プロフィール
3月に来日したシンディアナのメンバー二人

サーミヤさんは「ぜいとぅーん」4号でもインタビューに答えてくれました。


サーミヤ・ナーセル・ハティーブ

マジダル・クルム村アル=バカー・センターのマネージャー

私は1966年にガリラヤのマジダ・ル=クルム村(人口9000人)の、労働者階級の家族に生まれました。4人の兄弟と4人の姉妹がいます。私が家族として家庭で受けた政治的な教育はコミュニスト思想に関連していました。

1982年にイスラエルがレバノンを攻撃したことが、イスラエルに住む若いパレスチナ人である私にとって人生の転換点になりました。私の家族の大半が、私の母と父方のおじやおばがガリラヤを離れ、レバノンで難民となっていました。何人かはイスラエルの侵攻に対する戦争(レバノン戦争)の間、パレスチナ人の抵抗の中で闘いました。この戦争で、私は進むパレスチナ人の悲劇に対して緊急に求められる、公平な解決へ向けたかかわりを深めました。

建設労働者だった私の父には、私に高等教育を受けさせる余裕がありませんでした。村での公教育を終えた後、他の多くの若いアラブの女性と同様に、ユダヤ人の町カルミエール近くの繊維工場で働きました。そしてお金を貯めて大学に入りました。1990年、歴史と文学の学位を取ってハイファ大学を卒業しました。その後3年間、村の小学校で教師として働きました。

1993年、アル=バカー・センターの運営するために教師の職を離れました。アル=バカー・センターは非営利組織である「ハニトッツ・パブリッシング・ハウス」が運営しています。私はまた、ODA(民主的行動のための組織)の中心メンバーです。

アル=バカー・センターは、1992年に私の村(マジダ・ル=クルム村)に作られました。バカーとは、アラビア語で「居続ける」「持ち続ける(手放さない)」ことを意味しますが、これが私たちの主な仕事です。私は、「母親学校」という女性のプロジェクトと、「働く若者の団結」という運動をコーディネイトしています。センターは、独特の活動を提供していますし、コミュニティーの行動を支援しています。つまり、小中学校の生徒に放課後授業をしたり、労働者に法的アドバイスをしたり、女性向けにアート、コンピューターその他のコースを作ったり、サマーキャンプをしたり、農家にオリーブの木を配付したり、いろんなことをしています。

1999年、アル=バカー・センターのメンバーは市議会選挙に出ることを決めました。比例代表の名簿1位に女性が登録したのは初めてのことでした。私たちは議員にはなれなかったけれど、この試み自体は重要で特別なことでした。私たちの候補者名簿は、所属「クラン(氏族)」によって投票する慣行への挑戦でした。

私は、私たちの月刊アラビア語誌「アッ=サッバール(さぼてん)」の発起人であり、執筆者です。

私は、結婚していて二人の子供がいます。


ハダス・ラハブ

私は1953年にイスラエル北部、ガリラヤ湖(ティベリア湖)近くのキブツで生まれました。キブツでの教育は「いわゆる」左派のシオニスト教育でした。私が初めてパレスチナの悲劇に出会ったのは、私が生まれたキブツがアラブの村の廃虚の上に建っていることに気がついたときでした。この村の住民は全員1948年の(第1次中東)戦争の間に村を離れ難民となっていたのです。

私は1978年、テルアビブ大学で高等教育を終えました。その頃の多くの若者と同様に、1976年にイスラエル内のアラブ市民の覚醒に影響を受けました。「土地の日」として知られています。イスラエル政府がアラブの土地を広大な範囲で没収して民衆の衝突が始まり、デモに参加した6人のアラブ市民が射殺されました。このできごとは、すべての市民にとっての民主主義国家という私のイスラエルについての考えをすっかり変えました。その時、私はキブツを離れ、政治・フェミニスト活動家になりました。

1982年、レバノンへのイスラエルの軍事侵略は、イスラエル内に大きな干渉反対者運動を引き起こしました。この戦争で、私は進むパレスチナ人の悲劇に対して緊急に求められる、公平な解決へ向けたかかわりを深めました。その頃、パレスチナ人と話し合い、パレスチナ人と対話する橋としてアラビア語を学び始めました。1980年代半ば、「ハニトッツ・パブリッシング・ハウス」のスタッフに加わり、隔週のヘブライ語紙デレチ・ハニトッツのために働き始めました。私の政治活動家、ジャーナリストとしての仕事は突然、1988年2月に中断されました。行政法によって、私たちの新聞は廃刊されました。私の夫を含む4人の同僚は、パレスチナ人の組織と不法に接触したという理由で告訴されました。4人全員が何ヶ月か投獄されました。私は秘密警察によって2週間尋問されました。

私は1992年のアル=バカー・センターの設立者の一人です。アル=バカーセンター自体は、非営利組織である「ハニトッツ・パブリッシング・ハウス」が資金を提供して設立しました。同じ年、私は村の母親学校プロジェクト設立を手伝いました。1995年、私は、アラブ教育の危機と母親学級の経験について、"The additional Factor"という題名の本を出版しました。この本はアラビア語と英語、ヘブライ語で出されています。

私は、ハニトッツ・パブリッシング・ハウスの3つの出版物のレギュラーの執筆者です。アラビア語月刊誌「アッ=サッバール」、英語隔月誌「チャレンジ」、ヘブライ語季刊誌「エトガー」。

アル=バカー・センターでの仕事に加えて、1996年から私は「ガリラヤのシンディアナ」のマネージャーです。「ガリラヤのシンディアナ」は、オリーブオイル製品の生産と販売のためのフェア・トレード組織です。

私は結婚していて娘が一人います。