石けん工場&西岸地区

今回の訪問では、ちょうど地元出荷用のオリーブ石けんを作る過程の一部(床に石けんを敷き詰める、切り分ける、乾かす)を見ることができました。(1回で1万個ほどの石けんを作ることができます)

『ぜいとぅーん』8号にも書きましたが、石けんを切り分けたり、乾かすために積み上げる作業は、石けん職人の中でもスペシャリストの仕事です。彼の仕事を覚えようと他の人たちは補助しながらじっと見ています。私たちも、美しい職人技に大興奮、目が離せませんでした。

パレスチナ・オリーブの販売しているオリーブ石けんは地元の品質の良い一番絞りのヴァージン・オリーブオイルから作られていますが、その石けんは、いま経済状況の悪い地元パレスチナ市場では、価格が高くて売れません。地元向けにはヨーロッパから輸入した品質の低いオリーブオイル(二番絞りのオイルや薬品で抽出したオイル。そもそも樹の種類が違うとも言っていました)から石けんを作っています。その品質の石けんの地元市場価格は1個60円ほどです。ナーブルスの他の石けん工場のオリーブ石けんも同じような品質で同じ価格です。(使い心地はやはり劣ります) 一方で、良い材料から良い品質の製品を作ることを彼らは誇りに思っています。

〜石けんの出荷〜

一年前にナーブルスの工場を訪問したときには、24時間の外出禁止令が毎日続いており、「閉塞感」を強く感じました。

この夏、8月の半ばにナーブルスを訪問したときには、数ヶ月間、ずっと外出禁止令も出ておらず、石けん工場の人も、ここ三ヶ月連続で「西岸地域内限定」で移動許可証を更新できていました。つまり西岸内部であれば、一定の移動が認められている。けれども、イスラエル国内やガザ地区に行くことは禁じられています。また、いま夏休みだということもあって、親戚訪問が盛んで、みんなラマッラーに行ったり、ジェニーンに行ったり、近郊の村に行ったり、その程度のことはできるようにはなっていました。ナーブルスの町もにぎやかでした。石けん工場の人は、「イスラエル軍はいまや、外出禁止令を出さなくても、いつでもやってきて、いつでも逮捕や暗殺ができるから、外出禁止令の必要がないんだよ」と笑って言っていました。(パレスチナ人は、私たちがとても笑えないブラック・ジョークをよく言っています)

ところが、仕事をしている人からすれば、例えばイスラエル側から原材料は入ってこない、製品もイスラエル・ガザに出荷できないで、相変わらず苦しい。本来は、いかに良いものを作るか、どれだけたくさん売るかに専念すればよくて、どのルートだったら原材料を確保できるか、とか、どうすれば出荷したものが届くのかなんていうことは、あまり考えなくともいいことのはずです。が、いまではそれが経営者らの最大の仕事になってしまっている。そこにものすごい労力が使われています。

ちなみに、前回のオリーブ石けんの出荷は、イスラエル内のパレスチナ人の友人に助けられてガリラヤまで出せたのだそうです。その他、西岸の中でも、移動許可を得た別の業者と協力をして、許可を得ていない業者も出荷をするとか。ともかく、常にチャンネルをオープンにして、いま誰のどこのルートを使ってモノを取り寄せたり出したりすることができるかを、考えるだけでなく、しょっちゅう電話連絡をしあって、探っているような感じです。

ナブルス近郊にサーリムという村があって、石けん工場で働く人の一人がそこから来ています。朝は4時半に歩いて出発しないと7時からの操業に間に合わず、また帰りも3時を過ぎると早めに工場をあとにします。そうしないと、検問所を越えて自宅に帰れないからです。

しかし、私たちが訪問してから一週間たつと事態は急変し、イスラエル軍によるパレスチナ人暗殺、爆撃、パレスチナ人による自爆攻撃が続きました。連絡をとってみると、ナーブルスも毎日「外出禁止令」が出されて、石けん工場の人たちも出勤できないとのこと。ナーブルス市内にも戦車が再び繰り出していました。工場の様子だけでも見に行こうとこっそり車で出かけたら「もう少しで戦車と交通事故に遭いそうになったよ、、、 慌てて逃げた」そうです。

〜通れなかった検問所〜

数ヶ月前から、外国人がイスラエルに入国することや自治区(占領地)へ入ることが難しくなっています。

ナーブルスの入り口にフワーラ検問所があります。ここで「特別な許可や特別のビザを持っている外国人(つまり、国連関係者やNGOスタッフの一部)しか通れない」と言われました。これまで何度も問題なく出入りをしている検問所なので、問題ないはずだと主張しましたが、こういうルールになったんだと言われるだけ。ちなみにこの日は、パレスチナ人については老若男女を問わず、この検問所を通過できていました。

結局、仕方がないので検問所を通らなくてすむ道を行きましたが、炎天下、1時間ほど歩いて山越えするのはなかなか大変でした。

その決断をするまで2時間くらい検問所で悩んでいたのですが、その間に、検問所にたむろしていた10代のパレスチナ人の若者たちと少し話をしました。近くの村やナーブルスの難民キャンプに住む子どもたちですが、彼らは検問所で荷物運びの仕事をしていたのです。そのときは学校は夏休みでしたが、普段は学校へ通っている、「働かなくてすむなら働かないけど、家計のためだよ、ほかに方法ないし」と言っていました。最初は、たんに暇つぶしにたむろして、外国人にちょっかい出す悪ガキ、、、と見えたのですが、なかなか殊勝なのでした。

検問所は車のまま通過することはできません。通常の移動手段である乗り合いタクシーを降りて、歩いて500mほど歩きます。そして、検問所の反対側に別の乗り合いタクシーが待っています。その間で荷物を手押し車に乗せて運んでお金をもらうのです。乗客の荷物を運ぶこともあれば、町への食料品など業務用の荷物を運んでいることもあります。

また、フワーラに限らないのですが、検問所にはよく出店が並んでいます。アイスクリームやジュース、アラブ風のサンドイッチなどその場で食べるものから、ブドウ、イチジク、サボテンの実など季節の果物や日用品、じゅうたんまで売っていました。つまり、多くの人が長時間並んで検問所を通過するために、商売になるわけです。たくましい商売根性だと感心する反面、検問所の恒常化の現れを感じました。

これらの検問所は通過できる日もできない日もあります。イスラエル次第です。また、道路を封鎖してイスラエル軍が常駐しているだけのところから、しっかり通路ができ屋根もあるところまで様々です。

本当にいやらしいのは、検問所の向こう側で別のタクシーが待っていることや、追い返されてもどうせ山越えで移動しているということを、イスラエル軍は知っているにもかかわらず、「ダメだ、ここはパレスチナの車は通れない」と車の通過を拒否していることです。日常的に「支配」を見せつけ、感じさせています。

〜復活した検問所〜

アメリカ主導の和平プロセス、いわゆる「ロードマップ」に伴い、7月末にヨルダン川西岸地区の2ヶ所の検問所が撤去され、大きなニュースになりました。その一つだったラマッラーからビールゼイトに至る途中にあるソルダ検問所が復活しました。実質二週間だけの「通行の自由」でした。

私たちの友人がその近くに住んでいるのですが、彼がラーマッラーの職場へ行くには毎日検問所を通らなければなりません。検問所が封鎖されている日は会社へ行けませんし、検問所が開いていても、並んで通るために会社に遅刻することがあるそうです。また、検問所ではイスラエル軍による数々の嫌がらせが行われています。彼は「検問所がなくなったときは本当に嬉しかったし、復活したときは、がっかりした」と言っていました。私たちは、検問所が復活して3,4日後にそこを通ったのですが、もうすっかり出店が出ていましたし、何十台もの乗り合いタクシーがたまって混雑していました。

この撤去自体、イスラエルのスタンド・プレーにすぎなかったわけで、西岸中で約170ヶ所あるとされる検問所と数万ヶ所にも及ぶだろうロードブロック(巨大なコンクリートの塊)や土石バリケード、道路破壊は、そのままです。しかも、「撤去」したチェックポイントはすぐさま復活できるのです。

また、ラーマッラー・ビルゼイト間で食料・日用雑貨の小さなお店を開いている知人は「検問所が開いているときは、交通量が多いのでお店に客も増える。でも、検問所が封鎖の時は、ぱったり車が途絶えるので、お店の売上げもまったくなくなってしまう」と話していました。日常生活が検問所にコントロールされてしまっていることがここでもわかります。

先日、エルサレム・タイムス(パレスチナの週刊英字新聞)に「検問所で本を読もう」というコラムが載っていました。筆者は、昨年早尾の取ったアラビア語コースの先生であり、普段はエルサレムに住み、ベツレヘム大学で教えています。「検問所で毎日1時間近く待たされている間、検問所でストレスと退屈を避けるベストな方法は読書だ」と彼は書いていました。またそれは、イスラエル軍に対して、「あなたが好もうが好むまいと私は気にしないし、私はここに存在しているのだ、ということを示すことで一つの抵抗となる」と。長い占領の中で、屈することなく、自棄的になることもなく、継続的な抵抗を示しつつ自らを保つ精神のあり様を見たように思います。(皆川・早尾)