラーレ(Lale)と呼ばれる。原産地はトルコのアナトリア地方とされる。オスマン帝国で観賞用植物として栽培されていたが、神聖ローマ帝国の大使オージェ・ギスラン・ド・ブスベックによってヨーロッパにもたらされた。やがてネーデルラントに伝わると、人気になり栽培が広まった。他の植物にはない鮮烈な色味あふれる花弁をもつことから、当時のヨーロッパにおいて人気を集め、球根は高額で取引され、多様な品種が作られた。
■奴隷(Slave)■
奴隷。名誉や自由、権利を認められず、他者の所有物として扱われる人間。所有者の支配下に置かれ、労働を強制され、譲渡や売買の対象とされた。古代から戦争の勝者が捕虜や被征服民族を奴隷とすることは、全世界で広く行われてきた。用途としては、家庭内労働から鉱夫、ガレー船の櫂漕ぎ、農奴などの重労働まで広く使役された。またイスラム文化圏では、労働以外に宮廷の宦官や侍女、マムルークやイェニチェリなどの兵士として多くの需要があり、地中海沿岸から多く住民がイスラム海賊に拉致され、奴隷として売買された。大航海時代になると、アフリカ諸地域から輸出された黒人奴隷が、アメリカ大陸などでプランテーション農業に従事させられた。
□オーナメンタルスレイブ (Ornamental Slave)
観賞用奴隷。貴族や富裕な商人などが優雅な趣味のひとつとして、賓客の接待役や愛人として美貌に優れた奴隷を所有することがある。その最たるものとしてはイスラム文化圏の王侯の後宮(Harem)であり、時には千名を越える女奴隷が集められたとされる。観賞用奴隷の出自としては、美貌で知られるカフカス地方出身者、とりわけチェルケス人が多かった。