ヨルダン川西岸地区

東エルサレムはインティファーダとイスラエルの軍事弾圧がひどいこの4年間に訪問した中では一番落ち着いて見えました。以前ほどではありませんが、感謝祭休みのためか、観光客も目につきました。地元パレスチナ人向けの市場は日用品(中国やタイの靴、服が多い)でにぎわっています。オリーブ、ナツメヤシ、ネギ、カブ、ホウレンソウ、トマト、キュウリ、ブドウ、サボテン、ナスとさまざまな野菜も並んでいました。

エルサレムから検問所を二つ抜けてラーマッラーに行きます。二つ目のカランディヤ検問所付近では、道の途中から突然、8メートルのコインクリートの分離壁が現れぎょっとしました。

ラーマッラーも、見た目は「復興」していました。2003年3月の大侵攻で爆撃された商業ビルもきれいに修復され、郊外に新しい大型商業施設もできていました。広い駐車場があり、大型スーパー、ベネトンまで入っていました。アメリカで成功したパレスチナ人が投資してつくったそうです。もちろん、誰でもがそんなところに出かけて買い物する余裕がある訳ではありません。町中では、近くの難民キャンプや地区からきたという物売りの小学生3人が「お菓子を買ってくれ」と声をかけてきました。

それに対しナーブルスの町は元気がありませんでした。ナーブルスはここ1年以上外国人の立ち入りが禁じられていたのですが、たまたまナーブルスの入り口の検問所を通ることができました。(私がナーブルスに入る前後でもナーブルスに入れなかった、という外国人の話を聞いていたので、単に幸運だったのだと思います) これまでナーブルスは政治経済の中心でしたがその役割は衰退してしまったそうです。他地域と比べて検問所の封鎖が厳しい。特にナーブルスでつくったものをナーブルスの外に運んで販売することが難しい。お金のある人は商店や工場をナーブルスからラーマッラーなど他地域に移動させてしまったそうです。

ナーブルス(石けん工場)

1年ぶりにガザに出荷しようと運んだ石けんが未だにガザの入口の検問所で1ヶ月間積まれたまま。車で20分ほどの隣町、ジェニーンに運ぶ石けんもナーブルスの検問所を出るのに一日、戻ってくるのに一日かかっていました。石けんをナーブルスの外に運ぶ(検問所を通る)にはDCO(District Commander Office) の許可が必要です。許可を得るのに本来お金はかからないのですが、賄賂を払うと早く通れるそうです。払わないと拒否されることもあります。

石けんを製造しても売れない(売りに行けない)ために工場は月の半分ほどしか操業できていません。家族経営の小さな工場でしたが、マジュタバさんの兄弟は一人が一昨年から、もう一人が昨年からアラブ首長国連邦のドバイへ働きに行っています。工場で働く職人さんも6人から3人に減り、月払いのお給料も日払いになってしまいました。職人さんたちも他の仕事もなく、家族を養うのが苦しい生活です。

一方、ナーブルスから石けんを出荷できないのを見て、ガザやヘブロンに石けん工場ができたそうです。マジュタバさんは、オリーブ石けんをつくるのは技術がいるけれど、パーム石けんをつくるのは簡単なんだ、、、と言っていました。(パーム石けんは販売価格も安い) 話をしているときに、段ボール工場のマネージャーが打ち合わせにきました。ナーブルスの製品が売れずに工場が衰退するということは、製品を入れる段ボール工場の人も経営が厳しくなるということだと改めて気づきました。

シンディアナに出荷するときには、タイミングを見て出せるときにまとまった量を送ります。そしてシンディアナが各国に送るのです。何度も検問所を通る必要がなく、石けん工場にとってよい条件です。

マジュタバさんのお宅に泊まったときに、小学1年生のファラハちゃんが国語の宿題をしていました。教科書を読んでいたので内容を聞いていると、なんとイスラエルの刑務所に入れられている息子をバスに乗って訪ねるお母さんの話でした。びっくりして、お母さんに尋ねると「それがパレスチナの日常だから、学校でもそれを勉強するんだ」と言っていました。

イドナ村訪問

 

『ぜいとぅーん』15号で早尾が報告しているイドナ村女性組合ですが、私は今回初めて訪問しました。いままでギフトセットで使っている刺繍製品を注文するために、電話やFAXでやり取りしていたヌハさんたちに会えて感激しました。どしゃぶりの雨でしたが、みんなセンター(二部屋だけ)に集まっていました。村の女性たち20人ほどのグループで常駐スタッフは3人。他のメンバーは、週に3回センターに集まりデザインや布、糸を持ち帰り家で刺繍や縫製をし、出来上がった商品を持ってきます。夫に仕事がない中で、彼女たちの収入は貴重な生活費となっています。今まで、家事も育児も家畜の世話も自分がしていたのを、刺繍の仕事に忙しくなったら、夫が自然と牛の世話を始めた、と言った人もいました。写真で説明をしているのがヌハさんです。

1998年にこのグループができたときから関わっている技術指導者の水本さんは「ヌハさんもさっきみたいに最初からみんなの前で堂々と話せたわけじゃないのよ」と話していました。

ひどい雨だったので村の様子はよくわかりませんでした。小さな村ですが、村の入り口には検問所のゲートがあり、封鎖されると村に出入りすることができません。

 

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