土地の没収と離散・分断

私たちのナーブルスの友人の弟さんがドバイ(アラブ首長国連邦)で働いています。パレスチナ自治区では、40年近くなる長い占領の中で地元産業が破壊された上に、道路封鎖、外出禁止令で人とモノの移動が困難な状況のなかで、失業率が50%を超えると言われています。その弟さんの結婚式がアンマン(ヨルダン)で行われたそうなのですが、姉妹とお母さんだけがナーブルスから結婚式に出席し、お兄さんと父親はナーブルスに戻れなくなる危険があるため行かなかったそうです。親族のつながりを大事にするパレスチナでは結婚式は一大行事なのに、息子、弟の結婚式に出席できないのは本当に悔しかっただろうと思いました。もちろん、これはほんの一例です。ほかにも、5年ほど前になりますが、ガザ地区出身のビルゼイト大学(ヨルダン川西岸地区)の先生が、西岸を出てガザに入る許可証が得られなかったために、お母さんの死に目に会えず、お葬式にも出席できなかった、ととても悲しそうにしていたのを思い出します。

3月30日に沖縄で「沖縄・パレスチナ・イラクを結ぶ『土地の日』集会」に参加しました。この集会は、2002年6月にパレスチナを訪問された安里英子さんが実行委員の一人でした。歴史背景は違いますが、パレスチナと沖縄は暴力的に土地を奪われ故郷を追われたという共通点を持ちます。「土地の日」にパレスチナに思いをはせ、沖縄の戦後の土地問題を検証し、いま起こっている新基地建設に反対し、イラク攻撃に反対するという集会の趣旨でした。3泊4日の沖縄滞在でしたが、よい出会いがあり、また勉強になり、刺激になりました。

安里さんは、パレスチナの難民キャンプを見たときに、戦後直後の沖縄を思い出されたそうです。そして、パレスチナを見ていく中で、「いのちをつないでいくためのものが壊されて」しまった沖縄の人々も「難民」なんだ、という根本の問題を改めて感じた、とおっしゃっていました。(参照:『けーし風』第39号)

1948年のイスラエル建国宣言前後で約400のパレスチナの村が破壊され、80〜100万人のパレスチナ人が、近隣諸国やヨルダン川西岸地区、ガザ地区などに逃れました。このとき約16万人のパレスチナ人が(イスラエル領になった)土地に留まりました。ここで離散パレスチナ人、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区のパレスチナ人、イスラエル内のパレスチナ人という分離が起こります。そして、1967年の第3次中東戦争以降は、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区が占領され、エルサレムが分離されます(パレスチナ人がエルサレムに出入りするには許可証が必要となります)。その後も、入植地拡大という形でパレスチナ人の土地没収は続きます。

1976年にイスラエル北部ガリラヤ地方のパレスチナ人の土地の大規模な没収をイスラエル政府が発表し、人々が3月30日に抗議のゼネラル・ストライキを決めました。ところが、前日にイスラエル軍・警察が村に突入、翌日抗議のデモンストレーションが広がりました。両日で、6人が殺され、数百人が負傷、数百人が逮捕されました。これが「土地の日」で、すべてのパレスチナ人アイデンティティの統一を呼び覚ますものとなり、毎年追悼が行われています。

いま、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区では、検問所の増設・強化、道路の破壊、外出禁止令という形で分断が進んでいます。職を求めてパレスチナを離れざる得ない人たちもいます。そして、『ぜいとぅーん』で繰り返しお伝えしているように「壁」の建設が進み、新たな土地没収と分断とが行われています。

着々と工事・計画の進む分離壁=「アパルトヘイト・ウォール」

現在イスラエルは、「安全フェンス」と称して、パレスチナ自治区内に壁を建設しています。建前は、「テロリストの侵入を阻止する」ということになっていますが、ところがこのフェンスは本来のイスラエルとパレスチナ自治区との境界であるグリーンライン上ではなく、自治区の内部にあるユダヤ人入植地を最大限イスラエル側に取り込むように作られています。一部はすでに建設され、パレスチナ人の村が実質上、自治区から切り離されたり、あるいは畑を壁に奪われたり、村と畑の間に壁を入れられたりして、生活が根幹から破壊されつつあります。そしてさらに、この計画は次々と変更が加えられており、最終的なプランはまだ発表されておらず、地図も「予想図」でしかありません。

このフェンスは、実際には入植地の恒久化=土地の収奪、パレスチナ人の村や街の分断と包囲を意図しているのです。この問題は、いまパレスチナの将来に関わる最大の障害であるにもかかわらず、「和平交渉」の背後に隠されてしまっています。