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「立憲カリスマ」伊藤博文を持った明治期の日本の幸運さをうらやむ 2012年12月16日 のほほ |
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書評「伊藤博文と明治国家形成 「宮中」の制度化と立憲制の導入」 坂本一登著 講談社学術文庫 10月に入院したとき、暇つぶしに院内の書店で買った本です。 表紙カバーに伊藤の写真がどーん!そして帯には「「立憲カリスマ」の真の業績とは」 「立憲カリスマ」って(笑)と思いつつ、購入意欲をそそられました。 書店のおばちゃんに「文庫本なのにずいぶん高いね」と言われたのが記憶に残ってます(笑) ※1,250円ナリ この本の前半は、伊藤が政府で主導権を握るまでの過程が描かれます。 旧態依然たる太政官制度を改善しようと、大隈や井上馨たち他の参議たちと奔走する伊藤ですが、それに反対する右大臣岩倉具視や宮中の勢力との政争に忙殺させられます。老かいな岩倉は、政策に関する参議間の意見の相違を巧みに利用して決定権を握り、伊藤の企図する改革を阻みます。 そこに「開拓使官有物払い下げ問題」が巻き起こって事態は急展開。それまで伊藤と協力して政府を率いていた大隈重信が辞職する「明治14年の政変」に至ります。 この政変を機に、大隈が主張する「早期の議会開設」「イギリス式の議院内閣制」が退けられ、「十分な準備期間を設けての議会開設」「ドイツ式の立憲君主制」が政府の方針となった…というのが一般に知られている歴史の流れですが、実際は単純な二項対立では計れない状況でした。 議院内閣制を日本の国情に相容れないと主張する法制官僚・井上毅は、岩倉にドイツ式の憲法制定を早急に行うことを説き、漸進主義の伊藤と対立。憲法制定の主導権を巡って、再び岩倉と伊藤の駆け引きがはじまります。 この時期に長期間不在となる危険を考慮しつつも、帰国後に「立憲制度のカリスマ」として主導権を確立できるというもくろみを胸に、ヨーロッパへの憲法調査に赴く伊藤。一方で留守中に独断で皇室典範の調査を行う岩倉とそれを指示する天皇側近の宮中派。しかし岩倉は病に倒れ、宮中派は最大の味方を失います。 伊藤はヨーロッパにおいて、西洋人の「異教徒への蔑視」(※1)や、アジアを席巻しつつあった帝国主義の進展を肌で感じ、一刻も早く近代的な政府を確立して国難に対処しなければならないと決意します。 また、憲法調査では、当時ドイツでは傍流であったグナイストやシュタイン(※2)の教えにより、その国の歴史がその国の法制度を決めていること知るをとともに、制度よりも運用を重視してドイツだけではなくイギリスにも立ち寄って、各国の実情を調査しました。 帰国した伊藤は、岩倉亡き後の宮中派を自分の味方に引き込むため、宮内卿に就任します。 宮中を過度に欧風化されることを警戒する天皇や宮中派に対しては、日本の伝統を重視することを表明し、爵位による華族制度の発足に際しては、華族たちに賢所を参拝させて、その不安を和らげます。 また、宮中派や旧来の華族に上位の爵位を与えたり、安定した皇室財産の形成に尽力して、宮中派の多数を自分の支持者にすることに成功しました。 宮中の掌握と平行して、伊藤は内閣制度の導入を目指します。 岩倉亡き後の政府の姿について、天皇は太政官制を変更せずに薩摩か長州の実力者を岩倉の後任にすることを指示しますが、薩摩の黒田清隆は辞退。太政官制そのものを廃止したい伊藤はもちろん断り、ついに内閣制度の導入が決定します。内閣総理大臣には宮内大臣を兼任したまま伊藤が就き、この伊藤政権によって憲法制定が行われることになります。 後半でようやく憲法制定の話に…と思いきや、今度は突如「明治20年の危機」が勃発です。 伊藤政権から外された非主流派が流布した、根拠のない伊藤のスキャンダルの噂(舞踏会での強姦やら後宮の女官との密通やら)と、外国人判事の登用を条件とした条約改正への反対論とが化学反応を起こし、政府内外を揺さぶります。 ここでまた「騒動屋」の井上毅が条約改正反対を叫んで動き回ります。伊藤は怒りますが、憲法制定における彼の知識は得がたいものなので、対応に苦慮します。結局、条約改正の中心であった井上馨が外務大臣を辞職して条約改正案は廃案、伊藤も宮内大臣を辞職することを余儀なくされます。 伊藤はがっかりしつつも、気を取り直して憲法制定を本格的に進めます。 世間一般にはドイツの影響を受けて、君主=天皇が絶大な権限をもつ憲法をつくったとされる伊藤ですが、憲法制定の過程における彼の発言を見ると、逆に天皇の権限を形式的なものにとどめることを強く主張していました。 天皇が権限を行使する際に大臣の「輔弼」が必要という条文にしても、「輔弼」はイギリスでいう「advice and consent」を意味しているのだ、と彼は書翰に書き残しています。 また、議会が政府の予算案を否決するなど、内閣と議会が紛糾した場合に天皇が決断を下すとした案を退けています。(※3) これらの対応を見ると、伊藤が構想したのは「天皇の象徴化」であったと考えられ、それは戦後の現憲法とさして変わらかったのではないかと感じます。 こうして誕生した大日本帝国憲法ですが、よく引き合いに出されるのは中江兆民など民権家による憲法への醒めた目線での発言(憲法ができたと民衆は騒いでいるが、内容を知っているものはいない)で、戦前の抑圧的な国家体制を象徴するとされるこの憲法にネガティブな印象を与えているのですが、ここで紹介されている憲法評はそれとは異なります。
いろいろ不満はあっても、議会は開設されたし運用によっては「民主的」にすることもできるだろう…というのが、民権派も含めた当時の主流だったようです。 とはいえ、実際にこの憲法がどのように運用され、どのような結末を招いたのかは…皆さんご存じのとおりですが。 この本を何度か読み返していくうちに関心をもったのが大隈重信の人となりです。 のちのいわゆる「隈板内閣」や大正時代の大隈内閣については、ある程度知っていましたが、「明治14年の政変」で政権から排除される過程や「明治20年の危機」の後に復活することなど、自分の知識としてあまり知らない時代だったので興味深いものでした。 そこで感じたのは、大隈の「口の軽さ」「調子のいいことを言う癖」のようなものです。 たとえば「明治14年の政変」に際しての描写では…
こういう態度、後年の大隈内閣でも感じます。第1次大戦でのドイツへの宣戦布告とか「対華21箇条要求」なんかも、調子に乗って元老にも相談せずにやっちゃった感が… つづいて、「明治20年の危機」に際しての大隈の発言。
「明治14年の政変」以前には政府の要職にあり、不平等条約の改正に向けて苦しむ政府の内情を知っているはずなのに、新聞記者か評論家みたいなことを言う大隈。 結局、「明治20年の危機」を収束させる内閣改造で、大隈は政権に復帰し外務大臣となります。 今の世でも、財政危機を知っているはずの大蔵大臣経験者が「財源はいくらでも出てくる」などと無責任なことを言って選挙に勝ったりしてますし、こういう手合いは選挙では人気が 出そうですよね。 全国遊説をはじめてやった政治家が大隈ですし、大隈という人はポピュリストの走りなのかも。 最後に、昭和初期の内大臣・牧野伸顕(大久保利通の次男)の日記から。 「憲政の神様」といわれる尾崎行雄(萼堂)が訪れ、要談をした際の記述です。こちらはあえて原文のまま。
矢野文雄は福澤諭吉の推薦と大隈の引きで官僚になったものの「明治14年の政変」で政権から逐われ、のちに小説家となった人物。植木枝盛は在野で憲法草案を立案し、現代でも民権主義者として人気が高い人物です。 いずれも晩年には議会政治の腐敗を見て「薩長政府のほうがまだマシだったな」という感想を持っていたというのがおもしろいです。 現政権(2012.12.16現在)の成立を熱狂的に支持した人々も似たような心境でしょうかね。 ※1 「キリスト教という共通の宗教を信仰しているというだけで、バルカン半島の未開の国々は文明国扱いされている」という伊藤の書翰が残っている。また、のちに帰国して宮中の改革に乗り出した際に、女官の洋服着用に反対したドイツ人に対して「わが国の婦人連が日本服で姿を見せると人間扱いにはされないで、まるでおもちゃか飾り人形のように見られるんでね」と答えている。伊藤は欧州かぶれのように言われるが、実際は必要に迫られて欧風化をすすめた事情がわかる。 ※2 ドイツでは、これまで主流だった歴史学的政治学的考察にかわり、ローマ法に基礎を置いた厳密な法律学が主流になっており、シュタインはドイツの大学を追い出されてオーストリアに追い出された経歴を持っていた。著者はそういう経緯もあって、伊藤及び日本に好意を示したのではないか、と考察されている。 ※3 枢密院の会議で、「天皇に実質的な権限を与えるべきだ」という趣旨の発言が出た途端、議長の伊藤はそれらの発言を禁止している。天皇が臨席する枢密院の会議で発言禁止という強硬手段をとったのを見ても、ここが伊藤の絶対に譲れない一線だったことがうかがえる。 |
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