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身の丈ナショナリスト

2003年1月1日 のほほ


 先日、鉄道を扱うあるウェブサイトで、W杯の鉄道輸送態勢についてを検証した文章が掲載されていた。その前段で、日本人がW杯をどのように受け止めたていたかを論じていたのだが、その内容が、大変感銘深かった。
 正確ではないが、以下のような論旨である。

「かつての日本人は、国際的な大会に出場する日本代表選手に対して、とにかく勝利することを望んだ。ところが、今回のW杯では決勝トーナメントに進出したという一事だけでも満足げであった」
「代表選手という存在に、国民は自らの存在を仮託しているのではないか。以前の日本人は、敗戦等もあって、世界に対して劣等感を持っていた。だが、今の日本人は国際的な居場所を見いだした。だから、がむしゃらに勝利を望まなくなったのだ」
「また、自分の国と関係ない試合でも、日本人は観戦に出かけ、両チームに惜しみない拍手を寄せた。こういう面をみると、日本人はじつは充分、国際人と呼べるのではないか。自己主張が弱いのが玉に瑕だが」

 実に当を得た論ではないだろうか。
 世界で1番を望むということは、当然他の国を蹴落とす必要が生じる。でも、そんな生き方をする国は、アメリカ1国でたくさんだ。
 日本は日本なりの居場所を見いだすべきなのだ。

 W杯で日本代表が勝利した時、日の丸を見、君が代を歌って涙した人々は、素朴なナショナリズムが発露しただけだ。それは、母校が勝利した時に校旗を見、校歌を歌って涙するようなものだ。(個人的には、幾分かの居心地の悪さを感じたが)
 ところが、昨今、この素朴なナショナリズムを刺激しようとする動きが目につく。
 その人たちは、犯罪行為をはたらいた国家を非難し、その被害者を全面に押し出して同情と加害者への怒りをかき立てている。
 ナショナリズムを刺激された人たちは、正当な怒りを発露しただけだろう。だが、それをまとめて、ある一方向に誘導したとき、恐ろしいパワーを発揮することになる。
 それはまるで、911に奇襲を受けた米国民が、その怒りの矛先をアフガンとイラクに向けたように。

 米国と中東は離れている。だが、日本とあの半島は至近距離だ。
 これからは、国民1人1人が、身の丈にあったナショナリストとして、煽動者に利用されない自覚を持つ必要があるだろう。

追記:たまたま、ワールドカップが終わった頃の雑誌を読んでいたら、東大教授が例の韓国寄りジャッジの文句を散々書いた挙げ句に、「学生に聞いたら皆『頭に来た』と言っていた。実によろしい」なんて書いてやがった。
一般の人間関係で、「ある程度は感情を抑えることがうまくやっていく秘訣だ」と言っても、さほど異論は無いだろうに、なぜ国同士だとだめなんだろう?



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