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確率と相対性

2003年2月3日 のほほ


結構前の話だが、「この冬は暖冬である」という長期予報が、相次ぐ寒気の襲来で「平年並み」に修正された。
確かに昨年の11月末から急に寒くなって、東京での12月平均気温は平年差−1.2度となった。
また、先週は西日本に寒気が入って、大阪でも−2度台を観測した。
だが、その一方で、「昔に比べればちっとも寒くない」という人もいる。
どちらが正しいのだろう。

そう、どちらも真実なのである。

ものごとをどう捉えるか。それは、それぞれの人の生い立ちや思想に左右される。
客観的な「事実」があっても、「真実」はそれこそ人の数だけ存在するのだ。

「靖国神社に祀られた人は、みな日本に尽くした立派な人たちだ」
ある人にとってそれが真実だとしても、
「靖国神社に祀られているのは、植民地支配や侵略戦争を行った犯罪者だ」
と考える人がいる。それもまた真実である。

「北朝鮮が日本人を拉致するのは、許し難い犯罪である」
「植民地支配でさんざん苦しめてきたのだから、この程度の仕返しはあたりまえだ」

「構造改革で失業率が10%になっても、それで日本が立ち直るのなら構わない」
「いかなる理由であれ、失業者をこれ以上増やすのはよくない」

いずれの意見も、それを主張する人にとっては真実である。
「事実」はどちらなのだろう。

結果が明らかになる天気予報ですら、「事実」を検証するのは困難であって、不偏不党、公正中立、私情を持たない、まさに「神」のような存在でなければ、容易に判断できない。
ただ一つ、それを計る指標があるとすれば、それは「時間」であろうか。
時間は、真砂のように膨大な「真実」をふるい落とし、「事実」を垣間見せてくれるのか?
否、時が経ち「真実」が減っても、また新たな「真実」を抱えた人々が姿を現すのだ。
こうして、仮説の寄せ集めたる「歴史」が生まれていく。

結局、「事実」は深い霧に覆い隠されて姿を見せず、いずれかの「真実」が「事実」の近似値として扱われる。その扱われ方は、その時々の「事実」たちの間の力関係、あるいは世論の動向、またあるいはマスメディアの情報操作によって左右される。

われわれがすべきは、どの「真実」を「事実」に近いものとして扱うのが、もっとも有益な結果をもたらすのか、それを絶えず考えていくことである。
そのためには、相反する「真実」をどう扱うのか、ある「真実」を否定したら、どういう影響があるのか、相対的なものの見方を養わなければならない。


気象庁は、天気予報に確率を導入している。
もっとも身近な降水確率予想から、相対的なものの見方を学んでみよう。
「今日の降水確率30%」
という予報があったとする。
この場合、
(雨が降った時の損失)×確率 : 傘を持つことでの損失
という式で、あなたの行動が決定する。
右辺が多ければ傘を置いていき、左辺が多ければ傘を持つのである。
「新しい服が濡れるくらいなら、邪魔だけど傘を持っていこう」
「どうせ濡れても困らないから、傘は置いていく」

そう、それが「確率を生かした」相対的な考え方なのだ。
「晴れのちくもり」という絶対的な天気予報からは、到底導き出されない思考法である。

では、もう一題。
「大量破壊兵器を隠し持っているイラクを止めるには、先制攻撃しか無い」
という「真実」。
この場合は、
(戦争での損失)×被害が出る確率 : 戦争を仕掛けないことでの損失
という式になる。
降水確率と違うのは、はじめから確率が示されないことである。

個人的には、確率は100%に近いと考える。もし確率が低かったとしても、左辺の()がとてつもなく大きいのだから、圧倒的に左辺が重くなる。忍耐強く交渉するしかない、という結論に至るのだが…
それとも…右辺を無理矢理"+"にする「何か」があるとでもいうのか。メンツか、利権か。


さて、あなたは傘を用意するだろうか。



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